25章 第二イザヤ書について
■イザヤ書の区分
 イザヤ書は「第一イザヤ」(1〜39章)と「第二イザヤ)」(40〜55章)(Deutero-Isaiah〔DtIsa〕)と「第三イザヤ」(Trito-Isaiah)(56〜66章)に大別されています。しかしこの分け方は必ずしも的確だとは言えません。例えばイザヤ40章は同6章を前提に書かれています。また36〜37章は第一イザヤ書と第二イザヤ書をつなぐ意図で書かれていると見ることもできます〔Klaus Baltzer.Deutero-Isaiah.Hermeneia.Fortress(2001).Introduction.1.〕。ところで「第一イザヤ」、「第二イザヤ」、「第三イザヤ」と言う場合には、それが「文書」を指す場合と預言者それ自身を指す場合とがあります。ここではこの呼び方は預言者を指す場合にのみ用いることにして、文書を指す場合には「第一イザヤ書/第二イザヤ書/第三イザヤ書」のように呼ぶことにします。なお年代は特に断わりがない限り紀元前です。
 第一イザヤ自身のことはイザヤ6章1節〜8章4節/20章/36章〜39章にでています。彼が預言者の召命を受けたのは北王国ユダの王ウジヤ(=アザルヤ)の治世の終わり(739年)で(イザヤ6章)、その後ヨタム(治世739〜34年)、アハズ(治世734〜28年)、ヒゼキヤ(治世728〜699年)の4人の王の治世のほぼ50年にわたって預言活動をしました。ただし続くマナセ王の治世(699〜43年)まで生き延びたかもしれません。
 彼の預言活動の期間に、北王国イスラエルがシリアと組んで南王国ユダを攻撃するシリア=エフライム戦争があり、アッシリアによる北王国イスラエルへの攻撃と北王国の滅亡があり(前721年)、南王国ユダもアッシリアの属領になるなど深刻な出来事が起きました。その後も、アッシリア王サルゴン2世(治世722〜705年)によるアシュドドとエジプトとクシュへの攻撃があり(712年)、南王国のヒゼキヤ王によるアッシリアへの反乱(702年)とこれに伴うアッシリア王センナケリブによるエルサレム包囲があり、ヒゼキヤの降伏(701年)が続きました。第一イザヤ書はイザヤ自身が語ったり書き記したりした預言をその弟子たち(イザヤ宗団)が編集したものです。このような状勢の下での預言活動ですから、第一イザヤの預言は弾劾と裁きの性格を強く帯びています。
 これに対して第二イザヤは、新バビロニア帝国がペルシアのキュロス王によって滅ぼされた頃(539年)に預言活動を開始します。キュロス王は勅令によってユダの民のエルサレム帰還を許可したので(539年)、ユダの民はエルサレムへ帰還できることになりました。第二イザヤはその先頭に立った人物の一人です。彼について個人的なことはその託宣の内容から推定する以外にほとんど分かっていません。第二イザヤ書で特に注目されているのが「主の僕」と呼ばれている人物に関する部分で、これは主として42章1〜9節/49章1〜12節/50章4〜11節/52章13節〜53章12節の4箇所にでてきます。
 第三イザヤはエルサレムの第二神殿が再建された頃(前515年)の預言者です。この頃から大祭司ヨシュアを中心に祭司制度が確立します。しかし第三イザヤ書は、第三イザヤ一人ではなく、彼以後の複数の作者あるいは編集者の手によると考えられます〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)356頁〕。ところが近年、第二イザヤ書と第三イザヤ書のこのような時代区分説が見直されるようになりました。第二イザヤによる新バビロニア時代(40〜55章)と第三イザヤによる帰還以後のパレスチナ時代(56〜66章)という区分けが正しいかどうかに疑問が持たれるようになったからです。イザヤ56章1〜7節や58章13〜14節などの安息日制度を除くなら、40章〜66章には第二イザヤと第三イザヤに共通するイスラエルに向けた語りかけがあり、56〜66章の第三イザヤ書も第二イザヤ書と同一の作者(編集者)によると見なすこともできるからです。したがって、第二イザヤ書と第三イザヤ書という時代区分ではなく、同一の預言者による異なる状況下での託宣がイザヤ宗団によって編集されたという見方が提示されるようになりました〔Joseph Blenkinsopp. Isaiah 56-66. The Anchor Bible. Doubleday (2003).27-28〕。なお、イザヤ書全体の完成は前4世紀末頃という説もありますが〔フランシスコ会訳聖書イザヤ書解説〕、さらに遅く前2世紀とする見方もあります〔中澤訳『イザヤ書』150頁〕。
■第二イザヤと後継者たち
 第二イザヤは、当初キュロス王に救いの希望を抱いて彼を讃える預言を語ります。しかし、ペルシア帝国が各地の民の諸宗教を容認しながらも、マルドゥクが帝国の主~としてキュロスによって礼拝されるようになってからは、第二イザヤは祖国への帰還とその後の祖国の救済を待ち望む預言へ移行します。ただし彼は祖国ユダヤの最終的な独立と完全な解放の救済を見ないまま世を去ったようです。
 第二イザヤ書(40〜55章)の作者は第二イザヤだとされていますが、これの最終的な編集は第二イザヤの後継者たち(イザヤ宗団)です。第二イザヤ書の内容は、キュロス王による解放の勅令以前の預言と(40〜48章)、エルサレムへの帰還の途上及び帰還後の預言(49〜55章)に大別できます。前半と後半を分ける年代は、キュロスの解放令(539年)を境にしていると見ていいでしょう。前半の解釈においてはキュロスに関する部分が問題にされ、後半では「神の僕」が重要な課題になります。また前半の「ヤコブ=イスラエル」伝承と後半の「シオン=エルサレム」伝承とのつながりも問題にされています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.4.〕。彼の預言には、法廷論争/賛美/叱責/嘆き/慰め/救済への約束など様々の様式があり、それらによる分類が行なわれていますが、全体を覆うまとまりを見逃してはなりません。
