22章 神殿と城壁再建の指導者たち
■ゼルバベル
 ゼルバベルのことはハガイ書1章1節に「ダレイオス王の第2年6月1日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督/支配者シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ」とあります。ゼルバベルの父シェアルティエルは、597年に、南王国ユダの王としてバビロンへ連行されたヨヤキン王(即位前の名はエコンヤ)の長男です(歴代誌上3章17節)。このシェアルティエルは、おそらくペルシア王キュロスによってエルサレム神殿の再建を命じられ、捕囚の際に奪われた神殿の祭具をエルサレムへ持ち帰ったと記されているシェシュバツァルと同一人物でしょう(エズラ記5章13〜14節)。「ゼルバベル」とは「バビロンの末裔」を意味しますから、彼はバビロン捕囚の間に生まれたと思われます。
 このゼルバベルは、祭司ヨツァダクの子イエシュアと共にエルサレムへ帰還して、第二神殿の建設を指導した人です(エズラ記2章2節/ネヘミヤ記7章7節)。ただし歴代誌上3章19節に、彼は「ペダヤの子」だとあります。このようにイスラエルの人に二人の父がいる場合は、その二人の父は兄弟であった可能性があります。兄が子供を得ず死んだ場合、その弟が、兄の妻と結婚し、その二人の間に男の子が生まれたら、先に死んだ兄の家名を継がせる慣わしがあったからです(申命記25章5〜6節)。だから、シェアルティエルが子供を生まず亡くなって、その弟ペダヤが兄の妻との間にゼルバベルを生んだので、ゼルバベルは、実父ではなく、先に亡くなった「シェアルティエルの子」と記されたのでしょう〔Edward Lewis Curtis, The Book of Chronicles. ICC. T&T Clark (1910).101.〕。シェアルティエル/シェシュバツァルのほうが、より王位に近い人物だったからでもありましょう。もっとも、それとは逆に、ゼルバベルはシェアルティエルの息子で、ペダヤはシェアルティエルの兄弟であったから、シェアルティエル亡き後に兄弟の寡婦と結婚したので、ゼルバベルは「ペダヤの子」と記されたという説もありますが〔『旧約新約聖書大事典』689頁〕〔Roddy Braun, 1 Chronicles. WBC (14).Word Books(1986).52.〕。それとも、「シェアルティエル/シャルティエル/シェシュバツァル」はペダヤのバビロニア名で、二人は同一人物なのでしょうか。ちなみに、マタイ福音書(1章12節)ではシェアルティエルの子がゼルバベルとあり、ルカ福音書(3章27節)では、ゼルバベルのほうがシェアルティエルの父になっています。ともかくこれで見ると、ヨヤキン王→シェアルティエル→ゼルバベルという王位につながる系譜が見えてきます。
 ゼルバベルは、大祭司イエシュアと共に第二神殿の建造を指導した人として知られています(ハガイ書2章2〜7節/エズラ記3章2〜6節/シラ書49章11〜12節)。この二人は、預言者たちハガイとゼカリヤの預言に従って、エルサレムの神殿建築を始めました(エズラ記5章1〜2節)。ゼルバベルはユダの総督であり、ヨシュア/イエシュアは大祭司だとありますから(ハガイ書1章1節)、ゼルバベルが政治的に指導し、ヨシュアは霊的な面での指導を司ったのでしょう。「総督」とあるのは、ペルシア王国の諸地域を治める地方長官のことですから、ゼルバベルは、ユダヤの支配を任せられたペルシアの役人だったことになります。
 彼らが先ず始めたことは、主の祭壇を築き、そこで朝夕、絶やすことなく焼き尽くす献げ物を献げることでした(エズラ記3章2〜5節)。それから、神殿の土台が築かれて、536年にこれを祝う祭りが盛大に執り行なわれました(同8〜13節)。ところが、周辺の諸民族からの妨げに出逢って、工事は中断を余儀なくされ、そのままキュロス王の治世と続くカンビセスの治世の終わりまで、神殿建築はできませんでした(エズラ記4章)(なお歴史的に問題があるがギリシア語エズラ記2章15〜25節を参照)。しかし、ダレイオス王の時代に、建築が再び許されて(522年)、516年についに完成に至ります(同5〜6章)。これによってゼルバベルの名はイスラエルの歴史に残ることになりました(ゼカリヤ書4章6〜10節)。
