14章 申命記史家たち(前編)
■律法関係の諸資料について
 旧約聖書に記されているさまざまな律法のうちで、ごく主要なものだけをあげてみると、先ず「モーセの十戒」(出エジプト記20章2〜17節)とこれに続く「契約の書」(同20章22節〜23章33節)があります。「契約の書」は北王国イスラエルに由来すると考えられます。さらに「倫理十戒」(申命記5章6〜21節)と呼ばれるもの、また「祭儀十戒」(出エジプト記34章10〜28節)と呼ばれるものがあります。「神聖法集」(レビ記17章〜26章)も重要です。これらは捕囚期以前からのものですが、これらの最終的な編集は、捕囚期あるいはそれ以後とも考えられます。
 捕囚期の間に編集された祭司文書の核となるのが「祭司法典」(出エジプト記25章〜31章)です。出エジプト記35〜40章は、祭司法典が実行されたことを記していますが、これも法典に入るのかどうか?また、これの成立は何時か?などが問題になります。祭司法典は、幕屋の建設とその諸設備や諸道具に関するものですが、この祭司法典は、捕囚期の後のユダヤ教の律法を構成する大事な要素になりました。
 祭司法典には含まれていませんが、P資料(祭司資料)に含まれている重要なものもあります。それらは、「贖罪日の規定」や様々な捧げ物についての規定などです(レビ記1章〜16章)。また、「過越祭規定」(出エジプト記12章1〜28節/同13章3〜7節)、「レビ人の規定」(民数記1章47節〜8章26節)もあります。これらも捕囚期の後のユダヤ教に律法として組み込まれました。このほかに申命記には「申命記法」(申命記12〜26章)と呼ばれる部分があります。この部分は申命記以外に出てくる律法と重複していたり、逆に異なっていたりしますから、これの編集は長期にわたって行なわれた形跡があります。
 イスラエル民族は、ほんらい十二部族連合によって形成された「誓約共同体」でしたから、王権といえどもこの誓約と律法による制約を受けていました。このために、捕囚期においては、かつて北王国イスラエルや南王国ユダの王たちが主の律法を破ったことが裁きと滅びの原因と見なされるようになったのです。これに伴って、両王国の滅亡を告知した預言者たちは、モーセの後継者と見なされるようになりましたところでこれらの律法は、主として申命記史家(たち)と祭司資料編集者たちとによって受け継がれてきました。今回は、申命記史家(たち)について見ていくことにします。なお、現代の著作や学者に関する年代などは「紀元後」ですが、それ以外の世紀や年代はすべて「紀元前」です。
■申命記史家関係の用語について
 現行の申命記(Deuteronomy)は、ヨシヤ王の時に発見されたと伝えられる「律法の書」に基づいています。この文書はD」と呼ばれています。だから「D」は、資料のことであって、作者のことではありません。しかもこの「D」は、後の申命記全体の基となるものです。このために「D」は「ヨシヤ王の法典」あるいは原申命記」と呼ばれています。現行の申命記は、これに、さらに申命記史家(あるいは申命記学派)によって加筆・編纂されたものです。したがって、彼らによる加筆部分と「ヨシヤ王の法典」(D)とは区別されなければなりません。
 「申命記史家」(the Deuteronomist)とは、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下などの文書を編纂したと見なされている歴史家のことです。ただしこれには、一人説の「申命記史家」(Dtr)と、二人説の「申命記史家たち」(Dtr1)(Dtr2)と、3人説(DtrG/DtrN/DtrP)あるいはそれ以上の説があり、さらに、「申命記学派」(the Deuteronomistic School)と呼ばれる人たちによる長期にわたる編集説があります。また、申命記史家(たち)の編集によるとされる申命記から列王記上下までの歴史のことを「申命記史家的歴史」(the Deuteronomistic History.略して〔DH〕)と呼びます。だから「申命記史家的歴史」(DH)は、一人説から学派説までを含んだ言い方です。ただし、この「申命記史家的歴史」(DH)は、上にあげた諸文書以外にも、ホセア書やエレミヤ書などを含むより広い意味でも用いられますから注意してください。
 申命記は律法的な精神に基づいて書かれたものですから、そこに表わされている歴史の見方を「申命記史家的歴史観」と呼びます。現在ではDHは、申命記学派によって編纂されたと見る説が有力ですが、この人たちは、ヨシヤ王の宗教改革(622年)<以前の>北王国イスラエル時代の人たちに始まり、南王国ユダのヨシヤ王の宗教改革前後の人たち、さらに捕囚期と、捕囚後のエズラの時代(早ければ前458年頃、遅ければ前398年頃)にいたるまでの人たちを含むと考えられています。
 モーセ五書の資料は、P→E→J→Dの順番で、いわゆる「四資料」と考えられていました。しかし、ユリウス・ヴェルハウゼン(Julius Wellhausen:1844-1918)は、Dを7世紀だと見ることによって、J→E→D→Pへと順序を改めました。彼は次のように考えたのです。
(1)イスラエルの最古の歴史書はJ資料(850年頃)とE資料(750年頃)である。
(2)原申命記は621年に神殿で発見された「ヨシヤ王の法典」(D)と同じである(列王記下22章8節)。
(3)創世記から民数記までの四書に含まれている律法に関する部分(出エジプト記25〜40章/レビ記など)と、律法を含む物語の枠全体は、J資料やE資料や申命記史家(たち)の資料によって形成されているだけではなく、むしろ後の時代のP資料の編集者たちによるものである。
(4)したがってP資料は捕囚期の後になって初めて告知された。
■申命記史家(たち)
 申命記史家(たち)のことを最初に指摘したのは、マルティン・ノートの論文です(1943年)。「旧約聖書には、特に、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記(上下)、列王記(上下)を含む歴史作品と呼ぶことのできる大作がある。我々はこれを、その用語と精神にしたがって『申命記史家の歴史作品』と呼ぶ。これはまさに、紀元前587年の出来事(南王国ユダの滅亡)までのイスラエル史についての最初の叙述である」と彼は述べています〔ノート『イスラエル史』67〜68頁。原書の初版は1950年〕。申命記史家(たち)は、いろいろな時代にわたる広範囲な伝承、起源も性質も様々な諸伝承を集めて、一部は拡張し、一部は要約し、これらの諸資料から全体を形成しました。これらの伝承は、先ず口頭で伝えられ、後になって、おそらく「ダビデとソロモンの王朝時代のかなり早い時期に」記録されていたものが、申命記史家(たち)によって採り入れられたと思われます〔ノート前掲書70頁〕。これに比べると、歴代誌(上下)は、申命記史家(たち)の歴史をほとんど唯一の主要な資料として、これに587年以降の別の資料を加えたものです。ノートによれば、申命記史家の歴史(DH)に比べると、モーセ五書は、まだ口頭伝承の段階にあるものを集大成したもので、したがって、「まとまりのある歴史物語として計画され、描写されたものではない」ことになります〔ノート前掲書68頁〕。
 だから申命記史家は、申命記から列王記上下までの諸文書を壮大な歴史物語として編集したイスラエルの最初の歴史家になります。しかもノートは、申命記史家が単独でこの仕事をパレスチナ(特に南王国ユダ?)で行なったと見ています〔ノート前掲書367頁〕。申命記史家は、イスラエルの歴史を五つの時代に大別しました。
(1)モーセの時代。申命記全体がモーセによって語られるイスラエルへの遺言の形で構成されています。
(2)ヨシュアに率いられてカナンに定住するまで。ヨシュア記1章のヨシュアの言葉に始まり、同23章で終わります。
(3)士師の時代(士師記)。この士師の時代から王国時代への移行点は、サムエル記上12章でのサムエルの告別の言葉が示しています。
(4)王国の時代。列王記上8章のソロモン王による神殿奉献の祈りが、王国時代の頂点を示すと同時に、王朝の時代全体の前半部になります。
(5)北王国イスラエルと南王国ユダの時代から、両王国の滅亡まで。
 では以下で、申命記史家(たち)の編集の跡を幾つかの例を通して垣間見たいと思います。
■シナイ山とホレブ山
 先ず、申命記の中から、申命記史家(たち)の編集の跡の一つを検証したいと思います。シナイ山とホレブ山は、どちらもイスラエルの民がモーセを通してヤハウェとの契約関係に入った場所として重要な意味を帯びています。しかし、これら二つの山の関係は、必ずしも明らかでありません。旧約聖書のモーセ五書から列王記(上下)までの間で、新共同訳に「シナイ」がでてくるのは出エジプト記(13回)、レビ記(4回)、民数記(12回)、申命記(1回:33章2節)、士師記(1回:5章5節)です。これに対して「ホレブ」(「乾いた地/水のない荒れ地」の意味)がでてくるのは、出エジプト記(3回)、申命記(9回)、列王記上(2回)です。このように、出エジプト記から民数記までは「シナイ」が圧倒的に多く、申命記では「ホレブ」が多いのが分かります。逆に言えば、出エジプト記の「ホレブ」(3章1節/17章6節/33章6節)と申命記の「シナイ」(33章2節)とがそれだけ注目されてきます。
〔出エジプトのルートはどこか?〕