 第二イザヤの預言とその信仰を受け継いで、これに贖罪の「受難の僕」像を見いだしたのは彼の弟子たちでしょう。彼らは第二イザヤの残した四つの「神の僕の歌」を最終的な形に編集し直しました。第二イザヤ自身の手による「僕の歌」は42章1〜4節/49章1〜6節/50章4〜9節/52章13節〜53章1〜12節の中に見いだされる原型となる部分です。ここにあげた四箇所が先にあげた部分よりも短いのは、残りの部分が後からの編集だと考えられるからです〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)325〜26頁〕。
■オリエントとギリシアの祭儀劇
 イザヤ書に限らず、イスラエルでは預言書の編集は長い間に培われたヘブライ独特の「知恵」に基づく方法論によって行なわれています。イザヤ書を全体としてどのような預言文学の様式で把握するのか? この点ではまだ一致が得られていません。したがってここでは比較的最近(2001年)のバルツァーの説を紹介することにします〔Baltzer.Deutero-Isaiah.7-44.〕。
 彼は、第二イザヤ書がエルサレム神殿において実際に奉納された「祭儀劇」"a liturgical drama" であると見ています。「祭儀劇」と言えば、ヨーロッパの中世でクリスマスに上演されたキリストの降誕劇などを思い出します。これは教会によって祭日を祝うために上演されるもので、降誕劇は市内や地方を巡回する山車(だし)の上で演じられる場合もありました。聖なる祭儀劇の上演は作者と演出家と俳優たちと観衆との間で共有できる決まりに基づかなければなりません。したがって祭儀劇の奉納は祭儀の暦と密接につながっています。だから第二イザヤ書のような祭儀劇は現代的な意味での「劇」ではなく、その演出も上演の仕方も現代とは全く異なる性質のものです。
 第二イザヤ書の祭儀劇の構成は、遠くギルガメシュ叙事詩までさかのぼるバビロニアの新年祭での祭儀の影響を受けていると思われます。それだけでなく第二イザヤ書には、エジプト中王国時代(2040〜1780年頃)の第12王朝期のアメンエムハト1世(1991年即位)の頃に成立した『シヌヘの物語』の影響も見ることができます(イザヤ49章12節「シニムの地」参照)〔Baltzer.Deutero-Isaiah.8-9.〕。古代エジプトの文学を代表するこの物語は、王位継承に絡んで異国に逃れた忠実な廷臣シヌヘが、再びファラオの厚意を受けてエジプトに帰還する物語です〔「シヌヘの物語」『古代オリエント集』筑摩世界文学大系(T)403〜414頁〕。エジプトの祭儀は王の即位劇の形式を採っていて、起こった出来事を語る祭司、演じる俳優、これに応える観衆それぞれに向けた指示書きが含まれています。そこではアメン・ラーやホルスやイシス女神など神話的な祭儀が王の権威を表わす政治的意味を帯びて演じられます。ユダヤは、ペルシア帝国の支配の後にエジプトのギリシア系プトレマイオス王朝の支配下に置かれました。第二イザヤ書と比較的後期のユダヤの祭儀文書とに共通点を見ることができるのはこのためでしょう。時期的には第二イザヤ時代より後期になりますが、ユダヤの祭儀文書の内容それ自体ははるか以前から受け継がれているものです。
 ギリシアの南部に位置しアテネを中心とするアッティカ半島に伝わる劇はギリシア悲劇と喜劇に分かれています。第二イザヤのベルシア帝国時代は、ギリシアとペルシアのペルシア戦争(492〜79年)の時代にあたります。エルサレム神殿の再建が515年でネヘミヤによるエルサレム城壁の再建が445年ですから、これはアイスキュロスの『ペルシア人』が書かれた頃にあたり、そこにもキュロス王が登場します。劇が「序」(プロローグ)と「結尾」(エピローグ)と「幕」と「場」から成り立つという第二イザヤ書の構成はギリシア劇に準じていると考えられます。ギリシア演劇で重要なのは「合唱」(コロス)で、劇の物語(エピソード)は合唱によって区切られ、合唱は演じられる内容を解釈したり、エピソード間の時間的な経過を語ったりします。ギリシア劇には登場人物や照明などに指示を与えるト書きがありません。それらはすべて本文から汲み取るのが決まりです。
 この点で注目されるのは、前3世紀〜1世紀の間に書かれたユダヤの劇『エクサゴゲー』(150年頃)です。これはおそらくエジプトのアレクサンドリアでギリシア語で書かれたものでしょう。劇作家エゼキエルによるモーセの出エジプトを主題にしたドラマで、ミドラシュ的な解釈を含む5幕構成になっています。ただし合唱が含まれているかどうかは確かでありません。この劇はユダヤ人とギリシア人の両方に向けられたものですが、「エクサゴゲー」(兵士たちを率いて出る/船が海へこぎ出す)という題名も第二イザヤ書の内容と通じています。
 第二イザヤ書はアッティカ劇よりも古風で、祭儀劇自体が礼拝の形を採っています。また崇高な悲劇性と日常の喜劇性の区別がなく両方が混在します。主な出演者の数は少なく、2〜3人でしょう。41章からのヤコブ/イスラエル役と48章からのシオン/エルサレム役は同時に登場しませんから、おそらく同じ出演者によって演じられたのでしょう。キュロスとバビロンも共に出ることがありません。以上で分かるように、第二イザヤ書は祝日の祭儀用の台本であったと考えられます〔Baltzer.Deutero-Isaiah.14.〕。
■第二イザヤ書の構成
 バルツァーによれば第二イザヤ書は以下のように構成されています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.viii-xv.〕。ここで「幕」と「場」の間に〔A〕〜〔C〕とあるのは「場」を指すのではなく、〔A〕〜〔C〕はそれぞれ(1)〜(3)の最小単位の「場」に分かれています。また赤字は「僕の歌」(T)〜(W)にあたる箇所です。バルツァーは「僕の歌」を通常の分類よりも広い区分で見ています。第二イザヤ書を祭儀劇の視点から区分するからでしょう。しかし、「僕の歌」の区分では、筆者(私市)はこれに従わず、より広く認められている箇所だけに限定しました。
 
【序詞】40章1〜31節。
