23章 復活信仰の兆し
■陰府と昇天
  黙示文学では、時間的には終末的で、空間的には超自然な世界が、人間世界とは別な世界として存在していて、これが、ある媒介者を通して特定の人に啓示され、その啓示が物語形式で語られるという形態をとります。わたしたちはすでに、紀元前の旧新約中間期のユダヤ黙示文学を通して、「天使の堕罪と悪の起源」について見てきました。これからは、これも黙示文学において重要なモチーフである「死と復活」について考察したいと思います。
 「死と生」は、およそ人類のどの時代、どの世界においても、人間存在を規定する最も基本的な要因でした。ユダヤ=キリスト教では、これが「死と復活」という姿で形成されることになります。旧約聖書の時代には、死者は「生きている神ヤハウェ」の手から切り離されて、陰府(よみ)(ヘブライ語「シェーオル」)に降ることになります。この「陰府降り」は、旧約聖書を通じて、ほぼ66例ほど表われますが、中でも特に重要なのは、詩編16篇10〜11節とコヘレトの言葉9章10節とイザヤ38章10節などです。イスラエルにおいては、神は基本的に命の神であり、生きている者の神です。これが聖書の復活思想の根底に流れている最も基本的な信仰です。人の息はヤハウェに返り、体は塵に戻ります(ヨブ7章9節)。ただし、陰府はまだ裁きと罰の場所ではありません。
これに対して「昇天」のほうは、エノクとエリヤの二例があり(創世記5章24節/列王記下2章1〜15節)、この二例は、以後のイスラエルの復活思想の大事な根拠になります。なおエリヤの場合には、命の神ヤハウェの救いの力によって、死者を生き返らせる事例もでています(列王記上17章22節)。
 イザヤ53章9〜12節には、「受難の僕」が表われますが、この僕像は、後に新約聖書において、受難と救いのメシア像を形成する旧約聖書からの根拠となるもので、そこには、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」とあり、「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」とあります。しかしこれはまだ、受難の僕が「復活にいたる」ことを意味しているとは言えません。
 同様に知恵の書2章16〜22節にも「知恵の受難」と神による救いが語られています。神に従う者に敵対する人たちが「彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ」と嘲る場面です。この嘲りに対して作者は、「神を信じない者はこのように考える。だが、それは間違っている」とあり、「神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた」(知恵の書2章23節)と答えています。ここで「不滅」とあり「似姿」とあるのをギリシア的(プラトニズム的)な意味での「魂の不滅」と理解して、知恵を魂と同一視する解釈がありますが、これは知恵の書全体の真意から見て必ずしも適切とは言えません。なぜなら、この書は、<現在生きて>働いている命の神ヤハウェを根本に据えて、この神に頼る知恵(ソフィア)には、神の命が宿り、神に逆らう者には命から切り離されて死が宿るという基本的な見方に立つからです。この書の視点は、どこまでも「現在生きておられる主なる神」にあり、これと共に歩む義人とこれに逆らう罪人とに、それぞれ「命」と「死」とが割り当てられることです。そこには、神は人を生きる者として造られたけれども、罪は人に死をもたらしたというイスラエルの基本的な思想が根底に流れています。「知恵は神の命」なのです(知恵の書6章20節/7章14節/8章17節)〔Nickelsburg (6) 222〕。
 ただし、知恵の書には、終末における神の裁きも、その際に起こる義人の復活も罪人の滅びもまだ表われません。ここで語られているのはエノク的永生であって、死からの復活は、義のために迫害され、神のために死を受け入れた者にのみ期待されています。死者の復活が待ち望まれていると解釈できる箇所が明確に表われるのはダニエル書12章2〜4節においてです〔Anchor Bible Dictionary(5). 680〜84. 〕。
■「起き上がる」思想
 イスラエルにおける「復活」への兆しを考察するためには、その手がかりとして、まず「起き上がり」の思想をたどる必要があります。旧約聖書のヘブライ語の動詞「クゥム」“qwm”は、その原義から見ると「身体が上に向かう動き」を表わします。
 「クゥム」の普通能動態(パアル/カル態)は、「立ち上がる」「目覚めて起き上がる」「立ち現われる」「持続して存在する」の意味になります。最後の「持続して存在する」は、英語の "stand" の場合にも、暑さや困難にあっても「耐える」「倒れずに持ち堪える」の意味になるのと似ています。「クゥム」の能動強意態(ピエル態)には、「設立する」「堅く据える」「命を支える」「成就する」「再建する」「逆らって立つ」などの意味があります。これの能動使役態(ヒフイル態)は、「立ち上がらせる」「起き上がらせる」「呼び覚ます」「任命する」「保つ」です。特に神を主語とする場合には、力強さ、安定した確かさ、頼りにできる確固とした存在を表わします。また、再帰態(ヒトパエル態)は、「逆らって立つ」「抵抗する」「敵対する」の意味になり、受動使役態(フフアル態)では「設立される」「任命される」ことです。旧約聖書には、この動詞が628回用いられていますが、そのうちの460回は普通能動態(パアル態/カル態)の完了形あるいは未完了形で、能動使役態は146回、能動強意態は11回です〔TDOT(12)592〕。
 「クゥム」はこのように実にいろいろな意味で用いられますから、この動詞の実際の意味は、具体的な文脈の中でしか確認することができません。この動詞の主な意味を列挙すると次のようになりましょう。
(1)「立つ」という動作は、旅に「出立する」ことや敬意を表するために「立ち上がる」ことを指します。これは、比喩(隠喩)的な意味をも帯びますが、特に能動使役態「立たせる」では、神が「霊的に支える」「力づけ励ます」ことです。