  シナイ/ホレブ山は、モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトから脱出してからたどり着いた山ですから、そもそも出エジプトから山までの旅のルートはどこなのか? これが先ず問題になります。このルートについては、現在大きく四つの説があります。この際に最も重要な決め手となる聖書の証言は、「ホレブからセイルの山地を通って、カデシュ・バルネアまでは十一日の道のりである」(申命記1章2節)です。さらにこれに、「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった」(出エジプト記16章1節)も加えられるでしょう。
 ここで「カデシュ・バルネア」が、旅の到達点として重要な意味を持つ場所になってきます。なぜならイスラエルの民は、そこから死海の東へ上り、ヨルダン川を渡ってカナンの地に侵入したことになるからです。このカデシュ・バルネアの遺跡は、現在のイスラエルとエジプトとの国境、すなわちシナイ半島の東側アカバ湾の北端にあるエイラト(古代のエツヨン・ゲベル)から、まっすぐ地中海に近いラフィア(古代のラバン)にいたる直線のちょうど真ん中あたりで、エジプト側(西側)の今のクセイマの近くにあります。この辺りのオアシスは、古代のパランの荒れ野とツィンの荒れ野との境に位置していて、現在のエーン・クデース(「クデース」は「カデシュ」から出た?)とエーン・クセーメの間にあたります。
 だからカデシュ・バルネアは、シナイ半島とカナンの地との境界のちょうど中央に位置することになり、ここの東北側には「ツィンの荒れ野」(現在のネゲブ砂漠)があり、南西のシナイ半島には「パランの荒れ野」が広がり、カデシュ・バルネアのはるか北西の方向に「シンの荒れ野」(?)があり、シンの荒れ野の西側、すなわち現在のスエズ運河のあたりが、「シュルの荒れ野」(?)になります〔日本聖書協会『バイブルアトラス』(1999年)29頁〕。またカデシュ・バルネアの真東の方向には「セイルの山々」があり、そのセイルの南方にモーセが燃える柴を通して啓示を受けたとされる「ミディアン」がありました。
 「カデシュ」は「聖なる」を意味しますから、カデシュ・バルネアは古代から巡礼の聖地とされていたようで、イスラエルの民はここに長い間逗留しました(民数記20章1節/申命記1章46節)。モーセは、ここからカナンへ偵察隊を派遣しています(民数記13章26節)。また後にモーセが約束の土地に入ることができなくなる原因とされる「メリバの水」の出来事もここで起こりました(民数記20章前半)。イスラエルの民は、ここを拠点としてカナンへ向かったのです(申命記9章23節/ヨシュア記10章41節)。このように見ると、カデシュ・バルネアは、イスラエルの十二部族の中の幾つかの主な諸部族が、ここで共同体を結成して、この連合がカナンの土地取得に際して、宗教的・政治的に主導的な役割を果たしたと考えることができます〔『新約旧約聖書大事典』303頁〕。
 旅のルートは、(1)地中海経由説と、(2)シナイ半島横断説と、(3)シナイ半島の南部迂回説とに大別されます〔Eli Barnavi,
Historical Atlas of Jewish People. Schocken Books (1992/2002)5.〕。
(1)旅の出発点は現在のスエズ運河の西に当たるゴシェンのスコトあたりで(出エジプト12章37節)、そこから現在のスエズ運河の一部になっている大苦湖(the Great Bitter Lake)の北辺を通って東に向かい、北上して地中海沿岸にいたり、現在のスイルボニス湖(ここが「葦の海」か?)を通り抜けて、そこから東へ向かってカデシュ・バルネアへいたるルート。このルートだと、シナイ/ホレブ山は、シナイ半島の北部にあり、地中海とカデシュ・バルネアを結ぶ途上に存在することになります。
(2)横断説は、さらに二つに分かれています。一つは、スコトから現在の大苦湖の南端近くの狭い湖を渡り(葦の海?)、そこからシナイ半島を少し南下して、さらに向きを北東に変えてカデシュ・バルネアへいたるルートです。
 もう一つは、上とほぼ同じルートで狭い湖を通り抜けてから、南下せずにそのまま、ほぼ直線にシナイ半島を横断して、カデシュ・バルネアを通過することなく、アカバ湾の北端にあるエツヨン・ゲベル(現在のエイラト)へいたるルート(民数記33章36節)です〔この近くにあるハシェム・エル・タリフは古来の聖地で、「シナイ」はここを指すという説がNHKのテレビで放映されていました〕。
 なお、(2)と(3)のルートの場合は、シナイ/ホレブ山の場所は、現在の死海とアカバ湾とを結ぶルートの東側を走るセイルの山岳地帯になりましょう(申命記33章2節/士師記5章4〜5節/列王記上19章3〜8節)。ちなみに、ヨセフスは、シナイの在処をモーセが妻ティポラの父レウエルと再会した場所の近くであるとして、「かつてモーセが柴の奇跡やその他数々の不思議な幻影を見たシナイ山」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』3巻2章62節〕と記しています。
(3)迂回説は、スコトから大苦湖の北にある狭い湖(現在のティムサ湖?で、これが「葦の海」?)を渡り、そこからシナイ半島の西側を現在のスエズ湾に沿って南下し、「シナイ山」(?)に達する。そこから北上してアカバ湾の北端(エイラト)へいたり、さらにそこからカデシュ・バルネアへいたるルート。
現在シナイ半島の南部には、北から南へジェベル・セルバール山、ジェベル・エッサフサーフ山、ジェベル・ムーサ山、ジェベル・カーテリーン山などがあり、シナイの山岳地帯を構成しています。このルートは初期キリスト教の時代からの伝統的な解釈です。シナイとホレブは同一の山を指すという説と、この山脈の二つの山を指すという説とがあり、また「シナイ」とは特定の山のことではなく、山岳地帯のことで、ホレブ山はその中の一つではないかという説もあります。伝統的には「ジェベル・ムーサ」(モーセの山)が聖書のシナイ山とされているようです。なお、シナイ半島の南部を縦断するこの山脈の東側にハツェロトがあります(民数記11章35節)〔『バイブルアトラス』29頁〕。
〔二つの山の資料〕
 ここで「シナイ/ホレブ」二つの名前を文献学的な視点から見ることにします。従来、モーセ五書で「シナイ」を用いているのはJ資料とP資料であり、「ホレブ」はE資料と申命記史家(たち)の記述にでてくると言われてきました。ただしノートは、すべての「ホレブ」を申命記史家(たち)の編集によると見ていますが〔Anchor(6)47〕。
 出エジプト記3章1節は、モーセがヤハウェの顕現に出会う場面で、「神の山ホレブに」(ハル・ハエロヒーム・ホレーヴァ)と記しています(ただしここは「ホレブの<方向にある>神の山」という意味にもなります)。出エジプト記では、このほかにも「神の山」がモーセとの関係でそれぞれ大事な場面ででてきます(出エジプト記4章27節/18章5節/24章13節)。しかし、出エジプト記の18章以降では「シナイ」が圧倒的に多くなります。出エジプト記後半の18章以下の「シナイ」では、ヤハウィストによるもの(19章11節/34章4節)と、祭司資料編集者たちによるもの(同16章1節/24章16節/34章32節)とがあるようです。これに対して、エロヒストによるものは「ホレブ」です(同3章1節/17章16節/33章6節)。ただし、エロヒストだけでなく申命記史家(たち)の編集の手が加わっているという説もありますが〔Joseph Jacobs/M. Seligsohn/ Wilhelm Bacher; "Sinai, Mount". Jewish Encyclopedia.com in electronic edition〕。
  ところが出エジプト記から申命記に目を転じると、「ホレブ」が圧倒的に多いのです(申命記1章6〜18節/4章9〜14節/5章2〜31節/9章8〜10節)。これらは申命記史家(たち)によると考えられます。ただし、申命記33章2節の「シナイ」は例外で、ここはヤハウェへの賛歌ですから、韻律の関係で変えることができなかったのでしょう(士師記5章3節参照)。
だから、ヤハウェとイスラエルとの契約は「シナイの山」で結ばれたとありますが(レビ記25章1節/民数記9章6節)、申命記史家(たち)の記述では、これが「ホレブの山」になります(申命記1章2節/同6節/同19節/4章15節/5章2節)。「シナイ」と「ホレブ」の用語の相互関係はよく分かっていません。おそらく「シナイ」のほうが古い言い方だと考えられます〔ノート前掲書169頁〕。もしも「ホレブ」と「シナイ」とが同一の山を指すとすれば、エロヒストや申命記史家(たち)がなぜ「ホレブ」を用いたのかが問題になります。「シナイ」は語源的にカナンの異教の女神シンから由来するために、申命記史家(たち)はこれを「ホレブ」(乾いた地/荒れ地)へと変更したという説もあります。
ホレブ伝承〕申命記5章2節には、「ホレブ」での出来事として十戒に基づく主とイスラエルとの末代までの契約が締結され、それが二枚の石の板に刻まれたことが語られています(5章22節)。ホレブ伝承は、主として申命記の5章と9〜10章に組み込まれていると考えられますが、これらの章の成り立ちについて、また、申命記史家(たち)がどの程度までこれらの記述に関わっているのか、これが議論されています〔Anchor(6)48〕。おそらく十戒の部分(5章8〜21節)は、後から加わえられたものでしょう。また5章1〜5節の契約の部分と5章23〜27節の神顕現の記述も、これに先立つものとして、出エジプト記24章1〜11節で語られているシナイ伝承が考えられます(特に7節)。
