10章 堕天使伝承と新約聖書
■堕天使伝承とサタン
 ここで、主としてペイゲルスの『悪魔の起源』松田和也訳(青土社)"Elaine Pagels. The Origin of Satan. Random House (1995)."を参照しながら、堕天使伝承と新約聖書との関係を観ていくことにします。
 伝統的なヘブライの思考法は、神の民を「われら」とし、これに敵対する異邦の諸国民を「かれら」とする二分法でした〔ペイゲルス『悪魔の起源』70頁〕。イスラエルのこの二分法は、その範囲がさらに広く、人の住む陸地と、その外側に広がる海という二分法にまで及んでいます。イスラエルの住む陸地の外には、海が広がっていて、そこには、混沌の悪の力を象徴する怪物レビヤタンが宿っていました(イザヤ書27章1節)。このような「混沌の海」は、その起源をたどると、はるか昔のメソポタミアの神話に行き着きます。このレビヤタンは、人間の力を超える存在ですが(ヨブ記40章25節)、レビヤタンのような外から来る悪/敵が、イスラエル内部に入り込んで来て「イスラエルの敵」となる時に、「サタン」が登場します〔ペイゲルス前掲書75頁〕。「サタン」は、イスラエルの内部に分裂と敵対関係をもたらすものです。
 すでに見てきたように、このサタンの起源は遠い昔の「神の子たち」の堕落にさかのぼります。歴史的に見れば、イスラエル同士の争いをサタンに帰するこの思考方法は、歴代誌上21章1節の「ダビデの人口調査」に始まると考えられます。歴代誌(上下)が編纂された時期は、450年〜350年と考えられますから〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)670頁〕、早ければペルシア帝国の支配の時期で、エルサレムの城壁が再構築されていた頃のこと、遅ければペルシア時代の末期、アレクサンドロス大王によるペルシア征服の少し前になります。
 時代が降って、ユダヤがギリシア系のセレウコス朝に支配されていた時代に、アンティオコス4世からの弾圧に耐えかねて、これと闘ったユダ・マカバイオスは、イスラエルの外からの敵だけでなく、セレウコス朝と内通するイスラエル「内部の敵」(サタン)とも闘うことになります。マカバイの勝利によってユダヤにハスモン王朝が成立しますが、成立したこのハスモン朝に対抗して、今度はファリサイ派やエッセネ派が興ります。イスラエル内部に働く「サタン」は、この段階でますます強くなったとも言えましょう。
 この段階でのサタンは、ユダヤ教の内部に潜む敵ですから、遠い敵ではなく、最も近いところに宿る敵になります。中でも、霊的に最もラディカルな宗団と言えるクムラン宗団と、これを核に広がるエッセネ派では、イスラエルの内なるサタンは、堕天使伝承の流れを汲む次のような特徴を帯びていました。(1)ギリシア的な支配権力とこれを支える悪霊の働きを揶揄(やゆ)すること。(2)エルサレムの神殿祭司制を批判すること。(3)人間の歴史を超えた黙示的な視点から、世界の歴史の展望を眺めること。この三つです〔ペイゲルス前掲書90〜91頁〕。
 堕天使伝承は、このように、ユダヤ人と異民族という伝統的な二分法に変化をもたらすことになります。『第一エノク書』の中でも最も新しい文書で、イエスの時代とほぼ同じ頃の「たとえの書」(前40〜後20年頃か)では、ユダヤ人と異邦人の全体が、神の天使の側とサタンの側とに分けられています。この新たな二分法は、キリスト教が、最終的に民族的アイデンティティを捨て去り、個人の倫理に基づく普遍的な共同体へ向かう重要な背景になりました。黙示文学は、ほんらい律法には関心が無く、異民族に対して異常なほど開放的であり、その上で、イスラエルの民に対して否定的な傾向があったのでしょうか。
 こうして、エッセネ派とその中心となるクムラン宗団において、共同体の「内部の敵」を悪魔化する事態が生じることになりました。エッセネ派は、天使と悪魔との抗争をイスラエルの内部に見出すことによって、ユダヤの多数派を呪われた存在と見なしたのです。「光の子」と「闇の子」、すなわち、神の側にある天使と人間、これに対する悪霊ベリアルとサタンの側の人間、という対立の構図がこのようにして生まれました。これがキリスト教へ受け継がれて、反セム(ユダヤ)主義の遠因になったというのがペイゲルスの見解です〔ペイゲルス前掲書67頁〕。
■福音書のサタン(悪魔)
 マルコ福音書では、聖霊はイエスの洗礼に際して降りますが、マタイ福音書では、イエスの母が聖霊によって身ごもります。マタイ福音書は、かつてのエジプトのファラオと、ユダヤのヘロデ王とを同一視していますから、ユダヤのベツレヘムでの初子の虐殺とイエスの家族のエジプト<への>逃避を、かつてのエジプトでのファラオによるイスラエルの民の虐殺と、これによるイスラエルの民のエジプト<からの>脱出とを対応させることになります。エジプトへ逃れるメシアは、出エジプトのイスラエルとモーセという伝統的な関係を逆転させることになりました〔ペイゲルス前掲書131〜32頁〕。マタイ福音書はまた、ファリサイ派をサタンと同一視する傾向があります。
 マルコ福音書が描くイエスの敵は、神のメシアを拒否したエルサレムの最高法院であり、マルコの関心はユダヤ共同体内部での抗争にあります。しかもマルコはイエスを取り巻くその抗争を宇宙規模での善と悪との闘争に関連させて描くのです(マルコ13章)。悪の諸勢力は、見えない悪霊となって人間に憑依したり、実在する人間の姿を採る敵となります。このため、イエスも悪霊の頭ベルゼブルだと見なされることになります。「内輪もめする国は立ちゆかない」(3章6節)とあるこの事態に対処するために、十二使徒が任命されますが、それでもイエスは、ファリサイ派、律法学者、故郷の人、家族や身内までも敵に回すことになり、少数の弟子を連れて民衆を相手に巡り歩くのです。このようにマルコ福音書では、エッセネ派と同じ様に、ユダヤ人の内部抗争が、イエスの宣教によってもたらされる対立の構図へ転じて描かれるのです。ルカ福音書は、この対立の構図をさらに異民族への布教へと拡大するというのが、ペイゲルズの見解です。
