5章 エフタル王国
■エフタルの成立
 4世紀から5世紀にかけて、ユーラシア大陸の全域で民族の大移動が行なわれた〔『世界史図録:ヒストリカ』15頁下欄の地図〕。これの背景には、地球規模の寒冷化があったと言われている。現在の中国の北半分は、当時五胡十六国の時代で、その北西に居た匈奴が西へ向かってフン族となった。4世紀後半から5世紀には、ヨーロッパ北部のゲルマン人が西ローマ帝国へ侵入した。五胡十六国の北方の突厥(とっけつ)(後のトルコ民族)は、南下してエフタルへ侵入し、柔然(しゅうぜん)は、北方から北魏へ侵入したから、現在の中国の北部一帯の五胡十六国は混沌状態にあった。
 5〜6世紀にかけて、十部族(シャハン前掲書44頁によれば、主としてナフタリとダンとゼブルンとアシェルの四部族)に大きな出来事が生じた。それは、450年頃から550年頃までの間に、かつての北王国イスラエルの民の子孫によって、中央アジアに広大な王国が出現したことである。それは「エフタル王国」と呼ばれ(「エフタル」は「ナフタリ」から)、その版図は、ササン朝の東北部からインドのカルカッタに及ぶグプタ王朝全域と、北は中国の宋と北魏の西域にある亀茲(クチャ)に至るまでの広がりを有するものであった〔『世界史図録:ヒストリカ』14〜15頁〕。この時期が、十部族の「国家的絶頂期」にあたる〔シャハン『失われた十部族』40頁〕。
■エフタルの版図
 イスラエルの十部族の子孫たちは、ほんらい遊牧の民であったから、現地の諸部族と軍事的に手を結ぶことで、アジア大陸の混乱期に乗じて、中央アジアに「エフタル王国」を建国することに成功した。エフタルは、5世紀半ば頃から始まり、突厥とササン朝ペルシアによって分割される(558〜61年)まで,インドと、サマルカンドを中心とする中央アジアの地域を支配し、現在の中国とペルシアとを結ぶ貿易路の要地として栄えた。5世紀後半から7世紀にわたり、東はインダス川流域から、北は(現在の新疆ウイグル自治区の西端にある)喀什(カシュガル)までの一帯は、東西を結ぶ通路が網の目のように拡がっていたからである〔『世界史図録:ヒストリカ』16頁〜17頁地図〕。
 エフタルの民は、ヒンドゥークシュ山系一帯の地域で繁栄し、遊牧生活と都市生活をあわせもった強大な国家を築いた。この国の民は、インド、ビザンティンの史料では「〈白人系の?フン」と記されている。日本では、エフタルの民は「イラン系」だとある〔平凡社『世界百科大事典』〕。「エフタル」については、シャハン『失われた十部族』第3章「国を興したイスラエル四部族」(40頁〜54頁)に詳しい。
■その歴史的過程
 改めて、エフタルの中心となった「インダス川の西域」の歴史を整理するならば、この地帯は、アレクサンドロス大王の東征によって興ったバクトリアが支配し(前4世紀〜前2世紀)、次いで、大月氏が川の西域の北部を支配し(前2世紀〜前1世紀)、その後、西沿岸一帯は、インドのクシャーナ朝とパルティア王国によって東西に分割された(1世紀〜2世紀)〔『世界史図録:ヒストリカ』10〜11頁の下欄の地図/同12〜13頁〕。そして、5世紀〜6世紀には、この地帯を中心に広大な版図を有するエフタルが支配したことになる〔『世界史図録:ヒストリカ』14〜15頁〕。7世紀に、イスラムのウマイヤ朝が興ると、インダス川の領域は、ウマイヤ朝とインドのヴァルナダ朝と間にあたる言わば緩衝地帯となり、この「自由地帯?」には、交易路が東西南北に網の目のように張り巡らされることになる〔前掲書16〜17頁/同57頁の地図を参照〕。
 以下で、シャハンの著作から、エフタル王国とイスラエルの部族に関する証言をあげると次のようになる。
■エフタルについての証言
 エフタル王国に関する記録は多数あるが、次に主な記録者たちを紹介する。ただし、プロコピウスの記事は、ガイ・アルモ・シカルドからの孫引きで、オルテリウスの記事は、メナシェ・ベン・イスラエルからの孫引きであり、それぞれをさらにシャハンが紹介している。
400年〜425年頃には、広大なエフタル王国の西端部、すなわち、アラル海に注ぐアム川の西部からカスピ海の南方にあるニーシャープールにいたる地域が、ササン朝ペルシアが支配する北西部とも重なり合っていた(現在のトルクメン共和国の版図にほぼ等しい)〔『世界史図録:ヒストリカ』15頁〕。ペルシア王バラハーム五世(在位421〜440年)の時代に、緊張が続くこの地帯の中央を東西に流れるオクサス川(現在のカブール川)を越えて、エフタルの軍隊が越境してくると、ペルシア王バラハーム五世の軍隊と衝突し、エフタルは敗北した。ペルシア王は、エフタルに対抗させるために、わざわざ帝国内のイスラエル十部族の民をオクサス川の西岸に移住させた。結果は逆になり、移住した西岸の十部族が、エフタル側に寝返るのではないかという恐れが生じた。このため、王が帝国内の十部族を迫害し始めることになった。迫害された十部族は、はるか東方の カイバル峠(現在のアフガニスタンとパキスタンとの国境)まで逃れることになった〔シャハン『失われた十部族』40〜41頁〕。
先に述べたプロコピオス(ギリシア名)(500頃〜?)は、東ローマ帝国の歴史家で、パレスティナのカエサレア (Caesarea)に生まれた。彼は「ナフタリ(エフタル)族はインド人のように黒くはなく、ユダヤ人に似た文化を持つ。彼らは色白で背が高く・・・・・とても礼儀正しい。・・・・・ナフタリ人たちは死人に対して大きな敬意を払って取り扱う」と述べている〔シャハン『失われた十部族』42頁〕。
