6章 中国とインドへ
■エフタル王国以後の十部族
 ペルシアの東部に達していた十部族が、インダス川を越えて東部からカシミールとパミールへ本格的な移動を行なったのは、中央アジアでの諸民族移動の時期にあたる3世紀から4世紀にわたる時代の可能性が大きい。イスラム以前のイラン(ササン朝ペルシア)の宗教は、ゾロアスター教が国教であるが、国内ではマニ教が隆盛を極めていた。また、チグリスとユーフラテスの流域全体では、5世紀後半以降に、ネストリオスのキリスト教(景教)が盛んになった。ギリシアとローマへのキリスト教の伝播は、ユダヤ人の会堂が拠点となったユダヤ人キリスト教徒の力によるところが大きい。同じように、パレスチナの東方へ向かったネストリオス派のキリスト(と景教)は、散在する十部族のイスラエル人たちをこの派のキリスト教へ改宗させることを通じて中国まで伝播したと推定されている。加えて、イスラム国家の成立よって生じたと思われるイスラエル十部族への迫害は、彼らの大移動への動因となり、十部族の移動は、中央アジアから、インドのガンジス川流域やビルマのイワラジ川と、また北部のルートでは、中国の開封へと及んでいる。
 エフタル以後の十部族の足跡は、大きく三つに分かれる。
(1)北ルートでは、現在の中国の西安(旧長安)から東の洛陽へいたる路線をさらに東へ伸ばした先にある開封(カイフォン)へ。
(2)インドへのルートでは、インド北部からミャンマー(ビルマ)へ。
(3)南ルートでは、インド南西沿岸のゴア以南のムンバイ(ボンベイ)からコジコーテ(カリカット)やコチンまで。
 筆者(私市)は、これら三つの移動が、主としてエフタル王国時代(5〜6世紀)からその滅亡以後に起こったと考えている。しかし、十部族の民が、東西の交易の要衝の地を拠点として、広く交易を行なっていたことを考え併せると、そのような交易の人的ルートの担い手たちが、同族の者あるいは十部族の民の者たち同士を通じて営まれたであろうことは想像に難くない。だから、上記の三つの移動が、いつ頃どの程度の規模で行なわれたのかは明らかでない。シャハンは、エフタル時代よりもずっと早い時期に移動が起こったと考えているようであるが〔シャハン前掲書86頁〕、確かでない。先に指摘したように、この問題と関連して、唐時代の景教の伝来と、インドの南西沿岸へのネストリオス派のキリスト教の伝来がある。この派のキリスト教の担い手たちは、主として、イスラエルの十部族の子孫たちであったと考えられるからである。
 世紀にイスラム教が興ると(610年頃)、ペルシアとアラビア半島と北アフリカに及ぶ版図をイスラム教のウマイヤ朝が支配した。しかし、十部族の中には、エフタルの滅亡後の7世紀でも、ウマイヤ朝東部のヘラート(現在のアフガニスタンの西北端)からのアラブの支配に抵抗して、インダス川の東岸一体に留まり続けた人たちがいたようである。だから、8世紀でも東岸地域に彼らの足跡が残っている。彼らも、この東岸地域から、東はインド北部とビルマへ、北はシルクロードを通じて唐にいたり、さらに朝鮮半島を経由して大和朝廷の支配する倭国へいたったかもしれない。エフタルの民については謎が多く、その起源は突厥(とっけつ)系だという説もあるが、アフガニスタンのスルフ・コタル(Surkh Kotal)の発掘などにより、ペルシアのイラン系の民である可能性が大きい。「イスラエル十部族」と「大月氏」と「ネストリオス派のキリスト教(と景教)」とが、中国大陸を経由して「日本へ渡来した」という説は、これらの歴史的な状況が関連し合いながら現在の日本に、いわゆる「ユダヤ人渡来説」として伝承されている。だから、この伝承の歴史的な源流は、5〜7世紀頃の中央アジアの歴史から発していると考えることができよう。
■中国での足跡                               
 中国へのイスラエル十部族の足跡については、すでに述べたから、幾つかの証言を追加としてあげるに止める。