 ヨハネ福音書はセクト的な宗団ですが、この宗団は、ユダヤ共同体から疎外されたために、自分たちを疎外した敵をサタンと同一視しました。ヨハネ福音書は、天地創造における光と闇の分離から始まります。この福音書の世界は、本質的に黙示的でありながら、しかもそれが黙示的な表象で語られることがなく、人間世界の出来事として描かれています。イエスは、人間に潜む悪魔の正体を暴きますが、その結果、神の子イエスに敵対する「ユダヤ人」は悪魔の子として裁かれることになります。
 紀元後100年頃に、キリスト教は東地中海一帯に広がりますが、この頃から、ユダヤ滅亡の後を受けて、ユダヤ人キリスト教徒に代わって異邦人キリスト教徒が優勢になってきます。ただし、キリスト教がユダヤ教から分離する過程は、地域によって一様ではなく、その分離形態も単純ではありませんでした。かつてのユダヤ教がそうであったように、キリスト教もその多様性においてユダヤ教を凌いでいたからです。そこには、おおざっぱに見ただけでも、ヤコブ系のエルサレム宗団の流れを汲む教会があり、ペトロ系のアンティオキアの教会を中心にした地域があり、アジアでのパウロ系の異邦人世界の諸教会があり、同じくヨハネ共同体あり、ギリシアには、コリントを中心とするパウロ系の教会があり、そのほかに、アレクサンドリアの諸教会があり、ローマを中心に広がる異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒との諸教会がありました。
■ヨハネ福音書の受肉と堕天使
 一般的に、ヨハネ福音書は神学的/霊的であり、共観福音書のほうは歴史的だと言われますが、これは必ずしも正しい見方ではありません。共観福音書もまた、それぞれに神学的だからです。ただし、ヨハネ福音書の霊的な視野は、「歴史を貫通する」こと、言い換えると「歴史的諸段階の境界を通り抜ける」"trans-historical" 特徴を具えていると言えます〔Sanders, The Historical Figure of Jesus. 71-73.〕。
 『第一エノク書』で見たように、天界の天使たちが、地上で肉の人間と交わることで、霊と肉とが混じり合った結果、神の知恵が人間にもたらされ、人間が神の知恵である「永遠の秘密」を知ることになります。しかし天使の堕罪よって、彼らの霊性が悪霊に変貌し、地上に罪と暴虐による流血がもたらされるのです。
 天使の堕罪と地上の人間の暴虐行為との関係は、神の霊を宿す神の御子の受肉によって人間が「神の子となる」という関係から見れば、ちょうど逆になります。一方は、天使たちの堕罪によって罪と暴虐が地上にもたらされ、他方では、神の御子が受肉することによって、人間に救いがもたらされるからです。
 『第一エノク書』15章では、「なぜお前たち(堕天使たち)は、永遠の聖所である高き天を棄てて、女たちと寝て、人間の娘たちによって自分たちを汚したのか? 地上の人間の子たちのするように、自分の妻を娶り、自分の子孫である巨人ども(ネフィリーム)を生んだのか?」(同3節)と非難されます。「天の諸霊の住まいは天にあるのに、今やお前たちが生んだ巨人どもが、地上の悪霊どもと呼ばれて、地上に住む」(同7〜8節)ようになったからです。
 このように、天上のものと地上のもの、霊的なものと肉的なものとの結合が、天の霊性を貶める堕罪であり、これが地上に罪をもたらすことになります。だとすれば、ヨハネ福音書にあるように「天から降ったみ言は、自分を受け容れた者に神の子となる資格を与えた」(同1章12節)とあることと、この両者はどのように関連し合い対応するのでしょうか? ヘレニズム・ユダヤ教から新約聖書のキリスト教へのこの大逆転は、いったい何を物語るのでしょうか? ヨハネ福音書1章12節に続く13節では、主語を単数に読んで、「彼(み言)は、血筋によってではなく、肉の欲(性欲)によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれた」とあって、読みようによっては、これはイエス・キリストの処女降誕を指していることになります〔新約原典テキスト批評197頁〕。現在では、前節のつながりから主語を複数に読むのが一般ですが、この13節には、マタイ福音書とルカ福音書の処女降誕伝承のもととなった思想が含まれているのではないか?とわたしは想定しています。このように見ると、堕天使伝承と処女降誕伝承とは、旧約から新約への転換を理解する上で、重要な意義を秘めていると考えられます。
■黙示思想の人間化
 イエスの宣教は、抑圧されたイスラエルの民に与えられる「アポカリュプシス」(黙示/啓示)を背後に有していて、それは、貧しい者たちに御国の到来を告げるものでした。キリストの福音がユダヤ教の黙示と異なるのは、「アイオーンの転換」、すなわち「新しい創造」が死ぬべき命(肉体とこの世)のただ中で<すでに>始まっていることです。キリストの御霊の注ぎによって万物が新しく創造されるのです。しかしその一方で、ヨハネ黙示録が書かれた1世紀末の前後には、ローマ帝国に姿を変えた「この世の権力」による重圧が、世界規模で破局をもたらす「黙示」として意識されるようになったのです。黙示思想には、このように「創造」と「破局」の二面性があります。
