16章 申命記の編集(前編
■申命記の編集
 申命記それ自体は、創世記から民数記までの四つの書とは区別されています。申命記の編集はヨシヤ王の宗教改革(622年)の際に「ヨシヤ王の法典」が発見された時に始まります。ヨシヤ王の宗教改革は、北王国のエロヒストの影響を受けた人たちによるものでした。発見された「ヨシヤ王の法典」は、申命記の基となるものですが、これとJ資料とE資料とを結びつける作業は、ヨシヤ王の宗教改革の頃から始まっていたのでしょう。申命記の資料については、祭司資料編集者たちによる編集説もあったようですが、最近では、申命記学派による一貫した編集が行なわれたと見られるようになっています。
 これで見ると、申命記の本格的な編集は、ヨシヤ王の宮廷の指導者たちと、彼らの後継者たちによって、南王国ユダで始まったと考えられます。この編集作業は、ユダの地で捕囚の前に始まり、ヨシヤ王の逝去によって中断され、捕囚の中頃ヨヤキン王の名誉回復(560年頃)を機会に再び継続されて、おそらく550年頃には申命記全体が成立したと考えられます。ただし後述するように、ペルシア時代説もあります。これらの編集者たちは「申命記学派」と呼ばれています。
■申命記の正典化
 申命記成立までの前歴史がどのようなものであれ、現在の申命記に記されているイスラエルの領土の境界は、捕囚によってそれまでの領土を失った共同体によって描かれたものだと見られています。したがって、申命記にでてくるイスラエルの民の版図は、彼らが<かつて>支配していた領土を意図的に正典化したものです。彼らは、国土のない民とされている自分たちの状態を自覚しながら、未来には、より偉大な国土の授与が、まだ成就されていない状態で<存在している>ことを信じたのです。このような自覚に基づいて、国土の取得が実現したヨシュアの時代から、国土が喪失した722年(北王国)と587年(南王国)までの時代が、再び終末において授与されるであろう未来の国土への、言わば「前味(まえあじ)」だと見なされることになったのです〔Anchor(4)148〕。
 わたしたちは、第2部「約束の国伝承」の11章で、南王国ユダがバビロン捕囚にいたるまでの歴史的な経緯を見ました。大事なことは、モーセ五書の編集が、申命記学派とヤハウィストと祭司資料編集者たちによって行なわれたこと、さらにモーセ五書から列王記(上下)にいたるイスラエルの歴史的叙事物語の伝承が、国土の喪失という民族の最も危機的な状況の下で行なわれたことです。伝承の最終的な成立とこれが行なわれた時代とを切り離すことができません。このために申命記を民族的な希望の書と見る説と、これをむしろヤハウェによる裁きと見なす見解と、これら両説が提示されることになります。
■申命記の構成
申命記は、モーセ五書の中でもある意味で特殊な文書です。それは、資料的に見ると、創世記からレビ記にいたる四つの書から区別されていて、ヤハウィストやエロヒストや祭司資料編集者たちとは直接に関係しない人たちによって編集されたと考えられるからです。ただし、申命記には、祭司資料編集者たちによるP資料が挿入されている箇所もあります(申命記1章3節の日付/4章1〜3節の逃れの町規定/32章48〜52節のネボ山に登るモーセ/34章7〜9節のモーセの没した年齢とヨシュアの継承)。また、二人称単数「あなた」と複数「あなたたち」との交錯した記述(単数のほうが複数よりも早い編集)も注目されています(この人称交代を解明したのが鈴木氏の『申命記の文献学的研究』です)。
 申命記の内容をさらに吟味しますと、申命記4章44節〜30章20節までは、ひとつの独立したまとまりを見せています。だから、この部分の前後を形成する1章1節〜4章43節と31〜34章の部分は、いわゆる申命記史家たちによる編集になります。この申命記史家的歴史の記述は、申命記に続くヨシュア記から列王記(上下)にまで及ぶと考えられます。申命記「本体」への申命記史家たちの追加編集は、前5世紀だと考えられますが、これは言わば申命記編集の最終段階のことであって、それまでに、申命記編集の長期にわたる過程があったと思われます。
 申命記の本体とも言うべき4章〜30章もまた、様々な特徴を帯びています。例えば、12章を境にして、それ以前の4〜11章の奨励的な語りが、12章からは律法朗唱の文体へと変わります。この朗唱スタイルは26章で終わり、27章からは契約形式へと移り、28章から「祝福と呪い」の告知へと移行します。この告知は祝祭日の祭儀で唱えられる文体です。これらのいろいろな文体を一貫しているのが「モーセによる語り」です。しかし、上に述べたように、語りのスタイルが切れたり変わったりするので、これらは一貫した文学形態だと見なされていないようです(この点でクリステンセンの申命記解釈〔WBC〕が統一した詩的スタイルを提示しています)。このことから、申命記は、きわめて複雑な編集過程を経ていることをうかがわせます〔Von Rad, Deuteronomy. 12〕。
 しかしながら、わたしが意図しているのは、申命記の資料やその編集過程を解明することよりも、むしろ、ヤハウィストや祭司資料編集者たちや申命記学派が、それぞれに、どのような理念を持って約束の国伝承を最終的に成立させたのかということ、すなわち、物語伝承の最終的な姿を知ることです。そこにいたるまでの資料編纂の過程や資料分析は、言わばその最終的な姿を確認しこれをより深く理解するための予備知識であって、成立した伝承の内容それ自体を知ることに比べるなら、二義的な意味を持つにすぎません。では以下で、申命記に表われる主要な思想の幾つかを見ていくことにします。
■申命記と出エジプト記の「契約の書」
 申命記を形成する諸伝承は、出エジプト記で定められている諸規定ときわめて類似していますが、出エジプト記21〜23章は通常「契約の書」と呼ばれています。申命記は、この「契約の書」と共通する部分が多いのです(出エジプト記21章1〜11節=申命記15章12〜18節の奴隷に関する規定/出エジプト記21章12〜14節=申命記19章1〜13節の逃れの町/出エジプト記22章21〜24節=申命記24章17〜22節の寡婦や孤児など貧しい者たち/出エジプト記23章6〜8節=申命記16章18〜20節の裁判の公正/出エジプト記23章12節=申命記5章13〜15節の安息日/出エジプト記23章14〜17節=申命記16章1〜17節の祭りと巡礼/その他)。なぜこれほど多くの律法が共通しているのでしょうか?しかも、申命記だけに見出される律法もほかにいろいろと見られるのはなぜでしょうか?