 わたしたちは、この申命記5章に、申命記史家(たち)の編集の意図をはっきりと読み取ることができます。すなわち、イスラエルが、約束の土地に入った後も、なおモーセ律法を厳守するよう主から命じられていることです(5章4〜5節/同31〜33節)。しかも9章では、イスラエルの民が「かたくなな民」であることが繰り返し警告されており、契約の板を授けられていながら、なお子牛の鋳造を行なって「主に背き続けた」(9章24節)ことが語られています。それでも10章では、モーセの執り成しによって、再び十戒の板が民に授けられるのです(10章3〜5節)。
 申命記史家(たち)の編集は、捕囚期に行なわれたと見ることができますが、イスラエルの民の国土喪失と捕囚の苦難はなにゆえなのか? それは、イスラエルが、かたくなに主に背いて主との契約に従わなかったために受けた「呪い」のゆえである。ノートは、申命記史家の根底にある歴史観をこのように考えました。「イスラエルは、この(捕囚の)出来事をその歴史における決定的な区切りとした。この出来事の印象を強く受けた申命記的歴史記者は、その民の歴史を、神に背き続けてこの窮極的な出来事にいたらせた不服従の歴史として叙述した」〔ノート『イスラエル史』303頁〕というのが彼の見解です。ノートのこの見解は後に訂正を受けますが、それでも彼は、申命記史家(たち)の歴史観の重要な側面を洞察していると言えましょう。
〔山の名の象徴性〕
 以上で分かるように、シナイとホレブとの関係は、考古学的にも地理的にも、聖書の文献批評によっても、明らかにできません。それは聖書の記述それ自体が、両者の関係についてはっきりとは語っていないからです。このために、捕囚以後のユダヤ教のシナイ=ホレブ伝承では、これら二つは「神の山/主の山」として一つの山であると見なされるようになりました。「ホレブ」がほんらいの名前で、「シナイ」はホレブで主がモーセに顕現した後の名前であるとも考えられたのです。「山」はほんらいの神の顕現の場とされていたからです。
 その上で、この山には二つの意味が隠されていると解釈されました。一つは「剣の山」で、これは民を死刑にする根拠をサンヒドリン(最高法院)に与えるからであり、もう一つは「敵意の山」で、これは異教の民への敵意を意味します(シラ書48章7節参照)。またシナイ山は、ヤコブが夢で見た「天までとどく階段」(創世記28章11〜12節)を現わすと比喩的に解釈されました(この夢はヨハネ1章51節の「人の子の上に昇り降りする天使たち」につながります)。このように二つの山は比喩的に「寓意」化されます。こういう寓意的な解釈から、シナイとカルメルとタボルの山々は、メシアの到来の時には一つになり、そこに神殿が建てられると伝えられたのです〔Joseph Jacobs et al; "Sinai, Mount". Jewish Encyclopedia.com 〕。このように、ヘブライの伝承では、二つの山での歴史的な出来事やそれらの地理的な場所が、比喩的に解釈されることで、霊的あるいは神学的な意義を与えられて伝えられるのが分かります。後にパウロが「シナイ山」について語る時に、ヘブライの伝承に従って、こういう寓意的な解釈法を用いているのもこのためでしょう(ガラテヤ4章24〜25節)。
■申命記史家(たち)の記述
 申命記における申命記史家(たち)の編集の例をあげましたので、以下では、ヨシュア記以降の彼らの編集の跡を幾つかの例を通して垣間見たいと思います。なお、ノートに準じている部分は、彼の単数説に従って「申命記史家」と言うべきでしょうが、これは後で述べるように複数説に変わりますから、ここでは「申命記史家(たち)」とします。
【1】ヨシュア記1〜12章には、ヨシュアに率いられたイスラエル十二部族によるカナンの土地取得が記録されています。これは古い資料に基づいて、申命記史家(たち)によって編集されたものでしょう。特にヨシュア記10〜11章は、その征服の状況を活き活きと伝えています。10章はエルサレムの北西部から南西部にいたる地域を支配する5人の王とヨシュア軍との戦いの場面ですが、ここはイスラエル十二部族のベニヤミン族とユダ族の地域にあたります。同11章は、ガリラヤ湖の北部のハツォルの王とその同盟軍との戦いの様子を描いていて、イスラエルがガリラヤ湖の北西部一帯を征服した物語です。
 しかし、10章で語られる実際の戦場は、エルサレム北西部の山岳地帯、すなわちギブオンからアヤロンの谷にいたる比較的狭い地域に限られているのに気がつきます。ここは後の北王国と南王国との境界にあたり、ベニヤミン族の地域にあたりますから、10章で語られているのは、ベニヤミン族がヨルダン川を超えてこの地域へ侵入した際の自分たちの土地取得伝承から出て来ると考えることができます〔ノート前掲書103頁〕。特に10章12節の「太陽と月とが動きを止めた」とある歌は『ヤシャルの書』にあると記述されているように、申命記史家(たち)の記述は古い資料によっています。ここでは、ヨシュアが主に向かって祈ると「太陽と月が動きを止めた」(ここを「見えなくなった」として日食と月食とに関連づける解釈もあります)とありますが、人間が天体の運行に直接呼びかけるという考え方は、イスラエルの伝承からではなく、周辺のカナン神話からの影響であろうと考えられます。この部分には、申命記史家(たち)によって、古いカナン神話の資料が用いられているのです。注目すべきなのは、申命記史家(たち)の語りの根拠が、イスラエルの伝承から出ていることだけではなく、異民族の文書からも引用されていることです。だから、申命記史家(たち)は、このような資料を用いるにあたって、資料それ自体の根拠に基づいて語っているのではなく、「主が働いたこと」を証しするために、カナンの神話をも含むすべての資料を用いているのが分かります。この見方こそ、申命記史家(たち)の記述の根底を流れる歴史観です。資料それ自体よりも、これをどのような視点から<解釈する>のかが重要であり、その神学的な視点が、例えば捕囚によって変化するにつれて、出来事を伝える資料それ自体の解釈もまた変容するのです〔Trent C. Butler; Joshua. WBC (1984)〕。
 だから申命記史家(たち)は、ベニヤミン族に伝わる伝承と、全イスラエルの民が東ヨルダンから侵入してエリコを通り、カナンを征服した物語とを重ねることで、全イスラエルのすべての部族の物語としてこれを描いているのです〔ノート前掲書103頁〕。ただし、5人の王の敗北の物語では、彼らはなぜわざわざ「マケダの洞穴」(ヨシュア記10章16節)のような不利な場所に逃げ込んだのか?という謎もあるようです。ヨシュア記10章28〜35節が申命記史家(たち)が用いたほんらいの資料に近いと考えられますが、これに対して10章40〜43節には、申命記史家(たち)による誇張が見られるという説もあります。しかし、ここで語られている人物は実在であり、それらの場所も、最近の発掘によって、前1200年代にひどい火災による破壊の跡が確認されています〔J.Alberto Soggin, Joshua. Trans. by R.A.Wilson from French. Old Testament Library. SCM (1972).124/131.〕。
 続くヨシュア記11章では、ガリラヤ湖北部のハツォルの王とその同盟軍と、ヨシュアが戦った出来事が語られます。しかしこれは、ほんらい、先の南部ベニヤミン族の地域のとは別個の部族からの伝承です。申命記史家(たち)は、これをも南部の戦いと組み合わせることで、ヨシュアに率いられたイスラエルの征服の過程全体を代表させているのです。しかも、申命記史家(たち)は、これらの戦いが、ヨシュアの力によるものではなく、すべてにおいて主なる神が共に働いてくださったからだと強調するのです(ヨシュア記10章14節)。ヨシュアに率いられたイスラエル軍は、息もつかせず敵を追跡し続けて、「滅ぼし尽くした」とありますが、彼らは、申命記20章16〜18節で語られているとおりに行なったのです。これが申命記史家(たち)の特徴で、彼は、申命記の精神に従って、神がモーセに語った言葉の通りに、モーセの後を継ぐヨシュアを通して、神の業が行なわれたと見ているのです(ヨシュア記11章15節)。
【2】ヨシュア記13〜19章と21章は、イスラエル十二部族の領域範囲を確定する記事です。この部分も、その基本理念は申命記史家(たち)によるもので、これにさらに諸部族の伝承などが加わえられることで、パレスチナ全土が、イスラエルの十二部族連合の領土であることが確認されます。これらの記述には、各部族に伝わる諸伝承が用いられていると思われますが、ノートによれば、それらが「ある時代にそれぞれの部族が耕地として実際に所有していた土地を再現している」ものではなく、むしろ、パレスチナの「全地域」が十二部族連合によるイスラエルに属するもので<なければならない>という理念に基づいていることになります〔ノート前掲書80頁〕。ただし、ノートも認めるように、これらの記述には、諸部族が実際に所有していた領地が反映しています。
