第2部:約束の国伝承
11章 ユダの民の捕囚とその背景
■約束の国伝承
 わたしたちは先に、天使たちの堕落とノアの洪水について見てきました。人間の創造とエデンの園での人間の堕罪、堕天使たち、その結果もたらされた洪水、これらは、それぞれ長期にわたって形成された諸伝承です。これらの諸伝承が、一つのまとまった物語伝承を形成したものが、旧約聖書の描く世界像の原初を語り伝える重要な構成要素になっています。人間と天使たちの堕罪とノアの洪水というこの物語伝承をまとめて「堕罪と洪水伝承」と呼ぶことができましょう。この堕罪と洪水伝承は、旧新約中間期を経てイエスの時代へ受け継がれることになります。だから、堕罪と洪水伝承は、イエスの時代のイスラエルの民の信仰と神学を形成する根源的な伝承の一つだと言うことができます。
 この伝承を第1部とすれば、第2部では、イスラエルの信仰と神学を形成するもう一つの根源的な物語伝承である「約束の国伝承」があります。この物語伝承は、モーセに率いられたイスラエルの民が、荒れ野の旅を経て、ヨシュアに率いられて約束の国へ入り、王国を形成し、しかもその王国を失うという悲劇を通して形成されることになります。建国と繁栄と亡国のこの物語伝承は、そこに含まれる期間の長さと、これの構成要素の多様性によって、旧約聖書全体を救済史的に特徴づける決定的な要因になります。このような長期の歴史的展望を含む物語伝承は、ここで採り上げるにはあまりにも膨大すぎて、わたしのよくするところではありません。したがって、ここでは、この物語伝承成立の最終段階に目を留めつつ、これが形成される姿の輪郭を描くに留めたいと思います。わたしたちは先ず、南王国ユダが捕囚にいたる少し前から、その歴史的な背景をたどることになります。以下の年代はすべて紀元前です。
■南王国ユダとアッシリア帝国
〔705年〕ヒゼキヤ王アッシリアに反抗。ヒゼキヤ王のことは列王記下18〜20章/歴代誌下29〜32章に詳しくでています。アッシリアの王サルゴンが死ぬと、彼によってバビロンから追放されていたバビロン王のバルアダンが、つかの間ですがバビロンに戻ることができました。その息子メロダク・バルアダンは、南王国ユダへヒゼキヤ王の病気見舞いに訪れています。ヒゼキヤ(在位728〜699年)は、サルゴンが死ぬと、アッシリアに背いてエジプトと同盟を結び、エルサレムで宗教改革を行なっていましたから、バビロン王は、おそらくエジプト=ユダ連合のヒゼキヤと手を結んで、アッシリアを攻撃しようと意図したのでしょう。ヒゼキヤは使者を歓迎して王室の宝物や武器庫を使者に見せました。これを知った預言者イザヤは、ヒゼキヤが、その宝物共々にバビロンに連行されると預言したのです(列王記下20章12〜19節)。
〔701年〕アッシリアによるエルサレムの包囲アッシリア王サルゴンが死ぬと、代わってその息子センナケリブが即位しました(在位704/5〜681年)。センナケリブは、アッシリアにとって最大の課題であったバビロニア問題を解決しようと、当時のバビロニア王メロダク・バルアダンをバビロンから追放し、自分の息子をバビロニア王につけましたが、ついにバビロンを徹底的に破壊します(689年)。こうして帝国の東南部を支配してから、彼はアッシリア帝国の西南部へ向かい、地中海沿岸のシドン、ティルス、さらにサマリアにいたるまでを征服して、701年にエルサレムを包囲しました。南王国ユダの王ヒゼキヤは、エルサレムの宝庫を空にして莫大な金銀をセンナケリブに贈り攻撃を免れました。ところが、センナケリブ王は、財宝を受け取ると、彼の部下ラブ・シャケを指揮官にして再びエルサレムを包囲させたのです。その時にイザヤの預言によって、アッシリ軍185000人が疫病で倒れたとヨセフスが伝えています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻1章〕(列王記下18章13節〜19章37節)。
〔699〜643/2年〕ユダ王国のマナセ王の在位。マナセ王(在位699〜643/2年)の在位は、父ヒゼキヤと彼の孫であるヨシヤ王の治世との間に挟まれて語られています(列王記下21章1〜18節/歴代誌下33章1〜20節)。ヒゼキヤとヨシヤは、どちらも主の御前に正しいことを行なった王として賞賛されているのに対して、その間にあるマナセの治世は、「数々の悪を行なって主の怒りを招いた」最悪の王として描かれています。ところが、彼の在位は55年間も続き、しかもその間、ユダ王国は平穏な時期を過ごすことができました。その上に、歴代誌下のほうでは、その記述の後半に(33章11節以下)、彼は己の悪を悔い改めて、正しいことを行なったことが追加されています。このために、歴代誌下の後半が、歴史的事実に基づくかどうかが議論されています。
 マナセは、アッシリアの支配を受け容れる政策を採り続けたことが、彼の治世が長期間平和であった理由であろうと考えられます。これは、父王ヒゼキヤの「急進的な」ヤハウェ主義に対する彼の反省から出ているのかもしれません。したがって彼は、パレスチナの混淆宗教をユダの国内においても許容したと考えられます。しかしこのことが、国内のヤハウェ主義者たちの反感を招くことになり、その結果、彼らの指導者たちを弾圧したことも考えられます。列王記下の記事は申命記史家(たち)による編集ですから、彼(ら)は、ヤハウェの律法に忠実であったかどうかを基準にして歴代の王たちを評価しています。マナセが「最悪の王」とされているのは申命記史家(たち)によるものです。
