21章 ペルシア帝国と帰還の民
■帰還と神殿再建
「受難の僕」伝承に入る前に、イスラエルの民のバビロンでの捕囚から、ペルシア帝国の滅亡までの歴史を概観しておくことにします(年代は特に断わりがない限り紀元前です)。
イスラエルの民が捕囚になっていた新バビロニア帝国の時代、オリエントの地域は、まず中央に新バビロニア帝国がありました。新バビロニア帝国は、ティグリス川とユーフラテス川の流域全体に及び、東は現在のペルシア湾の北端から西は地中海まで、北は現在のシリアとトルコの境界から南はアラビア半島の北辺に及んでいました。これは現在のイラクとシリアとヨルダンとレバノンとイスラエルの全域にほぼ相当します。首都はバビロンです。
新バビロニア帝国の西方にはリディア王国があり(現在のトルコの西部)、その首都はサルディス(現在のイズミールの東方にあるサリフリ)でした。また、パレスチナの南にはシナイ半島を含むエジプト第26王朝がありました。エジプトはナイル川流域にあり、ほぼ現在のエジプトにあたります。首都はサイス(現在のカイロ)です〔A Historical Atlas of the Jewish People. 29〕〔日本聖書協会『バイブルアトラス』21頁〕。
新バビロニア帝国の東にはエクバタナ(現在のテヘラン)を首都とするメディア王国があり、メディア王国の南、ティグリス川とユーフラテス川の河口付近には、スサを首都とするエラム王国があり、さらにエラム王国の東、現在のペルシア湾の北側にパサルガデを首都にペルシア王国がありました。ペルシアは、現在のペルシア湾の北一帯にあたります。
イラン系のペルシア人は、アジアから直接侵入したのか、あるいはコーカサス山脈(現在の黒海とカスピ海の間)から南下したと思われます。ほんらいはスサを首都にするエラム王国の支配下にありましたから、ペルシアの制度にはエラム王国の影響が残っています。スサは現在のイラン南部にあるアフワーズの近くです。ペルシアは、7世紀から560年の頃まではメディア王国の属州でした。ペルシア帝国となってからの主な都市は、エクバタナ(夏の王宮の所在地)、バビロン(冬の王宮の所在地)、スサ(行政府所在地)などがありましたが、そのほか最初期にはパサルガデがあり、後にペルセポリス(現在のイラン南部のシーラーズ近く)が首都として建設されました。
ペルシアの国名は、ギリシア語では「ペルシス」で、ラテン語では「ペルシア」"Persia"です。なお現在のイランにも「ペルシア」という名称を用いることができますが(1959年に制定)、「古代ペルシア帝国」とは、主としてアケメネス朝ペルシア(525〜330年)か、あるいはササン朝ペルシア(紀元後3世紀初頭から7世紀半ばまで)を指します。ここで扱うのは、前者のアケメネス朝ペルシアです。
〔552〜530年〕キュロス2世とペルシア帝国の成立。ペルシアの王キュロス2世(在位559/8〜530/29年)は、ペルシアの貴族カンビュセス1世とメディア王国の王アステュアゲスの娘マンダネとの間に生まれました。彼はペルシアの王位についてから(559年)、メディアの将軍ハルパゴスと手を結んで、メディアの首都エクバタナを攻略してメディア王国を征服しました(552年)。彼は、それ以前の王「キュロス」と区別して、キュロス2世と呼ばれています。
キュロス2世は、さらに西方へ向かい、リディア王クロイソスを破ってリディア王国を征服します(546年)。さらに、今度は南下して新バビロニア帝国の首都バビロンを攻略し(539年)、エジプトを除くオリエント全体を統一して古代ペルシア帝国を建て、帝国の初代国王になり、「シャーハーン・シャー」(諸王たちの王)として「皇帝」になりました。これがアケメネス朝ペルシアです(552〜330年)。キュロス2世は、中央アジアの遊牧民マッサゲタイ人との闘いで戦死したと伝えられています(530年)。
ペルシア帝国の東はインダス川の西岸に近く、現在のアフガニスタンからイランとイラクとアルメニアとトルコとシリアとヨルダンとイスラエルにいたる広大な地域にまたがっています。彼はペルシア帝国の首都をスサの東方のパサルガデに建設しました(現在のイラン南部のシーラーズの近くにパサルガデとペルセポリスの遺跡があります)。なお5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスは、諸国をめぐって『歴史』を著わし、特にギリシアとペルシアとの間のペルシア戦争について詳しく記述しています。
キュロス2世は、征服した諸国の慣習や宗教に寛大だったので、後代のペルシア人から「理想の帝王」として崇められました。王は勅令を出して、バビロン在住のユダヤ人に故国の地エルサレムへ帰還する許可を与えました(歴代誌下36章23節/エズラ記1章2〜4節/ギリシア語エズラ記2章1〜14節参照)。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(11巻1章1節)によれば、すでに捕囚以前に、預言者エレミヤによって捕囚の期間は70年だと預言されていましたから(エレミヤ書25章11〜12節/ダニエル書9章2節/ゼカリヤ書1章12節参照)、キュロスはこのイザヤ書の預言を読んでこれに驚嘆し、ぜひ自分の力でその預言を成就したいという思いにかられたとあります。聖書とヨセフスが伝えるこの伝承から、聖書では、彼のことを「油注がれた者」(メシア/救世主)と呼んでいます(イザヤ書45章1節)。このようにキュロス2世はヤハウェを敬ったとありますが、彼は、ユダヤの地がエジプト征服の際の要地であることを考慮したと思われます。
ここでペルシアの歴代の王とユダヤの民の帰還について述べることになりますが、民の帰還の記事は、主としてエズラ記とネヘミヤ記とギリシア語エズラ記(新共同訳続編)の3文書にでています。しかし、これらの文書の王名と帰還の出来事とが、実際の歴史的な年代順と一致しません。この点は、すでに初期ユダヤ教時代でも知られていたようで、1世紀の歴史家ヨセフスは、聖書の記述を実際の年代に即して整理しなおして記述しています。彼の記述は聖書に基づいたものですから、現在の歴史家たちの見解とは異なる点があります。しかし、わたしたちは、1世紀のユダヤの伝承を求めているのですから、以下では、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻1〜6章の記述に即して王名と年代を述べることにします。おそらく紀元1世紀のユダヤでは、ヨセフスが伝えるような「帰還伝承」が受け継がれていたと考えていいでしょう。したがって、以下で語るヨセフスの記事と聖書の引用箇所の王名とは必ずしも一致しません。なお、エズラ記とネヘミヤ記と『ユダヤ古代誌』の3文書と実際の年代順の問題は、後の項目で扱います。
〔539/8年〕キュロスの勅令と帰還開始。ヨセフスは、帰還についての記事の多くをエズラ記とギリシア語エズラ記から得ていますが、これによると、ユダ族とベニヤミン族の指導者たち、レビ人や祭司たちは、キュロス王の帰還許可の勅令を受けて、エルサレムへ向けて出発しました。ただし、バビロニアに財産を残したままで立ち去ることができなかった者たちは、引き続きバビロン周辺に留まりました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻3節〕。民は貧しく、このために土地の収穫が少なく苦しむ者が多くいました。だから、帰還した者は比較的貧しい階層の人たちで、帰還は数度にわたっています。ルートは二つあり、バビロンから大きく北を迂回してパレスチナにいたる道と(かつてアブラハムがたどった道に近い)、それよりもはるか南をバビロンから直接西へ向かう道です〔A Historical Atlas of the Jewish People.29.〕。
キュロス王は、これに伴って、エルサレム周辺やシリアの総督たちに書簡を送って、ユダヤ人の神殿建設を援助するように通達したので(エズラ記1章2〜4節)、王の友人たちは金銀や多数の家畜や馬を供給して、ユダヤ人を助けました。さらに王は、かつてネブカドネツァルがエルサレム神殿から奪った聖具類を財務官ミトレダトに命じてエルサレムへ運ばせ、これらの聖具類をユダヤの指導者サナバサル(シェシュバツァル)に渡して、神殿が完成するまでこれらを保管し、完成してから祭司と民の指導者たちに渡すように命じました(ギリシア語エズラ記2章1〜14節/エズラ記1章6〜11節参照)。なお、シェシュバツァル(エズラ記1章8節)は、歴代誌上3章18節のシェンアツァルと同一人物です。
ヨセフスはこれに続いて、キュロス王がシリアの総督宛に送った書簡の内容を記していますが(エズラ記6章3〜5節/ギリシア語エズラ記6章23〜25節参照)、ヨセフスの言う書簡の内容には、その上に聖書のダレイオス王による命令までがここに含まれています(エズラ記6章6〜12節/ギリシア語エズラ記6章27〜33節)。ヨセフスによれば、この際にユダヤへ帰還した民の数は、総数42462人とありますが、これはギリシア語エズラ記5章7〜42節のリストに基づくものでしょう(同41節参照)。ただし、ギリシア語エズラ記の記述は、ヘブライ語からギリシア語への転記による数字の誤りなどがあり、必ずしも正確でありません。
ユダの民が実際に帰還したのは、キュロス王による帰還の勅令が出た後の537年だという説もあります〔『旧約新約聖書大事典』189頁〕。実際は、それよりさらに後で、ダレイオス王1世の治世の522年だとも考えられます〔Anchor(3)770-71.〕。大祭司ヨシュアは(ハガイ書1章1節)、ゼルバベルと共に帰還し、帰還と同時に主の祭壇に犠牲を献げて(エズラ記3章2〜3節)、ゼルバベルと共にエルサレム神殿の再興に務めました(同4章3節)。ゼルバベルが来るべきメシアの表象となった背景には、この大祭司イエシュアの存在があります(ゼカリヤ書3章8節)。
