9章 プロメーテウスと堕天使伝承
 
■ギリシア神話の影響
 わたしたちはここで、ギリシア神話に目を向けて、堕天使伝承にギリシア神話が与えた影響を見たいと思います。ヘーシオドスは、前700年頃のギリシアの詩人です。彼の前には『イーリアス』と『オデュッセイア』の二大叙事詩の作者として知られるホメーロスがいますが、ホメーロスは半ば伝説的な人物とされているのに対して、ヘーシオドスは実在の作者だと考えられています。代表作は『神統記』(原題名『テオゴニア』"Theogony")と『仕事と日』(原題名『諸労働と日々』"Works and Days")です。特に『神統記』は、ホメーロスの二つの叙事詩とともに、ギリシアの神々の系譜を語るもので、ギリシア神話の源泉とされています。彼の『仕事と日』に次のような行(くだり)があります。
 
オリュンポスの館に住まう神々は
最初に人間の黄金の種族をお作りなされた。
これはクロノスがまだ天上に君臨しておられた
クロノスの時代の人間たちで、
心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、
神々と異なることなく暮らしておった。
・・・・・
しかし大地がこの種族を隠した後は、
大神ゼウスの思し召しによって、
彼らは地上の善き精霊となり、
人間の守護神として
靄に身を包み、地上を隈(くま)無く徘徊しつつ、
裁きと悪業とを監視し
人間に富を授ける。
〔ヘーシオドス『仕事と日』109〜25行〕。
 
 クロノス(時間)はウーラノス(天空)の子で、後に父から支配権を奪いますが、クロノスもまた、後にゼウスの支配に反逆して、地下の国タルタロスへ追い落とされたティーターン(巨人)たちのひとりです。「黄金の種族」とあるのは、聖書で言えば、エデンの園時代の人たちのことでしょう。彼らは、大地に隠されて「靄(もや)に身を包まれた」霊となり、地上をめぐりつつ人間たちの悪行を監視していたとありますが、この「監視する者たち/見張りの番人たち」とは、ダニエル書4章14節/20節にでてくる「見張りのみ使いたち」や『第一エノク書』12章3〜4節や『ヨベル書』4章15節に出てくる「(神から遣わされた)見張りの天使たち」と共通するところがあります。
 『第一エノク書』15章には、堕天使たちが、「永生の身でありながら人間の血によって情欲に燃えて」巨人たちを産み落とします。この巨人たちが、「地上では悪霊と呼ばれる」ようになり、「悪霊が彼ら(巨人たち)の体から出た」とされるのです。天使たちの堕罪は、「天の霊」と「地上で生まれた地の霊」とを混交させたところに生じたとされています。『ヨベル書』の10章では、ノアが、「今の時代にはびこる堕天使たちの生んだ悪霊どもを滅ぼしてくださるよう」創造主に祈ります。すると悪霊の使いであるマスティマが創造主のところへ来て、悪霊全部は滅ぼさないでくれるよう主に懇願します。そこで主なる神は、地上の悪霊どもの10分の1は残しておいて、地上でサタンに仕えるようにしようとマスティマに告げます。『第一エノク書』も『ヨベル書』も前2世紀頃のものと考えられますから、ユダヤ人は、この頃に、人間の娘と交わった天使たちと悪霊どもとを結びつけていたのでしょう。
 一方のギリシア神話には、人間の娘たちと交わった神々の物語が数多くあります。プラトンの『ソクラテスの弁明』(15)で、ソクラテスは、自分の内に働いている「霊」は、超自然的な「神霊」(ダイモネス)から来ていると述べた後で、「もしも、もろもろの霊たちが、人の言うように女の妖精やその他の女性を母とする神々の子供(私生児たち)であるのならば、誰が、神々の子たちは存在するが、神々は存在しないと信じる者があるだろうか」と述べています。ここで言う「霊」(ダイモーン)は、「善い霊」(エウダイモニオン)のことであって、「悪い霊」(カコダイモニオン)のことではありません。しかし、人間に働く「霊」が、神々の霊が人間の女性に生ませた「私生児」であるという思想をここにも見ることができます。
 ヘーシオドスの『仕事と日』(106行以下)には「黄金の種族」「銀の種族」「銅の種族」「英雄たちの種族」「鉄の種族」と五つの種族の時代が語られています。これもダニエル書(2章31節以下)に出てくる金、銀、青銅、鉄、粘土の王国に通じるところがありましょう。ここで注意したいのは、先の引用に出ているように
 
しかし大地がこの種族を隠した後は、