 歴代誌下の後半の記事には、マナセが一時アッシリアに抵抗したバビロニアと手を結んだとあります。パレスチナの諸王が連合してアッシリアに逆らったことがアッシリアの文書に残されていますから、マナセもこれに加担して、このために一時バビロンに連行されたことも考えられます。アッシリアは、直轄領ではアッシリアの国家神の礼拝を強要しましたが、ユダのような属国に対しては、納税による貢(みつぎ)と徴兵のみを課して、宗教的には、国家~の礼拝を強要することがなかったと思われます〔Anchor(4)498〕。歴代誌下に記されている程度のマナセの宗教改革は、アッシリア側にも許容される範囲内であって、彼はヤハウェ主義にも配慮した政策へ転換を図った可能性があります。
〔622年〕ヨシヤ王(在位640〜609年)の宗教改革。彼のことは列王記下22章1節〜23章30節/歴代誌下34章1節〜35章26節にでています。王は8歳で即位したとありますが、幼い頃は彼の母エディダや高官たちが政務を執行していたのでしょう。彼は12歳にして、すでに知恵と叡智を活かし、国の改めるべき道を古老のようにわきまえていたとヨセフスが伝えています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻4章〕。彼は成人すると国政の改革に努め、国中から金銀を集めて、大祭司ヒルキヤに命じて神殿の修復にあたらせました。ところが、ヒルキヤが神殿内に保管されている金を取り出す際に、そこからモーセの聖なる文書が発見されたのです。622年のことでヨシヤが26歳の頃です。これはモーセ以来の「律法の書」であり、現在の申命記のもととなる「原申命記」とも言うべきものです(申命記12章1〜5節/16章1〜7節などもその一部)。王はこれを読み聞かされて痛く感銘を受け、ここから「ヨシヤ王の宗教改革」が始まることになります。時あたかもアッシリア王アシュルバニパルの死によって帝国の力が弱まりつつある頃でしたから、このことがヨシヤのヤハウェ主義的な改革に好都合だったのでしょう。
 ヨシヤ王は、ソロモン王以来、アッシリアによって失われていた旧北王国を始め、周辺の諸部族を再び支配して、ダビデ王の時代にほぼ匹敵するほどまで支配地域を広げました。北王国イスラエルが滅びてから100年ほど経っていましたから、その間、サマリアには移住させられた異民族が定住していました。このためにヨシヤ王は、ソロモン王の時代以上に種々雑多な諸部族を統合し支配する必要に迫られたのです。彼が、原申命記とも言われる「ヨシヤ王の法典」を重視したのはこの理由からです。王は徴兵制度を確立して軍事力を確保し、各地域のレビ族を祭司として登用することによって、ヤハウェの祭儀をエルサレムの中央聖所に統合し、その上で、北イスラエルと南ユダに置かれていた様々な異教的な施設や像を一掃しました。実際にどのような改革を行なったかは、列王記下23章に詳しく語られています。申命記史家(たち)は、発見されたヨシヤ王の法典を基に現在の申命記を編集したと言われていますが、この史家(たち)は、ヨシヤ王を「後にも先にも例がないほど主の律法に忠実な王」(列王記下23章25節)として描いています。
 ところが、アッシリア帝国の衰退に伴って、バビロニアとエジプトとがオリエントの支配をねらって互いに衝突することになり、エジプト王ネコがバビロニアと戦うために北上してきました。ヨシヤ王もまた、アッシリアによって奪われた北王国イスラエルの領土を回復しようとしていたので、北上してきたエジプト軍をメギド近くで迎え撃つことになります。しかし彼は、この際に受けた敵の矢がもとで没しました。ネコが、ユダと戦う意思がないことをヨシヤに告げていたにもかかわらず、「神の口から出たネコの言葉」(歴代誌下35章22節)を無視したからでしょうか。ちなみに預言者エレミヤはヨシヤ王の第13年(627年)に召命を受けています(エレミヤ書1章1〜3節)。エレミヤは、ヨシヤ王の死を悼んで哀歌を作ったとありますが(歴代誌下35章25節)、この歌は、実際は新バビロニア軍によるエルサレムとユダ王国滅亡以後の作です。
■新バビロニア王国とエルサレムの滅亡
 現在のペルシア湾の北端にある河口から発するティグリスとユーフラテス両河の流域一帯では、3000年頃のシュメールの都市国家群からアッカド王国が形成されて、ウル第三王朝を経て、2000年頃にバビロン第一王朝(古バビロニア王国)が成立しました。それ以来、この地域に諸民族の侵入があり、15世紀頃には、流域の南部はバビロニア(カッシート朝)、その北部はアッシリアの領土になりました。どちらもほんらいセム系の民族です。その後アッシリア王国が、初のオリエント統一を実現しました(8世紀から612年まで)。このアッシリアの後を継いで新バビロニア王国が興ります。以下、年代順にごく大きな出来事だけを列挙します(年代はすべて紀元前です)。新バビロニア(625〜539年)は、カルデアの将軍ナボポラッサルによって建国されました。首都はバビロンで、カルデア王国とも言います。