〔530/29?〜522年〕カンビュセス2世の治世と工事の妨害。
キュロス2世の息子がカンビュセス2世です。彼は、王に即位する以前から、マルドゥク神への宗教的な儀式に関わっていたようです。父はおそらく最後の遠征となるのを予想して、その前に息子に王位を譲って出かけたのでしょう。王位継承の年が遠征での父の死の年(530年)になっています。彼は王位に就いたものの、その治世は長く続かなかったようです。カンビュセス2世は、自分の弟バルディヤを密かに暗殺したために王位継承で問題が生じ、このため7人の貴族たちによって倒されたと伝えられています〔ピエール・ブリアン『ペルシア帝国』小川英雄監修/柴田都志子訳、創元社(1996年)18〜19頁〕。
カンビュセス2世はエジプトを征服しました。しかし彼は、エジプトの神殿とその神々を認めましたので、彼はエジプトの「ファラオ」として崇められたようです。これはちょうどキュロスがバビロンを征服した際に、バビロニアの人たちが彼を「バビロン化」して崇めたのと同様の政策です。ペルシア帝国の版図は、事実上、キュロス2世とカンビュセス2世の時代に定まったと言えます。同時に、帝国の属州に対する宗教的な政策も以後受け継がれることになります〔Anchor(5)238〕。
聖書にはカンビュセス2世の名前がでて来ませんが、ヨセフスによれば、この王の時代に、シリア、フェニキア、アンモン、モアブ、サマリアなど、ユダヤ周辺の諸民族が、行政官レフムと書記官シムシャイを通じて王に書簡を送り、かつてバビロンに連行された反抗的な民が、「我々の土地に侵入してきて、邪悪な町の建設に取り組んでいる」と訴えました。「生来の悪徳漢であった」カンビュセスは、先祖の記録を調べてユダヤの歴代の王たちが強力で暴力的であったことを認めて、行政官と書記官を通じてエルサレムの城壁と神殿の工事の中止を命令しました。その結果、工事はダレイオス王の治世まで延期されることになったとあります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻2章〕。
この出来事はエズラ記4章6〜24節/ギリシア語エズラ記2章15〜25節にでていますが、聖書では、この出来事が「アルタクセルクセス王」の時代のことになっています。アルタクセルクセス1世(在位465〜424/3年)は、城壁と神殿の工事が再開されたダレイオス1世(在位522〜486年)よりも後の王ですから、年代的に合いません。このためにヨセフスは、この出来事をダレイオス1世の前の王であるカンビュセス2世の時代のことにしたのでしょう。
〔521/2〜486年〕ダレイオス1世の治世と神殿工事の再開。
カンビュセス2世の亡き後、彼の嫡子だと名乗るマゴス祭司(ヘロドトスによれば「スメルディス」/ヨセフスによれば「マギ」)が、ペルシアの政権を乗っ取ろうとしたようです。ヨセフスが伝える伝承によれば、ペルシア人の「七つの家」から出た貴族の若者たち七人が、この簒奪者を倒して、七人の一人であるヒュスタスペスの子ダレイオス(ギリシア名。ラテン語では「ダリウス」"Darius")を王に任命しました。したがって、キュロスの王朝は、ここで絶たれることになります。ただし、マゴス祭司はカンビュセス2世の弟だったと見る説があります。だとすれば、ダレイオス1世のほうが簒奪者になります〔Anchor(5)238〕。
ヨセフスによればこのダレイオスは、まだ私人であった頃に、もしも自分が将来ペルシアの王になれたら、バビロンに残されているエルサレム神殿の聖具をすべてエルサレム神殿のために送り返すという誓約を立てていたそうです。その頃、ユダヤへ帰還した捕囚の民の指導者ゼルバベルが、エルサレムからダレイオス王のもとへやってきました(ゼルバベルは次の章で扱います)。二人は以前から友人であったことから、ダレイオス王は、彼を王の護衛として加えました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻3章1節〕。
ダレイオス王の第1年に、王は、大臣、王族、知事たち、ペルシアの総督たち、国々の太守たちなどを招いて、盛大な宴会を催しました。その後で王は寝室で夢を見たので、親しい三人の護衛を呼んで、これから自分が出す問題に最も賢明な答えを出した者には、紫の衣と金の盃と黄金の寝台などを与え、その知恵によって王に次ぐ地位を授けようと言います。そして王は、酒と王と女と真理と、これらのうちで最も強いものは何か? という課題を3人に与えました。翌日並み居る人々の中で王が課題を若者たちに出すと、一人は酒について、もう一人は王について弁じますが、最後にゼルバベルが、女について弁じた後で、真理こそは神の前に正義と不義とを見分ける最も偉大な力であると論じます。王はゼルバベルの答えを聞いて感銘を受け、彼の求めるものは何でもかなえようと約束します。ゼルバベルは、エルサレム神殿工事の再開とバビロンに残る神殿の聖具の返還を願い求めました。王はこれを約束し、シリアやフェニキアの役人たちに書簡を送り、エルサレムの建設に必要な援助を供給するように命じ、またトパルコスと総督たちに命じて、ゼルバベルの一行が神殿再建のためにエルサレム上る護衛を命じました。こうしてダレイオスは、先にキュロス王がユダヤの神殿のために企画したことをすべて実行したのです〔ヨセフス前掲書同8節〕。この物語はギリシア語エズラ記3章〜4章に記されていますが、ヨセフスはこれに基づいて、物語の始めの王の夢や弁論の内容の部分などに自分なりの脚色を加えています。
以上はダレイオス1世がエルサレム神殿の再建を命じた話ですが、ヨセフスはこれに続いて、ゼルバベルが王の喜ばしい命令をバビロン在住のユダヤ人たちに伝えると、大勢の者たちが喜び、エルサレムへ帰還する巡礼の指導者たちを選び、王による護衛と共に、喜びの歌と楽器を伴いながら、エルサレムへ向かったとあります。これがキュロスの治世の帰還に継ぐ、第2回目の大きなエルサレムへの帰還になります。
ヨセフスは続いて、帰還したユダヤ人の数をあげています。それによるとユダ部族とベニヤミン部族の12歳以上の(男)を併せて48462名です。また、このほかにレビ人と女子供を併せて40742名があげられています。その他、「イスラエル人」かどうかが確かでない者たちがおり、祭司たちの中には、その家系が確かでない者たちや、「素性の知れない」女と結婚した祭司たちがいたとありますから、ざっと9万人以上の人たちが、この時に帰国したことになります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻3章10節〕。
ヨセフスがここであげている記事について言えば、ダレイオス王の護衛や、笛や太鼓を伴ったことなどは、ギリシア語エズラ記5章1〜3節にでています。しかも同章41節には「12歳以上のイスラエル人」とありますが、このような制限は、並行するエズラ記2章1節以下のリストにはありません。しかも、ギリシア語エズラ記には、帰還の民の総数が42360人だとあり(同5章41節)、この数は、ヨセフスが先にキュロス王の治世に帰還した時にあげているエズラ記2章64節の数と同じです。なお、ギリシア語エズラ記の5章41節の42360人は、それまでのリストの単純な合計とは一致しません。おそらく同36〜40節の内訳がはっきりしないからでしょう。したがって、先にあげたヨセフスの12歳以上の男の総数48462名も、女子供の合計40742名も、どのような算定に基づくのかよく分かりません。
〔520〜516/5年〕第2回目の帰還と神殿の再建。
ダレイオス1世の命を受けて、ゼルバベルと大祭司ヨシュア/イエシュアの指導の下にイスラエルの民はエルサレムへ帰還しました(「大祭司ヨシュア」は次の章で扱います)。その時から神殿とその回廊の完成までの経過をヨセフスの記述に従って叙述すると以下のようになります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章1〜7節〕。
(1)民はエルサレムの元の場所に祭壇を築き、モーセ律法に従って犠牲を献げました(エズラ記3章1〜5節/ギリシア語エズラ記5章46〜52節)。
(2)神殿再建を始めるにあたり、先ず神殿の基礎を作る仕事を開始しました(エズラ記3章6〜7節/ギリシア語エズラ記5章53〜55節)。これは516年のことです〔A Historical Atlas of the Jewish People. 29〕。神殿の基礎が終わると、祭司とレビ人たちは大声で賛美しました。「昔の神殿を見たことがある年取った祭司、レビ人、家長たちは声を上げて泣いた」とあります(エズラ記3章10〜13節)。
なお、ギリシア語エズラ記では、同じ土地に住んでいた他の民族は、イスラエルの民に敵意を抱いて、同じ場所に別の祭壇を築いたとあります(同5章49節)。また、エズラ記では、この出来事がキュロス王の時のことになっていますが(同3章7節)、ヨセフスはこの矛盾を解決するために「最初にキュロスが命じたことがダレイオス王の命令で実行された」としています(ヨセフス前掲書4章1節)。基礎が据えられたのはダレイオス王の第2年目の第2の月(ギリシア語エズラ記5章55節)だとありますから、521年の4〜5月になります。ただしこの時期は、キュロス王の時よりも40年近くも後のことになりますから、捕囚期以前のソロモンの神殿を実際に見た人たち(同章60節)はもはやいなかったと思われます。たぶんソロモンの神殿が伝承として語り伝えられていたのでしょう。ヨセフスが「かつての神殿を<想起して>」人々が嘆いたと言い換えているのもこのためです。
