26章 第二イザヤ書の僕の歌(前編)
 
■第一の僕の歌
42章
1見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、心にかなう者を。
彼の上にわたしの霊を授与した。
彼は諸民族へ裁きをもたらす。
2彼は叫ばず、声高く呼ばわらず、
 巷にその声を響かせない。
3折れた葦を踏みつけず
消えかかる灯心をもみ消すことなく
真実をもって義の告知をもたらす。
4彼は弱り果てることなく、倒されることなく
 地に裁きを確立するにいたる。
 沿岸の諸国は彼の法を待ち望む。
 
5ヤハウェである神がこう言われる。
空を創造しこれを張り広げた方
地とその産物を生み出す方
その上に住む民に息を与え
そこを歩く者に霊を与える方が。
6わたしはヤハウェである。
 義をもってあなたを呼び出し
 あなたの手を強くした。
 あなたを守り支え、あなたを立て
 民の契約、諸民族の光とした。
7見えない目を開くために
捕らわれ人を牢獄の外へ連れ出し
闇に住む人を獄舎から出すために。
8わたしはヤハウェ、これがわたしの名。
わたしは栄光を他の者に渡さず
わたしへの賛美を偶像に与えない。
9先のことは、見よ、実現した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
あなたたちに聞かせる。
 
■第一の「僕の歌」について
 今回の箇所に先立つ41章21〜29節は、天の法廷で「ヤコブの王」(21節)であるイスラエルの神がほかの神々(偶像)を告発している場面です。それら「無に等しい」神々は過去に起こったことを正しくとらえることもこれから起こることを告げることもできません(22節)。まして、突然のキュロス王の出現を予測した偶像神はいません(26節)。キュロスの出現をもたらした方、それは歴史を創造するイスラエルの神だけです。だからエルサレムのシオンの丘に過去と現在と未来の歴史を正しく伝える偶像神はどこにも存在しません。それゆえに、ヤハウェなる神は42章以下で自分の僕を任命するのです。
 42章1節から第一の「僕の歌」と呼ばれる箇所が始まります。この部分は1〜4節と5〜9節に分かれます。前半(1〜4節)で神が「僕」を任命します。41章ではその「僕」がキュロス王であることがはっきりしていますが、ここでは「僕」を特定することができません。だからこの僕は先のキュロス王のことでもなく、ヤコブ(イスラエル)を指すのでもなく、ここから「新しい任命」が告げられるのです。
 後半(5〜9節)でも前半で告げられる僕の任命が続きます。しかし、後半では前半と内容が異なっていて、第三イザヤと似た内容になっています。前半と同じ主(ヤハウェ)が語っているのは確かですが、「あなた」(6節)と二人称で呼びかけられている相手が、前半の「彼」と同一人物なのかどうかがはっきりしません。前半で「わたしの僕」と呼ばれている主の僕のことでしょうか? イスラエルでしょうか? キュロス王でしょうか? おそらく後半部分は前半の第二イザヤの預言に彼の弟子たちがこれを拡大して加えたものでしょう〔Claus Westermann. Isaiah 40-66. Old Testament Library. Trans. by David M.G. Stalker.SCM (1969)98/101. The original in German(1966)〕。
 第二イザヤ書の構成については諸説があります。例えば41章1〜24節は天の法廷での裁判長?の言葉であり、同25節〜42章4節を主(ヤハウェ)からのキュロス王への呼びかけと見なし、42章5節を主の「先駆け」の言葉と見て、同6〜9節は再び主からのキュロスへの呼びかけと見る説もあります〔John D.W. Watts.Isaiah 34-66. Word Biblical Commentary. Isaiah. 41-42. An electronic edition.〕
 木田献一/関根清三の両氏は、41章21〜24節の法廷論争では、裁判長である主(ヤハウェ)が諸国民(とそれらの守護神たち)を被告として彼らに論争を挑んでおり、同25〜29節では、キュロスを立てたのはヤハウェの業であると宣言することでヤハウェの勝訴が確認されている、という見方をしています。42章1〜9節は「僕の歌」で、この「僕」のモデルとしては、イスラエル、キュロス王、第二イザヤ、メシアの4人が考えられるとした上で、両氏は、「僕」の具体的なモデルとして第二イザヤ自身をあげています。イザヤ宗団の後継者たちが、第二イザヤにメシア的な性格を与えていると見ているのでしょう。後半(42章5〜8節)については、前半の宗教的解放者である僕に比して政治的解放者の性格が強いので、後半は第二イザヤの後継者の編集による付加部分だと見なしています〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)(1994年)329〜32頁〕。
 これらの説に対してバルツァーは、41章21〜29節では、天の法廷で、「ヤコブの王」である神が諸民族のもろもろの偶像~に対してそれらの無力を告発していると見ています。その上、彼は、42章1〜9節では、前半と後半とで語りかけ方に違いがあるものの、ここは一貫して一人の「主の僕」が主によって任命される場面であるという見方を採ります。ただしバルツァーは、「主の僕」にはイスラエルの伝統的なモーセ像が重ねられていると見ています。したがって彼は、前半(1〜4節)では律法を体現するモーセが反映していて、4節に「沿岸の諸国が待ち望む」とあるのは、約束の国を目前にした「モーセの死」がそこに重ねられているという見方をするのです。バルツァーは、後半(5〜9節)の6節で主の僕への任命が改めて告げられ、ここから「新たなモーセ律法の創造」が語られているという見をしています〔Baltzer.Deutero-Isaiah.125-31.〕。なおバルツァーは、後述する第二の僕の歌では、「主の僕」をネヘミヤだと特定しています。
 筆者(私市)は、バルツァーのネヘミヤ=モーセの「僕」像が、具体的で第二イザヤ書の歴史的な背景から見て納得できると思うものの、それだけでなく、「主の僕」像にはエレミヤ像も含まれており、また、後継者たちによって理想化された第二イザヤ像なども含まれていて、これらを総合することで、将来を待ち望むメシアとしての「僕」像が生み出されていると見ています。
■42章の注釈
[1]【わたしの僕】ここで「僕(しもべ)」(原語「エベッド゙」従者/僕/臣下/奴隷)と呼ばれている人がだれを指すのか? この問題は今なお議論されています。エレミヤ書(1章11節)には召命を受けた彼の名前がでていますが、イザヤ書にもエゼキエル書にもそれぞれの預言者の名前はどこにもでてきません。ただし、その文脈からそれがイザヤでありエゼキエルであることが分かります。ところが今回の箇所では、「僕」を誰かと同一視することが難しいのです。
 七十人訳ではここが「ヤコブはわたしの僕(パイス)、わたしは彼を助ける。イスラエルはわたしの選んだ者、わたしの心/魂は彼を受け入れる」とあって、「僕」がヤコブ=イスラエルであることをはっきりさせています(41章8〜9節を参照)。なおこのギリシア語「パイス」(男の子/少年/僕/奴隷)はマタイ12章18節へ受け継がれています。だから七十人訳によれば、今回の任命は、先の41章8〜9節のそれと併せて同じ「僕」が二重の召命を受けていることになります。しかし、今回の召命が41章でのヤコブへの召命と異なるとすれば、42章の召命は、いったいだれへの呼びかけでしょうか?
 42章1節の「僕」がモーセを指していると指摘したのは、ドイツの旧約学者エルンスト・ゼリン(Ernst.Sellin:1867-1946)ですが(1922年)、彼の指摘は現在でも注目に値します〔Baltzer.Deutero-Isaiah.126.〕。今回の「僕」がモーセを指しているとすれば、この「僕」は、モーセによる出エジプトを受けて、ここから「第二の出エジプト」が始まることになります。しかし、41章8節には「イスラエル」とあり「ヤコブ」とあるのに、ここでは「モーセ」の名前がでてこないのはなぜでしょうか? それはモーセに率いられたイスラエルの民が金の子牛を鋳造して主に罪を犯した時に、民のために執り成しをしたモーセが「自分の名前を主の記す書から消すことで」民の罪を赦してほしいと願ったとある故事に由来します(出エジプト記32章32節)。この故事を受けて、ユダヤ教では伝統的にモーセの名前を出さなかったからです。だから、例えばホセア書12章14節では「一人の預言者」とあり、詩編78篇12節でも「神」となっていて、どちらにも「モーセ」の名前がでてきません。
 したがって第二イザヤは、「主の僕」として、41章ではヤコブを、42章ではモーセをだすことで、二人の「主の僕」の任命を語っていることになります。第二イザヤはこの二人をアブラハム→ヤコブ→モーセという歴史的なつながりにおいて観ているのでしょう。言うまでもなく、ここで「モーセ」というのは捕囚後の第二イザヤの時代のモーセ像のことで、現代の聖書学による「モーセ」のことではありません〔Baltzer.Deutero-Isaiah.126.(NB)229〕。
【わたしが支える者】原語は「把握する/握る」から「(人を)支える/支持する」ことです。通常は即位する王などに対する神からの加護を意味しますが、ここではイスラエルの民を代表する者として個人に向けて神の働きかけが与えられることです。主(ヤハウェ)が、ある人物をあることのために「任命する」とは、その人物において新たな創造の業が生じることを意味します。
【選んだ者】第二イザヤまでのイスラエルの伝統では、「神の選び」は王を選ぶことに関連して用いられていました。しかし今回は、それが「僕」の選びであって、これは第二イザヤ書の王権思想から見ても注目すべきです。
【わたしの心にかなう者】これも王ではなく僕に宛てられています。「心にかなう」は「魂の喜ぶ」「意志に沿う」とも訳すことができます。ここには主(ヤハウェ)からのモーセへの愛が「わたし(神)の魂が喜ぶ」という希な言い方で表わされています。「喜ぶ」はとりわけ犠牲について用いられる言い方です(レビ記1章3〜4節)。モーセは主に選ばれた者であり、民のために執り成しを行ない、民を滅びから免れさせてくれた仲保者だからでしょう(詩編106篇23節)。
【わたしの霊を授与した】神の霊はイスラエルの指導者たちがその役割を果たすための力を付与するものです(士師記3章10節/サムエル記上11章6〜7節)。このカリスマ性が王の即位に際して彼に油が注がれる起源です(サムエル記上16章13〜14節/イザヤ11章2〜3節)。「霊を授与する」というこの言い方はモーセが神の命令で70人の長老たちに按手によってその霊を<分け与えた>時にもでてきます(民数記11章24〜25節)。この言い方は今回と民数記の二度だけですから、今回の「僕」にもモーセの霊が分け与えられたことを示唆するのでしょう。
【裁きをもたらす】「裁き」の原語「ミシュパット」は無冠詞で通常「正義/公正」を意味しますが、法的な「公正な判断/判決/裁定」をも指します。しかしここでは「天の王」であり「ヤコブの王」である主(ヤハウェ)からの「宣告/勅令」のことでしょう。"A decree of justice"〔Baltzer.Deutero-Isaiah.124.〕。「主の僕」の役割は、イスラエルの民だけでなく諸国の民に向かっても神の正義を告知することです。「神の正義と告知を<もたらす>」は、「出ていく/出陣する/導き出す」の意味も含みますから、これには、モーセが民を率いて「(エジプトから)脱出する」の意味もこめられているのでしょう。ただし、今回は諸国の民に「神の正義と告知を<もたらす>」のですから、これは戦(いくさ)ではなく「平和」(シャーローム)を「もたらす」ことです。
 なおこの1節はマルコ1章11節/ルカ3章22節/同9章35節/マタイ)に受け継がれています。
[2]古代オリエントでもギリシアでも、裁き人(裁判官)は罪を犯し告訴された者に向かって「叫んだり怒鳴ったり」して己の権威を誇示するのが慣わしでした。権威ぶった裁き人の場合は、その怒鳴り声が裁きの部屋の外の通りにまで届いて、「巷にその声を響かせる」ほどだったのでしょう。ところがここで語る主の僕は、神の裁きを告知する者でありながら、告知する相手に向かって「叫ぶ」ことも「大声を上げる」こともしないのです。神の正義と裁きの告知は、地上の権威者のそれとは異なり、その法に基づく正しい裁きを分別ある裁き人の口を通して穏やかに相手を説得するからです。モーセは「口が重く語るのが苦手であった」とあります(出エジプト4章10節)。このため神はうまく語ることができるアロンをモーセの同伴者としたほどです。それでもモーセの裁きには権威と重みが具わっていました。