〔612年〕新バビロニア王国の成立。バビロンを中心に勢力を築いたナボポラッサルは、625年にアッシリアからバビロンを奪取して王国を建国し、その後彼は単独でアッシリアと戦い続けますが成功せず、二つの河の東域を支配するメディア王キュアクサレスと同盟を結んでニネベ市を攻撃し、これを陥落させてアッシリアを滅ぼしました(612年)。 以後オリエント世界はリディア、メディア、エジプト、そして新バビロニアの四大国の時代となり、新バビロニアは主にエジプトと抗争を続けることになります。
 新バビロニア王国の歴史は短命でした。エジプトとの戦いが続く中で、2代目の王ネブカドネツァル2世が即位すると、 彼はユダ王国の離反に対して二度の遠征を行いこれを滅ぼしました。ユダヤ人の大量移送、いわゆる「バビロン捕囚」が行われたのも彼の時代です。その後4人の王が国を治めますが、内3人が暗殺などで僅かな統治しかしていません。さらに神官が力をつけ始め、政治が不安定になります。新バビロニアの最後の王ナボニドゥスが555年に即位し、キリキアやアラビアのテイマなど各地へ遠征を行うなど、勢力の回復を図りますが、539年、キュロス2世の率いるアケメネス朝ペルシア軍が、首都バビロンへ無血入城することに成功して、新バビロニア王国は滅亡することになります。
〔605/4年〕ネブカドネツァル2世が即位ネブカドネツァルは、新バビロニア王国の建国者ナボポラッサルの息子として生まれました。彼は、父王の治世の頃から軍を率いて転戦し、ハランにあったアッシリアの残存勢力を攻撃し、それを助けるべく出兵した大国エジプトの王ネコ2世をカルケミシュの戦いで打ち破り(605年)、更にエジプトの影響下にあるシリアの諸王国を次々と征服して領土を大幅に拡張しました。605年8月15日、父王ナボポラッサルが死去すると急遽バビロンへ帰還して王位を継ぎバビロニア王ネブカドネツァル2世(在位605/4〜562年)となります。彼が王となった直後にエジプトはシリア地方への介入を再開し、また征服したシリア地方の諸王国でも反乱の火の手があがりました。
〔597年〕第1回バビロン捕囚。ヨシヤ王の息子エリヤキムは、エジプトのネコの差し金で名をヨヤキムと改め、25歳でユダの王位に就くことになります(在位608〜598年)(列王記下23章34節)。ユダ王国は、エジプトから重い課税を課せられました。ところが、ネブカドネツァル王が即位すると、彼は北部のカルケミシュでエジプト軍を破り、それ以後、パレスチナにおけるエジプトの影響力が失われます。ヨヤキムもこの間に、エジプトを離れてバビロニアの支配に入りました。おそらくネブカドネツァルが、ユダの西方にある地中海沿岸のアシュケロンを占領した頃でしょう(604年)。以後3年にわたり、ヨヤキムはネブカドネツァルに従いますが、ネブカドネツァルの軍隊がエジプトに侵攻して、ネコの軍勢と熾烈な戦いの後に、エジプト征服に失敗してバビロニアに撤退すると、ヨヤキムはネブカドネツァルへの貢税を中止しました(600年?)。
 ネブカドネツァルは、再びパレスチナに侵攻を始めると、パレスチナに存続していた南王国ユダにも軍隊を差し向けます。その結果ヨヤキムの息子ヨヤキン王の時に、エルサレムは包囲されて陥落しました(597年)。エルサレムでは、陥落に先立って、ヨヤキムに代わってヨヤキンがユダの王に即位します。エルサレムが陥落すると、ネブカドネツァルは、神殿と王宮の宝物や聖器物をことごとく奪い、ヨヤキンとユダの重要人物全員を首都バビロンに連行しました。ヨセフスはその数およそ3000人と伝えています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻6章〕。まだ若いエゼキエルもその中の一人でした(エゼキエル書1章2節)。残されたエルサレムでは、ゼデキヤが王に任命されます。これが第1回バビロン捕囚です(列王記下23章33節〜24章20節)。
 ヨヤキムの最期については諸説があり、エルサレム陥落以前に病でなくなったという説と(列王記下24章6節)、捕らわれてバビロンへ連行されたという説と(歴代誌下36章6節)、彼の遺体は埋葬されずに城壁の前に投げ出されたという説(ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻6章)とがあって、確かなことは分かりません。
 ヨヤキム王については、特に預言者エレミヤとの関係が注目されます。ヨヤキムの宮廷には親バビロニア派と親エジプト派とがあって対立していたと思われますが、エレミヤは終始バビロニアの勝利とヨヤキムへの神の裁きとエルサレムの滅びとを警告し続けました(エレミヤ書22章15〜19節/同26章1〜16節)。ところが民も指導者たちも彼の言葉に耳を傾けず、その警告を聞いて怒り、彼を裁判にかけて処罰するよう王に要求したのです〔ヨセフス前掲書〕。ついにエレミヤは、弟子バルクに自分の預言を書き記させて、これを神殿で読み上げさせます。しかし、ヨヤキムはこの文書を焼き捨ててしまったとあります(エレミヤ書36章)。