大神ゼウスの思し召しによって、
彼らは地上の善き精霊となり
 
とある部分です。これは「黄金の種族」について述べている節ですが、英雄や優れた人たちが、死ぬと「諸霊」(「ダイモーン」の複数「ダイモネス」)になるという思想がここにあります。このことから判断すると、ヘーシオドスは、「(人間への)裁きと悪業とを監視し、人間に富を授ける」とある「見張りの霊たち」が、優れた英雄や人間の死から生じたと考えているようです。堕天使たちが生んだ巨人たち(ネフィリーム)から悪霊が生じたという伝承は、これとはやや異なりますが、英雄/巨人から善/悪の霊が出てきたという点で共通するところがあります。ヘレニズム政権の下で、ギリシア文化の支配とその影響を受けたユダヤ人が、これらの伝承から、天使たちの堕落伝承を産み出したとしても不自然ではないと思われます〔グラッソン102〜03頁 〕。ちなみに、霊なる者が肉と交わるところに堕罪が生じるという見方は、後のイエス・キリストの処女降誕伝承とを考え併せると、「霊」と「肉」両者の関連が、堕罪と救済との関連で、改めて問われることになりましょう。
■プロメーテウスの反逆
 『第一エノク書』でも、天使たちが人間に冶金や化粧品など文明の技術をもたらしたことが、神への反逆と見なされています。この点をギリシア神話の視点から見ることにします。プロメーテウスはティーターン神族(これについては後に説明します)のひとりイーアペトスの息子です。ただしこれには異説もあります。ヘーシオドスの『神統記』の記述は話が前後していますので、それらを整理して、『神統記』と『仕事と日』からプロメーテウスの物語伝承を紹介すると次のようになります(特に『神統記』507行以下)。
 ヘーシオドスは彼を「さまざま策に富むプロメーテウス」と紹介していますが、その名は「前もって考える」という意味です。彼には弟があり、その名は「思慮浅いエピメーテウス」(「後で考える」という意味)です。ゼウスはプロメーテウスに激怒して、この「策に長けた」プロメーテウスを「冷酷な縄目」で縛り、その縄の枷を太い柱の真ん中に打ち込んだのです。その上で「翼長い鷲」を使って、彼の不滅の肝臓を日ごとに食らわせました。それでも夜の間に、鷲が昼間食べたのと同じ分量だけ彼の肝臓が生え出すので、鷲は毎日彼を襲うことになります。事の起こりは、神々と死すべき人間とが諍(いさか)いを起こしたことに始まります。
 ヘーシオドスによれば、「神々も人間も、その起こりはひとつ」〔『仕事と日』108行〕であって、どちらもウーラノス(天)とガイア(地)との間に生まれました。ただし神々は不死 "immortal" であり、人間は死ぬべきもの "mortal" ですから、その区別のゆえに争いが生じたと思われます。争いは、人間が神々に捧げる犠牲の獣を両方の間でどのように分け合うのか? ということから生じました。そこでプロメーテウスは、肉と脂肪に富む臓物を牝牛の胃袋で包んで、牛皮の上に置き、これをゼウスの前に置いたのです。一方で、人間たちの前には、牝牛の白い骨を「業巧みに按配してつやつやしい脂肪でそれを包んで」置きました。これを見た「不滅の知恵持つ」ゼウスは、「イーアペトスの子(プロメーテウス)よ。お前はなんと不公平な分け方をしたものか」と言って咎めます。すると彼は答えて、「偉大なるゼウスよ、あなたのお心のままにどちらでもお取りなさい」と答えます。ゼウスは白い脂身のほうを選んだのですが、実はそれが白い骨であったことを知って「彼の心は怒りに燃え、憤怒はその心に入り込んだ」とあります。
 このような次第から、贓物のほうは人間が取り、神々のほうには「不死の神々のためにかぐわしい祭壇で、白い骨を燃やす」ことになりました。ところがゼウスは、「その憤怒を決して忘れることなく」、トネリコの木に火の勢いを与えることを止めたのです。諸説がありますが、おそらく火をおこす時にはトネリコをこすり合わせて火を点じたからだと考えられます。古代の人たちは、この点火の仕方から、木の中には火が宿っていると信じたようです。火を止められた人間は、その生存を脅かされることになりました。人間は、生の肉をそのまま食べるという動物状態に逆戻りしなければならなかったからです。それに、神々に肉を焼いて献げ物をすることさえできなくなったのです。ところがプロメーテウスは、「ゼウスの裏をかいて」、大きなウイキョウの空(から)の茎の中に火を隠して、天から密かに火を盗み出して人間に与えたのです。