(2)ある出来事が「起こる」「生起する」ことを指します。「不法/邪悪が起こった」(エゼキエル7章11節)。「叫び/どよめきが生じた/起こった」(ホセア10章14節)。能動使役態では、神が自然に対して「働きかける」ことで、ある現象を生起させることです。「主は嵐に働きかけて沈黙させた」(詩編107篇29節)。
(3)神の業を記念するために石碑を「立てる」ことを指します。「ヨシュアは12の石を立てた」(ヨシュア4章9節)〔能動使役態〕。これはさらにヤハウェのために祭壇を「建てる」ことへつながります。「主のために祭壇を築きなさい〔命令形〕」(サムエル記下24章18節)。後の祭司資料では、この動詞は神の幕屋を建てることであり、「幕屋を造りなさい」(出エジプト記26章30節)〔能動使役態〕とあります。最後の例は、幕屋の「聖所を建てる/造る」ことですから、主との間に「契約を立てる」ことをも含みます。だから「聖所を建てる」は「契約を立てる」ことにつながり、その行為は、神が新たに「創造を完成させる」ことにも通じます〔TDOT(12)595〕。
(4)「クゥム」は、定められた祭儀を最後まで「成し遂げる」「成就する」の意味になります。「どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか」(詩編24篇3節)で、「聖所に立つ」とは、「聖なる<立場>へ<上がる/登る>」ことです。「立場」とあるのは「クゥム」の分詞形から出た名詞で、「上がる」も同じ「クゥム」です。この場合の「クゥム」は、一連の複雑な祭儀を最後まで滞りなく「遂行する」ことを指します。ただし、列王記上21章22節の「主の御前に<立つ>霊」の場合のように、偽預言者に偽りを語らせるために「立つ」霊も存在しますから、神の前に「立つ」ことにも、真偽ふたとおりの「立場」が存在することになります。
(5)「成し遂げる/成就する」の意味での「クゥム」の用法はとても重要で、祭儀だけではなく、広い範囲で用いられます。知恵思想/知恵文学において、「クゥム」は、人間の慮(おもんぱか)りに対して、神の御旨のみが「成り立つ」ことを表わします。「人の心には、多くの計らいがある。主の御旨のみが<実現する/成り立つ>」(箴言19章21節)は「クゥム」の普通能動態です。「あなた(全能者)が決意することは成就し、歩む道には光が輝く」(ヨブ記22章28節)では、「決意する」も「成就する」も普通能動態です。イザヤ書14章24節後半には、主が「思い図る〔普通能動態〕」なら、そのことは必ず「成就する」(「クゥム」の普通能動態未完了形)とあります。
 同様に、「草は枯れ、花はしぼむが、主の言葉はとこしえに<立つ>〔普通能動態」のです。主は「その僕の言葉を成就させる」(イザヤ44章26節)では、「クゥム」の能動使役態の分詞形が用いられます。このように、主/神が主語の場合「クゥム」は普通能動態で、目的語をとる場合は能動使役態になります。
 同じ用法は、主の「契約」の場合にも当てはまり、「わたしはあなたたち(ノアの家族)と、そして後に続く子孫と、契約を立てる」(創世記9章9節)では、「わたし(主)は、自分自身をして契約を<立てさせる>」という再帰的な意味で、「クゥム」の能動使役態分詞形が用いられています。
(6)サムエル記下7章12節では、主なる神が預言者の口を通してダビデに語り「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国をゆるぎないものとする」と約束します。「子孫に跡を継がせる」とあるのは「あなたの子孫をあなたの後に<立てる>」ことであり、この「立てる」〔能動使役態〕は、神が子孫を王として「立てる」こと、すなわち「王権を授ける」ことです。なおこの場合の「子孫」が集合的な意味なのか個人なのかは問題になりません。ここでは、神が「あなたの身から出るであろう」と未完了形で約束したことが、必ず成就するという意味で完了形が用いられています。このように「王を<立てる>」場合には能動使役態が用いられます〔TDOT(12)596〕。
(7)「クゥム」は、例えばダビデの王権やエルサレムが「復興する」「回復する」ことを指す場合に用いられます。「その日にはわたしはダビデの倒された仮庵(かりいお)を<復興する>」(アモス9章11節)では、「復興する」〔能動使役態未完形〕にも、続く「廃墟を<建て直す>〔能動使役態未完了形〕」にも「クゥム」が用いられています。この用法は、ヤハウェが民を指導する羊飼いを「立てる」場合にも用いられます(エレミヤ23章4節/エゼキエル34章23節前半)。この場合の「立てる」(英語の"raise up")は、神あるいは神の僕による働きかけによって民や国を再び「立てる/建てる」だけではなく、これを「支え続ける」ことをも含んでいます(イザヤ49章6節前半/同8節後半)〔TDOT(12)598〕。
(8)身体の生き返りにも「クゥム」が用いられます。死者の体がエリシャの墓に投げ込まれると、その死体がエリシャの骨に触れます。するとその人は「生き返り、足で立ち上がった」(列王記下13章21節)とあります。ここでは「生きる/生き返る」も「起き上がる/立ち上がる」も普通能動態です。ただし、ヘブライ語では、「〜した、そして〜した」のように、「そして」(ワーウ)"and" という接続詞に動詞が続くと、先の動詞と時制が変わりますから、完了形、未完了形ともに、時制だけで内容を判断することができません。エリシャの骨と類似した例が、エゼキエル書37章10節にもあり、「霊が彼らに臨むと、彼らは生き/生き返って自分の足で立った(原語は「アマド」)とあります。
(9)ヘブライ語で「死」とは「命が弱くなる」ことですから、生命の欠如は「死」と結びついてきます。このために「死」と「命」の境界を表わす言葉は、必ずしも明確ではありません。生死の境においては、言葉の意味が一方から他方へと移行することができるのです〔TDOT(12)601〕。特にこれが、霊的な意味で用いられると「死」と「生」とが価値観を伴う倫理性を帯びて、隠喩的な意味を帯びるようになります。ヨブ記(4章4節)の「あなた(ヨブ)の言葉は倒れる人を<起こし>、くずおれる膝に力をあたえたものだった」とあるのは、「よろめいて今にも倒れそうな人を<立ち上がらせる>〔能動使役態〕」ことですが、ここでは隠喩的な意味を帯びていて、精神的に倫理的な意味で「よろめき倒れる」こと、すなわち「罪を犯すこと」を指しています。「クゥム」はここでは、人を倫理的道徳的に「支える」こと、「立ち直らせる」ことです。