〔A〕1〜8節/〔B〕9〜20節/〔C〕21〜31節。
【1幕】41章1節〜42章13節
〔A〕41章1〜13節/〔B〕41章14〜42章13節(T)42章1〜9節
【2幕】42章14節〜44章23節。
〔A〕42章14節〜43章7節/〔B〕43章8〜28節/〔C〕44章1〜23節。
【3幕】44章24節〜45章25節。
〔A〕44章24節〜45章13節/〔B〕45章14〜25節。
【4幕】46章1節〜49章13節。
〔A〕46章1〜13節/〔B〕47章1節〜48章11節/〔C〕48章12〜49章13節。(U)49章1〜12節
【5幕】49章14節〜52章10節。
〔A〕49章14〜21節/〔B〕49章22節〜50章1節/(V)50章4節〜9節/〔C〕51章17節〜52章10節。
【6幕】52章11節〜54章17節
〔A〕52章11〜12節/〔B〕(W)52章13節〜53章12節/〔C〕54章1〜17節。
【結尾】55章1〜13節。
〔A〕55章1〜5節/〔B〕55章6〜13節。
 
 それぞれの「場」は最小単位であり、少なくとも一つの演技(行列など)を含みます。場の長さは不規則で、ほんの一句が続く長い演技を導き出したりします。また「場」には地上の場もあれば天の場もあります。それぞれの「場」の様式も、「法的論争」や「救済預言」や「賛美」など多様です。だから「場」については多様な分類の仕方が可能でしょう。「神の僕」の場は一見すると不規則に配置されています。特に5幕では〔B〕と〔C〕の間に「僕の歌」が挟まり込んでおり、6幕では〔B〕それ自体が「僕の歌」になっています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.15.〕。
■場の七様式
 以下で第二イザヤ書にでてくる「場」の様式を簡略に説明します〔Baltzer.Deutero-Isaiah.15-18.〕。
〔王座の場〕
 王座の場面では古代オリエントに共通する図像が表われます。統治者は王座に座り、壮麗な廷臣たちを従えています。王衣、王冠、王笏や王座のある天幕/宮殿などが描かれます。王権は(1)宮廷人や臣下や民衆からの歓呼"acclamation" と賛美によって、(2)王が語る宣言や勅令によって、(3)王が任命する代理人たちによって示されます。
 第二イザヤ書ではヤハウェが王です。場は天の王座です。王の詔(みことのり)は「慰めよ、慰めよ」です。王が任命するのはヤコブ/イスラエルであり、また神の僕"the Servant of God"です。とりわけ44章24節〜45章25節は、天の王座と地上の王座(キュロス王)、~権と地上の王権の関係を知る上で重要です。天の王権は正義と公正を具えていますが、これに対するパロディとして46章にバビロンがあげられ、その王座が奪われます(47章1〜7節)。
〔法廷の場〕
 法廷の場は公共の「門」の前に設けられます。奴隷以外の自由人は、証人や原告(訴訟人)や弁護人として立つことができます。そこではイスラエル独特の「論争」が行なわれ(40章18〜20節/同25〜26節/同27〜29節/45章9〜13節/46章5〜13節)、結果は「シャローム」(和解/平和)へ導かれます。論争/対話は法的に行なわれその中から「真理/真実」が露(あらわ)になります。第二イザヤ書では、神と神々の天の法廷と地上の人々の法廷が対応します。また神の勅令はこれを実行する「使者/僕(しもべ)」によって実行され成就します(44章24〜28節)。
〔戦の場〕                      
 古代エジプトの文書に比べると第二イザヤ書の戦の場面は限られています。ヤハウェ自身が戦に出向きます(42章13節)。43章13〜17節にはキュロスによるバビロン攻略が反映しており、エジプト軍との戦闘から脱出したイスラエルの民もでてきます。また51章9〜11節には古代エジプトの奉納劇で演じられた「主~ホルスの勝利」が反映しているのでしょう。
〔結婚の場〕
 結婚は深遠な宗教的意義を帯びる出来事として祭儀に欠かすことができません。ヤハウェとイスラエルとの結婚の「契約」は49章14〜16節/54章4〜10節に表われます。
〔職人の場〕
 これは言わば劇の深刻な主題に対比して喜劇(狂言)的な役目を担っています。そこでは日常見られる職人の匠(たくみ)の技が描かれます(40章18〜20節/41章6〜7節/44章9〜20節/46章5〜8節)。しかし、ギリシア喜劇やシェイクスピアの喜劇同様に、第二イザヤ書の喜劇的な場も過小に評価することができません。民衆の生活に直結した形で劇全体の内容に影響を与えているからです。
〔行列の場〕
 「行列」は観衆に見せるためだけでなく参加することによって共同体意識を生み出す役目をします。合唱隊の入場(40章12〜17節)あるいは退場(55章12〜13節)、主の祭具を運ぶ者たちの入場(52章11〜12節)などがあります。またヤハウェの民の賛美の列があり(45章22〜24節)、これに対して囚人たちの悲しみの列もあります(45章14〜17節)。41章17節では水を求める貧しい者たちの列が「高められる」ために出ていきますが、43章16〜17節ではエジプトの軍隊が滅びのために出ていきます。偶像の列があり(46章1〜4節)、偶像礼拝の商人たちの列もあります(46章5〜8節)。帰還の民の行列は特に見物(みもの)だったでしょう(49章22〜23節)。
 祭儀劇では演出は比較的柔軟ですから、場はその時々の状況に応じて台詞だけで済ませ、観衆にその「場」を想像させる場合もあります(16〜17世紀のシェイクスピア劇でも同様に台詞だけでその場の場景を観客に想像させる場合があります)。王や外国人や偶像礼拝者の行列のためには、衣装その他の小道具大道具の準備が必要だったでしょう。
〔賛美と踊りの場〕
 賛美は「場」と「場」を分ける時に用いられました。王であるヤハウェへの賛美があり、統治者への賛美もあります。このためには合唱隊と伴奏の楽器演奏者たちが必要でした。賛美は「オラトリオ」形式に似ていて、これに踊りを伴うこともありました。このような演出は本文の示唆(ヒント)によるか、古代からの慣例によって行なわれたのでしょう〔Baltzer.Deutero-Isaiah.17-18.〕。