 ネブカドネツァルは東に転じてエラムを攻撃し、紀元前595年にはその版図をアッシリア帝国のそれとほぼ同じ領域にまで広げました。この頃、預言者エレミヤが、バビロニアと徹底抗戦を唱える偽預言者ハナンヤと対立します(エレミヤ28章1〜17節)。また捕囚でバビロニアへ捕らえられていった民の中から、預言者エゼキエルが召命を受けて、預言活動を開始します(593年)(エゼキエル1章1節〜3章15節)。
 ヨヤキン王のことは列王記下24章8〜17節/歴代誌下36章9〜10節/エレミヤ書29章/同52章31〜34節にでています。列王記下24章12節はバビロンの王の治世で書かれていますから、列王記下のこの部分はバビロンで書かれたのかもしれません。彼が王位に就く前はエコンヤと呼ばれていましたが(エレミヤ書24章1節)、18歳で王位に就きました(歴代誌下36章9節の「8歳」は誤り)。バビロニアの記録によると597年の3月になります。しかし、わずか3ヶ月ほどでバビロンへ連行されます(列王記下24章8節)。
 ネブカドネツァルは、598年の12月頃にエルサレムへ侵攻しますが、ヨヤキンがネブカドネツァルに降伏したために、エルサレムの包囲は免れました。しかし、彼と王室の家族、有力な家臣たちを始め、軍人や技能職人など10000人以上がバビロンへ連行されたとあります(列王記下24章14節/ただし16節では8000人/エレミヤ書13章18〜20節参照)。ヨセフスは、その数全部で10832人と伝えています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻7章〕。ヨセフスは、ネブカドネツァルがヨヤキンの父を殺したために、彼が恨みを抱いてバビロニアに背くことを恐れたからだと見ています。ネブカドネツァルは、ヨヤキン王の後継としてその叔父であるマタンヤをゼデキヤと改名させて王にしました(歴代誌下36章10節ではヨヤキンの「兄弟」)。しかし、バビロンでのヨヤキンの扱いから判断すると、彼はその後もユダの王として処遇されていたようですから、ゼデキヤはヨヤキン王の「代理」として立てられたのでしょう。おそらくこの段階でネブカドネツァルは、再びヨヤキンをユダの王として復帰させるつもりだったようです。エゼキエルも彼を「王」と見ています(エゼキエル書1章2節)。
 彼とその家族は、おそらくバビロンの南にあった砦に住まわせられていたでしょう。バビロニア側の記録によれば、王とその息子たちには相当量の「油」(俸禄を意味する)が月々支給されています。しかし、ゼデキヤの反抗によってユダ王国が滅亡するとこの処遇は取り消されて、ヨヤキンは560年頃までは牢獄で囚人だった記録があります。ちなみに彼の息子の一人シェンアッツァル(歴代誌上3章18節)は、捕囚後に、ペルシアによってユダの最初の総督に任ぜられたシェシュバツァルと同一人物だと考えられます(エズラ記5章14〜15節)〔Anchor(3)662-63〕。
 エゼキエル書17章3〜4節に「大鷲(ネブカドネツァル)がレバノン杉(ユダ王国)に飛来して、杉の梢(ダビデの王家)を切り取って、その頂の若い枝(ヨヤキン)を折った」とあるのは、ヨヤキンへの預言だと解釈されています。ただし同17章22〜23節には、切り取られた柔らかいその若枝(ヨヤキン)が、イスラエルの高い山(ユダ)に移し植えられると、大きなレバノン杉(ユダ王国)へと成長した」とありますから、エゼキエルはこの王が、再びユダの地でその王位を回復する時を待ち望んでいたのかもしれません〔Joyce, Ezekiel. 136/138.〕〔Anchor(3)663〕。なお、列王記下25章27〜30節には、ヨヤキンが捕らわれて37年を経てから(561/60年)、エビル・メロダク王によって、おそらく即位の際の恩赦を受けて、彼は牢から出されて厚遇されたとあります。
〔587年〕第2回バビロン捕囚。ゼデキヤはヨヤキンの「叔父」で(一説によれば母を同じくする兄弟〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻7章〕)、21歳で即位しますが、彼がユダ王国の最後の王になります(在位597?〜587/6年)。ゼデキヤ王のことは列王記下24章18節〜25章21節/歴代誌下36章11節〜20節/エレミヤ書37章1節〜39章14節/同52章1〜30節にでています。「ゼデキヤ」(ヤハウェはわたしの義)とは、ネブカドネツァルによって与えられた王名で、名はマタンヤです。
 申命記史家(たち)は、彼もまた「前任者が行なったように」悪を重ねたと厳しい見方をしていますが、実際は優柔不断なところがあり、ヨセフスによれば、王の務めを嫌ったために廷臣たちは好き勝手に振る舞っていたとあります。彼は、預言者エレミヤの言葉を信じ、エレミヤの言葉を聞いた時にはその真実を信じても、取り巻きの佞臣(ねいしん)たちによって堕落させられたようです〔ヨセフス前掲書10巻7章〕。
 エジプトでネコ王が亡くなり(597年)、プサメティコス2世が王位を受け継いだ頃に、ゼデキヤはバビロニアへの反攻の機会をうかがっていたようです。595年頃にバビロニアの国内で反乱が生じ、ネブカドネツァルはこれの鎮圧に兵力を失いました。この機に乗じてシリアとパレスチナの諸王たちもバビロニアへの反乱を試み、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの王たちが連合を組んで、これに加わるようゼデキヤにも誘いかけてきました。この企ての背後にはエジプトがいたので、彼らはエジプト王の支援を期待していたと思われます。