 ただし、世界の破局によって終末の再創造(イエス・キリストの再臨)がもたらされるのではなく、キリストの再臨が終末をもたらし、邪悪を終わらせるのです。黙示思想の二面性は、このように、キリストと反キリストとの闘いの様相を呈します。新しい時代(アイオーン)と古い時代とが重なり合いながら、闘いは終末まで継続します。だから、終末へ向かう「この時代」は、これと重なり合うように働く神の創造、無から有を呼び出す神の創造の働きに裏打ちされています。世界の終わりには、新しい始まりが秘められているのです(ヨハネ黙示録21章6節)。
 荒れ野でのイエスへの誘惑の場面に見るように、共観福音書の世界では、サタンは人間世界とは別個の霊的な存在として顕われます。共観福音書では、程度の差こそあれ、黙示的な宇宙は人間世界と連動してはいるものの、人間を超越した別の世界として描かれ、しかも人間世界と呼応し連動するのです(マルコ13章とその並行箇所)。黙示思想に表われる宇宙的な霊界は、人間世界と関わりながらも、そこから区別された独自の世界を形成しているように見えます。
 こういう二面性は、ヨハネ福音書でその様相を一変させます。ここでは、創世記の光と闇との分離に始まり、光と闇とのこの相克が福音書全体を包んでいます(ヨハネ1章5節)。この意味でヨハネ福音書は、共観福音書よりもはるかに徹底した黙示世界を提示していると言えます。ところが、ヨハネ福音書では、共観福音書のように、サタン(悪魔)がそのままの姿で顕われることがないのです。サタンはユダとなり、大祭司カイアファとなり、「ユダヤ人」となり、時にはイエスを信じた者たちの中にさえ存在します。ヨハネ福音書では、黙示の世界が徹底的に人間化されるのです。
 この福音書が描く物語全体は、光と闇の二元的な闘争と、その闘争を通じて永遠のロゴスが闇に勝利するという黙示的な図式で構築されています。それでいてその世界が、人間化されるという不思議な性格を帯びています。そこでは、イエスは人間でありながら同時に神的な存在であり、これに対応する大祭司やユダヤ人も、人間でありながら悪魔なのです。黙示世界のこのような「人間化」、逆に言えば、人間世界の黙示的霊界化の下にあっては、人間は自分の意志や努力によって、自己の運命を切り拓くことができません。自分を超えた力に支配され、導かれているからです。これがヨハネ福音書の特徴です。
 このように見ると、ヨハネ福音書は、全体が黙示的な世界観によって成り立っていながら、しかもその世界観を非黙示的に表現するという、不思議な手法で書かれているのが分かります。黙示世界の人間化というヨハネ福音書のこのような特徴は、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙にも見ることができますから、この傾向はすでにパウロに現われているのでしょう。パウロ書簡では、サタンや天使がそのままの姿で人間に働きかける場合がほとんど見られません。こういう黙示世界の<非黙示的なとらえ方>こそ、ヨハネ福音書が、後の教会に向けて、三位一体を初めとする神学的な土台を提供することになった理由の一つだと考えられます。
■パウロ書簡と黙示思想
 四福音書に表われた黙示思想は、これに先立つパウロ書簡の黙示思想とも一致します。パウロの最初期の書簡である第一テサロニケ4章15〜17節では、大天使の声と最後のラッパの合図と共に、主御自身が天から再臨し、先ず「眠りについた人たち」が復活します。続いて「まだ生きているパウロと信徒たち」が、空中で主と出会い、雲に包まれて昇天します。これとマタイ24章29〜31節とを比べると、マタイ福音書でも、人の子の再臨に際して、合図のラッパと共に天使たちが遣わされて「選ばれた者たち」を集めます。それから人の子が、大いなる栄光と共に雲に乗って顕われます。だから、「人の子=主」と見るなら、マタイ福音書とパウロとは一致しています(さらにマタイ16章27〜28節を参照)〔Sanders.The Historical Figure of Jesus. 181.〕。
 このようにパウロ書簡にも、共観福音書と同じ黙示思想を見ることができますが、パウロの場合は、サタン/悪魔が人間の姿を採っているのに対して、共観福音書では、サタン/悪魔が超人間的な悪霊として人間に働きかけるのです。もっとも、第二コリント6章14〜16節では、「キリスト」と「ベリアル」(ここでのベリアルはサタン/悪魔と同じ)の世界が、光と闇との対立関係に置かれていて、人間はその狭間に立たされています。ただし、第二コリントのこの部分は、その前後と内容が一致しないだけでなく、これがクムラン宗団的な特徴を持つために、パウロ以外の人による挿入ではないか?と疑われています〔岩波訳『パウロ書簡』138〜40頁〕。これに反論して、たとえ挿入的な性格であっても、それだけでパウロ自身によるものでは<ない>と見なすことはできず、むしろ、パウロ自身が、イエス時代のパレスチナ的黙示思想を保持していることをこの挿入は示唆していると見ることもできます〔Murphy-O'Connor.Paul.255.〕〔Thrall. IICorinthians.Vol.(1).31-35.〕〔Harris. The Second Epistle to the Corinthians. NIGTC. 24-25./497.〕。