 出エジプト記と申命記との間に共通する諸律法では、申命記のほうが出エジプト記よりも後期に属すると見なされています。では、以下で、出エジプト記21章1〜11節と申命記15章12〜18節の奴隷に関する規定を比較して見ることにします。
■奴隷の規定
 出エジプト記21章2節以下では、「ヘブライ人」の男性の奴隷を買う場合には、その奴隷の期間は6年間だけで、7年目には、その奴隷が買われた時のお金を払わなくても、無償で自由にしなければならないと定められています(出エジプト21章2節)。ただしここに問題が幾つかあります。
(1)「ヘブライ」という言葉が、具体的に何を意味するのか?です。この用語は、古代オリエントでは、ほんらい人種や民族のことではなく、土地を持つことが許されない放浪者たちや奴隷階級の人たちを指すことがあったからです。だから「ヘブライ人」はエジプトでは「ハビルの人」という蔑称で呼ばれていて「エジプト人」から区別されていました。このため出エジプト記では「ヘブライ」と「イスラエル」とが微妙に区別して用いられています(出エジプト10章3節と同23節とを比較)。だから、出エジプト記の奴隷規定で言う「ヘブライ人」とは、生まれながらの奴隷の身分で売り買いされている人たちのことなのか(購買奴隷)? それともイスラエル共同体の人でありながら、負債を返すことができなくて、仕方なく自分を身売りした人たちのことなのか(負債奴隷)? あるいは購買奴隷と負債奴隷の両方を指すのか? これが問題になります。両方を指すと解釈する説と〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)160頁〕、ここで言う「ヘブライ」は、すでに「イスラエル」と同じ意味で用いられていると解釈して、「ヘブライ」を「外国人」と区別して負債奴隷として解釈する説とがあります〔Child, Exodus. 468.〕〔岩波訳『出エジプト記・レビ記』97頁注10?〕。ちなみにこのように、時代によって意味が変わる用語は、旧約の編集過程における時代を決める大事な目安とされています。
(2)負債奴隷の場合は、7年目に自由にされる時に、身売りする以前の土地や妻が返却されます。しかし主人が奴隷に与えた妻とその妻との間に生まれた子供は返却されません。またその奴隷が、一生をその主人の奴隷として過ごすことを希望する場合は、聖所の祭司あるいは裁判官によってその耳に錐で穴を開けることになります(出エジプト21章5〜6節)。なお、解放されたとは言え、元奴隷であった者は身分的に一段低い階層に属すると見なされていたようです。
(3)女性の奴隷の場合は、7年目でも解放されることがなく、主人の家の所属になります。この場合、主人の側室になるか、その息子の側室になるか、その家の奴隷の妻となるか、三つの場合が考えられます。主人にほかの側室がいたとしても、家族として彼女を対等に扱うことが求められます。たとえ主人が彼女を嫌った場合でも彼女を勝手に転売することは許されません(例えば外国人に)。しかしイスラエルの彼女の親族がその奴隷を「贖う」、すなわち買い戻すことができます。以上が出エジプト記の奴隷規定です。
 出エジプト記に対して申命記15章12〜17節の奴隷規定を比べますと、そこに二つの興味深い記述が浮かび上がってきます。
 その一つは、「同胞のヘブライ人の男あるいは女」(申命記15章12節)とあるように、ここでは男女が区別されていません。したがって、女奴隷も7年目に、男奴隷と同じ権利が与えられて解放されます(同17節)。だから、申命記では、女性にも土地や財産の所有権が認められています(列王記下8章1〜6節を参照)。
 さらにもう一つは、「あなたの同胞であるヘブライの」という言い方です。ここでは「ヘブライ」と「イスラエル」共同体の「同胞」とが同じ意味で用いられていますから、これはイスラエル人の債務奴隷に限定された規定です。オリエントでは「ヘブライ」は、「自由人」と区別される奴隷身分の低い人を意味していましたが、「申命記ではこのような特定の意味で用いられてはいません」〔Von Rad, Deuteronomy. 107.〕。だから「ヘブライ」は民族を表わす用語となったのです。しかしここを「あなたの同胞のヘブライ(奴隷の)男あるいは女」という意味に理解して、「ヘブライ」を奴隷身分を表わす用語だと理解し、これを「自由の身」(原語は「ホフシー」)から区別されていると見る説もあります〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)324〜25頁〕。
■土地の休耕
 さらに出エジプト記23章10〜11節と申命記15章1〜3節とを比べることにします。出エジプト記23章10〜11節は7年目ごとに土地の休耕を定めたもので、この規定はレビ記25章1〜7節にもあります。レビ記のほうは、祭司資料編集者たちによるP資料からですが、土地はヤハウェのもの(共同体全体のもの)だとして、宗教的な理由で土地への休息を7年目ごとに与える制度です。出エジプト記のほうは、レビ記の宗教的な理由よりも、むしろ社会的な理由に傾いていて、休耕は貧しい者たちが、次いで野生の動物たちが、その土地で生えるものを食べるための措置になります。土地を7年目ごとに「休ませる」(ティシュメテーナ)とありますが、この「休ませる」(シャーマット)は、「休耕にする/諦める」ことで、これの名詞形「シェミッター」は「負債の免除」をも意味する用語です〔Child, Exodus.482.〕。
 この<負債免除>の規定に相当するのが申命記15章の7年目ごとの負債の免除規定です。レビ記と出エジプト記の規定は、イスラエルの民がまだ半農半牧畜の時代の規定ですが、申命記の規定では、同じ「シェミッター」が、<経済的な意味で>負債を免除する用語として用いられています。前者(レビ記と出エジプト記)は、イスラエルの初期の頃の規定であり、申命記のほうの規定は王国時代(1000年頃)以後の規定であることが分かります。
■申命記独自の規定
 しかし申命記には、出エジプト記の「契約の書」に<ない>規定も見受けられます。例えば申命記13章には、(1)偽預言者たちが宗教的な指導者として現われて民を惑わす場合と(2〜6節)、(2)家族や親族たちが異教の神々へ誘われる場合と(7〜12節)、(3)逆に町全体が異教に汚染される場合と(13〜19節)、三つの偶像礼拝の事例があげられていて、これらを厳しく処刑したり聖絶したりするように命じられています。
 第一の「偽預言者」の場合は、カナンの混淆宗教に基づく占いや夢による偽預言者のことですが、彼らは、サムエルの時代の預言者のことではないと考えられます。王国以前のサムエルの時代では、「預言者」にそれほど強い指導的な役割が与えられていなかったからです。だからこれはダビデ王国時代のことになりましょう。この時代は、王国の周辺に、まだ異教の諸民族が未征服のまま存在していましたから、それらの諸民族がダビデ王の支配の下に組み込まれた時の状況を反映していると思われます〔Von Rad, Deuteronomy. 15.〕。
 ただしここを、ダビデ王朝の末期に近いヨシヤ王の時代(治世640〜609年)のことだと見る説もあります。だとすれば、この時代に北王国はすでに滅びていましたから、南王国のヨシヤ王は、アッシリア帝国の内乱に乗じて、かつての北王国の領土を占領し、そこに移住させられた異教の諸民族を「ヤハウェ化」する政策をとったことになります。しかし、不幸にしてヨシヤが、パレスチナに侵入してきたエジプトと闘って戦死した後では、ヤハウェ化の改革が一時挫折して、その隙(すき)に偽預言者や夢占いが再び現われたと見るのです〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)321頁〕。
 第二の場合は、かつては共同体の宗教であったヤハウェ信仰からはずれた偶像礼拝が、家族内の個人にまで及ぶ段階に来ている状態を表わしています。これは、ヨシヤ王時代以後に、アッシリアによってかつての北王国内に移住させられた異教の民の間で、偶像礼拝が行なわれることを警戒して、裁判所がこれを厳しく取り締まるように命じていると見るのです〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)322頁〕。
 第三の場合は、町全体がヤハウェ宗教に反逆するという深刻な事態です。ここには、かつての北王国イスラエルと南王国ユダとの対立が背景にあるのかもしれません。滅んだはずの北王国において、南王国ユダの支配に対抗するために、かつての北王国のヤロブアム王による「偶像礼拝」の罪が再び台頭して、南王国を脅かしたのでしょうか。それとも、ヨシヤ王のヤハウェ主義を受け容れようとしなかったサマリヤ地域の町々を服従させるための偶像礼拝禁止規定でしょうか〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)322頁〕。
 このような反逆に対しては、カナン領内の異教の民を絶滅するよう命じた「七民抹消」思想(申命記7章1節)に基づいて、町全体を焼き払う「聖絶」(ヘーレム)の政策がとられたのでしょうか。だとすれば、これは、出エジプト記22章19節の教えにさかのぼるものです〔Von Rad, Deuteronomy. 97-98.〕。