 しかしそれ以後のゼルバベルのことは記録がありません。バビロンに戻ったという説もあり、ペルシア王の不興を買って処刑されたという説もあります。ゼルバベルの名前がある時期から出てこなくなるのは、彼がペルシア政府に対して反乱を企てたため、あるいは反乱の企てが発覚したために処刑されたと言われています〔Barnavi, ed. A Historical Atlas of the Jewish People.33.〕。しかし彼の名は、大祭司ヨシュアと共に主の神殿を建て直すことによって、イスラエルの来るべきメシアを預言することになります(ゼカリヤ書6章11〜13節)。ゼカリヤ書6章12節に「若枝」とあるのは、大祭司と共に栄光に与るゼルバベルを指すと思われ、しかもこの「若枝」は、来るべきメシアを表わす表象とされているのです〔『新共同訳旧約聖書注解』V168頁〕。こうしてゼルバベルは、メシアであるイエス・キリストの系図に加えられることになったのです(マタイ1章12節/ルカ3章27節)。
■大祭司ヨシュア
 イツァダクの息子のイェホシュア→イエシュア→ヨシュア(左から右へ読み方がなまったものです)は、ゼルバベルと共にバビロンからユダに帰還しました(エズラ記2章2節/ネヘミヤ記7章7節)。彼の名もハガイ書1章1節に「大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」とあります。これで見るとイエシュア/ヨシュアは、祭司/大祭司の家系で、彼の父ヨツァダクの名は歴代誌上5章38〜40節にでてきます。これによれば、ヨツァダクは、587年の第2回の捕囚によってバビロンへ連行されています(同41節)。ヨツァダクの父はセラヤで(同40節)、セラヤは、南王国ユダの最後の王ゼデキヤの祭司長で、エルサレム陥落の時にバビロン軍に処刑されました(列王記下25章18〜21節)。「祭司長」"the chief priest"とは、ソロモン時代頃までの呼び方ですが、「大祭司」という呼び方がいつ頃からかはっきりしません。しかし捕囚期に入って、イスラエルの王権が事実上消滅すると、「大祭司」"the high priest"と呼ばれるようになったようです。したがって、大祭司ヨシュアは、処刑されたセラヤの孫に当たります。
 さらに歴代誌上5章38〜40節によれば、ヨシュアの父ヨツァダクは、ヨシヤ王の改革の時に律法の書を見つけ出した(大)祭司ヒルキヤの子孫であり(列王記下22章8節)、ヒルキヤはダビデ王の祭司であったツァドクの家系につながります(列王記上1章32〜34節)〔Gray, I&II Kings. 768-69.〕。このようにして、ダビデ王の時代から南王国ユダのヨシヤ王の時代を経てバビロンの捕囚期へ、さらに捕囚期を経て、帰還後の第二神殿の時代にまでつながる祭司の家系とその部族が続いたことが見えてきます。その中には、ツァドク→ヒルキヤ→セラヤ→ヨツァダク→イエシュア/ヨシュアなど聖書に名を残す人たちがいました。だから、大祭司ヨシュアは、代々の祭司の名門ツァドクの家系の人です。
 なお、祭司ツァドクの家系とモーセにさかのぼるアロン系の祭司の家系との関係は複雑です。歴代誌上5章29〜40節には、レビ族の子孫として、アロンからヨツァダクにいたる大祭司の系譜がでていますが、おそらくこの系図は、ツァドク系の祭司によって後から構成されたものでしょう。しかし、ツァドク系がアロンとつながること自体は確かなようで〔Anchor(4)309〕、「アロンの子ら」とは以後ツァドク系の祭司の家系を指すというこの伝承は以後もイスラエルにおいて変わることがありませんでした。