■神の僕の場
 バルツァーの言う「神の僕テキスト」は1892年にドゥーム(B.Duhm)によって初めて「ヤハウェの僕(エベッド・ヤハウェ)の歌」として分類されました。以下では、バルツァーの解説に準じて「神の僕」の箇所を紹介しますが〔Baltzer.Deutero-Isaiah.18-22.〕、本文の解釈にはワッツその他の注解をも参照します〔John D.W. Watts.Isaiah 34-66.WBC.An electronic edition.〕。
〔神の僕の場の演出〕
 「神の僕テキスト」で最初に問題になるのは、それがどの部分にあたるかという区切り方です。以下ではバルツァーの区切りに従って紹介します。
(1)42章1〜9節は僕の任命です。ヤハウェ自身が「僕」について語りますが、僕自身はまだ語りません。彼はヤハウェの霊を受けて、神の民とこれを取り巻く諸国民に対する主の「正しい法/裁き」(ミシュパット)を顕わす役目を課せられます。
(2)49章1〜6節は僕自身の口から出る宣言です。ただしここは48章16節〜49章12節の中に組み込まれています。彼は「剣の代わりに口を通じて」主の言葉を語り、ヤコブ/イスラエルを「立ち上がせる/復興する」と告げ、イスラエルが諸国の光になることを預言します。「<今>、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えた」(48章16節)とあるのは、彼が「今」登場して霊が注がれることを表わすものですが、この「今」は祭儀的な時間ですから、過去・現在・未来をも含みます。僕は49章13節の合唱と共に退場するのでしょう。
(3)50章4〜9節は僕の伝記的な部分です。彼は50章2節の「なにゆえ、わたしが来てもだれもいないのか?」の台詞と共に登場します。この場は彼の受難体験で、そこには預言者エレミヤの言葉が反映しています(エレミヤ11章18節〜12章6節など)。自分の「正しさ」にもかかわらず彼は苦難を受けますが、それでも毅然として敵対者に立ち向かい主に拠(よ)り頼みます。彼は51章15節の「その御名は万軍の主」と共に退場します。
(4)52章13節〜53章12節は僕の高挙の場です。初めに(13節)ヤハウェが僕を「高く上げる」ことが宣言され、これによって彼の苦難の意義が明らかにされます。彼は崇(あが)めら、多くの人の罪を自らに背負って死にいたるまで神に従ったことが証しされます。諸国の民は彼のこのような高挙に驚きます。
〔だれのことか?〕
 「神/主の僕」とはだれのことでしょうか? モーセのこと、エレミヤのこと、第二イザヤ自身のこと、ゼルバベルのことなど諸説があります。バルツァーは「僕」がモーセを指すと見ています。
 その理由として、上記(1)の場では「民の契約、諸国の光」(7節)である「律法の光」が語られ、またヤハウェによる僕の任命があり(出エジプト3章10節と比較)、神の名が「ヤハウェ」であると明かされます(イザヤ42章8節=出エジプト3章14節)。「連れ出せ/導き出せ」という命令も出エジプト3章10節と対応しています。
(2)の場は48章16節〜49章12節の中に含まれています。先ず「わたし(僕)を遣わす」(48章16節)とあってモーセへの派遣命令と対応します(出エジプト3章10節)。僕の口から「わたしはヤハウェ、あなたの神」(48章17節)と語られるのは十戒を語り始める時のモーセの語り方です(出エジプト20章2節)。「岩が裂け、水がほとばしる」(48章21節)とあるのもモーセが行なったことです(出エジプト17章6節/民数記20章11節)。ヤハウェが「あなたはわたしの僕、イスラエル」(49章3節)と言うのは、ダビデ王朝以前において、すでにモーセに向けてヤハウェが語った証しです。
(3)の場で僕はヤハウェの弟子であり(50章4節)、教えられる者でありまた教える者です。これも申命記のモーセ像と重なります(申命記4章1節/同5節)。
(4)の場はモーセの最期を語る申命記34章の解釈です。僕の墓が「罪人たちのひとりに数えられた」(53章12節)とあるのは、第二イザヤの当時、モーセの死が約束の土地へ入る以前の異教の諸民族の地で起こったとされていたことと関連します。
 以上のように、四つの僕の歌はモーセの生涯の四つの段階を反映しています。モーセの名前が出てこないのは、イスラエルの民がモーセ律法に従うことが<できなかった>からであり、その結果、第二イザヤ書では、キュロス、ヤコブ、イスラエルなどのすべての名前が消え去って最後に「ヤハウェ」の名前だけが遺ることになります。
 ただし筆者(私市)は、バルツァーの「神の僕=モーセ」説は、イスラエルのモーセ伝承に基づくものですから、「主の僕」像の具体的で体験的な描き方に比べると、あまりに理念的すぎる解釈だと考えています。「主の僕の歌」には第二イザヤの生々しい体験が反映していて、エレミヤにせよ、第二イザヤ自身にせよ、ゼルバベルにせよ、そこには第二イザヤ自身が身近に知っている人物とその体験が背景に存在していると考えられるからです。第二イザヤは、誰か特定の人物あるいは複数の具体的な人物を組み合わせて、これをモーセ五書が伝える伝承のモーセ像と重ね合わせて描いていると思われます。
〔祭儀劇の上演〕
 祭儀劇は礼拝の一部を成(な)しています。イスラエルの祭儀劇の起源はエジプトあるいはバビロニアの新年祭にさかのぼるとされていますが、捕囚期以後の祭儀はダビデ王朝期に王の即位を更新する新年祭にさかのぼると見る説もあります。しかしバルツァーによれば、第二イザヤ書の祭儀はそうではなく、これは除酵祭と過越祭(この二つは捕囚期以後ではすでに結びついています)の時期に演じられたと見ています。ただし、この祭儀劇には過越の犠牲の動物は直接でて来ません。犠牲は「僕の犠牲」と対応するからです。劇は、詩篇でも詠われる神への賛美によって場が区切られて進行します。これは合唱隊によるものですが、神を賛美する歓呼/歓声には観衆も参加します。
