24章 イザヤ書の復活思想
■イザヤ黙示録
いわゆる「黙示文書」には分類されていなくても、黙示的な語りの形態はすでにイザヤ書などにも見ることができます。イザヤ24〜27章は預言として分類することもできますが、この部分は初期の黙示的性格を帯びている点が注目されています。このためここは「イザヤ黙示録」と呼ばれます〔中澤訳註88頁〕〔Kaiser 173〕。
ただし、ここが「黙示的」であるというその理由から、これを前2世紀以降のマカバイ記の時期、あるいはそれよりも後の作だと見る説もあります。しかし、イザヤ書の預言は、全体を通じて捕囚以前から捕囚期と捕囚以後にわたる期間に起こった出来事に対応していて、それらの預言は出来事が起こった時代順に配列されており、しかも預言的なヴィジョンが劇的な構成をとっています〔Watts, "The Twelve Acts of the Vision of Isaiah." 〕。したがって、黙示的であるという理由で成立の時期を遅く見る必要はありません。
この書は捕囚期以後の混乱した時代のイスラエルの人たちに向けて編集されたと考えられますから、これの成立は遅くとも前450〜430年頃と見ることができます〔Watts, "The Book's First Audience."〕。この時期は、旧約聖書の預言者たちの時代が終焉を迎えて、旧新約中間期が始まるちょうどその境界にあたります。したがってイザヤ黙示録(24〜27章)は、全体の構成から見ると第一イザヤに属するものの、これが語られたのは捕囚期の最末期にあたる前560〜550年頃と見ることができましょう〔木田献一「イザヤ書」302頁〕。だからイザヤ黙示録は、預言書の後期の時代に属すると同時に、『第一エノク書』やダニエル書などの先駆けともなる最初期の黙示文学だと言えます。
さらに見逃すことができないのは、ここで語られている「裁き」が、先に堕天使伝承において見たように、創世記のノアの洪水伝承を背景にしていることです。ここは、人類がその暴虐にゆえに「全地」が裁かれて、その結果、神が新しい世界を創造するという「ノア伝承」(前8〜5世紀頃に成立)を継承しているのです。このことは、この黙示録でしばしば問題にされる破壊され滅ぼされる「町/市」の解釈にも影響してきます。これらの町々がどこを指すのかが謎とされていますが、「町」とは人間の政治・社会を含む文明それ自体を表象するものです。ここにも、先のエノク伝承において見たように武器と装飾具に象徴される都市文明の奢りが神によって滅ぼされる有様が預言されています。
おそらくイザヤ黙示録は、捕囚期直後に、新しいイスラエルの権力機構から排除された人あるいはグループによって書かれたのでしょう。それゆえこの黙示録は、捕囚後まもなく成立したと考えられ、やがてこれが第三イザヤ書(56〜66章)に表われる黙示思想(65章17〜20節)へつながるのです。ただしここでは、後の『第一エノク書』やダニエル書とは異なって、終末においても人間は「死ぬ」ことも個人の不滅性も語られていません。
■イザヤ22〜24章
イザヤの黙示録は、捕囚の苦難にあるイスラエルの民に向けて、(1)エルサレム陥落の理由を民に反省させ、(2)バビロンの滅亡を預言し、(3)イスラエルの復興の可能性を預言しています。この部分がたとえ挿入だとしても、その前後と緊密に関連していますから、これをその前後関係から切り離すことができません。
24章以下は22章1節に始まる「幻の谷」のヴィジョンを受けています。22章では、無能な指導者(将校たち)のために戦うこともできずに捕らえられたイスラエルの民の惨めな姿が預言されています(1〜5節)。ところが民は、このような危機が迫っているのに「食らえ飲め、明日は死ぬ」と享楽にふける有様です(22章13節)。このような民に向かって主は「お前たちが死ぬまでこの罪は決して消えることがない」と告げます(22章14節)。
23章では豊かな異邦の都ティルスに向けて審判が告げられます。ティルスの民はエジプトとの交易によって富み栄えていますが、アッシリアの脅威が彼らに迫っていることをまだ悟らないのです。