[3]古代の法律では、「折れた葦を踏みつけ」「消えかかる灯火をもみ消す」ように、死にかけている者には死の宣告を下し、罪ある者を容赦なく罰するのが慣わしでした。ところが、「主の僕」の口を通して下される裁定は、逆に弱い者を虐げることをせず(「踏みつけず」の意味)、社会から排除されている者(「消えかかる灯心」の意味)を執り成すことで、これらの弱い人たちを正当に扱うのです。これこそが「神の真実」を民に知らしめ、諸国の民に向かって「真理」を告知する道だからです。高慢なエジプトのファラオやほかの神々に比べて主(ヤハウェ)による民への扱いがいかに「偉大だった」のかは出エジプト記18章13節にでています。またモーセが人々を親身になって裁いたことが同18章13〜14節にあります。
[4]3節に続く4節前半は僕の個人的な姿です。「弱り果てる」(原義は「気を失う」)も「倒される」(原義は「押し潰される」)も3節の「折れた葦」「消えかかる灯心」を受けていて、僕は自らを裁かれる弱い人たちと同じ立場に置くのですが、ここで「主の僕の受難」が示唆されます。「確立する」とあるのはモーセの晩年を反映しています。モーセは主から約束の地を「確立する」望みを与えられながら、これを未来に託して生涯を終えることになりました(申命記32章45〜47節)。
 4節後半は前半の拡大です。「その法」の原語は「彼(モーセ)の律法(トーラー)」です。ただしここでは「律法」を諸国への「教え」と訳す場合が多いようです〔新共同訳〕〔中澤訳〕。「法」〔フランシスコ会訳聖書〕。捕囚以後では、「律法」(トーラー)はモーセ五書全体を指す用語になりました。「沿海の国々」〔中澤訳〕は「島々」とも訳されます〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。「島々」はとりわけギリシアの諸島を指しています。ここで僕は、かつてのモーセもそうでしたが、自らは沿海の島々(ギリシア)にいたるまで「主の律法を確立する」にいたらなくても、ほかの者たちがこれを成し遂げてくれる時が来るのを待ち望んでいたのです(51章4〜5節参照)。
[5]5〜9節は「これまでだれも的確に説明することに成功しなかったペリコペー(段落/断片)」〔ヴェスターマン前掲書98頁〕と言われている箇所です。1〜4節で主の僕について告げ知らされますが、直接僕への語りかけはありません。5〜9節で僕の任命/召命が現実に生じるのです。
【ヤハウェである神】原語は「ヤハウェ神」とでも訳すべきでしょうか。このような神名は旧約聖書の中でここだけです(詩編85篇9節でも「神」と「ヤハウェ」が続きますが、そこでは「神」と「ヤハウェ」が切れています)。この言い方は、諸民族にとってもヤハウェだけが「神」であることを表わすものでしょう。第二イザヤ書では「神」が特に諸民族との関係で用いられることが多いのです(45章21〜22節)。「神」と「ヤハウェ」とのこの結びつきは創世記1章の「神」と同2章の「ヤハウェである神」(4節その他)との結びつきから来ています。「創造する」「空(天蓋)」「地」「生み出す」などの用語が5節に集中しますが、ここでは創世記の用語が新しく解釈し直されていることに注意してください。
【張り広げる】創世記1章7節の「空」が固いドウムであるのに対して今回の「空」は蜘蛛の巣かガーゼ、あるいは薄いテントのように「張り広げられた」ものです。
【息を与える】創世記2章7節を反映していますが、ここで言う「民」は全人類のことです。だから、天と地及び人類の創造がここでは「主の僕」の任命と重ねられていて、そこに神の創造行為を読み取ることができます。なお、この5節は使徒言行録17章24〜25節に受け継がれています。
[6]節の始めに「わたしはヤハウェである」とアブラハムやモーセに向けて語られた言葉がここで「僕」に向けられています。続いてこの節で初めて、「あなた」と僕に向けて直接神からの語りかけが来ます。「あなたを呼び出す」「あなたの手を」「あなたを支える」「あなたを立てた」と4度僕に呼びかけています。バルツァーによれば、「あなたを召し出した」とあることによって、その場で僕の任命の出来事が観衆の目の前で<現実に生じる/再現(再演)される>のですが、ここでは、神の声が舞台の背景から響くのか、神の声を語る配役が登場するのか確かでありません〔バルツァー前掲書131頁〕。この任命は創世記1〜2章の創造の業に対応して語られています。
【民の契約、諸民族の光】5節の民は「地の上を歩く者たち」ですから人類全体を指しますが、ここでは「民への契約」とあるので「イスラエルの民」のことではないかという指摘もあります。だとすれば、僕が「イスラエルの民への契約」となり、「諸民族への光」ともなることを意味します。しかし、ここには創世記12章2〜3節のアブラハム契約が反映していると考えられますから、「民」と「諸民族」を厳密に区別するのは適切でないでしょう。むしろ、この僕は、イスラエルだけでなく全人類に向けられた「神の契約」(モーセ律法)をもたらす者となり、これによって全人類の光になるというのがここの意味です〔バルツァー前掲書132頁〕。この「民への契約」(ブリート・アム)をサムエル記下23章5節のダビデに与えられた「永遠の契約」(ブリート・オラム)と対比/対応させる説もあります〔バルツァー前掲書(注)260〕。なお、この6節はマタイ12章18節/ルカ2章32節/ヨハネ8章12節に受け継がれています。
[7]7節では「(目を)開くために」と「(牢獄から)連れ出すために」が並んでいますが、ここでは、だれがだれの目を開き、連れ出すのか?これが問題になります。主語は6節の「ヤハウェであるわたし」でしょう。しかし6節の後半から判断すれば「僕」を主語とすることも可能です。ヤハウェと僕が重なり合うこの二重性が5〜9節の特徴ですが、同じ手法が第三イザヤ書(61章1〜2節)でも見受けられます。このように第二イザヤ書でも第三イザヤ書でも、「わが主ヤハウェ」(50章1節参照)がいつの間にか召された主の僕に移行しますが〔ヴェスターマン前掲書100頁〕、これは主の僕が主の御名において行なうからでしょう〔バルツァー前掲書133頁〕。
 「連れ出す/救い出す」は今回の箇所を貫く主題ですが、盲目の目が開かれ、囚われの牢獄から連れ出されるのはイスラエルの民であるという解釈があります〔ヴェスターマン前掲書100頁〕。しかしここではイスラエルの民に限らず、全世界の民の目を開き、闇に住む人たちを救い出すという解釈も可能ですから、新約聖書はこの方向でここを解釈しています。
【捕らわれ人を牢獄の外へ】「砦のように頑丈な牢獄にいる囚人/捕囚の民」を救い出すことです。
【闇に住む人】「暗い獄舎に」拘禁されている人という意味にもなります。
 この7節は、マタイ11章5節/ルカ1章79節/同7章22節/使徒言行録26章18節に受け継がれています。
[8]5節の「ヤハウェ~」という独特の~名の意味がこの8節ではっきりします。「わたしはヤハウェ、これがわたしの名」とあるのは英語で言えば定冠詞付きの"I am The true God YHWH" ですから〔バルツァー前掲書133頁(注)266〕、ここには唯一神教の~名が明確に啓示されています。ただしここに出エジプト記3章13〜15節が反映しているのは明らかです。第二イザヤは~名の啓示を新たに解釈し直しているのです。これこそ「第二イザヤの最も高度な創造の業の一つ」です〔バルツァー前掲書133頁〕。~名に続いて「栄光を他の神々に渡さず/賛美をもろもろの偶像に与えない」とあるのはここで啓示されている「~名」を敷衍(ふえん)するものです。このような唯一~の~名の啓示によって、本来はイスラエルの民に向けられる今回の宣託が全世界の民を包含する広がりを獲得することになります。「ヤハウェ」と「主」と「僕」と「神」、これらが第二イザヤ書の「僕」の歌で独特の結びつけられ方で、そこに新たな「唯一神」と「主ヤハウェ」と「僕」の関係が明らかに啓示されるのです。この関係は後の新約聖書においてとても重要な意味を持つことになります。
[9]9節を5〜8節とどのように関連づけるのかで諸家の意見が分かれています。「先のこと」(複数)の原語「ラショーン」は「最初/以前/先立つこと」です。これらが「すでにもたらされた/成就した」〔完了形3人称複数〕とあります。「新しいこと」(複数)の原語は「ハーダーシュ」で「新しいこと/再興(レニュー)したこと/まだ聞かされていないこと」です。これらが「芽を出す」〔使役態未完了(未来)〕ことをヤハウェが予め「告げよう」〔分詞形〕とあります。
 「新しい(こと)」は40章〜48章にでてきますが(41章15節/42章9節/43章2節/48章6節)、49〜60章にはでてきません。ところが第三イザヤ書の61章4節/62章2節/65章17節/66章22節に再び表われます。「新しい」はヤハウェによる創造行為を含みますが、ここでの「新しいこと」は未来を指すだけでなく<今の時>に現臨するヤハウェの業でもあり、しかも諸民族もヤハウェを賛美することにつながるものです。
 ここはキュロス王が「主の僕」としてパレスチナに新たな復興をもたらすことを指すとも解釈できましょう。時の権力が主の使いとして用いられることはローマ13章1節にもでてきます〔ワッツ前掲書42章9節注解〕。今回の5〜9節の「主の僕」がキュロス王を指すと解釈すれば、「先のこと」とは捕囚期<以前の>ことであり、「新しいこと」とはこれからペルシア帝国においてヤハウェが開始する出来事を指すことになります。
 しかしキュロス王がダビデ王のように「主に油注がれた者」(45章1節)であるとしても、彼が「全世界に光をもたらす救い主」なのかは疑問です。むしろ第二イザヤはここで、すべてをキュロス王に帰して彼を賛美する風潮に批判の目を向けていると考えられます。「先に起こったこと」すなわち捕囚期以前のことはキュロスと関わりがないからです。主こそが「ヤコブの王」(41章25〜26節)であることを第二イザヤはここで強調しようとしているのです〔バルツァー前掲書135頁〕。
 したがって、今回の箇所では、過去・現在・未来がひとつになっているだけでなく、「諸民族」とありますから、時代的なつながりだけでなく地理的(空間的)な広がりも重ね合わされています。「現在」の主眼は「主の僕の任命」に置かれています。それは今この時にも行なわれているヤハウェの創造の業です。しかしこれが「先/始め」と結びつくことによって、創世記の天地創造にさかのぼり、そこから「現在まで」のことが「先に/初めに」生起してきたのです。バルツァーは、この「僕」の任命を「先のこと」である出エジプトのモーセとも重ねて見ています。出エジプト3章14節でモーセに顕された~名は「わたしは自分を現わそうとする者であることを自分から現わそう」"I will show myself as the one I shall show myself to be." という意味であること、これが「ヤハウェ」の名前の由来であることを第二イザヤは説き明かそうとしているのです。ヘブライ語の未完了形は過去から現在を通じて未来へいたる預言的な意味を帯びていますが、これが七十人訳のギリシア語では「わたしはある者である」"I am that I am" となりますから、ヘブライ語の原名から意味がずれることになります〔バルツァー前掲書134頁〕。
 ここで改めて、聖書を通じて語られるのは「現在の」神が創造する御言葉であることを想起する必要があります。第二イザヤ書の今回の箇所では、今ここに現臨する"present presence"神の創造の業が演劇的に提示されるのです。ここに、これまで「隠されていた」過去・現在・未来を通じるヤハウェの創造が啓示されるのです(イザヤ40章27節)。なおこの9節は、第二イザヤの後継者たちによって加えられた部分で、これによって「僕の歌」に新たな時間的な次元が加わることになります〔ヴェスターマン前掲書101頁〕。
■ 第二の僕の歌に先立って
 第二の僕の歌に入る前に、これに先立つ48章12〜15節を見ておきます。
 