 そこで今度は、ゼウスは、善い(カロン)火の代わりに禍(カコン)な美しい女を「土を捏ねて気品高き乙女の姿」(『仕事と日』71行)にして、女神のように美しく手芸に秀でた「パンドーラ」(全てを与えられた女)をこしらえます。ゼウスはこの「とても手には負えぬ危険きわまる罠」(前掲書83行)を人間どもに贈ります。プロメーテウスが警告するのも聞かずに、弟のエピメーテウスは、彼女の魅力に負けて彼女を妻とします。ところがゼウスは、あらゆる災害や禍を詰めた甕(かめ)を彼女に持たせてやります。人間はそれまで「煩いを免れ、苦しい労働もなく」暮らしてきました。「ところが女はその手で甕の大蓋を開けて、甕の中身をまき散らし、人間にさまざまな苦難をまねいてしまった」(前掲書94〜95行)のです。ただしひとりエルピス(希望)だけは、瓶の縁の下側に残って、外に飛び出さなかったとあります。
 これが、先に述べたプロメーテウスへの残酷な罰の物語伝承です。ただし、後にゼウスの子ヘラクレスが、プロメーテウスの縄目を解いて、彼を自由にしてやります。ゼウスは、自分の息子ヘラクレスのしたことを咎めることをせず、その鷲を退治して「イーアペトスの息子(プロメーテウス)のひどい苦悶を払い、苦痛から彼を救った」(『神統記』527〜28行)とあります。ゼウスは、息子のしたことを咎めることなく、「以前に抱いていたその怒りを鎮められた」(同533行)のです。
 プロメーテウスは、アッティカの職人の崇拝する技術の神であって、伝承によればこの神(プロメーテウス)が、水と泥から人間を造り、他の獣の持つあらゆる能力を人間に賦与したとあります。また、アイスキュロスの『縛られたプロメーテウス』では、ゼウスが人間族を滅ぼそうと図ったことを知って、プロメーテウスが人間族を憐れんで、彼らに火をもたらして、人間のために生活の技術を教えたことになっています(アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』1〜17行)。
 この物語では、ゼウスはまんまとプロメーテウスに欺かれたように見えます。しかし「思慮深き」ゼウスは、予め悪巧みを知った上で、プロメーテウスを罰するためにわざと骨のほうを選んだと解釈されているようです。人間の知恵が、神の知恵を出し抜いたのではなく、逆に人間が大きな禍を受ける結果になったのです。メコネの地での交渉の結果、彼は、人間と神々とが分裂する決定的な原因を作ったことになります。彼は火を盗み、ゼウスを怒らせ、女に大きな過ちを犯させる結果を招いたからです。プロメーテウスは、人間の恩人として感謝されるべきでしょうか? それとも人間に禍と労働の苦しみをもたらした責任者なのでしょうか? ヘーシオドスは、この神話を世界に悪が生じる「悪の起源」として描いていると言えましょう。
■プロメーテウス神話と堕天使たち
 この物語を読んで分かると思いますが、ここには聖書の堕罪神話、特に『第一エノク書』の悪の起源と共通するところがあります。大事なのは、事の起こりが、人間が神に捧げる献げ物をめぐって生じたことです。アベルとカインの物語を例に出すまでもなく、人間と神あるいは神々との区別あるいは調和が、罪の原因になるという点で両者は共通しています。プロメーテウスが文明の基となる火を天から「盗んで」人間に与えたことが、ゼウスを怒らせますが、ヘーシオドス以後のギリシア人は、このティーターン(プロメーテウス)が、建築、言論、数、家畜の飼育、医術と薬草などをも人間に教えたと考えました。これらはほんらい「神々の技術」であったものです。このことと『第一エノク書』(8章)で、アザゼルが、武器類や金属製品や装飾品を人間に伝え、セミハザが魔術と薬草を、バラクエルが占星術を、コカビエルが天体を、タミエルが星座の観察を教えたとあることとは、偶然の一致とは思えません。
 『第一エノク書』(69章10節)には「人間は墨と筆でその信仰を堅くするように生まれたのではない」とあって、堕天使たちのもたらしたものが、ほんらいは、神からの啓示によらなければ、人間の努力や知識では知りえないはずの知識であったことを示唆しています。したがって、堕天使たちのもたらした「知識」には、なにがしか「やましさ」がつきまとい、「うさんくさい」一面があることも示されています。彼らは「天上から地上に降りて秘密を人の子らにあかし、人の子らをまどわして罪を犯させた」(『第一エノク書』64章)とあるのは、このことです。堕天使たちが人間にもたらした「天の秘義」は、結果として、彼らにも人間にも裁きを招くことになります。