■聖絶について
 申命記7章1〜6節は、聖絶思想を代表する箇所です。ここは、イスラエルの民が神から与えられた「イスラエルの領土」から、「カナンの七つの民」を聖絶するところです(先の章「イスラエルの領土」(旧約)を参照)。「追い払い聖絶した」〔岩波訳〕"...cleared away...and utterly destroyed"〔NRSV〕とあって、同9章1〜6節には「追い払う」が5回繰り返されています〔岩波訳〕。だから「聖絶」を字義どおりに採れば「殺し、または追い払う」ことです。ここにでてくる「七民抹消」思想は、おそらくイスラエルの民による最初期のカナン侵入に際して実際に実行された歴史的な出来事が背景にあるのでしょう。
 ただし、「七民」は、必ずしもカナンの原住民の分布に正しく対応するものではなく、「アモリ人」のように、古代のパレスチナの住民一般を総称する言い方もあれば、「エブス人」のようにダビデ以前にエルサレム地域に住んでいた特定の民の名称もあります。また、「アシェラ像」は、南王国ヨシヤ王の時代に、先にアッシリアによって住民の入れ替えが実施された旧北王国の人たちの宗教を指しています。だから、現在では、これは字義どおりの歴史的な事実ではなく、理念的あるいは祭儀的な意味で語られていると解釈されるか〔『旧約聖書注解』(1)〕、あるいは、かつての歴史伝承を回顧する文学的で詩的なレトリックだと解釈されています〔Christensen. Deuteronomy. WBC.〕。
 現在のイスラエルでも、トーラーを厳守しようとする守旧派の人たちによって、イスラエル人以外を「追放する」か、その領土内に入る者を「射殺する」ことで「領土浄化」を固守しようとする人たちがいます。彼らの律法解釈は、現在の歴史的あるいは文学的な聖書解釈から見て正しくないでしょう〔Christensen. Deuteronomy. Introduction .WBC.〕。しかし、現在のイスラエル人でも、モーセ五書(トーラー)からこのような七民抹消思想を読み取るのであれば、イエスの時代のユダヤの民が、申命記の七民抹消思想を字義どおりに理解していたとしても不思議ではないはずです。
 字義どおりの抹殺/虐殺(申命記13章16〜18節参照)であろうと、追放であろうと、屈服であろうと、または改宗であろうと、申命記の「七民抹消」思想は、ヤハウェ以外のいっさいの宗教的な営みを偶像礼拝と断ずることで、領土内の異邦の民(ここではカナンの土地の内に住む「ゴーイ」(民)と外にいる「アム」(民)とが区別されています)の宗教的文化的なアイデンティティそのものを根絶し抹殺することを目指している点に変わりありません。 
■戦闘規定
 申命記の特徴としては、以上のほかに戦闘に関する規定があります。この規定を以下の三つに分けて見ていくことにします。
(1)20章1〜9節の軍隊への兵役規定、
(2)20章10〜20節の包囲攻撃規定、
(3)23章10〜15節の陣営規定です。
 第一の場合、戦闘に際しては、先ず祭司による説教で始まります。この部分全体は、兵役免除に関するもので、長期にわたる編集過程をうかがわせます。先ず20章1節に「馬と戦車」とあるのは、イスラエルの民によるカナン征服の時代(12世紀頃)を思わせます。この頃は、カナンの軍隊には馬に引かせた戦車があり、これを持たないイスラエルの民を苦しめました(ヨシュア記11章4節)。だからイスラエルは、敵の戦車を見ても恐れることなく、ヤハウェにより頼むように励まされたのです。
 続く20章2節以下の説教では、呼びかけが二人称単数から複数へ変わります。20章2〜7節は、おそらく最も新しい時代(ヨシヤ王の7世紀後半か?)に属するのでしょう。「あなたたち」とは南王国の指導者のことで、彼らが司る兵役免除の規定が記されています。この部分は申命記史家(フォン・ラートによれば単数)によるものでしょう。とは言え、ここにもそれ以前のダビデ王国の時代(10世紀頃)の規定が反映しています。
 20章5節から、家を新築した者と、ぶどう畑の初収穫をしていない者と、新婚の者への兵役免除が記されています。これらの規定は、戦死によって財産や妻を失うことがないよう、民の権利が保障されているとも考えられます〔Von Rad, Deuteronomy. 131-32.〕。しかし、この免除規定は、そのような人権意識への配慮から出ているものではありません。古くから、新婚の者にはしばしば悪霊が働くと信じられたために、軍隊に悪霊が入り込むのを防ぐ意図があったからです。また、新築の家を神に奉献せずに、あるいは初物を奉納する以前に兵役に就くのは、主の軍隊に禍を招くと考えられたからでしょう〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)333頁〕。
 20章8節に再び「恐れるな」とあるのは、申命記史家による編集以前のダビデとソロモン王の王国の初期時代に属するものでしょう〔Von Rad, Deuteronomy. 132.〕。20章9節は、軍隊が「役人たち」から「部隊長」へ、その指令権が引き継がれることを指します。歴史的に見ると、これらの役人も指揮官も、ヨシヤ王時代の国家的な「王の軍隊」の指導者たちを指すと考えられます〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)333頁〕。
 第二の場合、20章10〜20節は、包囲攻撃に関する指揮官への規定です。「遠く離れた町々」への遠征は、これらの規定が王国成立以後のものであることを意味します。それ以前のイスラエルの民はもっぱら防衛を主としていました。遠征は、ダビデ王朝以後の拡大政策によるものです。この部分をさらに下って、南王国後期のヨシヤ王の時代に限定する見方もあります〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)333頁〕。遠く離れた町々と「主が嗣業として与える諸民族」とは区別されていますが、後者は、イスラエルの領内に含まれるからです。後者の場合は、降伏した民は強制労働に服させ、反抗する民の男子(兵役に相当する者)は皆殺しにします。また分捕り品はすべて国家の管理に移され、生き残った人はそのまま占領下に置かれます。ここにも申命記の聖絶思想が根底にありますが、実際にどの程度この処置がとられたのかは確かでありません。ここで告げられている規定は、軍事的な戦略よりも、むしろ宗教的な意図に基づいていると言えるからです〔Von Rad, Deuteronomy. 133.〕。
 第三の陣営規定は、時代決定が難しいですが、第一と第二の規定よりも、さらに以前からのものだと考えられます。         
■王への規定
 申命記のもう一つの特徴は、17章14〜20節の王に関するものです。ここには、王国以前の十二部族宗教連合の時代から受け継がれた伝統が遺っています。たとえ王といえども、主の御心に背くならば必ず罰を受けるのです(サムエル記上15章/サムエル記下24章)。
 とは言え、申命記の時代には、イスラエルの王制はすでに確立していましたから、申命記では、王への期待と、同時に、律法に従って王権を制御しようとする意図とが均衡しています(17章18〜19節)。王権へのこのような制限は、おそらく北王国イスラエルの頃からのものでしょう(ホセア書8章4節)。「外国人の王を立てるな」とあるのは、フェニキアから北王国イスラエルへ来た王妃イゼベルが、王位をねらったことを示唆するのでしょう(列王記下9章22節/同30節以下)。
 申命記17章16〜18節は、ソロモン王を言わば反面教師として描いています。「民をエジプトへ送り、馬を増やしてはならない」(16節)とあるのは、ソロモン王が、エジプトの軍馬を獲るために、王の軍隊の一部をその代価としてエジプトへ送ったことを指しています(列王記上10章28節)。「二度とこの道を戻るな」とあるのも、出エジプトの民が、エジプトへ逆戻りするなという戒めです〔Von Rad, Deuteronomy.119.〕。
 申命記のこのような王権への制限は、王が「律法の写しを作り、これを読み返せ」(17章18〜19節)とあることにも明記されています。ここには南王国ユダの後期に行なわれたヨシヤ王のヤハウェ主義に基づく宗教改革が反映しています〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)328〜29頁〕。即位した王が「この律法の写しを自分のために作る」とあるのは、王自らが聖典である律法を写経のように書き写せということです。聖典を写経して「そしてこれを読む」(ヴェカーラ・ヴォー)とあるのは、黙読のことではなく王自らが教典を朗唱して「唱える」ことです(「カーラー」は「叫ぶ/声を出す/宣言する」こと)〔Christensen, Deuteronomy. 17:18.〕。