 ところで、エズラ記2章には「イエシュア」が4箇所に出てきます(2節/6節/36節/40節)。2節には、以下の名簿全体を代表する意味でゼルバベルと共に大祭司イエシュア/ヨシュアがあげられています。エズラ記2章6節は平民の人たちの名簿です。6節はテキストが乱れていますが、「パハト・モアブの一族、すなわちイエシュアとヨアブの一族2812名」〔新共同訳〕とあります。これは「パハト・モアブの一族、すなわちイエシュアとヨアブの子孫たち」と読むほうがいいでしょう"Of Pahat-moab, namely the descendants of Jeshua and Joab"[NRSV]。大祭司ヨシュアの子孫の中にパハト・モアブという一族がいて、これがイエシュアにつながるという意味でしょう。36〜38節は祭司系の名簿です。そこにはエダヤの一族がいて、これがイエシュアにつながると記されています。ただし、36節は後から加えられたのではないかとも考えられます〔H.G.M. Williamson, Ezra, Nehemiah. WBC. Word Books (1985).Electronic edition.〕。以上の3箇所のエシュアはおそらく同一人物でしょう。40節はレビ人の名簿です。ここにでてくる「イエシュア」が、はたして大祭司エシュアのことなのかがはっきりしません。2章の名簿は、幾つかの資料が合成されていると考えられるからです。「イエシュア」はイスラエルではよくある名前です(ギリシア語名「イエスース」=「イエス」はこの名前から出ています)。神殿建築を指導した大祭司エシュアとレビのイエシュアを同一だと見ることもできますが、はっきりしません〔Anchor(3)770.〕。おそらく4人は同一人物を指すのでしょう。
 大祭司エシュアは、このように520〜515年にかけて、捕囚以後のユダヤ人の政治的、宗教的な指導者の一人です。それだけではなく、ゼカリヤ書6章12〜13節で彼は、捕囚前のイスラエルの王にも匹敵する地位を与えられています。この宗教・政治的とも言える権威は、以後ヘロデの神殿以後も含んで、いわゆる「第二神殿時代」の終わり(紀元後70年)まで続くことになります。
 大祭司エシュアに与えられた使命は、捕囚とエルサレムの破壊によって汚されていた聖都エルサレムとユダヤの地をヤハウェに対する祭儀によって再び浄めることにありました。かつてのエルサレム神殿は、王宮と併設されていましたが、政治と財政を司る王権と宗教的な権威を持つ神殿とは機能的に分けられていました。しかし、新しいエルサレム神殿は、祭政一致制によって、宗教的な祭儀だけでなく財政的な機能をも兼ねることになったのです。しかもユダヤは、政治的にはペルシア帝国の支配下にありましたから、捕囚期以前のような独立した政治権力を行使することができませんでした。このため、ペルシア帝国の中央政府との関係がユダヤの政策の重要な課題となっていましたから、ゼルバベルは、主としてペルシア帝国とその行政区域のひとつであるユダヤとの円滑な関係を維持する仕事に携わったと考えられます。
 このようにして、大祭司ヨシュアとゼルバベルによる二頭政治が行なわれることになったのです。ゼカリヤ書4章には、ゼルバベルへの主の言葉が語られますが、そこでは「二本のオリーブの木」が霊的な機能を与えられた「二人の油注がれた人」として現われます(同11〜14節)。二人にとって、何よりも神殿の再建が急務でした(ハガイ書2章1〜3節)。ただしハガイ書では、ゼカリヤ書とはやや異なって、ゼルバベルのほうにユダヤの将来への期待が置かれているように見えます(ハガイ書2章21節)。これに対してゼカリヤ書では、一連の幻と主からの託宣を通じて、ヨシュアへの戴冠と浄めが語られていて、彼はその汚れた衣服を脱がされて、それまでの不義と恥辱をぬぐい去られて、新たな神の制度を開始するように命じられるのです(ゼカリヤ書3章)。同3章7節に「わたしの家を治め、わたしの庭を守る」とあるのは、捕囚以前には王権に属していた権力と使命が、政治(ユダヤの家を治める)と宗教(神殿の庭を守る)こととしてヨシュアに課せられているのです。
 このようにして、かつてのダビデ王朝の王権が、捕囚期以後のユダヤにおいては全く新しい意義を帯びることになります。こういう「王権」思想の新たな展開は、注目に値しますが、この王権は、大祭司ヨシュアではなく、ゼルバベルのことではないかという説もあります。しかし、ゼカリヤ書では、天からの王権が大祭司ヨシュアに授けられているのは明らかです。
 とにかく、ゼルバベルと大祭司ヨシュアの二人は、エズラ記2章1〜2節ではほかの9名と、ネヘミヤ記7章7節ではほかの10名と、共に指導者としてユダヤの地へ帰還しました。そして、帰還した時の7ヶ月後に(エズラ・ネヘミヤ記ではこの年が確定できませんが)、祭壇を築いて、生け贄の祭儀を開始することができました。少なくとも宗教面では、大祭司ヨシュアが指導的な立場にあったと考えられます。この2年後には、二人は他の人たち共々に、主の神殿の基礎を築くことができました(エズラ記3章8〜13節)。