ヤコブよ、わたしに聞け、
わたしが呼び出したイスラエルよ、
このわたしがその者である。
わたしは初めであり、終わりである。
わたしはこの手で地の基を据え、
右の手で天を打ち広げた。
わたしが呼び集めると、
 それらはこぞって立ち上がった。
お前たちはみな、集まって聞け。
彼らの中の誰が、これらのことを予告したか。
主の愛される者が
 バビロンに対して主の意志を行ない、
主の力ある業をカルデア人に対して行なう。
わたし、このわたしが、語って彼を呼び出し、
わたしは彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。
            〔フランシスコ会訳聖書〕
 ここでも先ずヤコブ=イスラエルの民に向かって主(ヤハウェ)の呼びかけが行なわれます。続いて「わたしがその者である」(原文「アニー・フー」"I am the One.")とありますが、これは「わたしは在りて在る者」と一般に訳されている~名「ヤハウェ」と同じ意味ですから、ここで神である<ヤハウェの名前が啓示>されます。続く「初めの者/先の者」と「終わりの者/後の者」は、すでに41章4節と44章6節にでてきたので、ここ48章12節で三度目です。この「初めと終わりの者」は、神ヤハウェが全世界の支配者であることを表わしていて、これが時間(歴史)と空間(宇宙)の両方を含む創造主であることを意味します。だから、神であるヤハウェは天と地のいっさいの権威/権能を把握している「王」であることが分かります。
 興味深いのは、ここでのヤハウェの支配領域が、それまでのイスラエルでは神から切り離されていると考えられていた陰府(シェオル)にも及んでいることです。「それらはこぞって立ち上がった」(13節)とあるのは、陰府に住む死者たちも「立ち上がる/復活する」というエゼキエル書37章1〜14節がここに反映していると指摘されています〔バルツァー前掲書290頁〕。
 続いて「お前たちはみな、集まれ」(14節)と呼びかけられているのは先のヤコブ=イスラエルの民(かつての南北両王国の民全体)を指すのでしょう。続く「彼らの中の誰が予告したか」とある「彼ら」とはバビロンを初めとする諸民族の神々(偶像)のことです。これに続いて登場する「主に愛される者」とは新バビロニア帝国を急襲して滅ぼし、イスラエルの民の帰還を可能にしたペルシアのキュロス王を指します。「わたし」(ヤハウェ)が「彼」(キュロス)を呼び出して「バビロンに対して主(ヤハウェ)の意思を行なわせた」のです。
■イザヤ48章
16「わたしのもとに近づいてこれを聞け。
 初めからわたしが隠れて語ったことはない。
 事が生起した時から、わたしは常にそこにいた。」
 「今、主であるヤハウェは
 わたしを遣わした、その霊と共に。」
17ヤハウェはこう言われる。
あなたを贖う方、イスラエルの聖なる方が 。
わたしはヤハウェ、あなたの神。
わたしはあなたを教え助けるもの。
あなたを導いて、その道を歩ませるもの。
18わたしの戒めに耳を傾けたなら
 あなたの平和は大河のようになり
あなたの義は海の波のようになった。
19あなたの子孫は砂のように
 あなたの体からの子らは砂粒のようになった。
 その名はわたしの前から
 断たれることなく滅びることもなかった。
20バビロンを出よ、カルデアから逃げ去れ。
 喜びの声をもって告げ知らせ
 このことを聴かせ
 届かせよ、地の果てまで。
 言え、ヤハウェは僕ヤコブを贖われたと。
21彼らは渇くことがなかった。
 彼らをして荒れ地を歩ませ
 彼らのために岩から水を流れ出させた。
 岩は裂け、水がほとばしった。
22悪しき者たちに平和はない、とヤハウェは言われる。
 