 半農半牧畜の民であったイスラエルの諸部族は、始めのうちは、まだ人の定住していなかった地域に居留して、かなりの期間にわたって徐々に土地獲得が行なわれたと考えることができます〔ノート前掲書97〜99頁〕。だとすれば、イスラエルの土地取得は、新来のイスラエルとそれまでのカナンの諸民族との劇的な戦争によって成就したとは言えないことになりましょう。ただし、例えばモアブなどのカナンの諸部族の間でも争いが絶えませんでしたから、イスラエルの諸部族とカナンの部族たちの間にも戦争が行なわれたと考えるべきでしょう。また、ヨシュア記が語るような「滅ぼし尽くす聖絶」は、申命記史家(たち)の理念的な構成によると考えられますから、これが実際に行なわれたかどうかは問題です〔Soggin, Joshua. 126.〕。
 申命記史家(たち)は、これらの編纂を通して、捕囚の民に勇気と慰めを与えようとしています。かつてのヨシュアに与えられた「恐れるな」という神の言葉は、恐れに囲まれている捕囚期の民を力づけるためのものです。彼らの置かれた状況を打破するために戦ってくださるのは「主なる神」だけです。このようにして、申命記史家(たち)は、ヨシュア伝承をイスラエルの土地取得の「タイプ」(予型)とすることによって、捕囚の民に彼らの未来を預言することができたのです。
【3】ヨシュア記8章30〜35節を採りあげます。ここには、(1)ヨシュアが主のために祭壇を築いたこと、(2)祭壇は自然の石であったこと、(3)その石にモーセから与えられた教え(律法)を刻んだこと、(4)その石の上で主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげたこと、(5)主の契約の箱の前に全イスラエルが集まったこと、(6)民の半分はゲリジム山(祝福)の前に、半分はエバル山(呪い)の前に立ったこと、(7)ヨシュアは、律法の言葉を朗読して、祝福と呪いの言葉を告げたこと、これらが記されています。もっとも、これらの項目の(6)は申命記11章29〜30節にもあり、(2)(3)(4)(6)は申命記27章2〜10節にもあり、(7)は申命記11章29〜30節にもあります。
 エバル山とゲリジム山の間にあるのはシケムです。シケムは、現在のエルサレムから直線距離で北へ46キロほどの所にあり、現在のナブルースにあたります。ナブルースの東に「テル・バラータ」と言う遺跡があり、そこがシケムの所在地だと考えられています。ナブルースは現在のイスラエルのちょうど中心に位置していて、ここは、イスラエルが入る以前のカナンの人たちの間でも、聖所として崇められていた場所でした(創世記12章6節)。アブラハムの孫ヤコブは、ここの一部を買い取って「イスラエルの神」と名づけています(創世記33章20節)。ここは、後の北王国イスラエルのマナセ族の領地に入りますから、捕囚以後はサマリア領になり、イエスの時代には「スカル」と呼ばれていてヤコブの井戸がありました(ヨハネ4章4〜5節)。
 ヨシュア記8章の記事は、ヨシュアの時代に、このシケムで、イスラエルの部族連合が集まり「シケム契約」を結んだことを告げています。しかしここは、古いカナン時代からの聖所でしたから、カナンの土着の農耕の祭儀や神々への犠牲の祭儀も、このイスラエルの中央聖所で行なわれる祭儀に採りこまれていた形跡があります。しかし申命記史家(たち)は、ここに、そのような祭儀よりもヤハウェとイスラエルとの契約締結と、これへの信仰告白、そして契約締結に伴う「モーセの言葉」すなわち神の律法を刻んだ石を置いたのです。契約締結と律法の朗読は、おそらく年ごとに更新されて行なわれたと思われますが、この中央聖所では、7年ごとに、特別に厳かな締結の祭儀が執り行なわれて、部族の連合が確認されたと考えられます〔ノート前掲書134〜136頁〕。
 申命記史家(たち)はここで、すでに正当な祭儀を執り行なう状況を喪失した捕囚の民に向かって、残された最後の頼みの綱として「モーセ律法」を提示するのです。捕囚期の民は、大国の国家宗教という異教に支配された状況の中にあって、イスラエル民族がよって立つ霊的アイデンティティを喪失しそうな状態に置かれていました。モーセ律法だけが、イスラエルの民の霊的なアイデンティティを維持するただ一つの絆であること、このことを申命記史家(たち)は民に思い起こさせているのです。
 ヨシュア記のこの箇所の基となる申命記27章の伝承(上に引用)には、「エバル山」(4節)とありますが、サマリアに伝わるモーセ五書では、ここが「ゲリジム山」となっています。どちらがほんらいの読みなのか分かりませんが、おそらくここには、捕囚期以後になって、申命記史家(たち)の編纂の際に、かつての南王国ユダ(当時のユダヤ)と北王国イスラエル(当時のサマリア)との両方の伝承が混在していたと考えられます。
 また、申命記27章では、律法を刻むための「しっくいを塗った石」と、犠牲のための祭壇を築く「鉄の道具を用いない石」とが、同時にでてきます。ヨシュアの時代は後期青銅器時代ですから、鉄はまだ用いられていません。だからこれは、後の申命記史家(たち)の時代錯誤です。しかも申命記史家(たち)は、申命記27章にでてくるふた種類の用途の異なる石を、ここで一つにまとめています。彼はここで、祭儀よりも律法のほうを重視するように捕囚の民に向けて語るのです。なお申命記とヨシュア記にでてくるこの石の祭壇は、出エジプト記20章25節の「石の祭壇」にさかのぼるものです。
 また、ここでのヨシュアは、「律法の朗読」を行なうことで、祭政一致の王のイメージを帯びています。申命記史家(たち)は、ヨシュアをかつての王国のダビデ王あるいはソロモン王をそのモデルとして描いているのでしょう。彼は捕囚の民に、来るべきヤハウェの王国が、もはや祭壇や祭儀によるよりも、律法によるものであり、律法こそがその支柱となることを伝えているのです〔Trent C. Butler; Joshua. WBC (1984)〕。
【4】士師記には、10章1〜5節にトラとヤイル、12章7〜15節にはイブツァン、エロン、そしてアブドンと全部で5名の士師の名前と彼らの出自(しゅつじ)がでています。しかし、これらの士師たちよりもはるかに有名なのが、オトニエル(士師3章7〜11節)、エフド(同12〜30節)、シャムガル(3章31節)、デボラとバラク(士師4章〜5章)、ギデオン(6章〜8章)、エフタ(10章6節〜11章7節)、サムソン(13章〜16章)です。
 オトニエル以下の8名の士師たちは、外敵からイスラエルを救った英雄とされていますから、彼らを「大士師」と呼び、これに対して、トラからアブドンまでの5名を「小士師」と呼んでいます。ただし、シャムガルについては、その記述も簡略で、彼が「アナトの子」とあることから、その父あるいは母がカナン系ではないかと推定されるので(アナトはカナンの豊穣の女神)、彼を「小士師」に分類する見方もあります〔『旧約新約聖書大事典』543頁〕。しかし彼は「棒でペリシテ人600人を殺した」とあって、武器を持たずに大勢の敵を殺したのは、サムソンの偉業(士師15章15節)にも匹敵するというので、「彼もイスラエルを救った」と記されているのでしょう。このために彼も「大士師」に入れられているのです〔Soggin, Judges. 58.〕。
 サウルの王国時代以前のイスラエルでは、十二部族連合の代表が年に一度、おそらくギルガルにある中央聖所に集まって、イスラエル全体に適用される「神の律法」が告知されて、これへの服従を誓ったと考えられます。ノートは、5名の小士師たちとエフタを含めた6名こそ、この聖所での律法告知を執り行なった指導者たちではないかと推定しています。ただし、このような役目を果たす「士師」が、どのようにして選ばれたのか? 部族の長たちによる選出によるのか、あるいは籤(くじ)によるのかは分かりません。リストを見れば、士師たちはいろいろな部族からの出身であり、そこには一定の継続性が認められません。彼らはおそらくその時々に、ある一定期間の士師の職務を担ったと考えられます。
 だから、「士師たち」(ショフェティーム)というのは、祭儀や裁きを行なう人たちのことではなく(これらの務めは各部族の長や部族ごとに設けられていた地方の聖所の祭司たちの役目でした)、部族連合全体をまとめる「イスラエルの神の律法」を年ごとに確認させる努めを担っていたと考えられます。10章の小士師たちのリストには、それぞれの士師が何年間その職にあったかが明記されています。このことは、当時のイスラエルでは、年代が「その士師の何年目」という仕方で語られていたことを意味します〔ノート『イスラエル史』138〜139頁〕。
 「士師」(ショーフェート〔単数〕)とは、これの動詞の「裁く」(シャーパット)が意味するように「法的な裁判」を執行することだと考えられてきましたが(英語で「士師記」は"Judges")、小士師の場合は、裁判ではなく、むしろ連合全体を束ねる「神の律法」を公に朗読することであり、おそらくこのような「法」は、当時のオリエント地域一帯に共通する自明な法概念に基づくものだったのでしょう〔Soggin, Judges. 197.〕。
 これに対して大士師は、「裁き」や「裁定」の役目とは関係のない軍事的な司令官のことで、外敵からイスラエルを「救う」カリスマ的な指導者のことです。おそらく大士師たちの物語は、口頭伝承で語り伝えられていたもので、それらが、サウル王の王国時代の初期に一つのまとまった物語として形成されたのでしょう。