 この誘いはゼデキヤの宮廷に分裂をもたらすことになります。親エジプトの預言者ハナンヤと親バビロニアの預言者エレミヤとが激しく対立したのがこの時です(エレミヤ書27章〜28章)。ゼデキヤの宮廷では、ハナンヤが楽観論を主張して、先に連行されたヨヤキンもユダの民も再びエルサレムへ戻ると預言しますが、エレミヤはお前たちこそバビロンへ連行されるとその預言を変えませんでした(エレミヤ書28章4節/同13〜14節)。エゼキエルもこの時に預言をして、バビロンからゼデキヤの宮廷に「バビロニアとの契約を破ってエジプトのファラオに従ってはならない」と書き送ったようです(エゼキエル書17章11〜21節)。第1回の捕囚によって有能な廷臣たちがいなくなったからでしょうか、残された者たちは「腐ったいちじく」のような連中ばかりだとエレミヤは嘆いています(エレミヤ書24章8節)。ゼデキヤは、一度はエレミヤの預言を受け容れて、バビロニアへ服従する道を選んだと考えられます(594/3年)(エレミヤ書51章59節以下参照)。
 シリアとパレスチナでの反乱に対処するためにネブカドネツァルは素早く軍事行動を起こしました(594年12月)。彼は、シリア地方へ攻め込んでこれを征服します。この間、エレミヤは、偽預言ハナンヤとこれに与する廷臣たちによって拷問に近い苦難を受けて、死の直前にいたりますが、ゼデキヤの好意によってかろうじて命を取り留めます。エレミヤとエゼキエルの二人の預言者たちがエルサレムの滅亡を預言したにもかかわらず、ゼデキヤはついに8年にわたるバビロニアとの同盟関係を破り、バビロニアへの反乱に加わることにしました(589/8年)。
 そこでネブカドネツァルは、南下してガリラヤ湖の西を通り、メギドからサマリアへ出て西へ転じて、ユダ王国の西部の諸都市を陥落させながら、東へ向かいエルサレムを包囲しました(589/8年)。ところが、エジプトでプサメティコス2世が亡くなり、その後をホフラ王(在位589〜568年)が継ぐと、彼はパレスチナに軍隊を送ったために、ネブカドネツァルはエルサレム包囲を一時断念します(エレミヤ書37章5節)。ゼデキヤが反バビロニアに踏み切った背景には、このホフラ王の即位があったのかもしれません。しかしネブカドネツァルの対応は素早く、電撃的にエジプト軍を破ってエジプトに侵攻しました。
 彼はエジプトを破るとユダ王国へ戻り、エルサレムは再びネブカドネツァルの軍隊によって1年半の間包囲されることになります。バビロニア軍とエルサレムの住民とは、どちらが賢明で戦いの技術に勝るかを競い合っているように見えましたが〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』10巻8章〕、エルサレムの住民は、飢饉に苦しみ、その上に城を攻撃する塔の上からの射撃に耐えかねて、ついに城門を破られて、587年にエルサレムは陥落しました。エレミヤ書37章1節に「ユダの王ゼデキヤの第9年10月に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、これを包囲した。ゼデキヤの第11年4月9日になって、都の一角が破られた」とあります。これに従うと、バビロニア軍は588年1月にエルサレムを包囲し、約1年半後の587年の7月にエルサレムが陥落したことになります(ただし暦の計算で包囲を586年とする説もあります〔Anchor(6)1070〕。
 都を攻略したのはネブカドネツァルの指揮官たちで、彼自身はその時ダマスコの北方にあるリブラ(現在のシリア領の西部ヒムシュの近く)に居ました。ゼデキヤは、妻子や指揮官たちや友人などを伴って都を脱出しましたが、王の逃亡を知った敵の追跡によって、翌日エリコの近くで見つけられ包囲されました。彼は生け捕りにされ、妻子共々王のいるリブラへ引かれて行きました。ネブカドネツァルは、恩人に敵対した忘恩者だとゼデキヤを激しく罵って、その両眼をえぐり出し、鎖につないでバビロンへ引いていったと伝えられます(エレミヤ書52章4〜16節)〔ヨセフス前掲書10巻8章〕。ゼデキヤはバビロンで死ぬまで牢獄にいました。
 王はさらに、5月10日に親衛隊長ネブザルアダンをエルサレムに遣わして都の破壊を命じたので、エルサレムはネブカドネツァルの軍隊によって蹂躙され、神殿は焼失し、ここに南王国ユダは滅びました。再びかなりの捕虜が首都バビロンへ連行されます。その数832人と伝えられますが(エレミヤ書52章29節)、この数は成人男性のみかもしれません。これが第2回バビロン捕囚です(列王記下25章1〜26節)。第1回の捕囚では、連行されたのが18000人以上とありますから(列王記下24章14節/同16節)、全部で2万人ほどでしょうか。確かな数は分かっていませんが、国の民の人口全体から見るとわずかでしょう。なおネブカドネツァルは、フェニキアのテュロスにも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたと伝えられています。
