15章 申命記史家たち(後編)
■レーマーによる申命記史家的歴史
今回は、トマス・レーマーによる申命記史家的歴史(DH)の解説を紹介します〔Thomas Römer. The So-Called Deuteronomistic History. A Sociological, Historical, and Literary Introduction. t&t clark (2005).56-65./トマス・レーマー『いわゆる申命記史家的歴史:社会学的、歴史学的、文学的入門』T&Tクラーク(2005年)56〜65頁〕。レーマーは、申命記を申命記史家グループ(申命記学派)の編集によるとした上で、申命記の中核を形成しているのは、12〜18章の中央集権化"centralization"であり、12章は、この部分の導入だと見ています〔レーマー前掲書3頁〕。彼は始めに、カルヴァンやスピノザに始まり、デ・ヴェッテからウエルハウゼンやドライヴァーにいたる申命記解釈を簡単に紹介しています。
続いてレーマーは、申命記史家による申命記的伝承の形成過程について、ノートによる説を採りあげます。ノートによれば、イスラエルの歴史は、ヨシュアによる征服期、士師の時代、王制導入による絶頂期、サマリアの陥落にいたるまでのユダとイスラエルの二王国時代、ユダ王国の末期までの5段階で形成されています。ノートの言う申命記史家(Dtr)は、単独で申命記史家的歴史(DH)を編集しており、その際に彼(Dtr)は、古い諸史料の伝承を継承しています。彼の編集は捕囚期の間のことで、編集の場所は、旧南王国ユダで行政の中心地であったミツパだとしています(ミツパはユダ王国滅亡の際に破壊を免れました)。
レーマーはさらに、クロスたちによる申命記史家たち(Dtr1/Dtr2)の二重編集説を紹介します。これに続いて彼は、ドイツのルードルフ・スメント(Rudolf Smend)による説、すなわち申命記学派による捕囚期間の多重編集説を紹介します。そこには、律法主義的申命記史家(DtrN)や歴史的申命記史家(DtrH)や、預言者的申命記史家(DtrP)などがいたことになります。この説は、主としてゲッティンゲン学派によるもので、この学派は、申命記史家的歴史(DH)が形成された過程をそれぞれの時代に沿って想定したモデル、言い換えると「通時的なモデル」"the diachronic model"を想定する方法によっています〔レーマー前掲書29〜30頁〕。ドイツの学説は、捕囚期以前の編集を「申命記的」"deuteronomic"とし、捕囚期の編集を「申命記史家的」"deuteronomistic"として区別します。
次にレーマーは、ヴァン・セータース"Van Seters"(1983年)とマッケンジー"McKenzie, S.L."による説(1991年/2000年)を紹介します。この説は申命記史家の単独編集を主としますから「新ノート説」とも言うべきものです。ただし、ノートと異なるのは、申命記史家が己の裁量によってきわめて自由に史料を編集し直していると見る点です。ノートによれば、申命記史家的歴史における記述の相互矛盾は、主として申命記史家が史料に忠実であることから生じたことになります。これに対して、ヴァン・セータースは、これらの矛盾が反ダビデ王朝的な特徴を示すことから、それらの特徴は、後期の追加編集(550年頃)によると見ています(旧約時代の年代はすべて紀元前です)。550年頃と言えば、新バビロニア帝国の末期で、第二イザヤの時代であり、捕囚からの帰還が間近い頃になります。したがって、ヴァン・セータースによれば、申命記史家自体による歴史は、ノートの説よりかなり短くなります。マッケンジーの説では、この申命記史家による編集は、ミツパにおいて587/86年頃に行なわれたことになります〔レーマー前掲書31〜32頁〕。
1990年代以降になると、創世記から民数記にいたるまでにも申命記史家グループの編集を見る説や、いわゆるヤハウィストの編集と言われてきた部分にも、第二あるいは第三世代の申命記学派の編集が及んでいるとする説などが表われます。また「申命記史家的」を決める基準そのものさえ問い直されることになり、その結果、エレミヤ書を始め、イザヤ書やエゼキエル書、ホセア書を始め12預言書にも申命記史家的な編集の跡を読み取ろうとする見方がでてきました。主としてゲッティンゲン学派によって提起されたこの多層な申命記史家的編集説によって、いわゆる申命記史家的歴史(DH)の一貫性さえも疑問視されるようになります。これに伴って、申命記史家的「歴史」か、それとも申命記史家的「史料編纂」か、という問題も問われることになります。ヘブライの聖書は本質的に匿名性を持っていますから、申命記史家的歴史は、諸資料を時代順に追うことで、これに一貫した物語性を与える「歴史物語」"narrative history" に近くなります〔レーマー前掲書33〜37頁〕。この場合、口伝と文書としての資料との関係も問題になります。
「申命記史家的歴史」(DH)の概念自体がこのように曖昧になると、諸説を検討すべき基準さえも危うくなりましょう。レーマーによれば、現在まで、クロスの二重編集説とスメントの多重編集説との間でさえ十分な討議が行なわれてこなかったうらみがあります。クロスの二重説には、王国イデオロギーとこれに基づく楽観的な未来像を見ることができます。だから、ヨシュア記6〜11章やサムエル記下7章などは、南王国ユダがアッシリアの抑圧から免れた頃のもので、そこに捕囚期の影響は見られません。しかし、このクロス説では、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚を反映する様々な申命記史家的歴史の特徴を説明することができません。この点で、ゲッティンゲン学派による多重説は、申命記史家的歴史を特徴づける「ヤハウェの警告」や苦難の体験を正しく跡づけていると言えます。このために、申命記史家的歴史とは、ほんらいイスラエルとユダの王国史を物語るものであって、申命記、ヨシュア記、士師記などは、新バビロニアに支配された時代になって、後から加えられたという説も提起されています〔レーマー前掲書41〜42頁〕。