 第二コリント11章1〜15節で、パウロは、彼の福音に反する教えを宣べ伝える者たちを「偽使徒」と読んで、彼らをほとんどサタン同様に見なして厳しく攻撃しています。「偽使徒」の正体が何かは議論の的ですが、おそらくパウロの伝える十字架の福音と御霊にある律法からの自由に対抗しようとする律法主義的なユダヤ人キリスト教徒のことでしょう〔Thrall. IICorinthians.Vol.(1).474-75.〕〔Harris. The Second Epistle to the Corinthians. NIGTC. 744-47.〕。これにフィロンの流れを汲むアポロ的な信仰者が同調したのかもしれません〔Murphy-O'Connor.Paul.302-303.〕。パウロ書簡では、これら偽使徒たちを動かしているのは堕天使たちで、パウロは彼らを楽園でエヴァを誘惑した蛇にたとえています(第二コリント11章3節/同13〜15節)。ここでは、楽園でエヴァを誘惑した蛇は堕天使と結びついていますが、ルカ福音書では、蛇はサタンと結びついています(ルカ10章17〜20節)。サタンと蛇とのこの同一視は、ヨハネ黙示録において完成することになります(ヨハネ黙示録12章7〜9節)〔フォーサイス『古代悪魔学』409〜21頁〕。
 後述するように、パウロ系のエフェソ6章11〜13節でも、人間の力を超えた悪霊の支配がでています。サタン/悪魔が人間の姿を採るのは、ヨハネ福音書でも同じですから、福音書とパウロ書簡とを併せるなら、黙示的なサタン/悪霊と、人間としてのサタン/悪霊と、両方が表われていると見るほうが適切です。
■ユダヤ的対立の相対性
 ヘブライの伝統では、肯定と否定という正反対の方向から事柄を観る「並行法」という独特の思考様式を採ります。並行法は、ギリシア・ラテンの西方の思考様式とは異なっています。なぜなら、並行法は、ある種の修辞法であり、それは、論理よりも比喩的な類比によって支えられているからです。だから霊的な事柄を対立する両面から見る場合に、その違いは<論理的対立>としてではなく、<比較対照による差異>として表わされます。この場合、対立/対決は、論理的な対決ではなく、相対的な観点の違い/差異から生じています。
 この思考方法は、比較的小さな相対的な違いでも、これを拡大して過大に見せる効果を伴います。このために、対立点が拡大して鋭くえぐり出されるのです。イエスは、この方法を用いて、富と神、義人と罪人、律法と赦し、指導者と庶民の差異/違いを、譬えを通じて鋭く比較対照させ、こうすることで、人々に霊的な真理を会得させるのです。
 相対的な差異をこのような方法で指摘し論じるやり方は、対立点をいっそう先鋭化させる傾向を帯びますから、たとえ相対的な意見の違いでも、相手を敵視する傾向に走ることになります。問題の相対性とこれを論じる際の鋭い対立関係、この二つの立論の仕方を見損なうと、わたしたちはイエスやパウロの時代のユダヤの思考法を見誤ることになります。互いに近い関係にありながら、両者の間にあたかも絶対的な違いがあるかのように敵対し論じ合うこと、これが黙示思想に受け継がれた特徴だと言えましょう。自分とは少しでも違う視点から見る者は、「不信者」であり「偽善者」であり「サタン」であり、悪霊として敵視するのが黙示思想の特徴なのです。だから、パウロに限らず当時のユダヤ人は、一見相矛盾することをもあえて並列させて語り、しかも自分と異なる見方を厳しく糾弾するのです。ちなみに書簡のある部分が、他の部分と論理的に相容れないから、それはパウロに由来するものでは<ありえない>という論理は、このようなパウロのヘブライ的な思考様式を見落とすところに生じると思われます。
■エフェソ6章の堕天使
 
最後に言う。主にあって、
  彼の全能の力に強められなさい。
神の武具を身にまといなさい
あなたたちがしっかりと立ち
悪魔のもろもろの策略に対抗できるために。
わたしたちには、血肉との格闘などでなく
諸支配と諸権威、
暗闇の世界の諸力、
諸天にいる悪の諸霊との
戦いがあるのだから。
     (エフェソ6章10〜12節)
 エフェソ人への手紙のこの部分は、神の天使たちの位階さえまだ十分発達していなかった1世紀に、悪魔の天使団の組織を示唆している点で注目に値します。作者は、エクレシアに属するクリスチャンたちの戦いが、人間の力を超えるもろもろの霊力との戦いであることを示し、われわれも自力に頼ることをせず、人間を超えた「神からの武具」を身にまとうように警告しています。だから、ここで語られている闘いは、個人の自己分析や自己反省によって解決できるものではなく、また、エクレシア全体としての人間の組織力による闘いでさえありません。
 作者は、エクレシア全体であれ個人であれ、闘うべき相手が霊力であって、「諸支配(the principalities)と諸権威(the powers)/暗闇の世界の諸力(the world rulers of this present darkness )/諸天にいる悪の諸霊(the spiritual hosts of wickedness in the heavenly places)」であると述べています。言うまでもなく、これらは、すでに見てきた通り、神の天使たちに対立/対応する悪の諸霊力のことです。
 初めの二つ、「諸支配」(the principalities)と「諸権威」(the powers)は、すでにエフェソ1章21節と3章10節にもでていて、それらの霊力は、復活したキリストの支配の下に置かれており(1章21節)、「わたしたちの主キリスト・イエスにある神の知恵」によって制御可能です(3章10節)。これらの堕天使どもは、後の中世における神の天使の位階に照らしてみても、それほど高位の霊力とは思われません。作者はおそらく、これらの堕天使たちによって、人間世界と天との中間に介在する悪の諸霊力「かの空中に勢力を持つ者」(2章2節)を指しているのでしょう。
 問題はこれに続く「暗闇の世界の諸力」と「諸天にいる悪の諸霊」です。これら後半の二つを前半の二つの説明だと考えることはできません。彼らは惑星にかかわる天文/占星に登場する堕天使どもを指すからです〔Best, Ephesians. 593.〕。これらの堕天使は、エフェソ人への手紙の作者のはるか以前から知られ伝えられていて、この書簡の読者/聴衆にも知られていたのでしょう。彼らは、地上にあって目に見える支配者たちや権威・権力者のことを直接に指しているのではありません。「直接に」と言うのは、人間世界の支配者たちは、彼ら堕天使どもに操られてその悪しき策略に与し、神に逆らう場合が少なくないからです。
