13章 エロヒストとエホウィスト
■E資料とエロヒスト
「E」もまた資料と、これを編集した人物との両方を指しますから、資料と人物とを区別するために「E資料」と「エロヒスト」のように呼ぶことにします。19世紀の初め頃に、モーセ五書には、神の名前が「ヤハウェ」(例えば創世記4章以下)だけでなく「エロヒーム」とも呼ばれていることが注目されました(例えば創世記20章)。「ヤハウェ」は固有名詞ですが「エロヒーム」は「神」を意味する普通名詞です(これは複数形ですがこの問題には立ち入るのは控えます)。ちなみに「ヤハウェ」は、神の名前ですから、これをそのまま発音するのは畏れ多いとされたために「アドナイ」(主)と発音されていました。これに従って、七十人訳以来、「ヤハウェ」は「主」と訳され、新共同訳もこれに準じています。これに対して「エロヒーム」は「神」と訳されています。J資料で描かれる「主」は人間的ですが、E資料の「神」は人類から超越している印象を与えます。
ところが19世紀の中頃から、E資料のほかに祭司資料編集者たちによるP資料の存在が認められるようになりました(例えば創世記1章)。E資料もP資料も神を「エロヒーム」と呼ぶ点では共通していますが、エロヒストは、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされる(722年)以前の人物で、預言者アモスやホセアと同じ頃の北王国の人だと考えられています。これに対して、P資料の祭司資料編集者たちは6世紀の捕囚期の人たちです。なお以下の年数は、断わりがない限りすべて紀元前です。
■J資料とE資料との区別
J資料とE資料との区別は、主として神の名によるものと、類似の内容がそれぞれの神名で並行してでていることで判断できるとされています。また、J資料はシナイ山での契約を語り、E資料はホレブの山での契約を伝えると言われますが、実際はそれほど簡単ではありません。
J資料とE資料とが共にでてくる最初の箇所は創世記15章の主とアブラハムとの契約の場面からです。E資料には、夢・幻・天使が多く現われます。「アモリ人」のことをエロヒストは「アモリ人」と言い、ヤハウィストは「カナン人」と言います。ただし、15章1節の幻の場面では「ヤハウェ」が用いられていますが、この場合には、E資料がJ資料と結びついた際に意図的に「ヤハウェ」に変更されたと考えられます〔関根『創世記』174〜175頁〕。特に両方の資料が並列あるいは重複する場合には、これの見分け方が難しいようです。以下に例をあげますと、
(1)出エジプト記3章1節〜4章17節までのモーセの召命を採りあげます。3章4節に「ヤハウェ」とあり、同5節に「エロヒーム」、6節にも「エロヒーム」とあり、7節に「ヤハウェ」とあります。チャイルズの『出エジプト記注解』に従うなら〔Childs. Exodus. 52.〕、J資料は、3章2〜4節前半/同5節/同7〜8節/同16〜22節/4章1〜16節です。これに対して、E資料のほうは、3章1節/同4節後半/6節/9〜15節/4章17節です。ただし、3章1節に「ミディアンの祭司」とあるのはJ資料からで、直後の「エトロ」のほうはE資料からだと見る説もあります。2節の「燃える柴」もJ資料からだと言われますが、この「柴」はE資料の4節後半にもでてきます。特に3章16〜22節については、J資料か、E資料かで意見が分かれています(16節に「ヤハウェ」と「エロヒーム」が同時に用いられているから)。
このモーセの召命箇所について、ヴァン・セータースは、オリエント世界の文学様式の視点からさらに考察を加えています。出エジプト記3章6節の「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」はE資料に分類されています。ところが「わたしはあなたの父の神である」は、ここ以外に創世記26章24節と同28章13節にでてくるだけです。しかも創世記のほうはどちらもJ資料に分類されています。ヴァン・セータースは、この様式は同じ文学的類型に属していると見るべきだと言うのです。
ヴァン・セータースは、さらに出エジプト記3章4〜5節の主の顕現の場面とヨシュア記5章13〜15節の「あなたの足から履き物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である」とを比較します。従来ヨシュア記のこの箇所は、出エジプト記のモーセへの主の顕現をモデルに書かれていると考えられてきました。しかしヴァン・セータースは、顕現に対するモーセとヨシュアとの姿勢の違いに注目して、ヨシュアの場合は、むしろアッシリア王アッシュパニバルにイシス女神が幻となって顕現した場合の描写に近いと指摘するのです。彼は、出エジプト記3章5〜6節とヨシュア記5章13〜15節とに見られる類似性は、資料的な類似性や異同性によるものではなく、二つの異なる文学様式から創り出されたものだと見るのです〔Van Seters: The Life of Moses.37-39.〕。
(2)出エジプト記19章〜20章はイスラエルの民がシナイ山に到着し、モーセと共に神の顕現に接し、モーセを通して十戒を授かり、祭壇について指示を与えられるところで、ここはイスラエルの救済史にとって重要なところです。この部分には、J資料とE資料と両方が複雑に絡み合っています〔Childs.
