27章 僕の歌(後編)
■第三の僕の歌
50章
4主ヤハウェは、わたしに舌を与えて弟子とした。
疲れた人を言葉で支えることを悟らせるために。
朝ごとにわたしを起こし
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聴従させてくださる。
5主ヤハウェはわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず
後ずさりしなかった。
6打つ者たちに背を委ね
ひげを抜く者に両頬を向けた。
顔を隠そうとせず、
恥辱の唾を受けた。
7主ヤハウェが助けてくださる。
だからわたしは恥じることがなかった。
だから顔を火打ち石のようにした。
わたしは知っている
これは決して恥にはならないと。
8わたしの義を証しする方は近くにいます。
誰がわたしと言い争えよう!
わたしと裁きの場に立つがよい。
誰がわたしの義を告発するのか
わたしに向かって来るがよい。
9見よ、主なる神がわたしを助ける。
誰がわたしを罪に定めえよう。
見よ、彼らは皆、蝕(むしば)まれる衣のように
しみがそれらを食い尽くす。
■第三の僕の歌について
この僕の歌の4〜5節1行目までは、ヤハウェに対する個人的な信頼/確信の詩編に近いと言えます。しかし5節2行目〜6節では、一変して個人の嘆きの詩編に近くなります。7節以降は、信頼と嘆きが結びつきますが、そこに表われるのは自己の無実を主張する抗議であり、それも主(ヤハウェ)と民との間の仲保者であるがゆえの嘆きであり、抗議であり、信頼です。だからこの僕が置かれた立場はモーセやエリヤやエレミヤのそれに近いと言えます〔Westermann.Isaiah40-66.226-27.〕。
ここで語られる状況は、エレミヤのそれと共通することが指摘されています。イザヤ50章4節=エレミヤ書15章16節「あなたの言葉が見つかると、わたしはそれをむさぼり食べた。」/イザヤ50章5節後半=エレミヤ20章9節「主の名を口にするまい。もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められ、火のように燃え上がります。」/イザヤ50章6節=エレミヤ11章19節「わたしは飼い慣らされた小羊が屠り場に引かれて行くように何も知らなかった・・・・・」。同15章15節「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください」。同20章8節「主の言葉ゆえに、わたしは一日中恥と誹りを受けなければなりません」。/イザヤ50章8〜9節=エレミヤ書11章20節「正義を持って裁かれる主よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明けお任せします」。
これらの共通性から見て、第三の僕の歌は、御言葉の仲保者が語る信頼の歌です。ここで語るのは預言者ですが、それが第二イザヤ自身なのかどうかは明示されません。ただし、この僕が、己の使命、己の苦難、己と神との関係をエレミヤのような預言者と同じに見ているのは確かです〔ヴェスターマン前掲書228頁〕。もっともこの第三の僕の歌にもモーセ像、特に申命記のモーセを重ねる見方があります(申命記6章16節のマサの出来事/同34章10節「主と顔と顔を合わせる」)〔Baltzer.Deutero-Isaiah.340-41124ff.〕。
■50章注釈