 上演の時期を示唆する箇所としては40章6〜8節に「草は枯れ花は萎む」とあることから、春から夏への変わり目の時節が想定できます。55章10節の「雨」と「種蒔き」も「後の雨」の時期、すなわち春先を示唆しています。原則として一日の間に全体が上演されるのが建前ですから、夕方近くから始まり午後6時を越えて翌日までが上演時間であったろうと思われます(この時代ユダヤは太陰暦です)。ただし、実際の上演は祭りの長さや日取りになどの状況によって変わりました。このため行列が実際に行なわれる場面もあり、単に語られる場合もあったでしょう〔Baltzer.Deutero-Isaiah.22-23〕。
 第二イザヤ書の作成は530年代で、場所はバビロニアという説もありますが、おそらくこれよりも遅く450〜400年で、書かれた場所はエルサレムでしょう〔Baltzer.Deutero-Isaiah.24/30.〕。上演の場所としては、エルサレム神殿の城壁の南東の斜面も考えられますが、神殿の前庭(異邦人の庭)も考えられます。人物の登場はオリーブ山のある東側からでしょう。ただし、上演はエルサレムに限らず、バビロニアのユダヤ人地区でも、その他の離散のユダヤ人の居留地でも可能でした。
■作者と成立時期
〔第二イザヤ書の作者〕
 第二イザヤ書の作者を考える際に注意しなければならないのは、古代では現在わたしたちが考えている「著者」とは考え方が異なっていることです。ギリシアの古典劇の場合は個人の作者名が明らかにされていますが、これはギリシア文化の特徴であって、第二イザヤ書では逆に「ヤハウェの御名はとこしえに消されることがない」(イザヤ55章13節)と結尾にあるように、個人の名は意図的に隠されることが求められます。
 第二イザヤ書には厖大な聖書知識、特にモーセ五書、第一イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書などが含まれており、そこには巧みな「掛け詞(ことば)」が散りばめられています。これには複数の人物がかかわっていると考えられますが、与えられた託宣の意味だけでなく、伝えられているこれら預言書の預言をも解釈するに足る権威のある一人の人物がいたことを推定させます。
 さらに第二イザヤ書の歴史的地理的な背景を見ると、その歴史は新バビロニアとペルシアの両帝国だけでなく、これに先立つアッシリア帝国、ダビデ王朝から出エジプト時代へさかのぼり、さらにはノアの時代の洪水から世界の創造へさかのぼります。また地理的には、エジプトからペルシアとギリシア、クシュ、ケダル、ペトラなどアラビアからヨルダン東岸、またシニムのようにはるかエジプト南部のナイル川上流の地名も出てきます。
 シェイクスピアの劇作でもレンブラントの絵画でも同じですが、それらの作品は作者の個人名で呼ばれますが、実際はこれにかかわる複数の人たちの手が加わっています。第二イザヤ書の場合も指導的な特定の人物がいたことが推定されますが、この劇作は第二イザヤ・グループ(宗団)の存在を前提にしなければなりません。
〔第二イザヤ書の成立時期〕
 一般的には第二イザヤ書が書かれたのはキュロスによるサルディスの占拠(547/6年)直後に始まると考えられています(43章3節/同25節参照)。バビロンの陥落が明確に語られていないことから判断すれば、書き始めは539年以前でしょう。したがって、第二イザヤ書の書き始めの時期は547〜39年と見なすことができます。
 第二イザヤ書の最終的な成立時期を知るのは困難です。一般的に6世紀だと見なされていますが、バルツァーはさらに遅らせ5世紀(450〜400年)を考えています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.30.〕。ちなみに紀元前5世紀と言えば、中国では孔子(551〜479年)の教えが盛んに説かれており、インドではガウダマ・シッダールタ(釈迦)(463頃〜383年頃)が仏教の教えを説き、パレスチナでは第二イザヤが預言を語り、ギリシアではソクラテス(469〜399年)がその教えを説いていました。だから、前5世紀は人類の宗教史上重要な世紀であると言えます。
〔第二イザヤ書とネヘミヤ記〕
 第二イザヤ書には、捕囚期以後の諸問題、例えばダビデ王権の復興、神殿の再興、祭司制の重視などが重要な課題になってはいません。その代わり、犠牲制度への批判、ヤコブ/イスラエルとシオン/エルサレムとの結びつきが重視されています。そこにはネヘミヤ記との共通性が認められます。神殿の再建(イザヤ49章16〜18節=ネヘミヤ2章11節以下)、ユダの町々とエルサレムとのつながり(イザヤ40章9〜11節=ネヘミヤ3章33〜34節)、負債奴隷の解放(イザヤ49章8〜9節/同24〜25節=ネヘミヤ5章1節以下)、帰還の民とバビロンの居留民や離散の民との結びつき(イザヤ49章21〜22節=ネヘミヤの活動とペルシア帝国とのつながり)などの類似性を見ることができるからです。
 「神の僕」の箇所ではモーセ伝承が重視されていますが、ネヘミヤ1章7〜9節でも同様にモーセ律法が重視されており、同1章11節ではネヘミヤ自身が「主の僕」です。主の前での平等性を強調することもネヘミヤ記と第二イザヤ書との共通点です。ただしネヘミヤ記の執筆時期が問題になりますが、バルツァーはネヘミヤの活動開始をアルタクセルクセス1世の治世の第20年(445/4年)だと見ています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.30-31.〕。
■第二イザヤ書の神学
〔世界観〕
 第二イザヤの時代にはバビロニアの天文学が入り込んでいましたから、「天」はかつて信じられていたような固いドウム型ではなく、薄いヴェールの広がりだとみなされていました(40章22節)。しかし、星々はバビロニアの天文・占星術が説くような運命の支配者ではなく世界秩序は神によって保たれています。