 このように「クゥム」が「善悪」「正邪」を表わす場合には、神の命(いのち)から離れること、すなわち「罪」と「死」の概念が関連してきます。したがって、「立ち上がる」「起きる/起こす」は、罪人に対しては否定的に用いられます。「火の雨が注ぎ泥沼に沈められ<再び立ち上がる>ことがないように」(詩編140篇11節)は、「あなたはわたしの神」と告白する「わたし」に敵対する者への呪いの言葉です。ここでは、「罪/邪悪」を行なう者が、神によって地上の命から「断たれる」ことが示唆されています。
 詩編41篇9節では、作者「わたし」が、「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒やしてください」と祈ります。ところが「わたしを憎む者」は、「わたし」に災いをもたらそうとして、「彼は呪いに取り憑かれて床についた、<二度と起き上がれまい>」とささやくのです。この作者はさらに「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者がわたしを足蹴にする」と続けています(ヨハネ13章18節参照)。ここでは、正しい者のほうが、悪しき者たちによって、「再び起きあがる望みがない」と言われるのですが、これは「再起して生きる」ことがないという意味です。これに対して「わたし」は、「主よ、わたしを<再び起き上がらせて>〔能動使役態〕ください」と祈るのです(詩編41篇11節)。ここでは明らかに、病による肉体の生死以上に、主を信じる信仰による「霊的な生死」の意味もこめられています。ヤハウェに対するこのような祈りは、王が敵と戦う場合にも用いられ、また共同体全体に対しても用いられます(詩編40篇3節/同10節)。神は悪しき者を「立ち上がらせず」正しい者を「立たせてくださる」という基本的な考え方がここにはあります〔TDOT(12) 601〕。
 注意してほしいのは、これらの用例において、命の「再起/復活」への兆しが示唆されているとは言え、それが罪人や邪悪な者への「否定として」祈り求められていることです。ここでは人間の永遠的な「復活」は、まだ表われていません。「シャハヴ」(倒れた/眠った/死んで横たわった)した人間は起きる/再び起きることがない(ヨブ14章12節)とあり、「死んだ者たちが生きることはまずなく、死者が起きあがる/生き返ることはまずない」(イザヤ書26章14節)のです。
 「クゥム」は、多くの場合、普通能動態ですが、これが終末観を表わす場合には、それがどのような神の顕現と働きを指すのかが必ずしも明確でありません。なぜならこの場合、「顕現」の解釈それ自体において、隠喩的・象徴的な意味と現実の出来事とのかかわりが問われてくるからです。上にあげたように、イスラエルに敵対する者たちをも含めて、「ヤハウェの日」には何が生起するのか(イザヤ2章12節/同28章21節/同33章10節/ハバクク1章3〜4節/ゼファニヤ書3章8節)? これはまだ明確に示されてはいません〔TDOT (12) 608〜9〕。
■ホセア書6章2節
では、ホセア書6章1〜3節を引用します。
 
[1]「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
 主は我々を引き裂かれたが、いやし 
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
[2]二日の後、主は我々を生かし
 三日目に、立ち上がらせてくださる。
 我々は御前に生きる。
[3]我々は主を知ろう。
 主を知ることを追い求めよう。
 主は曙の光のように必ず現れ
 降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように 
  我々を訪れてくださる。」
 
 この段落を理解するためには、これの背景となる当時の北イスラエル王国が置かれていた政治的・軍事的な状況について知る必要があります。北イスラエル王国は、南ユダ王国共々に、当時圧倒的な軍事力を背景に権勢を誇っていた新アッシリア帝国によって王国の存続を脅かされていました。
〔858年〕アッシリアの王シャルマナサル3世が即位しました。彼の治世に、新アッシリア帝国は、チグリス河とユーフラテス河のほぼ全域をその支配下に置きました。その版図は、首都ニネベから、南はバビロンまで〔現在のイラクのカルバラー近く〕、北は現在のイラン北部、西は現在のトルコ南東部のアダナから現在のイスラエルとレバノン、シリアとの国境までが入ります。
〔745〜727年〕アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世が即位しました。彼の時代に、アッシリアの版図は、北は現在のアルメニア中部まで、南はティグリス河とユーフラテス河の河口近くまで、西は現在のイスラエルの全域まで広がりました。 ティグラト・ピレセル3世は北イスラエル王国の北方に隣接するシリアを攻撃し始め、このために、北イスラエル王国の王メナヘムは、アッシリアに貢献して、その支配下に入ったのです(前738年)。
〔734〜732年〕ところが、北王国の将軍ペカが、メナヘムの王朝を倒して北王国の王に即位すると、彼は、シリアの王と結んで、アッシリアに反抗を企てます。彼はさらに、南ユダ王国のアハズ王をも同盟に引き入れようと謀りますが、アハズがこれに応じなかったために、シリアと北イスラエルは、南ユダ王国に攻撃を仕掛けてきました。あわてた南ユダ王国のアハズは、こともあろうにアッシリアに援軍を求めたので、アッシリアは北イスラエル王国に攻め入ってきます。これがシリア・エフライム戦争です(前734年〜732年)(列王記下15章27節以下参照)〔「エフライム」は北イスラエル王国の中心的な部族名〕。このため北王国は、わずかに首都サマリアの周辺だけを残す国となります。ギレアド、ガリラヤ、およびサマリアの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去りました。その結果北王国イスラエルは、わずかに首都サマリアの周辺を残すだけになりました(列王記下15章29〜30節)〔732年〕。しかし、南王国ユダのアハズ王は、ダマスコと北王国の同盟には加わらず、逆にアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世に使者を遣わして「わたしはあなたの僕、あなたの子です」と言わせ、ダマスコと北王国イスラエルの圧迫から救い出してくれるよう依頼しました(列王記下16章7〜9節)。イザヤが、エルサレムで預言活動を始めたのはこの頃からです。
