2章 十部族足跡の記録者たち
 そもそも、なぜユダヤ人の日本渡来説が生じてきたのか?その源流を探ると、「イスラエル十部族の捕囚期以後の足取り」という問題に行き着く。十部族の中央アジアでの足取りを最初に「発見した」のは、以下に見るように、12世紀のユダヤ人である。なんと、1700年もの間、ユダヤ教とキリスト教の世界は、捕囚以後のイスラエル十部族の足取りを無視してきたのである。とりわけ、イスラエル建国以後になって、この問題が新たに脚光を浴びるようになり、そこから、アジア大陸だけでなく、東端の島国日本への十部族の渡来問題が浮かび上がってきたのではないかと思う(Eidelberg, Joseph, Bambara. The Japanese and the Ten Lost Tribes of Israel. Jerusalem: Sycamore Press,1980)。
 日本へのユダヤ人渡来説を最初に唱えたのは、私の知る限り、佐伯好郎である。彼は、現在の京都の右京区「太秦(うずまさ)」にある広隆寺は、古代の「大秦寺」であり、同時に「蜂岡寺」であることを立証し、また、太秦にある「蚕(かいこ)の社(やしろ)」が、古代の大辟(おおさけ)神社で、「大辟(おおさけ/おおさき)」の名称が、古代イスラエルのダビデ王につながると見て、この神社が(イスラエルの)ダビデ王を祀る神社であると推定している〔佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論す」『地理歴史』(明治41年1月)〕〔〔佐伯『景教碑文研究』付録21〜50頁に掲載〕。戦後の日本でこの問題に最初に注目したのは手島郁郎であろう(Teshima Ikuro: The Ancient Jewish Diaspora in Japan: The tribes of Hada. Their Religious and Cultural Influence. Makuya:Tokyo Bible Seminary. 1971)。彼が、佐伯説に基づいて、イスラエルで話題にされている「十部族問題」をきっかけに、日本渡来のユダヤ人説と日本の皇室のユダヤ起源説を提唱したのかもしれない。
 私の見るところ、十部族の足跡が本格的に注目され始めたのは、19世紀のイギリス植民地時代のことである。当時の大英帝国は、現在のトルコ、シリアとイラクとエジプト、イラン、パキスタン、アフガニスタン、インド、東パキスタン、ミャンマー(ビルマ)とシンガポールに及んでいた。香港もイギリスの支配下にあった。イギリス国教会(現在の聖公会)は、それらの支配地域の教会や修道院に聖職者や宣教師を派遣していたから、これらキリスト教の宣教師たちは、アジア大陸の中央から南部にかけて、様々な民族や部族に出会うことになった。宣教師たちは、それら地方の部族たちの中に、その伝承や生活習慣や祭儀を通じて、遠く古代のパレスチナのイスラエルの民へさかのぼる部族がいることを「発見」した。キリスト教の宣教師だけでなく、当時のイギリスのユダヤ系の人たち(ユダヤ教徒)の知者や学者たちの中にも、オリエントからアジアを旅して、「十部族の足跡」をたどる人たちがいた。これらの人たちが「発見した」イスラエル十部族の子孫の「確証」や「足跡」や「遺跡」などが、イギリスで出版されることになり、これに並行して、「紀元以後の」時代の早くから、十部族の足跡をたどる人たちが遺した記録があることも注目されるようになった。彼らの記録は、それまでも知られてはいたけれども、あまり注目されてこなかったようだ。
■初期の主な記録
 私が以下で語ることは、主として、アビグドール・シャハン著『失われた十部族の足跡:古代日本に辿り着いたユダヤ人』小久保乾門(こくぼそろもん)訳:NPO法人 神戸平和研究所(2014年)〔Dr.Avigdor Shachan: In the Footsteps of the Lost Ten Tribes. Jerusalem Post(2007)〕に基づいている。この本の著者は、ユダヤ人で、1933年にルーマニアで生ま、ルーマニア兵によって迫害され、カスピ海のトランス・ニストリアへ追放された。1948年にイスラエルが建国されてから、イギリスによるキプロス収容所から逃れて、イスラエルの国民となり、イスラエル特殊部隊に所属した。エルサレムのヘブライ大学で博士号を取得している。
 イスラエル十部族の足跡については、早くから記録が遺されている。