 ユダ族とベニヤミン族のほかにも、周囲の諸部族から神殿再建の援助の申し出がありましたが、二人は共にこれを断わっています(エズラ記4章3節)。また同時に二人揃って、ハガイとゼカリヤの二人の預言者から神殿再建への託宣を与えられています(エズラ記5章1〜2節)。このように、大祭司の祭司職は、捕囚以後にはかつてなかったほどの権威を帯びるようになり、中でも大祭司ヨシュアは、帰還以後のユダヤの民にとって、この祭司制度の中心人物であったと思われます。
 それ以後の二人の活躍は、「新しい神殿の栄光は昔の神殿に優るほどだ」(エズラ記2章9節)とあり、特にゼカリヤ書では、主は「あなたがたのただ中に住まう」(ゼカリヤ書2章14節)、「1日の内にこの地の罪を取り除く」(同3章9節)とあり、二人は「オリーブの木」であり「油注がれた者たち」(同4章11〜12節)であり、主は「武力によらず、権力によらず、我が霊によって」(同4章6節)山々は平らにされ、彼らの足下からは「若枝」(同6章12節)で象徴されるイスラエルを救うメシアの到来が預言されるのです。そこでは、「ダビデの家とエルサレムの住民は、彼自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむ」(同12章10節)とあって、来るべき日に受難の僕が受けるであろう十字架への預言さえ語られています。
■エズラ
 エズラのことは、主としてエズラ記7章と8章15節〜10章にでています。エズラが王の命令を受けてバビロンからエルサレムへ帰還するまでの記事は7章〜8章15節で、到着してからのエズラの働きは8章16節〜10章までです。そのほかに、ネヘミヤ記8章1〜12節にネヘミヤと共にエズラが登場します。また、新共同訳続編にある『第一エズドラ書』(七十人訳ギリシア語エズラ記)も参考になります。ちなみに、紀元後1世紀以後のユダヤ教においては、『第一エズドラ書』『第二エズドラ書』が退けられる一方で、ラテン語エズラ記がエズラ伝承において重要な位置を占めることになります。
 なお、聖書の証言のほかに、エズラ伝承は、ヨセフス(37〜100年頃)の『ユダヤ古代誌』11巻5章前半〔秦剛平訳(ちくま学芸文庫)〕にまとめられていますが、彼はなぜか、エズラの活動をアルタクセルクセス1世の時代ではなく、ダレイオス1世の息子クセルクセス1世の時代だと見ています。しかしこの点では、聖書のエズラ記とギリシア語エズラ記のほうがヨセフスよりも正しいと考えられます。
 わたしたちが求めるのは、歴史的な批評に基づく史的エズラ像ではなく、ヘブライのエズラ伝承に描かれているエズラ像のほうですから、さしあたり旧約聖書と紀元1世紀のヨセフスのエズラ像で十分でしょう。歴史的な批評に基づくエズラ像は、その後で考察することにします。
 エズラ記7章1〜10節によれば、エズラの父はセラヤとありますから、彼の家系はツァドクにさかのぼる大祭司の家系にあたります。セラヤの息子であれば、大祭司ヨシュアの父ヨツァダクの兄弟ですから、エズラは大祭司ヨシュアの叔父になります。エズラは、ペルシア王アルタクセルクセス1世の下にあって、ペルシアの宮廷で捕囚期のユダヤ人の問題を扱う書記官をしていました(同7章25節)。彼は「律法の書記官」であったとあり「祭司エズラ」とも呼ばれていますから、モーセ五書を中心とするイスラエルの律法に精通していたのでしょう。このために彼は、捕囚以後の聖書の正しい解釈を確立した人物とされて、ユダヤ教では彼のことを「学者エズラ」"Ezra the scribe"と呼んでいて、モーセやダビデにも匹敵する人とされています。紀元後のユダヤ教では、エズラは、与えられた啓示によって、エノクやエリヤと同様に、生きながら天に挙げられたと見なされるようになりました(ラテン語エズラ記を参照)。