(3)ところが、サマリア人たちが、神殿工事を共にしようと申し入れてきました。「サマリア人」というのは、かつてアッシリアの王シャルマナサルによってクタとメディアから移住させられた人たちのことです。彼らは、自分たちの祭壇と礼拝がユダヤの民の祭壇と同じだと見なしていたのでしょうが、ゼルバベルとヨシュアは、「あなたがたがエルサレムで礼拝することは認めるが、それ以上のことはできない」として、その申し出を断わったのです(ギリシア語エズラ記5章63〜68節/エズラ記4章1〜5節参照)。エズラ記によれば、サマリア人はアッシリア王エサル・ハドン(在位681〜669年)によって移住させられたとありますが、ヨセフスはこれをシャルマナサル5世(722年彼によるサマリアの滅亡)のことにしています(列王記下18章9節)。ヨセフスによれば、断わられたサマリア人たちは、かつてのカンビュセス2世の頃と同じように、神殿工事を妨害しようとしたとあります(ギリシア語エズラ記5章69〜70節参照)。
なお、ギリシア語エズラ記5章70節には「その結果、工事は<2年間>、ダレイオス王の治世まで中断された」となっていますが、これはおそらく、エズラ記4章1〜5節に「ユダとベニヤミンの敵は、ペルシアの王キュロスの存命中からダレイオスの治世まで建築計画を挫折させようとした」とあり、さらに「(工事の中断は)ダレイオスの治世の第2年にまで及んだ」(同4章24節)とあるのを誤って理解したと考えられます〔新共同訳『旧約聖書注解』V440頁〕。「アルタクセルクセス2世」と言い、工事の中断の記事と言い、エズラ記とこれを基にしたギリシア語エズラ記には、年代や王名に矛盾があります。これらは誤読による場合もありますが、異なった資料を並列して用いているために混乱が生じたことも矛盾の原因だと考えられます。先にでてきたように、ヨセフスは、この矛盾を正して、工事の中断をカンビュセス2世の時代のことにしています。
(4)シリアとフェニキアの知事たちは、ペルシアの中央政府にエルサレムの状勢に警戒するよう書簡を送りました。そこで、ユーフラテス西方のサトラプ(長官/総督/知事)であるタテナイが、シェダル・ボゼナイや仲間の監察官たちとエルサレムのユダヤ人の工事を視察に訪れました(519〜518年)。二人はエルサレムへ来て神殿建設についてゼルバベルとヨシュアに問いただし、その上でタテナイとボズナイは、ダレイオス王に書簡を送って、王からの許可の真偽を確かめることにしました(ギリシア語エズラ記5章69〜70節/同6章1〜21節参照/エズラ記5章6〜17節)。この事件は、後述するように、ペルシア帝国内で一連の反乱が生じていた頃のことですから、ユダヤの中にも、あるいはこの機に乗じて独立しようとする動きがあったのかもしれません。後述するように、ゼルバベルと大祭司ヨシュアとの間には、この独立問題で意見の違いがあったことも考えられます。
(5)預言者ハガイとゼカリヤは、ペルシア王からの返答の結果を恐れる民を励まして、神は必ずこの工事を完成させてくださるという預言を通して、王の返事を待つ間も神殿建設を中断しないように励ましました(ギリシア語エズラ記6章1〜6節/エズラ記5章1〜3節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章4節95〜96〕。
シリアとフェニキアの総督名が、ギリシア語エズラ記では「シシネ」とあり、エズラ記では「タテナイ」になっています。なお、ハガイ書(1章1節/2章1節)では、ハガイの預言が「ダレイオス王の第2年6月1日」(520年8月29日)に始まったとあり、さらに同2章10節に、「同じ年の9月23日」にも預言が臨んだとあり、同2章20節には「同じ月の24日」(520年12月18日)にゼルバベルへ向けて預言が語られています。これで見るとハガイの預言活動は、わずか4ヶ月だったことになりますが、ハガイは神殿の完成を目の当たりにして老齢の身を終えたのでしょうか〔岩波訳『十二小預言書』解説377頁〕。
またゼカリヤ書(1章1節)には、ゼカリヤの預言が「ダレイオス王の第2年目の第8の月(10〜11月)」に始まったとありますから、ハガイより少し遅れて預言を開始したことになります。ゼカリヤは、ゼルバベルたちと共に帰還したイドの孫で「ベレクヤの子」(ゼカリヤ書1章1節)ですから、彼はまだ若かったと思われます〔岩波訳『十二小預言書』解説378頁〕。同7章1節には、ゼカリヤの預言が「ダレイオス王の第4年」のことだと記されていますから、神殿の完成が「ダレイオス王の第6年」であれば、ゼカリアはこれを見ることができたのでしょう。
(6)タテナイから書簡を受けとったダレイオス王は、キュロス王のかつての勅令が、メディアのエクバタナにある王室の記録に記されているのを見てこれを確認し(エズラ記6章1〜5節/ギリシア語エズラ記6章22〜25節)、西方(シリア地方)の知事タテナイに書簡を送り、万事キュロスの勅令通りに行なうよう指示しました(ギリシア語エズラ記6章26〜33節/エズラ記6章6〜12節)。
ギリシア語エズラ記には「ユダヤの長官であり主の僕であるゼルバベル」(同6章26節)とありますが、これはエズラ記の並行箇所には見られません。ギリシア語エズラ記では、このようにゼルバベルの働きが注目されています。なおギリシア語エズラ記6章23〜25節のダレイオス王の返事の部分はアラム語です。同じ主旨のキュロスの命令(同2章3〜6節)はヘブライ語ですが、前者のアラム語版のほうがほんらいのものでしょう〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)441頁〕。
(7)ダレイオス王の命を受けたタテナイたちは、命じられたとおりにユダヤ人に協力したので、ヨセフスによれば工事は、「神の命令とキュロスとダレイオスの両王の意向を受けて進められ」、7年がかりで、ダレイオス王の第6年のアダルの月の23日に、神殿が完成しました(エズラ記6章13〜15節/ギリシア語エズラ記7章1〜5節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章7節〕。なおダレイオス王の第6年のアダルの月の23日は、515年4月1日(金)にあたります〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)441頁〕。
(8)こうしてアダルの月の23日に、祭司たち、レビ人たち、全イスラエルの人たちが、神殿の奉献に集まり、多くの犠牲を献げてその完成を祝ったのです(エズラ記6章14〜18節/ギリシア語エズラ記7章6〜9節)。ただしヨセフスは、祭司やレビ人たちや長老たちは、かつてのソロモンの壮麗な神殿を思い起こして、できあがった神殿が往事のものに見劣りすること、自分たちの現在の貧しさを思って、「すっかり気落ちして、悲嘆の涙にくれた」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章2節〕と伝えています。
続いて過越祭の祝いの記事がでています(エズラ記6章16〜22節/ギリシア語エズラ記7章10〜15節)。かつてはイスラエルの王が主催していたこの行事が(歴代誌上24章以下)、今はゼルバベルと大祭司ヨシュアなど、少数の指導者たちの下で行なわれました。後にハスモン王朝(152年)が起こるまでは、ユダヤの民はこのように「少数貴族制」だったのです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章8節〕。
なお、「帰還者全員が浄めを行なったわけではない」(ギリシア語エズラ記7章11節)とありますが、民の中には、モーセ律法の規定に従えば祭儀的に「不浄」と見なされる人たちも多く混じっていたのでしょう。しかし、かつて北王国イスラエルの人たちが、南王国ユダへ逃れてきた時に行なったように(歴代誌下30章17〜19節)、今度も祭儀規定に反していても誠実な心で祭りに加わったのです。「主はアッシリア王の気持ちを改めさせて工事を援助した」(ギリシア語エズラ記7章15節/エズラ記6章22節)とあるのは、史実に反する時代錯誤の誤りだと見るべきではなく、ダレイオス王を通じて神が行なったことは、北王国イスラエルの民の中から帰還した人々にとって見れば、かつての「アッシリア王の意図したことさえも」神が変えてくださったと受けとめられたのでしょう。
(9)神殿の境内を囲む回廊を造りました。境内を囲む回廊の工事は聖書中にみあたらないようですが、ヨセフスは「神殿の周囲に列柱廊を建てた」と短く記しています〔ヨセフス前掲書11巻4章7節108〕。
以上で神殿建設の記事を終えますが、ヨセフスの実際の記述では、項目(7)の神殿の完成が、(2)に続いています。ヨセフスは、まずイスラエルの民のしたことを先に記述して、その他の民族に関わることは、その後に回すという記述の仕方をするからです(このためヨセフスの記述の順序が正しくないという批判もありますが、それは彼のやり方を知らない誤解によるものです)。
〔522〜520年〕ダレイオス王による反乱の鎮圧。ペルシア帝国の中心部を南北に走る山脈(現在のイラン西部のサグロス山脈北部)にベヒストゥンと呼ばれる険しい山があり、そこはかつてアフラ・マズダー神を祀る聖山でした。その山の香iがけ)に彫られた摩鵠閨iまがいひ)には、羽を広げた鷲の姿を象るペルシアの紋章があり、その下には、ダレイオス王が偽の祭司ガウマータを踏みつけて座り、王に逆らった9名の偽の王たちが、後ろ手に縛られて列を作って王に謁見している姿が彫られています。その浮き彫りの背景とその下に、びっしりと文字が刻まれていますが、これが有名なベヒストゥン碑文です。この碑文には、楔形(くさびがた)文字で王の業績が記されています。それは、エラム語と新バビロニア語と古代ペルシア語ですが、これらはいずれもアケメネス朝ペルシア帝国の公用語でした(帝国の言語については後述します)。この碑文はイギリスの陸軍士官ヘンリー・ローリンソンによって発見され、彼がこれの解読を最初に試みました(1835年)。この楔形文字の解読は、エジプトの象形文字解読のきっかけとなったロゼッタ・ストーンの解読に比することのできる大きな出来事でした。