Exodus. 344-51.〕。
19章だけに限っても、J資料は9節/11〜13節前半/15節/18節/20〜21節/25節で、E資料は2節後半/3節前半/10節/13節後半〜14節/16〜17節/19節となります。また十戒はE資料に属します。この分類は1903年の段階のことで、以後諸説紛々の状態が続きます。神の名前とJ資料とE資料の内容的な特徴から判断するのですが、J資料とE資料<以前の>口頭伝承もあり、これらとは全く独立した伝承もあって、適切な判断基準が適用できないからです。したがって神の名前はもはや基準とはなりえないことになります〔Childs.
Exodus. 349.〕。その上に、申命記史家(たち)による編集の手が加わるとすれば、従来のような資料分類は不可能になります。
■エロヒストの編集時期
このようにモーセ五書の資料分析では、J資料やE資料に先立つ口頭伝承の存在が導入されることによって、両者の編集期が遅く設定されることになりました。口頭伝承では、族長たちへの約束から出エジプトへ進み、そこからシナイ契約へ、そしてイスラエルの民の荒れ野の旅を経て約束の国土の征服へつながります。この約束の国伝承は、ダビデ・ソロモン王の時代にようやくその成就を見ることになります。これらモーセ五書の口頭伝承を国民的叙事物語に編集したのはヤハウィストです。彼は南王国ユダのためにこの編集を行なったのですが、これの北王国イスラエルの部分を担ったのがエロヒストです。従ってエロヒストは、アモスやホセアなど北王国の預言者たちに強い関心を示しています。エロヒストは、北王国の滅亡後に南王国へ逃れて、そこで編集を行なったとも考えられます。ヤハウィストの編集時期には、王国時代説と捕囚期説とがありますが、エロヒストのほうにも諸説があります。エロヒストの時代を二王国が分裂した時期(922年)だとして10世紀を採る説があり、9世紀のエリヤとエリシャの時代を想定する説もあり、8世紀の預言者の時代だと見る説もあります〔Anchor(2)479〕。
しかし、ヤハウィストと同じように、エロヒストの時期をさらに遅く設定したのがヴァン・セータースです。彼は、ヤハウィストと同様に、エロヒストのモーセ五書編集の時期も捕囚の直前から捕囚期にかけて設定する説を唱えています。それはヴァン・セータースが、J資料とE資料に先立つ共通の口頭伝承を想定するという資料的な分析から年代を割り出そうとするのではなく、パレスチナを含むオリエントとギリシアの世界的な視野の中にモーセ五書の編集作業を置いてみることから出た見解です。先に指摘したように、モーセ五書とこれに続く王国の歴史のような歴史的叙事物語は、ギリシアでは5世紀〜4世紀まで待たなければならないからです。ちなみに、雅歌のように叙情的な詩は、ギリシアでは女性の詩人サッフォー(612年頃の生まれ?)が最初だとされています。
さらにE資料の場合は、ほんらいJ資料から独立した資料ではなく、ヤハウィストの編集をたどりつつ、これにエロヒストの立場から編集を加えたにすぎないという見方もあります。これで分かるようにヤハウィストとエロヒストの記述は相互に絡み合っていて、フォン・ラートによれば、エロヒストは、「エロヒーム」の神名を用いると同時に、出エジプト記3章あるいは6章からは、ヤハウィストに配慮して「ヤハウェ」を用いているから、モーセ以前の族長伝承での宗教を特定することができないと述べています〔フォン・ラート『旧約聖書神学』(T)25頁〕。だから彼は、エロヒストは、ヤハウィストに手を加えることによって、ヤハウィスト→エロヒスト→祭司資料編集者たちが組み合わされて一つの歴史的文学(叙事物語)が構成されたと観るのです〔フォン・ラート前掲書171頁〕。さらに申命記史家(たち)がこれに修正を加え、歴代誌史家がさらに手を加えたと見るのです〔フォン・ラート前掲書166頁〕。