〔724〜721年〕アッシリア王シャルマナサル5世は、ゼキヤ王の治世第四年、イスラエルの王ホシェアの治世第七年に、サマリアに攻め上って来て、これを包囲しました。この時に北王国の王ホシェアはアッシリアに服従して貢ぎ物を納めましたが、その後、ホシェア王はエジプトと組んでアッシリアに反抗したために、再度の侵攻を受けて、首都サマリアは3年ほど包囲されました。ところが、アッシリアで反逆が生じて、シャルマナサル5世は殺され、代わってサルゴン2世が即位(721〜705年)しました。北王国イスラエルは、彼によって完全に滅ぼされました(列王記下17章3〜7節)〔721年〕
 
 ホセアは、この頃に北イスラエル王国に現われた預言者です。彼の預言活動は、前755年頃からで、ホセア書は、この頃からサマリアが陥落する頃まで(前721年)の間の預言を編集したものです〔ホセア1章1節によれば、彼の預言活動は、南ユダ王国のウジヤ王からヒゼキア王までになりますが、これは疑問です〕。
 上にあげたホセア書からの引用は、シリア・エフライム戦争の結果、アッシリアによって征服された北王国が、首都サマリアのみを残して、民が捕らわれてアッシリアに連行された出来事を背景にしています。ここは、絶滅の危機に瀕した民が、自分たちの罪を悔いてヤハウェに救いを求めるところで、いわゆる「改悛の歌」と呼ばれています。北王国の民が、再びヤハウェに立ち帰ることで、ヤハウェによって再び「立ち上がる」ことができるように祈り求めているからです。だからこれは民の再興/復興を願う「祈祷の歌」とも言えましょう。
 ただし、この箇所の解釈については諸説があります。ひとつには、6章1〜3節が、続く4〜6節と対応する形で構成されていることです。4〜6節は、1〜3節の民の悔い改めとヤハウェへの祈りをヤハウェが退けているようにも受け取ることができます。だから、1〜3節の悔い改めの祈りは、偽りであって、神はこの祈りを拒否しているとも解釈できます〔岩波訳「ホセア書」注記22頁〕〔鈴木「ホセア書」68頁〕〔ヴァイザー「ホセア」95〜96頁〕。
 この解釈に対して、ここには民の真正な想いが表われていて、この祈り自体は決して「偽り」の悔い改めを揶揄しているのではないという見方もできます。七十人訳は、6章1節の初めに「彼らは苦しみのあまり朝早くから言う」という補足をつけていますから、七十人訳の訳者は、民の呼び求めが決して「いい加減な偽り」ではないと解釈しているのでしょう。ただし、この祈りだけではまだ十分な悔い改めとは言えないことが、続く4〜6節で悲しみをこめて歌われているのです。だから、1〜6節は、民の祈りが無意味な偽りではなく、またホセアは、この祈りを揶揄(やゆ)しているのでもありません。4〜6節は、ヤハウェの罰が民の真剣な応答を求めるためのものであることを伝えているのです。ほんらい1〜3節は、別個に独立した歌で、改悛を祭儀的に表わすものであり、これが4〜6節と組み合わされることで、4〜6節のヤハウェの言葉が、裁きの厳しさを表わし、同時に、その慈愛の深さが裏に秘められていることをも悟らせようとするものです。北イスラエル王国では、アッシリアによる危機に際して、このような改悛の歌が歌われていた形跡があります。ただしそこには「ヤハウェに頼りさえすれば何とかしてくれる」〔Mays 95〕という甘さがあるのも見逃せません。
 この文脈の中で、ホセア6章1〜3節を改めて読み直すと、「二日の後」と「三日目に」を辞義通りに受け取ることはできませんが、「ある一定期間」の後には、ヤハウェは民を忘れることなく、憐れみをもって再び訪れてくださるという確信を読み取ることができます(ホセア3章4〜5節参照)。2節の「生かし/活かし」〔能動強意態〕と「立ち上がらせる」〔能動使役態〕は、<死の状態から生き返る>ことです。ただしその意味は、2章1〜2節にあるとおり、「ロ・アンミ」(わが民でない者たち)が、「生ける神の子」とされて「その地から上ってくる」ことです。2章2節に「一人の頭を立てて」とあるのは、ヤハウェの心にかなう「王」が与えられて、民が新たな時代に再び「回復される」ことを指しており、「その地から上ってくる」は、追放と捕囚の地から再び生還することによって「死の地から生き返る」ことです。
 このように見ると、6章1〜3節は、エゼキエル書37章12〜14節に通じるところがあります。ただここで語られている状況からは、2節の「立ち上がる」に「復活/生き返り」の思想を読み取るのは、時期的に早いと思われます(ここに「死からの復活」を読み取ることを否定する根拠がないという説もありますが〔Stuart, chap.6:v. 2.〕)。したがって、ホセア書のこの箇所が、新約聖書におけるイエスの復活預言にあたるかどうか、またパウロの言う「聖書によれば」(第一コリント15章4節/ルカ24章7節参照)に相当するかどうか、この点は確かでありません。
 1節には「主のもとに帰ろう」という呼びかけが来ていて、3節には「主を知ることを追い求めよう」とあります。この二つの呼びかけはつながっていて、「帰ろう」は、主のもとへ「帰る」ことが可能であることを、「知ることを追い求めよう」は、主を知ることができることを意味していて、どちらも主との契約を受け入れることで初めて可能になるのです。なおここは申命記4章29節を踏まえており、3節の「雨」と「春雨」には申命記32章2節が反映しています。
 このように、2節の「立ち上がる」は、隠喩的に「死から生き返る」ことを表わしますが、実はここには、カナン神話の死と再生の植物~タンムズの祭儀が背景にあるのではないかと指摘されています〔Mays95〕〔ヴァイザー95頁〕。この神話はシュメールや古代バビロニにさかのぼるもので、タンムズ(男~)とアシタロテ(女神)とが対になって登場します。アシタロテは古代シュメール時代の女神イシュタルから出ていて、タンムズとアシタロテは、カナンの豊穣神話を代表するものです(エゼキエル8章14節)。タンムズは、ギリシアでは美少年アドーニスになって、アプロディーテー(ローマ神話のウェヌス)と対になります。ギリシア神話のアドーニスは美少年で、アプロディーテーの寵愛を受けていましたが、ある日、野原で野猪によって、その牙で殺され、ハーデース(黄泉)へ降ります。嘆き悲しむアプロディーテーは、黄泉へ降り、ハーデースと交渉して、アドーニスが1年の3分の1を黄泉で過ごし、3分の2は地上へ出てくるようになったと言われています。