〔583年?〕第3回目の捕囚。ユダでは、ネブカドネツァルの指揮官によって新たに任命されたゲダルヤが知事になりました(列王記下25章22〜26節)。預言者エレミヤは、ゼデキヤの宮廷で苦難を体験しますが、エルサレム陥落の後に、エルサレムの北7キロほどのラマでバビロニア軍によって捕囚から釈放され、ラマの北にあるミツパにいたゲダルヤのもとに身を寄せています(エレミヤ書40章1〜6節)。その後のゲダルヤの暗殺と続く出来事の一部始終は、エレミヤ書40章7節〜43章7節に詳しくでています。ヨセフスの記述もほぼ同様の出来事を伝えていますが〔ヨセフス前掲書10巻11章〕、ヨセフスは、ゲダルヤが知事に任命される以前に、第3回目の捕囚が行なわれて、60〜70名ほどがバビロンへ連行されたと伝えています〔ヨセフス前掲書10巻8章149節以下〕。しかしこれは、ゲダルヤの殺害以後に、彼の殺害に対する報復として行なわれたのではないかと考えられます〔旧約聖書注解(2)498頁〕。
 ゲダルヤは、シャファンの孫でアヒカムの息子だとありますから(列王記下25章22節)、シャファン一族は、ダビデの家系ではありません。おそらくこの家族は、エレミヤと同様に、バビロニアへの反乱に反対していたのでしょう。ゲダルヤたちが、ミツパで残されたことを聞いて、エルサレムから逃れて地方へ行った人たちが諸地方から集まって来ました。その中に、もと王族の一人イシュマエルという性悪でずる賢い者がいました〔ヨセフス前掲書9章160節〕。エルサレムは破壊されましたが、ミツパは被害を受けなかったことが発掘でも分かっています〔Anchor(2)923〕。彼らはゲダルヤの勧告を受けて、冬に備えて穀物やぶどう酒やオリーブ油などを収穫して備蓄するためにそれぞれ好きな所へ散っていきました。彼が逃亡者を寛大に受け容れて、ユダヤ周辺に定住させて耕作を進めているという噂が広まると、他の指導者たちもゲダルヤに好意を持ち、情報を提供しました。
 ヨセフスが伝えるところでは、ヨハナンという指導者もゲダルヤの親切と寛容を知り、彼に「アンモンの王が密かにあなたを暗殺してイシュマエルに支配させようとしている」と伝えたのです。しかしゲダルヤは、そのような忘恩的で卑劣な行為をもと王族が行なうとは信じられないとしてイシュマエルを受け容れていたのです。10月になると、イシュマエルとその仲間たちがミツパへやって来ました。するとゲダルヤは彼らを招いて宴を開いたのです。ところがその席で、突然彼に襲いかかって、ゲダルヤとその仲間たちを殺し、夜になると、その町のユダヤ人たちを殺したのです〔ヨセフス前掲書9章168〜69節〕。ヨハナンは、これを聞いて、イシュマエルを追い、彼が捕虜にした住民や妻子たちを取り戻します。しかしバビロニアによって任命された知事が殺害されたことへの報復を恐れて、人々はエジプト行きを決意し、このことでエレミヤの預言を求めます。エレミヤは、バビロン王を恐れることなく、ユダに留まるよう告げますが、彼らはこれに従わず、避難先から集まった人たちやエレミヤとその弟子バルクをも伴ってエジプトへ下り、エレミヤはそこで消息を絶ちました(エレミヤ書43章1〜7節)。イスラエルでは、現在でもティシュリの月(9〜10月)の第3日がゲダルヤの記念の日とされています。
■捕囚期と新バビロニア王国
〔587/6〜538年〕ユダの民の捕囚期間。新バビロニア王国は、ニネベの陥落によってアッシリア帝国が滅びてから(612年)、バビロンの陥落によるペルシア帝国の成立まで(539年)、わずか73年間の短命な王国でした。しかし新バビロニアは、この間ネブカドネツァル王などの活躍によって、アッシリア帝国とほぼ同じ領域を支配しました。とりわけこの王国は、ほぼ50年にわたるユダの民の捕囚によって、ユダヤ民族に決定的な影響を与えたのです。
 ネブカドネツァルは、その治世の間に、首都バビロンで大規模な建築事業を行ったことで知られています。バビロンのマルドゥク神殿とジッグラト塔は大幅な改修が行われ、規模が拡張され、バビロンは三重の城壁で囲われるとともに、ユーフラテス河に橋を通して都市が東岸から西岸へ拡張されました。都の北に美しい青色を帯びたイシュタル門が建てられ、そこから宮殿に通じる行列のための大通りを作り、その西側に巨大な宮殿を建設しました。イシュタル門は、彩色レンガを用いて青を基調にした装飾豊かな門で、現在ベルリンのペルガモン博物館で復元展示されています。ネブカドネザル2世はこれらの建築に使われたレンガなどに自分の名前を刻印させて、彼の名を現代に留めています。ネブカドネザル2世にまつわる伝説として、彼がメディア出身の王妃アミティスを慰めるために空中庭園を造営したことが伝えられています。バビロンの空中庭園は古代の七不思議に数えられていますが、この伝説が史実であるかどうかは確認できません。
〔562〜555年〕新バビロニアの第3代目の王は、エビル・メロダク王(在位562〜560年)です。彼の在位はわずか2年間で、聖書によれば、バビロンに捕らえられていたユダ王国の王ヨヤキンを解放して、彼を宮廷で厚遇したとあります(列王記下25章27〜30節)。先王ネブカドネツァルの政策から、より寛大な処置へと転換しようとしたのかもしれません。エビル・メロダク王は、義弟のネルガル・シャレゼルに暗殺されました。