 バルツァーによれば、ここからが第二の僕の歌になります。しかし、この部分を僕の歌に含めることには疑問があります。1892年のドゥムの分類では、僕の歌 "the servant songs" は42章1〜4節/49章1〜6節/50章4〜9節/52章13節〜53章12節の4箇所でした。現在でもこの分類はほぼ踏襲されていますから、49章1〜6/7節を第二の僕の歌と見る説や訳がほとんどです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔ヴェスターマン前掲書206頁〕〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)343頁〕。
 バルツァーが48章16〜22節を僕の歌に含めるのは、ひとつには16節の後半を主の僕への召命だと解釈するからです。確かにこの節には49章1〜6節と共通するところがありますが、16節は、第三イザヤか誰かによる挿入ではないかと見ることもできます〔ヴェスターマン前掲書203頁〕。バルツァーが指摘するとおり、この部分全体にもモーセ像が反映していますが、モーセ像は、イスラエルの民と重ねられてもおかしくありません。第二イザヤ書は一般に41〜48章と49〜55章に大別されていて、キュロスが登場するのは48章までです。だから48章まではキュロス王への呼びかけが続いているという解釈も可能です〔Anchor(3)491〕〔フランシスコ会訳聖書48章(注)3〕。
 したがって筆者も48章16〜22節を僕の歌に含めるのは疑問だと思います。しかし、この部分は、第二イザヤの描く49章の第二の僕の歌を理解する上で大事な視野を与えてくれますから、以下で、バルツァーの説に準じながら参考までに注釈したいと思います。
■48章注釈
[16]16節は難解です。16節をできるだけ原文に近く訳すと次の通りです。
 
「わたしのほうに近づき(動詞は三人称複数)、このことを聞け。
初めから/頂上から、隠れて/ひそかに、わたしは語っていない(一人称強勢態完了形)。
起こった/生じた(三人称単数女性)、時/事(単数)から、
そこに/その時、わたしは(いた)。」
「しかし今、主であるヤハウェは
わたしを遣わした(完了)、そしてその霊を。」
                
前半で語るのはヤハウェです。聞くのはヤコブ=イスラエルの民です。「初めから/頂上から」「時/事」「そこに/その時」のように、時間と空間を同時に含む言葉が続きます。原文では16節4行目の最後に「わたし」が来ています。後半部は前半とは異なる人物の言葉です。「主」とあるのは通常では「ヤハウェ」の読み替えですが、ここではそうでなく、原語が「主」(アドナイ)とありますから「主ヤハウェ」となります。「主ヤハウェ」とありますから、この部分はヤハウェの言葉ではなく、したがって「わたし」とは「僕」のことです。ただし、「僕」とは「キュロス王」のことでしょうか〔フランシスコ会訳聖書〕?それとも「主の僕」のことでしょうか〔バルツァー前掲書293頁〕?。
 16節後半の2行「今、主であるヤハウェは、わたしを遣わされた、その霊とともに」には、49章1〜6節の僕の歌と共通する心情を読み取ることができます。しかし、この16節の結びについては、おそらく第三イザヤが欄外に注として書き込んだものが後に本文に取り込まれたのではないか、という見方があります(61章1節参照)〔Biblia Hebraica677頁(注)〕〔ヴェスターマン前掲書203頁〕。だから、主であるヤハウェの言葉は16節前半で終わっていて、後半の2行は主の呼びかけに対するキュロス王の応答だと見なすこともできます〔フランシスコ会訳聖書48章(注)3参照〕。フランシスコ会訳聖書では48章の終わりまでがキュロス王に関わる部分になりますから、「第二の僕の歌」は49章1〜7/9節?に限られています〔フランシスコ会訳聖書49章(注)1〕。
 ところがバルツァーによれば、この16節には出エジプト記3章のモーセの召命とシナイ山での神顕現と創世記1章1〜2節の創造が反映しています〔バルツァー前掲書293〜96頁〕。だからバルツァーは、ヴェスターマンやフランシスコ会訳聖書と異なり、第二の僕の歌を49章からではなく48章16節からだと見るのです。この解釈は、彼が主の僕にモーセ像を重ねているからです。16節後半の「遣わされた」にモーセの召命(出エジプト記3章10節)を読み取ることで、ここの「わたし」はモーセと重ね合わされた「主の僕」による応答だと解釈するのです〔バルツァー前掲書293頁〕。もしもそうだとすれば42章1節とは異なり、ここで初めて「主の僕」自身が語ることになります。
 バルツァーによれば、主の僕はここで全くなんの前触れもなく登場します。時間的あるいは空間的な「境界」が消えて、突然にモーセ像を反映する「主の僕」が現われるのです。こういう劇的な構成は、ギリシア劇では、アイスキュロスの『ペルシア人』(681〜842行)で、ダリウス王の亡霊が登場する場面に近いとバルツァーは見ています。亡霊は合唱の呼び出しに呼応して死者の亡霊として登場して、ペルシア軍の敗北の原因が王の「たかぶり」にあったことを告げますが、これはギリシア悲劇の立場から語られているからです。
 今回の僕の登場には合唱隊の呼びかけもありません。48章12節の「初め」(原語「ローシュ」)は「頭/頂上/最初/先のもの」のように時間と空間の両方を含んでいます。16節の「ローシュ」にも出エジプト記19章20節の「ヤハウェはシナイ山の<頂上に>降って、モーセを山の<頂上へ>呼ばれた」が反映しています。その間、民は「堺を越えて」ヤハウェに近づくことが許されませんでした。
 16節後半の「主の霊と共に遣わされた僕」の「遣わされた」は出エジプト記3章10節でモーセに向けられた「遣わす」を反映しています。ただし出エジプト記とは異なり、今回は「ヤハウェの御霊」が加わりますが、これは42章1節での僕の召命と呼応します。僕が最初に語るのは、「イスラエルを贖われるあなたのヤハウェはこう言われる」という神からの預言です。「ヤハウェはこう言われる」は預言の定型句で、今回と49章7節/8節と3度繰り返されます。
 17〜19節では、「僕」もまたモーセが語ったように神からの託宣をイスラエルの民に告げます。「ヤハウェはこのように語る」は、モーセが民に十戒を教える初めの言葉(申命記5章1節)と対応します。ここでは時間と空間の「境」が消えて、過去の人物(モーセ)が現在に入り込むのです。
 18〜19節で僕は、ヤコブ=イスラエルの民の悲惨な出来事が、彼らの過去の罪から出ていると嘆きます。その上、48章20節で語られるバビロンからの脱出が、同21節で出エジプトの旅と重ね合わされ、「バビロンを出でよ」という未来に向かう命令が来ます(20節)。脱出への民の力はかつての出エジプト体験から新たに与えられるものです。民はここで、神に従うことによる「あなたの平和」(18節)と、悪人たちの「平和のない」状態(22節)との狭間に置かれています〔バルツァー前掲書294頁〕。
 このように出エジプトを背景に48章16節を読むと、そこに違いも読み取ることができます。ここにはもはや神と民を隔てる「境界」は存在せず、民は「わたし(ヤハウェ)に近づいて聞く」ことができるからです。「初めから」語ることがモーセのように「山の頂上から」語ることと重なり、「起こった事と時」が創世記1章の創造を指すとすれば、今回の16節では、創造とシナイでの律法授与が結びつくことになります。だから「初め/頂上」は、世界の創造の初めであり、世界の頂上からの命令です。ここでは創造主が律法授与者なのです〔バルツァー前掲書295〜96頁〕。
[17]【こう言われる】冒頭の「ヤハウェはこう言われる」には、申命記5章1節「聞け、イスラエルよ」以下が響いていて、十戒の契約がここで再び新たに神と民との間に回復されることを表わしています。「あなた(ヤコブ=イスラエル)を贖う」は第二イザヤ書の一貫した主題ですが、ここでは、バビロンに裁きをもたらす「贖う方、聖なる方」(47章4節)が響いています。今回はこれが僕の口から語られますが、ここ17節の原文は言葉の句切り方が必ずしも一定でなく、語のつながりが柔軟ですから、「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる方」と続けるなら「救いと裁き」の両方の意味が響いてくることになります。ただし、「イスラエルの聖なる方、わたしはヤハウェ〜」と続けると、ここから17節の終わりまでがちょうど10語になりますから「十の言葉」=「十戒」と対応します。