 アドーニスは太陽を現わし、アプロディーテーは生殖と豊穣を現わすと見ることができます。冬の間姿を見せなかった太陽が、春になると姿を現わすので、死と再生の象徴とされたのです。以後この神話は、ヨーロッパへ受け継がれていくことになります。このようにタンムズ=アドーニス神話は、植物の死と再生を象徴する祭儀としてオリエントからギリシアにかけて祀られていました。シリアでは、タンムズが「三日の後によみがえる」とされていたようです〔ヴァイザー95頁〕。
 この神話を下敷きにしてホセア6章2節を見るなら、ここでの「立ち上がる」には、季節の巡りと共に訪れる春の再生への期待がこめられていることになります。したがって、これは自然のサイクルによって働く死と再生を意味することになりましょう。死と再生が、自然と宇宙に働く必然の法則によって生じるという考え方は、ひろく人類に共通するもので、自然や宇宙の原理に基づくこの再生思想は、宗教的な形態を採ると、例えば、魂の輪廻や魂の永遠性へと発展することになります。
 ホセア6章1〜3節で歌われる改悛の歌が、このようなカナン神話に影響されているとすれば、そこには自然法則に従って必ず訪れる再生が期待されることになりますから、彼らの「悔い改め」と主への再生/復興への期待にも「甘さ」が生じるのは避けられないでしょう。だとすれば、おそらくこのような「甘え」が、4〜6節のヤハウェの罰の厳しさを引き起こしていると見ることができます。ここで要求されている「悔い改め」は、自然法則に依存する確かさではなく、民の死滅という歴史的な現実の厳しさの中から求められるべきであり、契約の神ヤハウェの罰の裏に潜むイスラエルへの慈愛のみが、命と再起への望みとなるという信仰が要求されているからです。
 ここでの改悛と再起への願いが、個人ではなく民全体にかかわるものであることにも留意しなければなりません。「生かす」と「立ち上がらせる」は、「主」を主語にしていて、主が民への壊滅的な打撃に「介入する」ことで、かろうじて滅びを免れることができるのです。これが、辞義通りの身体的な「死」を意味しないのであれば、ここで言う「生き返り」は、民全体が「復興/回復する」「生き延びる」ことを指しています。このような祈りへのヤハウェの応答が、肯定と否定との両方の意味をこめて歌われているのでしょう〔TDOT(12)601〜602〕。このように、捕囚以前と捕囚期の文学においては、「死と復活」にかかわる用語は、ヤハウェがイスラエルを再び回復させることを表わしています〔Nickelsburg (6)31〕。
 以上、ホセア書6章1〜6節の「生き返り」思想をまとめると、およそ以下のようになります。
(1)ここで言う「生き返り/回復」は、辞義どおりに身体の死から「生き返る」こと、すなわち「復活する」ことではなく、精神的な比喩(隠喩)性を帯びています。これは、精神的な生命力による蘇生としての「よみがえり」です。ただし、そこには、身体的な存在をも含めて、命そのものがヤハウェから来るものであり、主なる神から見捨てられることは、身体的な存在それ自体をも失うことになるという危機意識が働いています。
(2)ここでは、「滅び」も「回復」も、個人について言われているのではなく、イスラエルの民全体のこととしてとらえられています。
(3)ヤハウェは、自分の民でありながら、彼らの罪を厳しく問い詰めています。これは、ヤハウェとの契約を破ったイスラエルの罪が、辞義通りの絶滅をもたらしかねない致命的な意味を持つことを悟らせるためです。主である神に対する「罪」と「絶滅/死」との結びつきと、これがもたらす断罪は、ヤハウェの「裁き」がもたらしたものです。したがって、「回復/生き返り」が、罪と裁きの厳しさを自覚する悔い改めを条件としていることが、ここでの特徴です。
(4)ここの民の祈りの背景には、シリアのタンムズ神への祭儀の影響を読み取ることができます。ただし、瀕死の状態に陥っているイスラエルの民を主が何とかしてくださるという甘い期待に神は応えることをせず、「改悛」だけが要求されています。この厳しさは、民の罪に対するヤハウェの罰から来るもので、それだけに、「回復」が、自然の再生の類比として働く必然性を持たないことを意味します。この点で、ここでのイスラエルの祈りが、周辺の諸民族の祭儀的な再生への期待とは異なることを知る必要があります。
(5)したがって、民の蘇生/生き返りは、真剣な改悛に応えるヤハウェからの「裁きに代わる慈愛」に全く依存することになります。しかもヤハウェからの赦しに依存する回復においては、民の側の祭儀的な営みはほとんどその意味を失うのです。
(6)このために、民が採るべき道は、祭儀的な「悔い改め」ではなく、さらに深くヤハウェを「知る」ことの重要性であり、ヤハウェとの「交わり」を深めることの大切さです。
■エゼキエル書36〜37章
 次にエゼキエル書の「立ち上がる」を考察したいと思います。ホセア書の預言が、イスラエルの捕囚期以前の紀元前8世紀のものであるのに対して、エゼキエル書の預言は捕囚期の前7世紀になります。エゼキエル書37章の背景となる歴史的な出来事を概観します。
 紀元前605年に、バビロンの王ネブカドネツァルは、南ユダ王国の遙か北方にある北シリアのカルケミシュで、エジプト王ネコの軍勢を破り、このために、それまでエジプトの支配下にあった南ユダ王国は、今度は新バビロニア帝国の支配下に入ることになりました。