 女預言者デボラの歌(5章)、サムソンの物語(特に士師記14章の謎かけの部分)、ダン部族の移動とこれに伴う異教の民への「聖絶」(17章)、ベニヤミン族がギブアで行なった蛮行と、これが原因となって生じたベニヤミンと他部族との間の「内紛」(19〜21章)などは、王国時代以前からの伝承に基づくと考えられます。ただし、ダン部族とベニヤミン族の物語については、これらが士師記に加えられたのは、申命記史家(たち)よりも後の段階かもしれません〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)430頁〕。
 小士師たちのリストは王国以前からの資料で、申命記史家(たち)は、このリストに英雄的な大士師たちの物語を結びつけたのでしょう。こうすることによって、彼らは、それまで個々の部族ごとに語られてきたカリスマ的指導者たちの伝承を、全イスラエルの部族連合にかかわる出来事としたのです〔ノート前掲書212頁〕。申命記史家(たち)は、このように士師記をイスラエルの「士師の時代」の記録として、イスラエルの歴史全体に位置づけたのです。
 申命記史家(たち)の歴史観は、士師記2章10〜22節にその典型を見ることができます。この部分は、ヨシュア記24章19〜28節で、ヨシュアが民と交わした約束を受け継いでいます。士師記2章14節の「バアルとアシュトレト」は、申命記史家(たち)がカナンの偶像礼拝を指す言い方です。イスラエルの民が主を忘れて堕落すると、イスラエルは外敵の支配を受けます。その圧迫にたまりかねて民が主を呼び求めると、主は士師をたてて民を救うのです。しかし、民は再び不従順に陥り、敵の支配に苦しむことになり、民は再び悔い改めて主に戻り、主の憐れみによって救済が行なわれる。民の偶像礼拝に続く主からの罰、これの後に民の改悛があり、これが主からの救済に先立つ、というのが士師たちの登場を通じて繰り返されるパターンです。これが士師記全体を貫く申命記史家(たち)の史観でしょう。なお、主と民とは「結婚の絆」で結ばれていて、民が「他の神々を恋したって姦淫した」(士師記2章17節)とあるのは、ホセア書と申命記史家(たち)とのつながりを想定させます。
 申命記史家(たち)の意図は、過去の歴史の編纂というよりも、南北二王国がなぜ滅びなければならなかったのかを捕囚の民に語る必要に迫られたからであり、捕囚の出来事がイスラエルが主に対して犯した罪のゆえに下された裁きであることを告げようとするもので、彼らは、このような意図の下に、捕囚にいたった民の歴史を士師の時代のそれと重ね合わせているのです〔Soggin, Judges. 43.〕。
【5】サムエル記(上下)に入ります。申命記史家(たち)は、古いサウル伝承を用いながら、これを補うために以下の部分を追加したと見られていますが、それらは、サムエル記上7章2〜17節/8章1〜22節/10章17〜27節/12章1〜25節です〔ノート『イスラエル史』603頁注(17)〕。
 サムエル記で語られるサウル王の王国物語において、サウルによる王国に反対する人たちは「ならず者」と呼ばれています(サムエル記上10章27節)。しかし、申命記史家(たち)は、サウル王を立てるにあたり、民はサムエルに向かって、「今こそほかのすべての国々のように、わたしたちに裁きを行なう王を立ててください」(サムエル記上8章5節)と要請します。この「ケホル ハゴイーム」(すべての<異教の諸民族>のように)は、申命記史家(たち)によるもので、サウルの王国に対して申命記史家(たち)が根本的な疑いを抱いたことを意味します。ここでは、ほんらい神のみがイスラエルの王であるべきところを、民の誤った要望から王制が生まれたとも理解することができます。このような理念はサムエル記上7章2〜17節/8章/10章17〜27節などにも表わされています〔ノート前掲書223頁/603頁〕。申命記史家(たち)は、サムエルの祭政一致の制度からサウルの王権が生まれたことを王権の「世俗化」が生じたと考えたのかもしれません〔ノート前掲書613頁注11〕
【6】列王記(上下)に入ります。列王記上3章〜11章に、ダビデ王に優るほど詳細にソロモンの事績が記されています。これは、申命記史家(たち)が『ソロモンの事績の書』(列王記上11章41節)を利用することができたからです。
【7】列王記上11章28節には、ソロモン王がヤロブアムを「ヨセフ族の労役全体の監督に任命した」とあります。この記述が注目されるのは、これに続いて、ヤロブアムが預言者アヒヤと出会い、そのことが、ソロモンの王国が南北に分裂する発端となるからです。ここで「彼をヨセフの家のすべての労役のために」とあることから、ソロモン王はヨセフ族にも強制労働を課したのではないかと見られています。これが南北二王国分裂の発端になったのでしょう。ただしノートは、ここの「セヴェル ベート ヨセフ」(ヨセフの家の労役)の「セヴェル」とは、「担ぎ人夫」のことで、必ずしも「強制労働」の意味にとるべきではないと見ています〔ノート前掲書609頁〕。
 ただし列王記上4章6節には「労役の監督」とあり、ここで言う「労役」(マス)とは、税の代わりに家畜や人間が無報酬で労役に服することであり、おそらくこれは、イスラエルによって征服されたカナンの諸民族に課せられたのであろうと考えられます〔John Gray,I & II Kings. Old Testament Library. SCM (3rd editon:1977)134.〕。ところが、列王記上5章27節には「ソロモン王はイスラエル全国に労役を課した」とあり、ここでは異民族だけでなくイスラエルにも「労役」(マス)が課せられています。イスラエルには兵役が課せられているから、このような強制的な労役は免除されているという見方もできますが、イスラエルの人にも臨時にこのような労役が課され、一方、異邦の民には恒常的にこのような労役が課せられたのでしょう〔Gray,I & II Kings. 155.〕。ただし、同9章22節には「イスラエル人は一人も奴隷(アーヴェッド)としなかった」とあって、これは5章27節の記述と矛盾します。しかし「奴隷」とは異民族に恒常的な労役の状態を強いることを指しているのであり、一方のイスラエル人にも労役が一時的に課されたけれども、彼らには兵役も課せられていたことを指すのでしょう。イスラエルと非イスラエルとを区別するこの記述も申命記史家(たち)の編集による訂正だと考えられます。なお、9章16節では、サムエル記上15章3節に見るような「絶滅」が語られていて、ここには、申命記史家(たち)の祭政一致の国家理念がやや「時代錯誤的に」〔Gray,I & II Kings. 251.〕描かれています。
【8】列王記上11章42節に「ソロモンがエルサレムで全イスラエルを治めたのは40年であった」とあります。ソロモン王の死は926年の秋から925年の秋の間です。ソロモンの死の後から、ユダ王国とイスラエル王国との王たちの年代が途切れることなく記されていて、これは申命記史家(たち)が「ユダないしイスラエルの王たちの日誌」のような年代記を資料として用いていることを意味します。この年代記では、まず両王国の王の治世の年数が記され、次に、ユダとイスラエルの対照歴史年表が記されています。両王国のうちで、一方に王位交代があった場合には、もう一方の王国の王の年代が記されています〔ノート前掲書287頁〕。
 こうして申命記史家/学派的史観は、バビロンにいる捕囚期間中のイスラエルの人々に影響を及ぼし、さらに捕囚の後までも、申命記史家/学派の理念は受け継がれました。捕囚の地バビロンでは、民の背きに対する申命記史家(たち)の反省と懺悔に基づいて、第二イザヤの作者は、ダビデ契約こそが、捕囚のイスラエルの民へ向けられた新たな神の契約だという信仰に達したのです。第二イザヤは、このような信仰に立って、新たな「ヤハウェの僕」が現われることを預言しました。
■申命記学派について
 以上わたしたちは、申命記史家(たち)の編集の例を主としてノートの著作に準じて見てきました。しかしノートは申命記史家が一人であると考えましたが、その後、申命記史家は、一人ではなく集団的なグループ(申命記学派)だと見なされるようになります。この辺の事情を簡略に記しておきます。
 ノートによれば、申命記史家の歴史編纂、言い換えると申命記的歴史(DH)は、バビロンで幽閉されていた南王国ユダのヨヤキン王が、その名誉を回復されて幽閉から解放された時(列王記下25章27〜30節)をもって終わると考えられました。新バビロニア王国の第3代目のエビル・メロダク王(在位562〜50年)が、それまでの政策を転換して、ユダ王国を含む諸国により寛大な処置を執ったからです。
 ノートは、北王国イスラエルの滅亡と、続いて生じた南王国のエルサレムの陥落(587年)の時から、ヨヤキンの解放までの南北の王国の歴史を「イスラエルの民が幾世紀にわたってヤハウェに不従順であった結果」だと総括しました〔Anchor(2)161〕。「申命記史家は、その民の歴史を、利用できた資料に基づいて、神に背き続けてこの窮極的な出来事にいたらせた不服従の歴史として叙述した」〔ノート『イスラエル史』303頁〕のです。神への背きの結果、預言者たちによって告知されていた「神の裁き」が、イスラエルの民に成就したのですから、この間のイスラエルの歴史に対するノートの見解は、否定的で暗い「呪い」の様相を帯びています。ちなみに、ノートの『イスラエル史』の原書が出たのは1950年です。
 フォン・ラートは、1947年に、ノートの悲観的なDH観に対して、両王国の滅亡と捕囚の出来事に、裁きと同時に、というよりは裁きを超えたヤハウェの「恵み」を読み取ろうとしました〔Anchor(2)161〕。フォン・ラートのこのような申命記史家的歴史(DH)理解は、その『旧約聖書神学』(1)(2)(1960年)においてはっきりと見ることができます。