24章からは黙示の部分で、全世界を覆う審判が告げられます。大地は衰え世界は荒廃しています。地に住む者たちが主の律法を破り永遠の契約を棄てたからです。このため地は、そこに住む者たちにとってもはや祝福ではなく「呪い」に変じているのです。生き残る者はわずかです(24章4〜6節)。人々が「食らえ飲め、明日は死ぬ」と享楽にふけるその一方で暴虐が地に満ちています(25章3〜5節)。ここでは「暴虐」が3度も繰り返されていますが、ヘブライ語の「暴虐」(アリツィーム)とは恐ろしい恐怖権力が猛威を振るうことです。暴虐が流血を呼ぶ状態が続いていて、その有様はまさにノアの洪水前の状態です(創世記6章5〜7節)。先のヴィジョンが示すように、地は荒廃と滅びにわたされ、地とそこに住む者たちに死の呪いが臨みます。流血と反逆がこのような呪いをもたらしたのです。ここには明らかにノアの洪水が反映されています〔Watts, chap.25:v.9〕。
■イザヤ25章7〜8節
次いでヴィジョンが一変します。ヤハウェが王座に就くのです(イザヤ25章6〜10節)。イスラエルのシオンの山(ヤハウェの神殿)で祝宴が開かれ、世界中の民がそこに集います。イザヤ書2章2節で預言されていたことがここで成就するのです。新たに即位した王が全世界に向かって大いなる業を行なうことは古代オリエント世界の習わしですから、ヤハウェもその即位に際して大いなる業を顕わして、「死を永久に滅ぼし」、「すべての顔から涙をぬぐってくださる」のです(25章8節)。
[7]主はこの山で飲み込む、
すべての国を覆う死の顔覆いを
すべての民にかけられる死のかけ布を。
[8] 彼は飲み込んでしまう、
何時までも続く死を。
わが主ヤハウェはぬぐい去る、
すべての顔の涙を。
(イザヤ書25章7〜8節)
And he will destroy on this mountain
the shroud that is cast over all peoples,
the sheet that is spread over all nations;
he will swallow up death forever.
Then the Lord God will wipe away the tears
from all faces,
〔NRSV〕
7節後半で「すべての民にかけられる死のかけ布を」と訳した「かけ布」は「棺の上にかける覆い布」のことです "the pall thrown over all nations"〔REB〕。ここを喪に服す時にかぶるヴェールのことだと解釈する説もあります。「ヴェール」か「かける覆い布」か? これは「彼は飲み込んでしまう、何時までも続く死を」の解釈と関連します。8節前半の2行が後からの挿入ではないかと思われるからです。これが挿入だとすれば、その意図は7節で比喩的に「死の顔覆い」「死のかけ布」言われていることが「死」そのものであることをはっきりさせるためでしょう。だからこの挿入部分を取り除くと、8節の「顔の涙をぬぐい去る」は「すべての民にかけられる死のかけ布を」へと続きますから、「かけ布」とは喪に服して顔にかぶるヴェールのことになりましょう。だからここは、ヴェールを上げて顔の涙をぬぐうことだと解釈することができます〔Kaiser199note(c)〕。
8節前半の七十人訳は「死がはびこりすべての人を飲み込んだ。だが主なる神はすべての顔からすべての涙をぬぐった」となっています。「飲み込んだ」を「死は飲み込まれた」と訳している七十人訳の版があります。死が「飲み込まれる」というこの言い方は、後にパウロが用いています(第一コリント15章54節)。「何時までも続く(死)」とあるところを「勝ち誇る(死)」と読む異本もありますが、これもパウロの第一コリント15章55節に反映しているのでしょう。なお「飲み込んでしまう」という訳は、「飲み込む」の能動強意態から来ています。「涙をぬぐう」は、過ぎ去った苦難に対する神からの慰めと苦しみに優る喜びが訪れることです。ただしこれは、死からの生き返りを指すとは言えません。なお「すべての顔から涙をぬぐう」はヨハネ黙示録21章4節に反映されています。
このようにイザヤ25章7〜8節では、
(1)ホセア6章2節と同じく民全体の回復/生き返りが語られていますが、イザヤ書ではこれが全世界の諸民族へ拡大されています。