 しかし、ユダの王ヨヤキムは、バビロニアの支配に逆らって朝貢を中止したために、エルサレムはネブカドネツァルの軍に包囲されることになります。ところがその最中に、ヨヤキム王が急死したので、その息子ヨヤキンが即位します。しかし、エルサレムは、バビロニアによって攻略され、ヨヤキン王と上層階級の人たちはバビロニアに捕囚として連行されました。これが第1回バビロン捕囚です(前597年)。その後、南ユダ王国は、ゼデキヤ王の時代に、エジプトに援助を求めて再びバビロニアに反抗を企てます。預言者エレミヤとエゼキエルが、イスラエルの反抗に反対したのはこの時です。しかし、エレミヤの警告にもかかわらず、ゼデキヤは貢を止めて反抗の意思を変えなかったために、エルサレムはバビロニア軍によって滅ぼされ、民は捕囚としてバビロンへ連行されることになったのです(前587年)。
 エゼキエルの預言活動は、紀元前593〜571年にわたっています。だから、彼の活動は第1回バビロン捕囚の4年後頃に始まり、第2回目のバビロン捕囚の17年ほど後まで、約22年間にわたって続いたことになります。
 エゼキエル書全体を二つに大別してみると、1〜24章は、前593〜586年にかかわるもので、ここは主として597年にネブカドネツァル王によって連行されたユダ王国の上層階級に宛てられています。エゼキエルはこの人たちに、やがてエルサレムは滅亡するという厳しい預言を告げます。後半33〜48章は、エルサレム滅亡以後に連行された民に向けられていて、契約の民への裁きと救いを伝えています。33〜38章は一つのまとまりを成しています。33章21節に「(ヨヤキン王の)捕囚の第12年10月5日に」とありますから、ここでの預言は前575年頃のことになりましょう。
 特に36〜37章で預言者は、捕囚の民に向かって、イスラエルが必ず「回復される」というヤハウェの言葉を告げています。この部分にも後代の加筆や編集が行なわれていますが、36章17〜23節などは、真正のエゼキエルの預言だと考えられます。わたしたちは、「立ち上がり」「回復」が意味することを読み取ろうとしているのですから、テキストの編集過程よりも、そこで語られている内容に集中して読むことにします。
 「お前たち、イスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻ってくるのは間近である」(36章8節)では、イスラエルの民の回復が、イスラエルの「国土」と深く結びついて語られます。続く9節に、「わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる」とあって、民それ自体が「国土」の隠喩で語られているのに注意してください。イスラエルの民は、すなわちイスラエルの国土であり、イスラエルの国土はイスラエルの民にほかならないのです。逆に捕囚の地バビロンは「人間を食らう地」(民数記13章32節)、すなわち「死をもたらす地」です。
 36章には三つの大切な定型語句が出てきます。一つ目が36章20〜21節のヤハウェの「聖なる名」です。これが「汚される」ことは、ヤハウェ自身が汚されることであり、したがってヤハウェは、イスラエルによって汚された「わたしの聖なる名」をそのままにしてはおかないのです。イスラエルの民に要求されることは、主の名を「清く」することです。民の「汚れ」はその「死」を意味しますから、「清め」は、祭司としてのエゼキエルにとって特に大事な意味を持っていたのでしょう。
 二つ目は、「わたしが彼らの目の前でお前たちを通して聖なるものとされる時、諸国民はわたしが主であることを知るようになる」(36章23節)とあるように「神認識」の定型語句です。ここでは、イスラエルの民だけでなく、「諸国の民が主を知る」と預言されています(エゼキエル5章13節をも参照)。先のホセア書では、イスラエルの民が「主を知る」ように求められていましたが、ここでは、諸国の民がイスラエルを通して「主の名を知る」ことが求められるのです。諸国の民への祝福と呪いもまた「主を知る」ことにかかっているからです(創世記12章2〜3節参照)。注意したいのは、「その時人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった』と言う」(36章35節)とあることです。エゼキエルはここで、主がイスラエルに対して行なおうとしていることを「エデンの園」の回復に相当する新しい創造として告げているのです。彼は、アブラハムよりもさらにさかのぼって、人類全体の創造と堕罪までをもその視野に入れているのが分かります(28章13〜15節)。この視野は、続く37章で大事な意味を帯びてきます。
  三つ目は、「お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる」(エゼキエル36章28節)とある「契約」の定型語句です(11章20節を参照)。民が契約に背いたために裁きと罰が降り、民が契約を守ることによって主の民とされます。だからヤハウェは、民に「新しい霊を授け」「石の心に代えて肉の心を与える」(36章19節)と約束するのです。この約束は、神と民との契約関係において、きわめて大事な意味を持つものです。
 エゼキエル書36〜37章の預言は、おそらく、エルサレムの滅亡(前587年)を知った時に与えられたものでしょう。彼はここで、昔のイスラエルの預言者のように「霊に動かされ」霊に「運ばれて」語っています(列王記下2章16節を参照)。イスラエルには丘陵地帯が多いために、丘と丘との間に平地があり、その中の一つの平地全体を枯れた骨が覆っていたのです。「骨」は人間の霊の宿るところとされていましたが(創世記2章23〜24節)、ここでは「枯れている」ために霊が完全に失われている状態を表わしています。
 37章4節では、「枯れた骨」に向かって、「主の言葉」が語られるのを聞けと命令されます。「骨」は「力」の意味をも含みますが、「力が枯れる」は必ずしも「死」を意味しません。しかし、ヘブライの思想では、「死」と「生」との境界は必ずしも明確ではありません。「死」とは「命が弱まる」ことで、生きる力が失われていくことによって「死の境界」に近づくことだからです。「死」は「命がなくなっていく」過程をも含んでいます。預言者の言葉は主の言葉ですから、主の言葉を「聞く」とあるのは、主の言葉が語られたとおりに「生起する」ことにほかなりません。