 第二イザヤ書の歴史的地理的な背景とともに、ペルシア帝国のキュロス王の存在が重視されていることから判断すると第二イザヤ書の主題には「主なる神」「アドナイ(主)・ヤハウェ」とその「僕」あるいは「僕たち」による支配理念を読み取ることができます。ペルシア帝国の統治制度がその背景にあると言えましょう〔Baltzer.Deutero-Isaiah.28〕。第二イザヤ書ではキュロスの王座が賛美される一方でキュロスによるエジプト支配への預言が含まれています(45章14〜17節)。エジプトではキュロスの支配に対する批判が高まりますが、この批判はユダヤを含むパレスチナでも徐々に強まったと考えられます。だから、第二イザヤ書の「主(ヤハウェ)のみ至高の主権者」とする思想には、このような反ペルシア的な理念が反映しているのかもしれません〔Baltzer.Deutero-Isaiah.32.〕。
 ペルシア帝国の支配下では都市の自由化が促進されました。エルサレムはユダの町々と離散の民にとって巡礼の「聖都」となり(52章1節)、平和を告げる「神の都市」になります。エルサレムは贖われてダビデ王権を受け継ぎユダの町々の「母」になるのです(51章17〜23節)。しかしユダには債務奴隷たちも大勢いましたから、都市の貿易商や技能職人たちと貧しい者たちとの間に社会的な格差が広がっていたことが分かります。
 第二イザヤ書では、主の僕の高挙を見て王侯たちさえも口を閉ざします(52章15節)。たとえエルサレムの支配者たちでも神の前には「無に等しく」(40章23節)陶工に踏まれる粘土のように主の支配下に置かれることになります(42章25節)。ここには、帰還によって捕囚から解放された民の全員に、漏れることなく真の自由が与えられることを祈願する第二イザヤのメッセージがこめられていると言えましょう。
〔神学の背景〕
 アッシリア、新バビロニア、ペルシアなどの諸帝国の変遷を経て、第二イザヤの思想には変転と同時にこれと表裏を成す不変の神の言葉、その約束と成就が存在します(40章8節/55章11節)。だから彼の神学はダビデ王権を含む王権の危機と同時に神による希望です〔Baltzer.Deutero-Isaiah.33.〕。彼の手もとには多くの書かれた資料伝承があり、モーセ五書も詩編も書かれた文書として存在していました。観衆を巻き込んで、観衆と演じる者とを一体化する第二イザヤ書の演劇的な形式こそ第二イザヤの神学を具体化しています。その言語は共同体的であると同時に人体的な様態を表わすものです。特に「主人と僕」の関係が神とユダ/イスラエルの関係を表わす比喩として一貫して用いられています。
 第二イザヤ神学の特長は「ヤハウェの王権」です。ヤハウェはシオン/エルサレム(聖都と聖民)の王であり(52章7〜10節)、この点で彼は第一イザヤの思想を受け継いでいます(6章3〜5節)。王には宮殿があり、王座があり、宮廷人たちがいます。第二イザヤの言語も王権の様態を帯びていて、神ヤハウェは世界の支配者であり、御言葉と契約と律法を通じてイスラエルを統治する「ヤコブの王」です(41章21節)。王権は賛美され民衆の歓呼を得なければなりませんが(42章10〜12節)、第二イザヤ書には王からの民への「慰め」と「贖い」の思想があります(44章23節/49章13節)。この思想は同時に、地上の王権に対する批判ともなります(44章6〜8節)。このように継承と否定を通じて「歴史を創造する神」の行為を読み取ることができます(40章25〜31節)。
〔唯一神教〕
 詩編ではヤハウェが「神々の王」として登場しますが、これは「多神教」の神々の間における「最高神」の地位にあたります(95篇3節/96篇4節/97篇7〜9節)。旧約ではこのように、例えばセラフィームなど、ほんらい多神教の神々の一つの霊位であったものがヤハウェによって従属化される事態が生じています(イザヤ6章2〜4節)。第二イザヤ書でもヤハウェは「王」として登場します。主は法廷で争います(41章21節)。彼はイスラエルの王であり創造者です(43章15節)。しかもこの「王」である主は唯一無二の「万軍の主」として語られるのです(44章6節)。その王権は「地のはてまで」広がる全世界の領域を支配下に置くことになります(52章7節)。
 ここには多神教から唯一神教にいたる過程を見ることができます。それは、それぞれの民の異なる神々の存在を認める「多神教」から、その中の一柱(ひとはしら)だけを拝する「一神教」へ移行し、さらに神々の王である「最高神」となり、他の神々の存在自体を否定する「唯一神教」へ到達する、という過程をたどることになります〔Baltzer.Deutero-Isaiah.35〕。このような唯一の神の王権は、国家~、都市の神/女神、部族や家族の神/女神の存在などを不可能にするものです。だから「諸王の王」であるペルシア帝国の王も「天の神」に敬意を払うことになります(エズラ記7章12節)。
 この点に関して45章1〜8節でのキュロスに向けられた託宣は注目に値します。キュロスは「油注がれた者」であり「主の牧者」であるのに、彼自身はヤハウェを知らないのです。エルサレムの民でさえも主が唯一無二の神であること(同6節)を「知らなかった」とあります(同4節)。49章14〜21節と52章1〜6節で語られていることもこれを告げています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.36.〕。
 このように、かつての諸都市の神々も部族の神々も、かつてのイスラエルのもろもろの家族の神々も、主ヤハウェの神に統合されることになります。このことは、部族や家族から個人にいたる区別が消えることで民全体が統合されることを意味し、したがって、男~と女神の区別も解消します。この結果、ヤハウェにも女性的/母性的な属性が帰せられることになります。「憐れむ/愛する/共感する」(ラーハム)は母の「胎」からでた言葉です。ただし筆者(私市)の見るところでは、これは第二イザヤに始まることではなく、すでにホセア書において同様の「憐れみ」が語られています(ホセア2章25節/同11章8節)。
〔聖都エルサレム〕