エロヒストは北王国イスラエルの人であり、ヤハウィストは南王国ユダの人ですが、主としてJ資料を主体にして、これにE資料が挿入されるという過程を経て、南王国の終わり頃に両方を統合する編集が行なわれたと想定されます。これはちょうどヨシア王の改革の頃にあたり、申命記が編集された頃にもあたります。現在の見方では、E資料はほんの一部だけが保存されているにすぎず、しかもJ資料の物語に挿入された状態でしか保存されていないと考えられているようです。北王国の滅亡の際に、エロヒストの資料が失われたからでしょう〔ワイブレイ『モーセ五書入門』48頁〕。
■エロヒストの神学的特徴
ここでエロヒストの神学的な特徴について触れておきます。創世記には、類似する内容を語る場面が3箇所あります。アブラハムの妻サライをめぐる宮廷での出来事(創世記12章10〜20節=20章1〜18節)、アブラハムのそばめハガルの逃避(16章4〜14節=21章9〜21節)、ベエル・シェバ(誓いの井戸)の由来(26章26〜33節=21章22〜34節)です。先のほうがJ資料で後のほうがE資料ですが、これら二つの内容を比較すると、E資料には次のような特徴を読み取ることができます。
(1)神の啓示や人間性を暴露する夢・幻がでてくること(20章6節/21章19節)。
(2)罪や有罪・無罪への反省が加えられていること(20章9節/21章12節/同26節)。
(3)「神への畏れ」が強調されていること(20章11節/21章11節/同22節)。
エロヒストの特徴は、さらに、創世記でのアブラハムとヤコブとヨセフの物語伝承、モーセによる出エジプト伝承、神と民との契約伝承、民数記の荒れ野の旅伝承、そして申命記の終わりにあるモーセの告別説教と彼の死、などにもわたっています。
(4)アブラハム(創世記20章7節)、ヤコブ(創世記28章10節以下)、ヨセフ(創世記40章)、そしてモーセ(出エジプト記3章)などの諸伝承では、これら4人は、神から夢・幻による啓示を受けた人物とされています。このような描き方はエロヒストによるものですが、同時にエロヒストは、彼らを「預言者」だと見ています〔Anchor(2)480〕。もっとも、引用したそれぞれの箇所には、J資料も同時に用いられていることを加えておきます。
(5)E資料において最も重要なのは、十戒と契約の場面です(出エジプト記20章1〜17節/21章22節〜23章33節)。これらはE資料によると判断されますが、しかしこれには諸説があり、これのもととなる原資料(口頭伝承をも含む?)が先に存在していて、エロヒストがこれらの資料を収集し編集したと見ることもできます。
(6)出エジプト記24章は、神と民との最終的な契約締結の大事な場面です。ここには二つの記事が並行してでてきます(1〜2節+9〜11節=3〜8節)。同2節は、3〜8節を飛び越えて直接9節へつながります。問題はいったい、どちらがE資料なのかです。1〜2節+9〜11節がE資料だという説があります〔Anchor(2)481〕〔『旧約聖書注解』(T)184〕。その理由は10節には「エロヒーム」とあり、3〜8節には「ヤハウェ」が用いられているからでしょう。それにもかかわらず、3〜8節のほうがE資料だという説もあります。内容的に見ると、同19章3〜8節から20章18〜21節(神名は「エロヒーム」)へつながり、それがここ24章3〜8節へと一貫しているからという理由です。しかしチャイルズの言うとおり、「内容」から見るというのでは主観的すぎるようにも思われます〔Childs, Exodus. 500.〕。どちらにせよ、ここの二つの並行箇所は、二つの書かれた資料を合成したと考えられます。
