1章 捕囚と未帰還
■イスラエルの十二部族
最初に、「イスラエルの十二部族」について確認しておきたい。イスラエル民族の父祖であるアブラハムには、サラとの間に嫡子のイサクがいて、このイサクからエサウとヤコブとが生まれた。イスラエルの十二部族が出てきたのは、弟のヤコブのほうからである。創世記35章22〜26節によれば、ヤコブとレアとの間に生まれたのが、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンの6人で、ヤコブとラケルとの間に生まれたのが、ヨセフとベニヤミンの2名である。ヤコブとラケルの侍女ビルハとの間には、ダンとナフタリの2名が生まれ、ヤコブとレアの侍女ジルパとの間の子がガドとアシェルの2名である。当時は、女主人に仕える侍女が生んだ子は、その女主人の子と見なされた。これで十二名が揃うことになり(創世記49章1〜28節)、これが「イスラエルの十二部族」(出エジプト記24章4節)と呼ばれている。
ところが、エジプトの宰相になったヨセフには、エフライムとマナセの二人の息子がいた。この二人の息子にも、祖父ヤコブが祝福を与えたので(創世記48章13〜14節)、(父ヨセフに代わって)エフライムとマナセもイスラエルの部族に入ることになるからややこしい。だから、「イスラエルの十二部族」がカナンを征服した時の部族の支配分布は、後述するように、ヨセフが抜けて、代わりにエフライムとマナセが入ることになる。レビ族は土地も持たないから、実質的に言えば、「イスラエルの十三部族」ができたことになろう。
ちなみに、イスラエルの民が約束の国土カナンへ向かう旅の途中で、民が宿営するときには、神とモーセとが出会う「会見の幕屋」を中心にして、北側には西からアシェルとダンとナフタリ、東側にはイッサカルとユダとゼブルン、南側には西からガド、ルベン、シメオン、西側にはベニヤミン、エフライム、マナセがそれぞれ宿営した(民数記2章1〜33節)。ただし、レビ族だけは、幕屋の周辺に宿泊し、幕屋の仕事に従事していた(民数記1章47〜53節)。
紀元前12世紀から前11世紀にかけて、イスラエルがカナンの国土を征服した時に、その国土は「イスラエルの十二部族」によって分割された。パレスチナの北部から、アシェル(西側沿岸部)とナフタリ(東側)、その南でガリラヤ湖の西部にゼブルン(西側)とイッサカル(東側)、その南部一帯にはマナセ、さらにその南部では、ヨルダン河を挟んで西にエフライム、東にガド、さらにその南部にベニヤミンと西側にダン、さらに南部で、死海の西側にはユダ、死海の東側にはルベン、ユダの南部にシメオンがいた〔和田幹男『聖書年表・聖書地図』女子パウロ会(初版1989年)54頁〕〔Eli Barnavi Ed.
A Historical Atlas of the Jewish People. From the Time of the Patriarchs to the Present. English edition by Miriam Eliav-Feldon. Schoken Books: New York. 2002. p.10. 〕。ただし、シメオンの領地はユダ族の相続地内にあった(ヨシュア記19章1〜9節参照)。レビだけは、神殿に奉仕する役目が与えられていたから、領地の割り当てがなかった。なお、後代になると、ダンとマナセの領地が二カ所に分かれ、また、十二部族以外にギレアドの領地ががヨルダン川の東にあった〔フランシスコ会訳聖書:ヨシュア記14〜15章の付属地図参照〕。
■北王国イスラエルの滅亡
今から2700年ほど前のことである。当時のイスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダとに分かれていた(分裂は前931年:列王記上12章1〜24節)。北王国の部族は、最北部のダンから南へ、アシェル、ナフタリ、ゼブルン、イッサカル、マナセ、エフライム、ベニヤミン、それにルベンとガトの十部族で、南王国のほうは、ユダとシメオンである。
アッシリアによる北王国イスラエルの滅亡は、列王記下17章1〜6節にごく簡単に記されているが、その次第は次の通りである。
北王国イスラエルは、当時大国として版図を拡大していたアッシリアの王ティグラト・ピレセル三世(在位前745〜27年)に貢ぎを納めて服従していた(列王記下15章19〜20節)。ところが、ペカが、北王国の王位を謀反によって簒奪して王位に就くと(前737年)、アッシリアの支配を嫌って、ダマスコと手を結びアッシリアに反抗した。このために、アッシリア王ティグラト・ピレセル三世は、二度にわたって(前734年と前733年)、北王国とダマスコを攻撃し、北王国イスラエルの民を捕囚としてアッシリアへ連行したのである(列王記下15章27〜29節)。アッシリアの年代記によれば、この時、連行されたのは13520人だとある〔フランシスコ会訳聖書:列王記下15章29節(注)4〕。その後、北王国では、レマルヤの子ペカに対して謀反が起こり、ホシェアが王位に就くことになる。彼は、アッシリアに従うと見せかけて、エジプトのそそのかしに乗せられてアッシリアに反逆の心を抱くようになった。このため、アッシリアのシャルマナサル五世は、サマリアを攻撃して陥落させ(前722年)、ついに北王国は滅ぼされることになった(列王記下17章1〜6節)。続くサルゴン二世は、南王国の西側の地域までを襲い、エルサレムの西部のガトまでを征服した(前722年)。サルゴン王の記録によれば、この時、27290人が捕虜として連行されている 〔Eli Barnavi Ed.