 37章5節では、「これらの骨に向かって主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生きる」とあります。「霊」は「息」をも「風」をも指しますが、ここで主の言葉による「不思議」が生起することが預言されます。37章5〜6節を通して「生き返る」が2度繰り返されていて、その出来事が2つの段階を経ることを示唆しています。ここでの生き返りは、集合的にも見えますが、一人一人の人格的な存在も軽視されてはいません(詩編139篇13〜16節/ヨブ記10章9〜12節)〔Allen, chap.37,vv.4-6.〕。6節に「主であることを知る」とあるのは、語る者が創造主であることが、その言葉とこれに伴う出来事において証明されることです。
 37章7〜8節では、預言者が語ると骨が組み合わされて骨格をつくり、筋と肉がこれを包んで人間の「かたち」ができてきます。しかし「彼らに霊はない」のです。「霊」はここでは「息」と読むほうがいいでしょう(ここでの「霊」は、七十人訳では「命の息/霊」となっています)。次に再び語ると「霊が四方から吹いてきて」人の姿形に宿り、生き返ります。これは明らかに創世記2章7節を反映していますから、ここで「新しい創造」が始まるのです。しかしこの創造は、初めての創造ではありません。37章12節にあるように、これに先立って民全体の「死」の現実があり、主は彼らの「墓を開く」ことによって生き返らせるからです。
 創世記2章7節で語られる人の創造は二段階で、「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた」となっています。注意したいのは、人は、その「姿形」と、そこに神から来る「霊/息」とによって命が与えられることで、人間の「姿形」(すがたかたち)とこれを活かす「霊」とが区別されていることです。これは、復活を考える場合にとても重要だと思われます。
 37章9節では、預言は「霊/風」に向けられます。「主の風/霊が四方から吹いてくる」には、創世記2章7節だけでなく、創世記1章2節の「神の霊/風が深淵の上を吹いていた」が反映されていて、主なる神の「創造」の働きが示唆されています。なお、この創造の働きは、神の「知恵」から出ているという見方もあります(詩編104篇24〜30節)。
 
わたしは強く迫られるままに預言するように促された。
すると霊が彼らの内に働きかけた。
すると彼らは生きた。
そして彼らは足で起き上がって
大いなる勢力へとぐんぐん力を増した。
        (エゼキエル37章10節)
 10節では、エゼキエルが主に命じられるとおりに、霊に向かって預言すると、「霊は彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」とあります。ここで用いられている「預言した」は、4節と9節の「預言せよ」〔普通再帰/受動態(ニフアル態)〕とは異なって、より強い言い方です〔再帰態(ヒトパエル態)〕。よほど強い迫りが預言者に働いたのでしょう。「(霊が)働きかけた」は、「浸透した」「入り込んだ」ことです("the Spirit came into them.")。「彼らは生きた」とありますから、ここで、37章5節の「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生きる」が成就します。また「足で起き上がった」は、9節の「これらの(刺し)殺された者」と対応していますから、「殺される/死ぬ」と「立ち上がる」こととが、はっきり対照されているのが分かります。「立ち上がる」は「生き返る」ことで、しかもそれが「ぐんぐん大きな勢力になった」のです。「刺し殺される」とあることから、谷は戦場を表わしており、枯れた骨は、そこで殺された人たちのことだと思われます。このため、「勢力」は、「軍隊」あるいは「集団」〔新共同訳〕などと訳されていますが、原語は必ずしもそのように特定するものではなく、ぐんぐんと強くなる「力」を意味します。人間の力では到底不可能なこと、神による驚くべき奇跡が起こったことが語られているのです。
 なお、ここの「足で立った」には、動詞「アマド」〔普通能動態〕が用いられていますが、「アマド」には「立つ」「起立する」「立ったままで仕える」などの意味があります。エゼキエル書の場合は必ずしも「クゥム」ではありませんが、「立つ/立ち上がる」ことにおいて同じ意味です。ちなみに、エゼキエル書では、2章1〜2節に、主の栄光を帯びた姿の者が彼に「自分の足で立つ」ように命じると、「霊がわたしを自分の足で立たせた」〔能動使役態〕とあり、また3章24節にも、霊が彼をして「自分の足で立たせた」がでてきます。
 
主はわたしに言われた。
「人の子よ。これらの骨たち、
これらは、すなわちイスラエルの全家である。
見よ。このように言う者たちを。
『われわれは枯れた骨だ。
我々の命の糸は切れた。
われわれは断ち切られた』と。」
     (エゼキエル37章11節)
 11節に「我々は滅びる」〔新共同訳〕とあるのは、命の主から「切り離されてしまった」ことです〔原語は「ガザル」(切り離す/断ち切る)の受動強意態(プアル態)完了形〕。これはまさに死そのものを指す言い方です。ここでは、1〜2節にあった「甚だしく枯れた骨の集積」と、8節の「だがそこに霊はなかった」とあるのを受けて、全くの「死に体」状態にあることが確認されます。すでに見てきたとおり、イスラエルの主なる神は「生ける神」であり、神は生命そのものですから、「主を知る」ことは「命に与る」ことにほかなりません。枯れた骨は「命の希望」を失っています。彼らは、生ける神である主から「切り離されて」いるからです(37章11節参照)。「命の糸は切れた」とあるのは、生と死を決する細い糸が切れたことで、生きる最後の希望さえも断ち切られたことです。ここを「糸」ではなく「希望」と読むこともできますが、どちらにせよ、捕囚体験が「死に体」であることがはっきりと確認できます。「我々は切り離された」とあるのは、命を失うことであり、詩編88篇6節の「彼らは御手から切り離されています」と同じで、「滅び」(朽ち果てること)にわたされることなのです。ヘブライの思想では、神が命そのものですから、この神から「離れる」状態が、それだけで、死に「近づく」ことを意味します。したがって、「死」と「生」との境界は、必ずしも明確でありません。命が弱まることが、死の近づきを意味するからです。だから、ここで語られている状態は、イザヤ書53章8節と同じ瀕死状態に陥ることです。「死の淵に沈む」この状態は、「希望の糸も切れて」敵の手にわたされることで、11節全体が、命と死との境界をさまようヘブライの死生観を見事に言い表わしています。ここでは、捕囚体験からさらに一歩を進めて、「死」それ自体が示唆されていると見ることができましょう。なお、ここで「イスラエルの全家」とあるのは、南ユダ王国の民だけでなく、北イスラエル王国の民もまた共に集められて一つの主の民となることです。
 