以上から判断すると、南王国ユダのヨシヤ王の時代、すなわちアッシリアの勢力が弱まる「新アッシリア時代」(7世紀)が申命記史家的歴史が編集される出発点になります。ただし、ヨシヤ王時代の申命記史家的な書記たちは、モーセの遺言から列王記下の南王国の滅亡までを語る「申命記史家的歴史」を考えてはいませんでした。また、捕囚以前の書記たちは、597年/587年の南王国の滅亡という民族的、神学的危機を扱っていません。だから、ヨシヤ王時代の書記たちが語る歴史は、王室の政策を推奨するプロバガンダであって、サムエル記から列王記までは、ヨシヤ王をダビデ王の真の後継者として正統づけようとするものです。また、申命記からヨシュア記までは、ヨシヤ王による領土拡張政策をヤハウェの名によって正当化しようとするものです。ただし、その内容は、ヨシヤ王時代以前におけるアッシリア帝国の影響を受けていて、アッシリアの文書に倣(なら)って記されたものです。このようにして形成された歴史は、ペルシア時代に新たに編集し直されることになります〔レーマー前掲書43頁〕。
ほぼ以上のような「前置き」をつけた上で、レーマーは、申命記学派の著作活動を次のように跡づけています。南王国ユダは、8世紀までは発達した君主国とは言えない状態にありました。北王国イスラエルのサマリアがアッシリア帝国によって陥落すると(722年)、北から大勢の亡命者たちが、南王国へ流れ込んできます。エルサレムが本格的な都市となるのは、このアッシリア帝国による北王国の支配時代からです。この頃、エルサレムの人口は、なんと1000人ほどから15000人まで、15倍も膨れあがったとあります〔レーマー前掲書69頁〕。南王国では、ちょうどヒゼキヤ王(治世728〜699年)の時代のことです(列王記下18〜20章参照)。
この時期の宮廷やエルサレム神殿には、高官や祭司たち知的エリート層がいて、彼らは、王室の巻物(文書)を管理する「書記たち」"scribes"でした。申命記学派は、この層の人たちで、比較的少数の「申命記史家グループ」と呼ぶべき集団のことです〔レーマー前掲書47頁〕。この時代は、王でさえ満足に読み書きができませんでしたから、書記たちが、税、外交、宮廷や預言者などの記録文書、年代記の保管と編纂を行なっていました。彼らは保存されていた文書の写しを作りましたが、写しとは言え、書記たちはかなり自由に編纂も行ないましたから、彼らは諸文書の「著者」でもあり「編纂者」でもあったことになります〔レーマー前掲書48頁〕。
列王記下22章には、申命記の「発見」とこれに伴うヨシヤ王の改革が語られています。大祭司ヒルキヤが神殿で巻物を発見して、これを書記官シャファンに渡すと、シャファンはこれをヨシヤ王に読んで聞かせます。王はこれを聞いて驚き、自分たちが先祖の神の教えに従わなかったために主の怒りが燃え上がったと思い、ヒルキヤやシャファンに命じて、女預言者フルダにうかがいを立てさせます。彼女は、王に宛てた託宣を告げてこう言います。南王国の民が主ヤハウェを捨てて他の神々を拝んだので、主は彼らに禍(わざわい)を降す。しかし、ヨシヤ王は悔い改めて改革を行なったので、彼の時代にそれらの禍が及ぶことはないと。
この22章は、申命記の発見記事と言われていて、ここで語られている巻物こそ、申命記の基となる「原申命記」だとされてきました。しかしレーマーによれば、この記事は、後の捕囚期以後になって創出された申命記の「発見神話」だということになります。ただし、列王記下23章で語られているヨシヤ王の改革は、申命記の最初の版がこの時期に形成されたことを物語っています。だから列王記下22〜23章は、申命記学派によるものですが、フルダの預言に「主が禍を降す」とあることから判断すると、この記事は、すでに新バビロニアによってエルサレムが滅亡した後の時代に属していると考えられます。このような「発見神話」は、アッシリアその他のオリエントの王室神話によくでて来る話と共通していて、王の改革をより円滑に実行させるために創られたものです。
このように見ると、申命記史家的歴史(DH)とは、ヨシヤ王の時代にその編集が始まり、それが親バビロニア時代の捕囚期に受け継がれ、さらに捕囚以後のペルシア時代に及んで編集が完了したことになります〔レーマー前掲書49〜55頁〕。
■『いわゆる申命記史家的歴史』への批評
レーマーの『いわゆる申命記史家的歴史』は、2008年にボストンで開かれたThe Society of Biblical Literature の年次大会において、その申命記史家的歴史部門とモーセ五書部門との合同のシンポジアムで採りあげられました。司会はレイモンド・パーソン"Raymond F. Person"で、パネリストはリチャード・ネルソン"Richard D. Nelson"とスティーヴン・マッケンジー"Steven L. McKenzie"とエッカルト・オットー"Eckart Otto"とヤイラ・エイミット"Yairah Emit"の4名です。このシンポジアムの記録が、The Journal of Hebrew Scriptures. Vol.9. Article 17に収録されて、Library and Arhives Canada のネットで公開されています。
司会のパーソンは、『申命記学派:その歴史、社会的背景と文学』The Deuteronomic School: History, Social Setting and Literature. Studies of Biblical Literature 2. Atlanta: Society of Biblical Literature (2002). を著わしていて、その著作でパーソンは、文献批評による段階的な申命記的歴史(彼は"Deuteronomistic" という言い方を避けて"Deuteronomic"を用いています)の編集説を退けて、DHは捕囚以後の時代にいたる長期の複雑な形成過程を経て成立したと見ています。だから彼は、編集過程を段階別に分けて、それぞれに特定の編集モデルを見出すことに批判的です。