(2)ここでも「死」は権力者たちによる暴虐と圧政によって生じるものですから、暴虐の犠牲にされた人たちの「死」と民全体を覆う「死」が分かちがたく結びついています。ただしホセア書の場合よりもいっそう現実の身体的な「死」の意味に近づいています。25章7〜8節では過ぎ去った苦難に対する神からの慰めが語られているものの、それが死からの「生き返り」を意味するかどうかは明らかでありません。
(3)すでに見たとおり、このような「死」は自然状態の死のことではありません。ここで語られているのは「人間の罪」によって引き起こされる「歴史的な死」だからです。したがって、「死」に対立する「命」もまた、神と共に生きることなしには保つことができない「命」です。神との交わりから生まれる「命」が身体的な命と結びついているのです。
(4)イザヤ25章のこの部分は、同66章で主が王座に就いて裁きを行ない新天新地が到来する終末の描写へとつながります。66章はヨハネ黙示録20章11節〜21章4節に現われるヴィジョンへつながりますから、これはイザヤ25章7〜8節で語られている「死と命」が、後にイエス・キリストの出来事を語る新約聖書の「命」へ向かう預言となったことを示すものです。
■イザヤ26章19節
イザヤ26章は、捕囚からエルサレムへ帰還する巡礼者たちがヤハウェに向かって歌う賛美で始まります(1〜6節)。賛美は民の祈りに変わり、主ヤハウェへの祈りが語られます(7〜18節)。19節前半でヤハウェの応答が告げられると、19節後半「目覚めよ」以下でヤハウェのお告げを受けた人たちの賛美の歌が来ます。テキストが乱れているので英訳を添えておきます。
「あなたの死者たちは生きる。
わたしの屍(しかばね)は起き上がる。」
「目覚めよ!喜び歌え。塵に伏す者たちよ。
あなたの露こそ光りの露。
あなたはそれを死霊の地に注ぐ。」
(イザヤ書26章19節)
Your dead shall live,
their corpses shall rise.
O dwellers in the dust,
awake and sing for joy!
For your dew is a radiant dew,
and the earth will give birth to those long dead.
〔NRSV〕
But your dead will live,
their bodies will rise again.
Those who sleep in the death,
will awake and shout for joy;
for your dew is the dew of sparkling light,
and the earth will bring those long dead to birth again.
〔REB〕
ここ19節には「わたしの」と「彼らの」とあるように所有代名詞にまぎらわしいところがあり、さらに動詞が命令形/祈願形なのか未完了形なのかも問題にされています。現行のヘブライ語原典では、前半の2行は「あなたの死者たちは生きるであろう。/わたしの屍(単数)は立ち上がるであろう(動詞は複数形)」です。ただし欄外に「屍」の複数形が出ています。
(1)「あなたの死者が命を得、わたしの屍(しかばね)が立ち上がりますように」〔新共同訳〕は、両方をイスラエルの民、あるいは特定の宗団によるヤハウェへの祈りと解釈すれば、「あなたの死者(たち)」の「あなた」はヤハウェを指しますから、全体がヤハウェにあって死んだ者(たち)のことになります。しかしこの場合、「わたしの屍」の「わたし」とは誰のことなのかが分かりにくくなります。ここの動詞を祈願形に解して、「あなたの死者たちが命を得ますように」をイスラエルの民のヤハウェに対する祈りと見て、これに応えてヤハウェが「わたしの屍(単数/複数)は立ち上がる」と約束していると解釈するほうがいいと思います。この場合、「あなたの」も「わたしの」もヤハウェを指しますから、言うまでもなく「あなたの死者」も「わたしの屍」も同じ人たちの死体(複数)のことです。