 第二イザヤ書の神観について大事なのはその「聖性」(原語「コーデッシュ」)です。第二イザヤは伝統的な神の聖性を新たにとらえ直しているからです。「わたしはヤハウェ。あなたがたの聖なる方。イスラエルの創造者。あなたがたの王」(15節)とあるように、イスラエルの救いが顕われるのは「イスラエルの聖なる方」からです(43章14〜15節)。しかも、イスラエルの「聖なる方」こそ「イスラエルの神」であると同時に「全世界の神」であることが(54章5節)「主の僕」の口を通して宣言されます。ここでは「聖性」がかつての王国時代のように、神殿あるいは祭司による祭儀に限定されていません。エルサレムはもはや「聖所がそこに存在している都」ではなく、エルサレムそれ自体が「聖都」(48章2節/52章1節)なのです。だからエルサレムは諸国民の巡礼の場へと変容します(55章5節)。この意味でエルサレムは霊的にペルシア帝国のそれに代わる「王の都」です。
〔犠牲と贖い〕
 犠牲の祭儀は人類と共に古い宗教的行為です。人類はこれによって不幸や災害から逃れようとしてきたからです。イスラエルでは犠牲の祭儀は「罪の結果」から免れるためですが、この「犠牲の祭儀」と並行するのが「知恵」と「律法」です。民の罪の行為とその結果を警告するのが「預言」の役目です。
 ところが第二イザヤはこの犠牲の祭儀をきっぱりと退けるのです。祭儀的な犠牲は人間の気休めにすぎず神から出たものではないからです。祭儀の際に唱えられる「主の言葉は終日絶えず侮られている」(52章5節)のです。第二イザヤ書で祭儀的な犠牲に関して唯一肯定的なのは53章10節です。しかもそこでは動物ではなく「主の僕」自身が「アーシャーム」(「罪科」「償いの献げ物」)なのです。エルサレム神殿が破壊された後は、もはや神殿での祭儀的な犠牲は不可能になりました。バビロニアでの捕囚の地でも犠牲の祭儀が行なわれた記録を見ることができません〔Baltzer.Deutero-Isaiah.38.〕。帰還後に神殿が再建されてから犠牲の祭儀は復興しますが、すでに50年以上も行なわなかった祭儀をなぜ再び始めるのか?という声も聞かれたと思われます。「祈りと安息日と祭日」から成り立つ新たな制度がすでに定着し始めていたからでしょう。したがって、神殿再興の後の時期では、第二イザヤ書のこの祭儀否定が問題にされたと推定されます。
〔創造と世界観〕
 第二イザヤの世界観は、創世記(1章〜2章3節)に語られている祭司資料(P)編集者たちのそれを受け継いでいますが、彼はこれにその時代の知識によって変更を加えています。第二イザヤが神の「創造行為」を重視しているのはよく知られています。40章15節の「国々」とは具体的にはペルシアからエジプトのはるか南にいたるまでの国々を指しており、「島々」とは東地中海のギリシアを始めとする島々のことです。第二イザヤ書の世界観には、このように東地中海からオリエント地方にいたるまでの「世界の創造」がこめられています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.39(note)190〕。
 紀元前5世紀のギリシアと言えばソクラテスとプラトンとアリストテレス以前の自然哲学の時代にあたります。この時期のオリエントでは、バビロニアとエジプトの天文・占星術に加えて、すでにギリシアの数学が加わり、天の獣帯(黄道十二宮"the zodiac")の天文学も完成に近づいていたと考えられます。第二イザヤはそれらの天体の星星も「主の創造」によると見なしています(40章14節/同26節)。これらの星星の運行とその地上への影響力をことごとく支配しているのが「万軍の主」(アドナイ・ツィバーオット)です(44章6節/47章4節/同13節参照)。七十人訳はこの用語を「全能者」(ギリシア語「パントクラトール」)と適切に訳しています。したがって、ここではかつてイスラエルに影響を与えたペルシアの善悪二元論の世界は回避されます。
 「天」は創世記1章7節にある固いドウム(ラキア)ではなく「薄いヴェール」(40章22節)であり、地は「固く踏み広げられて」(44章25節)います。しかも「天は煙のように消える」(51章6節)のです。このように「流動する」世界像は火と水と空気と土から成るギリシアの四大元素論に近いと言えます。ちなみに四大元素論は古代ギリシアの哲学者エンペドクレス(493頃〜433年頃)によるものです。彼はシチリアの出身で、『自然について』と『浄め』の二作が現存します。『自然について』では四つの元素が愛と憎しみを媒介として結合したり分離したりすることで世界が成立していると見ており、『浄め』ではオルペウス教の影響を受けた魂の転落と救済が語られます。彼はエトナ火山に身を投じて死んだと伝えられています。第二イザヤ書の成立した時期がこの哲学者と同時代であることから、バルツァーは両者の関連を想定しています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.40.〕。第二イザヤが主の僕は「はるか高く上げられる」(52章13節)と言う時、「諸々の天(複数)」の存在とその最高位の天の領域のことを考えていたのでしょうか。陰府もまた「神から切り離された」場所ではなく、主の支配の下に置かれます(47章5節)。
〔永遠と歴史〕
 第二イザヤ書の歴史観はヤハウェの創造による「時と永遠」で、鍵となる箇所は以下の三つです。(1)40章28節「永遠の神(エロヘ・オーラム)であるヤハウェ/地の果てまでの創造者」。(2)44章6節「ヤハウェ、イスラエルの王でありこれを贖う者、万軍のヤハウェはこう言われる。/わたしは初めである。わたしは終わりである。/わたしをおいてほかに神はどこにもいない」。(3)48章12〜13節「わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。/わたしこそその者。/わたしは初め。さらにわたしは終わり。/この手で地の基を据えた。右手で天を広げた。/わたしがそれらに向かって呼ぶと、立ち上がって(命令を)待つ」。