ネルソンはクロスによる二重編集説に近い立場を採っています。マッケンジーは「新ノート派」で、単独の編集者「申命記史家」説を採っています。オットーは、申命記とモーセ五書/六書と申命記史家的歴史との関係に関心を抱いています。エイミットは、申命記史家的歴史の文学的な語りの構造に注目しています。どのパネリストも相当に長文の批評/批判を加えていますが、最後にレーマーが、彼らに対して丁寧な応答を行なっています。以下にそれらの要点だけをまとめて紹介します。
【ネルソンの批評】
ネルソンの批評は二つに大別することができます。一つは、レーマーが申命記史家的歴史の発端をヨシヤ王時代だと見ている点です。ネルソンは、南王国に対するアッシリアの支配は、ヨシヤ王よりも早いヒゼキヤ王とマナセ王の時代に最大の重圧がかけられていたことを認めた上で、しかしこの時代でも、書記たちによるヤハウェ主義的な歴史編纂が、たとえ公然とではなくとも、その頃から密かに「原」申命記や「原」ヨシュア記や「原」列王記の編集が用意されていたのではないかと指摘しています。
二つ目は、レーマーが、ヨシヤ王時代の申命記の発見を「発見神話」だとして、この部分はアッシリア王の記録に倣うもので、捕囚期に創出された神話だと見ている点です。ネルソンは、ヨシヤ王の改革が申命記発見神話を生じたのではなく、何らかの発見が実際にあって、これに基づいてヨシヤ王の改革が行なわれたと見るほうが、はるかに動機づけとして正当だと主張します。レーマーは、申命記の「発見神話」が、申命記を既成の神殿に置き換えようとする意図のもとに創出されたと見ているが、ネルソンによれば、このような推論は文学的にも神学的にも納得できないとして、発見は神話ではなく、事実に基づくと見るのです。
最後にネルソンは、"Where Do We Go FROM Here?" と題して、従来の「通時的」な文献批評、すなわち時間軸に沿って時代順に編集段階を決定しようとする方法論は、すでに限界に来ていると見て、より総合的な「共時的」な批評を試みるべきだと指摘していますが、筆者(私市)もこれは特に重要な指摘だと思います。
【マッケンジーの批評】
〔Steven L.McKenzie. Rhodes College, Memphis, Tennessee,USA.〕
私見によれば、マッケンジーの批評が、最も包括的に重要な問題点を網羅しています。彼の批評は、先ず、ヨーロッパとアメリカとの間に横たわる通時的な文献批評の方法それ自体の分裂を指摘して、レーマーは、この両者を結びつけようとしていると見ています。同時に、通時的な見方によって生じる諸資料の多様性を、著者がこれを統合し調和させようと試みている点を評価します。その上でマッケンジーは、批評を二つに分けていて、以下に見るように、前半でレーマーの著作を要約し、後半でそこに含まれる問題点を列挙しています。
〔著作のまとめ〕
申命記史家的歴史は、ヨシヤ王時代と(申命記12〜28章)、捕囚期と(同3〜12章)と、ペルシア時代と(ヨシヤ王が継承したダビデ王朝記)の三段階で編集された。「申命記学派」とは比較的少数の申命記史家たちのグループである。列王記下22〜23章の律法の発見は、ペルシア時代に創出された「発見神話」で、これはアッシリア王朝の記録に倣うものである。申命記史家的歴史とは、この意味で、バビロン捕囚の危機的な時代に、バビロンにいた捕囚のエリートたちによる歴史物語的な文学だと見るべきである。したがって、そこに描かれるモーセ像は王を理想化したモデルであり、約束の国とは、バビロン捕囚で連行された「真のイスラエルの民」が帰還するために空けられている領土のことである。申命記学派グループの意図は、ヨシヤ王時代に試みられた「中央集権化」にあり、これがイスラエルの領土全体に強制されることになる。この視点から見ると、申命記1〜3章と同5章の十戒は、申命記で語られる律法に付けられた前置きであり目次である。
士師記13〜21章は後代の編集で、「士師の時代」とは、バビロニア時代の申命記学派によって創出されたものである。申命記学派は、ダビデ時代を含む王国に対して、肯定と否定との間を不安定に揺れ動いていて、王国の未来像にも不安を抱いている。申命記学派によれば、サウル王は北王国の王たちの悪しきモデルであり、ダビデ王は、南王国の王たちの理想のモデルであり、ソロモン王は、南王国の王たちの実態を表わしている。
第三段階とはペルシア時代の初期の編集で、そこでは、(1)帰還した「真のイスラエルの民」とそれまでの現地民との分離、(2)唯一神教の推進と神による選び、(3)離散したユダヤ人をもこの神学に統合することが意図されている。これは、犠牲を主とする祭儀宗教から律法主体の宗教への転換を図ったヨシヤ王時代を新たに再解釈したものである。この視点から、マナセ王はダビデ王朝の負の部分を象徴し、ゼルバベルが新たなメシアへの期待を担う。こうして形成された申命記史家的歴史は、エズラ記に見るように、祭司制と律法との妥協を図ろうとするものであった。しかし、それ以後のヘレニズム時代に、さらに多量の追加編集が行なわれている。こうしてこの史観は、400年頃に、律法(トーラー)制へと移行することで消えることになる。
〔問題点の指摘〕
以上の要約に基づいて、マッケンジーは、次に七つの問題点を指摘しています。
(1)書記グループによる「申命記学派」のようなモデルに並行する例がほかにも存在するのか?また、このようなグループを設定できる社会的な背景はどのようなものか?単独の申命記史家説は、これによって否定できるのか? 特にペルシア時代以降の追加説における曖昧さでは、ノートの説と変わらない。
(2)ヨシヤ王時代の「発見」を7世紀ではなくペルシア時代に置かなければならない根拠は何か? ヨシヤ王の改革が現実であれば、これを推進した律法の発見がなぜペルシア時代になるのか? 律法の発見が改革をもたらしたのでは<ない>となぜ言えるのか? これは申命記と列王記とを分離して考えるところから来る誤りではないのか?