この碑文には、ダレイオスが偽祭司ガウマータを倒した第1人者であると記されていますが、はたしてガウマータが実在の人物なのか疑いが持たれています。ダレイオスが自分の王位継承を正当化するために作られた架空の人物だという見方もできるからです。キュロスの家系は、ダレイオスの即位によって絶たれたとも考えられますが、彼は、キュロスの二人の娘と結婚することで、キュロスにつながる息子たちを得ることができました〔ブリアン『ペルシア帝国』18〜21頁〕。
王は帝国全体を20の州(サトラピ)に分けて、それぞれを支配する総督(サトラプ)を配置しました(この制度が始められたのは518年頃からで、後に36州になります)。総督は、その地方において王の権力を代表する存在でした。被征服民は総督の権威に服従し、総督と民との謁見は、中央での王と臣下との謁見に準じて行なわれました。しかも、監督と地方の様子を探らせるために年に一度「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を派遣しました。ちなみにユダヤを含むのは第五州で、「アバル・ナハラ」です(ペルシア名「エビル・ナーリ」で「川向こうの地」の意味。ギリシア名は「シリア」)〔Internet:The Persian Akhaimenid Empire c.500BC. Satrapies and Tributaries. Department of History :University of Michigan.〕。これはユーフラテス川の西方一帯を指す言葉でした。このような広い範囲はさらに細分されていて、その中にあるユダヤは「イェフド」(ユダ)と呼ばれていました〔新共同訳『バイブルアトラス』日本聖書協会22頁〕。その地域の主な都市は、ダマスコ、シドン、テュロス、サマリア、エルサレムですから〔The Persian Akhaimenid Empire c.500BC. University of Michigan. An electronic edition.〕、それらには総督あるいは代官が配置されていたでしょう。エルサレムは「イェフド」の首都でした〔Eli Barnavi; A Historical Atlas of the Jewish People. Schoken Books (2002) 33.〕。
エルサレム神殿が完成した522〜521年は、ダレイオスにとって多難な時期でした。身近なメディアだけでなく、西はサルディス、南はエジプト、東はインドの近くまで、幾つもの地域で反乱が生じたからです。反乱にはペルシア帝国が任命した地方総督までが含まれていました。その上、ペルシアの中心でも、ダレイオスの継承の正当性に批判を抱く者が反乱を起こしました。ユダヤでも、これら諸王侯の反乱に乗じて、ユダヤの独立を目指す動きがあったのかもしれません。ダレイオスはこれらをことごとく「偽王」として苛酷な手段で鎮圧します。ダレイオスは、これらの反乱鎮圧のために、幾つかに分けられた軍隊を同時に方々へ派遣しなければなりませんでした。彼は、ゾロアスター教の最高神にあたるアフラ・マズダー(知恵の神)を崇めましたが、これは後述するように、この神を全土に広めるためではなく、王権に逆らう反逆者たちを処罰するのがその主な目的だったようです。ダレイオス王の軍隊には、「不滅部隊」と称する特別に武装された精鋭部隊がありました。それは地元ペルシアの兵を主体とした1万人で構成され、そのきらびやかな服装で知られていました。
〔520〜515年〕スサとペルセポリスの建設。ダレイオス王は、ティグリス河の河口に近い場所で、かつてのエラム王国の首都スサの近くに同名の都を建設し、さらに、かつてのキュロス王の首都パサルガデの近くにペルセポリスを建設しました。また壮大な庭園を建設しましたが、それらは「楽園」と呼ばれました。これらの都市の建設には、帝国全域の諸州から徴用された様々な民族の戦争捕虜、小作農民/農奴、「自由な」労働者たち(技能的な職工たち?)があたりました〔Anchor(5)240〕。
帝国の王は、ペルセポリス、スサ、バビロン、エクバタナの諸都市を異動しながら宮廷を維持していました。王は、その権力を示すために、大勢の供を引き連れて、あちこちの都や地方の都市を巡回しました。彼が訪れる所では、どこでも盛大な宴会が催されました。スサやペルセポリスでは、毎日15000人もの人たちが王の宴席に連なりました。ただし、王との食事は、王の家族と王妃たちに限られました。ごく少数の者たちが、個人的に王に招かれましたが、彼らの食事の部屋からは王の姿が見えないように帳(とばり)で仕切られていました。このような大宴会は、民への王からの富の分配の働きをも兼ねていたのです。また、地方での宴会の際は、その費用はいっさいその地方が負担しなければなりませんでした。これはおそらく、その膨大な出費によって、地方の権力者たちが反乱を起こす力を削ぐためでもあったのです。エステル記の物語も、このような制度を背景にしています。
〔500年〕運河の開通。ダレイオス王の遠征はインダス川流域近くにまで及びますが、ダレイオスは、ペルシア艦隊に命じて、インドからペルシア湾と紅海との両方の湾にいたる航路を開拓させています。また、500年頃には、地中海と紅海とを結ぶ「スエズ運河」を掘削させて、これによって、エジプトのナイル川の河口から運河を通り、アラビア半島を迂回してペルシア湾に入り、スサにいたる航路が完成しました〔ブリアン『ペルシア帝国』67〜68頁〕。また陸路では、スサ、パサルガデ、ペルセポリスなどの首都群を中心に、帝国全土に交通網が張られ、とくに金の産出で知られた小アジア西端のサルディスからスサへ通じる道は「王の道」と呼ばれました。これらの道路は、軍用道路でもあったのですが、皮肉なことに、これは後にアレクサンドロス大王がペルシア帝国を攻めるためにたどった道です。また、使徒パウロが生まれたタルソス(現在の南トルコ)には、現在でもこの道の遺跡が残されています。
〔490年〕ギリシアとペルシアのマラトンの闘い。499年にエーゲ海沿岸のミレトスの王アリスタゴラスがペルシアへの反乱を決意すると、その動きはたちまち小アジアの西岸一帯にあるイオニアの諸都市に広がりました。ミレトスを中心とするこれら沿岸の諸都市はギリシア人とギリシア文化に根ざした地域だったからでしょう。緒戦(しょせん)ではギリシアが優勢でしたが、ダレイオスを始めペルシアの将軍たちの率いる軍隊が、それら諸都市を各個撃破すると神殿を焼き払い若者たちを宦官にし、娘たちを奴隷としてペルシアへ送りました。これが、以後長期にわたって続くペルシアとギリシアとの闘いの発端になります。ギリシアは海軍力ではペルシアに勝っていましたが、エフェソ近くで、ダレイオスとの闘いで敗退してから、艦隊を撤退させたために、同盟軍は陸に孤立する結果になったのです。
ギリシアの艦隊は、それ以後もエーゲ海での抵抗を止めず、ついにキプロスがこれに加わりギリシア=キプロス同盟ができると、ペルシア軍はキプロスを攻撃して、サラミスで同盟軍を破りました(497年)。ギリシア海軍はその後も海上から抵抗を続けましたが、ミレトス沖の大きな海戦で敗退すると、ミレトスを始め沿岸の諸都市は鎮圧されました(493年)。ペルシア軍とペルシア艦隊は、サルディスの壮大なアルテミス神殿を破壊してから、ギリシア東部の沿岸マラトン(アテナイの東北)に上陸しました(490年)。しかしギリシア軍はペルシア軍に反撃して、ペルシア艦隊は小アジアへ引き上げました。これは小規模な闘いでしたが、ギリシアが初めてペルシアを破ったことで、「マラトンの戦い」としてギリシアの歴史に記憶されることになります。これが「第1次ペルシア戦争」です(490年)。
しかし、ペルシアはほんらい、従属国との同盟関係による支配を目指していましたから、小アジアの諸都市はその後も長くペルシアの支配の下に留まりました。ダレイオスは、その後再び、今度は直接ギリシア本土に向けて侵攻を開始しました。しかし、ペルシア帝国の偉大な王であったダレイオスは、その後エジプト遠征中に、亡くなりました(486年)。
〔486〜465年〕クセルクセス1世の在位時代。
「クセルクセス」はギリシア名で、ラテン語と英語では「アハシュェルス」"Ahasuerus"で、ヘブライ語では「アハシュウェロース」です。この王の在位期間については、496〜475年と10年ほど早い説もあります。この食い違いはおそらく、ダレイオス王の死後、エジプトだけでなくバビロニアでも反乱の兆しが生じたために、クセルクセスの即位が手間取ったからでしょう。
この間に、ギリシアでは、アテネとスパルタが同盟を結び、テミストクレスを指導者にして、海軍力を増強することに力を注ぎました。ダレイオス王の死とペルシア軍の撤退は、それ以後のペルシア帝国の凋落の始まりであるとされていますが、この見方はギリシア側からの一方的な偏見であって、実際には、ペルシア帝国はその後も体制を固めており、クセルクセスは、父の遺志を継いで、ペルセポリスの建設をさらに進めています。ペルセポリスには壮麗な王宮が建ち並び、大王の宴会が盛大に催されました〔Anchor(5)240〕。しかし、このためか、帝国の財政が悪化する結果になりました。旧約聖書の有名なエステル記の伝承は、この王の時代のことです。
〔480〜479年〕ペルシアとギリシアの戦争。クセルクセス1世の時代の最大の出来事は、ギリシア遠征で、これが第2次ペルシア戦争です。王は、小アジアとギリシアの北に位置するトラキアの諸都市に命じて、ヘレスポントス(現在のトルコとギリシアの間のダーダネルス海峡)に船を並べてその上に板を張り、土を盛って橋を架けたのです〔ブリアン『ペルシア帝国』116〜117頁〕。その上で、諸国の兵500万(?)を率いて現在のギリシアの北部から南下したのです。ペルシア軍は、ギリシア本土の東岸の内陸に最も深く入り込んだ現在のマリアコス湾に上陸しました(現在のラミア近く)。ギリシア中部のテルモピュライは、現在では、山岳地帯を背景に温泉の湧き出る美しい場所ですが、スパルタの名将レオニダスが率いるわずか300名の勇士たちが、この地でペルシア軍を迎えて全員戦死した話は有名です。現在ここに、彼らの武勇をたたえる記念碑があります。