[12]「しっかりと預言せよ。」
そこでわたしは彼らに向かって預言した。
「主なるヤハウェはこう言われる。
見よ。わたしはお前たちの墓を開く。
[13]わが民よ。わたしがお前たちを、その墓から上がらせる。
お前たちを、イスラエルの地へ来させる。
お前たちは知る。わたしが主であることを。
わが民よ。お前たちの墓を開いて、
その墓から上らせる。」
         (エゼキエル37章12〜13節)
 12〜13節では、主なる神からの応答が救いとして顕われます。これは4〜5節の成就です。捕らわれの地とは死の場であり、イスラエルへ戻ることは「生き返る」ことです。ただし「ヤハウェの霊」がでてきますから、「生き返る」とある隠喩が、単なる帰還を意味するだけではなく、「生きること」それ自体を指すことへ移行しています。主が命を創造する方であるという信仰がはっきりと言い表わされているのです。
 ヤハウェが「墓を開く」も隠喩的な意味で、文字通りに民が死者の「墓から出てくる」ことではありません。しかし引喩は直喩とは異なる現実を言い表わすものですから、精神的だけではなく身体的にも「死」が現実のこととして民に迫っていることを指しています。なお「(墓から彼らを)引き上げる」とある動詞「アラー」〔能動使役態〕は、出エジプトにおいて、民を奴隷の地から「上らせる」場合にも用いられています(出エジプト記20章1節)。「墓の中の死体」と「戦場の死骸」のイメージが合わないという見方もありますが、ここが、「死」を現わしていることを思えば、この重なりは不自然でありません。また「連れて行く」にも出エジプトのイメージが背景にありますが、本質的には、ヤハウェとの交わりこそが生死を分ける、とあることが重要なのです。この状態からの「救い」こそ神の目的であり、贖いこそが神の啓示であることが示唆されているのです。この12〜13節は、後のヨブ記14章11〜14節の状態とこれに対する同書19章25節の主からの応答に影響を与えています〔Cooke 400〕。
 ただ、わたしは、この37章のエゼキエルの預言には、創世記9章1〜17節のノア契約が反映していると見ています。なぜなら、ここでのエゼキエル書の「霊」は、はるか古代からのイスラエルの「霊」を受け継いでいて、神がその意のままに常に新たに創造し続けることによって、生起する世界に命を与えているからです〔Eichrodt 508〜509〕。預言者は、創造の初めに戻り、死の捕囚から聖地への帰還を民の「復活」ととらえて、これを「新たな創造」として語るのです〔Nickelsburg (6) 121〕。ノアの洪水が人類の死を現わし、洪水の後で主は再び新たな創造を行なったのと同様です(創世記9章1〜17節)。新しい契約(創世記9章15〜16節→エゼキエル書37章26節)。自然の恵み(創世記8章22節→エゼキエル書36章29〜30節)。人への祝福(創世記9章7節→エゼキエル書36章37節)。新しい戒め(創世記9章5〜6節→エゼキエル書36章25〜27節)。これらは、ここで語られている南北イスラエルの民が、洪水の「死の水」をくぐり抜けてよみがえっただけでなく、主なる神の新たな創造を体験したことを証ししています。
 全人類の復活思想は、この段階でまだ表われていません。しかし、ここでのエゼキエルの預言は、人の心に強く働きかけて、やがてイザヤ書26章19節やダニエル書12章2〜3節に表われる信仰へと導くものです。ただし、イザヤ書やダニエル書の段階でも、生き返りはまだイスラエルの民に限定されています。しかもその復活は、この世において生じる生き返りであり、来るべき未来の世界のことではありません〔Cooke397〕〔Eichrodt507〕。
 以上エゼキエル書36〜37章で語られている「回復/生き返り」を次のようにまとめることができましょう。
(1)まず人間である預言者を通じて主なる神の言葉が働き、これによって生じる「回復」が「生き返り」として言い表わされていることです。したがってこれは、人の言葉現象ではなく、「神の言葉現象」とでも言うべき出来事です。
(2)神の「言葉現象」である限り、それは、自然の法則が生じさせる現象として理解されるべきではなく、したがって、生じる出来事も自然の生命の再生ではなく、神への信仰に基づいて初めて認識可能な現象であり、しかもそれが「ことば」によって生じていることは、神の導きに基づく歴史的な目的/意図を伴うこと、言い換えると、そこにはある明確な価値観が含まれていることを意味します。
(3)ここで語られる「回復/生き返り」は、隠喩的な表象(枯れた骨)でありながら、「死」そのものを含む表現に近づいています。ただが、それはまだ身体的な「死」からの地上への復活とは言えません。
(4)ホセア書の場合と同様に、ここでも民族的な共同体として、集合的な「回復/生き返り」が語られています。ただし、共同体の個人個人に注目する視点も排除されてはいません。
(5)ホセアの場合と同様に、「死」に近い「瀕死状態」が、自然現象によって引き起こされたものではなく、戦争あるいは捕囚という歴史的な要因によって生じた出来事であることです。
(6)「回復/生き返り」が、神の「言葉」によるだけでなく、これに対応する「霊」の働きによって生起していることにも注意しなければなりません。
(7)ここでは、人間の「姿形」の回復と、その「かたち」へ「霊が吹き込まれる」という二段階を経て、「回復/生き返り」が行なわれています。
(8)創世記の人の創造とノア契約を伴う再創造と出エジプトの歴史的救いとが重ね合わされていて、神と民との契約による「新しい創造」の働きを読み取ることができます。このことは、「回復/生き返り」が過去の状態への単なる復帰ではなく、未来へ向かう創造的な「いのち」の現われであることを示唆することになります。
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