(3)バビロン在住の民のために、西ヨルダン川の領土の再分割案が提示されているという見方について、著者は、史家たちがヨシヤ王時代にならって領土の拡大をねらっていると言うが、このような見方では、限定された領土とこれの拡大という相互に矛盾することになりはしないか? 申命記史家たち編集者の真意はどこにあるのか?
(4)北王国からもたらされた資料が士師記を構成していると言うが、北の資料を裏付ける北王国の識字率はどうなのか? 南王国での識字率を基に編集が行なわれたのであれば、これが北からの資料だとどのように説明するのか?
(5)ダビデ王朝を肯定する部分がヨシヤ王時代のものであり、王朝への否定が捕囚期の編集によるのであれば、ダビデの台頭と、続く宮廷史と王位継承史との区別をどこに見出すのか?台頭と宮廷史と継承史の記述の一貫性をどのように説明するのか? 親ダビデと反ダビデを見分ける基準は何か? ベトシェバ物語を除くと、これの基準が曖昧である。
(6)著者も認めているとおり、申命記史家的歴史には、ペルシア時代への明確な言及が見られない。この点での編集を裏付ける証拠に欠けているが、レーマーのペルシア時代説は従来の学説に惹かれているためではないか? また、帰還の民と離散している民とでは、立場が全く異なるのに、どのようにして統合して「中央集権化」するのか? これらを統合するのなら、どのような意味で「申命記的」なのか?
(7)祭司と申命記学派グループとの間の「大妥協」の結果生じたのが、モーセ五書だと言うが、このような妥協を生じさせた理由は何か? そのような交渉に臨んだグループとは、どのような人たちなのか、この点はまだ著者の憶測の段階にすぎないが、これは未だだれも答えを出していない社会科学的な問題提起である。
【オットーの批評】
〔Eckart Otto. Ludwig Maximilians University.
Munich, Germany.〕
オットーは、もしも祭司資料編集者たちのP資料(創世記1章〜レビ記16章)が、原申命記(D)よりも後の時代になるのなら、なぜ原申命記(D)にP資料が出てこないのか?と問うことから始めます。創世記や出エジプト記には、P資料を見出すことができるからです。オットーの批評は、次のようです。
先ず、ヨシヤ王時代の後期で捕囚期以前の時期に、すでに申命記史家的歴史(DH)が存在したという説は、アメリカの学者たちから出たものであって、今では、スイスのレーマーを含めて、ドイツの自分を含むヨーロッパの学者たちも、この説を支持するにいたっている。レーマーもこのような視点に立っているが、このように捕囚期以前にDHの編集が始まっているのであれば、ノートの言うDHの捕囚期説はもはや成り立たなくなる。
しかし、捕囚以前において成立した申命記学派的歴史が、レーマーの言うとおり幾つかの別個の巻物であったとすれば、申命記学派的歴史(DH)それ自体は、まだ一貫して存在しなかったことになる。しかも、この申命記学派は、アッシリアによる支配の影響を受けていて、宗主国と属国との条約が、ヤハウェとイスラエルの民との契約関係に反映しているとレーマーは言う。しかも、申命記学派はアッシリアの支配を拒否しているのだから、この影響は、言わば潜在的なものになる。それなら、申命記学派的<歴史観>は存在していたけれども、申命記学派的<歴史>そのものは、捕囚期以前では、まだ「歴史」とは言えない別個の巻物だったことになる。では、いったい、それら別個の巻物は、どのようにして申命記学派的歴史の全体へと編集されたのか?