ペルシア軍は、テルモピュライを通過してアテナイへ攻め入り、アクロポリスの神殿を占領しました。ペルシア艦隊は、海からアテナイへいたる入り口のサラミス海峡へ迫りましたが、テミストクレスの率いるギリシア艦隊は、これを狭い湾の入り口で迎え撃って、ペルシア艦隊を打ち破りました。これが有名なサラミスの海戦です(480年9月)。ペルシア軍は撤退した後で再び南下しますが、テルモピュライの南プラタイアで敗退しました。小アジア沿岸の諸都市は、この機に乗じた反乱を起こし、ギリシア艦隊はこれを援助するために小アジアに向かい、ミレトス沖で再びペルシア艦隊を破りました(479年)。この一連の戦いで、ペルシアのギリシア遠征は失敗に終わったと言えます。クセルクセス1世は、その後側近の権力闘争に巻き込まれて暗殺されたと伝えられています(466/5年)。
〔465/4〜424/3年〕アルタクセルクセス1世の治世の時代。
「アルタクセルクセス」はギリシア語読みで、これのアラム語は「アルタハシャスター」です。彼は、父クセルクセス1世を暗殺した護衛隊長の背後に、クセルクセス1世の長男であるダレイオスがいることを知って、この兄を殺害して即位したと言われています。即位して間もなく、第12州バクトリア(現在のトクルメニスタンとウズベキスタンとの国境付近)で反乱が起こりました(465年頃)。同じ時に(465〜460年)エジプトでも反乱が起きます。これは、バクトリアの反乱を機会に、ギリシアのデロス同盟の諸都市がエジプトに働きかけた結果、起こったのかもしれません。しかし、エジプトでは、ギリシアと事情が異なりました。ギリシアはエジプトと組んでペルシアと闘いましたが、アルタクセルクセス王に率いられたペルシア軍によって打ち破られました。エジプトは、その後もペルシアの支配下に留まることになります。
〔460〜50年頃?〕帰還の民と周辺諸国との対立。エズラ記4章6〜24節には、行政官レフムと書記官シムシャイが「アルタクセルクセス王」に宛てた書簡が記されています。彼らは、エルサレムの城壁が完成すると、ユダヤ地区の民は、ペルシア王に対して必ず反乱を起こすだろうと警告したのです。これを受けたアルタクセルクセス王は、エルサレムの再建工事を中止するよう命令を出しています。
この出来事は、後代に<間違って>神殿(聖所)建築への中止だと誤解されたために、エズラ記では、神殿工事の開始と神殿工事の再開との間に挿入されたと考えられます〔ノート『イスラエル史』403頁〕。しかしこの書簡の交換は、神殿の建設とは関係がありません。だとすれば、これらの書簡は、神殿が完成した<後で>、ネヘミヤによる城壁の建設が開始される<以前の>ユダヤの状況を知る大事な手がかりになります。
この当時ユダヤ地区は、まだサマリア州の一部に「イェフド」(ユダ)として組み込まれていて、サマリア州の行政官たちに支配されていたと考えられます。ユダヤへの最初の帰還以後も、バビロンからユダヤへは、帰還する民が断続的に続いていました。その結果、聖所だけでなく、破壊された聖都エルサレムそのものを元の姿に復興しようとする機運が、帰還の民の間に生じてきたと思われます。帰還した様々なグループの中には、かつてのダビデ王朝時代を夢見て、昔の栄光を取り戻そうとする人たちもいたでしょう。これらの背後には、ダビデ王朝の復興を目指して政治的な独立を勝ち取ろうとするゼルバベルの路線と、ペルシア帝国内で祭司的な宗教的自由を確保しようとする大祭司ヨシュアの路線との対立があったのかもしれません〔Eli Barnavi, A Historical Atlas of the Jewish People. Schoken Books (2002)28.〕。ただし、彼らとても、ペルシア帝国に反逆してまで、自分たちの夢を実現しようとは考えてはいませんでした。エルサレムの城壁建設の企画は、このようにしてすでに始まっていたと思われます。
しかし、サマリア州の行政官たちは、ユダヤ地区のこの動きを見逃しませんでした。彼らの目には、ユダヤの民が、かつて新バビロニア帝国へ敵対した「反逆と悪意の都」(エズラ記4章12節)を再建しようともくろんでいると映ったのでしょう。そのことが、周辺に脅威をもたらすことを恐れたのです。だから、エズラ記4章のこの部分にでてくる「アルタクセルクセス」は「1世」のことになります。時あたかもアルタクセルクセス1世は、バクトリアとエジプトで同時に生じた反乱の鎮圧に追われていました。そうだとすれば、ここで記されている書簡交換は、伝承に従うならば「エズラの後でネヘミヤの前」〔Anchor(1)463-64〕になります。
ユダヤの民は、この事態を打開するために、バビロンにあってペルシア帝国の政府内にいる同胞たちの援助を仰ぐことにしたのでしょう。それが、王の個人的な側近であったネヘミヤに託された使命であり、ユダヤからの要請を受けて彼は王の許可を得て、エルサレムへ向かい、城壁建設の仕事に着手したのです。このためにネヘミヤが採った手段は、ユダヤ地区をサマリア州から独立した行政区とすることでした。彼は周到な計画の下にこれを実行したのです〔ノート前掲書404〜5頁〕。
〔458/7年〕エズラの到着。アルタクセルクセス1世の時代の大きな出来事は、エズラのエルサレム帰還ですが、これについては、エズラ記7〜8章/ギリシア語エズラ記8章1〜64節に記されています。ただし、この時期のエズラの到着にはいろいろ問題があります。
聖書のこの証言のほかに、エズラ伝承は、ヨセフス(37〜100年頃)の『ユダヤ古代誌』11巻5章前半〔秦剛平訳(ちくま学芸文庫)〕にまとめられています。しかし彼は、エズラの活動を<アルタクセルクセス1世>の時代ではなく、その前の<クセルクセス1世>の時代だと見ています。ヨセフスは「クセルクセスが亡くなると、アルタクセルクセスと呼ぶ<アハシェロス>の手に渡った」と言っていますが〔ヨセフス前掲書11巻6章1節〕、「アハシェロス」はクセルクセス1世の別名ですから、彼はクセルクセス1世とアルタクセルクセス1世との時代順を逆に考えているのでしょう。ただしこの誤りはユダヤのミドラシュからでていると思われます〔Anchor(1)105〕。このように、まぎらわしい王名が続くからでしょうか、エズラの時代の歴史的年代順はヘブライの伝承でも混同が生じているようです。
ところがヨセフスの見方とは逆に、エズラの出来事は、アルタクセルクセス<2世>の398年のことではないかという説が出されました(1986年)〔Anchor(1)463〕。ネヘミヤの帰還がアルタクセルクセス1世の時代になりますから、この説だと、ネヘミヤのほうがエズラよりも先に帰還したことになります〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)の年表613頁〕〔和田幹男『聖書年表・聖書地図』女子パウロ会(2004年)24〜25頁〕〔教文館『キリスト教大事典』年表5〜6頁〕。聖書には「アルタクセルクセス」とだけ記されていますから、これが1世(別名ロンギマヌス)、2世(同ムネーモン)、3世(同オクス)のどれかが判別し難いからでしょう。
マルティン・ノートは、エズラとネヘミヤについて年代を明確に整理することが難しいとした上で、この点では、エズラよりもむしろネヘミヤのほうに、年代確定の手がかりを見出すことができると見ています〔ノート『イスラエル史』399頁〕。ネヘミヤ記には、エルサレムの城壁建設を妨害しようとしたサンバラトのことがでてきますが(ネヘミヤ記3章33節)、この人物は、パピルスの文書断片(408年)にも「サマリアの総督サンバラト」としてでています。だとすれば、ネヘミヤのエルサレム派遣の際の「アルタクセルクセス」は1世以外にはありえません。だから、ネヘミヤの帰還は444/5年です。
したがって、ネヘミヤよりも<早い>とするエズラの帰還は、エズラ記7章7節「アルタクセルクセスの第7年」をアルタクセルクセス<1世>の時代だと判断することによります。しかしネヘミヤによる城壁の完成が終わらないうちに、エズラによる律法朗読のための会衆が開かれたとは考えにくいところがあります。したがってノートは、エズラの帰還をネヘミヤの<後の>こととして、これをアルタクセルクセス<1世>の末期のことだと想定しています〔ノート『イスラエル史』400頁〕。ノートがエズラのエルサレム到着をアルタクセルクセス1世の末期と見るのは、ネヘミヤとエズラとの到着の時期がヘブライの伝承では、ほぼ同時代だと見なされているからです。
ノートの見方にはそれなりの歴史的根拠があります。それは、ユダヤの民が、エルサレム帰還後には、きわめて厳しい状況に置かれていたと見ることができるからです。帰還の民は、バビロンに居残った裕福な民とは異なり、比較的貧しい人たちでした。その上に荒廃した土地、これに伴う飢饉、周囲の諸民族からの敵対行為などが伴って、神殿の建設もなかなかはかどらなかったようです。ネヘミヤがペルシア政府によってエルサレムへ派遣されて城壁の再建にあたったのは、こういう状況を改善するためでした。ユダヤ地区は、ペルシアのスサからエジプトへいたるルートにとってきわめて重要な位置を占めていました。それだけにペルシア側も、ユダヤ地区の安定に配慮する必要があったと思われます。ネヘミヤに続いてエズラが派遣されたのも、城壁の完成と共に「神の律法の学者であるエズラ」によって、民心の安定を図る意図がペルシア側にあったと考えられます。ただし、エズラの到着(398年)が、ネヘミヤのそれ(445年)よりも47年も後のことだとは考え難いことになりましょう。