 申命記史家的な歴史観(DH)は、預言者たちの口を通して、イスラエルとユダの民の不従順に向けて主の裁きが下されたと観ています。他方において、主が預言者ナタンの口を通して「わたしはダビデの王座をとこしえに堅く据える」(サムエル記下7章13節)と告げた約束(ダビデ契約)は、取り消されることがなく生き続けるのです。ユダの王たちはヤハウェとともに「完全に」歩むことはしなかったが、ただ一人、ダビデ王だけが、ヤハウェの前に「全き心をもって」正しく歩んだと観るのです(列王記上8章25節/同9章5節)。「信仰はこのような意味でつねに一人の人格に向けられていることが正当にも言われてきた」〔フォン・ラート前掲書(2)515頁〕のです。フォン・ラートは、このダビデ契約が、新約において、一人の方キリストの受肉につながると見ています。
 確かに、ダビデ王朝を継ぐべきエホヤキンも、王朝の回復を望んだゼデキヤも、かつての王朝の終焉を受け容れざるをえませんでした。ヨシヤ王の下で始められた申命記史家(たち)の歴史は、ダビデ契約と深くかかわっており、イスラエルとユダの王たちが、この点で挫折したことが指摘されています(ヨシュア記24章15節/同19〜20節参照)。このようなダビデ王朝の挫折を通して、神と共に生き、神に属することが、人間の力では不可能であることを悟ったのが、捕囚を体験したエレミヤであり、エゼキエルであり、第二イザヤです〔フォン・ラート前掲書(2)353頁〕。しかし、まさにそのような現実の中において、イスラエルの主である神がどのような方であるのかが、新たな契約として彼らに啓示されます(エレミヤ書31章31〜32節/エゼキエル書18章31〜32節/イザヤ書55章3節)。フォン・ラートは、このようにDH全体を通して「メシア思想」を見出そうとしたのです〔Anchor(2)161〕。
 なおここで、フォン・ラートは、聖書が語る「イスラエルの歴史思考」(信仰告白)と、現在の批評的な歴史学で言う「史実」との間に、乖離が存在していること、だから、「現代的な批評的歴史学で通用している意味で理解するのではなく、イスラエルの歴史思考に適合する意味において、出来る限りこれを理解するよう試みるべきである」〔フォン・ラート前掲書(2)560頁〕と結んでいますが、これはとても重要な指摘だと思います。
ヨシヤ王と捕囚期との編集〕ヴォルフ(H.W.Wolff)は、ノートとフォン・ラートとの両説に対して批判を加えました(1961年)。ノートに向けては、捕囚期の民に向けたメッセージとしては、彼の結論はあまりに絶望的すぎると批判し、フォン・ラートの説に対しては、ダビデ王へのナタン預言はモーセ契約を超えるものではないとして、モーセ契約に背いた罪はダビデ契約をも無効にすると考えたのです。その上で彼は、背教→処罰→悔い改め→救いというパターンを提示しました〔Anchor(2)162〕。
 またニコルスン(E.W.Nicholson)は、DHの編集が複数の人たちによって行なわれたと提唱しました(1967年)。彼は、北王国イスラエルの滅亡に際して、北王国の預言者たちのサークルが、それまで北王国に伝承されていた資料を持って南王国ユダへ避難し、そこで彼らは、マナセ王の時代(687頃〜642年)に、宗教改革を計画したと考えたのです。彼らは、ヤハウェによるダビデ王朝への契約を基にして、エルサレムを中心とするダビデ契約の神学を打ち立てようと図りました。彼らの計画はエルサレム神殿内に保存されて、これがヨシヤ王の時代に発見され、ヨシヤ王の宗教改革へつながった。ニコルスンはこのように理論づけたのです〔Anchor(2)162〕。これが「申命記学派」説のはじまりです。したがってニコルスンは、DHの編集は南王国ユダの末期、捕囚期に入る少し前に成立したと見ています。
■クロスの二人説
 わたしたちはここで、ノートとフォン・ラート以後に提起された申命記史家的歴史(DH)についての見解を、主としてクロスの説によってたどりたいと思います。クロスは、その『カナン神話とヘブライの叙事詩』の10章「列王記(上下)の主題と申命記史家的歴史の構成」〔Cross. Canaanite Myth and Hebrew Epic. 274-289.〕において、ノートとフォン・ラートの説を簡潔にまとめてから、これにW・ヴォルフの説を加えた上で、これらの諸説を踏まえて自分の説を形成しました。
 クロスは先ず、ノートの説が、「前の預言者」たち、すなわちヨシュア記から列王記までの書が一人の独創的な作者による編集であること、彼の編集が終わるのは捕囚期が終わる頃(550年)よりも前であること、この申命記史家が、申命記の古い形に解説と結論を加えて、その申命記をヨシュア記の前に置いて、申命記的歴史(DH)の初めとしたことなどを紹介します。
 次にクロスは、ノートのこのような申命記的歴史の見解に対して、申命記的歴史には、捕囚期以前と以後の二つの編集段階があったという説を紹介します。クロスは、申命記的歴史の編集者(単数)が、その資料を得たのは捕囚期<以前>のことであると言われていること、しかし、捕囚期以前において申命記的歴史的な史観が<すでに知られていた>かどうかは、まだ未確認であること、それにもかかわらず、申命記的歴史が捕囚期以前の編集であるというノートの説が基本的に認められていると指摘します〔Cross, Canaanite Myth. 276.〕。
 クロスは次に、フォン・ラートが、神からのダビデへの約束、預言者ナタンによるダビデへのお告げなど、申命記的歴史の史観には「恵み」が一貫していると見ていること、このような「メシア的概念」が、捕囚期以後における回復への希望を語っていると見る説を紹介します。その上でクロスは、ヴォルフの説を紹介していますが、ヴォルフの説に見る堕罪から悔い改めと救済にいたるパターンが、申命記的歴史<ほんらいの>史観なのかどうかは疑問だとしています。
 クロスは指摘します。申命記的歴史は、ダビデ王朝への永遠の契約を主張しているが、そのことは、ダビデ王朝の資料をそのまま受け継いだことによって、王権イデオロギーが申命記的歴史に「生き残った」からではない。申命記史家は、永遠のダビデ契約をば、彼自身の申命記的歴史神学の根底に据えようとしているのだと。クロスの叙述は晦渋(かいじゅう)ですが、列王記を含む申命記的歴史の神学が、相互に矛盾する複雑な過程を経ていることを指摘しています〔Cross, Canaanite Myth. 278.〕。
【第1段階:申命記史家(たち)の編集】
 以上のことを踏まえた上で、クロスは申命記史家(たち)(Dtr=Deuteronomist)の編集を〔Dtr1〕と〔Dtr2〕との二つの段階に分けて分析しています。クロスは主として列王記(上下)を通してこれら二つの段階を見ていますが、その第一段階(Dtr1)での主題を、クロスはさらに二つに分けています。
(1)最初の主題は、次の節に要約されます。「ここにヤロブアムの罪があり、その家は地の面から滅ぼされることとなった」(列王記上13章34節)。これが北王国イスラエルの歴史の総括です。かつて預言者アヒヤは、ヤロブアムに預言します。「(南王国の)ソロモン王は、父ダビデのように主ヤハウェの道を歩むことをしなかった。だから、主は、彼の王国を二つに引き裂いて、その一つをヤロブアムに与える」と。しかしこれには「もしヤロブアムが、主の僕ダビデのように主の掟と戒めを守るならば」という条件がつきます。ところが、一方の南王国ユダに対しては、「主は、分裂によってユダ王国を苦しめるけれども、それは<いつまでも>というわけではない」と告げられるのです(列王記上11章31〜39節)。このようにアヒヤの預言には、最終的には、ダビデ王国の下にあって、南北二つの王国が再統一されるという期待がこめられています。
 ところがヤロブアムは、北王国の民が南王国のエルサレム神殿に心惹かれるのを恐れて、ベテルとダンに子牛の像を建てて、南のエルサレムの聖所に対抗しようとしたのです(列王記上12章25〜30節)。これが「ヤロブアムの罪」です。このため、神の人がヤロブアムに遣わされて、「南のダビデ王家にヨシヤ王が生まれて、彼はヤロブアムの祭壇で香を焚く祭司たちをその祭壇の上でいけにえとしてささげ、彼らの骨を焼く」(列王記上13章1〜3節)という恐ろしい裁きの預言を告げるのです。
 これは北王国の滅亡<以後に>、申命記史家(たち)によって書かれた事後預言です。彼はここでヨシヤ王の出現を読者に期待させると同時に、北王国の歴代の王たちがたどるであろう「ヤロブアムの罪」と、その結果、北王国を襲うことになるアッシリアの征服と王国の滅亡を予告して、主の裁きの言葉が、北王国への呪いとなって成就する/したと告げるのです〔Cross, Canaanite Myth. 279-81.〕。
(2)申命記史家(Dtr1)による第二の主題は、サムエル記下7章11〜16節を起源にして、繰り返し表われる神からの約束の言葉「わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだエルサレムのゆえに」(列王記上11章13節)に要約することができます(列王記上32節/同36節/15章4節/列王記下8章19節/19章34節)。