次に問題となるのが申命記(D)それ自体と申命記学派的歴史(DH)との関係である。オットーの批評は、ここからとても分かりにくくなる。それは、オットーを始めドイツの学説は、申命記それ自体の中に、二種類の「申命記」を、すなわち、捕囚期<以前に>編集された「<申命記的>申命記」"the deuteronomic Deuteronomy" と、捕囚期に編集された「<申命記学派的>申命記」"the deuteronomistic Deuteronomy" とを区別するからである。オットーは、このような前提に立って批評を進めているのを念頭に置く必要がある。
レーマーによれば、捕囚<以前の>申命記は、申命記6章4〜5節を導入部として、同12〜26章と28章のことである。だとすれば、申命記1〜3章(ヨルダン川の東でモーセが与えた遺訓とヨシュアによるカナン侵入)は捕囚期に入ってから書かれたことになる。それなら、この1〜3章は、捕囚期<以前の>申命記学派的歴史全体(申命記1章〜列王記下23章)への前置きとは言えない。
さらにレーマーは、申命記学派的歴史(申命記1章〜列王記下25章)は、全体として捕囚期に編集されたと言う。だからこの申命記1〜3章は、申命記<学派的>歴史の導入として、申命記とヨシュア記とを結びつけている。ただし、この申命記1〜3章は、ヨシュア記以外の申命記学派的歴史の諸文書、すなわち「前の預言者たち/前預言者」"the Former Prophets" と呼ばれる部分とはつながらない。このことは、申命記1〜3章が申命記<学派的>歴史の導入部だと言う説と矛盾することになろう。捕囚期以前の申命記的歴史は、捕囚期に申命記<学派的>歴史へと編集し直された。しかも、捕囚期以後においても、申命記それ自体の編集が続いていた。捕囚以後で大事なのは、申命記学派的歴史が、モーセ五書あるいは六書へと組み込まれていることである。
こうなると「申命記学派的」という用語それ自体を再検討しなければならなくなろう。「申命記学派的」とは祭司資料編集者たちのP資料を前提にした用語ではないのだから、P資料をも含む申命記学派的歴史は、もはや「申命記学派的」とは言えないであろう。
レーマーは、申命記がほかの申命記学派的歴史から切り離されて、モーセ五書に組み込まれることで、モーセ五書の要石(かなめいし)になったことをうまく説明できないでいる。彼によれば、モーセ五書の編集過程で、申命記は申命記学派的歴史から切り離され、さらに申命記27章と32〜33章とが加えられた。ここで申命記学派的歴史は終わりを告げることになる。それ以後も申命記に編集が加えられたが、それはもはや「申命記学派的」とは言えない。だが、モーセ五書の律法(トーラー)が、なぜ申命記を吸収したのかは、いぜん謎のままである。今や申命記学派的歴史はサムエル記上1章〜列王記下になり、申命記とヨシュア記は、捕囚期以後(5世紀〜4世紀初頭)にモーセ五書から六書として編集されることになった。さらにそこから、ヨシュア記がモーセ五書から切り離された結果、ヨシュア記とサムエル記とを結ぶために、士師記が挿入されることになる。ところが、その士師記は、捕囚期以前からの資料に基づくとレーマーは言う。
以上をまとめると、ヨシヤ王の時代に、サムエル記(上下)や列王記(上下)からなる最初期の申命記史家的歴史が形成された。しかもモーセ五書のほうは、この時期では、また族長物語とモーセ=出エジプト物語と契約の書と原申命記だけである。モーセ五書が本格的に編集されるのは捕囚期に入ってからであるが、同時にこの時期は、申命記学派的歴史と申命記とヨシュア記が形成された時期でもあり、また祭司資料編集者たちによるP資料編集の時期とも重なる。これらの形成過程において、申命記が「前の預言者たち」の要となる位置を占めることになった。
【エイミットの批評】
〔Yairah Amit. Tel Aviv University, Israel.〕
エイミットは、主として士師記の位置づけについてレーマーに問いかけています。以下にその大要をまとめます。
レーマーは、ノートが提起した申命記史家的歴史の概念それ自体は、いぜん有効だと言う。しかしこの40年間(1970〜2010年)に、申命記史家的歴史は、単独説から複雑な編集説へと変貌している。DHはもはや一貫した作品ではなく、200年間に及ぶ編集の結果生じたことになる。これの編集は、南王国ユダで始まり、バビロンで行なわれ、ペルシア時代にはエフド(ペルシア時代の旧ユダヤ地区)で続けられた。言い換えると、アッシリアと新バビロニアとペルシアの三大帝国のそれぞれの時期に、三段階で編集されたことになる。
もしもレーマーが主張するように、士師記の資料が北王国イスラエルの滅亡の際に、北王国から南王国へ亡命した人たちによってもたらされたのなら、それは南王国のヒゼキヤ王(728〜699年)からマナセ王(699〜642年)の100年の間のことになる。レーマーは、7世紀の終わり頃が申命記学派的歴史の編集作業の始まりと見ているが、むしろ8世紀の終わり頃がその時期だと言うべきではないか。南王国とアッシリアとの直接の関係が、この時期に始まったからである。この100年間の南北の預言者たちの活動(ホセア、アモス、イザヤなどの)は、アッシリアに支配されたヒゼキヤの宮廷書記、祭司、行政官たちに影響を及ぼしたはずである。したがって、南王国では、この100年の間に、申命記学派的歴史の編集の<前>にもたらされた資料に基づいて、申命記学派が結成されたことになる。
レーマーは、士師記について次のように言う。
(1)北王国イスラエルには「救済者」に関する一連の物語群が存在していた。
(2)士師記には、申命記学派的歴史の痕跡がほとんど見られない。
(3)士師記の編集は、捕囚期間中の後期にあたる。だから、士師記にはヨシヤ王による改革の痕跡が認められない。