しかし、どちらの「書かれた」資料にも、それらの背後には口頭伝承があったと思われますから、ほんらい別個の口頭伝承があり、それが文書化されたものがここに合成されているのでしょう。出エジプト記24章3〜8節には祭儀がでてきますから、ここは契約更新祭において唱えられた口頭伝承からではないかと考えられます。一方、9〜11節のほうは、ほんらいモーセ伝承とは関係のない神顕現の口頭伝承からではないかと思われます。こちらは、より人間的な描き方をしていますから、イスラエル民族以前の古い神話からでているのかもしれません。
結局3〜8節のほうがE資料だというのが大方の見方ですが〔Childs, Exodus. 501.〕、こうなりますと、E資料の神名とは<逆の>結論になりますから、いったい何が資料決定の決め手となるのか、その原理が分からなくなります。とにかく「誰かが」これらを最終的に編集したのは間違いありませんが。
(7)出エジプト記32章には、モーセの留守中に、祭司アロンの許しを得て、民が金の子牛の偶像を作った記事が出ています。問題は、この部分がJ資料なのか、それともE資料なのか?です。ここには、ソロモンの王国が分裂した(922年)後に、北王国の王ヤロブアムが民に作らせた金の子牛の出来事が重ねられていると見られています(列王記上12章28〜33節)。エロヒストは、偶像礼拝の罪を極度に憎んでいましたから、その罪はモーセのような偉大な預言者による執り成し以外に、神の怒りから逃れる道がないと考えていたようです。だとすれば、出エジプト記のこの部分は、北王国イスラエル時代に書かれたものになりますから、9世紀〜10世紀にさかのぼる古い文書資料だということになりましょう〔Anchor(2)481〕。
ところがこれには反論があります。出エジプト記32章7〜24節には、申命記史家(たち)の特徴を読み取ることができます。また同25〜29節は、ほんらい独立した伝承から出ていると見ることができます。これらを総合すると、子牛の記事にもかかわらず、ここはJ資料に属するという説もあります〔Childs, Exodus. 559.〕。さらには、32章全体が、後代の申命記史家(たち)によって、出エジプト記に挿入されたのではないかという説さえあります。しかし32章の出来事も、古い口頭伝承から出ていると見ることもできますから、結局ここは、口頭伝承をもとに、ヤハウィストか、あるいはエロヒストかが文書化したものを、さらに後の申命記史家(たち)が最終的に編集し、その際に彼は、「ヤロブアムの罪」(列王記上13章34節)をそこに組み込んだという見方ができます。以上で分かるように、J資料とE資料との区別は、その判定が難しくかなり混乱しています。
■エロヒスト神学のまとめ
エロヒストは、祭司資料編集者たちのように天地創造から始めることをせず、また、ヤハウィストのように人類の世界から入ることもせず、アブラハムに始まるイスラエルと神との出会いという民族史に視点を絞って語っています。だから、エロヒストは、イスラエルの神への従順と、金の子牛像に見るイスラエルの不従順な偶像礼拝とを対照させて、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、モーセの四大指導者(エロヒストの言う「預言者」)によって神への忠誠を全うするよう求めているのです。ただし、エロヒストの見方によれば、大事なのは四大指導者ではなく、イスラエルの民全体こそ「神の預言者」となるべきであり、約束の国において、イスラエルは「祭司の王国であり聖なる民」(出エジプト記19章4〜6節)となるのです。
エロヒストは、指導者たちに長い演説を語らせる特徴があります。ヨセフがその兄姉たちに語った演説(創世記45章7〜14節/50章15〜26節)、モーセがイスラエルの民に語った演説(出エジプト記20章18〜20節)などがこれです。このように、歴史を教訓的に見る点において、彼の記述は申命記の内容に類似しています。E資料と申命記的な伝承は、共通するところが多く、その伝承はおそらく北王国に起源を有しているのでしょう〔Anchor(2)481〕。