 「暗闇の世界の諸力」(コスモクラトールたち)は、ここだけに表われる用語です。もともとは天体が運行する「圏」"sphere"を司る力を指すギリシア語で、それらが人間の運命を左右すると信じられていました。エフェソ人への手紙では、この用語が表わす霊力が、時代・時期的な支配のことなのか、それとも空間的な領域に属するのかが論じられていますが、『第一エノク書』の堕天使伝承から見れば答えは明らかです。彼らは神の裁きを「すでに予告」されていますから、時代(アイオーン)の最終的な審判を待つ者たちです。現存する「闇の世」" this world"が、堕天使ども悪霊の跋扈(ばっこ)する世界を指し、彼らの頂点に立つのが「サタン」すなわち6章11節の「ディアボロス」(悪魔)です。堕天使伝承に照らすなら、サタンのこの支配権は比較的新しく(前2世紀の頃から)、彼の威力と互角に戦えるのは大天使ミカエルくらいですから(ユダ9節/ヨハネ黙示録12章7節)、その威力は後の中世の天使の位階に照らして見れば、第三位の「座天使」級でしょう。
 「闇の天使たち」はクムラン文書では「ベリアルの軍勢」として登場しますが、クムラン文書では、堕天使どもの力は彼らに支配されている人間と結びついて、「闇の子ら」として表われされます〔『戦いの書』1章1節〕。彼らは神に選ばれた「光の子ら」と戦いますが、クムランで言う「光の子ら」は、イスラエルの会衆の中から特に神に選ばれて「契約に忠実な」者たちに限定されます。したがって、「光の子ら」は、それ以外のイスラエルの民からも、異教世界の「闇の子」からも厳しく区別されています。この点で、新約聖書の「光の子/闇の子」、特にヨハネ福音書に表われる「光」と「闇」とはかなり内容が違ってきます。
 単数の「コスモクラトール」(世の支配者)は、七十人訳にもでてきません。これに対して単数の「パントクラトール」(全能者)は、ヘブライ語の「シャダイ」(全能/力)と「ツィーヴォート」(軍勢:特に天使の軍勢)の訳語として七十人訳にも新約聖書にもしばしばでてきます〔TDNT(3)914.〕。例をあげると、ヨブ記5章17節の「全能者」、アモス3章13節〔七十人訳14節〕の「主なるヤハウェ、万軍(パントクラトール)の神」などです。アモス書のこの箇所のように~名の全部を網羅した名称は外に例がありません。パウロはここを「全能(パントクラトール)の主」(第二コリント6章18節)として引用しています。なおヨハネ黙示録1章8節には「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、<全能者>がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」や同4章8節「<全能者>である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」などがあります。ちなみに、この「パントクラトールなるキリスト」は、東方正教会では特に重要で、ギリシア正教の聖堂や修道院の礼拝堂を覆うドーム型の天井の頂点には、パントクラトールとしてのキリスト像が描かれています。
 パウロとパウロ系の書簡では、先にもあげた第二コリント6章18節の「パントクラトール」が注目に値します。ここでパウロは、「キリストとベリアル」を「光と闇」との対照関係においています。「全能の主」とはキリストを指していますから、これに敵対する「闇の主」として、パウロはサタンと並ぶベリアルを念頭に置いているのでしょう。アモス書では「パントクラトール」が天使の軍団を意味しますが、パウロが「パントクラトール(全能者)である主」と言う時に、はたして天使の万軍を率いるキリストを意味しているのかどうか確かではありません。しかし、イエス自身が天使の軍団を率いることができると明言していますから(マタイ26章53節)、おそらくパウロも、このキリストに対抗してコリントのクリスチャンたちを「汚そうとする」ベリアル(=サタン)配下の諸霊力のことを指すのでしょう。パウロは、彼らの悪の手管を避けて、全能のキリストの名によって身を聖く保つように教えているのです。 
 最後に出てくるのは「諸天にいる悪の諸霊」です。ここで言う「諸霊」とは堕天使の働きですが、問題は「諸天」にあります。天上にも悪霊が働くのか?という疑問が初代の教父たちを悩ませたようで、このためか「諸天にいる」を省いた異読もあります。これを「諸天の<下にいる>」と読もうとした教父たちもいますが、これは無理です〔Best, Ephesians. 594.〕。欽定訳もこの辺を配慮してか"in high places" となっていて、横に "Or, heuenly" と異読があげてあります。現代の英訳は"in the heavenly places"〔RSV〕〔NRSV〕と欽定訳の異読のほうを採っています。
 サタン/アサエルの率いる堕天使たちが<もともとは>天にいたという伝承はすでに『第一エノク書』にでていて、「天の諸霊たち、彼らの住まいは天にある。だが今や、これらの諸霊と肉(人間の女性)との間に生まれた巨人たち(ネフィリーム)は、地上の悪霊と呼ばれる。彼ら(巨人たち)の住まいは地上にあるのだから」(『第一エノク書』15章7〜8節)とあります。これで見ると、堕天使である悪霊どもは人間の女性と交わって巨人を産み、そこから出た悪霊どもが地上で働くことになりますが、堕天使たち自身は一体どこに住んでいるのかがはっきりしません。それだけにエフェソ6章12節がいっそう注目されることになります。