プロコピオス(ギリシア名)(500年頃〜?)は、東ローマ帝国の(ユダヤ系の?)歴史家で、パレスティナのカエサレア (Caesarea)に生まれた。修辞学と法学を修め、527年に将軍ベリサリオスの法律顧問となってペルシア戦役やアフリカ遠征やイタリア遠征に同行した。542年までにはコンスタンティノープルへ戻り、著作活動を行う。主著『戦史(歴史)』(全8巻)は553年までの東ローマ帝国の戦役を伝えるもので、当時の軍事・外交史を知るうえで第一級の史料である〔後藤 篤子。平凡社『世界百科事典』の「プロコピウス」より〕。彼が、当時のペルシアへ遠征した折に、現在のアフガニスタンに存在していた「エフタル(ナフタリから)」の人とインド人との違いを述べて「ナフタリ族は彼ら(インド人)のように黒くはなく、ユダヤ人に似た文化を持つ。彼らは色白で背が高く・・・・・とても礼儀正しい云々」と伝えている。
ナバラ王国のツデラ(現在のスペイン最北部のエグロ川流域にある)の商人であったユダヤ人ラビ・ベニヤミン・ベン・ヨナは、1159年に、当時のヨーロッパとアジアとアフリカを巡る旅をした。ツデラのベニヤミンは、ギリシアから、当時のアイユーブ朝の支配するエルサレムへ入り、そこから古(いにしえ)のバビロニアの地域に向かい、バグダードに長らく逗留した。彼は、そこで、ユダヤ人共同体やユダヤ教の学院や、ディアスポラ(離散のユダヤ人)の首長ローシュ・ハゴラーと出逢った。彼は、そこから、さらに東北にあるトルコ系のホラムズ=シャー朝の支配する地域(現在のイラン)に向かい、さらに、隣り合うイラン系のゴール朝(現在のパキスタンとアフガニスタンからカルカッタにいたるインド北部全体を支配した王朝)の領域に入った。
 ツデラのベニヤミンの旅は、現在のウズベクスタンのサマルカンドの南からパキスタンの北部にあるテルメスと東部のカーブルとハイバル峠の地域のペシャワル、カズニ、カンダハルなどで、その旅は、アフガニスタン北部のヒンズークシ山脈からパミール高原にまで及んでいる。彼は、これらの地で、イスラエルの十部族の末裔と称する人たちと出会い、その様子を記録した。それは、イスラエルの十部族のルベン、ガド、半メナシェ、ダン、ゼブルン、アシェル、ナフタリ族に及ぶ〔シャハン前掲書15〜22頁〕。彼が残した貴重な記録は『ラビ・ベニヤミンの旅行記』として知られている。
ドン・イツハク・アバルバネルは、16世紀後半の聖書註解者であり、当時のスペインとフランスで、4人の王の相談役を務めたユダヤ人である。彼は、当時、ポルトガルからインドへ旅をした西洋人が、インドで「多くのユダヤ人を見た」と報告していることを伝えている。また、インド系のユダヤ人の手紙を彼自身が実際に見聞したと報告している〔シャハン前掲書23〜24頁〕。
マテオ・リッチ(Matteo Ricci) (1552年〜1610年)は、イエズス会の宣教師で、イタリアに生まれた。イエズス会〔中国では耶蘇(やそ)会〕に入り、同会のローマ学院で C. クラビウスから数学と天文学を学んだ。東方伝道を志し、明代の1582年に澳門(マカオ)に到着した。中国語を学び,利瑪竇(リマトウ)と名乗る。中国大陸に入り、明代末期のキリスト教布教の先駆者となった。広東省の肇慶(ちようけい)では、月食を利用してこの地の経度測定に成功した。肇慶より北上して江南地方に移ったが、その科学知識によって中国人の尊敬を集め、熱心な信徒を獲得した。また世界地図を幾種類か描いたが、その一つは1602年に李之藻の手で『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』として刊行された。1601年1月に北京に入り、万暦帝に拝謁し、北京在住と中国全土におけるキリスト教布教の許可を得ることに成功。これ以後多くのイエズス会宣教師が渡来した。リッチはキリスト教布教にヨーロッパ科学の紹介が必須であると考えたから、後続の宣教師にはすぐれた科学知識の持主が多かった〔平凡社『世界百科大事典』の「マテオ・リッチ」藪内 清より〕。1605年の6月のことであるが、北京のある教会に、マテオ・リッチが、十部族出身のイスラエル系の中国人官吏アイ・ティエンを伴って訪れた。この中国人の官吏は、三位一体を信じるイエズス会の教えを全く知らなかったから、興味を覚えたのである。教会にある十二使徒の肖像を見て、彼は、「父祖ヤコブとその12人の息子たちの姿を見た」と跪(ひざまず)いて、「私は十部族の子孫です」と告げたのである〔シャハン『十部族の足跡』140〜41頁〕。
〔注記〕
イスラエルの十部族の足跡については、主として、アビグドール・シャハン『失われた十部族の足跡:古代日本に辿り着いたユダヤ人』小久保乾門(こくぼそろもん)訳/杣(そま)浩二監修:NPO法人 神戸平和研究所(2014年)の記述に基づいている。
歴史上の人名は、聖書(聖書協会共同訳とフランシコ会訳)。及び、歴史上の人名(「大月氏」「チンギス=ハン」など)と、歴史上の地名(「エフタル」「パルティア」など)は、高等学校社会科(世界史)用の『世界史図録ヒストリカ』谷澤伸、他(山川出版社)に準拠している。
現代の地名(「ツデラ」「ヒーサ」「ブハラ」など)については、平凡社『世界百科大事典』付属の「世界地図」に準拠している。
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