E資料は北王国で形成されてから、8世紀(721年)に北王国が滅亡したために、その間に失われた資料があります。しかし、北王国の10部族の中で、特にヨセフのエフライム族は、モーセへのヤハウェの啓示と召命、さらに出エジプトに関する最古の重要な伝承を保持していたと思われます。E資料は創世記15章に始まりますが、同22章のイサクの奉献、出エジプト記32章のモーセの執り成しなどの信仰的に深い内容を保持していたのです。
■JE資料とエホウィスト
「JE」とは、北王国イスラエルのエロヒストによるE資料と南王国ユダのヤハウィストのJ資料と、この両方を結び合わせた人のことです。これをJE資料と呼び、これを総合し編集した人を「エホウィスト」と呼びます。だから「JE」もまた資料であり人のことです。エホウィストには、後にでてくる申命記史家(たち)の影響が認められないという特徴があります。したがって、彼の編集作業は、北王国の滅亡(722年)と原申命記である「ヨシア王の法典」の発見(622年)との間に行なわれたと考えられます。エホウィストは、J資料を中心にしながら、これにE資料を組み込んだと考えられます。J資料は一貫した物語を形成していますが、E資料はJ資料の中に断片的にしか見られないからです。
しかし、J資料とE資料を結びつけた人というのであれば、いったいエホウィスト自身の資料(JE資料)などというものが存在するのか? という疑問が生じます。まさにこのことが、JE資料の問題です。エホウィスト自身にも「JE資料」と呼ぶべきものがあって、それらはバベルの塔物語やヨセフ物語やヨシュア記の物語の古い層などに見受けられるという説が生じるのはこのためです。こうなると、エホウィストこそが、後ででてくる祭司資料編集者たちに先立って、モーセ五書の基本部分を成立させた人物であることにもなります。
■JE資料の判別
祭司資料編集者たちは捕囚期間中の人たちだと考えられます。だとすれば、エホウィストの作業年代は何時になるのか? 改めてこれが問題になります。JE資料には申命記史家(たち)の影響がないと言いましたが、これに反対して、申命記史家(たち)の影響を認めようとする説も出されるようになっています〔『旧約新約聖書大事典』208頁〕。このように、JE資料とエホウィストの作業も、その判別は必ずしも容易でありません。
(1)例えば出エジプト記1章22節「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうりこめ。女の子は皆、生かしておけ』」を採りあげてみます。この記事の前に、ファラオがヘブライの助産婦たちにこれと同じ命令を出していますが、彼女たちは王の命令をうまく言い逃れます(出エジプト記1章15〜21節)。このお陰で、モーセが誕生し、ナイル川に流されて、ファラオの王女に発見されて王室で育てられます(出エジプト記2章1〜10節)。同1章22節は、ちょうどその間に挟まり込んでいますが、これがなくても、と言うよりこの節がないほうが、話がうまくつながるのが分かります。したがって1章22節は、エホウィストによって後から挿入されたもので、前後をうまく(?)結びつけようとしたと考えられます。
ところがこの説明が逆に議論を呼びます。出エジプト記1章15節以下と2章1節以下とのヘブライ民族絶滅の物語は、ほんらい二つの別個の口頭伝承が背後にあると見られているからです。別個の口頭伝承であれば、1章22節は2章1節以下のモーセ誕生の物語の出だしとして適切であり、1章16節に22節と同様の記事があっても不自然ではありません。モーセ誕生物語と民族絶滅物語との二つの口頭伝承では、モーセ誕生伝承のほうが時期的に早く、神の僕モーセの誕生とこれを阻止しようとするファラオの弾圧物語が、後に1章15〜21節の民族絶滅の物語伝承へと拡大されたと考えられます〔Childs, Exodus. 11〕。しかも、モーセ誕生の口頭伝承は、古代オリエント世界に広く語られた民間伝承がその背後にあることが指摘されています。ちなみにチャイルズは、出エジプト記1章15節から2章10節まではE資料によると見ています。そうだとすれば、すでに文書化されたJ資料とE資料をさらにエホウィストが編集したという見方は成り立たなくなりますから、結局1章22節の資料分類は確定できないままに残されています〔Van Seters Moses. 25,n30.〕。これで分かるように、JE資料の判別は必ずしも容易でありません。