 エズラは、バビロン在住のユダヤの民の一部を率いてエルサレムへ上る決意を固めます。彼と共にエルサレムへ帰還した民の名簿がエズラ記8章1〜14節にでていますが、これによれば1500人ほどです。しかし、ここで挙げられているのは代表的な人たちだけです(この時帰還した人たちは全部で5000人ほどか?)。エズラは先ず、アルタクセルクセス1世に、シリアの総督に自分の身分を示すために総督に宛てた親書を与えてくれるよう願います。当時、捕囚のユダヤの民は、その大部分がバビロン周辺に留まったままでした(エズラ記9章1〜2節参照)。なお、かつての北王国イスラエルの10部族の民は、ユーフラテス川の一帯に広がって住んでいたようです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻5章1〜2節〕。
 そこで王は、彼に親書を与えて、イスラエルの民、レビ人、祭司と共にエルサレムへ帰還するよう彼に命じました(エズラ記7章11節以下)。王はさらに、シリアとフェニキアの財務官にも書簡を送り、エズラたちの要求を実行に移すために大量の小麦粉を神への供え物として与えるように命じています(ギリシア語エズラ記8章8〜24節参照)〔ヨセフス前掲書同節〕。また王は、バビロンにいるユダヤ人たちからエルサレム神殿を再建するための金銀の寄付を集めて持参するようにエズラに命じています(エズラ記7章21〜22節)。
 エズラに率いられた民は、アルタクセルクセス1世の第7年の第1の月(3月〜4月)の12日に出発して、同年第5の月(7〜8月)にエルサレムへ到着しました。ヨセフスは、この時にエズラと共に帰還した民の数をあげていません。エズラ記2章には、キュロス王の時に帰還した民の部族名簿があげられていて、続いて「会衆の総数」が42360とあります(同64〜65節)。これは神殿に集まった人たちの総数のことですから、帰還した人たちの数のことではありません。ネヘミヤ記7章にもバビロンから帰還した民の名簿がでていて、その総数42360とありますが(同66節)、これもエズラ記同様に集まった会衆全体の数のことです。だから、エズラと共に帰還した人たちの数ははっきりしませんから、ヨセフスはその数を記さなかったのでしょう。エズラは早速コイレ・シリアとフェニキアの総督エパルコスに王からの親書を送っています。
 さらにネヘミヤ記8章1〜6節によれば、エルサレムの城壁が完成した時に、民はエルサレムの南東部にあたるギホンの泉近くにある城壁の「水の門」の前に集まり、そこでエズラが祭司と書記官として、総督ネヘミヤと共に民に律法の書を読み聞かせて、その説明にあたったとあります。これがエズラ記にしるされている「大集会」で、この時に民の間に霊的なリバイバルが起こり、人々は律法を信じて過去の罪を悔い改めたことが記されています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』9巻5章前半〕。
 なお、ここで新共同訳続編にあるギリシア語エズラ記に触れておきます。この文書はラテン語訳(ウルガタ訳)では「第三エズラ記」とされていて、南王国ユダのヨシヤ王の過越祭(前621年)から始まり、捕囚から帰還したユダヤの民が復興されたエルサレム神殿に集まって律法の朗読と共に大きな祝会を行なうまで(前444年)を扱っています。成立したのはおそらく前2世紀末頃〜1世紀でしょう。全体は、歴代誌下35章1節〜36章23節/エズラ記全体/ネヘミヤ記7章72節〜8章31節の内容をギリシア語訳でまとめたものですが、ヘブライ語聖書にはでてこない物語(3章1節〜5章6節)などが付加されています。抜粋によって編集されたこの文書には、例えば8章のアルタクセルクセス王が1世なのか2世なのかが不明であることなど、年代的な混乱があります。しかし、この文書には、エズラ記やネヘミヤ記が編集される以前の古い断片が含まれているという見方もあります〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)続編注解。433頁〕。特に8章には、エズラに率いられた民の帰還とその具体的な様子、また9章には、エズラによる律法の朗読と集会の様子が描かれていますから参照してください。このように、この文書では、ネヘミヤよりもエズラのほうが重視されています。
■文書としてのエズラ・ネヘミヤ記
〔エズラ記の名称について〕
  エズラ記の名称は、以下の理由でかなり複雑ですから注意してください。ヘブライ語の正典の呼称と、カトリック系のラテン語のヴルガタ訳の呼称と、現在、日本を含む学界での呼称とがあるだけでなく、これにギリシア語の七十人訳が絡んでくるからです。エズラ<記>とエズラ<書>との違いにも注意してください。
 