 ここには、北王国イスラエルで繰り返された「ヤロブアムの罪」に向かって「ダビデの主への忠誠」が対置されます。ダビデは、エルサレムの選ばれたシオンの丘に永遠の社(やしろ)として「ヤハウェの聖所」を据えたからです。不実な「ヤロブアムの罪」と忠実な「ダビデの信仰」の図式をここに見ることができます。ほんらいの申命記的歴史(DH)には、王権に対して否定的な律法思想が流れていて(申命記17章14〜20節)、この思想は士師記からサムエル記にも見ることができます。それだけに、サムエル記下7章と列王記における申命記史家的歴史観では、南王国ユダの王権に無条件の肯定を与えている点が注目されます。ナタンの預言(サムエル記下7章11〜16節)やダビデの祈り(同18〜29節)など、これらの記事は、申命記史家(たち)の用語で語られているからです。
 申命記史家(たち)はソロモン王を断罪して、彼の王国から10部族を「引きちぎり」ます。それでも、彼の時代には裁きが遅延して下されないのです。ユダ王国のヨラム王は、「イスラエルの王たちの道を歩んで、主の目に悪とされることを行ないます」(列王記下8章16〜18節)。それでも「主の僕ダビデのゆえに」王国は滅ぼされないのです(詩編89篇20〜38節参照)。ただし、マナセ王の時代には、「主の怒りがユダの王に対して燃え上がり、滅ぼされた北王国イスラエルのように、南王国ユダも主に忌み嫌われる」ことになります(列王記下22章26〜27節)。
 しかし一方では、ユダ王国にはイスラエル王国には見られない王たちが現われます。ユダの王アサ(列王記上15章9〜15節)、同じくヨシャファト王(列王記上22章41〜47節)、ヨアシュ王(列王記下12章1〜4節)、ヒゼキヤ王(列王記下18章1〜8節)、そして誰よりもヨシヤ王です(列王記下22章1節〜23章25節)。彼らは「主の目に正しいことを行ない、父祖ダビデの道をそのまま歩んだ」王たちです。
 申命記史家(Dtr1)の主題は、このヨシヤ王で頂点に達します。彼こそ、北王国のヤロブアムの罪を根絶したからです(同23章15節)。この王によって、ダビデ王朝への契約が更新され、北王国と南王国との一体化が進められたからです〔Cross, Canaanite Myth. 282-83.〕。
 このようにして、申命記史家は、ちょうど士師記に見るように、主との契約に基づく背信と、このゆえの王朝と民の滅びと救いとを交互に繰り返します。しかし、同時に、ダビデ王への永遠の契約のゆえに、ユダは滅びを免れるのです。これは、北王国イスラエルへ向けて、再びダビデ契約による両国の合体を呼びかけるメッセージともなります。士師記からサムエル記を経て、列王記にいたる申命記史家的歴史においては、ダビデ契約に立ち帰る「ダビデの子」ヨシヤ王こそ、ユダ=イスラエルの救いを達成するのです〔Cross, Canaanite Myth. 284-85.〕。
【第2段階:捕囚期の編集】
 申命記史家的歴史には、上に述べたように、ヨシヤ王を頂点とするユダ王国へのダビデ契約を強調するものでしたが、これにもう一つの史観が重ねられることで申命記史家的歴史に複雑な陰影を与えることになります。それは、捕囚期において、申命記史家的歴史にさらに編集の手を加えた<もう一人の>申命記史家、クロスが「捕囚期の編集者」"the Exilic editor"(Dtr2)と呼ぶ単数の申命記史家が想定されることです。この編集者は、エルサレム陥落以後に、捕囚の民、すなわち、ヨシヤ王に代表されるダビデ王朝の復興の望みが絶たれた南王国ユダの民のために、改めて先の申命記史家(Dtr1)の歴史(DH)を捕囚の民の現実に即してこれに変更を加えることで、捕囚の民に希望を与えようとするものでした。だから、この時点で、クロスの申命記史家的歴史には、少なくとも二人の申命記史家たちが登場することになります。
 この編集者は、先ず、エルサレム陥落と亡国の原因をマナセ王の背信と混淆宗教(列王記下21章1〜16節)に帰することから始めます。彼は「バアルの祭壇を築き」「天の万象を拝し」「異教の祭壇を築く」ことによって、「主の目に悪いことを行なった」のです(同2〜4節)。このために、主が北王国イスラエルに対して降したのと同じ禍(わざわい)が、今度は南王国ユダをも襲うことになります(同13〜14節)。
 捕囚期の編集者(Dtr2)は、「主はその僕である預言者たちを通して」これらの災害がマナセのゆえに南王国に及ぶと告げています(同10節)。ただしここで、マナセのために付け加える必要があります。先の南王国ユダの捕囚期までの歴史において見たように、マナセ王の治世は南王国の歴代の王たちに比べて比較的長く、しかも彼の時代には、ユダ王国は平和を楽しむことができました。このためか、「この一句(10節)は、どうも弱々しく響く」〔Cross, Canaanite Myth. 286.〕のです。しかもこのように預言した預言者の具体的な名前はあげられていません。その上、マナセの罪に帰せられているアシェラ像は、どれもマナセより先の王たちが建てたものです(列王記上14章23節/同15章13節)。なぜソロモン王やその他の王ではなく、マナセなのか? この謎は、ここの「マナセの罪」の部分が、ほんらいの申命記史家的歴史の上にさらにDtr2によって書き加えられたことを示すものです。
 ただし、敗北と捕囚という裁き説が、捕囚期の編集者(Dtr2)だけに帰せられるわけではありません。国家同士の契約が破られた場合には、同様な「呪い」が降りかかるのは、古代オリエントに共通して見ることができます。さらに、Dtr2は、民へ悔い改めを呼びかけると同時に、捕囚からの回復さえも語るのです。ヤハウェは散らされた民を再び集め、父祖に与えた契約を忘れないのです(申命記4章27〜31節/30章1〜10節)。
 クロスはこのようにして、申命記史家的歴史には、二つの編集段階があると推定します。一つはヨシヤ王の時代のもので、これはダビデ契約と分離した北王国イスラエルが、再びダビデ契約によって南王国と合体することを待ち望むものです。もう一つは、ヨシヤ王時代以後からのもので、これは捕囚のユダの民に宛てて編集し直されたもので、これの完成は550年、すなわちユダの民の捕囚期が終わる頃です〔Cross, Canaanite Myth. 287.〕。ただしDtr2の編集は、ほんらいの申命記史家的歴史を塗り替えるほどのものではなく、比較的「軽いタッチで」直されたと考えられています。
 クロスは終始Dtr2を単数で述べていますから、この捕囚期の編集者は一人だと見ています。クロスは、このように編集の二つの段階と、これに伴う相異なる視点からの歴史観とを組み合わせることで、ノートの主張する両王国への「呪い」の主題と、フォン・ラートによる「恵み」説と、希望と裁きの交代するヴォルフの説とを総合させたと言えます〔Cross, Canaanite Myth. 288-89.〕。
■申命記学派の編集説
 実は、クロスの説とほぼ同時期に、すでに申命記史家的歴史は、複数のサークルあるいは学派と呼ばれる人たちによるのではないかという説が出されていました。これが「申命記学派」と呼ばれる人たちです。申命記学派の編集作業は、基本的には南王国ユダの末期(ヨシヤ王時代)の頃のことではないかと見られていますが、捕囚期以降においても、さらに幾つかの形成段階を想定する見方があります。
 申命記学派説によれば、北王国イスラエルの滅亡と共に(721年)、北王国の預言者たちが、彼らの史料を持って南王国ユダへ亡命し、マナセ王の時代に(687年頃〜642年)、ダビデ契約に基づいてエルサレムを中心とする宗教改革のプログラムを作成しようとしました。これが、その後ヨシヤ王の時代に神殿で発見された原申命記です。この発見を機に、南王国ユダで、申命記学派による編集が始まります。だからこれは、捕囚期以前の段階です。
以下で、この申命記学派の編集説を概観すれば〔Anchor(2)162〕、その第1期は、捕囚の前の7世紀の650年〜600年になります。それはヨシヤ王の改革の時期で、南北の二王国が、再びダビデ王国への復帰を目指すものとして描かれます。この時期に申命記の基本部分が第1段階として成立しました。
 第2期は捕囚期の6世紀で600年〜550年です。彼らの編集は、かつてのユダ王国の地で行なわれました。この時期にヨシュア記から列王記(上下)にいたる文書に新たな補足が加えられたと考えられます(前550頃終了)。
 第3期も600年〜550年で、エレミヤ書の散文の説教などが加えられました。
 この編集によって、北王国イスラエルの王ヤロブアムの罪が、今度は南王国ユダのマナセ王の罪に帰せられることになります。ただし、滅ぼされはしたものの、「ユダ王国」の存在それ自体は、いぜんとして前提にされています(列王記下8章22節/同16章16節)。しかし、捕囚期間中でも、ユダの地での申命記学派による編集は、イスラエルへの永遠の契約とエルサレムへの帰還を求めて、新たな「出エジプト」と新たな「土地征服」への預言となり、新たな「土地分配」と新たな「神殿」の回復を待望し、新たなダビデの王国の再現へ期待をつなぐことになります。 