[4]【主ヤハウェ】「主ヤハウェ」(アドーナーイ・ヤハウェ)は独特の呼び方で、今回3度繰り返されています。「主」(アドーナーイ)は通常「ヤハウェ」と記されている箇所を~名「ヤハウェ」をそのまま声に出すのをはばかって「主」(アドーナーイ)と読み替えて発音するからです。だからここでは、神を固有名詞の「ヤハウェ」と呼びかけ、この方こそ「主」(アドーナーイ)であると告白することで、「<主>であるヤハウェ」とその「僕」である自分との関係を明らかにしようとするのです。第二イザヤ書にはさらに「~ヤハウェ」(エリー・ヤハウェ)という呼び方もでていて(42章5節)、これは「ヤハウェがただ一人の神である」ことを告白するものです。唯一の「~ヤハウェ」を「<主>ヤハウェ」と告白することで自らがその「主の<僕>」であることを明確に自覚するのです。だから第二イザヤの「僕」を正しく「神の僕」 "the Servant of God" と呼ぶことができます〔バルツァー前掲書124頁以下〕。すでに42章8節の注釈で指摘したように、「神」と「ヤハウェ」と「主」と「僕」、これらが新たな関係において創造されているのです。創造主と被造物という非可逆的な関係にもかかわらず、創り主と創られた人との不思議な「交わりの確かさ」、これこそ「主ヤハウェ」が啓示していることであり、その「主の僕」としての自覚の拠り所なのです。
なお一般的には、ここは「主なる神」と訳される場合が多いようです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。"the Lord God" 〔NRSV〕〔REB〕。「ヤハウェ」を固有名ではなく「神」として意訳したのでしょう。また、ヘブライ語原典〔Biblia Hebraica〕の「アドーナーイ」を「アドーニー」(<わが>主)と読んで「わが主ヤハウェ」と読むこともできます〔バルツァー前掲書338頁(注)4〕〔中澤訳202頁〕。「主」と「僕」の関係を重視した訳でしょう。しかしここは「主ヤハウェ」 "the Lord Yahweh"〔ヴェスターマン前掲書225頁〕〔バルツァー前掲書338頁〕と訳すべきです。
【弟子として】50章4節では、この僕は自分を主ヤハウェの「弟子」と呼ぶことで、さらに独自の関係を提示しています。主ヤハウェの弟子は「神の弟子」なのです〔ヴェスターマン前掲書229頁〕。ここには、イスラエルの神ヤハウェ(創造者)と人間(被造物)の乖離と同時に、神ヤハウェと人との不思議な「人格的な親(ちか)しさ」がこめられています。「主ヤハウェの弟子」であり「神の弟子」であること、これがこの僕の預言者としての支えです。
ここで「舌を与え」「言葉で支え学ばせる」とは、語ることも聞くことも、そのいっさいが主ヤハウェから出ている状態を指します。この弟子は「朝ごとに」主から聴き、主は「朝ごとに」語ることを弟子に与えるのです。それだけでなく、弟子は、主ヤハウェからの語りかけに身を委ねることで、その語りかけに聴従するのです。ここにでてくる「主ヤハウェ」とその「弟子」の関係は、後の新約聖書に受け継がれて重要な意味を帯びてきます。 42章8節で指摘したように、主ヤハウェは同時に「唯一の神ヤハウェ」です。その ヤハウェが弟子に舌を与えて語らせるのは、「弱り果てた者」たちのためです。それがイスラエルの民を指すのは40章28〜29節から分かります。イスラエルの民もまたヤハウェに「聞く」ことができないまでに「弱り果てて」いるのです。
【言葉で支える】「支えるため」(ラウース)を「(言葉で疲れた人たちに)応えるため」と読み替える訳があります〔ヴェスターマン前掲書338頁〕。
【悟らせるために】「疲れた者を言葉をもって支えることを知るために」〔フランシスコ会訳聖書〕。この訳がヘブライ語原典の通りです。ここの「支えるために」(ラウース)を「しるしのために」(ラオース)へ読み替えて、さらに「貧しい人に向かって」(エス・ヤーエッフ)を読み替えて、「ヤーアッツ」(相談する/意見する)の使役態(ヒトパエル)「イスヤーエッツ」「共に計る/(言葉で)思い図る」ヘと読み替えることで、「しるしを知るためにわたしは言葉を思いめぐらす」〔中澤訳〕と読む訳があります。預言者が神からの特別の啓示を受けることを重視する訳ですが、この場合「貧しい人(民)を支える」が失われます。
[5]~[6]5節後半は「<しかし>、わたしは逆らわない」で始まります。この「しかし」は何を指すのでしょう? ここからはすでに6節の内容が響いています。だから内容的に見れば、5節後半の2行「逆らわない/退かない」は6節に続けるほうが分かりやすいでしょう。しかし後述するように、5節後半の2行は、この位置で大事な意義を帯びています。