(2)出エジプト記32章30〜34節では、イスラエルの民が金の子牛を拝んだために、モーセは自分を犠牲にしてでも民の罪の赦しをヤハウェに願い求めます。これに続く同33章1〜11節では、民の嘆きと臨在の幕屋での新たな仲保の役割がモーセに与えられます。フォン・ラートは、32章から33章への移行をもエホウィストの構成に分類しています〔フォン・ラート『旧約聖書神学』(T)386頁〕。
しかし出エジプト記32章1〜6節/同15〜20節/同35節は、J資料か、E資料か、どちらに属するかが問われています。ここにも口頭伝承が背後にあり、チャイルズは、これを文書化したのはヤハウィストであると見ています。しかもチャイルズは、同時に、ここに後の申命記史家(たち)の編集の跡をも読み取っています〔Childs, Exodus.557-61.〕
ところが出エジプト記32章の中で、いったいどの部分が「古い」資料(口頭伝承?)に属するのかで諸説が分かれています。これに申命記史家(たち)の後からの編集をも考慮すると「学者たちの諸説の不一致の範囲が広すぎて、議論がひどく錯綜している」〔Van Seters, Moses.290.〕状態です。しかも出エジプト記32章は、申命記9章12〜13節と列王記上12章28〜33節にでてくる「金の子牛」像の記事と並行していると見られます。このために、ヴァン・セータースは、出エジプト記32章7〜10節/同15〜16節をE資料に属すると見て、これに申命記史家(たち)が手を加えたと見ています〔Van Seters, Moses.291.〕。このように諸説が入り組んでいて、その分析をここで紹介することはとてもできません。
(3)最期に民数記32章を採りあげます。この章にはエホウィストと祭司資料編集者たちと申命記史家(たち)の編集とが加えられていると見られています〔Van Seters, Moses. 436.〕。ここには、ヨルダン川の東岸に居住したルベンとガドの2部族のことが語られていますが、この伝承は、ほんらいカナンの征服伝承とは別個であったと見ることができます。だからここを32章21節以下とその前とに分けることができます。
ところが民数記32章は、申命記3章12〜20節のルベンとガドのヨルダン川東岸地区の割り当ての記事と並行していて、民数記の資料のほうが申命記のものよりも古いと考えられます。ところがヴァン・セータースは、32章はヤハウィストと申命記史家(たち)の編集ではないかと見るのです〔Van Seters, Moses. 437ff.〕。けれどもノートに言わせると、ここには後期の祭司資料編集者たちも申命記史家(たち)も関わっていないことになり、古いモーセ五書資料が様々な編集を経ているとは言え、主としてヤハウィストかエロヒストによると見るのです〔Noth, Numbers. 235.〕。このように、この章の資料分析には、ヤハウィストとエホウィストと祭司資料編集者たちと申命記史家(たち)が揃ってでてくることになります。
マルティン・ノートやフォン・ラートのような文献学的な歴史的方法と、ヴァン・セータースのような文学様式による研究方法は、ほんらい矛盾するものではなく、相互補完的に用いられるべきものです。しかしながら、現在の段階では、両者は、補い合うよりも、むしろ全く異なる方向へ進んでいるように見えます[Anchor(2)167].