【助ける】「教える」はさらに「助ける/支える」と言い換えられますが、「助ける」は一般に偶像/偽りの神々が「無力で助けられない」ことを指す否定的な意味で用いられます。しかしここでは肯定的に「助け支えて」歩ませてくださることです。
【道】十戒を含む個々の戒めは「道」と言い表わされています。これは民がエルサレムへ帰還する「道」のことでもあり(40章3〜5節)、主の戒めに歩む「道」の意味にもなります。
[18]冒頭は「〜さえしていれば」"if only..."という現実には起こらなかった過去のことを仮定する言い方で始まります。「注意して聴く/聴従する」は動詞の完了形ですから、「もしもあなたが聴き従ってさえいれば、あなたの平和は〜なったであろうし、あなたの義は〜なったことだろう」と過去に実現しなかったことを仮定して嘆いていることになります〔バルツァー前掲書298頁〕。"O that you had paid attention to...! Then your prosperity would have been..."〔NRSV〕。しかし「なったことだろう」は「ワウ」を伴う不定過去形です。ヘブライ語の動詞の時制のつながり方は独特で物事の完了と継続が切れたり重なったりします。今回の場合も、過去の失敗だけでなく、「〜するなら〜なる」と未来への希望が「すでに実現している」という含みを持つ言い方にもなります。だからここは、未来のこととして、「わたしの言葉に耳を傾けるなら〜大河のように〜海の波のようになる」とも訳されています〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。過去への嘆きが未来への希望と重なるのです。
[19]【子孫は砂のように】「あなたの」が繰り返し強調されていて、これは創世記13章16節/同22章17節にあるアブラハム契約を思い起こさせます。ヤハウェとイスラエルの契約がここで新たに「回復する」のです。
【その名】原語は「彼の名」です。「彼」とは、これまで「あなた」と呼ばれていたヤコブ=イスラエルのことでしょうか? 七十人訳では「あなたの名」となっています。バルツァーはここの「彼」はモーセを指していて、モーセがイスラエルの民の罪のために自らを犠牲にして「その名」を神の書から消すように祈り求めたことがここに反映していると見ています(出エジプト記32章32節)。出エジプト記ではモーセの願いは聞き届けられませんが、サマリアのモーセ五書の注解では、モーセのこの願いのために、十戒を記した二枚の石版にモーセの名は記されなかったとあります。第二イザヤは、「主の僕」をこのモーセに重ねて「その名」を記さなかったのでしょうか〔バルツァー前掲書299〜300頁〕。
[20]直前の過去への嘆きと未来への希望の重なり合いから、この20節では、はっきりと<新たな>出エジプトが始まります。しかしここでも、過去の出エジプトと現在の脱出と未来への展望が区別されながらもつながります。ここには、毎年の過越祭で唱えられる祭儀文が反映しているのかもしれません。
【バビロンを出よ】これは新たな脱出を指します。「カルデアから<逃げ去れ>」とあるとおり脱出は素早く行なわれなければなりません(出エジプト記14章5節)。しかし「喜びの声を上げる」とあるのは、出エジプトの時とは少し異なって、今回は勝利の脱出と言うより「感謝の脱出」であること示すものです。なおバルツァーによれば、ここは声を大きくするための合唱隊への指示書きにもなります。「このことを聴かせる」とあるのは、この脱出が明確な主の証しを伴っていなければならないからです。その証しとは「ヤハウェは僕ヤコブを贖われた」ことで、これが第二イザヤ書の主題です。
[21]ここでも、モーセを思わせる主の僕が語ります。過去の出エジプトとこれに続く荒れ野での体験と、民が現在置かれている新たな出立の状況と、これから起こるであろう未来の旅への展望が動詞の完了形で語られます。ここでは「かつてあったこと」が、将来も「必ず起こること」として語られますから、過去/完了形の訳〔バルツァー前掲書301頁〕〔ワッツ前掲書48章訳〕と現在/未来形の訳〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕の両方が可能です。
【渇くことがない】ここは出エジプト記17章1〜7節と民数記20章1〜13節から来ています。しかしどちらの場合も民によるモーセとヤハウェへの逆らいを伴っていて、しかも民数記では、モーセさえも焦りと主への不信仰から「岩に命じる」代わりに民に語り、しかも一度ならず二度までも岩を打ったとあります。先のほうはシナイ山での律法授与の前の出来事であり、「マサ」(〔主を〕試みる)の場で起こります。後のほうは律法授与の後で、カデシュでの「メリバ(争い)の水」と呼ばれます。しかし主(ヤハウェ)は、渇く者を見棄てることなく、彼らに応えて水を与え(41章17節)、主の霊を注いで民を潤すのです(44章3節)。
【荒れ地】これは「干上がった土地」のことですが、「砂漠」をも意味します。またこの名詞の語源となる動詞の使役態には「破壊して廃墟にする」の意味があります。だから「渇く」は「干上がった場所」を旅することでもあり、さらに「破壊と廃墟」の中を歩むことも重なります〔バルツァー前掲書302頁〕。
【彼らのために】原語「ラーモー」は単数と複数の両方に読むことができますから「彼のために」とも訳すことができます。ただし「ラーモー」を複数の「彼ら」(ラーヘム)の代わりに単数に読むのは詩的な言い方の場合です。したがってここは、「彼ら(=イスラエルの民)のために」という訳がほとんどですが、「彼(=ヤハウェ)のゆえに」という訳もあります。主を試した民だけでなく、モーセさえも主に逆らったことから、それにもかかわらず「ヤハウェの名のゆえに」彼らに水を与えたと解釈するのです〔バルツァー前掲書302頁〕。なお「岩は裂け」は詩編78篇15〜16節/20節と一致します。
[22]【悪しき者たち】言うまでもなくこれは主の律法に叛く邪悪な者たち一般を指しています。しかし、20〜21節で語られてきたことから判断するなら、ここで言う「悪しき者たち」とは誰のことを指すのか、これが第二イザヤ書の観衆たちには通じたはずです〔バルツァー前掲書303頁(注)200〕。ここでは、人間の業と主(ヤハウェ)なる神の業とが鋭く区別されているのが分かります。ただしそれは過去の民の罪への反省をこめた言い方であって、これから「新たな出立」を目指す民への指針となる言葉であることを見逃すことができません。
■第二の僕の歌(前半)
49章
1島々よ、わたしに聞け。
 諸民族よ、遠くから耳を傾けよ。
 ヤハウェは胎にあるわたしを呼び出し
 母の中にいる時からわたしの名を思い起こした。
2わたしの口を鋭い剣とし
 御手の陰にわたしを守り
 わたしを研ぎ澄ました矢として
 その矢筒の中にわたしを隠した。
3そしてわたしに言われた
あなたこそわたしの僕、イスラエル。
あなたによってわたしは栄光を現わすと。
4しかしわたしは言った。
 自分は空しく労した
 混乱と苦痛の内に力を使い果たした、と。
 それでも、わたしの正しさはヤハウェにあり
 わたしの報いはわたしの神にある。
5今こそ、ヤハウェは言われた。
 胎にいたわたしをその僕として造った方
ヤコブをそのもとに立ち帰らせ
イスラエルをご自分へ集めようとした方が。
ヤハウェの目にわたしは尊ばれ
わたしの神こそ、わたしの力であった。
6彼が言われた。
  あなたがわたしの僕となったのは、ただ単に
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰るためだけでない。
 わたしはあなたを国々の光とならせ
 わたしの救いを地の果てまで及ぼすと。
 