現在でもユダヤ教では、エズラの帰還は、従来の伝承通りアルタクセルクセス1世の458/7年であり(エズラ記7章7〜8節)、ネヘミヤの帰還はこれより遅れて444年だと考えられているようです(ネヘミヤ記2章1節)〔Barnavi, A Historical Atlas of the Jewish People. 33.〕〔Dan Bahat, The Illustrated Atlas of Jerusalem.Jerusalem Carta (1989)34.〕。このように、エズラをネヘミヤよりも先に置く見方もあります〔教文館『旧約新約聖書大事典』年表1356頁。ただしネヘミヤを先に置く異説も併記〕。聖書のエズラ記とギリシア語エズラ記の「アルタクセルクセス」のほうがヨセフスの「クセルクセス」よりも正しいのですが、以上見た通り、ヘブライの伝承と現代の歴史的な年代とでは、二人の帰還時期が逆になっているのが分かります。わたしたちの目的は、ヘブライの伝承そのものをたどることですから、ひとまず、エズラの到着をこの時期(458/7年)に置くことにします。
〔445年〕ネヘミヤの到着。ネヘミヤのことはヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻5章6〜8節にでています。ただし先に述べた理由で、ヨセフスの「クセルクセス」を「アルタクセルクセス1世」に読み替えて紹介します。ネヘミヤは王の側近で盃にぶどう酒を注ぐ酌人でした。ある日帰還した民からエルサレムの城壁が崩れて、荒れ果てた状態にあることを聞いて心を痛めます(ネヘミヤ記1章)。彼は機会を捉えて王に願い出て、エルサレムへ帰還して「城壁を再建し神殿の未完成の部分を仕上げることを願い出て許しが与えられ、王は総督たちへの書簡をネヘミヤに与えて励まします(同2章1〜8節)。彼は「進んで自分に従う大勢の同胞を連れて」エルサレムへ帰り、密かに城壁の状態を調べて、城壁の再建を始めようとします(同9〜18節)。しかしサマリアを始め周辺の諸民族の妨害に遭い、ネヘミヤ自身の命さえねらわれます(ネヘミヤ記2章19〜20節/同3章33〜4章8節)。このためにユダヤ人は「建設を放棄する寸前まで」いきます。
しかしネヘミヤはこれに屈することなく、働く者たちは剣と槍と弓を持ち、短剣を携帯し、楯をそばに置いて敵の攻撃に備えながら仕事を続けます(同4章7〜17節)。しかし、この間も民の窮乏が激しくなり、ネヘミヤ自身の生活も苦しかったようです(同5章)。ただし、この間にネヘミヤは、サマリア州からのユダヤの独立を勝ち取ったようで、ペルシア政府からユダヤ州の総督に任ぜられています(同5章14節)〔ノート前掲書402頁〕。周辺の諸族からの妨害はなおも執拗に続きますが(同6章1〜9節)、52日間という驚くべき早さで(同6章15節)城壁を完成します。完成は「2年4か月の間堪え忍んだ」結果のことだとあります(442年頃)〔ヨセフス前掲書11巻5章8節〕。こうしてネヘミヤは「エルサレムの城壁を自分の永遠の記念として残した」とヨセフスは伝えています。
ネヘミヤの時代の城壁は、現在のエルサレムの旧市街を囲む城壁よりもはるかに狭く、東は神殿の丘に沿うキドロンの谷に沿っており、南は昔のダビデの町を囲むように細長く伸びてシロアムの池を囲い、西は、神殿の丘に沿うように南のダビデの町の丘へと続き、北は神殿の丘の北側にあるベテスダの貯水池くらいまででした〔Bahat, The Illustrated Atlas of Jerusalem.Jerusalem. 36.〕〔Barnavi, A Historical Atlas of the Jewish People. 32.〕。ネヘミヤは、ユダヤをサマリアから切り離して州に格上げすることに成功して、ユダヤ州の総督に任じられました。彼の時代の「ユダヤ州」とは、東はヨルダン川から西で、南はエルサレムの南にあるヘブロンまでは届かず、そのすぐ北のベト・ツルくらいまでです。北はベテルの北側くらいまでで、西はエマオからベト・シェメシュにいたるまでの丘陵地帯でした〔A Historical Atlas of the Jewish People. 36〕。ユダヤ州は、ネヘミヤが来るまでにすでに幾つかの地区に分けられていました(新バビロニア帝国時代からか?)。ネヘミヤが城壁の建設に際して、それぞれの地区に細かく分けて担当する部分を決め、こうすることで城壁全体を一挙に仕上げることができたのはこのためです(ネヘミヤ記3章1〜32節参照)。
城壁建設の次に彼がしたことは、エルサレムへ人々を移住させることでした。このこととも関連しますが、当時のユダヤでは、長い捕囚期の間に、現地の人たちの間にも貧富の差が広がっていました。また、帰還の民も比較的貧しい人たちが多かったようです。このような「経済格差」を解消するために、彼はそれまでの債務をいっさい免除するという思い切った措置をとらなければなりませんでした(ネヘミヤ記5章1〜13節)。彼自身もわずかな給料に甘んじたのは先に指摘しました。
ネヘミヤは城壁の建設を終えてから12年ほどして(ネヘミヤ記5章14節)、バビロンへ戻っています(433年)。その後何年かして再びエルサレムへ帰ります。帰還の理由は記されていませんが、ユダヤ州と周辺諸族との関係において、ユダヤの分離独立の路線を推進するのか、それとも近隣諸部族とできるだけ融和を図ろうとするのか、この二つの違いにあったようです〔ノート『イスラエル史』409〜10頁〕。先のゼルバベルもそうでしたが、ネヘミヤもまた、ユダヤが近隣諸部族から分離する方向を目指していました。これに対して大祭司エリヤシブ(ネヘミヤ記3章1節)は、近隣との融和を目指していたと思われます。これもすでに大祭司ヨシュアの時からかもしれません。このように、捕囚期以後のユダヤは、政治的な路線では周辺からの分離を目指しながら、祭儀的な路線では支配する帝国の下にあって周辺の民と共存する方向をとろうとすることになります。この流れは、基本的にはイエスの時代まで受け継がれて、この分裂が、ユダヤの滅亡の悲劇へつながる結果になったと言えましょう。
ネヘミヤは、祭司たちを含むユダヤの民と周辺部族との結婚を禁じました。すでに存在していた結婚を離婚させることはしませんでしたが、ユダヤ人の子供たちが周辺の民と結婚することを禁じるよう誓わせたのです。また、現地において捕囚期の間は、周辺諸部族との経済交流の必要から、商取引を禁じる安息日の規定は守られていませんでした。しかしネヘミヤは、モーセ律法に従って、安息日には異教徒を含むいっさいの商取引を禁じたのです(ネヘミヤ記10章)。その上で、神殿への献げ物も厳守することを命じています。
〔430頃?〕エズラの到着か? 先に述べたように、実際のエズラの到着は、(1)伝承通りにネヘミヤ以前、(2)ネヘミヤ以後にアルタクセルクセス1世の治世の後期、(3)アルタクセルクセス2世の398年頃、この3通りが考えられます。私としては、(2)の説が史実に最も妥当ではないかと思われます(エズラ記の名称とエズラについては次の章で扱います)。
ここでネヘミヤの後期の活動が、エズラのそれとどのように関係してくるのかが問われてきます。おそらくネヘミヤの再度のユダヤへの帰還は、エズラがペルシア帝国から「律法学者エズラ」の称号を授与されてエルサレムへ帰還したことと関係していると考えられます(ネヘミヤ記8章/エズラ記7章)。だとすれば、エズラのエルサレム帰還は、アルタクセルクセス1世の治世の後年にあたることになります〔ノート前掲書413〜15頁〕。以上で分かるように、ゼルバベルと大祭司ヨシュア、エズラとネヘミヤ、ハガイとゼカリヤ、この3組6名の人物が、捕囚期以後のペルシア帝国時代のユダヤの歴史を物語る鍵となる人たちです。
〔424年末〕クセルクセス2世。クセルクセス2世はアルタクセルクセス1世の息子ですが、彼は即位後わずか2ヶ月足らずで暗殺されました。ソグディアノスの犯行だと伝えられています。
〔423年初め〕ソグディアノスの治世。ソグディアノスは、アルタクセルクセス1世とは異母兄弟でしたが、兄弟のクセルクセス2世を暗殺した後で、今度は異母兄弟であるダレイオス2世によって殺されました。
〔423/2〜405/4年〕ダレイオス2世の治世。アルタクセルクセス1世の息子で、彼は異母姉妹であるパリュサティスと結婚しました。この頃ギリシアでアテナイとスパルタとの間でペロポネソス戦争が起こり、ペルシアはスパルタと同盟してアテナイを破りました(412〜410年)。しかし王妃が残酷な性格であったため宮廷内が腐敗して、ペルシア帝国内で反乱が起こり、エジプトでも反乱が生じました(410〜405年)。
〔404〜359/8年〕アルタクセルクセス2世の治世。この王はダレイオス2世の息子で「ムネモン」と呼ばれています。彼はギリシアと深くかかわったために、クセノポンの『アナバシス』や『ヘレニカ』(ギリシア史)、また旧約聖書にもその名がでて来て、比較的資料が残っています。それらによれば、ムネモンはダレイオス2世と母パリュサティスとの間に生まれましたが、その時にはダレイオスはまだ王位に就いていませんでした。その後父が即位してダレイオス2世になると、同じ母から弟キュロス(「小キュロス」と呼ばれています)が生まれました。小キュロスは利発で野心家であり、兄のムネモンは穏やかな性格だったと伝えられています。このためか母パリュサティスは、王が即位した後で生まれた小キュロスのほうに王位を譲りたかったのですが、ダレイオス2世は、ムネモンに王位を継がせ、弟キュロスを小アジアのサルディスの太守に任じたのです。小キュロスは、以下に述べるように、兄の暗殺を計画しましたが、母の執り成しによって赦されたと伝えられています。