3世紀には、アフガニスタンから出た十部族の子孫たちで、目的地(日本?)へ到達することができなかった十部族の共同体は、現在のモンゴル自治区と万里の長城の接点に位置する寧夏(ねいか/ニンシャ)に数万人の共同体として定住し、五つの神殿で祭儀を行なっていた〔シャハン『失われた十部族』99頁〕。3世紀の(現在の)アフガニスタンは、ササン朝ペルシアと隣接する(大月氏が支配する?)クシャーナ朝の支配下にあった。十部族の子孫たちは、当時の民族移動の波に乗って、クシャーナの支配の下から、匈奴(きょうど)や烏孫(うそん)が西方へ向かって移動したのとは逆に東方へ移動して、後漢の西域都護府がまだ存在していた(?)であろう亀茲(クチャ)にいたり、そこから、当時北部一帯を支配していた魏(ぎ)の西端に位置する敦煌にいたり、魏の都市であった長安に到達したことになる。
500年から600年にかけて、「中国北部」(北魏)において、イスラエル十部族は、「キリスト教徒によって迫害を受けた」〔シャハン『失われた十部族』121頁〕とあるが、6世紀は、エフタル王国の最盛期にあたる。また、隋王朝が統一を果たした時期でもあるから、ここで言う「キリスト教徒」とは、すでに北魏と隋に到達していた景教徒のことであろう。
621年頃には、寧夏から南東に500キロほどの唐の都長安(現在の西安)に、十部族の子孫の共同体があって、四つの神殿で礼拝を行なっていたとあるから〔シャハン『失われた十部族』99頁〕、イスラエルの子孫は、当時の涼州から欄州を経由して、唐の都長安にいたったことになる。ちなみに、日本から第1回の遣唐使が派遣されたのは630年である。
1512年から1663年頃までに、開封で建てられた十部族の神殿と石碑については先に述べた。
■北インドのルート
 シャハンによれば、「彼ら(イスラエル十部族の子孫)は、日本に到着した後、その日本への道が、約束のイスラエルの地に彼らを導いてくれると信じた」〔シャハン『失われた十部族』90頁〕と述べている。だから、この理由で、十部族の子孫が日本を「目指した」ことになる。シャハンは、その足跡の一つとして、「ヒマラヤを南方から迂回し、今日のミャンマーを通過して大陸の東海岸に至り、そこから朝鮮半島に向かって北上する」〔前掲書同頁〕というルートを提示している。これだと、現在のネパールを横断し、かつて日本軍を苦しめたジャングルが拡がるビルマ北部にあるインパールの北部を経由し、現在の中国の雲南省へ出て、そこからさらにチワン族の自治区を通り抜けて、広東省へ出る。そこから、現在の香港辺りの「東沿岸」に到達し、そこから船で、台湾海峡と東シナ海の荒波をくぐり抜けて朝鮮半島の百済か加耶の地に到達するというルートを想定せざるを得ない。「羊や牛などを連れて、1日20キロメートルほどのゆっくりとした歩みで」〔前掲書同頁〕、朝鮮半島へたどりつくのは、神業に近い。はっきり言えば、十部族の日本渡来において、南ルート説は無理である。むしろ、中央アジアから北のルートを取り、例えば北魏あたりを経由して百済あるいは新羅に入り、そこから日本へ渡来する説のほうが自然であろう。この問題は、秦氏の渡来と関わるから、ここではこれ以上採り上げない。
■カリカットへ
 インドの南西沿岸のボンベイの南にあたるゴアからコジコーテ(カリカット)とコチン辺りまでは、古代からキリスト教との関連が伝えられている。シャハンによれば、おそらく紀元前に、イスラエルの十部族の子孫が、この地帯に住み着いていたことになる。さらに、この地帯は、伝承によれば、紀元1世紀に、十二使徒の一人トマスが宣教に訪れており、この地方の領主の保護を得て、キリスト教を布教した。現在、コーチンの北にあり、やや内陸に入った川沿いのコドゥンガルール(Kodungallur)には、聖トマス教会があり、ここを中心に七つのキリスト教の聖堂がある。カトリック系をはじめ、東方教会と福音派の教会もあり、この地方一帯には、今もキリスト教徒が多く、キリスト教関係の施設や学院がある。トマス派のキリスト教徒の中には、かつてのイスラエルの子孫たちも多く含まれていたというのがシャハンの推定である。シャハンによれば、エフタル国の時代に、ネストリオス系のキリスト教がこの地域に伝えられたとあるが、これも十部族の子孫と関連しているのだろう。
 16世紀になると、ゴアは、周知の通りイエズス会の根拠地となり、ゴアの町並みは、当時のポルトガルの首都リスボンをモデルに作り直された。現在も、ここにはフランシスコ・ザビエルが眠るボム・ジェム聖堂や聖フランシクコ修道院やセ・カテドラルなどの聖堂と修道院の遺跡が遺されている。「カトリックのインド」に加えて、19世紀に、インドはイギリスの植民地になるから、英米のプロテスタント系のキリスト教が伝えられることになる。
           イスラエル十部族の足跡