■49章注釈
 第二の僕の歌をこの49章1〜6節までとする見方があり〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)343頁〕、1〜9節前半までという区切り方もあり〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕、さらにバルツァーは、48章12〜16節までも第二僕の歌に含めて、その上、さらに49章1〜6節7〜12節との二つに分けています〔バルツァー前掲書301〜17頁〕。これだと第二の僕の歌は、全体で17節に及ぶ長いものになります。またこの部分の歴史的な背景として第一回のエルサレム帰還が行なわれたキュロス王の時代だけでなく、その後第二回の帰還が行なわれたダリウス一世の時代を今回の箇所の背景だと見る説もあります〔ワッツ前掲書49章〕。
 今回の1〜6節も難解な箇所です。ここでは、主による僕への召命の過去・現在・未来が自伝的要素を帯びて語られています。しかもその召命は終始イスラエルとの深い関わりにおいてとらえられています(3節/5節/6節)。ただし僕への召命には選びと挫折と希望が交錯していて、それだけ陰影の濃い内容になっています。この部分にはエレミヤ書の反映が多く、主の僕は自分とエレミヤとを重ねているように見えますが〔ヴェスターマン前掲書206頁〕、バルツァーはここにもモーセ像と主の僕の二重性を読み取ろうとしています。
[1]1〜3節は主の僕の「選び」に関する部分で、語っているのは1〜6節まで主の僕自身です。
【島々】これは特に東地中海沿岸の島々、とりわけギリシア人の住む地域を指します。そこに住む諸部族、諸民族に向かって「遠くから」主の僕の言葉に耳を傾けよと呼びかけるのです。呼びかける僕はイスラエルと重なり、個人が共同体の代表となっています。だから、第二の僕の歌は、僕(とイスラエルの民)による遠い諸民族への呼びかけで始まりますが、この呼びかけは6節の最後へつながります。イスラエルの民族~から世界を支配する唯一~ヤハウェへと、主の権威に対する展望が開けますが、それが「どのような」権威なのか、世俗的な王権なのか、法的な権威なのか、あるいはこのどちらとも異なるものなのか、これがここから主の僕を通じて告げられるのです。
【胎にある時から】エレミヤ書1章5節が反映しています。預言者の召命は彼の意志とかかわりなくすでに神によって定められているのです。この「選び」は新約ではイエスの誕生物語にも(マタイ1章18〜25節/ルカ1章26〜38節)、パウロの召命にも(ガラテヤ1章15〜16節)見ることができます。バルツァーはここの「呼び出す」にはヤハウェからのモーセへの「呼びかけ」(出エジプト記3章4節)が反映していると見ています。ギリシア神話で人間の「母」が重視される場合には、その父が神(例えばゼウス)であることを示唆しますが、今回のところでは「母」と同時に神ヤハウェが自分を「選んだ」方であることを明確にしています。
【名を思い起こした】原語は「覚える」。ただし神がその人の名を「覚える」とはその者を特に心に留めることです(日本語の「主君の<覚え>めでたい」に近い)。名前をつけることではありません。「名を発せられた」〔フランシスコ会訳聖書〕。「名を呼ばれた」〔新共同訳〕。なおこの1節はルカ1章15節/ガラテヤ1章15節に受け継がれています。
[2]【鋭い剣】「剣」は近くの敵と戦う時の、「研ぎ澄ました矢」は遠くの敵と戦う時の武器です。主が僕の「口」を武器として用いるとは、僕の「言葉」が鋭い武器として働くことです。ここにもエレミヤ書の影響を読み取ることができます(エレミヤ1章9節/同23章29節/新約ではエフェソ6章17節/ヘブライ4章12節)。ただし、このような「攻撃的な」働きは第二イザヤの主の僕にふさわしくないという見方もありますが〔ヴェスターマン前掲書208頁〕、第一イザヤやエレミヤに見るイスラエルの預言者たちの「鋭い神の言葉」が「僕」の口を通して捕囚と帰還のイスラエルの民に語られたとしても不自然ではありません。
【御手の陰に】僕の口から発せられる「鋭い言葉」は聞く者たちの反発や攻撃を呼び起こしたでしょう。だから僕による「言葉の闘い」には、主にある特別の見守りが不可欠です。主による特別の保護が「御手の陰」「その矢筒に隠す」と言い表わされていますが、言葉による攻防も主から与えられた「武具」に入ります(詩編17篇7〜9節/64篇3〜4節/新約ではエフェソ6章14〜17節)。ただし、僕のこの「言葉の闘い」が結果として不成功に終わったことが4節で示唆されていますから、彼はこのような「言葉の闘い」に不得手だったのかもしれません。バルツァーによれば、ここにはモーセとアマレクとの闘いが反映しており(出エジプト記17章8〜16節)、こういう「闘うヤハウェ」像(ハバクク書3章7〜9節)とモーセとのつながりを申命記32章39〜42節/ユディト記5章13〜14節に見いだしています。しかしモーセは敵との戦いに勝利しても(民数記21章21〜30節)、イスラエルの背信を防ぐことができませんでした(同25章1〜9節)〔バルツァー前掲書306頁〕。なお、この2節はヨハネ黙示録1章16節/同2章12節/同19章15節に受け継がれています。
[3]【わたしの僕、イスラエル】3節は謎に満ちた箇所です。まずここで「僕」が「イスラエル」とはっきり名指しで呼ばれています。「主の僕」が誰かを特定されるのはここだけですから、「イスラエル」は48章1節/12節を受けて後から挿入されたという見方があります(「イスラエル」が抜けている写本があります)。確かに「イスラエル」が「母の胎にいた」とあるのはおかしく、「イスラエルの口」も不自然です。しかし、この語は初めから本文にあったと考えられます。また今回の歌では「僕」はイスラエルと関連づけられていますから、「僕」の個人的な存在を拡大解釈してイスラエル共同体と重ねるための編集でしょうか〔ヴェスターマン前掲209書頁〕。ただし僕をモーセ像と重ねても「イスラエル」という呼びかけは不自然でないという指摘もあります〔バルツァー前掲書308頁〕。いずれにせよ、ここでは個人が共同体と分かちがたく結びついていることを示しています〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)344頁〕。
【わたしは栄光を】原語の動詞は再帰態(ヒトパエル)で「自ら栄光を現わす」です。ヤハウェが「誰かにおいて自ら栄光を現わす」という言い方はここ以外の預言者にはありません。「主人がその僕において栄誉を現わす」のは異例であり、一つの逆説です。全世界の唯一の神ヤハウェが「その者において栄光を現わす」と言われる「その者」とはいったいどのような人物なのか? これがここでの、と言うより僕の歌全体における神秘です〔ヴェスターマン前掲書208頁〕。
[4]【わたしは言った】これはフランシスコ会訳聖書による直訳です。「わたしは思った」〔新共同訳〕。4節のこの出だしは3節冒頭の「そしてヤハウェはわたしに言った」に対応しますが、今回の箇所は、全体が「僕」の言葉ですから、3節と4節でヤハウェと僕が「対話」しているのではありません。「わたしが思った」はこの点を配慮した訳でしょう。しかし、ここは僕自身の内面の単なる主観的な告白でも<ない>ことに注意しなければなりません。劇的な台詞として語られる場合には、3〜4節はヤハウェと僕の対話だと聴衆に受け取られるからです。5節で再びヤハウェの言葉が僕の口から語られます。同様のことが6節の冒頭についても言えますから、3節、4節、5節、6節の冒頭は、後のギリシア悲劇のように明確な「対話形式」になってはいませんが、そこへいたる途中の「半/擬似対話」様式になっていると見ることができます〔バルツァー前掲書306頁〕。ちなみに3節、4節,6節の「言った」の後に括弧を付けてある訳と〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕、全く括弧を付けない訳〔新共同訳〕〔バルツァー前掲書305頁〕と、3節と6節には括弧を付け、4〜5節には付けない訳があります〔ヴェスターマン前掲書206頁〕。
 プラトンは、『ソクラテスの弁明』と同時に、獄中のソクラテスに逃亡をうながしたクリトーンとソクラテスとの対話『クリトーン』を著わしています。これら二つは前399年のソクラテスの死後間もなく書かれたと思われます。『クリトーン』では、クリトーンとソクラテスの対話がみごとに再現されていて、そこにはソクラテスの人となり、死に臨んだ彼の高い精神性が生き生きと描かれています。語り合うのはソクラテスとクリトーンです。しかし、その対話そのものはプラトンの目を通して書かれています。このように『クリトーン』では、登場する二人の人物とこれを描いているプラトンの三者の役割をはっきりと区別することができます。
 一方今回のイザヤ書49章3〜6節では、全体を「わたし」である第二イザヤが語っています。この「わたし」に主(ヤハウェ)が語ります。この主に応えて第二イザヤが語ります。繰り返しますが、「この部分」は全体が第二イザヤの言葉です。しかし、第二イザヤ書はその全体から見るなら、そこで語っているのは神ヤハウェであり、ヤハウェが第二イザヤを通して語っています。言わば第二イザヤは、自分をヤハウェの語る言葉の中に身を置きながらも、<あえてその中で>、自分へのヤハウェの語りかけと自分からのヤハウェへの語りかけを対話化しているのです。しかもそれは相互に反論し合う対話と言うよりもその対話を通じて顕わされるヤハウェからの啓示です。これをギリシアの劇的な対話形式の未発達な段階と見なすのか、それともギリシア劇とは異なるヘブライ(あるいはオリエント)独自の神と自己との「啓示的対話様式」と見なすのか、この点は慎重に考える必要があります。こういう、啓示的対話様式は新約の例えばヨハネ福音書の語り方にも影響を及ぼしていると考えられます。
【空しく労した】原文は「空虚/無駄に労してきた」「混乱と苦痛の内に力を使い果たした」と2行になっています。このような嘆きの背景として、イスラエル解放の希望を託したキュロス王がバビロンの神マルドゥクを拝するようになり、バビロンに居着いたイスラエルの民の中には、荒れ野を旅して荒廃した祖国へ戻ろうとしない者たちも多く?いたために、当初の期待通りに帰還が進まなかったことがあるのかもしれません〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)344頁〕。あるいは僕が「イスラエル」と重ねられていることから、アマレクとの闘いに勝利した後も民の反逆や裏切りにあったモーセを重ねる見方もあります〔バルツァー前掲書308頁〕。いずれにせよ、僕自身の目から見ると、今まで自分のしてきたことが「徒労に終わった」と映ったようです。このような嘆きは詩編にも見いだすことができますが(詩編31篇23節)、詩編での嘆きは多くの場合、裏切りや(詩編41篇5〜9節)追放や(同42篇3〜6節)病(同38篇5〜12節)のように、自分の身に降りかかった出来事に対するものです。しかしここでの僕の嘆きは第一イザヤやエレミヤの場合のように(イザヤ6章5節/同26章9〜18節/エレミヤ1章6節/同15章10〜18節)、ヤハウェから与えられた使命と民の現実との狭間にあって、己の使命を果たすことができない状況に置かれたための「仲保者としての嘆き」〔ヴェスターマン前掲書210頁〕であることに留意しなければなりません。
【わたしの正しさ】「正しさ」の原語は「ミシュパット」(公正/裁き)ですから、自分がこれまで行なってきたことを「裁いてくださる方」は主であり、主は自分を正しく裁定して、その労苦に報いてくださると確信を述べています。終わりの2行は「しかしながら/それでも」で始まりますから、この部分をその前の「わたしに言った」に含める訳と含めない訳とがあります。ここも半間接話法ですから、どちらでも内容は変わりません。僕は挫折感と失望の中にあって、しかも主が自分を支え自分を正しく見てくいてくださっていることを確信し、慰めを見いだしているのです。この現実と霊的な支えの中から、次に来る主からの語りかけが聞こえるのです。
[5]ここは難解です。まず私訳をあげますが、これがほぼ原文通りの訳です。
 