これだけ王朝で内輪もめが続いていたにもかかわらず、ペルシア帝国の支配が固かったのは、ペルシアの王侯たちが、彼らの神を敬い、ペルシア風の慣習を厳守する義務/義理を守っていたからです。このため、各州の総督(サトラプ)は、王の代理として各州の民に絶対的な服従を要求しました。アルタクセルクセス2世は、帝国内のペルシアの総督全員にアフラ・マズダーと共にミトラとアナヒータへの祭りを厳守するよう命じています。これら三柱の神々だけが、ペルシア帝国固有の神とされたからです。このために、サルディスの高官たちは、地元アナトリアの神々を祀る祭儀にかかわることを禁じられています〔Anchor(5)242〕。
〔401年〕小キュロスの反乱。402年に、反乱を続けていたエジプトが、ついに帝国から離脱します。これに続いて401年に、弟キュロスがサルディスから軍を率いてバビロンの近くへ攻め込んできました。この時をさかのぼる431年に、ギリシアでは、スパルタとアテネとの間にペロポネソス戦争が起こりました。当初はペリクレスの指導によってアテナイが優勢だったのですが、アテナイで疫病が蔓延したために、ペリクレスは亡くなり、ついにアテナイはスパルタに屈したのです(404年)。
この時、小キュロスはスパルタと手を結びこれを援助しました。そのために今度はスパルタが小キュロスのバビロン遠征を援助します。小キュロスの遠征軍には、12000人ほどのギリシアの傭兵部隊が参加していました。その中にソクラテスの弟子であったクセノポーンがいたのです。彼は、小キュロスの遠征とこれに続く敗北とギリシア軍の悲惨な逃避行とを詳細に綴(つづ)った『アナバシス』を著わしました。
これによると小キュロスの軍隊は、ユーフラテス川を渡り、現在のバクダッドの西でアルタクセルクセス2世の90万近い大軍と戦いました。始めはギリシア軍の力によって(?)小キュロスの軍が優勢だったのですが、功を焦った小キュロスが突出してアルタクセルクセス2世の陣営を攻撃したために、小キュロスは傷を負って戦死します。こここから敗北したギリシア軍の逃避がはじまります。クセノポーンは軍の指導者に選ばれ、北を目指してはるばるアルメニアにいたり、冬季の雪に悩まされながら行く先々で現地の住民と戦いつつ黒海の東岸にたどりつきます。そこからさらに西へ進んで現在のイスタンブールの近くにいたり、南下してようやくスパルタ軍のいるスミルナに戻ることができました。一方アルタクセルクセス2世は、弟とは逆にアテナイを支援することで、反乱が続いた小アジアの覇権をギリシア側に認めさせることができました。
この時の条約は「王の講和」と呼ばれていて、「アルタクセルクセス王は、アジアの諸都市とクラゾメネス島とキプロス島をその支配下に置く。一方、これ以外の諸都市には自治が認められる。ただし、レムノスとインビュロスとスキュロスの島々はアテナイの支配下に置かれる。この条約を認めない者には、条約の同盟国全体による攻撃が加えられる」とあります。このように、ペルシア帝国は、支配下の諸都市に一定の自治(と宗教的自由)を認めることで巧みに全域を統治していたことが分かります〔Anchor(5)242〕。なお、もしもエズラたちの帰還がアルタクセルクセス2世の治世であったとすれば、この頃になります(389年)。
王はその後375年にエジプト遠征を試みますが、これに失敗します。さらに360〜350年にかけて小アジアで反乱が相継いで起こります。アルタクセルクセス2世の治世はこのように反乱が続きますが、歴代のペルシア王の中では最も長い治世が続きました。
〔359〜338年〕アルタクセルクセス3世の治世。この王の別名は「オコス」です。彼は王子の頃から軍隊の指揮官として有能であり、シリアで起こった反乱(368〜58年)を鎮圧しました。父アルタクセルクセス2世の後を継いで王位につくと、彼は自分を脅かす恐れのある兄姉たちを全員殺しました。即位後も反乱が起こり、特にすでに独立していたエジプトからシリアとフェニキアとキプロスにも及ぶ反乱が生じた時には(351年)、先ずシリアを征服し(348年)、続いてエジプトを再びペルシア帝国の支配下に置きました(342年)。
この頃のペルシア軍では、傭兵(特にギリシア人の)が大きな問題となっていました。それまでも多くの傭兵が用いられましたが、各州の傭兵は、その州の総督の支配下に置かれたいたために、その勢力が王への反乱を誘導する危険があったからです。それにもかかわらず、アルタクセルクセス3世は、傭兵の使用をためらわなかったのです。エジプト遠征の失敗(351〜350年)以後に、シドンを中心にフェニキアで反乱が再発しますが、王はこれを鎮圧しました。こうして、ペルシア帝国は480年頃のクセルクセス1世の頃の版図を回復することができたのです。ところが、この王は、宮廷の実権を握るパゴアスという宦官によって、その王子たちと共に毒殺されました。
〔338〜336年〕アルタクセルクセス4世の治世。毒殺された王子たちの中で一人残されたのがアルセスで、この王子が、パゴアスによってアルタクセルクセス4世として即位しました。しかし、国内の政治の実権はパゴアスに握られていたために、アルタクセルクセス4世は、彼を排除しようとして逆にその王子たちと共に毒殺されました。
この頃ギリシアでは、先にアルタクセルクセス2世によって再びペルシアの支配下に置かれたエフェソスやミレトスなどエーゲ海沿岸の諸都市を夷狄(いてき)(ギリシア語で「バルバロイ=野蛮人」。ペルシアを指す)から解放しようという機運が高まっていました。ところが、ギリシアの北にあって、ペルシア帝国の西端に位置するマケドニア州では、フィリッポス王が、マケドニアの地方貴族たちを統一して、ギリシア遠征を行ない、アテナイとテーバイの連合軍を破りました(338年)。この機を利用してフィリッポスは、マケドニア=ギリシアのコリントス同盟を結成し(336年)、彼はその同盟軍最高司令官になりました。同盟の目的は「バルバロイ、すなわち夷狄(いてき)ペルシアに報復するために」宣戦布告することです。ところがその直後、フィリッポスはマケドニアの貴族たちに暗殺されて、彼の息子アレクサンドロス(アレクサンダー)がその後を継ぎます。なおフィリッポスは、ギリシアの哲人アリストテレスを招いて息子アレクサンドロスの教育に当たらせています。
〔336〜330年〕ダレイオス3世の治世。ペルシアでは、パゴアスの魔手によって、アケメネス朝ペルシアの王朝が絶たれそうになりますが、ダレイオス2世の子孫にあたるアルタシャタが、今度はパゴアスを毒殺して、ダレイオス3世として即位します。ところが即位の直後、アレクサンドロス大王の率いるマケドニア=ギリシアの連合軍が、小アジアに攻め込んできました。彼は皮肉にも、かつてペルシア帝国が作ったサルディスからスサにいたる「王の道」を利用して、小アジアを席巻(せっけん)したのです。これを迎え撃つためにダレイオス3世は、軍を進めて小アジア半島の南の付け根にあたるイッソス(現在のトルコのアダナの近く)で、アレクサンドロスと対峙(たいじ)します。
アレクサンドロスの軍隊は、マケドニアの農民4万人ほどの密集部隊が中核になっていて、5メートル半もある長槍で武装して方陣を敷いていました。333年11月、両軍はイッソスで戦いますが、大王自ら先頭に立つアレクサンドロスの軍隊が、数ではるかに優るペルシア軍を破りました。ダレイオス王は、スサに戻り態勢を立て直そうとします。エフェソスやミレトスでは、それまでペルシアの支配者たちの下に置かれていたギリシア系住民たちが解放されましたが、同時にアレクサンドロス大王の遠征のために、費用と兵とを供給しなければなりませんでした。
アレクサンドロス大王は、イッソスの戦いから地中海沿いに南下してエジプトへ降ります。沿岸のフェニキアにはペルシア艦隊の根拠地があったからでしょう。途中の沿岸都市テュロスとガザは、大王に抵抗したために住民が虐殺されました。エジプトへ降った大王はそこから北上してエルサレムへ来ますが、エルサレムは大王を迎え入れました。彼はそこからダマスコへ上り、さらに北上してユーフラテス川に出ます(331年7月)。マケドニア軍はさらにメソポタミア平原を東へ進み、ティグリス川を超えてガウガメラに達し、そこでペルシア軍と対峙しました(331年10月)。大軍のペルシアは、左右に長い戦列を敷いて、マケドニア軍を囲い込もうとします。ところがアレクサンドロス大王率いるマケドニアの騎兵隊と歩兵隊と長槍隊は、楔形(くさびがた)陣形を採ってまっしぐらにダレイオス王の本陣へ突入したのです。ふいをつかれたダレイオス王は、あわてて馬を駆って逃げ出しました。これが戦いの趨勢(すうせい)を決めました〔ピエール・ブリアン『アレクサンダー大王』桜井万里子監修/福田素子訳。創元社(1991年)170〜171頁〕。
アレクサンドロスは、勝利に乗じてバビロンとスサを降伏させ、ついにペルセポリスに入城しました。彼はペルシア帝国の壮麗な建築と王宮に感銘を受けたようです。ただし、ペルセポリスだけは焼き払いました。彼はペルシアの統治形態をほぼそのまま引き継いで、宮廷での慣習もまるで彼自身がペルシア帝国の皇帝のようであったと言われています。ダレイオスはその後、ペルシア北東部のバクテリア州へ逃れましたが、アレクサンドロスは、ペルセポリスから北上して現在のカスピ海の南に達し、そこから山岳地帯を迂回してどこまでもダレイオス王を追跡し、ついにバクトリアへ達しました。ダレイオスは側近たちによって殺されました(330年7月)。これでアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡したことになります。
しかし、アレクサンドロスの遠征はなおも続き、ついにインダス河を越えて現在のアフガニスタンへと到達します。さすがに従う兵たち疲れて大王に抗議をしたために、彼はやむなくインダス川沿いに南下して、そこから西へ向かいバビロンに戻りました。しかし突然の熱病で倒れ、そのまま亡くなりました(323年6月)。毒殺されたという噂もありますが、どうやらコレラが死因だったようです。しかし、彼の大遠征によって、ギリシア風の文化がオリエントの奥地まで広まり、ヘレニズム大帝国が初めて出現することになったのです。