 ここにはヤハウェこそ天と地の至高者であること、「時/時間/歴史」の創造者であることが明言されています。「初め」と「終わり」は「先のもの」「後のもの」をも意味しますから、絶対的な「開始」と「終焉」を指すだけでなく、その間の時の継続をも表わすヘブライ語独特の時間観です。したがって第二イザヤは、創世記1章1節にあるように「神は初めに全世界を創造した」とある完了形ではなく、より相対的な時間の中で「創造」を観ています。「新しく起こる」出来事は「隠されてきた」出来事であり、それは、それ以前でもそれ以後でもなく「今この時」に創造されるものです(48章6〜7節)〔Baltzer.Deutero-Isaiah.41.〕。ヤハウェは人類を創造し(45章12節)、ヤコブ(イスラエル)を創造し(43章1節)、常に新たに創造し続けます(43章18〜19節)。第二イザヤ書の主は、モーセ五書よりも一貫して世界と人類の歴史を「創造し続ける神」なのです(「創造する」が16回でてきます)。
 第二イザヤ書では、このような時間/歴史観が、過去と現在と未来を「同時化する」劇的な手法で表現されていますから、それは「祭儀劇」"liturgical drama"という形を採ることになります。そこでは神託としての「預言」が重要な意義を帯び、「預言」とこれの「成就」が語られます(44章25〜28節)。このような演出によって観衆は共同体的にも個人的にもこの祭儀劇に参与することができます。このような歴史観においては、紀元前/後という区切り、あるいはこれに類するいっさいの「時を区切る」目印はありません。歴史は常に継続的でありかつ「同時的」です(46章9〜10節/48章3節/同5節)。したがって、全宇宙が時間的空間的に「一体」となって把握されるのです〔第二イザヤ書には「すべて」(コル)が58回でてきます〕〔Baltzer.Deutero-Isaiah.42.〕。
〔律法〕
 神が全世界を支配する原理が「律法」です。したがって、初めの二つの「僕の歌」では律法の制定と授与が歌われ、続く二つの歌では申命記のモーセの教えと死が表われます。このような「律法主権」は出エジプトの契約思想とどのように関わるのか?これが問題になります。
 第二イザヤ書では律法は「主の僕の律法」であると同時にモーセ律法です。イスラエルに向けられる主の意思全体が律法として啓示されているからです〔Baltzer.Deutero-Isaiah.42.〕。第二イザヤ書ではモーセ律法が世界の島々国々にも向けられていて、律法が諸民族への普遍的な救いをもたらしますから、それは「普遍律法」になります。「僕」は民への契約になると同時に「諸民族の光」にもなるのです(42章6節)。こうして律法と契約が一つに結ばれます。
 律法について「主は喜ばれる、その義のゆえに/律法(トーラー)を偉大に輝かせることを」(42章21節)とありますが、律法は同時にイスラエルの民に厳しい裁きをもたらしますから(42章18〜25節)、42章19節にでてくる「(盲目の)わたしの僕」とはイスラエルの民とその指導者たちを指すことになります。ヤコブ(イスラエル)がその敵に渡されたのは主が行なったことなのです。「それなのに、彼(イスラエル)は主の道を歩もうと心がけることなく、その律法に従うことをしない」(同24節)のです。この箇所は、民を罪の告白と悔い改めに導く箇所であり、この祭儀劇全体の転換点になっています。悔い改めによって「義と救い」が密接に結びつくからです(51章4〜5節)。こうして「律法(トーラー)はわたし(主)から生じ、わたしの法/裁き(ミシュパット)は光となって諸民族を照らす」(51章4節)のです。ここで律法が「主から生じる」とあるのは「知恵」が主から生じる(箴言8章24〜25節)とあるのと対照されます。第二イザヤ書では「知恵」(ホクマー)はただ一度否定的な意味で出てくるだけですから(47章10節)、「律法」と「知恵」とは競合関係にあるのでしょうか?
 第二イザヤ書では、主の律法を心に置く民こそが「神の民」だと考えられています。51章7節に「わたしの律法を心に置く民」とありますが、ここはエレミヤ書31章31〜33節にある「民の心に書き記された律法」から来ていると思われます。「律法」とはモーセ五書全体を指す用語ですから、この伝統的な「律法」の解釈では書かれた申命記の律法と祭司資料編集者たちが語る創世記1〜2章の創造が両立あるいは対立することになります。この問題への答えが51章12〜16節にあります。「わたし(主)はお前(主の僕)の口にわたしの言葉を置く」(同16節)〔フランシスコ会訳聖書〕。ここで「主の僕」は預言者モーセと重なります。さらに主ヤハウェは続けます。「わたし(主)の手にお前(主の僕)を隠した/天を確立し地を確固とするために、/シオンに向かいあなたはわたしの民だと言うために」(同16節)。この16節が重要なのは、ここでは主の僕が、創造に先立って<先在していた>こと、しかも彼が<主の手に隠されていた>ことを示しているからです。ヤハウェは創造の始めと終わりであると同時に、その創造は「現在」において体験できるものなのです。だから「シオンに向かってあなたはわたしの民だ」と宣言することが「主の僕」に与えられた使命なのです〔Baltzer.Deutero-Isaiah.43.〕、
 このように、第二イザヤ書の契約構造は律法と分かちがたく結びついていて、主の僕像はモーセ像と重なります。さらにこの「僕」は全人類に命を与える者です。こうして、唯一の神、唯一の世界全体、唯一の律法が確認され体験されることになるのです。この思想は後のアレクサンドリアのフィロン(前25〜後45/50年頃)にも受け継がれて、彼は律法(ノモス)と自然世界(フュシス)とを結びつけています。
 筆者(私市)の見るところでは、第二イザヤ書は「祭儀的な構成された預言詩」"liturgical prophetic poetry"の性格を帯びています。もしこれの劇的な構成を重視するのならば「主の僕の祭儀劇」と呼ぶべきでしょう。バルツァーの注解は間違いなく「挑戦的な」労作として遺るでしょうが、第二イザヤ書が実際に彼の推定の通りに上演されたのかどうか? この点に関してはなお疑問が残ります。
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