今こそ、ヤハウェは言われた。
胎にいたわたしをその僕として造った方が
ヤコブをそのもとに立ち帰らせ
イスラエルをご自分へ集めようとした方が。
ヤハウェの目にわたしは尊ばれ
わたしの神こそ、わたしの力であった。
 
 これを次にように最後の二行を最初に移し替える訳があります〔新共同訳〕〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)344頁参照〕。
 
ヤハウェの目にわたしは尊ばれ
わたしの神こそ、わたしの力であった。
今こそ、ヤハウェは言われた。
胎にいたわたしをその僕として造った方が
ヤコブをそのもとに立ち帰らせ
イスラエルをご自分へ集めるために。
 
 この訳だと、5節初めの2行が4節の終わりの2行と並び、
 
それでも、わたしの義はヤハウェにあり
わたしの報いはわたしの神にある。
ヤハウェの目にわたしは尊ばれ
わたしの神こそ、わたしの力であった。
 
となりますから内容的にうまくつながります。その上、これに続けて5節から6節へ次のように続けます。
 
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
ご自分の僕として形作られた主は
こう言われる。〔新共同訳〕
         
これで5節初めの「今や、主は言われる」が6節初めの「こう言われる」で繰り返されているのが分かり、「今や、主は言われる/た」と6節から僕に新しい使命が与えられることがはっきりします。
 しかし、5節の終わりの2行を節の始めに移し替えるのは本文から出たものではありません。この5節には「〜する方、〜する方」と同格関係を重ねる第二イザヤ独特の文体がよく現われていますから、これを破壊すると原文の意味合いが損なわれる恐れがあります。このため改訳英語聖書〔REB〕は次のように訳しています。
 
The Lord had formed me in the womb to be his servant,
to bring Jacob back to him
that Israel should be gathered to him,
so that I might rise to honour in the Lord's sight
and my God might be my strength.
And now the Lord has said to me:
(主はわたしをその僕とするために胎の中で形作った。
 それはヤコブを主に引き戻すためであり
 これによってイスラエルが主のもとに集められるためであり、
 その結果としてわたしが主の目にかなう名誉に与ることになり
 わたしの神がわたしの力となるためである。
 そこで今や主はわたしに言われた。)
 
 この英訳では、5節初め「今こそ、ヤハウェは言われた」を6節の初めに移して6節での繰り返しを省き、全体をかなり意訳してあります。このほうが本文の原意に近いと言えます。ただしこの訳だと「その結果としてわたしが主の目にかなう名誉に与ることになり、わたしの神がわたしの力となった」とあるところも主が僕を形作った目的(この目的を僕は果たすことができなかったようです!)の中に含まれてきます〔フランシスコ会訳聖書〕。構文的に見ればこの訳は正しいのですが、終わりの2行を僕の過去の回想からはずす読み方もあります〔ヴェスターマン前掲書206頁〕〔ワッツ前掲書訳〕〔バルツァー前掲書305頁〕。回想に含めるにせよ、はずすにせよ、ここには僕のそれまでの体験が陰影を帯びて語られているのに変わりありません。たとえ「僕」としてのこれまでの使命は失敗に終わったとしても、「自分が主の目に尊ばれ、神が自分の力であったことに変わりがない」ことを言おうとしているからです。
 「かつて主はわたしにこう告げてくださった。あなたが召し出されたのは<ヤコブを主に引き戻す>ためであり<イスラエルが主のもとに集められる>ためであると。しかしわたしに与えられた主の言葉は、わたしには「空しく」終わったように思われ、わたしに与えられた使命は挫折に終わったように眼に映る。だからと言って、その間もヤハウェがわたしを支えてくださり、わたしが主の目から重んじられていて、終始神がわたしの力となってくださったことに変わりがない。」これが4〜5節で第二イザヤが言おうとしていることでしょう。この挫折と主の支えと恵みこそが、続く6節での新たな使命へつながることになります。
【今こそ】「島々よ、聴け!」と現在形で語り始めた僕は、「母の胎」から始めて、己の選びとこれまでの労苦を顧みる過去への回想につながりますが、その過去の挫折の中から、3節の終わりでも4節と5節の終わりでも、神ヤハウェにある栄光と慰めと報いと力に裏打ちされ支えられて来た現在の自分を見いだすのです。僕は、「今こそ」とあるように、ここから主にある新たな使命を受けることになります。過去・現在・未来が重なりながらつながっているのに注意してください。この「今こそ」が6節の「言われた」に続きます。なおこの5節はヨハネ11章52節に受け継がれています。
[6]5節では、主の僕に与えられていた使命、「ヤコブを主のもとに立ち帰らせ」「イスラエルを主のもとに集める」ことをついに僕は果たすことができませんでした。それにもかかわらず、主は僕を「尊び」彼に神の力を与えることを止めなかったのです。
 そして今ここから、これまでの失敗を回想する僕に向かって、ヤハウェは<新たな使命>を課すのです。僕の使命は「ヤコブを立ち上がらせる」こと、ヤコブ=イスラエルの残りの民をエルサレムへ連れ帰って、再びエルサレム神殿を復興して民を完全な解放へと「生き返らせる」ことでだけでは<なかった>のです。僕は<この使命>を果たすことに失敗したと感じています。ところが不思議にも、ヤハウェは、そのような自分にも遠くの島々にいたるまで諸国の民にヤハウェの啓示の光をもたらす(1節)新たな使命を課すのです。6節のこの時から、僕には新しい人生が始まるのです〔ヴェスターマン前掲書211〜12頁〕。「ただ単に」と訳した原語は「軽んじる/軽く見る/小さく見る」ことです。この原意を生かすなら、ここは、ヤコブ=イスラエルに対する僕の使命のゆえに、彼はこれまで「軽しめられて」きたが、諸国の民に向けてヤハウェの救いをもたらす新たな僕の使命においても、同様に「軽しめられる」という事態が生じるという預言だと解釈して、この新たな使命こそが50節以下へつながるという見方もあります〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)344頁〕。
 しかしこの6節では僕の使命がイスラエルと結びついて<〜だけでない/〜だけではまだ足りない>と語られていますから、ここでイスラエルにも新たな希望が与えられていることを読み取ることもできましょう〔バルツァー前掲書309頁〕。僕はただ個人としてではなく、イスラエルの民の代表としても諸国民への使命を果たすべく新たに呼びかけられているのです。僕の回想は、1節で現在の諸国民への呼びかけに始まり、僕の過去から現在までの回想に及び、5節では現在とこれまでの過去とが重なり、6節では未来へ向かうのです。バルツァーはこの「諸国民への光」とはモーセが諸国に与える「律法の光」のことだと見ています〔バルツァー前掲書311頁〕。
 なおこの6節はマタイ12章18節/ルカ2章32節/ヨハネ8章12節/使徒言行録1章6節/同8節/同13章47節/ヨハネ黙示録7章4節に受け継がれています。
■第二の僕の歌(後半)
49章
7ヤハウェはこう言われる。
イスラエルを贖う方、その聖なる方が
深く蔑まれる者に
諸国民に忌み嫌われる者に
支配者たちの僕に向かって。
「王たちは見て立ち上がる
また君侯も。そして彼らはひれ伏す
ヤハウェのゆえに
真実にいますイスラエルの聖なる方のゆえに。
彼があなたを選んだのだから。」
8ヤハウェはこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに応え
 救いの日にあなたを助けた。
 あなたを守り、あなたを与えた
 民への契約のため
 国土を再興するため
 荒廃した嗣業を継がせるために。
9捕らわれ人たちに「出でよ」と告げるため
闇にいる者たちに「姿を見せよ」と。
彼らは道すがら家畜を養い
荒れ地はすべて牧場になる。
10彼らは飢えることなく渇くことなく
 太陽も熱風も打つことがない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴うから。
11わたしはすべての山を道とし
わたしの広道の土を盛る。
12見よ、これを。
 遠くから彼らが来る。
 見よ、これを。
 北からも西からも
 また、シニムの地からも。
13天よ、歓喜せよ、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 見よ、ヤハウェはその民を慰め
 その貧しい人々を憐まれたから。
 