 ところが、『イザヤの殉教と昇天』(紀元1世紀末頃?)では、イザヤが栄光の天使に導かれて「わたし(イザヤ)と彼(天使)は大空に昇ったが、そこにわたしはサマエルと彼の軍勢を見た。また、そこでは大がかりな殺し合いが行なわれていて、サタンの天使たちはたがいにそねみ合っていた。地上も上界と同じである。大空で行なわれていることと似たようなことは、ここ地上でも行なわれる」(村岡崇光訳「預言者イザヤの殉教と昇天」7章9〜11節)とあります〔『聖書外典偽典別巻』補遺U191頁〕。この文書の後半(6〜11章)はキリスト教起源ですから、これから判断すると、「諸天にいる悪霊ども」という見方は、ユダヤ教の黙示思想を受け継いだキリスト教の黙示思想において現われたのかもしれません。ただし、以後のキリスト教では、「上位の諸天」と「下位の諸天」との区別がなされるようになりました〔Best, Ephesians. 595.〕。
■2世紀以後の堕天使伝承
 キリスト教がユダヤ共同体の内部に留まっている間は、キリスト教徒は、他のユダヤ人を潜在的な敵と見なし、異邦人を潜在的な改宗者と見なしていました。パウロのローマ人への手紙では、ローマ帝国は必ずしもサタンの支配下にあるとは見ていません。この意味で、パウロの信仰は「脱黙示思想」の方向を指していると言えましょう。しかし、ネロ皇帝の迫害でパウロが殉教すると、その弟子の一人は、キリスト教が直面する危機を認識して、キリスト教徒の相手は血肉(人間)ではないと警告したようです。エフェソ人への手紙の作者も、この霊的な闘いの意味を悟ったのです。さらにヨハネ黙示録の作者は、ローマの総督たちによってキリスト教が迫害されることを知って、ローマの権力を「悪魔・サタン」の怪物・獣として描くことになります〔ペイゲルス前掲書180〜81頁〕。
 異教の神々を信じる者はサタンに唆されている。こう信じるようになったキリスト教徒は、自分の家族や同じ町の住民や支配者から憎悪されるようになります。キリスト教徒は、彼らがかつてユダヤ人から怒りをかったと同じ理由で、今度は異教徒から、さらに大きな怒りをかうことを徐々に悟り始めます。キリスト教が、異教の国家や民族やその伝統との紐帯を断ち切るように教えたからです。異教徒にとって、敬神とは、古代からの慣習を守り、伝統的な道徳に敬意を払うことだったのですが、キリスト教は、まさにその紐帯を断ち切ることを奨励したのです。
 では、なにゆえにキリスト教は、このような迫害の中で多数の信仰者を獲得することができたのでしょうか? その理由の一端をユスティノスの場合に見ることができます。彼は、キリスト教徒が闘技場で野獣に引き裂かれる時でさえ冷静な勇気を見せているのを目撃したのです。彼はその姿に、プラトンや最高の哲学者たちの境地と同じ高さを見出したのです。彼はそこに、自然を超越する何か奇跡的なもの、宇宙規模の闘争において、サタンと闘う神の戦士を見たのです。これこそ、キリスト教がユダヤ黙示思想から受け継いだ力にほかなりません。
 ストアの哲学者たちは、自然科学を学ぶことで、人生に起こるいっさいの出来事を超越する悟りに到達することができると教えました。ところが、そのような神的な理性をまさにキリスト教徒が実践していたのです。ユスティノスは、キリスト教の老人から、人間がどのように努力しても、神を知る知識にいたることは不可能であると教えられました。ユスティノスは、キリスト教徒にそのような力を与えているのが、聖霊であることを知ったのです〔ペイゲルス前掲書184〜186頁〕。
 こうしてユスティノスは、神とキリストの聖霊によって生まれ変わったのです。彼は、それまで彼が神々だと信じていたものが、実は悪霊にほかならなかったことを知ったのです。その上、全宇宙が、キリストとサタンとの<戦場>だと悟ったのです。神々を体現すると称するローマ皇帝さえも、これら悪霊に支配される道具にすぎないことを彼はキリスト教から学んだのです。
 ストアの哲学では、敬神とは、自然の因果とその運命を平然と受け容れることでした。しかし、キリスト教は、現在の自然とは全く異なる新たな世界を待ち望むことに命をかけるのです。だからキリスト教にとって、「生まれ変わる」とは、自然を乗り越えることにほかなりません。キリスト教徒は、サタンとの全宇宙的な闘いに身を投じることになり、今や人間のすべての倫理が、この一事へと方向付けられることになります。イエスはサタンとその手下の悪霊たちと闘いました。聖霊を受けた者は、このイエスと同じ闘いを継続するのです〔ペイゲルス前掲書193〜95頁〕。
 タティアノスは、ユダヤ黙示思想の堕天使伝承に基づいて、人間世界の不公平を創り出しているのは、神ではなく、サタンの軍団であり、堕天使どもの子孫であると見ています。惑星や諸霊を信仰する代わりに、唯一の主を知ることを教えるタティアノスのこの信仰は、以後の西欧世界をして、ギリシア文明に対する見方を一変させることになります〔ペイゲルス前掲書210〜11頁〕。
 以上で分かるように、2〜3世紀の教父たちがエノク伝承に触れる時に、彼らは、エノク伝承のほんらいの姿を「悪の起源」の伝承として正しくとらえています。エイレナイオスも、テルトゥリアヌスも、アレクサンドリアのクレメンスも、エノク伝承をよく知っていました〔Nickelsburg, 1 Enoch. Hermeneia. 101〕。
 オリゲネスは、キリスト教徒として、人民が暴君を暗殺する倫理的な権利を有すると公言した最初の人です。彼の父レオニデスは、セプティミウス・セウェルス帝の迫害で殉教しました。しかしオリゲネスは、ある裕福なキリスト教徒によって保護されました。カラカラ帝は、キリスト教徒を寛大にも放置し、アレクサンデル・セウェルスが帝位に就くと、彼はキリスト教徒に好意を持つようになります。続くマクシミヌスは、キリスト教を迫害しますが、続くゴルディアヌス3世は、キリスト教に無関心でした。続くフィリップス・アラブスは歴史上最初のキリスト教の皇帝になります。しかし、次のデキウス帝の時代に帝国全土でキリスト教への迫害が行なわれました。