 この説によれば、申命記から列王記上下までは、ヨシヤ王の宗教改革から捕囚期間に入るまでの時期に、申命記学派によって編集されたことになります。彼らは、捕囚期以前の資料を用いています(ただし、列王記下の終わりに記されているバビロンで牢獄にいたヨヤキン王の名誉回復は捕囚期の中頃のこと)。それらの資料には、民の王国要求からサウルの勝利と即位まで(サムエル記上8〜11章)、ダビデの油注ぎから主の箱のエルサレム到着まで(サムエル記上16章〜サムエル記下6章)、ナタンの預言からシェバの処刑まで(サムエル記下7章〔8章を除く〕〜20章)などで、これらはダビデとソロモンの王朝時代に書かれた資料です。また列王記上下に表われる「イスラエルの王の歴史」と「ユダの王の歴史」も王朝時代のものです。これら以外には、サムエルの少年時代(サムエル記上1〜3章)から彼が預言者となるまで(同7章)、エリヤ伝承(列王記上17〜19章/21章/列王記下1〜2章)、エリシャ伝承(列王記下4章1節〜8章15節)、イザヤ伝承(列王記下18章17節〜20章19節)なども捕囚期よりも前の資料に属します。
 申命記学派説は、さらに補強されて、ノートが言う申命記史家的歴史を第1段階(DtrG→580年頃)として、これにエレミヤ的な預言が加えられ(DtrP→580年〜60年)、さらに律法的な要素が加わる(DtrN→560年頃)という3人説も提起されました。しかし、この説では、ノートの言う捕囚期以前の単数の編集者が無視されているだけでなく、それぞれの三つの段階をどのように見分けるのか、その基準も明瞭でないことが指摘されています。クロスの説は、これらを踏まえた上で提起されたもので、欧米では彼の説が広く認められていますが、ドイツ系の学者の間では、申命記学派説が重視される傾向があるようです〔Anchor(2)163〕。もっとも、アメリカでも、申命記学派的歴史説を採る学者がいて、例えばレイモンド・パーソンは、DHのことを「申命記的歴史」と呼んでいますが、彼はこのDHが、捕囚前期から捕囚期を経て、捕囚以後のゼルバベルとエズラの時代にいたるまでの編集過程を経て、「長期にわたって徐々に形成された」と見ています〔Raymond F. Person, The Deuteronomic School: History, Social Setting, and Literature. Atlanta: Society of Biblical Literature (2002). Electronic edition. Review by Samuel A. Meier. The Ohio State University. 〕。なお日本では、申命記研究で知られる鈴木佳秀氏が申命記学派説を採っています〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)295頁〕。
■それ以後の説
〔北王国の預言者の伝承〕
 クロス以後の申命記史家的歴史(DH)の研究は、Dtr1<以前の>北王国イスラエルの伝承に向かうことになります。それは、北王国の預言者たちからの伝承です。そこには、神の箱伝承が含まれ、また王制を人間の罪の結果から生じたものとして、これを批判するのではなく、むしろヤハウェからの賜物だと見なす傾向さえあります。このような見方は、特にバアルに仕える王とバアルの預言者たちを一掃した北王国イスラエルのイエフの反乱(列王記下9章〜10章)とイエフ王朝についてです(9世紀の終わり頃)。北王国に関するこれらの資料は、カルメル山でのエリヤとバアルの預言者たちとの競い合い(列王記上18章)、ナボトのぶどう畑の物語(同21章)、アハズヤ王の死(列王記下1章)などを含んでいます(ただしエリシャに関する伝承を除く)。これらは、申命記史家的歴史(DH)が編集される<以前の>段階に属していますから、サムエル記から列王記にいたるDHの底流を形成していると見ることができます〔Anchor(2)166〕。
 これらのDH編集以前の段階の歴史は、Dtr1の編集を受けておらず、そのこともまた、DHの主題あるいは内容に潜む矛盾/対立を解決する糸口になると考えられます。ただし、このことは、王制に対する否定的な見方がDHの編集だけによるものではなく、すでに、北王国の預言者の語りの段階からも見受けられると判断されているようです。このように、Dtr1<以前の>資料と伝承とに注意が向けられるようになりました。
〔文学的歴史物語〕
 これ以後のDH研究は、従来の文献批評による歴史学的考察と分析から、聖書本文の<文学的な>考察と分析へ移行することになります。ポルツィン(R. Polzin)は、申命記史家(単数)が、自分自身こそ神の仲保者であるという視点から、ちょうどモーセのようにモーセ律法を解釈したと見なしました(1980年)。申命記がヨシュア記へ続き、士師記は、申命記とヨシュア記の伝統が歴史的に試される実験場であり、列王記は申命記の適用とこれの成就だと見なすのです。DHは、一貫した厳格な律法的正統性を見出すことができる性質のものではなく、その時々における新しい歴史状況に対応するために書かれていると考えたのです〔Anchor(2)166〕。
 ヴァン・セータースは、厳密な資料を基にした歴史学的方法それ自体と、叙事物語として語られる歴史性とを区別しました。いわば、「史実」とこれが語られる「歴史物語」とを区別したのです。彼は、古代オリエント世界の歴史物語に注目して、DHを再検討しました(1983年)。彼は、ノートが提唱した捕囚期における申命記史家(Dtr)こそが、西洋世界における最初の真の「歴史家」であったと見るのです。ただしヴァン・セータースは、Dtrを「一人あるいはそれ以上の編集者(たち)」としか述べていません〔Van Sters, The Life of Moses. ix.〕。しかも、すでに先の章で指摘したように、彼は、捕囚期のヤハウィストこそ、このDtrによるDHに依存しつつヤハウィストの文学様式を形成したと見ています〔Van Sters, The Life of Moses. 11.〕。だからヴァン・セータースは、申命記史家(たち)は、彼(ら)以前の資料に基づく史実を編集したと言うよりも、彼(ら)自身が、その独創性によって、ダビデ王朝史とこれに続く継承史を書いたと見るのです。このようなDtrの著作に、捕囚期以後の編集者が補充を行なったとヴァン・セータースは考えました。このような歴史物語は、オリエントにおいては比較的遅く、したがって、彼は、ノートが提唱したDHの諸資料とこれの編集時期では、DHの歴史物語を説明することができないと考えたのです。
  以上を概観しますと、申命記史家(たち)には、ノートに代表される単独説「申命記史家」(Dtr)と、クロスに代表される二人説「申命記史家たち」(Dtr1)(Dtr2)と、それ以上の人たちによる申命記学派説(the Deuteronomistic School)とがあって、この問題は未だに最終的な決着を見ていないようです。
 ヴァン・セータースの説に関して言えば、彼の見解は、申命記史家的歴史(DH)に繰り返し表われるダビデ王朝の契約思想、特にヨシヤ王権の強調をなおざりにしていることが指摘されています。しかし、ヴァン・セータースによれば、申命記史家(Dtr)こそ、ヘロドトス(5世紀のギリシアの歴史家で、ペルシア戦争を頂点とする歴史物語を書いた)のように、その独創性によって、イスラエルの長い伝承と歴史物語を著わした人物です。彼のこの見方は、結局ノートが最初に提唱した説を結果的に裏付けることにもなりましょう。
 しかしながら、ヴァン・セータースの説では、クロスが指摘するような捕囚期以前にさかのぼる資料の編纂者の問題が、いぜんとして残ります。クロスは、捕囚期以後の編集者の手は、比較的少ないと見なしました。だから、申命記史家(たち)の「独創的な歴史物語」説だけでなく、それ以前の文献批評による歴史学的な方法も無視することができません。この意味で、申命記史家(たち)が用いた資料と申命記史家(たち)の独創性との間に調和が図られなければならないと思われます〔Anchor(2)167〕。
■捕囚期以後の編集
 申命記学派が「申命記から列王記上下まで」のイスラエルの民族史を編集したとすれば、祭司文書の編集者たちは、捕囚期間中に、バビロンにおいて、ヤハウィストやエロヒストの資料を用いつつ、また、ほかの祭司文書編集者たち独自の資料をも併せ用いることによって、創世記から民数記にいたる四書を編集したと考えられました。祭司文書の編集者たちは、さらに、これら四書に申命記を加えることによって、天地創造からモーセの死にいたるまでの全体を完成させたのです。これが、「モーセ五書」と呼ばれるものです。モーセ五書は、「律法の書」(トーラー)として、前4世紀の半ば(前350頃までに)編集が終わり、ユダヤ教の正典とされました。
 捕囚期の終わりのペルシア時代からそれ以後の出来事について書かれている文書は、歴代誌上下、エズラ記、ネヘミヤ記、ルツ記、エステル記などです。これらは「諸書」と呼ばれていて、これらが正典として定められたのは、新約聖書の時代のことで、ローマ軍によってエルサレムが陥落した(後70年)以後の90年頃のことです。したがって、正典化決定の場所は、エルサレムではなく、エルサレムの西方にある町ヤムニア(現在のヤブネ)です。
 ただし、歴代誌上下に記されている出来事は、アダムからアブラハムにいたる系図で始まっていて、サウル王の王国から捕囚期の終わりとなるペルシア王キュロスの解放と神殿再興の発令までです。だから、歴代誌上下は、内容的に見ると列王記上下と重なり合う部分が多いのです。諸書が実際に書かれた時期についてはいろいろ問題があります。内容的に見るならば、歴代誌上下が最初に来ますが、これらの諸文書が書かれた時期は、ネヘミヤ記→エズラ記→歴代誌上下の順番ではなかったか?と見られています。
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