 ここで「ミシュネー・ハトラー・ハゾット」とあるのは、「この律法(トーラー)の写し(ミシュネー)」と訳されていますが、これは律法の原本のほかに「第二の律法」としての写本を作ることではありません。「ミシュネー」(繰り返し/二重/写し)とは、神の律法(教え)を絶えず繰り返すこと、すなわちその教えに従って「歩み続ける」ことです。例えば、情報・知識は一度聞けば、これを「知る」ことができます。しかし「偽りを言うな」という教えは、これを聞いたその時から、これを「知る」ことが<始まる>のです。なぜなら、このような教えは、これを守り通して歩み続けることによって初めて、ほんとうに「知る」ことができるからです。ギリシア語の七十人訳聖書は、この「ミシュネー」を第二の律法「ト・デウテロノミオン」と訳しました。これは「ト・デウテロ(第二の)+ノモス(律法)」の意味で、このギリシア語が、ヒエロニュムスのラテン語聖書に「デウトロノミウム」(deuteronomium)として引き継がれることになります(英語では"Deuteronomy")〔Christensen, Deuteronomy.〕。ちなみに「申命記」は漢訳聖書から出ていて、「申」は「重ねる」ことですが、これでは、申命記が出エジプト記に次ぐ「第二の律法の書」だと誤解される恐れがあります。
■聖所の中央化
 出エジプト記の「契約の書」と申命記とを比較すると、申命記には「契約の書」には見られない重要な部分が見受けられます。それはエルサレムの聖所を中心にした「聖所の中央化」です。中央聖所に関する規定は、ほぼ次の8箇所に見ることができます。
(1)申命記12章の主として献げ物に関するもの。
(2)14章22〜29節の十分の一の供え物。
(3)15章19〜23節初子に関するもの。
(4)16章1〜17節の祭日に関するもの。
(5)17章8〜13節の裁判に関するもの。
(6)18章1〜8節の祭司に関するもの。
(7)19章1〜13節の逃れの町に関するもの。
(8)26章12〜15節(信仰告白)などです。
 申命記のこれらの律法規定は、12章2節から26章15節の間にあって、出エジプト記の「契約の書」との関係が強く、この点で、他の奨励的な教えから区別されます。中央聖所の箇所は、伝承的に見ると比較的後期の部類に属しますが、その編集過程は複雑です。
 そこで、ここからは、上にあげたものの中から特に(1)の申命記12章に注目し、そこでの献げ物その他についての規定を見ていくことにします。なぜなら「申命記12章は、ヘブライの聖書を歴史批評的に解釈する際に最も注目される箇所だからです」〔Christensen,Deuteronomy.〕。後述するトマス・レーマーも、「申命記の三層構成は、申命記的歴史の初めの部分、すなわち申命記の律法規定が始まる12章に最も明瞭に表わされている」と見ています〔Thomas Römer, The So-Called Deuteronomistic History. 56.〕。だから、12章の編集過程を通して、申命記で語られる中央聖所の実体を知ることができるのです。
■フォン・ラートの申命記12章の解釈
  申命記12章の献げ物に関する規定は、1〜7節/8〜12節/13〜19節/20〜28節の四つに区分することができます。一見するとそれぞれには「主が選ばれる場所」とあって、同じような規定が繰り返されているように思われます。しかしこの言葉こそ、申命記的な律法の根底をなすもので、これら四つの区切りにはそれぞれ特徴があります。それらの特徴は、イスラエルの歴史的な変遷を伝えるものですから、申命記を「聖所の中央化」だけで割り切ろうとするのは誤りです。なぜなら、聖所の中央化は、比較的細々した規定となって表わされており、同時に中央化に直接関わらない多数の規定も見られるからです。
(1)第一区分(1〜7節)には、献げ物は「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれた場所で」(5節)とあって、これが聖所の中央化を定める定型句です。この定型句を核にして勧めや規定が集められていて、このような構成で、12章の四つの区分が、それぞれに異なる事態に対応していることをうかがわせます。
 第一区分は「祭壇規定」です。これに対応するのが出エジプト記20章24〜26節で、両者には「主の御名」が共通します。出エジプト記のほうは、申命記よりも古い時代の規定で、こちらのほうでは、主ヤハウェが呼び求められる度(たび)に「主の訪れ」があります。これに対して申命記では、聖所にはヤハウェが常に「人格的に臨在」しているのです。
 ヤハウェは天におられるので、聖所が、天のヤハウェと地のイスラエルとを仲介する働きをしていることになり、この仲介こそ「御名」の働きです。ただし、フォン・ラートに言わせると、このような「御名」の神学は、十二部族連合時代にさかのぼるもので、その頃の祭儀は、幾つかの中心的な諸聖所で行なわれていました。だから申命記は、士師時代からの聖所の有り様を引き継いでいて、これらをひとつにまとめて「中央化」しようとしていることになります〔Von Rad, Deuteronomy.90 .〕。だから、祭壇を「ひとつの場所」と定める規定は、それ以前の「契約の書」から断絶した非連続、非継承的なものではありません。申命記は、しばしば「理念的で現実性に欠ける」と批判されますが、これは申命記の基本を忘れた批判で、申命記の規定を単なる政策的な処置だと誤解するからにほかなりません。申命記は「ヤハウェは一人」であるというイスラエルの伝承に深く根ざしているのです。
 ところでこの第一区分(1〜7節)では、聖所は、それ以前にカナンのバアル宗教や自然崇拝の場所であったところに置かれてはならないのです。イスラエルは「このようなことを主に対して行なってはならない」(4節)とあり、これらの神々の痕跡を完全に抹消して、「必ず、ヤハウェの選ぶ場所にその御名のみ」を置くように求められています。この「必ず」(キー)は「それゆえに」「しかし」「確かに」などを意味する接続詞で、これが目印になって、その前の否定すべきものと、これに続く肯定されるものとが分けられています。否定されるべきものは様々ですが、肯定的に行なうべきものはただひとつです。しかもその規定は、民全体に向けられていて、祭司もこれをきちんと実行しなければなりません。幾つかの献げ物があげられていますが、それらに限定されず、要するに「すべての献げ物」のことを指しています。
 この箇所で問題になるのが「あなたたちの神、主に対しては国々の民と同じようにしてはならない」(4節)〔新共同訳〕とあるところです。ヘブライ語原典では「あなたたちは、あなたたちの主なる神に対してはそのようにしてはならない」です。"You shall not worship the Lord your God in such ways." 〔NRSV〕3節でカナンの神々を絶滅せよと命じたその後に続くこの言葉は、いったいどういう意味でしょうか? カナンの神々は絶滅するが、あなたたちの神を絶滅してはならないという意味になりますが、この命令が何を意図しているのかがよく分かりません。このためでしょうか、「そのように」とあるところを新共同訳は「国々の民と同じように」と意訳しています。これだと、ヤハウェ礼拝をカナンの異教の神々と同じようにしてはならないという意味になりましょう。
 フォン・ラートは、2〜7節で滅ぼされるべき宗教とは、実はヤハウェ信仰が後退する中で台頭(たいとう)してきた異教的な宗教であると見ています(申命記13章2節以下を参照)。すなわちイスラエルは、「主の御名を置く場所」を常に繰り返し新たに求め直すことが求められているのです。イスラエルが横道へ逸れた時は、その誤りを認めて、再び新たに出直すようにうながしているのです〔Von Rad, Deuteronomy.92 .〕。
 だとすれば、第一区分は、イスラエルがヨシュアに率いられてカナンに侵入する<以前の>ことではなく、イスラエルがカナンに定住した<後の段階で>生じた出来事を指していることになります。それは何時のことでしょう。サウル王による王国成立以後のことでしょうか? ダビデとソロモンの時代の頃でしょうか? 北王国イスラエル時代のことでしょうか? 南王国ユダのマナセ王(治世699〜643年)の時代でしょうか? 南王国のヨシヤ王の宗教改革の頃(622年頃)でしょうか? バビロンの捕囚期に、異民族の中に置かれたユダの民への警告でしょうか? 帰還後のペルシア帝国支配の時代でしょうか? それとも、これらすべての時代を通じたイスラエルの歴史全体のことでしょうか。こういう疑問が浮かび上がってきます。
(2)第二の区分(8〜12節)に入ります。8節で分かるように、「あなたたち」と呼びかけられているイスラエルの民は、まだヨルダン川を渡る前の状態にいます。「あなたたち」は、「今までは」それぞれが自分の正しいと思うことを行なってきたが、約束の国へ入ったならば、自分の思うとおりに行なってはならないと命じるのです。ここで言う「自分の正しいと思うこと」とは、どういう意味なのかは11節に記されています。すなわち、あなたたちの主なる神が「その名を置く場所」以外の所で献げ物をささげてはならないことです。したがって、「今までは」それぞれが、自分が「正しいと思う場所」で献げ物を献げて主を礼拝したきた。けれども、それは「臨時の」状態であって、「今からは」そうではなく、必ず主の御名が置かれた聖所で献げ物をし、礼拝しなければならないと言うのです。