6節にでてくるのは、僕と彼に代表されるイスラエルの民の実体験です。それは敵対する者たちから受ける激しい暴力と非難と侮辱です。ただし、敵対者たちの正体が誰なのかは具体的にでてきません。第二イザヤの呼びかけにもかかわらず、帰還に反対するイスラエルの同胞たちのことでしょうか〔新共同訳『旧約聖書注解』(U)346頁〕。6節のような体験は詩編の嘆きの歌にもでてきますが、ここ6節では、詩編の嘆きに比べると、抑えられた言い方になっています。なぜなら、ここでの受苦は、これを受ける側が「納得し、受け入れている」からです。ここでは、エレミヤの苦難を受け継ぎつつも、苦難の受け止め方がそこからさらに進められていて、「イザヤ50章6節は、イスラエルの歴史だけでなく全オリエントの歴史において、実に画期的な重要性を帯びています。なぜなら、・・・・・彼が受けている攻撃も殴打も侮辱も、神が敵対者を通じて行なわせていることを見透(みとお)して、僕はそれらを正当化し容認しているからです」〔ヴェスターマン前掲書230頁〕。ここには、苦難の理解の仕方において、エレミヤ書に見られない新たな要因が入り込んでいます。だからこそ、僕は、主ヤハウェが教える言葉に「逆らわず」、彼に与えられている仲保の使命を果たすことから「尻込みしない」のです。このように5節後半は、4節後半と6節を不思議なつながり方で結びつけているのが見えてきます。
5〜6節はこのように理解して初めて、その真意が明らかにされます。ここで語られる嘆きは、疑いもなくエレミヤの嘆きにつながりますが、僕は、この嘆きをさらに新たな方向へ発展させるのです。この意味で、この僕は、それまでの主ヤハウェの弟子とは異なり、通常の弟子以上の「弟子」です。
【恥辱の唾を】原文は「侮辱と唾から顔を隠さなかった」です。民数記12章には、モーセの妻ミリアムと祭司アロンが結託してモーセを批判したことがでています。モーセが「色の黒い」クシュの女を妻にしたからです。このために彼ら二人は主の怒りに触れて、ミリアムは重い皮膚病にかかりました。しかし主はモーセに「もしも彼女の父が<彼女に唾をかけた>なら、彼女は七日間恥を忍んだことになる」(同14節)と言って、七日の後に彼女は赦されたとあります。バルツァーによれば、民数記12章のこの部分は本文が乱れていて、ほんらいは、逆に娘(ミリアム)のほうが父親に唾を欠けて侮辱したのではないかと見ています。このため彼女は七日間宿営から隔離されますが、モーセの温厚な計らいで七日の後に赦されます。モーセは「この世の他の誰にもまして<忍耐強い/謙遜な/堪え忍ぶ>人」(民数記12章3節)だったからです。第二イザヤは、ここ6節の「恥辱と唾」にこの出来事を反映させることで、恥辱に耐えて罪を赦したモーセと今回の主の僕とを重ねているとバルツァーは解釈しています〔バルツァー前掲書342頁〕。
なおこの6節はマタイ5章39節/同26章67節/マルコ10章34節/ルカ6章29節/同18章32節に受け継がれています。
[7]冒頭は「<しかし>、主ヤハウェが助けてくださる」です。この「しかし」は、6節の苦難の中から発せられていますから、そこには鋭い対立/対照が潜んでいます。7節の終わりに来る「恥にならない」の動詞「ボーシュ」(恥じる)は6節の終わりの「クリマー」(恥辱/侮辱)を受けていますから、ここにも6節と7節との間に潜む鋭い対立が見えています。それでも主ヤハウェが助けてくださると僕は告白します。この告白はいったいどこから来るのでしょう? それは僕が今受けている苦難が神の意志から出ていることを知っていて、しかも主ヤハウェの僕として、その主の御心に従い、これを「受け入れて」いるところにあります。現在自分が受けている恥辱が神から出ていることを悟ってこれを受け入れることと、それでも神は彼を助けてくださると確信させるその神の御心と、この背反する二つの御心の間で彼が耐えることができるのは、「それが僕としての彼に与えられた神の御心であること」〔ヴェスターマン前掲書231頁〕を「悟っている」からにほかなりません。