 この時期にオリゲネスもとらえられ拷問を受けましたが、釈放され、間もなく天に召されます。オリゲネスは、帝国が悪魔の支配下にあるとは言いませんが、ローマに平和が保たれているのは、ひとえに神の恩寵であると讃えています。彼は、暴君が国民の自由を奪う場合には、彼を暗殺する秘密結社に入ることは善だと考えたのです〔ペイゲルス前掲書218頁〕。
 タティアノスたちキリスト教神学が到達して霊性は、ヘレニズムの宗教・哲学を超えるものですが、それは黙示世界を基調として異教世界を否定するものでした。現代日本のキリスト教的な霊性もまた、仏教の伝統的な因果応報の世界観とこれに基づく空思想を超える「聖霊の創造的な働き」を知っています。しかし、かつての初代教父たちが異教世界を敵と見なした視野とは対照的に、仏教の宇宙観が「悪霊的」だとは考えないのです。仏教的な空思想が、福音の霊性を証しする<準備段階>だと見なすことが可能だからです。こういう視野に立つことで、全宇宙をサタンとキリストとの闘争の場と見る世界観を克服することができます。悪霊と堕天使伝承は、「人間の文明」それ事態に潜む矛盾を言い表わしていることを洞察するからです。
■アウグスティヌスの原罪思想
 わたしたちはここで、主として黙示思想との関連においてアウグスティヌスを見ていくことにします。このために、まず、彼とマニ教との関係に目を向けなければなりません。マニ教の祖と言われるマニ(216〜76年)は、おそらくペルシア人の両親からアッシリアで生まれました(216年頃)。216年と言えば、パレスチナの東部から以東を長らく支配していたパルティア王国が、ササン朝ペルシアによって滅ぼされる直前の頃です。彼は、グノーシス的な傾向を持つユダヤ人キリスト教徒のエルカザイ派の中で成長しました。このユダヤ人キリスト教の宗派は、100年頃にヨルダン川の東岸に興ったと考えられています。
 マニは、仏教、ゾロアスター教、キリスト教の三大宗教を自分の先駆と見なした上で、これらを統合し凌駕する宗教大系を目指しましたが、自ら「イエス・キリストの使徒」を名乗っていますから、その思想は、シリアのグノーシス系のユダヤ的キリスト教を軸に形成されていたと言えます。マニ教にとって、光と闇の分割は、世界の創造以来、互いに独立した相反する原理として存在していたものです。その宇宙創生神話は次の三段階に分かれています。
(1)天地が存在する以前に闇の天使による光の神への反逆が生じた。(2)神は、闇の神(アーリマン)と闘うために、神の原質から「第一の人」を創造した。ペルシアのマニ教徒は、この人物を「善の神/光の神」(オルマヅド)と呼びます。ところが「第一の人」は闇に敗北し、その結果光は闇に食らわれて両者の混合が生じました。善悪が混合した人間において、闇と光とを分離するためには、宇宙の創造が行なわれなければなりませんでした。こうして宇宙が創生されたのです。(3)この第一の人は、光の霊性を持つキリストによって救い出されます。最後の終末において、光は闇から切り離されて、天と地が消滅します〔フォーサイス『古代悪魔学』525〜29頁〕。
 マニ教には、キリスト教の聖霊観、インドの輪廻転生思想、イランの光と闇の二元論と終末論が入り込んでいます。彼は、すべての人間に到達可能なこの宗教をササン朝ペルシア帝国の隅々にまで広げようとしました。マニはこの目的で、七つの正典をペルシア語、シリア語、アラム語で著わしました。その救いはグノーシスを原理とする「救済の知」によって達成されますが、そこには、インドのヨーガ学派や仏教による人間性の分析も採り入れられています〔エリアーデ『世界宗教史』(U)409〜411頁〕。ディオクレアヌス帝は297年にマニ教を勅令によって異端としました。
 マニ教は、肉体と霊魂との相克が、宇宙規模の救済計画に組み込まれていることをアウグスティヌスに教えてくれました。善悪の闘争が宇宙規模である限り、彼は、「己の罪」に対して責任を負うことから免れることができました。しかし、このような二元論的な宇宙観は、宇宙と彼自身の内面との両方を分断するものでした。この分断を克服する「完全性」を彼は求めたのです。この探求により、アウグスティヌスは、己の罪が、己の意志に反する別の性質から来るからと言って、その罪を免責することを拒否したのです。彼は、「罪が意志に反して自分を引き裂くのは、自己自身の不信心からにほかならない」と考えたのです。アウグスティヌスは、己の完全への道を、先ず己の罪の考察から始めたのです。こうして彼は、創世記3章の堕罪の解釈に取り組み始めました〔フォーサイス前掲書534〜36頁〕。
 アウグスティヌスの創世記の堕罪解釈は、彼が師と仰ぎ、かつその手によって受洗した(387年)アンブロシウスの解釈から始まりました。アンブロシウスは、オリゲネスの寓意的な聖書解釈を受け継いでいて、堕罪は、神から人間に与えられた真の霊性が肉体という物質界へ陥ることによって生じたと考えました。アンブロシウスの三位一体論には、キリストの霊性と肉体との分離が含まれています。彼は、父と御子と聖霊の三位一体は「造られた物体ではない」がゆえに不滅であると見なし、聖霊はキリストの肉体とは成らず、したがって、十字架の死において、キリストの肉体は死にわたされましたが、御父から受けた霊性において「死んだ」のではないと考えたのです。だから、聖霊は十字架されることがなかったのです〔小高編『原典古代キリスト教思想史』(3)「アンブロシウス」128〜129頁〕。したがって、キリスト教徒は、永遠の聖霊によって「人間の肉体に宿る罪を十字架にかける」ことを通じて初めて、救いに到達することになります。