 第二区分は、第一区分とはっきり異なっています。なぜなら、ここで命じられているのは、イスラエルの礼拝と異教の民のそれとの関係ではなく、イスラエルの民の<内部における>礼拝の問題だからです。しかも、この第二の箇所では、約束の国で主が約束された「安息」と「嗣業」に与ることが<成就されて>います。だからここは、イスラエルの救済史に関係した内容です。この意味で、イスラエルの民が「今までは」それぞれの事態に対応するために、いろいろな場所で礼拝してきた。けれども、「これからは」約束が成就したのだから、ひとつの場所で、ひとつの礼拝を守るように命じているのです。
 ここで言う「安息」とは「あらゆる敵から完全に守られた」(申命記25章19節参照)歴史的状況のことで、これこそ、イスラエルが、長い放浪の旅の間求め続けてきたことでしたから、ここで語られるカナンの地は、第一の場合とは異なって、あたかも楽園のような場所(申命記8章7〜10節)です〔Von Rad, Deuteronomy.92-93 .〕。
 問題なのは、このような「聖所の中央化」が、イスラエルの歴史において、はたして「今まで」とは異なるほどに「新しい」状態になったのは何時のことなのか? という疑問です。士師の時代でも、十二部族連合の間に「契約の箱」が存在しており、最終的にはシロの地で「中央礼拝」が行なわれていました(ヨシュア記22章11〜12節/士師記21章19節)。もっとも中央聖所での礼拝は、申命記がここで命じるほど徹底した形ではなかったでしょう。しかしながら、士師記のようなイスラエルの初期の時代では、申命記がここで命じているほどに、はたしてヤハウェ宗教の「中央化」が差し迫って必要な状況だったのでしょうか? 言い換えると、ヤハウェ宗教の統一が、そこまで要求されるほどの危機的な状態だったのでしょうか? ここで申命記が命じているのは、どうも士師記の時代のことではなさそうです。とすれば、それはいったい何時のことでしょうか〔Von Rad, Deuteronomy.17.〕。
(3)第三区分(13〜19節)に入ります。ここでは「あなた」と二人称単数で語られています。このためにフォン・ラートは、ここが最初期の資料にさかのぼると見ています〔Von Rad, Deuteronomy.16.〕。ここでは「主が与える祝福に従って、ほしいだけ獣を屠り、その肉を食べる」(15節)ことができます。しかも「汚れているものも、清いものも」食べることができます。だから、これは先の二つの区分のように、聖所で献げられる犠牲のことではなく、民が日常において食べる獣に関することです。こういう「世俗」の問題は、第一でも第二でも、ここほどに明確に規定されてはいません。申命記のこの箇所では、動物の犠牲の<祭儀性>は全く失われています。流血に関する規定だけが生きていますが(16節)、それもただ「水のように流す」だけで、そこに祭儀的な意味はありません。
 第一から第三の区分へと読み進むと、カナンの異教の礼拝を抹消してヤハウェの聖所においてのみ犠牲を献げるように求められていて、しかも、このような祭儀的な犠牲の献げ物が、ここ第三区分では、その祭儀性を失って、それがあたかも、後になって、民の日常の食物へと<拡大解釈>されているかのように見えます。ところがフォン・ラートに言わせると順序が全く逆で、この第三区分のほうが、先の二つの区分よりも初期の頃の伝承にさかのぼるのです。なぜでしょうか? フォン・ラートは、この第三区分が、イスラエルが政治的に支配する領土が拡大された時期だと見ています。おそらく彼は、15節に「どの町においても〜ほしいだけ」とあるのも、そのように拡大された王国の地域全体に関わると見ているのでしょう。その上で彼は、この事態に対処するために、<初期の頃の>イスラエルの状況下での規定が、新たに拡大された王国へ適応できるように<再解釈されている>と見るのです。第三区分が、先の二つの区分よりも<初期>だと見なすのは、このような解釈に基づいているようです〔Von Rad, Deuteronomy.93.〕。
 こういう見解に立って、フォン・ラートは、そのような王国の拡大時期を南王国ユダのヨシヤ王の時代ではないかと想定しています(列王記下23章15節/19節)。この時期に、ヨシヤ王は、かつてのダビデ王の時代のイスラエルの領土全域を回復することを意図していたからです。だとすれば、列王記下15章29節にあるように、アッシリアに占領された北王国イスラエルの地域を再び取り戻すことをも視野に入れていると解釈できます。また、もしも申命記の原資料が、北王国イスラエルからもたらされたとすれば、その原資料を南王国ユダへも拡大して当てはめたとも考えられましょう(申命記33章7節参照)。
(4)第四区分(20〜31節)に入ります。この区分でも二人称単数が用いられています。ここでは、直前の第三区分と同様に中央聖所を守ることが繰り返されていて(26節)、それに29節以下で(ここを第五区分と見ることもできます)第一区分のカナンの偶像礼拝に対する警告が続いています。しかもカナンの偶像礼拝とは「人間を生け贄として献げる」行為であったことが記されています(31節)。これこそが、申命記が最も厭うべき偶像礼拝として厳しく戒めていることです。ヤハウェへの礼拝においては、このような偶像礼拝が「真似られる」ことが断固としてあってはならないのです。
 それにしても、以上のような12章の中央聖所への規定は、いったいどこから生じたのでしょうか? だれがこのような規定を作ったのでしょうか? 「ヤハウェが選ばれた場所」とあるのはエルサレムのことだと言われていますが、このような即断は避けなければなりません。申命記のどこにも「エルサレム」は言及されていないからです。だからヨシヤ王時代のエルサレムへの聖所の中央化のことだと判断することも控えなければなりません。申命記の規定がこの時代に起源する証拠は何一つないからです。イスラエルの初期の頃には、シケムとシロが「ヤハウェの選ばれた場所」でした。ヨシュアは、「モーセ律法に書かれてある通りに」エバル山、すなわちシケムの近くに祭壇を築いたとあります(ヨシュア記8章30〜31節)。エレミヤ書(7章12節)には、シロこそ「かつてヤハウェがその名を置いた聖所」だとあります。だから、エルサレムだけが中央聖所だと規定するわけにはいかないのです。もしも申命記の規定が祭司のグループによるとするならば、中央化の規定が北王国イスラエルに起源する可能性もあります。しかし、ここ12章で語られている中央聖所とは、おそらくシケムかベテルである可能性が高いのではないか、というのがフォン・ラートの見解です〔Von Rad, Deuteronomy.94.〕。
 以上、主としてフォン・ラートの説を中心に、申命記12章の解釈を紹介してきました。これで分かるように、12章だけでなく、申命記それ自体が、いったいどの時代に起源するのかを判断するのはかなり難しいようです。申命記は、長期にわたる複雑な編集過程が存在したことをうかがわせるからです。そこで、今まで述べたフォン・ラート説を第一として、以下で、さらに三つの説(申命記後編をも含めて)を紹介することで、申命記の12章の解釈を通して、申命記それ自体の編集過程を探ることにします。
■鈴木義秀の申命記12章の解釈
 ここで紹介するのは、『新共同訳旧約聖書注解』(1)の申命記の講解を担当された鈴木佳秀(すずきよしひで)氏の解説と解釈(鈴木前掲書291〜369頁)に基づくものです。鈴木は、『申命記の文献学的研究』(日本キリスト教団出版局1987年)において、申命記の人称と単数/複数の変化に着目して、そこから申命記の成立事情を解明することで(1982年)、海外で高い評価を与えられています〔Christensen, Deuteronomy. Introduction,"Numeruswechsel".〕。鈴木は、申命記の成立を解き明かす試みが、モーセ五書の資料分析(J/E/D/P)に始まり、W・M・L・デ・ヴェッテの「原申命記」(列王記下22章8節)説から、C・シュトイエルナーゲルが、申命記の文体に着目して二人称単数「あなた」と複数「あなたたち」とを分離することで原申命記を再構成しようとしたことを紹介しています。これと並行して、M・ノートに始まりフォン・ラートによって拡大された申命記史家説をも紹介し、これらの業績を踏まえた上で、申命記の本文を読み解こうとします。
 鈴木によれば、申命記には古い時代にさかのぼる法も含まれているが、これらが、新たな政治的・行政的な要請に対応するために、新しく解釈し編集し直されています。そこで、主として二人称単数と複数との交替に注目することで、その編集の歴史的状況を解明しようとします。これによれば、数の交替は次のように大別されます。
〔二人称単数〕
(1)一般市民を対象にする呼びかけ(23章24節)。
(2)公職にある人への呼びかけ(17章8〜11節)。
(3)イスラエル全体への呼びかけ(9章1節)。