A Historical Atlas of the Jewish People. p.22.〕。この「民族絶滅」によって「イスラエルの大部分の民が永久に失われることになった。この『失われた十部族』の亡霊は、以後の歴史を通じてユダヤ人の記憶につきまとい続けることになる」〔前掲書同頁〕。
■南王国の捕囚と帰還
北王国イスラエルが滅びた後に、南王国ユダも、ヒゼキヤ王の時代にアッシリアのセンナケリブ王の攻撃を受けることになった(前701年)。しかし、ヒゼキヤは、預言者イザヤの託宣を受けて、多大な貢ぎ物を贈ることで難を逃れることができた(列王記下18章1節〜19章37節)。ところが、アッシリアに代わって、新バビロニアが台頭すると、南王国のヨヤキム王(在位前609年〜前597年)が、新バビロニアに対して反乱を企てることになる。エルサレムは再び、新バビロニアの軍勢に包囲され(前598年)(列王記下24章1〜4節)、ヨヤキムは殺され、息子のヨヤキンはネブカドネツァル王に降伏した(前597年)。ヨヤキンは、ユダ王国の指導者1万人と共に、バビロンに連行された(列王記下24章8〜17節)〔Barnavi Ed.
A Historical Atlas of the Jewish People. 24.〕。
ヨヤキンの後を継いだのがゼデキヤ王で、彼は、新バビロニアのネブカドネツァル王によって擁立された。ところが、彼もまた、ヨヤキム王と同様に、新バビロニアに付くべきか、エジプトに付くべきか迷い続けることになる。預言者エレミヤは、エジプトの誘いに乗ってはならないと王に厳しく警告したが、王は、エジプトの策略の乗せられた廷臣たちに動かされて、新バビロニアに反逆するという「致命的な決意」〔Barnavi Ed.
A Historical Atlas of the Jewish People. 24.〕をする。その結果、エルサレムは、2年間に渡って包囲され、ついに陥落した(前586年)。王は、その目の前で自分の子供たちが殺され、自らは両目を潰(つぶ)され、エルサレム神殿の祭壇を飾る聖具も金銀もすべて奪い去られ、エルサレムにいた将軍、書記官たちは、全員捕虜として連行された(列王記下24章18節〜25章21節)。これが、国の支配者が道を誤った時に起こることである。
新バビロニアによって捕囚にされた南王国ユダの民は、バビロンの川の畔で涙にくれる日々を送ることになる。ところが、チグリスとユーフラテスの両河口の東側の沿岸にある小国からキュロス大王が出ると、彼はまたたく間に新バビロニアに侵攻して、バビロンに入城し、バビロニア帝国は滅ぼされた(前539年)。ユダの民にとって、これは大きな幸いであった。キュロス大王は、その同じ年(前539年)に勅令を出して、ユダの民がエルサレムとユダの国へ帰還し神殿を再建することを許可したからである。こうして、ユダの民の奇跡的なエルサレムへの帰還が実現した(エズラ記1章)。ここで一つ注記したいことがある。それは、帰還の民にはレビ族が含まれていたこと、さらに、北王国十部族の中で、ユダの領地のすぐ北側に住んでいたベニヤミン族だけは、ユダの民と共に帰還したことである(エズラ記1章5節/ネヘミヤ記11章7〜9節/同31〜35節)。したがって、「北王国イスラエルの失われた<十部族>」と言う場合、通常、「失われなかった」ユダとシメオンとベニヤミンの三部族が除外されることになる。しかし、シャハンの記述を読めば分かるように、実際は、事はそれほど単純ではなかったようである。捕囚から帰還以後、ユダの民は、紀元70年にローマ軍によってユダヤが滅びるまで、エルサレムの地に留まり続ける。70年に国を追われたユダヤの民は、1948年に、ようやく国連によって、現在のイスラエルの地に国家が認められるにいたった。
〔注記〕
*以下で述べるイスラエルの十部族の足跡については、主として、アビグドール・シャハン『失われた十部族の足跡:古代日本に辿り着いたユダヤ人』小久保乾門(こくぼそろもん)訳/杣(そま)浩二監修:NPO法人 神戸平和研究所(2014年)の記述に基づいている。
*歴史上の人名は、聖書(聖書協会共同訳とフランシコ会訳)。及び、歴史上の人名(「大月氏」「チンギス=ハン」など)と、歴史上の地名(「エフタル」「パルティア」など)は、高等学校社会科(世界史)用の『世界史図録ヒストリカ』谷澤伸、他(山川出版社)に準拠している。
*現代の地名(「ツデラ」「ヒーサ」「ブハラ」など)については、平凡社『世界百科大事典』付属の「世界地図」に準拠している。
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