(1)ヘブライ語原典の旧約聖書では、エズラ記とネヘミヤ記は、一つの文書として扱われ、「エズラ・ネヘミヤ記」と「歴代誌上・下」として、巻末にこの順序でおかれています(時代的に見れば、エズラ・ネヘミヤ記のほうが歴代誌上・下の次に来るべきです)。エズラ記とネヘミヤ記とが分けられたのは、オリゲネスが3世紀に著わしたヘクサプラ(ヘブライ語と七十人訳その他のギリシア語訳を六つの欄で対訳として示している)からです。ヘブライ語の正典で、この文書が正式に分けられるようになったのは、紀元後1448年になってからです。
(2)さらに、七十人訳ギリシア語聖書では、現在のエズラ記(七十人訳のギリシア語、およびラテン語の書名では「エズドラス」です)の前に 、捕囚以前のヨシヤ王の時代から記し始めた「別のエズラ記」が置かれていました。これが、現在の新共同訳続編の「エズラ記(ギリシア語)」です。ほんらいの七十人訳では、この「エズラ記(ギリシア語)」に続いて、ヘブライ語正典の「エズラ記・ネヘミヤ記のギリシア語訳」が置かれていました。
(3)カトリック教会が用いている「ヴルガタ」(Vulgata)と呼ばれているラテン語の聖書では、以上のエズラ記のほかに、全く別のエズラ記を加えています。これが、新共同訳続編の「エズラ記(ラテン語)」です。この「エズラ記(ラテン語)」は紀元後100年頃のものです。
(4)このために英語では"1Ezra" "2Ezra" 〜"4Ezra"のように呼ぶことがあり、日本語でもこれに準じた呼び方がなされています。以下にこの呼び方で、内容をあげておきます。
 第一エズラ記(1Ezra)→ヘブライ語正典エズラ記。
 第二エズラ記(2Ezra)→ヘブライ語正典ネヘミヤ記。
 第三エズラ記(3Ezra)→七十人訳のエズラ記(ギリシア語)→旧約聖書続編。
 第四エズラ記(4Ezra)→エズラ記(ラテン語)の3〜14章→旧約聖書続編。
 第五エズラ記(5Ezra)→エズラ記(ラテン語)の1〜2章→旧約聖書続編。
 第六エズラ記(6Ezra)→エズラ記(ラテン語)の15〜16章→旧約聖書続編。
(5)ところが七十人訳の分類に従って、「全く別の番号付け」をする場合がありますから注意してください〔村岡崇光『聖書外典偽典T』旧約外典(1)「第一エズラ書」解説〕。 ここでは、この違いを「記」と「書」で区別します。
 第一エズラ書→七十人訳のエズラ記(ギリシア語)・他諸書→旧約聖書続編。
 第二エズラ書→七十人訳エズラ記とネヘミヤ記(ヘブライ語正典部分)。
(6)英語では(5)を"1Ezdras" "2Ezdras"と呼びます。(5)の呼び方は日本語では大変紛らわしいので、わたしは(5)の二つをそれぞれ『第一エズドラス書』『第二エズドラス書』のように呼ぶことにしたいと思います。
(7)なお、ヘブライ語正典では、ダニエル書→エズラ・ネヘミヤ記→歴代誌上・下の順番で、これらは「諸書」(ケトゥビーム)と呼ばれています。七十人訳では、エズラ記(ギリシア語)を除くなら、列王記上・下→歴代誌上・下→エズラ記→ネヘミヤ記→エステル記→ヨブ記の順番になります。この順番は新共同訳の順序と同じです。
〔エズラ・ネヘミヤ記の内容〕
 二つの文書をその内容から見ると以下のように三つの時期に大別することができます。以下を新共同訳の小見出しに準じて見ると次の通りです。
(1)エズラ記1章1節〜6章22節:ペルシア王キュロスの勅令→捕囚の民の帰還→神殿再興の基礎→工事の中断→神殿工事の再開→神殿の完成と奉献。
(2)エズラ記7章〜10章44節:エズラのエルサレムへの派遣とこれに伴う準備→旅の開始とエルサレムへの到着→異民族の妻子を持つイスラエルの民と、妻子を絶縁するよう彼らに対するエズラの命令→異民族の妻子を持つユダヤ人の名簿。
(3)ネヘミヤ記1章1節〜13章3節:エルサレムの城壁修復へのネヘミヤの祈り→エルサレムへの旅→城壁の修復開始→敵の妨害→民の不正を正す→敵の脅迫→城壁の完成と警護→帰還の民の名簿→エズラによる律法の朗読→仮庵祭→民の悔い改めとその祈り→誓約者の名簿と誓約の内容→帰還の祭司とレビ人の名簿→城壁の奉献。
(4)ネヘミヤ記13章4節〜31節:ネヘミヤの二度目のエルサレム訪問と彼による諸改革。