 この三つの分類に基づいて、(1)は三人称の文体と共に素材となる申命記の法に属しています。しかし(2)は、南王国ユダのヨシヤ王の宗教改革によって生じた法に関係するもので、中央集権体制を目指しています(12章に集中)。(3)は改革の仕上げとして民族主義の昂揚を意図するものです(6〜11章に集中)。
〔二人称複数〕
 「あなたたち」は、ヨシヤ王が戦死した(609年)後で、改革事業が挫折し、イスラエルをその全体として「あなた」と呼びかけることができなくなったために生じた文体です。
〔一人称複数〕
 「我々」とは捕囚期における文体で、これは捕囚の民をひとつに束ねて、祖国への帰還を待望するためです。このために、ヨルダンの東のモアブの地でモーセがイスラエルに語った遺言の文体になっています。
 捕囚期以後に、二人称単数を用いた加筆が行なわれ、申命記全体の編集が終わるのは、帰還後の第二神殿(完成は520〜515年)の時代だと考えられます。
 申命記は、北王国をその起源とする説があり、これが南王国で編集されてヨシヤ王によって<用いられた>とする説があります。これに対して鈴木は、申命記の編集それ自体がヨシヤ王の時代のことだと見ています。したがって、ヨシヤ王が申命記の律法を「発見した」(列王記下22章8節)のではなく、逆にヨシヤ王が申命記の編集を命じたのであって(歴代誌下34章)、その後で「発見神話」が生じたという見方をするのです〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)294頁〕。ちなみに彼は、申命記史家(たち)と申命記との関係については、ノートの単独説とクロスの二人説ではなく、申命記学派によって、捕囚期以前から以後にかけて連続して編集が行なわれたと見ています〔鈴木前掲書295頁〕。
 次にヨシヤ王による申命記編集の歴史的な背景については、アッシリア帝国の勢力が後退する隙に乗じて、王は、再び士師時代の徴兵制を敷くことで軍隊を強化して、かつての北王国イスラエル領のイズレエル平原にいたるまでその領土を拡大しました。その結果、アッシリアによって強制的に入れ替えられた北地域の住民の非イスラエル的な風習や伝統を南王国ユダの宗教と文化に適合させる必要が生じたのです。なお、ヨシヤ王と彼の治世については、先の章「ユダの民の捕囚とその背景」にある「622年:ヨシヤ王の宗教改革」の項をお読みください。以上のような見地から、先にあげた申命記12章の鈴木氏の解釈を見ると、次のようになります〔鈴木前掲書319〜321頁〕〔鈴木『申命記の文献学的研究』226〜261頁〕。
(1)第一区分(1〜7節)では、「あなたの先祖」(1節)と「あなたの神」(7節)とあるように、冒頭と終わりだけに二人称単数が出てきて、それ以外は「あなたたち」が用いられています。ただし鈴木氏は、第一区分に8節も含めています。
 1節は、鈴木氏による訳では次の通りです。「これらが掟と定めで、/あなたの先祖の神ヤハウェがあなたに与え、受け継がせる地で、/あなたたちがこの土地に生きている間、その全生涯にわたり、あなたたちが守り行なわなければならない」〔岩波訳『民数記・申命記』303頁〕。最初の「掟と定め」はそれ以下に対する標題です。この標題には出ていませんが、標題の主語は鈴木によれば二人称単数です。この二人称単数は「最初の編纂時のもの」〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)319頁〕とありますが、これはヨシヤ王の下で最初に申命記が編集された段階を指すのでしょうか? 記述がはっきりしません。
 続く「<あなた>の先祖・・・」は、これも二人称単数です。しかしこの単数はイスラエル全体へ呼びかける二人称単数の(3)の用法ですから、これは比較的後期で、捕囚期あるいはそれ以後に挿入されたことになります。だからこの部分は削除して、「これらが掟と定めで、あなたたちがこの土地に生きている間、その全生涯にわたり、あなたたちが守り行なわなければならない」と読むことも可能です〔岩波訳303頁。注19〕。
 では、それ以外の部分、すなわち1節後半の「<あなたたち>が地上に生きている限り・・・」に始まる第一区分はどのような状況を指すのでしょうか。鈴木によれば、それは南王国ユダが新バビロニア帝国の支配下にあった頃のことで、第1回バビロン捕囚に出遭ったヨヤキム王の時代にあたります(この時代については、先の「ユダの民の捕囚とその背景」の章にある「597年:第1回バビロン捕囚」の項をお読みください)。
 12章2〜4節で、祭壇、石柱、アシェラ像などを徹底的に破壊せよとあるのは、ヨヤキム王の時代に、新バビロニアの支配下にあって持ち込まれた異教的な祭儀を強制的に排除して、ヤハウェ宗教を再興することが意図されています。「彼らの名をその場所から消し去れ」とあるのは、12章のこの部分を編集した人物が生きていて、事態を憂慮し危機感を抱いていたことを表わします。また「あなたたちの神、主に対して同じようにしてはならない」(4節)という奇妙な命令も、新バビロニアによってヤハウェ宗教が脅かされていたことに関連します。新バビロニアの支配下にある統治者によってヤハウェ主義者たちが迫害を受けていたために、迫害に屈することがないように戒めているのです〔鈴木『申命記の文献学的研究』234〜235頁〕。
 鈴木は、12章8節「あなたたちは、今日われわれがここでしているあらゆることに倣(なら)って、すべて自分の目に正しいと思うことを、各自がほしいままに行なってはならない」〔岩波訳〕を第一区分に含めます。こうすることで、4節を境にして、前半は異教の神々の名前の抹殺であり、後半は勝手な祭儀を戒めるという構成が見えてきます。また、「主が御名を置くために選ばれる場所」(5節)とあるのは、中央聖所を救済史と結びつけて、ヤハウェの「選び」を明確にするためです。ただし、「御名を」とあることから、単なる神殿の祭儀ではなく、むしろ神殿祭儀を神学的に訂正する意図がそこにこめられていると見るのです〔鈴木『申命記の文献学的研究』236頁以下〕。これの背景には、ダビデ王時代からエルサレム神殿の祭儀を司ってきたツァドク系の祭司団の力を制限して、地方のレビ人たちを祭司として、新たに中央聖所の祭儀に参加させようとする政策があったと見ています。
 8節に「今日われわれが」とありますが、申命記全体がヨルダン川の東でモーセが与える遺訓の形を採っていますから、「われわれ」にはモーセ自身も含まれることになります。これだとモーセ自身までも「ほしいままに」勝手な祭儀をしていたことになりますから、この一人称複数は、人称の文体を理解しない後の(捕囚期以後)挿入だと見ています。
 なお鈴木氏のこの見方からすれば、第一区分の前半は、南王国ユダが新バビロニア帝国の支配下にあった頃のことで、アッシリアと新バビロニアの支配によって生じた異教を排除するのですから、これはヤハウェ宗教と異教との対立になります。しかし後半では、中央聖所での神殿祭儀の変革を意図するのですから、これはヤハウェ宗教<内部>での軋轢(あつれき)になります。したがって、この部分は、異教を否定してヤハウェ宗教を肯定するという対照的な構成では<ない>ことになります。
(2)第二区分(9〜12節)に入ります。ここでは「安息」と安住の地としての「嗣業」が語られています。「焼き尽くす献げ物」の中に、重要な罪祭が含まれていませんが、祭儀的な方法では、罪の贖いができないと考えるからかもしれません(ホセア4章8節)。注目されるのは「男女の奴隷」までもが、中央聖所での会食を許されていることで、ここに申命記的な精神を見ることができます。
 この部分では二人称複数が用いられていますから、これが編集された時代はヨシヤ王以後のことです。ヨシヤ王が戦死した後で宗教改革が挫折します。だから、この部分は、ヨシヤ王の死(609年)とヨヤキム王のバビロン捕囚の時期(597年)との中間期の編集で、申命記史家たちが、改革の成功にまだ期待を寄せていた頃のことになります。
(3)第三区分(13〜19節)に入ります。この部分は、第二区分とは異なり、二人称単数です。フォン・ラートは、この第三区分が、ヨシヤ王の時代に属すると推定していますが、鈴木もまた、ここから二人称単数の(2)の用法、すなわちヨシヤ王時代に公職にあった宗教的・行政的な指導者に宛てた「あなた」が始まると考えます〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)319頁〕。ただし『新共同訳旧約聖書注解』(1)での鈴木の注解では、12章13〜28節をひとまとめにして、この部分が19節のレビ人への規定を境に相互に対応すると見ています〔鈴木前掲書320頁〕。しかし、岩波訳のほうでの鈴木の区分は、新共同訳と同じ13〜19節になっていますので、岩波訳に従い、フォン・ラートと同じ第三区分として扱います。
 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、中央聖所で犠牲を献げる任に当たる祭司たちのことです。しかし、鈴木によれば、ここで言う「祭司たち」には、ヨシヤ王の改革に伴う複雑な事情が絡んでいます。ヨシヤ王は、それまで地方に散在していた諸聖所、すなわち民が犠牲を献げるために詣(もう)でたそれぞれの地域にある聖所をエルサレムにある中央聖所に統一しようとしました。このことは、それまでは王権とは別個の権威として存続し続けてきた諸聖所の宗教的な祭儀を「国家の行政的な」見地から、国王の権力を行使して、法律によって強制的に統合することを意図したのです〔鈴木『申命記の文献学的研究』251頁〕。この半ば強制的な宗教政策には、二つのねらいがこめられていました。
