3章 捕囚からアケメネス朝ペルシアへ
捕囚期以後に東へ向かったイスラエル十部族の足跡をたどる試みは、2020年の現在も、なお始まったばかりの「揺籃期」に過ぎない。この意味で、私が今準拠しながら紹介しているシャハンの著作も、数々の「証拠」や「証言」を含んではいるものの、厳密に歴史的に見れば、憶測や想定、せいぜいのところ推定に過ぎない。だからといって、著者とその著作を貶(おとし)めるつもりは毛頭ない。そもそも、この分野はまだ始まったばかりの「揺籃期」であり、その意味で、シャハンの著作は貴重な「パイオニア」だからである。顧(かえり)みて、我が国のキリスト教学界が、欧米のキリスト教世界に目を奪われ、十部族を始め、「東へ向かったキリスト教」について、ほとんど無知の状態にあることが慚愧(ざんき)に堪えない。日本のキリスト教学は、この分野においても、イスラエルや欧米の学会に深く感謝しなければならない。
こういわけで、これから紹介する十部族の足跡は、「歴史的な記述」と言うには未確認の要因が多いから、シャハンの説の「受け売り」か、彼の説を批判的に受け止めながら、十部族の足取りのほんの概略を私なりにまとめたに過ぎない。
■ペルシアの東部へ移動
先に紹介したツドラのベニヤミンの記録は、直接地元のユダヤ人の末裔から聞いた伝承を伝えているから、信憑性が高く、彼以後の十部族の足跡追求の基となった。しかし、彼の記録は11世紀のことであるから、北王国滅亡以後から見れば、1700年間という長い空白がある。この間の十部族の足跡を辿るのは困難であるが、あえて次のように推定することができるのではないだろうか。
前720年の北王国イスラエルの捕囚以後、アッシリアの王は、東方からの侵攻へ備えるための言わば盾として、十部族をチグリス川の東方にそびえるザグロス山脈の東側へ連行した可能性がある。十部族の民は、この段階で、パレスチナへ戻る希望を奪われて、彼らが「暗黒山脈」と呼んだ山脈を越えて、はるか東方へ向かうことになった。以後、新バビロニア帝国(前626年〜前539年)を経て、アケメネス朝ペルシアの時代(前539〜前330年)が続く。十部族の末裔は、当時のペルシアの版図の最東端であるインダス川の西側の地域から、北はアラル海の南端から東南に流れるアム川までの地域に、部族ごとに古代イスラエルの宗教の伝統を保持しながら存続し続けたと思われる。ペルシア帝国は、宗教に関する限り比較的寛容だったからである。
■東周まで
シャハンは、現在の中国の開封(カイフェン)に建てられていた「イスラエルの民の神殿」の遺跡として今も遺る四つの石碑に注目して、その内容を紹介している。これらの石碑の碑文は、イスラエルの子孫によって古代中国語で刻まれ、古い神殿に置かれていたものである〔シャハン『失われた十部族』〕103頁〕。その内容から、イスラエル十部族の足跡をたどると、次のような過程が見えてくる〔シャハン前掲書101頁〜112頁〕。
イスラエル十部族の中から、言わば「先遣隊」として東部へ向かった人たちがいる。彼らは、はるか東部の中国の開封(カイフォン)まで到達している。開封は、現在の中国の西安(旧長安)から東の洛陽へいたる路線をさらに東へ伸ばした先にある。1489年に建てられた石碑の内容によれば、驚くべきことに、それが、紀元前680年頃の春秋(東周)の時代のことなのである〔シャハン前掲書106頁〕。もしもこれが事実だとすれば、イスラエルの先遣隊は、当時のアッシリアと新バビロニア帝国の東に拡がる広大なメディア王国を東へ進み、メディアの北東の国境を区切るアム川を越えて、中央アジアの諸部族、すなわちアパルノイやマルギアノイやマッサゲタイやサカイ(ペルシア名でイラン系)やトカロイやソグディアノイやブリュナイなど(Wikipediaによる。これらはギリシア語の読み)の部族(多くは遊牧の騎馬民族)の支配地域を通り抜けて、そこから、いまだ先人未踏(?)とも言える天山山脈とパミール高原との間に拡がる灼熱のタリム盆地の回廊に沿って東へ進み、後代の敦煌へ到達したことになる。そこから、さらに東へ進むと、当時の黄河の西域地帯は、月氏の支配下にあった〔『世界史図録:ヒストリカ』63頁下欄の地図〕。黄河を越えると、東には「戦国の七雄」と呼ばれる諸国があり、当時春秋時代の最も西にあった秦の国の都である雍(よう)にいたる。先遣隊は、そこから東へ、黄河と済水との分岐点に位置する東周の都の洛邑(らくゆう)へ到達したことになる。現在の開封(カイフォン)は、洛邑(らくゆう)のさらに東にあたるから、当時の東周王朝の支配領域の最東端に位置する〔『世界史図録:ヒストリカ』63頁地図参照〕。
■中央アジアへの進出