(2)19節前半の2行全体をヤハウェによるイスラエルの民への約束と見る読み方があります。この場合は、「<あなた>(単数)の死者(たち)は生きる。/<わたしの>屍は立ち上がる」となりますから、「生きる」と「立ち上がる」の動詞は二つとも未完了形の預言になります〔Kaiser 215〕。だからこの2行はヤハウェからの民への約束になります。ヤハウェの約束は「<あなた>の死者(たち)」とイスラエルの民に語りかけ、「わたしの屍」とヤハウェ自身が死者を「自分の者」と呼ぶことになります。現行のヘブライ語原典に従えば主語が「神/主」ですから、「わたしの屍」とは神のために死んだ義人たちの死体のことで、この読み方が大方の支持を得ているようです〔Kaiser215-16〕。「わたしの屍」の「わたしの」は、ここでの死者たちがイスラエルの民に属するだけでなく、同時に「ヤハウェのもの」でもあることが告げられているのです。「彼らの屍(複数)」という読みは、おそらく「わたしの屍(単数)」を客観的に合理化するための後からの読み替えだと思われます〔英訳を参照〕。
「わたしの屍(単数)」(原語は「ネヴェラティ」)という言い方は奇異に響きますが、命の主であるヤハウェが、主のために犠牲となって陰府に降った者(たち)を「わたしの屍/死者」と呼ぶことで、死者(たち)を「自分のもの」だと宣言したことになります。命そのものであるヤハウェに属する「屍」とは「命にある屍」という一種の形容矛盾ですから、すでにこの一句に「生き返り」の思想がこめられているのです。ここでは、命の神との交わりにおいて苦難を生き延びることと、「わたしの屍」とあるように、神との交わりにありながら陰府に降った者たちとが、共に「生けるヤハウェの命」に与るという同じひとつの「命」で結ばれています。「生き残る」ことと「生き返る」こととが、このようにしてひとつになるのです。
(3)ただし「わたしの」を「彼らの」と読む異読もあります。だとすればこれもヤハウェからの民への約束になり、「<あなた>の死者たちは生き、<彼らの>屍(複数)は起き上がる」〔中澤訳〕〔REB〕〔NRSVでは欄外に"my corpse"と単数の読みがでています〕という読みになります。この場合「あなた」はイスラエルの民への呼びかけであり、「彼らの(死体)」とはイスラエル民の中の死者たち(の死体)を指すことになります〔Nickelsburg(6)32〕。
どの読み方を採るにせよ、ここは先の25章7〜8節を受けていて、そこではまだ明確にされなかったこと、すなわち「死からの生き返り」がこの19節ではっきりと告げられるのです。ここの「生き返り」の宣言は、26章14節の「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはない」とあるのに矛盾するという指摘もありますが、そこは、暴虐を行なう「あなた以外の支配者」に向けられた断罪の宣告であって、ここ19節はこのような支配者の犠牲となったイスラエルの民の死者たちへの言葉です。この宣言はきわめて大事な意味を持っています。神の義人たちの「立ち上がり」が、ここで初めて「生き返り/復活」を意味する言葉として出てくるからです。捕囚以後の前5世紀以降の黙示思想は、イザヤ書のここによみがえり/復活の根拠を見出しました。ここでは「死者のよみがえり」が語られている、というのがおおかたの解釈です〔Watts,Chap.26:v.19.〕。
続く「目覚めよ!喜び歌え。塵に伏す者たちよ」は主からの応答に対する民あるいはイザヤ宗団のヤハウェに対する賛美になります。ヤハウェの応答に応えて、民がイスラエルの死者たちに向けて「目覚めよ!喜び歌え。塵に伏す者たちよ」と呼びかけます。「目覚めよ」〔能動使役態命令形〕は、直訳すれば「(彼らを)目覚めさせよ!」です。七十人訳のギリシア語は未来形で「彼らは目覚めるであろう」ですが、どちらも死者たちへの生き返りの預言であることに変わりありません。だから「塵に伏す」とは死んだ状態にあることです "sleep in the death"〔REB〕。ここでは、「塵に伏す者たち」という独特の表現が、死から命へ向かうという通常では考えられない方向を指していることが確認できます〔TDOT(12)602〕。この意味でここはダニエル12章2節と結びついてきます〔Nickelsburg (6)32〕。なお「喜び歌え」は「歓呼せよ」と訳すこともできますが、七十人訳では「賛美する」です。
■19節のよみがえり思想