 一つは、ダビデ王以来、エルサレム神殿における祭儀を独占してきたツァドク系祭司団の勢力を弱めることです。ツァドク系の祭司たちはエブス人で、彼らは、ダビデ以前からエルサレムの原住民であったカナンの民です。だから、エルサレムの聖所における祭儀でさえも、そこにはヤハウェ宗教<以前の>異教的な残滓(ざんさい)が残っていたのです。このような「エルサレムにおける非ヤハウェ的な伝統や威信をそのまま容認する」〔『新共同訳旧約聖書注解』(1)320頁〕のでは、ヤハウェ主義を貫徹することができないために、王の法令によって、エルサレムの中央聖所の祭儀を司る祭司制度を根本的に改革するのが、ひとつのねらいでした。
 もう一つは、中央化によって、それまで存続してきた地方の聖所が廃止されることです。その結果、それまで地方で祭儀を司ってきたレビ人たちがその職を失うことになりますから、ヨシヤ王の法令は、これに伴う行政処置です。これらのレビ人たちを新たに「レビ人祭司」として、一括して中央聖所の祭儀制度に組み込むねらいがありました。この処置によって、エルサレムの中央聖所では、ツァドク系祭司たちも、新来のレビ人祭司たちも、一様に国家の公僕として任命されることになったのです〔『申命記の文献学的研究』252〜54頁〕。
 これで分かるように、鈴木によれば、ヨシヤ王の宗教改革とは、エブス人の門閥に支配された神殿至上主義の儀礼制度をモーセ律法が告げる「掟と法」によって、儀礼制から法治制度へ転換することを図るものでした。「レビ人を見捨てるな」(19節)とある意図もこれで理解できるし、「ヤハウェがその名を置くために選ばれた場所」(21節)とは、祭儀宗教を「主の御名」によって新たに改革する神学的なねらいがあることも分かります。
 第三区分で一箇所だけ「<あなたたち>はその血を食べてはならない」〔岩波訳〕とあって、ここだけ二人称複数がでてきます。この二人称複数は、「あなた」と呼びかけられている祭司たちのことではなく、犠牲を献げる民のことです。改革による聖所の中央化は、地方の諸聖所の閉鎖を伴いますから、民もまた犠牲を献げる礼拝の場として、中央聖所へ詣(もう)でなければならないことを意味します。だから、ヨシヤ王の改革は、宗教改革に留まらず、国民全体を国の法令によって、宗教的、行政的に統治するというねらいがあったことになります。(4)第四区分(20〜31節)に入ります。この部分も直前の第三区分におけるエルサレム中央聖所の規定の続きです。ただしここでは、エルサレムへ祭儀を中央化したために生じた地方の民の生活への配慮がなされています。すなわち、民は一般の町々で肉を食べるために動物を屠(ほふ)ることが許可されています。これは祭儀ではなく、儀礼性を持たない世俗の肉食に関するものです(20〜25節)。ただしここには、血は命だから、その血を肉と共に食べてはならないという規定が設けられています。
 ここでの「あなた」は、先の(3)の「あなた」で、地方に派遣されたレビ人祭司たちです。彼らは、民が持参する動物を律法に従って屠る専門的な知識を具えています。従来エルサレム神殿に仕えていたツァドク系祭司とは異なって、これらレビ人祭司たちは、地方の事情に詳しく、「清いか汚れているか」などの食物に関する規定を訪れてくる民に正しく指導することができたからです。だから、この規定は、宗教的よりも行政的な処置に基づいて、それぞれの地域に住む民を統一して支配するためです〔『申命記の文献学的研究』258頁〕。民は一つ一つ律法に適うかどうかをエルサレムへ行かなくても知ることができるからです。
 「あなたが」追い払おうとしている国々の民」(29節)とあるのは、ヨシヤ王の時代に拡張された地域に住む人たちのことで、そこはかつて北王国イスラエルの領土でしたが、アッシリアによって占領されていた地域のことです。以上で分かるように、鈴木は、申命記12章の規定を、主としてヨシヤ王の改革とこれに続く南王国の時代にほぼ限定して理解しようとします(捕囚期とそれ以後の編集をも視野に入れていますが)。その上で、申命記の規定をその時代の歴史的な事実と関連づけて解釈しています。
■レーマーの申命記12章の解釈
 ここでは、レーマーによる申命記12章の解釈を見ていくことにします。この章では祭儀の聖所の中央化が語られます。レーマーによれば、ここは7世紀のヨシヤ王の時代に始まるとは言え、12章全体は、ヨシヤ王とこれに続く南王国の時代に属するだけでなく、それ以後の長期にわたる編集によって成立したものです。レーマーは、12章の第一区分(2〜7節)と第五区分(29〜31節)とを一つながりに見ています〔レーマー前掲書57頁〕。したがって、12章全体は、これを四つに区分することができます。しかもそれらの編集時代は、次のように区分の順序が一致しません。これを時代的に見ると、先ず第三区分(13〜18節)/第二区分(8〜12節)/第一区分(2〜7節)・第五区分(29〜31節)+第四区分(20〜28節)の三段階に分類できます。しかし、これでは区分と時代の関係が分かりにくいので、以下では、フォン・ラートや鈴木の区分に準じて、現行の聖書本文通りの順番で12章を見ていくことにします。
(1)第一区分(2〜7節)は第五区分(29〜31節)と同じで、おそらく同一の編集者によるものです。この部分は、申命記7章1〜6節の「七民抹消」を始め、同章22〜26節や9章1〜6節とも共通していて、ヤハウェの民をその土地に住む諸民族から分離することを意図しています。第五区分には聖所の中央化が述べられていませんが、分離と排除の点で共通します。
 第一・第五区分は、捕囚以後のペルシア時代初期(530頃〜400年頃)の編集に属するものです。ここでは、「国々の民」(4節)とあり、これに対して、「あなたたち」と呼びかけられる「真のイスラエルの民」との分離が告げられています。これはエズラやネヘミヤの時代に、捕囚から帰還した「真のイスラエルの民」と、北王国イスラエルの滅亡以後から南王国のバビロン捕囚と、そこからの帰還にいたるまでの間にパレスチナに住み着いていた現地民とを分離する政策を表わしています〔レーマー前掲書57頁〕。
 第一区分に見られる排他的な言説は、他者との厳しい対立状態に置かれた少数派の人たちの特徴を示していて、「あなたたち」が分離しなければならない相手の諸民族とは、バビロン捕囚の際に連行を免れてユダの地に居残った人たちを指しています。バビロンから帰還した民の指導者たちは、これらの民を「真のイスラエル」として認めなかったのです。したがって、自分たちと「現地の」人たちとの婚姻関係その他を厳禁することになります。捕囚からの帰還者は、おそらく視野の開けた知識人たちが多く、これに対して居残っていた現地民は、申命記的な規律と聖所の中央化には向かない宗教的に保守的な人たちだったのでしょう。
 だから、12章2節にある破壊すべき「すべての場所」とは、エルサレム以外に存続していた現地民たちそれぞれの地域の聖所を指しています。3節に「祭壇、石柱、アッシェラ像」などを「その場所(単数)から」消し去れとあるのは、エルサレムに残っていた「非正統的な」宗教のことを指しています。この第一区分は、すでに第二神殿が存在していることを前提にしています。したがって、第三区分(13〜18節)にあるような神殿以外での犠牲には触れていません。
 ただし、ここで告げられている命令は、それまで告げられていたことに「取って代わろう」とするものではありません。それまでにすでに与えられていた申命記的な命令を「実現しよう」と意図するものです。中央化の点では、第一区分は第四区分(20〜27節)とも共通していて、すでに告げられていた聖所の中央化を現地の歴史的状況において実現することを意図しています〔レーマー前掲書63〜64頁〕。
(2)第二区分(8〜12節)は捕囚期の編集に属しています。ここでの「あなたたち」は、まだ約束の地の<外に>いることになっていますが、「あなたたち」とは、明らかに捕囚で連行された人たちを指しています。まだ「荒れ野」にいる状態のこの人たちは、「ヨルダン川を渡り」(10節)とあるように、条件さえ整えば自分たちの地に入ることができます。すなわち、ここで編集者は、近い将来に起こるべき帰還を、ヨルダン川を渡る直前の「モーセの遺訓」という文学的な様式で描き出しているのです。
 この編集者(単数)は、「我々が今日、それぞれが思い思いに正しいと思うことをしている」(8節)と言い、かつ、「安住の地」に入ってからは、もはやそれが許されないと告げて、「今日」と「安住の地」とを対照させます。ただし、申命記史家がここで言う「安住の地」とはエルサレム神殿のことです。しかもその神殿は、もはや地上の神殿を指すのではなく、「主はこう言われる。天はわたし(神)の王座、地はわたしが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てることができるのか」(イザヤ書66章1節など)と第三イザヤが言う「神殿」のことなのです。