アブラハム・オルテリウスは地図の制作者であるが、彼は、476年に、ナフタリ族が、その王国の北側とアラル海とを占領したと考えている。彼が制作したエフタル王国の地理的な位置は、ツデラのベニヤミンの描写と一致している〔シャハン前掲書42〜43頁〕。
歴史家アガティアス(Agathias Scholasticus)(530年〜582/594年?)は、小アジアのミュシアの出身で、ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(治世552年〜558年)の時代のギリシアの詩人であり歴史家として知られている。エジプトのアレクサンドリアで法律を学び、パレスチナを襲った大地震の後、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)で、宮廷の法律家となった。彼は詩人としてギリシア語で詩集をだしているが、歴史家としても知られていて、ユスティニアヌス1世の没後に『ユスティニアヌスの治世』全五巻を著わし、565年〜578年の出来事を記録している〔Wikipedia: English edition 〕。
 アガティアスの歴史は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝の東方政策にも及んでいるから、ペルシア王プロシウスが、エフタルと二度にわたって戦争をしたことが記されていて、そこには、最初の戦争で、アフガンの山岳地帯で、プロシウスの軍隊が、「ダンとナフタリの人々の待ち伏せ攻撃で混乱に陥った」〔シャハン『失われた十部族』43頁〕こと、このため、「王がナフタリ人たちの前で跪(ひざまづ)くという条件で」王とその軍隊を解放したとあり、その後もプロシウスがエフタルに敗北したことが記されている〔シャハン前掲書45〜46頁〕。
先に述べたナバラ王国のツデラの商人、ラビ・ベニヤミン・ベン・ヨナは、1159年に、当時のヨーロッパとアジアとアフリカを巡る旅をした。彼は、現在のアフガニスタンでの地理的な描写の中で、「山々の頂きには、まだナフタリ(エフタル)王国時代の町々、要塞などの廃墟が遺されていた」〔シャハン『失われた十部族』41頁〕と記している。
19世紀半ばの宗教学者ヨセフ・ウォルフ博士は、東方の諸言語に通じていた。彼は、アラル海の東南に位置するブラハ(国)を訪れた。19世紀半ば、この地域はコーカンド=ハン国とブラハ=ハン国に属していたが、19世紀半ば過ぎにロシア領に組み込まれた(コーカンド=ハンは1876年/ブラハ=ハンは1868年に)〔『世界史図録:ヒストリカ』171頁地図〕。ちなみに、現在のブラハはウズベクスタン共和国に入る。彼が訪れたのは、おそらく、ブラハ国がロシア領に組み込まれる以前のことであろう。博士たちは、ブラハの国の「クルサンの地域」(場所不明)からほど遠くない所で強盗に遭い、「トルバド」(現在のトルクメニスタンのトゥルクメナバットのことか?)へ連れて行かれた。強盗たちが博士の身体を調べているときに、彼はヘブライ語で「シェマグ・イスラエール」(聞け、イスラエルよ)を唱えた。するとその直後、彼は「ユダヤ人」(イスラエルの子孫のこと)に取り囲まれた。博士は、彼らの家に招待されたので「イエスの祈り」について語った。博士は、「クルサン(所在不明)とブラハ(これは町のこと?)のユダヤ人(イスラエル人のこと?)たちは、バビロニア捕囚の後一度もイスラエルの地に戻ったことのない十部族であると確信した」(Wolf, Joseph. Mission to Bokhara. London: 1856.) 〔シャハン『失われた十部族』46頁〕。ウォルフ博士は続いて、1220年に、チンギス=ハーンがブラハを占領すると、ハーンと同盟を結んでいたイスラエルの部族は、中国への移住を奨励されて(事実上の命令か?)、イスラエルの子孫の多くが中国へ移住したという証言/伝承を伝えている〔シャハン『失われた十部族』47頁〕。
■エフタル国の意義
 エフタルは、その広大な版図にもかかわらず、100年あまりという短命に終わった王国である。しかし、エフタルが終始支配した中枢部の地域と、5世紀から7世紀に及ぶ時代の歴史的意義を考えるときに、この国が歴史に残した足跡の意義は大きい。
 何よりも、その中心となる地域には、ガンダーラ、バーミヤン、バクトラ、サマルカンド、カシュガル、クチャなどの諸都市や地域が含まれている。そこは、アレクサンドロス大王の東征によるギリシアとインドとの文明の出会う場所であり(ガンダーラ)、ギリシア彫刻と仏教との出会いによって、ここが仏像の成立した地域だからである(バーミヤン)。その影響は、敦煌の石窟の仏教壁画と彫刻にの先駆けとなった。
 この地域は、中国の僧たちがインドへ旅するときに、逆にインドの僧たちが中国へ旅するときにも、必ず経由しなければならない。道教、儒教、仏教、ギリシア思想、そして、ササン朝ペルシアのゾロアスター教やマニ教が、この地域で出逢うことになった。その上で、時代的に見れば、エフタルには、ペルシアを通じて、ネストリオス系のキリスト教が流入したと見なすことができる。キリスト教の影響は、エフタルの成立が、ほんらいイスラエルの十部族の子孫たちによることと関係する。後述するように、ネストリス系のキリスト教が東方に広まった理由の一つが、イスラエル系の諸部族の受け入れによるところが大きいからである。この事情は、西方へ向かったキリスト教が、パウロなどによって、離散のユダヤ人の諸会堂を通じて、主としてユダヤ人キリスト教徒の間から、異邦人キリスト教徒へと拡散したのと通底する。
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