19〜20節はひとつのまとまりを形成していて、「神の約束としての死者のよみがえりという驚くべき考え方が、その内容に特に合致するという見方を支持する」〔Kaizar 216〕というのが大方の見解です。ニケルズバーグも、ここのテキストの読み方に問題があることを考慮しながらも、ここに「身体的な」よみがえり思想の最初のきざしを認めていて、これを実質的な死者のよみがえりに言及した最初期の例の一つとして注目しています〔Anchor(1)685〕。
ただしここの「生き返り」は神の義人たちに限られるという条件が付きます。したがって、これは特殊なイザヤ宗団内部だけの信仰であり一般化されるものではないという見方もありますが、これに対して25章8節では全般的なよみがえり/生き返りが予期されていて、ここ19節には人類全体のよみがえりが「垣間見られる」という見方もできましょう。
19節の終わりは「あなたの露〔複数〕こそ光りの露。あなたはそれを死霊の地に降らせられます」〔新共同訳〕です。パレスチナでは、ほんらい「露」をカナン神話の雷神が降らせる雨と関連づける見方があり、古代エジプトでは「露」はホルスとトトの涙を意味し死者を生き返らせる力を持つとされていました。しかしここ19節では「光」と結ばれていますから、むしろ天体の輝きと関連づけるほうが正しいでしょう〔Anchor(1)284〜85〕。イスラエルでは「露」も「光」も命の表象として用いられますから、「光の露」は「命の光」のことです。ヤハウェから注がれる命そのものを指す象徴的な言い方でしょう。
「あなたはそれ(露)を死霊の地に降らせる/注ぐ」とあるところは難解です。原文をそのまま直訳すれば、「光の露はあなたの露(あるいは「あなたの露は光の露」)。地は死者たちを落とす(あるいは「死霊の地を落とす」)」です。七十人訳では、19節の後半が「あなたからの露〔単数〕は彼らにとって癒しである。しかし不敬虔な者たちの地は落ちぶれる(滅びる)であろう」となっています。「死霊ども/死者たち」のヘブライ語「ルフェイーム」は「巨人たち」と同音異義語ですから、七十人訳に「不敬虔な者ども」とあるのは、訳者がこの語を「巨人たち」すなわち「暴虐を行なう者ども」の意味に解したためでしょう。また「落ちる/降る」の主語は「地」ですから、「地が落とす/降らせる」と解するほうが、主語と「落ちる/降る」の動詞〔能動使役態未完了形3人称単数〕とが一致します。このために「地は亡霊どもを落とす」"And the land will let fall the ghosts."〔Watts,chap.26,v.19〕という英訳もあります。
19節の結びは、14節の前半「死者たちは生きることがない。死霊どもが立ち上がることがない」とその内容・語句ともに対応しています。ここの「死霊たち」とは死んで陰府に降った亡霊あるいは死霊のことで、彼らは陰府で朽ち果てるのを待っています(イザヤ14章9節/詩編88篇11節を参照)。だから、「死霊の地」とは陰府の地/国のことです。横暴な王たち、暴虐を行なった支配者たち(かつての「巨人たち」も含まれます)は陰府に落とされて再び「立ち上がる」ことがないのです。
しかし19節は14節と対応関係にあるのではなく、むしろ対照的な関係として理解することもできますから、次のように3通りの解釈が可能になります。
(1)19節の結びは14節で言う亡霊たちのことで、彼らはイスラエルの民として「光の露」に与ることができないことを指すと解釈すれば、「地は死者たちを落とす」という意味になります〔七十人訳〕〔Watts訳〕。
(2)しかし、19節は全体が14節と「対照」されていて、亡霊/死霊たちとは死んだイスラエルの民のことだと解釈すると「地は死霊たちに(光の露を)降らせる」となります。この場合「光の露」を「降らせる」の目的語として補う必要があります。だから、大地がイスラエルの死者たちを生き返らせるのです〔NRSV〕〔REB〕。
(3)「地は死霊どもを」とあるのを「死霊の地(陰府の国)」と理解すれば、主語を「主」と理解して、「光の露」を補うことで、「(主が)死霊たちの地に(光の露を)降らせる」〔新共同訳〕と解釈することになります。内容的に「地が露を降らせる」よりも「主が天から露を降らせる」ほうが自然だと考えたのでしょう。
