■はじめに
 このシリーズは、最初「知恵と黙示」と題して始めたものです。それを「ヘブライの伝承とイエスの霊性」と改めたのは、わけがあります。知恵思想と黙示思想は、どちらもナザレのイエスの霊性に深く関わる要因だと考えられますが、イエスの霊性は、それだけでなく、契約と律法、何よりも、イスラエルに約束されていた神による約束の国伝承から大きな影響を受けました。このために、第2部で「約束の国伝承」を加えることにしたのです。題名の変更はこのような理由によります。
 第1部では「堕罪と洪水伝承」を扱うことにします。「堕罪」というのは、人類の楽園での堕罪のことだけでなく、天使たちの堕罪をも含んでいて、これが、ノアの洪水伝承と結びつくことなります。「堕罪と洪水伝承」は、創世記の初めにでてくる天地創造に次いで起こる出来事ですから、内容的に見ると、ヘブライの諸伝承の最初期のことになります。ところが、この伝承それ自体が成立するのは、時期的に見るとイスラエルの歴史のかなり後の時代になります。知恵思想はダビデ王朝の頃(前1000年頃)からであり、黙示思想は、それよりも遅れて、捕囚期以後の旧新約中間期の時代に形成されました。したがって、第1部で採り上げる『第一エノク書』(=『エチオピア語エノク書』)も、紀元前2世紀頃にようやく成立することになります。だから、伝承が伝える原初の出来事そのものと、その伝承が成立する時期とは大きく異なりますから注意してください。伝承の内容とこれの成立時期とは切り離して考える必要があるのです。
 この点で、旧約聖書と旧新約中間期の諸伝承は、福音書とは異なっています。マルコ福音書は紀元後70年頃、ヨハネ福音書は90年頃に書かれたと考えられますから、イエスの受難後わずか40年から60年後のことです。ところが、ノアの洪水伝承は、歴史的に見ると、紀元前3000年頃までさかのぼる出来事を扱っているのに、これが、人間と天使の堕罪伝承と結びついて最終的に成立するのは、前2世紀頃です。だから伝承が伝える出来事の時期と、伝承が成立する時期とが、2000年〜3000年も離れていることになります。
 わたしがここで言う「伝承」とは、歴史的な事実をそのまま伝えているものではありません。例えば「ノアの洪水伝承」は、はたしてほんとうに歴史的な事実なのか? この問題は、現在でも地質学や考古学や文献学によって、その解明が進められています。また、この伝承を伝えている資料も、口頭伝承なのか、書かれた文書によるのか、これが、J資料やP資料の問題と共に論議されています。伝承の内容の歴史的な解明や、伝承が形成されてきた過程を資料によってたどることは大事ですが、これらは、「すでに成立している」伝承を聞いたり読んだりする人たちにとってみれば、どうしても必要かと言えば、そうではありません。
 わたしがここで言うのは、ノアの洪水を語る「物語伝承」のことです。物語伝承は、それが成立した後では、一つの完結した内容を人々に伝えます。だから、受け手の人たちは、その伝承の内容の正確な時代や時期、あるいは、その伝承が成立する過程や資料のことなどを必ずしも知らなくても、伝承それ自体を十分理解することができるのです。忠臣蔵の伝承群には、日本人のものの見方や考え方がすべて含まれていると云われています。しかし、わたしたちは、忠臣蔵の物語伝承群がいつ頃現在の形になったのか、あるいはどのような口伝や文書による資料によって成立したのか、これらを知らなくても理解することができます。
 イギリスに古くから伝わるアーサー王伝説群も同じです。これには、はたして実在したかどうかさえも疑わしい魔術師マーリンが登場します。アーサー王と彼を囲む円卓の騎士たちの物語伝承群は、イングランドの建国にまつわる伝承ですが、6世紀から8世紀にかけて成立しました。この伝承群は、現在でもテレビで放映されたり、C・S・ルーイスの『ナルニア国物語』やトルキンの『指輪物語』の源泉であり、「ロード・オブ・ザリング」のような映画にも影響を与えています。しかし現在の大多数のイギリス人は、この伝承群の伝える時期も、これの成立過程もそれほど正確には知らないです。
 わたしはこれから、第1部「堕罪と洪水伝承」、第2部「約束の国伝承」、第3部「受難の僕伝承」、第4部「人の子伝承」の四つの伝承を採り上げていく予定です。しかしそれは、必ずしも、これらの伝承が伝える内容の時期的な確定を意図するものではなく、ましてこれら諸伝承の成立した過程を資料的な分析によって確認するためでもありません。時期的な問題や資料的な分析は、伝承の内容それ自体をより深く知るための手がかりにすぎません。イエスを含めて、当時のパレスチナの人たちは、これらの諸伝承をよく知っていて、それが当時の人々の信仰や考え方を形成する大事な要素であったと考えられます。しかし、その伝承の正確な時期や成立過程や資料については、ほとんどの人は知らなかったと思われます。これら四つの物語伝承を通して、イエスの霊性を探る手がかりにしていただけるなら、わたしの願いはかなえられたことになります。
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