 アウグスティヌスは、アンブロシウスの寓意的な解釈を受け継ぎましたが、彼は創世記2章25節〜3章24節の堕罪物語をそれ自体にさかのぼって解釈し直しました。彼は、エデンの園では、アダムとエヴァが、その「祝福された命」にあって「完全な自己同一」に達している存在だと見なしました。そこには善悪の分裂はいっさい存在しなかったのです。そのような人間が罪を犯したのは、人間の高慢のゆえに蛇(悪魔)に唆されて、神によって禁じられている神の知恵を奪取しようとしたことに起因します〔『アウグスティヌス著作集』(17)創世記注解(2)教文館(1999年)49〜63頁〕。
 アウグスティヌスは、自らの高慢によって天から落とされた堕天使たちの悪霊が蛇に宿ったと見ています。蛇が「その理性の優越のゆえにあらゆる野の生き物のうちで最も知恵ある」と言われるのはこのためです。悪魔はその「邪悪で嫉妬深い」意志によって人間を欺きますが、神が、なぜこのような悪への誘惑を許されるのかは、謎のままです〔アウグスティヌス前掲書2〜3章〕。しかし、たとえ外からの誘惑に曝(さら)されたとは言え、悪は人間が誘惑に「同意する」ことによってしか生じえません。「もしも人間が、誘惑者がいなかったから善く生きえたのだとすれば、そのような人間は、大きな賞賛に値するものになることはできなかった」と彼は考えたのです〔アウグスティヌス前掲書4章6節〕。ちなみに、17世紀のイギリスの詩人ジョン・ミルトンも、これと全く同じことを考えています。だから罪は、人間が自らの意志によって為す(犯す)ことなのです。罪は、人間のうちに「ある種の高ぶり」が潜んでいることに起因します。人は、その滅びに先立って、心に高ぶりを宿すのです。だから人間は、その力の及ばない必然によって罪を犯すのではなく、自らの意志によって罪を犯すのです。人間は自らの意志に基づいて選び、その結果「目が開かれたことで善と悪とを知り、善を失って悪を獲得したことを知る」のです〔ミルトン『楽園喪失』9巻1071〜72行〕。神が人間に罪への罰を下すのはそれゆえに正しいのです。
 興味深いことにアウグスティヌスは、蛇の「知恵」それ自体が、善悪両方を含んでいることに注目しています(ラテン語 "astutia" には「鋭い洞察」と「狡猾」の両義が含まれています)〔アウグスティヌス前掲書2章〕。創世記3章1節にあるヘブライ語原典の蛇の「賢い」(アルーム)は、直前のアダムとエヴァの「裸」(アルミーム)を受けています。人は蛇の知恵によって「裸の恥」を知ったのです。「恥」は罪を知らせる知恵の賜物ですが、「恥を知る」ことは人にとって大事な美徳です。だから蛇が人に与えた知恵は、ある意味で「正しかった」ことになります。しかし同時に、「われわれは知るべきであることを越えて知るべきではない」こともまた悟らなければなりません〔アウグスティヌス前掲書10章〕。
 アンブロシウスの場合は、罪とこれへの誘惑は、人間の肉体的な感覚が理性を唆(そそのか)して、判断を狂わせるところに生じるものでした。だからそのような誘惑は、直接サタン(蛇)や堕天使に由来するものではなかったのです。しかしアウグスティヌスは、色欲をも堕天使の欲望と高ぶりに結びつけて、欲望をサタン/堕天使と同一視したのです。その上で彼は、このサタン/堕天使を神とキリストの<敵>と同定することで、サタン(蛇)の正体を確定したのです〔フォーサイス『古代悪魔学』576頁〕。
 「アダムとエヴァから生まれたすべての子孫は、肉の情欲によって生まれ、原罪を引きずることとなった。彼の子孫は、原罪によって、さまざまの誤謬と苦しみとを経て、堕落した天使たちと共に、終わることのない最後の責め苦へと引きずられるのである。これら堕落した天使たちが人間の子孫を腐敗させたのであり、またそれを(意のままに)所有しているのであり、またそれと運命を共にしているのである」〔小高『原典古代キリスト教思想史』(3)251〜52頁〕。これがアウグスティヌスの原罪観です。
 アウグスティヌスは、「悪から罪が生じる」と教えるマニ教に対抗するため、「罪が悪を生じさせた」と考えて両者を逆転させることで、「罪」と「悪」とを包括的にとらえました。彼は「罪」と「悪」とを区別し、神への「罪」が、悪に先行することを見抜いたのです。神によって創造された宇宙は、人間をも含めて完全な存在でありながら、その完全性は、人が罪を犯すことで損なわれるのです。なぜなら、人は、罪を犯すことができる<意志の自由>を具えているからです。
 以上見てきたように、キリスト教黙示思想は、ユダヤ黙示思想を受け継ぎつつ、これを独自の世界へと発展させました。しかし、かつてのユダヤ的な黙示思想そのものは、2世紀の後半からグノーシスなどに姿を変えて、3世紀には衰退することになります。具体的には、モンタヌス運動を境に、2世紀末から3世紀にかけて、テルトゥリアヌスやオリゲネスの頃を境に、キリスト教の非黙示化が始まり、アウグスティヌスにいたってキリスト教は、当初のユダヤ=キリスト教黙示思想を脱却したと言えましょう。しかし、アウグスティヌスの思想に見るように、黙示思想の根本的な枠組みは、キリスト教に引き継がれて現在にいたっています。
 これに対して、ユダヤ教のほうは、キリスト教が黙示思想を受け継ぐことに対抗するように、唯一神教的な世界観によって黙示的な宇宙観から人間世界へと脱却することになります。だから、紀元70年以降のユダヤ教には、サタンや天使の存在は姿を潜めて、一元的な神の至高の世界観の下にある人間存在だけが内面的に問われることになります。
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