7章 モンゴルと十部族
 ここで、歴史的に見て最も後期(?)だと思われるモンゴル時代の十部族の足跡を一瞥したい。とは言え、中央アジアでのモンゴルの支配は、その分裂以後も加えると、13世紀から17世紀にまでも及ぶ。この時期は、1368年に建国し1644年に終焉を迎えた明国の統治時代とも重なるから、中央アジアと明との関係をも考慮に入れるなら、確かなことは分からない。今まで述べてきたことを振り返りながら、エフタルを中心にして、モンゴル時代をも加味しながらまとめると次のようになるだろうか。
歴史家であったマシュー・パリスは、1240年に、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル軍の破壊行為について語り、この軍と十部族との関連に触れて、こう述べている。「タタール人(モンゴル人のこと)たちは、モーセの律法を離れて金の子牛に従った十部族であると信じる人々がいる。タタール人たちが、ほんとうに十部族なのかどうかは疑わしい。彼らはヘブライ語を話すわけでもないし、モーセの律法に則(のっと)った生活をしてもいない。」ただし、シャハンは、このパリスの文言をライトの著作から孫引きで引用している〔シャハン『失われた十部族』51頁〕〔Wright, John Kirtland, and Clarence J.Glacken. The Geographical Lore of the Time of the Crusades: A Study in the History of Medieval Science and Tradition in Western Europe. New York: American Geographical Society 1925.〕。
16世紀のアントワープ生まれの(ユダヤ人)アブラハム・オリテリウス(Abraham Ortelius)は、1570年に、Theatrum Orbus Terrarum というラテン語の題名で、古代の地図に基づいて53もの地図を集めた地図帳を出した。彼は、これのほかにも、20もの「歴史地図」を出している。彼の出した地図の中に、「ナフタリ王国の位置を示す地図が含まれていた」〔シャハン前掲書43頁〕とあるが、せっかくのシャハンの記述も、その記述が曖昧なために、これ以上正確なことは分からない。
イタリアのマントヴァ出身のユダヤ人ラビ・アザリア(1511年〜1578年)は、イスラエルの歴史『マオール・エイナイム』(原典ヘブライ語)を著わした。その中で彼は、イスラエルの子孫たちによって成立したエフタリ王国の領域は、一時は、「中央アジアの大部分」を占めるほどであったけれども、モンゴル人の支配とも重なるために、時代によってその版図が変化していると伝えている〔シャハン『失われた十部族』44頁〕。
イギリス人の宣教師で外科医のペネル博士は、(19世紀の後半に?)インド北部の国境近くにいるアフガン諸部族の中で16年間を過ごした。彼は、アフガンの諸部族の中に、その容姿が古代の芸術家によって描かれたイスラエルの人々との姿と驚くほど似ている部族が居ると証言している(Pennell, T. L. Among the Wild Tribes of the Afgan Frontier. London: Seeley & Co. 1909.)〔シャハン前掲書68頁〕。
現在のアフガニスタンの西北端部にあるヘラートに住んでいるイッサカル・カーヘンは、ヘラートを訪れるルアニ族の商人グループと商売をしていた。カーヘンの証言によれば、ルアニ族の商人たちは、主としてユダヤ系の人たちと取引をしていたが、「その商人グループの頭(かしら)は、黒い房を付けていた」。なぜ衣服に房を付けるのか?と問われると、そのお頭は「彼等がユダヤ人だからだと答えた。さらに、彼の母親は、安息日にはろうそくを灯して部屋の隅の籠の下に置く習慣を守っている」と言い、彼等は、神殿の崩壊以後、黒い房を付けており、彼等がイスラエルの宗教に帰るまで続けられると述べた(Ben-Zvi, Yitzchak. The Lost Ones of Israel. Jerusalem:1966.)〔シャハン前掲書77頁〕。
 現在も、アフガニスタンとパキスタンとの境界地域に、「パシュトーン」と呼ばれる人たちが住んでいる。彼らは15ほどの部族で構成されていて、古代イスラエル人の血を引く諸部族であろうと言われている。「パシュトーン」は、インドにも、パキスタンにも所属することを拒否することで知られている。彼らの先祖は、「いくつもの遠い国々と異民族の間を通過し、約束の地であるイスラエルの地を遠く離れ、長く苦しい旅路を終えてついにパキスタンの地に安住の場所を見いだした」(Ben-Zvi, Yizchak. The Lost Ones of Israel. Jerusale: 1966.より)のであろう〔シャハン前掲書69頁〜70頁〕。
シャハンの著作には、このほかにも、19世紀から20世紀にかけての十部族関係の証言をイスラエル・ベン・ヨセフ・ベニヤミンやヨセフ・ウォルフやフランコイス・バーニアー、また、1810年に「タタール地域」(エフタルのことか?)を訪れたポーランドのユダヤ人の証言などを引用している〔シャハン『失われた十部族』49〜52頁〕。
 5世紀に、北は現在のカザフ共和国のバルハシ湖まで、南はインドの西岸のムンバイ/ボンベイまで、東は敦煌(とんこう)と庫車(クチャ)との間にあるバクラシ湖の西の焉耆(カラシャール)まで、西はカスピ海に及ぶ広範囲な地域を最大版図とするエフタル王国が、イスラエルの十部族の子孫たちによって建国された。これらの記録は、衝撃的なほど重要である。
 これらの証言を重ねると、十部族の子孫たちは、戦闘的で軍事技術に優れており、周囲の諸部族との協調に巧みで、周辺の部族の生活習慣を採り入れながらも、古代イスラエルの宗教的伝統を失わなかったようである。これは、遊牧民の特徴をよく表わしている。5世紀を宗教的に見れば、西にビザンツ帝国というキリスト教国があり、その東に、ササン朝ペルシアというゾロアスターとマニ教とネストリオス派のキリスト教などが混交した帝国があり、エフタル王国の南部はグプタ王朝の仏教国と重なり、北部には遊牧民が居たから、その王国内には、サマルカンド、ガンダーラ、カシュガルなどの東西交易の拠点と文化都市があることに注目したい。また、エフタル王国の中央部は、紀元前1世紀頃に、前漢の西部から移動した月氏による大月氏国があったことも(後に日本へ渡った秦氏とのつながりから)注目したい。
 エフタル王国の版図は、8世紀に入ると、イスラムのアッバース朝帝国の支配に入り、11世紀には、イスラムのアッバース朝から分離したカズナ朝の時代になり、12〜14世紀頃までは、元帝国の一部であるイル=ハン国の支配に入り、15世紀には、イスラム系のティムール帝国の支配下に入り、16〜17世紀には、北インドを支配したイスラム系のムガール帝国の時代に入る。18世紀には、この地帯は、イギリスの植民地と、イスラム系のアフシャール朝との境界となり、19世紀にイギリスの統治下に入り、現在のアフガニスタンになる〔『世界史図録:ヒストリカ』14〜31頁〕。
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