 ネルガル・シャレゼルは、新バビロニアの第4代目の王で(在位560〜556年?)、ネブカドネツァル2世の娘婿で、妻の兄である先代のエビル・メロダクを暗殺して即位しました。
 ラバシ・マルドゥクは、新バビロニアの第5代目の王です(在位556/5年)。彼はネルガル・シャレゼルの息子です。父王の4年の在位の後、幼くして即位したのですが、幼すぎたためか、国政が立ち行かず、即位後わずか9ヶ月で暗殺されました。
〔555〜539年〕その結果、ナボニドゥスが新バビロニア王に選ばれました(在位556〜539年)。彼は王室と直接の血縁関係がなかったと思われます。一説によれば、彼の息子ベルシャツァルが、幼い先王を暗殺したのではないかと言われています。ナボニドゥスは、相次いで王位が変わる新バビロニアの混乱状態に乗じて、息子ベルシャツァルを摂政として共同統治によって新バビロニアの混乱を鎮めようとしたようです。彼は、その頃特に勢力を増していたバビロニアの国家神マルドゥク~を祀る神官達に対抗しようとして、神殿の人事に介入し、監督官を派遣して彼らを規制しようと図りました。また月の神シンを祭る神殿を多数建造しましたが、マルドゥクを主神とするバビロニア人の反応は悪かったようです。
 553年に、ナボニドゥスはシリアへ遠征を行い、次いで552年にはアラビアへ遠征し、以後10年間ほどそこに滞在したと言われています。諸説がありますが、この長期の滞在は、アラビアからの税収を求める経済的な理由と、月神信仰に対するバビロニア人の反感を避けるという宗教的な理由があったようです。
 ちなみに、ダニエル書5章20〜21節で「父王様」と呼ばれるネブカドネツァルとは、実はナボニドゥスのことであって、ダニエル書の記事は、彼がバビロンから離れて一時乱心状態にあったと云われた当時のことを反映しているのでしょう。ナボニドゥスは、長期間本国を留守にしていたため、その間の国内統治は皇太子ベルシャツァルに一任されることになりました。しかしベルシャツァルは、バビロニア王を名乗る事を許されず、神殿への奉納はナボニドゥスの名で行われ、祭礼に関しても独断で行う権限を持たないなど、ナボニドゥスの影響力はかなりの程度確保されたようです。短命王が多い新バビロニアにあって、長期間の在位に成功した王でしたが、この時期に急拡大を遂げていたアケメネス朝ペルシアとの戦いによって王座を追われ、彼が、新バビロニア王国の最期の王となります。
■捕囚期とユダの民
 新バビロニア王国では、その全体が幾つかの州に分割されていて、各州には中央政府から長官/総督が任命されていました。長官のもとには、州ごとに神殿の神官たちと州行政の官僚たちがいましたが、官僚は地元の有力者たちが王によって任命される場合が多かったようです。これらの上層部の会議によって、各州と各都市が治められていたのでしょう。
 王国内の社会構造は、大別すると自由民と奴隷、そして土地を耕す小作人とから成り立っていました。「自由民」とは、主に神殿の高級官僚たちや王室の官僚たちを始め、職人や商人たちなど、都市に自由人の身分として生まれた人々によって構成されていました。「奴隷」は、王室所有と神殿所有と個人所有とに分けられていましたが、身分的にはそれほど違いがなかったと考えられます。奴隷が所有者から独立して働くことはごく稀でした。「小作人」という訳語が適当かどうか分かりませんが、彼らは、主に王室や神殿などに従属して土地を耕す小作人たちのことです。彼らは収穫物を小作料の形で王室・神殿に納めていましたが、これが王国の主要な財源になったと思われます。これらの階層は、制度上の区別によってさらに細分化されていたのでしょう。
 捕らわれていったユダの民は、バビロンに居住したヨヤキンなど旧王室関係のエリートたちを別にすれば、主としてバビロンの東南にあるニップルへ移されたと思われます。ニップルは、ティグリス河とユーフラテス河とが東西に大きく離れたその間の地域にあり、バビロンの東南でユーフラテス河に近い所にありました。バビロンから東南へ運河が流れていました。これがケバル川で、この運河がニップルの傍を通っていました(エゼキエル書1章1節)。エゼキエルが居住していたのは、運河の畔にあるテル・アビブです(エゼキエル書3章15節)。
 ニップル周辺には、およそ200箇所、移住させられた諸民族の居留地があったと思われますが、ユダの民は、その中の28箇所ほどの地区に移されたようです〔Anchor(3)493〕。ただし、ユダの民だけで構成される居留地は存在せず、個人は職能別に再構成されたようです。ネブカドネツァルは数々の大建築と工事を行ないましたから、建築や工事に関わる職人たちはバビロンに住まわされて、工事の仕事に当てられたと考えられます。技能者は職人たちに所属しましたが、民の大部分は小作人として農事に従事したと考えられます。奴隷にされた者たちも多かったでしょう。若者たちは、戦の際には徴兵されて戦場へ送られました。ただし捕囚の後期になると、イスラエルの民の中から、能力によって自由人となって独立する者たちもいたと思われます。