(4)新バビロニア時代に、「ほとんど忘れられていた」北王国イスラエルの資料を用いて、申命記およびヨシュア記と、サムエル記と列王記とをつなぐ目的で「士師の時代」が創出された。
レーマーの言うとおり、士師記には、北王国の英雄たちの物語群が語られていて、申命記学派的歴史に登場する人物は見られない。しかし、王国成立以前の時期が「発案/創出」であるという見方には賛同できない。また、士師記が、申命記学派的歴史全体に属するという説にも同意できない。なぜなら、申命記学派的歴史の様式を士師記に適用することができないからであり、士師記の様式は、申命記学派的歴史が形成される前の段階に属すると考えられるからである。
北王国イスラエルの資料編集者たちは、「中央集権化」についてまだ知らないから、明らかに異教的だと見なされるバアル神(士師記6章25〜32節)を除くなら、家族やその共同体が、「高いところ」で礼拝することを認めている。これに対して、申命記学派的歴史の特徴は、預言者たち(モーセ、ヨシュア、アヒヤ、フルダなど)が、神と民との間にあってその仲介役を務めるところにある。だから、申命記学派的歴史とは、「預言成就の歴史」のことである。しかし、士師記では、ギデオンやサムソンの両親やデボラのように、神や天使と人間とが、直接に関わりを保っている。
士師記には(1章1節〜2章5節)、北王国の7部族と、対するシメオンとユダ部族がおり、全部で9部族が登場する。しかし申命記(1章23節/27章12〜13節)にでてくる十二部族はでてこない。
また士師記では、民の罪とこれに対する罰、これに続く救済というサイクルが繰り返されていて、申命記に見られるような土地喪失への厳しい警告は表われない。申命記学派的歴史では、王国の存続はダビデ契約に依存していて、これに対する預言者たちからの王国への叱責が語られている。このように見るならば、後期の編集者たちの訂正にもかかわらず、士師記は、申命記を知らない様式と思想によっていると見るべきである。したがって、士師記は、北王国イスラエルの滅亡に対する反省をこめた作品で、8世紀の出来事に基づいて、「どこか」で編集されたものである。
■パネリストたちへのレーマーの応答
レーマーは、「いわゆる」という題名に触れて、従来のDH諸説が多様であることを認めて、自分の説は、これらを調和させようと意図していると断わっています。その上でレーマーは、4名のパネリストたちから発せられた問いかけを以下の6項目に分けて、それぞれに答えています。
(1)列王記下22章で語られるヨシヤ王による改革の歴史的信憑性の問題、特に原申命記の「発見」について(ネルソンからの質問)。
(2)申命記史家的歴史<以前の>資料、とりわけ士師記について(エイミットの質問)。
(3)申命記学派もしくは申命記史家の歴史的位置づけについて、個人かグループか学派か?(ネルソン、マッケンジー、オットーの質問)。
(4)申命記学派的歴史とペルシア時代との関係は、重要なのか、それとも重要でないのか(全員の質問)。
(5)申命記学派的歴史の終焉について、結尾と消滅との両面から(全員の質問)。
(6)何をもって「申命記学派的」と言うのか(ネルソンの質問)。
(1)列王記下22章で語られるヨシヤ王による改革の歴史的信憑性の問題、特に原申命記の「発見」について。
列王記下22〜23章の原申命記の発見記事は、「太陽の戦車=太陽神」(23章11節)など、なんらかの歴史的資料に基づいている。しかし、その上で繰り返すが、ここで語られている内容はバビロン捕囚からペルシア時代にかけて編集された。
文書の発見もまた、改革以後に創られた伝承である。列王記下の記事を歴代誌下34章1〜7節と比較すると、歴代誌下34章では、同1〜7節と同34章8節〜35章19節とに、改革の記事が二つに分かれている。しかも前半(1〜7節)には発見の出来事は語られていない。ここにも二つの編集段階を見ることができ、また、この断絶は、原申命記発見の出来事が存在しなくても、改革が可能であることを示す。ネルソンは、アッシリアのナボニデス王が、ナラム神殿の親石を発見したことによって王が改革を推し進めたことを引き合いに出す。しかし、石碑と文書とでは事情が異なっている。文書では、改革の後でもヤハウェとイスラエルとの契約を確認することができる。
エレミヤ書36章では、弟子のバルクを通じて、エレミヤの預言の書がヨヤキム王の前で朗読される。ところが王は、その文書を焼き捨てている(36章23節)。ヨシヤ王もヨヤキム王も、文書に出逢うが、これに対する両者の対応は正反対で、ヨシヤ王の態度は善であり、一方、ヨヤキム王は悪だとされている。ところが、興味深いのは、ヨシヤ王はメギドの戦で死に、ヨヤキム王は「先祖と共に眠りについた」(24章6節)とある。ところが、女預言者フルダは、ヨシヤ王に「禍を見ることなく平和に死ぬ」と預言していて、これはエルサレム陥落以前にヨシヤ王が亡くなったことで成就する。また、ヨヤキム王の場合も、王の時代に「敵の勢力」が増大したことが預言通りになっている。これで見ると、事実に合わせて預言が創られる「事後預言」だと考えられる。したがって、フルダの預言は、エルサレム陥落以後の捕囚期以降の編集である。
また、ネルソンは、申命記史家的歴史が、ヨシヤ王ではなくヒゼキヤ王の時代に始まったと言う。しかし、列王記下20章17〜18節によれば、ヒゼキヤ王の行為がバビロン捕囚の原因になったとある。わたしは、申命記のモデルがアッシリアのエサルハドン王による宗主国と属国との間の誓約をモデルにしていると考えている。申命記は、申命記学派(グループ)の最初の編集活動の始まりで、それは7世紀である。この段階で、申命記はまだエルサレム陥落とは関係がない。しかし申命記で命じられているような過激な改革は、祖国の滅亡という現実に面してこそ可能であって、申命記史家的歴史は587年以降に本格的な編集が始まった。ただし、捕囚期では、まだ3巻〜4巻の巻物であって、編集全体が完了するのはペルシア時代に入ってからである。