 さらに重要なのは、「主が与えられる<安住の地>に、あなたたちはまだ入っていない」(9節)とある申命記の言葉が、ソロモン王の祈りの言葉、「その民イスラエルに<安住の地>を与えてくださった主は讃えられますように」(列王記上8章56節)とある用語と対応していることです。申命記と列王記上との二つのテキストが、イスラエルに与えられる「安住の地」に関連して共通しているのは、申命記12章と列王記上8章とが密接に関係していることを示すもので、このことは、捕囚期にバビロンにいた同一の人物がこの編集を行なったことを意味します。ソロモンの祈りに「安住の地を<与えてくださった>」とあるとおり、レーマーによれば、「神殿」が完成することで初めて「安住の地」が成就するのです。
 申命記史家的歴史(DH)において、この意味での「神殿=安住の地」がでてくるのは、ソロモン王の祈りが最初です。その場所は、「主はわたしたちを乳と密の流れるこの土地/場所(=神殿)に導き入れられた」(申命記26章9節)とあるのと同じ「場所」です。だからここで言う「神殿」は、ヤハウェの住まう「安住の地」を象徴する小宇宙的な象徴性を具えている神殿を指すのです。
 「神殿」と「安住の地」とのこの象徴関係は、「ヤハウェの臨在」がイスラエルの民に与えられることと結びついています。「主がそのみ名を置くために選ばれる<場所>」とある「場所」とは、申命記では「聖所」を指していますから、第二区分の終わりに「悦び祝え」(12章11節)とあるのも「神殿=嗣業の場所」と関係しています。
 「神殿」と「土地/場所」とのこのような象徴的な相互関係は、申命記学派を含むバビロン捕囚の人たちが見ている無秩序な状態、「それぞれが自分の正しいと思うことを行なっている」状態と深く関係しています。「安住の地にまだ入っていない」(9節)状態とは、バビロニアの支配下にあって神殿を持たないミツパあるいはベテルの無秩序な状態を意味します。申命記学派は、ユダの地の<外に>いながら、ヤハウェ礼拝を実現するために「主のみ名を置くための」中央聖所を求めているのです。しかもここで申命記史家が言う「神殿」とは、「天も、天の天もあなた(神)をお納めすることができず、わたし(ソロモン)が建てたこの神殿などなおふさわしくない」(列王記上8章27節)と言われている「神殿」なのです。
 このような「神殿」に、申命記史家的な神殿観を見ることができます。ここでは、神の臨在はもはや地上の神殿によらないのです。だからここでは、地上の神殿が、天の聖なる神殿に対応して「世俗化」していると言えます。捕囚期の民の間では、もはやヤハウェ礼拝の「地理的な場所」における一致は存在しませんでした。このために、離散した民の間にもなお存在することができる神殿、すなわち「中央聖所」の必要性が生じたのです。第二区分の編集者は、この要請に応えようとしているのです〔レーマー前掲書61〜63頁〕。
(3)第三区分(13〜18節)は申命記12章全体で最も古い層に属しています(ヨシヤ王の時代に属する)。ここでは、「すべての場所」に対して「ヤハウェが選ぶ一つの部族の場所」が対立します。だから、ヤハウェが、それぞれの時代に応じて、異なる場所に住まい(=神殿)を置いた時代と対立することになります。第三区分で言う「ヤハウェの場所」とはエルサレムのことであり、「一つの部族」とはユダ部族のことです。申命記史家のこの思想は詩編78篇にも明示されていて、この詩編には「主はヨセフの民を拒み、エフライム族を選ばず(北王国のこと)、ユダ族(南王国)とその愛するシオンの山(エルサレム)を選んだ」(詩編78篇67〜68節)とあります。このように、エルサレムが他のすべての諸聖所を排除して唯一の「場所」になります。これが申命記史家的史観であり、これによって、北王国イスラエルはその正統性を失い、エルサレムのみが中央聖所となります。
 北王国の正統性を否定した後で、申命記学派は、今度は出エジプト記20章22〜26節の「契約の書」"the Covenant Code" にも言及します。ここには「わたしの名の唱えられるすべての場所(複数)において、わたしはあなたに望む」(同20章24節)とあります。従来この部分は古くからの礼拝規定であって、申命記学派は、これを是正しようと意図していると見なされてきました。しかし、この「契約の書」の部分は、申命記史家的な聖所の中央化に対抗するために、エルサレムから離れた周辺地域の人たちから出ていると見ることも可能です。だから、この「契約の書」は、申命記の第三区分と同時期か、あるいはそれより後の時期に属するのかもしれません。
 このように見ると、「契約の書」は、バビロニアの支配下に置かれていたミツパやベテルなどの諸聖所をも容認することを求めていると見るか、あるいは、ユダとエルサレムから遠く離れている離散のイスラエルの民の間にもヤハウェの臨在を認めようとする知識人たちの意向を反映しているのかもしれません。
 だからと言って、「契約の書」全体がヨシヤ王時代と同時期かそれ以後だと言うのではありません。ほんらいの「契約の書」は出エジプト記21章1節に始まるもので、出エジプト記20章22〜26節は、後の付加だと考えられます。申命記12〜26章は、全体が申命記の最初の版に属していて、この部分は、聖所中央化を実現し、そうすることで、それまでの「契約の書」に取って代わろうと意図するものです。
 申命記学派は、このようにして、都市化と現代化を意図しており、7世紀のヨシヤ王の時代にユダ王国が置かれていた状況の変化に対応するために、政治的、経済的な中央集権化を目指すものです。申命記12章13〜18節は、このような社会的歴史的な文脈において見るべきです。ここで語られているのは、宗教=政治的権力の中央集権化です。エルサレム神殿への聖所中央化は、ヤハウェの名によって国家的な統一と団結を図ろうとする政策です。
 申命記4〜6章は、申命記の最初の原本であり、これに同12章13〜18節が続いていたと考えられます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は<ただひとつの>主である。あなたは<すべての>心と<すべての>魂と<すべての>力で、あなたの神を愛しなさい」(申命記6章4節)。これに続けて「あなたは、自分の好む<あらゆる/すべての>場所で焼き尽くす献げ物を献げないように注意しなさい。主があなたの<ひとつの>部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物を下げなさい」(12章13節)と結ぶと、「すべて」と「ひとつ」が強調される点で一致します。
 この第三区分では、献げ物についての実際的な規定だけが記されていて、中央聖所に関することがほとんどでてきません。これは、地方の諸聖所が閉鎖されたために、これに伴って、エルサレム以外の地で献げ物をするために新たな規定の必要が生じたからでしょう。ここでは、祭司がいない状態での動物の屠り方が語られていますが、これもエルサレム以外の地域での祭司層の弱体化をねらったからだと思われます。ただし、血を食べることへの禁止は破棄されていません。また、地方への賦役や10分の1税が軽減されることでもありません。
(4)第四区分(20〜28節)でも、民が肉を食するために、諸地方において動物を献げることへの規定が続いています。ただしこれは、従来考えられてきたように、ヨシヤ王の時代に急速にその領土が拡大したために生じた処置だとは言えません。ヨシヤ王の領土の拡張は、従来考えられてきたよりもはるかに狭く、かつての北王国イスラエルの南部にあたるベニヤミン族の地域に限られていたからです。列王記下23章15〜20節には、ヨシヤ王の広範囲な領土拡大と改革が記されていますが、この記述には申命記12章20節の用語が全くでてきません。12章20節に「領土を広げる時」とある「領土」(ゲェブール)とは、「境界/限界/地境(ちざかい)」のことであって、申命記が約束の土地を意味する「土地/領土」(アダマー/エレツ)のことではありません。
 だから、第四区分で述べられているのは、捕囚期以後の離散したイスラエルの民(バビロンやエジプトに住む)の状況にあてはまるものです。第四区分はペルシア時代に属していて、申命記的な律法と、レビ記17章の「神聖法集」とを調和させようとするものです。
 第三区分(13〜18節)と第四区分(20〜28節)では、エルサレム神殿の存在が前提になっていますが、第三区分ではソロモン王による第一神殿が前提されており、第四区分では第二神殿です。ところが第二区分はそうではありません。ここでは新たな歴史的状況への対応が迫られているのです〔レーマー前掲書60〜61頁〕。
 以上を年代順にまとめると、申命記12章の第三区分が620年頃のヨシヤ王の時代の編集→第二区分が捕囚期の時代の編集→第一・第五と第四区分がペルシア時代の編集になります〔レーマー前掲書64頁〕。
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