 このように見るならば、プロメーテウス神話と堕天使伝承との関連が、ごく自然に推定されると言えましょう〔グラッソン113頁〕。盗み出されて人間に与えられた知恵、あるいは密かに教えられた天界の秘義は、実は何か本質的に禍となる欠陥を内蔵していたのです。聖書においてもギリシア神話においても、罰として人間は「苦しい労働」を課せられます。さらに、禍のきっかけになったのが、女であるというのも共通したモチーフです。両者に共通するのは、天上の霊的な存在が、人間的な肉と交わるところに堕落が生じて、その結果、文明の利器が呪いの道具へ変わるという図式です。ただし、『第一エノク書』のほうでは、地上に降った天使たちが、天の霊性から悪霊へと変貌することになりますから(第一エノク15章7〜10節)、この点が、プロメーテウスの話とは異なっています。
■ティーターン族と堕天使伝承
 先に述べたように、ヘーシオドスによれば、かつて地上の楽園に暮らしていた「黄金の種族たち」は、「地上の善き精霊」となります。この「精霊たち」は、ダニエル書4章(14/20節)や『ヨベル書』4章15節にでてくる「見張りの天使(たち)」と共通するところがありますが、エノク伝承では、彼らは、やがて堕天使として落とされます。
 プラトンの『ノモス』によれば、「クロノスは王や支配者としてダイモーン(霊)たちを配置した」とあります。プラトンの言うクロノス(時間)のこの支配とユダヤ教にある見張りの天使たちによる人類の支配とは、なんらかのつながりがあるのでしょうか? ユダヤ教でもノアの家族からでた70の種族には、主はそれぞれに70人の天使たちを遣わしてそれぞれに言語を教えたとあります〔グラッソン119〜20頁〕。
 七十人訳のユディト書16章7節には「タイタンが彼を打ったのでも、巨人族が襲ったのでもなく、メラリの娘ユディトが、その容姿の美しさによって彼(ホロフェルネス)の力を奪った」とあります。ここではヘブライ語の「レファイーム」がギリシア語の「ティーターン」と訳されていますが、ここにも、ギリシアのティーターン神話が反映しています。さらに新約時代の『シビュラの託宣』では、聖なるキリストによる終末の裁きに際して、人間たちと同時に、「ティータンたち、ギガスたち」(『シビュラの託宣』2巻231〜32節)も神の裁きの前に座らされますから、これらギリシアの巨人たちも、堕天使たちと同様に天使ウリエルたちによって、裁きの座に連れてこられることになります。
 ユダヤ人は、前2世紀に悪霊と人間の娘の堕罪物語を形成しましたが、霊/悪霊(ダイモーン)が、神々と人間の女との結合から生まれたという思想は、これで見るとギリシア神話にもあり、これが、新しいユダヤ教の悪魔論の出現に関与したと見ることができましょう〔グラッソン101頁〕。悪霊たちがほんらいヤハウェによって征服された異教の神々であったことを考慮するなら、ゼウスに反逆したティーターンたちとサタンたちとが結びつくのも不思議ではないでしょう〔グラッソン108頁〕。唯一の神エロヒームと主なるヤハウェの周辺に漂う陰の部分には、征服され滅ぼされたこのような神々の亡霊がつきまとっていると言えなくもないようです。
■プロメーテウス神話とセム系の神話
 人間の知識は神的な啓示によるという伝承や神話は、オリエントに多く見られます。セム系の堕天使伝承は、冶金術と文明とに関わっています。冶金と文明に関わる伝承はギリシア神話と共通しますが、基本的な違いは、その傾向にあります。ギリシア神話においては、冶金とこれに基づく文明は、基本的に人間に恩恵をもたらすものです。ところがアザゼル伝承では、これらが地上に荒廃をもたらすのです。ただし、セム系神話に見られるこういう文明/文化の否定的な側面は、ヘーシオドスの『仕事と日』にも表われています。そこでは、創世記4章22節のトバル・カイン伝承と同じように、冶金の発達が文化の衰退を意味するのです。