■ペルシア帝国の支配体制
〔王権と支配体制〕
アケメネス朝ペルシアの支配体制はダレイオス1世の治世(521〜486年)に、ほぼできていたと考えられます。帝国は諸州(サトラピ)に分けられて、それぞれの州には、ペルシア帝国の貴族が総督になり、総督にはそれぞれの軍隊を動かす権限が与えられていました。州民は総督に税を納め、これが帝国に集められて帝国の財政を支えました。総督にはペルシアの高級官僚による行政機関があり、彼らには相当の土地が授与されました。これによって、税の徴収と州の治安が維持されたからです。ただし、彼らは、総督の要請に応じて、それなりの軍隊を出すことが義務づけられていました。
それぞれの州においては、地元の王族、有力者、州民が支配下にいましたが、彼らには、かなりの幅の自治権が与えられていたようです。しがたって、帝国支配下のギリシアの諸都市では、従来の制度が大きく変更されることがなかったと言えます。エジプトでも事情は同じですが、エジプトでは、ダレイオスが「ファラオ」と称されていました〔Anchor(5)239〕。
〔宗教政策〕宗教制度に関しては、王は、それぞれの州の神殿制度を認めていましたから、これが帝国の「宗教的寛容策」と見なされました。しかし、例えば、小アジアのエーゲ海沿岸では、アポロンの神殿制度に対して、州総督が干渉した記録があり、神殿と宗教制度が脅かされるまでにはいたらなくても、神殿の財政に関して、ペルシア側からの介入が行なわれていたと見ることができます。また、ペルシア王自身が神格化されることはありませんでしたが、王は、アフラ・マズダーの「代理」と見なされ、この神の特別な保護を受けていると考えられていました。王を讃える碑文には、次のようにあります。これは政治的な意図による碑文ですが、王の統治理念をうかがうことができます。
「ダレイオス王は言う。余は以下の理由によりアフラ・マズダーの御加護を受けることができた。また(ほかの)神々の、あるいはその地にあるすべてものからの(加護を受けることができた)。それは余が、邪(よこしま)でなく、偽り者でもなく、暴君でもなかったからで、余の一族もまたそのようだったからである。余は、義にしたがって統治し、弱き者にも力あるものにも危害を与えなかったからである。余の家を助ける者には余も好意を示し、敵対する者は、これを滅ぼした。」〔インターネット検索「ダレイオスの黄金の碑文」より〕。
〔アフラ・マズダー〕
アフラ・マズダーは、インド・イラン系の「知恵の神」として、ペルシア帝国成立以前から伝わる神です。アケメネス朝時代には、この神は、まだ唯一絶対の神ではなく、諸民族の神々の最高神として崇められていたと思われます。アフラ・マズダーは、アケメネス朝時代の碑文で讃えられていて、ペルセポリスの近くにあるダレイオス王の碑文には、「アフラ・マズダーは、大地を創り給い、天を創り給い、人を創り給い、人の平安を創り給い、ダレイオスを王、多くの者の唯一に支配者となし給うた神」とあります〔エリアーデ『世界宗教史』(1)荒木美智雄/中村恭子/松村一男訳369頁〕。
ダレイオスは、ペルセポリスを、行政目的ではなく、新年祭の祭儀の場として建設し、そこで、アフラ・マズダーによる宇宙の創造神話を年ごとに繰り返すことによって、象徴的に世界を更新したのです。特に「火」は「聖なる霊」を象徴しており、宇宙を浄めるスプンタ・マンユ~と同一視されます。「火」は太陽と共にアフラ・マズダーの属性を現わしていて、王は、「高いものの中で最も高いもの」を見える姿で体現する存在でした。
祭りの火は、その前で供儀が捧げられ、聖火の維持と浄化と創設は、マズダー教ではきわめて重要であり、このために神殿を創立し、祭司を任命することが最高の宗教的な行為とされました。この宗教が「拝火教」と呼ばれる所以(ゆえん)です。後期になると、宇宙観に終末観が加わり、宇宙と終末(時間)とが更新されることで一体化されました〔エリアーデ前掲書380頁〕。ペルシア帝国のマズダー教は、その終末観をはじめ、七つの段階を経て世界が創造されたとする宇宙観、厳しい善悪の二元性とこれに基づく人間観、神の正義など、帝国の支配以後のギリシア系王朝の時代になっても、ユダヤ教に大きな影響を及ぼしました。
〔ザラスシュトラ〕
ザラスシュトラ(日本語でゾロアスター)が、いつ頃の人なのか明らかではありません。イラン東北から侵入してきた頃(1400〜1200年)と見る説と、現在のイランに定着した頃(1000年頃)だとする説があります。実在した人物だとは言え、半ば伝説化されています。彼は、アフラ・マズダーを信奉し、マズダー~から特別の啓示を受けたとされています。このために彼は、マズダー教を改革して、その教えの根本原理は、マズダー神の模倣にあると教えました。人はその自由な意志によって、マズダー神に「見習う」ことが求められています。ザラスシュトラの家族は貧しかったので、彼の宗教改革の精神は、なかなか認められなかったようですが、彼の教えは『ガーサー』という文書にまとめられて「ゾロアスター教」と呼ばれるようになりました。
ゾロアスターは、アフラ・マズダー神の祭司であり、預言者であり、幻視者でした。彼は、それまでのマズダー教を大きく変革した人物ですが、最初の内は民に受け容れられませんでした。しかし、ゾロアスター教は、8世紀頃に、西イランのメディア王国とペルシアにも入り、ペルシア帝国の宗教になります。ただし、この段階では、アフラ・マズダーは、帝国の主神ではあっても、属州諸民族の宗教として強制されることはありませんでした。したがって、それぞれの属州民族は、自分たちの神殿で、それぞれの神々に、帝国と王の繁栄を祈るよう求められたのです。ユダヤの民が、エルサレムへの帰還を許され、神殿建築が進められたのは、アケメネス朝ペルシアのこのような宗教政策によると考えられます。ただし、ササン朝ペルシアの時代(紀元後3世紀後半〜7世紀前半)には、マズダー教による諸民族の統制が強化されることになります〔Anchor(6)1168-69〕。
■アケメネス朝ペルシアの言語と文字
〔楔形文字〕楔形(くさびがた)文字(Cuneiform)は、ティグリスとユーフラテス川の河口に近いウルク文化期(前3000年頃)の絵文字に源を発しています。これが独特の楔形文字として青銅期時代の末期(2000年頃)には、400文字ほどに整理されました。アッカド語の楔形文字、エラム語の楔形文字、より簡素化されて音節文字に近い古代ペルシア語(特にアケメネス朝ペルシア語)の楔形文字などがあります。楔形文字はメソポタミア全域にわたり、3000年もの間用いられましたが、セム語系の民族(パレスチナのフェニキア人やユダヤ人やアラビア半島のアラビア人など)には、この文字は使いにくかったと考えられています。
楔形文字の解読は、ベヒストゥン碑文(the Behistone inscription)によるところが大きかったと言えます。この碑文には、中央にダレイオス王がその敵対者たちを征服した浮き彫りの巨大な絵が描かれていて、これの左右と下に、浮き彫りを3方から囲むように、楔形文字が刻まれています。碑文は、古代ペルシアの楔形文字の古代ペルシア語と、アッカド語の楔形文字のアッカド語と、エラム語の楔形文字のエラム語で書かれています。この碑文が発見されたのは1621年のことですが、これの解読は、イギリスの将校ヘンリー・ローリンソンによって1835年に本格的に始められました。
〔エラム語〕エラム語は、ペルシア帝国成立の以前から、古代オリエントで栄えたエラム王国で用いられたもので、首都はスサです。
〔アッカド語〕アッカド語は、南方のバビロニア語と北方のアッシリア語とに分かれます。この言語は「ハンムラビ法典」で用いられているものです。ベヒストゥン碑文のアッカド語は新バビロニア帝国で用いられたものです。アッカド語は、アッシリア帝国によってメソポタミアの共通語として用いられていましたが、アッシリアの滅亡以後、次第にアラム語が共通語として用いられるようになりました。
〔古代ペルシア語〕アッシリアに続く新バビロニア帝国とアケメネス朝ペルシア帝国の時代(前6世紀頃)には、すでにアラム語がオリエントの共通語として用いられていました。したがって、楔形文字の古代ペルシア語は、帝国の公用語の一つではあっても、その用途は比較的限定されていたようです。
〔アラム語〕アラム語は、フェニキア語やヘブライ語やウガリト語などセム語系民族の言語です。フェニキアは、現在のアルファベット文字の起源となる所ですから、文字は楔形ではありません。アラム語は北西セム語に属していて、アラム人によってアラム文字で書かれました。アラム人は前1000年頃にアラビア半島から出た民族ですが、ティグリスとユーフラテス川流域にも進出しました(創世記24章10節の「アラム・ナハライム」も彼らの町の一つ)。その言語は、アッシリア帝国と新バビロニア帝国でも用いられ、アケメネス朝ペルシア帝国でもアラム語が共通語として使用され、前600年〜500年頃にはメソポタミアからシリアにいたる広範囲で用いられるようになりました。アラム語は、西方アラム語(アラビア、パレスチナ、フェニキア地方)と東方アラム語(ティグリスとユーフラテス川流域)に分かれています。アラム語も、ペルシア帝国の公用語になりました。これがいわゆる「帝国アラム語」で、ダニエル書にでてくる「聖書アラム語」もここから出ています。後のヘレニズム時代にイエスが用いたパレスチナのアラム語もここから派生しました。ちなみに、ユダヤ・パレスチナの聖書アラム語はヘブライ文字で書かれました。
*「アケメネス朝ペルシアの言語」の項は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「楔形文字」及び「ベヒストゥン石碑」などによっています。
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