■「契約」概念とエホウィスト
「契約」(ヘブライ語「ベリート」)の概念は、14世〜13世紀のヒッタイトの条約と旧約聖書の契約とが多くの点で共通することが指摘されるようになりました。すなわち、大王とその支配下にある廷臣たち(諸国の領主たち)との間に交わされる宗主権条約のことです。そこでは(1)序文、(2)前歴史(土地の授与)、(3)基本的条項、(4)個々の規定、(5)証人として神々への呼びかけ(この点で旧約聖書は独特です)、(6)呪いと祝福、という構成をとっています。
旧約聖書では、ヨシュア記24章1〜28節にあるヤハウェとイスラエルの民とのシケム契約の構成が、上に述べた形式に最も良く適合しています(なおサムエル記上12章も参照)。この契約形式は、イスラエルでは士師記の時代にすでに知られていたのかもしれません。こういう形式は、アブラハム契約とモーセを仲介としたシナイ契約に見ることができますが、この契約形式はエホウィストがその輪郭を編集したのではないかと考えることができます。
アブラハム以後の族長による契約は、土地約束を主目的とするものですが、これは半農半牧畜の生活をしていた牧畜の民が依存する耕作地を確保するための契約/約束に起因しています。ところがこの族長による土地約束が、イスラエル十二部族による国土の約束へと拡大することで、六書全体を貫く「約束の国」へと発展しました。エホウィストは、この最終的な契約観の成立に大事な役割を話していると見ることができます〔フォン・ラート『旧約聖書神学』(T)183〜85頁〕。
例えば、出エジプトにおいて、モーセが海を分けたこと(出エジプト記15〜16節)、雲の柱が現われてエジプト軍とイスラエルの民との間に立ったこと(同19〜20節)、エジプト軍が混乱したこと(同24節)、その戦車の轍(わだち)がヤハウェによって重くなったこと(同25節)、これらはエホウィストによる編集でしょう〔フォン・ラート前掲書241頁〕。
エホウィストはまた、出エジプト記3章での神名の啓示にも関わっています(出エジプト記3章6節/同14節)。彼はこのように族長の神とイスラエルの民に啓示されたヤハウェとを結びつけようとしたのです〔フォン・ラート前掲書244頁〕。
シナイ契約の伝承は、出エジプト記19章から民数記10章にわたる膨大なものですが、これはエホウィストによる編集と(出エジプト記19〜24章/同32〜34章)と祭司資料編集者たち(同25〜31章/同35〜民数記10章10節)との二つに分けて見ることができます。エホウィストの編集では、三日目の神顕現の記述で始まり(出エジプト記19章1〜8節)、ヤハウェが十戒を授与し(同20章)、イスラエルの民は祭儀的な祝祭をもって契約締結に入ることになります(同24章3〜8節)〔フォン・ラート前掲書258頁〕。
■伝承の成立
以上わたしたちは、ヤハウィストとJ資料、エロヒストとE資料、エホウィストとJE資料などを通して、「土地取得」に始まる「約束の国」伝承の主な構成要素について見てきました。そこにはまた、後の章で紹介する祭司資料編集者たちと申命記史家(たち)も加わってきます。これで分かるように、約束の国伝承全体についての文献批評は、とても複雑で、その上諸説が入り乱れていて、これの経過をたどることは容易でありません。一つには、約束の国伝承が扱う主題の範囲があまりにも広く、人類の創造と堕罪から、アブラハムたちの族長時代を経て出エジプトへ、そしてイスラエルの民の荒れ野の旅から約束の土地カナンへの到着、ヨシュア記を加えるとすればカナンへの侵入と征服にいたる過程を含むからです。それは、イスラエル民族の長期にわたる歴史的な叙事物語伝承なのです。