 このようにアザゼル伝承は、プロメーテウス神話と重要な類似をなしています。アザゼルは天使でありながら、人間に冶金や鉱山や染料を除くあらゆる装飾や宝石の加工にも火を用いることを教えます。また、岩山に縛り付けられ、罰を受けるまで岩山の穴に閉じこめられます。プロメーテウスは人間に恩恵をもたらすのですが、アザゼル伝承では、アザゼルは神への反逆の角で、自分にも人間にも罰と裁きを招くのです。「このように、プロメーテウス神話についてのギリシア的な伝承は、アザゼル資料と密接な並行をなしており、『第一エノク書』と古いセム系の伝承とを結ぶ橋渡しを形成している」〔Nickelsburg(3) 193〕と見ることができます。アザゼル伝承を伝えたユダヤ人は、プロメーテウス神話を読んだのでしょうか? それとも口伝で知ったのでしょうか? また、女が災いの元となる点でも、パンドラ伝承とアザゼル伝承とは関係があるのでしょうか。
■エノク・サークルからの警告
 『第一エノク書』では、初めの段階での天使たちの罪は、一般に考えられているような天使たちの「反逆」ではありません。そうではなく、初期のエノク文書が伝えているのは、肉である人間の女に魅せられた天使たちの「欲望/肉欲」が、彼らの堕落の原因なのです。だから初期段階では、彼らは「堕落」した天使であって、「反逆」の天使ではありません。彼らの罪は、天の霊性に与る身でありながら地上において肉の子孫を残そうしたことにあるのです(『第一エノク書』15章4節)。天の霊は天にその住まいがあり、地上で生まれた地の霊は地上に住まうというのが、彼らの行為が「罪」とされる根拠です。この淫行の結果、彼らの子孫に巨人たちが生まれて、その者たちが暴虐と流血を引き起こすことになります。
 ただし、創世記6章1〜4節には、「神の子ら」が「人の娘たち」を妻にしたことが、堕落であるとは書かれていません。またネフィリム(巨人たち )は、「大昔の名高い英雄たちであった」とありますから、彼らが直接暴虐をもたらして、ノアの洪水を招いたとは書かれていません。暴虐はむしろ、人間たちの側の罪であり、このために人は洪水で滅びることになったと聖書は言うのです。ところがギリシアには、霊(ダイモーン)が、神々と人間の女との結合から生まれたという伝承がありますから、前2世紀に、ギリシアのこの伝承が、ユダヤの天使の堕落と結びついて、新しいユダヤ教の悪霊論を促したと考えられます〔グラッソン101頁〕。
 これらのことを考え合わせると、エノク・サークルの人たちは、彼らの同時代の状況をノアの洪水以前の時代と重ね合わせて観ることによって、自分たちの「今の時代」が裁きに向かっていることを警告しようとしていたのが分かります。エノク・サークルの人たちは、武器や装飾品の製法など、外国からの技術に警戒心を抱いていたことがうかがわれますが、それは、外来の技術や技能が、平和をもたらす代わりに流血を、道義をもたらす代わりに暴虐を招くことを彼らが見抜いたからだとも言えます。
 このように見ると、彼らにとっては、「神の裁き」が、従来とは異なる新しい意味を帯びて浮かび上がってきたことが分かります。先に述べたとおり、外国からの新しい知識や技能は、新しい太陽暦とともにイスラエルに革新をもたらすものでした。ところがこれらがもたらした技術革新の結果、より広い範囲で暴虐と流血がはびこり、神の裁きを招く結果になることを彼らは悟ったのです。このような「神の裁き」を洞察したのが「義人エノク」ですが、同時にまた、暦の秘義を伝えたのも「義の学者」である「知者エノク」なのです。知恵と知識をもたらす「賢者エノク」と裁きをもたらす「義人エノク」、わたしたちは、この相互に矛盾するとも思える二つの面を『第一エノク書』のエノク像に読み取ることができます。この両面を時期的に見るなら、初めに「知恵のエノク」像があり、それが「義人エノク」へと変容していったとひとまず考えることができましょう。「知恵/知識」の受容とこれがもたらす結果、ここに知恵と知識に対する価値観の変容を読み取ることができます。この変容過程は、神のみ使いとしての見張りの天使たちが、肉欲によって堕落天使へと変貌する過程と並行することになります。
 ユダヤ人は、ペルシャ時代の後期に(前450〜400年)、天文を初めとする新しい知識と技術を採り入れようとしました。「天文の書」は、そのような時代転換を指標する文書であったと言えましょう〔Alexander 240〕。しかし、この傾向が、やがてヘレニズム時代に入るに連れて、技術や武器の製造に対する否定的な見方へと転向したと考えられます。見張りの天使から堕落天使への変貌は、この過程とも並行しているのです。