 以上を資料としてみると、次のような特徴を見ることができます〔『旧約新約聖書大事典』192頁〕。
(1)エズラ記1章1節〜4章5節のキュロス王の勅令から工事の中断までの記事はまとまった資料として信憑性を持つと見なされており、主としてハガイ書とゼカリヤ書を基に書かれたと考えられます。
(2)エズラ記4章8節〜6章18節のアルタクセルクセス王への書簡から神殿の完成までは、「この文書はアラム文字で記され、アラム語に訳されていた」(4章7節)とあって、以下6章18節までと7章12〜26節のアルタクセルクセス王の書簡はアラム語で書かれています。しかし、アルタクセルクセス1世(在位465〜424年)はペルシア帝国初代のキュロス2世から数えて5代目ですから、時期的に合いません。また書簡の内容は神殿建築ではなくエルサレムの城壁の建築ですから(4章13節)、これは5章以下の神殿建築の前のことではありません。したがって、ここは記事の内容それ自体には信憑性があるにもかかわらず、王名がまぎらわしいためか、年代的に誤って挿入されたと考えられます。
(3)エズラ記8章15〜17節/同21節/同31節:この部分には「わたし(たち)」が用いられているから、ここは「エズラの覚え書き」とされていて、信憑性を持つと考えられます。
(4)エズラ記10章:ここは異民族の妻子を絶縁させる部分です。ここでは「エズラ」と3人称が用いられています。実はこの部分もほんらいは1人称であったのが、後に3人称に編集されたという見方があります〔『旧約新約聖書大事典』192頁〕。エズラ・ネヘミヤ記の編集には歴代誌の著者がかかわっていたと言われていますが(歴代誌下36章23節はエズラ記1章2〜3節と全く同じです)、最近では、この見方に反対する説も出ています。
(5)ネヘミヤ記1章〜7章/10章/12章27〜43節/13章には、「わたし(たち)」が用いられていますから、「ネヘミヤの覚え書き」とされていて、ネヘミヤ自身によると考えられます。
(6)ネヘミヤ記2章1節にネヘミヤがエルサレムに到着したのは「アルタクセルクセス王の第20年に」とあります。彼は12年間エルサレムにいました(同5章14節)。またこの「アルタクセルクス王」の治世は少なくとも32年間は続いていたことになりますから(同13章6節)、この王は「アルタクセルクセス1世」(治世465/4〜424/3年)を指していると考えられます。一方エズラ記によれば、エズラのエルサレム到着は「アルタクセルクセス王の第7年」(エズラ記7章7節)とありますから、エズラのほうがネヘミヤよりも13年早くエルサレムへ到着していたことになり、これが従来定説とされてきました。ところが近年(1986年)、エズラのエルサレム到着はアルタクセルクセス2世の時ではないか?という説が出されました。そうだとすれば、神殿の再建の後でネヘミヤが到着してエルサレムの城壁の修復が行なわれ、これが完成した後でエズラが到着して律法の朗読が行なわれたことになります(この問題は21章の年代記を参照してください)。
(7)ネヘミヤ記7章72節後半〜8章12節のエズラの律法朗読は、内容的にはエズラ記8章に続くことになります。
■歴史的に見るエズラ像
 ネヘミヤについて、またエズラとネヘミヤのエルサレム訪問についての時期的な問題については、21章「ペルシア帝国と帰還の民」の「458年エズラの到着」と「445年ネヘミヤの到着」と「430年頃エズラの到着か?」の諸項目を参照してください。以下では、エズラに関する現在の歴史的な批評から見た視点を紹介することにします〔Anchor(2)726-28〕
〔エズラに関する記述〕
 エズラ・ネヘミヤ記には、エズラに関する記述が、エズラ記7〜10章とネヘミヤ記8章と12章にでています。その中で、エズラ個人に関するものが四箇所あり(エズラ記7章28節/8章22〜23節/9章3〜6節/10章6節)、どれもエズラがイスラエルの民の罪のために激しく悲しんだ様子が描かれています。