先遣隊が東周に到達してから60年ほど経過した頃(前620年頃)、当時のアッシリアをメディアの諸部族が滅ぼして、新バビロニア王国が興った。このために、東西の交易のルートの要衝の地であったアッシリアの首都ニネヴェが滅びて、中央アジアの交易路に対するアッシリアの支配が弱まることになった。この間隙(かんげき)を突いて、メディア王国内のイスラエルの諸部族から、言わば第二派とも言うべき先遣隊が、中央アジアにおける交易ルートへ進出し、その主導権を握ることに成功した。こうして、イスラエルの部族は、前600年頃には、メディアから黒海の北方にいたる広範囲の交易を行なうようになった〔シャハン『失われた十部族』109〜10頁〕。
中央アジアの要所は、アラル海の東に拡がる地域がその中核となる。そこは、前漢の最西域、すなわち、天山山脈とタリム盆地の間に挟まれた地域のさらに西方に位置する「ソグディアナ」と呼ばれている〔『世界史図録ヒストリカ』11頁〕。その言語はソグド語で、パルティア王国で用いられていた古代アケメネス朝ペルシアにさかのぼるアラム語とペルシア語、それに前4世紀以降には、ギリシア語の影響も受けているから、アラム語系のイラン語だったようである。この地域での宗教的な状況については、
(1)アケメネス朝ペルシアに先立つメディア王国において、ゾロアスター教が誕生し、これがアケメネス朝ペルシアによって中央アジアへ広まったと考えられる。
(2)もしもシャハンの推定が正しければ、同じ頃、北王国イスラエルの十部族の宗教がこの地域にも入り込んだことになる。
(3)前4世紀以降には、ヘレニズムに世界の拡大により、ギリシア文化の影響も及んだであろう。
(4)紀元1世紀頃から、北インドからガンダーラー地域を経由して、大乗仏教系の諸宗派(例えばラマ教)がこの地域に広まる。
(5)1〜2世紀にはシリア系のキリスト教もこの地域まで伝わったと思われる。
(6)ササン朝ペルシアの時代には、ゾロアスター教、仏教、キリスト教などが混交したマニ教もこの地域に影響を及ぼしている。
(7)5世紀末から6世紀にかけて、ネストリオス系のキリスト教が入り込む。
(8)8世紀以降では、イスラム教系の王国の支配によって、諸宗教が弾圧されることになる。
ざっと見ただけで、これだけの諸宗教が、文明の十字路と呼ばれるこの地域に伝わったことになる。しかし、実状は、定住の諸部族も遊牧の諸部族も、その時々のその部族の状況に応じて、これらの諸宗教の受け入れたり、排除したりしていたと考えられる。
この地域にとって大事なのは、東西の交易のルーとを確保し拡大することであって、これを通じて、富と力を得ることが最大の課題だったからである。だから、この地域の特徴は、定住民たちによる東西交易と、この地域を移動する遊牧民たちの強力な戦闘能力とが、うまく合致することで、シルクロードの整備と確保が保たれていたことである。中国では、ソグド地方は、古代から「胡(こ)」と呼ばれていた。日本語の「胡弓」や「胡瓜(きゅうり)」にその名残を見ることができる。
そもそもシルクロードとは、後漢の光武帝(在位25〜57年)が、西域より「汗血馬」と呼ばれる駿馬を導入して騎馬隊を編成し、北の匈奴を打ち破ることで可能になった。これによって、洛陽あるいは長安から敦煌を経由して、亀茲(くちゃ)あるいは干?(ほーたん)を通り、クシャーナ朝のガンダーラへ出て、そこから、パルティアのヘラートへ、そこからローマ帝国とパルティア王国との境界にあたるエデッサへ到達し、そこから小アジアの西岸のペルガモンを経由して、トラキアを通り、最終的にローマへいたる。これが、隊商の道シルクロードが開通した当初のルートである。シルクロードは、唐の時代になって、東西を結ぶ交易ルートとして栄え、8世紀の唐の長安は、当時の唯一の「世界都市」として世界の文化の中心地であった。
したがって、後漢時代よりも以前のシルクロードが、どこまで旅の隊商に備えて整備されていたのか。もしも、言われているような十部族の足跡が可能だったとすれが、イスラエル民族にほんらい具わる遊牧民の智慧と伝統が、彼らをしてこのような冒険と偉業を可能ならしめたとしか思えない。彼らには、優れた戦闘能力と併せて、「交易」を開拓する強い意欲があったことをうかがわせる。シャハンは、開封の石碑の内容についてもいくらか記しているが、率直に言って、その記述はにわかに信じがたい。いったいその石碑が、現在どこにどのような状態で保存されており、そこに刻まれている古代の中国語は正確に何を記しているのか?これの記述があいまいだからである。だからと言ってシャハンを責めるのは筋違いである。そもそも古代の中国語を読み解く仕事は、イスラエルの人や欧米の学者がやるべき仕事ではない。中国の学者か、日本のキリスト教関係の学者がするべき仕事である。不明を恥じるべきは、私たち日本のキリスト教関係の学者のほうである。
なお、ここで一つどうしても注記したいことがある。それは、紀元前600年のこの頃に、「中央アジアにいたイスラエル諸部族の一部が日本に向けて東方に旅立った」〔シャハン『失われた十部族』110頁〕という記述である。これについては、続編の「イスラエル人渡来説」で扱うことにする。
イスラエル十部族の足跡へ