(2)申命記学派的歴史<以前の>資料、とりわけ士師記について。
主としてエイミットの指摘する士師記について。ここで問題になるのは、申命記学派的歴史と士師記との関係であり、申命記学派による古資料の編集問題である。申命記学派的歴史における北王国の位置はやっかいであって、エイミットが指摘するとおり、士師記の最古の巻物は、士師記が現行の申命記学派的歴史(DH)の位置にうまく納まる<以前>に存在していた。だからこの最古の巻物はDHを知らない。また、これもエイミットの言うとおり、オテニエルを除くなら、士師記の「救済者たち」は全員北王国出身である。士師記には、汎イスラエル主義もなければ、親アッシリア的傾向も見られない。
士師記はほんらい北王国で成立した。ネルソンの指摘通り、士師記10章1〜5節も同12章7〜15節も、王室イデオロギーに対して懐疑的であり、これらはダビデ王国成立以前に属する。エイミットは、北王国イスラエルが成立する以前に、カナンの山地で(北王国イスラエルの北部のこと?)何かが起こったと言う。だが、この出来事を士師記から再現するのはもはや難しい。
そこで問題は、この巻物がいったいどの段階で 申命記学派的歴史に組み込まれたのか?である。士師記抜きで、ヨシュア物語から直接サウルとサムエルの物語につながる時期が存在したのだろうか? 士師記におけるDH的な傾向は、士師記2章6節〜3章6節/6章7〜10節/10章6〜16節で、これらはイスラエルが主に背いた記事である。これらの箇所では、イスラエルはバアルやアシュトレト(アシュタロト)を拝んだと非難されている(士師記2章11節/10章6節)。「アシュトレト」などは、申命記学派的歴史の用語であり、士師記2章13節/ サムエル記上7章4節/同12章10節に限られている。士師記2章6節〜サムエル記上12章は、申命記学派的歴史の中にあって、ほかの巻物とは別個の巻物だったのであろう。DHでは、サムエルが「最期の士師」にあたることになる。申命記史家的歴史は、申命記〜ヨシュア記/士師記〜サムエル記上12章/サムエル記上13章〜列王記上下の三つの巻物からなっていたと考えられる。
士師記でもう一つ問題になるのは、そこに見られるヘレニズム的影響である。士師記11章のエフタ物語にはエウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』(450〜412年頃。父王アガメムノンへの神託によって、その娘イピゲネイアが神への犠牲に献げられる)の影響があり、ヨナタン物語にはイソップ物語の、サムソン物語にもヘレニズムの影響が見られる。これらは、申命記学派的歴史<以後>の編集であろう。
ダビデ王朝の物語はやっかいである。ヴァン・セータースが指摘するように、王位継承物語(宮廷史)は、DH以後のものかもしれないが、その中の一部はDHに属すると見ることもできるだろう。歴代誌(上下)には王位継承物語が見られず、ダビデ王の台頭と神殿建築に向けての準備段階が語られているだけである。歴代誌の編集者は、宮廷史を削除したのだろうか? それとも、彼らの巻物にはこれが抜けていたのだろうか?
マッケンジーの指摘するとおり、ユダ王朝の描写には、王位に対して懐疑的なところがある。しかし、これはダビデが即位するまでの「若い英雄の過ち」であって、即位後のダビデは「善い王」として振る舞っている(だがバト・シェバ物語はこの見方にあてはまらない[私市])。申命記学派は、王位継承物語を受け継ぎながらも、それを彼らの意図に合わせて編集し直したのであろう。
預言者たちの部分は複雑である。ドイツ系の説では、この部分全体をDtrPとしてDHに属すると分類しているが、この部分には、はたしてDHが存在しているのだろうか?列王記上17〜19章のエリヤ=エリシャ物語はDHを中断させているから、この部分は、DH以後の追加であろう。ただし、預言者の部分全部をDHから排除するのではない。申命記18章のモーセは、イスラエルの預言者なのである。
(3)申命記学派もしくは申命記史家の歴史的位置づけについて、個人かグループか学派か?
マッケンジーは、「学派」がどのようにして一貫した文書を書くことができるのか?と問う。答えの代わりに、別の問いを出そう。ヘブライの聖書の中で、個人によるものが存在するのか? コヘレトの言葉くらいのものであるが、これさえも個人によるのかどうか疑わしい。聖書の作者たちとヘロドトスやツキジデスのギリシアの歴史家との違いは、後者は、1人称で資料を引用したり説明したりすることである。これに対して、聖書の記者たちは、すべて匿名である。この点でウガリットのギルガメシュ神話と共通する。
もう一つの問題は、DH内部にも、文体や用語の変化が存在することである。これが分かるのは、エレクトロニクス技術によるコンコーダンス作成のお陰である。DHも祭司資料編集者たちのP資料も預言書群も同様に匿名である。マッケンジーが指摘するとおり、ヘブライの聖書それ自身の内部には、そのような書記グループの存在を証拠づけるものは見あたらないが、それでも、書記や高官たちが、王たちのためだけでなく、自分たちのために編集したと考えられる。
列王記上8章(65節)は、ユダの領土の外部にも、祈りのグループが存在していたことを前提にしているし、列王記下25章は、ユダの領土が空白状態にあって、バビロンで終わっていることを物語っている。ここには、DHが捕囚期にゴラ(バビロンの近くのユダの民の捕囚の地)で編集が行なわれた背景を見ることができる。そこで編集されたDHを基にして、帰還した人たちによる編集が、ペルシア時代の初期まで続けられた。
(4)申命記学派的歴史とペルシア時代との関係は、重要なのか、それとも重要でないのか?