 『第一エノク書』では、堕天使たちは人間に、医療や薬草の知識、呪術、剣や盾などの武具、金属製品、腕輪や飾りや宝石などの装飾品、占星術、天文の知識などを教えます(7〜8章)。その結果、人間は不敬虔に陥り、姦淫を行ない「道を誤る」のです。人間の犯すさまざまな罪は、「姦淫」(偶像礼拝を含む)と「けがれ」(近親相姦を含む)と「暴虐」(特に流血)の三つに要約されます。万物の主である神は、堕落天使たちが人間に「天上で行なわれる永遠の秘密を明かした」ために「全地は流血と暴虐に満ちあふれた」のを観るのです(第一エノク書9章)。
 天使たちが人間にもたらしたものをよく見ると、金属とこれを材質とした武器の製法であり、天文・占星術であり、医療、染料や装飾品などの技術的な知識です。すなわち、戦や贅沢品や天体の秘義を探ろうとする知恵/知識であることが分かります。人間は、火を元とする文化・文明という動物には与えられていない技術を手に入れてしまったのです。人間が天上の知恵、すなわち神の知恵を手に入れたがために、そのことが神への反逆あるいは不敬虔への動機となり、暴虐がはびこるというこの思想には、人間の知恵が神の知恵を「見誤る」こと、その結果、神からの真の啓示によらない「盗まれた」偽りの「啓示」あるいは「知識」がもたらされ、それが祝福の代わりに呪いを招く、という考え方が潜んでいます。
 ある人たちはこう言うかもしれません。ことさらに神を持ち出さなくても、自己努力で自然をコントロールして、これをうまく支配していくことができると。このような考え方は、人間が理性の力で自然を支配しコントロールできるというこの自信過剰な自己欺瞞ががもたらす「誤り」(「罪」の語源)です。少なくとも、現在到達した段階での人間の知性や理性では、とうてい及ぶことのできない人間の理性を超えた力が、この宇宙には働いていることを知らなければならないでしょう。『第一エノク書』はこのことをわたしたちに告げているのです。人間ははたしてこれを正しくコントロールできるでしょうか? それができなければ、暴虐と流血がわたしたちを待ちかまえているのです。魔術的な誤った自己義認に基づく自然観が、やがてわたしたちを破滅へ導く、という運命に怯えているのです。
 人間は、人間以外の動物の世界に所属することもできず、また、神あるいは神々の世界に所属することもできないのです。言わば人間は、動植物界と天界との狭間に潜む孤立した存在として自己を認識するのです。このことは同時に、人間が、動植物の自然界に対して責任を負い、しかもその責任を神から問われていることを意味します。しかも人間の内には、原初の動物界から受け継いだ暴虐と流血の暗い衝動と、自己目的のために自然を利用し略奪することで自然に荒廃をもたらす欲望を抱えています。もしもこのような衝動と欲望に身を委ねるなら、遠からずしてわたしたちは、ノアの洪水と同じような自然と人類の破滅に陥ることになりましょう。『第一エノク書』がわたしたち人類に警告しているのはこのことです。
 このような悲惨から逃れるために、自然と宇宙が、神のどのような導きによって動いているのか? これを、魔術的な自己目的ではなく、謙虚になって、あるがままに正しく見極めることがわたしたちに要請されています。そこから人間に与えられている人間特有の正しい有り様、すなわち人間に具わる霊性を通して、神が啓示する正しい価値観へと導き入れられることが求められています。ギリシア人たちが「宇宙の秩序」と呼び、ヘブライの人たちが宇宙に働く「神の律法」と呼んだ「神の道」、これを人格的な霊性によって正しく洞察することが「神の霊に与る人間」として求められているのです。
 人が高慢と反逆の心に支配されている限り、このような霊的な価値観に到達することはできないでしょう。このような価値観にいたるためには、人間だけが認知することのできる「神からの啓示」によって、神と動植物との間に人間を媒介とする対話が行なわれる、というところまで行き着く必要があるからです。人間の主観と切り離されて、その結果、客観化された自然観と宇宙論からは、このような啓示も霊的な交流も生まれないでしょう。人間は自然と共存するだけではなく、自然と一つの命を霊的に共生する存在であり、同時に、神に敵対する存在ではなく、神との交わりの霊性に生きるために創られた存在だからです。
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