このような苦難は預言者エレミヤにも臨みました。しかし、エレミヤの場合は、主がその苦難に耐える力を彼に具えてくれたとあります。主はエレミヤに「彼ら(敵対者)を恐れるな。わたしがあなたと共に居て、必ず救い出す」(エレミヤ書1章8節)と約束しており、預言者をして「鉄の柱、青銅の城壁」(同18節)のように権力者に立ち向かわせるのです。今回の僕の場合も、苦難の最中にあってなお、彼は主が必ず助けてくださると告白します。しかしながら、今回の僕は、エレミヤ以上に、自己に臨む苦難を「主から出た」ことだと受けとめて、これを自らも完全に「受け入れている」ところに違いがあります。
[8]〜[9]8節では僕による法廷用語が表われます。法廷用語もまた第二イザヤの特徴を示すものです。僕は敵対者から「告発されている」(8節)だけでなく、「断罪されて」(9節)います。だから、相手側から見るならば、すでに勝ちは自分たちにあり、敗北は僕にあることで決着がついています。ところが僕はここで確固として、相手に挑戦しています(8節)。その上で、神が彼を助けると繰り返しています(9節)。その逆転の根拠と見通しはどこからでるのでしょうか。最後の2行は相手の敗北と消滅を予測していますが、このような僕の確信がどこから来るのか、まだその答えは表われません。なおこの8節はローマ8章33節に、9節はヘブライ1章11節に受け継がれています。
■第四の僕の歌
52章
13見よ、わたしの僕は事を成し遂げ
高くされ、挙げられ、おおいにあがめられる。
14多くの人があなたを見て驚愕したように
実に彼の姿は損なわれ人とは見えず
そこに人の子らの面影はない。
15それと同じほど、多くの国民は驚嘆する。
王たちも彼を見て口を閉ざす。
実に彼らは語られなかったことを見たであろうから
聞かされなかったことを悟ったであろうから。
53章
1わたしたちの聞いたことを、誰が信じただろうか。
ヤハウェの御腕は誰の上に顕われただろうか。
2この人はヤハウェの前に若枝のように成長した
乾いた地の中の根から生え出たように。
彼には風貌もなく
見るべき麗しさもなく
慕わしい容姿もない。
3彼は蔑(さげす)まれ、人々に見放され
傷を受けた人で、病を知っている。
人から顔をそむけられるほど
侮蔑され、わたしたちも彼を無視した。
4実に、彼こそがわたしたちの病を担い
わたしたちの苦しみ背負った。
それなのにわたしたちのほうは、
罰せられているのは彼だと見なした
神が打っているから彼は低くされているのだと。
5ところが、彼が刺し貫かれたのはわたしたちの罪のため
打ち砕かれているのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲罰が、わたしたちの平和となり
彼との交わりが、わたしたちの癒やしとなった。
6わたしたちはことごとくさ迷う羊の小群のよう
人それぞれの道に向かう。
それなのにヤハウェは彼に負わせた
わたしたちすべての罪を。
7虐げられても、彼は身をかがめ
それでも口を開かなかった。
屠殺(とさつ)へ牽(ひ)かれる小羊のように
己の毛を切る者らの前の雌羊のように
物言わず口を開かなかった。
8拘禁され裁かれて、彼は取り去られた。
彼の生き方を誰が深く思いめぐらしただろう。
彼は生ける者の地から断たれたのに。
わたしの民の背きゆえ、彼に打撲が加えられた。
9彼の墓は悪人たちに充(あ)てられ
彼の塚は富める者と共にされた。
彼は暴虐を行なわず
その口に欺きがなかったのに。
10しかもヤハウェは、彼をその痛みで砕くのを善しとした。
彼がその命を賠償の献げ物とするなら
子孫を見ることができ、彼の日は末永く続き
ヤハウェの意志は 彼の手によって成し遂げられる。
11その命の苦しみから彼は光を見いだし
その悟りによって満足する。
わたしの義なる僕は、多くの人を義とし、