しかも、この物語伝承が最終的に成立するのが捕囚期の終わり頃だとすれば、伝承が伝える内容と、これが成立する時期との間に、ほぼ2千年という時間差が広がることになります。その上に、例えばヤハウィストの執筆時期についても、王国時代説から捕囚期の終わり説まで、何百年という違いがあります。こういう状況の中では、資料を見分け、伝承が成立する過程を詳しくたどることは、とうていわたしの力の及ぶところではありません。
だから、わたしはここで、そのような資料分析と伝承の成立過程を明らかにしようとしているのではありません。そうではなく、わたしが注目しているのは、伝承の<最終的な成立>のほうです。複雑で不明確ながら、わたしたちは、約束の国伝承が、どうやら捕囚期の終わり頃に一つの完結を見たと判断することができます。大事なのは、この最期の結果であり、伝承が到達した最終的なまとまりそれ自体のほうなのです。
長編の叙事物語にせよ、叙事詩にせよ、歴史劇にせよ、読者や観衆が、その作品を読み終えた時、あるいは見終わった後で、今まで読んだり見たりしてきたその経過が、最期には一つのまとまりとなり、言わば「一つの映像」を結んで読者や観客に迫り、感動を与えてくれます。それまでの時間の流れや話の筋書きや舞台の場面ごとの状景などが、ある<まとまった映像>を形成して、見る者読む者に迫るのです。これこそが、作家あるいは演出家が、その作品を通じて読者や観客に遺したいことなのです。この場合、物語の筋書きや時間的な経過、あるいは舞台の一つ一つの場面などは、必ずしも明確に記憶されたり分析される必要がありません。最終的に与えられる心像が、言わば一枚の絵画のように、人それぞれの心に遺ること、これが大事だからです。
だから、わたしたちは、約束の国伝承それ自体を知るためには、必ずしもこれの形成過程にさかのぼったり、その資料を分析したりする必要がないのです。物語が最終的に完結した姿となって語りかけてくること、このことが最も大事だからです。約束の国伝承という物語伝承は、これが一つの完成を見た後には、以後のイスラエル民族に大きな影響を及ぼして、イエスの時代まで受け継がれました。だからと言って、イエスの時代の人たちが、伝えられた伝承がどんな資料から構成されているのか?あるいはそれらがどのような過程を経て結び合わされたのか?などということにはあまり関心がなかったと思われます。彼らは、そのような伝承の歴史的な成立過程を知らなかったでしょう。それでも、約束の国伝承は、イエスをも含む当時の人々を動かす強い霊的な力を持っていたのです。
だからわたしたちは、約束の国伝承の細部にあまりこだわる必要がありません。それらが確かでなくても、伝承は人の心に語りかける力を持つからです。絵画の中にも時間があり、その絵の制作過程が秘められています。だからその絵を見て、これを深く探り研究する人には、その絵の訴える力もそれだけ深くなります。しかし、そのような予備知識がなくても、絵はそれだけで、言葉に言い表わせない力を観る人に及ぼすことができるのです。
わたしは、第2部をイスラエルの捕囚以前から捕囚期にわたる時代背景を概観することで始めました。これには、それなりのわけがあります。約束の国伝承が、いったいいつ頃最終的な姿となって成立したのか? その時代背景を知っていることが、この伝承を理解する上でとても重要だと考えたからです。伝承の内容だけでなく、それが最終的に成立した歴史的な時代背景もまた大事な要素なのです。
*文中の引用文献の一覧表は、コイノニア会ホームページの聖書講話欄に出ていますのでご覧ください。
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