 これに対して、エズラの公式の身分/資格につて述べた箇所が以下に見るように数箇所あります。エズラの先祖が祭司アロンにさかのぼること、彼がモーセ律法に精通し、アルタクセルクセス王の好意とその委託を受けていたこと(エズラ記7章1〜6節)、彼の身分が「神の律法の書記官であり祭司」であること(エズラ記7章12節)〔ギリシア語エズラ記9章39節では「大祭司」ですが、これは後代の呼び方〕、アルタクセルクセス王の委託を受けてエルサレムの事情を調査し、王から寄進された金銀、バビロニア州からの金銀を携えて、これをエルサレム神殿に捧げるよう命じられたこと(エズラ記7章14〜16節/同21節)、「祭司であり書記官」であったこと(ネヘミヤ記8章2節/4節/9節)、長官ネヘミヤとこのエズラが同時期にエルサレムにいたこと(同12章26節)などです。
〔エズラの実際の活動〕
 ペルシア王がエズラを派遣した直接の動機は、アルタクセルクセス1世の当時(458年頃)エジプトとギリシアの挑発に乗ってパレスチナ沿岸の諸民族に反逆の兆しが見えたために、これの鎮圧にはユダヤ州が戦略的に重要な位置を占めていたことがあると考えられます。
 「書記官」(アラム語「サーパル」/ヘブライ語「ソーペール」)とは、ペルシア帝国の高官のことですが、宗教的な律法に関しては、この身分は律法を編集し布告しかつこれを解釈する律法学者のことです。ただし、エズラが朗読した「律法」とはどのようなものだったのか、これについてはモーセ五書、申命記、祭司資料による律法、神聖法集(レビ記17章以下)、あるいはペルシア王の勅令など諸説があります。
 また、エズラが王の委託通りに、実際にペルシアの王宮の宝物を入手したという記事はありません(エズラ記8章24〜30節参照)。また彼がバビロンの諸州にどれだけの権限を行使したのかも記されていませんから、エズラの実際の政治的な権限とその活動は限られていたと見られています。彼がエルサレムの大集会で律法の朗読を行なったのは確かです。しかし、ネヘミヤ記10章1節以下はネヘミヤによる部分ですが、この民の誓約にはエズラが含まれていません。エズラがネヘミヤと同時期にいたとありますが(ネヘミヤ記12章26節)、その時期の記述もあいまいです。さらにエズラ記4章12節は、エズラのエルサレム到着がネヘミヤたちによる城壁完成<以後>であったことを示唆しています。これらの記述から判断すると、エズラのはたした役割は、実際に記述されているよりも限定されていたのではないかと思われます。
〔エズラについての歴史批評〕
 エズラに関する記述の中でエズラ記7章12〜26節と同8章26〜27節は史実に基づくと考えられています。ところが以下に見るように、エズラ記の記述は歴史的な批評にさらされることになりました。
(1)上記の真正の部分以外は歴代誌の作者による編集ではないかという見方があります。
(2)エズラがエルサレムへ派遣されたのはアルタクセルクセス1世の時ではなくアルタクセルクセス2世(404〜395年)の時ではないかという説が出されました。これだとエズラの帰還は、エズラ・ネヘミヤ記の記述にあるエズラ→ネヘミヤの帰還順とは逆に、エズラのエルサレム帰還はネヘミヤのそれよりもはるかに後(398年?)のことになります。
(3)さらに極端な仮説として、エズラの存在それ自体を疑わしいとする説が出されました(1986年)。エズラは、帰還以後のユダヤ教において、モーセにも匹敵する律法学者として崇められたこともあって、古代ユダヤ教時代のラビの伝承によって創出され理念化された非実在の人物ではないか、という疑いが持たれたためです。その理由の一つとして、シラ書49章には、ゼルバベルとイエシュアとネヘミヤに関する記事がでているのに、エズラのことが全くでていないこともあげられています。
(4)このような傾向から、さらにエズラ記は、実際の歴史を扱ったものではなく、ユダヤがギリシア系のセレウコス王朝に支配されていたマカバイ時代(前2世紀)の歴史的状況を捕囚直後のペルシア時代に「移し替えて/投影して」、あたかもペルシア帝国の支配時代の出来事のように記述しているという説さえ出されました(このような投影的な手法はダニエル書に見られます)。
 しかし、これらの懐疑的な仮説は、現在では見直されて、エズラは、イスラエルの安寧を願う律法に精通した敬虔な実在の人物であり、神の啓示を受けてエルサレムを訪れ、民に教えた指導者の一人であったというのが定説になっています。このエズラを信奉する人たちが、彼を極端に理念化させて、以後のエズラ伝承を形成したのでしょう。
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