 当時の記録から、ユダ系の名前の者たちと地元のバビロニア系の名前の者たちとが、共に働いていたことがうかがわれます。もっとも、宗教的な問題などでは、ユダの民同士の集まりや施設が許されていたと考えられます。ユダ系の名前の父から、バビロニアの神々の名前を持つ息子たちが生まれており、その彼らの息子たちが、再びヤハウェ系の名前を持つという複雑な家系も読み取ることができますから、オリエント全体に広がる混淆宗教がユダの民の間にも広まっていたことが分かります。おそらく、先祖の神と並んで、バビロニアの神々への礼拝も行なわれていたのでしょう。
 時代が下がると、捕囚のユダの民の中から裕福な家が出てきて、彼らはユダヤ人仲間がエルサレムへ巡礼に出かける費用を負担したりしました。彼らの中のかなりの人たちは、捕囚からの解放以後も現地に留まって、エルサレム神殿の建築費用を負担したりしています(エズラ記1章4〜6節/同8章24〜27節)。455〜403年頃の記録によれば、ニップルに住むユダヤ人たちの中には、金貸し、土地の貸し借りの仲介業、徴税人、大土地所有者と小作農家との間の仲介人などがおり、灌漑(かんがい)事業の労働者、漁師、羊飼いたちもいました。記録されている150人の高官たちの中の13人がユダヤ人です〔Anchor(3)1076-82〕。
 ヨヤキン王の子孫はバビロンでもパレスチナでも民の指導者として仰がれ、その一人ショアルティエルの息子が解放後のユダの総督ゼルバベルです(ハガイ書1章1節)。またユダの首長シェシュバツァルもヨヤキン王(エコンヤ)の子孫シェンアツァルと同一人ではないかと言われています(歴代誌上3章18節)。シェシュバツァルをゼルバベルと同一視する説もありますが、シェシュバツァルを含めて、ヨヤキンの子孫について確かなことは分かりません。また帰還に際して大きな働きをしたハルカヤの子ネヘミヤについてもその家系が不明です(ネヘミヤ記1章1節)。バビロンから帰還した捕囚の民の家族のリストはネヘミヤ記7章4〜59節にでています。
 捕囚期間にバビロニアの文化がユダヤ人に与えた影響の中で、最も大きなものの一つはアラム語です。アラム語は、アッシリア帝国時代から新バビロニア王国の時代に用いられ、これが前5世紀以後のアケメネス朝ペルシアでは、帝国アラム語として流布し、パレスチナからエジプトにいたるまでオリエントの共通語になりました。地方によってユダヤ系アラム語やサマリア系アラム語などがあり、これが旧約聖書のヘブライ語に代わって用いられました。イエスの時代のアラム語はパレスチナ系のアラム語で、旧約聖書のモーセ五書などのアラム語訳で書かれた「タルグム」で用いられているアラム語と同じであったと思われます。
 さらにもう一つ重要な文化的影響に暦があります。ヘブライ語の月名が、バビロニアの神々の名にちなむ月名に置き換えられることもありました(これについては、コイノニア会ホームページ→聖書講話→「古代の暦」→「月名」を参照)。これが後に、太陽暦の導入につながることになり(『第一エノク書』の72〜82章「天文の書」)、ヘブライ古来の太陰暦と新たな太陽暦とが競い合い、相互に影響し合うことになります。ただし、アラム語も太陽暦の影響も、伝統的なヘブライの一神教あるいは唯一神教に及ぼした影響は限られていて、安息日その他の祝祭日は、旧約聖書の伝統に従って遵守されました(イザヤ書56章4〜6節/同58章13節)。
 バビロン捕囚時代のユダヤ人の生活の詳細を旧約聖書から知ることはできません。またエゼキエル書からも、ユダヤ人が伝統的な宗教的規定を実践していた形跡をうかがうことができません。ただしダニエル書とエステル記からは、食物規定を守り、エルサレムへ向かって日に3度祈り、断食、喪に服する規定などが遵守されていたのを読み取ることができます。またトビト記には、モーセ5書と預言者の言葉、施し、仮庵の祭り、律法に従う埋葬などが守られていたとあります。
 捕囚期のユダヤ人がきわめて鋭い歴史感覚を有していたことは確かですから、エルサレムへ向いての祈り(ダニエル書6章11節)、エルサレム神殿の崩壊に対する哀悼と嘆きを表わすために粗布をまとって灰をかぶる断食(ゼカリヤ書7章3節/イザヤ書58章5節/エステル記4章3節)、罪の告白、贖いへの祈りなどが実行されていたと思われます。これらの嘆きを厳格に守る人たちは「シオンのために嘆く人たち」と呼ばれていました(イザヤ書61章3節)。
 この時代に、後に会堂として発達する集会/会堂(シナゴーグ)の制度が始まったと言われていますが、それがいつどのような形で誕生したのかを確認することはできません。捕囚は、おそらく共同の集会と祈祷を生みだしたと思われます。またどのような教育施設が存在したのかも確かではありません。新バビロニアでは、子供たちのための教育制度がすでに普及していて、王国の貴族階級は、高度な知的教育を受けていましたから、おそらくこの影響によって、ユダヤ人たちの間にも何らかの形で教育が行なわれたと考えられます。ただし、異教的な環境の中での宗教的な教育は、ユダヤ人としての特性を保持する必要から制限されたでしょう。特に祭司たちは、「神の律法の書記官」(エズラ記7章21節)と呼ばれているように、祭儀よりもむしろ律法の教師としての役目が課せられたと思われます。祭儀と祭司制よりも律法遵守のほうがはるかに重要だったからです。
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