DHの時代設定が定まらないのは学界での公然の秘密である。ノートは、DHの終点をヨヤキン王が囚われから解放された時に置いた(562年)(列王記下25章27〜30節)。ノートは、DHにペルシア時代の跡が見られないから、終点を新バビロニア時代の末期だと推定した。捕囚に連行された人たちが、座ってDHの編集ばかりやっていたのか? という疑問も当初から出されていた。にもかかわらず、570〜540年の捕囚期時代に、バビロンか、あるいはおそらくユダの地でDHの編集を行なうことが可能だったのである。
しかしわたしは、450年頃のペルシア時代の初期においてもDHの編集が行なわれた根拠を見出している。それは、申命記7章/同17章2〜7節/同23章1〜9節/ヨシュア記23章7〜12節/列王記下17章11〜12節などに見られる分離政策である。これらの分離政策は、エズラ記9章1節や申命記7章3節と並行する。また、申命記23章4節のモアブとアンモンの排除は、ネヘミヤ記13章1節のモアブとアンモンへの言及や同4〜9節のトビヤ家の追放と並行する。さらに、ネヘミヤ記13章28節のサンバラトの娘婿の大祭司職から追放とも並行する。
マッケンジーの指摘するとおり、バビロン捕囚の地ゴラからの帰還者たちこそ、真のイスラエルの民であり、エズラ記とネヘミヤ記にあるとおり、この民が第二神殿を建て、エルサレムを再興した。彼らは中央集権化政策を遂行し、神殿から遠く離れた地においても、会堂での礼拝を可能にした。
ペルシア時代初期に属する部分は、このほかに、申命記26章12〜15節とソロモンの演説である(列王記上8章)。この部分には、祭司資料編集者たちのP資料と第二イザヤの影響を読み取ることができるから、5世紀の中頃であろう。ただし、ペルシア時代の編集は、捕囚期のDH編集方針を大きく変えるものではなかった。
(5)申命記学派的歴史の終焉について、結尾と消滅との両面から。
DHが再構成された時に、いったいどこで終わろうとしたのだろうか? これについての議論は尽きない。申命記34章10〜12節(再びモーセのような預言者はあらわれなかったこと)は、モーセ五書のトーラーが確立された時点で、その結びとして終わっている。ここでは、モーセがイスラエルの「最初の預言者」であることを訂正して、申命記をそれ以降の文書から切り離している。
列王記下25章28〜29節(ユダの最期の王ヨヤキンがバビロンで出獄して、バビロン王の宴席に連なったこと)では、ノートの言うように、申命記史家は、ここで自己の一存でDHを終えたのだろうか? それとも、フォン・ラートの言うように、申命記史家(たち)は、ここの箇所で王国の再興を願い、さらにメシアの来臨を期待したのだろうか? むしろわたしは、ヨヤキン王のこの名誉回復物語は、ヨセフ物語の名誉回復(創世記41章)やエステル記のモルデカイの名誉回復(エステル記8章)やダニエル書2〜6章との共通性に注目したい。
列王記は、この25章で唐突に終わっているが、このような結尾はヘロドトス(494〜430年)やツキジデス(460?〜400年?)の歴史とも共通している。
ネルソンの指摘するとおり、ヨシュア記24章は結末を語るもので、六書全体(創世記〜ヨシュア記)のしめくくりになっていて、ヨシュア記23章から士師記2章6節へのつながりを断っている。これから判断すると、申命記34章10〜12節もヨシュア記24章も、同時期の400年頃に加えられたことを意味する。モーセ五書か、モーセ六書か、という対立がヨシュア記24章に反映しているのだろう。オットーもこれらの箇所がDHの終焉に関係していると見ている。
サムエル記は、その名が付けられた巻物として存在したのであろう。後になって、これの前に士師記19〜21章(ベニヤミン族の蛮行)が追加された。サムエル記下21〜24章(ダビデの最晩年とダビデの歌とダビデの遺言や人口調査)もまた、同じ頃の挿入と見ることができる。モーセ五書が確立され、申命記学派的歴史が律法から切り離されたのは、7〜5世紀末のことであろう。
(6)何をもって「申命記史家/学派的」と言うのか?
「申命記史家/学派主義」"Deuteronomism" という用語は、ほとんど誰でもが自分なりに「申命記史家/学派的」と言えるほど混乱している。先のこの部門では、「汎申命記史家/学派主義」について論じ合ったが、その際にもこの用語が鼻についていたほどである。ここらで「申命記史家/学派的」について一致する必要があるだろう。
聖書学者は一致を嫌うから、わたしはここで一致を図ろうとは思わないが、「申命記史家/学派的」について、なんらかの客観的な基準がほしいと思う。しかし、ここで単に語学的な用語だけに限定するわけにはいかない。語学的な意味でなら「申命記史家/学派的」とは、新約聖書の時代にまで近づくことになるのだから。だから「時代的に」と「思想的に」の両方からの基準が必要なのである。と言っても、これだと主観的になる危険性がでてくることになろう。
最後に、わたしはパネリストたちにお礼を申し上げたい。オットーとは、ノートの言う意味での「申命記史家的歴史」はもはや存在し得ないことで一致できた。マッケンジーとは、捕囚期の重要性について同意できた。エイミットとネルソンとは、申命記史家的歴史の出発が7世紀にあることで同意できた。それでは、ノートのこの偉大な発案について、将来も新たな洞察を期待することにしよう。