 先の第一の僕の歌は、42章1〜4節と同5〜9節のふたつに分かれていて、これに同10〜13節の合唱による賛美が続いていました。ここの第二の歌も、49章1〜9節前半と同9節後半〜12節の二つに分かれていて、これに続いて13節の合唱による賛美が来ます。第一の歌と第二の歌では、42章6節と49章8節が対応し、42章7節と49章9節前半が対応しています。49章8節は後からの追加で、これによってここで語られている「僕」の性格が明らかにされます。
 問題は7節で、これを前半と後半に分ける読みがあります。前半の「ヤハウェはこう言われる。イスラエルを贖う方、その聖なる方が、深く蔑まれる者に、諸国民に忌み嫌われる者に、支配者たちの奴隷に向かって」と、後半の「王たちは見て立ち上がる、また君侯も。そして彼らはひれ伏す、ヤハウェのゆえに、真実にいますイスラエルの聖なる方のゆえに。彼があなたを選ばれたのだから」に分けて、後半部分だけを12節の最後にまわすのです〔ヴェスターマン前掲書212〜13頁〕。後半部分は第二の歌のほんらいの結尾であったと見るからです。なおフランシスコ会訳聖書を除くなら、7〜12節では、9節の2箇所以外に(私訳参照)「 」はいっさい用いられていません〔新共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕〔ヴェスターマン前掲書訳〕〔バルツァー前掲書訳〕。
 7節の前半は「僕」個人に宛てられていて、ここは53章3節につながります。しかし、ここはイスラエルの民全体の「嘆き」とも重なります(詩編22篇7節/同44篇14〜17節/哀歌1章8節など)。ところが、この「僕」が、権力ある者たちの「驚きの的」へと転じるのです。「侮蔑から驚きと賛美の的へ」というこの大きな逆転こそが、52章13節〜53章12節へつながる僕の歌の主題です〔Baltzer.Deutero-Isaiah.313.〕。
[7]「イスラエルを贖う方」と「聖なる方」という並列した呼び方には「恵み深い」だけでなく、人間には理解できない不可解な取りはからいをする神への畏敬と緊張がこめられています。語りかけられているのは僕個人だけでなく、その個人が代表するイスラエルの民です。イスラエルの民は「深く蔑まれ」て諸国民に「忌み嫌われ」ているからです(哀歌1章8節/同3章45節/同5章1節)。「蔑まれる」「恥を受ける」という言い方は、古代人にとって現代のわたしたちには理解できない深い意味を帯びていました。だから7節前半の苦難と恥辱は、8節以下の希望に満ちた見通しと鋭い対照をなします。しかしここでは、そのイスラエルの苦難と恥辱が一人の僕に課せられるのです。これはおそらく編集によるものでしょう〔ヴェスターマン前掲書214頁〕。
 この「僕」とはいったいだれのことなのか? モーセ像がその背後にあるのは確かですが、ここは過去形ではなく現在形であり、しかも7節の後半は未来の出来事を指します。このことから、「僕」は、エルサレム城壁の再建の指導にあたったネヘミヤだと特定する見方があります〔バルツァー前掲書314〜15頁〕。そうだとすれば、「蔑まれ」「憎まれる」とあるのは、再建を妨害しようとした「ホロニ人サンバラト、アンモン人の役人(僕)トビヤ、アラブ人ゲシェム」たちからの仕打ちを指すことになりましょう(ネヘミヤ記2章19節)。ネヘミヤも自分を「主の僕」と呼んでいます(ネヘミヤ記1章11節)。ネヘミヤとイスラエルの民がモーセ律法へ寄せる想いはネヘミヤ記1章7〜8節に語られています。ここで語られている「荒廃した嗣業」の具体的な背景には、廃墟と化したエルサレム城壁の再建(前445年より)があります。だとすれば7節前半の動詞の分詞形は、「蔑む者のゆえに」「忌み嫌う異教の諸民のゆえに」「支配者の僕ゆえに」のように読むこともできましょう。「蔑む」も「忌み嫌う」も古代では「よそ者」に対する感情を表わす言い方だったからです(ネヘミヤ記4章1節参照)。「支配者の僕」とあるのはアンモンの役人トビヤを指すのかもしれません。
[8]8節前半では、「恵みの時」「救いの日」と明確な「時」が特定されます。イスラエルの民の苦難の中での長い祈りが「応えられ」、「恵みの時」が来て、苦しい捕囚の日々から「救われる日」が訪れたのです。これが8節冒頭でヤハウェが語った「言」(こと)であり「事」です。以下12節まで、その応えられた祈りの成就と救いの日の出来事が語られますが、この部分は後にパウロが、イエス・キリストの訪れの時として引用している箇所です(第二コリント6章2節)。
 後半ではヤハウェが主の僕を「守った」こと、彼を「民への契約として与えた」ことが告げられます。「あなたを守って、民への契約として与えた」は42章6節と同じですが、「民への契約として(誰かを)与える」という言い方は他に見あたりません。「守った」と「与えた」という私訳は、原文と英訳 "I have kept you and given you as a covenant to the people."〔NRSV〕に従っています。しかしここは異読によって「あなたを<形づくり>あなたを<立てて>民への契約とした」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕と読む場合が多いようです。このほうが特定の「僕」をその胎にある時から「選び」、彼をイスラエルだけでなく諸国民への新たな契約として「立てた/任命した」ことが明確になるからでしょう。
 ヤハウェがイスラエルの民の祈りに応えたこと、そして主の僕を選び、彼を新たな契約として任命したこと、その目的が8節の終わり2行に明示されます。それは「国土を再興する」ことであり「荒廃した嗣業」を改めて受け継ぐことです。これは、失われたエルサレムとユダの国土が再びイスラエルの民によって「復興する」ことであり、さらに破壊されたままの神殿と失われていた国土の産物が再び回復され「受け継がれる」ことを指します。しかし、「国土を復興する」ことは、同時に新たな「ヤハウェの御国が復活する」ことでもありますから、「国土」と「御国」、「復興する」と「復活する」、この両義をここに読み取ることができます。また「主の僕」を通じて呼びかけられている「諸国の民」にも、このような「新たな御国」を見ることができ、「新たな嗣業」を受け継ぐ道が開かれることになります。8節でヤハウェはこのことを宣言しているのです。
 ここでの「民への契約」が、モーセがイスラエルの民に与えた契約だとすれば、ネヘミヤ記8〜10章で、民が水の門の前に集まり、モーセ律法の朗読を聴いた出来事と関連づけることができます。ただし、ネヘミヤ記では、律法の朗読はネヘミヤではなく「祭司であり学者であるエズラ」によって行なわれたことになっています。しかし、すでに以前の章で述べたように、エズラとネヘミヤとの活動の時期的な前後関係とその内容については疑問があります。だから、ネヘミヤ記8〜10章では、実際はむしろネヘミヤのほうが主役でありエズラは脇役であったと見ることができます。第二イザヤ書には「祭司」に触れた記事がありません。「僕」の名前は特定されていませんが、第二イザヤはネヘミヤを念頭に置いているという見方もできそうです〔バルツァー前掲書315〜16頁〕。
[9]「囚われ人に『出でよ』という」も「闇に住む者に『姿を見せよ』と言う」も、捕囚状態にある牢獄からの解放を指しますが、これが出エジプト体験と重ねられているのは明らかです。続く2行は、バビロンからエルサレムまでの長い荒れ地の旅をヤハウェが導いてくださることを表わしますが、この2行には詩編23篇1〜2節が反映しています。ここは、かつてイスラエルの民が荒れ野をさまよった時よりもいっそう大きな神の導きが帰還の民に与えられることを預言しているのでしょう。
[10]最初の2行はヨハネ黙示録7章16節に反映されています。また10節後半は詩編23篇2節を反映しています。
[11]「広道の土を盛る」とは、道のない所に土を盛ることでハイウエイを作ることです。9〜10節は帰還の民への神の恵みが、出エジプトのイスラエルの民への導きよりもさらに勝ることを指します。
[12] この節は6節後半を受けて18節へつながります。四方に散らされたイスラエルの民が聖地エルサレムへ「集められる」というのは巡礼者たちのエルサレムへの旅も含めているのでしょう。
【シニム】これはナイルの上流の第一の滝があった場所で、エジプト王国の最南端にあたる「スエネ」(現在アスワンダムのある所)のことです。ここにエレファンティネと呼ばれる島があって、1890年代にこの島から多数のアラム語のパピルスが発見されました。これらによって、前5世紀に、ここにユダヤ人の守備隊の植民地があったことが判明したのです。おそらく国境の防備にあたっていたユダヤ人の傭兵部隊でしょう。この植民地がペルシア帝国によるエジプト支配の終わり頃まであったことが判明しましたが、ここにはユダヤ人の神殿もありました。前410年にエジプトのクヌム神の神官がこのユダヤ人の神殿を破壊したことが記録されていて、前410〜407年にこの地のユダヤ人がユダヤ地区のペルシアの知事に書簡を送り、神殿の再建を願い出ています。しかし、エルサレム神殿だけを唯一のユダヤ教の聖地とする立場から見れば、この願いはエルサレム以外の地にも神殿を認めることになりますから問題になりました。「シニムの地からも」巡礼にエルサレムを訪れるとあるのは、このような事情を背景にしていると思われます。そうだとすれば、この「シニムの地から」は第二イザヤ書が書かれた時期を判断する一つの資料になります〔バルツァー前掲書316頁〕〔『旧約新約聖書大事典』教文館239頁〕。
 バルツァーによれば、49章1〜12節には実際の演出にあたるヒントが隠されています。7節の「蔑む」は「バッザー」という独特の発音でその仕草をしてみせたり、「忌み嫌う異国民」「王」「君侯たち」は、それぞれ特殊な「しるし」を着けたり、それと分かる身なりで登場したのでしょう。「ひれ伏す」「見て立ち上がる」もそれなりの演技を指示しています。特に、「蔑む」「忌み嫌う」ことが、「驚いて見る」「ひれ伏す」ことへ逆転する場面では、とりわけ観衆によく分かる演出が行なわれたことでしょう。旅の途中の「太陽と熱風」は、先に出てきた「焼き尽くされるバビロン」(47章14節)と対照されて演じられたでしょう。12節に「見よ」が繰り返されいるのも、巡礼の民を指す演技を指示しています。この歌の最後は13節の合唱で終わります。
 以上で分かるように、バルツァーによれば、第二イザヤはその「僕の歌」で、ネヘミヤをモデルにして、これにモーセ像を重ねて描いています。モーセ律法ならエズラのほうがふさわしい気もしますが、ネヘミヤがモデルであるのが興味深く不思議です。しかし、第二イザヤ書の「主の僕」は終始無名ですから、これらの人物像にさらにエレミヤなども加えられていると思います。これら複数の人物像を総合的に理想化して、第二イザヤ自身の「主の僕」像を創り出していると見るのが適切でしょう。 
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