14節との対応にせよ、対照にせよ、19節がイスラエルの回復と蘇生を語っているのは確かです。問題はその「生き返り」が意味していることです。ここをイスラエルの民の帰還と回復のことだと理解して、「死霊のようになった捕囚の民に、主が再び光りの露を与えてくださるよう、民の代表が祈っている」〔木田献一「イザヤ書」302〜06頁〕という解釈はすこぶる合理的で分かりやすい比喩的な解釈です。しかし、先に指摘したようにイザヤ26章19節は、ホセア6章1〜3節やエゼキエル37章10〜14節と通じています。そこでは、死んで陰府に降った世の支配者たちとイスラエルの民とを比較対照させていますから、「あなたの死者は命を得る」とあるのは、単なる比喩以上に現実の死からの身体的な生き返りに近づいていると見ることができます。民は、彼らの圧制者たちが陰府に降ったことだけでは、義人たちの死が報われたとは考えないのです。
この点でさらに注目したいことがあります。それは、ここ19節をイザヤ53章7〜12節へとつなぐ解釈です。19節で復活が祈り求められているのは「わたしの民の背きゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の血から断たれた」(53章8節)人のことです。それは「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(同12節)からです。イザヤ53章7〜12節は「主の苦難の僕(単数)」について語っていることでよく知られています。死にいたるまで主に従うことで犠牲になることは、主の御前にある贖いと癒しの力となって民に働きかけます。だから、文字通りの身体的な復活ではないとしても、「陰府の亡霊」とされた主の僕が主から降る命の露によって再び地上に戻ることが、単なる比喩の範疇を超えて具体的かつ実際的に身体の復活と同じ意味で「霊体として民の間に生き返って戻る」と信じられたとしても不思議ではありません〔Watts, chp.26,"Excursus: Yahweh and Death."〕。
ここで(2)あるいは(3)の解釈をとるならば、「死者のよみがえりの隠喩が実質的なよみがえりの意味を帯びる最初期の例はイザヤ24〜27章であり、特にその26章19節においてである」〔Kaiser215〜20〕という見方ができます。ヤハウェの裁きが、圧制者たちには死の罰をもたらしイスラエルの民には回復をもたらし、その回復の一部にイスラエルの死者たちの復活が含まれるのです〔Nickelsburg (6)31〕。
以下にイザヤ26章19節をまとめると次のようになりましょう。
(1)ここでも、ホセア書と同様に主にある民全体の生命の回復が語られています。
(2)しかしその回復の段階は、ホセア書の場合よりもさらに歴史的な出来事としての身体的な死とそこからの生き返りへ近づいています。
(3)身体的な「死」に近づくとあるのは、〔A〕単なる比喩説、〔B〕イザヤ53章に見る義人による「犠牲と贖いの死」と彼が生き返って霊的に臨在すること、〔C〕特別な宗団内において祈り期待された「義人たち」の身体的な生き返り/復活、などの諸説があります。
(4)ここでの「死」と「生き返り」は、ダニエル12章2節の「死と生き返り」と密接に関係しています。
(5)すでに幾度か指摘したように、ここで語られる死も自然の死ではなくて歴史的な惨事が引き起こした死のことです。それは暴虐によって引き起こされた「時ならぬ死」ですから、このような死は人間の<罪がもたらす死>であり、それゆえにこれに報いる「命」は単なる身体的な生の営みを指すだけではありません。ここでは、「死」と「命」は通常の自然の生命と死のレベルを超えたつながりの中で考えなければならないからです。苛酷な戦場で生き延びること、弾圧や虐殺などの暴虐のもとにあってなお「生き残る」ことは、日常の死、すなわち病気で死ぬとか単に身体的な生命が維持されることとは違った次元の意義を帯びてきます。それは、人間の限界を超えた出来事として「神と共にある」ことによって初めて達成される「命」だからです。このような「命」は、逆に、暴虐の者たちが神と共にある命から「断たれる」ことで被る「死」の罰と均衡します。したがってここで言う「生き返る」は、身体的な蘇生以上の宗教的な意義、「霊的」とでも言うべき価値観と不可分であり、「神の霊によって生かされる命」という認識/信仰がそこに働いていると観なければならないのです。
〔注記〕文中の引用文献は「ヘブライの伝承」の目次末尾の引用文献表をご覧ください。