彼らの罪を自ら負った。
12それゆえ、わたしは多くの人を彼への分け前とし
おびただしい人が戦利品として足下に置かれる。
彼がその命を死にいたるまで注ぎ
罪人のひとりに数えられたからだ。
この人は多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをした。
■第四の僕の歌について
第四の僕の歌は52章13節から始まります。冒頭の13節でこの僕の最終的な栄光と高挙が告げられますが、続く14〜15節では、そこにいたるまでの僕の苦難とそこで起こる驚くべき逆転が鮮やかに対照されて語られます。この逆転の過程は53章に続いていて、52章4節は53章2〜5節に対応しており、52章15節は53章10〜11節2行目までに対応しています。この出来事がいかに不思議で信じがたいものであるか。そのことが53章1節で告げられています。したがって、52章13節と53章11節3行目〜12節はヤハウェの言葉です。ちなみに、この苦難と高挙/栄光化の過程はそのままイエスの死と復活への預言として新約聖書に受け継がれます(ルカ24章25〜27節)。またこの出来事がいかに信じがたいかは、新約でも繰り返し語られます(ヨハネ12章3節/ローマ10章16節)。
苦難から救われて主を賛美する主題は詩編にも見いだすことができます。しかし、僕の歌は、詩編に見る嘆きから賛美への過程とは大きく異なっています。第一に、詩編の場合、語るのは「わたし」(一人称)ですが、僕の歌では「彼」(三人称)です。第二に、僕の苦難を語るその当事者たちが、僕によって救われるのです。「彼らの」罪が「彼の」苦難の原因であること、その彼らが彼の苦難によって癒やされたからです。このため、彼ら救われた者たちの語り方は、同時に僕によって救われたことへの「告白」になります〔ヴェスターマン前掲書257頁〕。
第四の歌には僕の生涯が、神の御霊による<霊的な視点から>まとめられています。彼は人目につかず生まれ育ち(53章2節)、人々に打たれ、辱められ、病に苦しみます(同3〜4節)、裁判にかけられます(7〜8節)。処刑され、恥辱の内に埋葬されます(同8節3行目〜9節)。ここには詩編の場合のように、詩人がその存命中に苦難を経て名誉が回復されることがありませんから、僕の「死」が前提されています(53章9節)〔バルツァー前掲書394頁〕。だからこれは、「生まれ、処刑され、死んで埋葬された」とあるキリスト教会の使徒信条と一致します。使徒信条もまた、その出来事によって救われた人たちによる告白ですから、この点でも共通します〔ヴェスターマン前掲書〕。第四の歌は、ナザレのイエスの生き方に基づく福音それ自体を預言していると言うことができます。
52章13〜15節は42章1〜4節を受けています。「見よ、わたしの僕を」(42章1節)以下で語られる僕の使命が、ここ52章13〜15節でより掘り下げられています。42章で始まった僕の有り様が、第四の歌では、僕の卑下とヤハウェによる彼の高挙が鮮やかに対照されて描かれます。「人とは見えず」「人の子(人間)の面影がない」(14節)は、人間関係が断ち切られて完全に疎外された者の「損なわれた」容姿を表わします〔ヴェスターマン前掲書259頁〕。これに対して「成し遂げる」(52章13節)と訳した動詞の本来の意味は「賢明に思慮深く行動する」で、この動詞は行動の<過程>とその<結果>(成功)の両方を含みます。ただし52章のこの箇所では、「過程」と「結果」の対比があまりにも強烈なために戸惑いと「驚愕」を覚えるほどです。このような僕の過程と結果(成し遂げ!)の逆説的な関係こそヤハウェの働きにほかならないことを52章13節は証ししているのです。
だからここに描かれている状態は、旧約聖書でも先例がなく、第二イザヤ書独自の創造による人間像で、これが、新約聖書でイエスの姿と重ね合わされています(例えば使徒言行録2章23節/同33節)。したがって、第二イザヤ書も使徒言行録も、ここで生起した出来事が、「神の御霊の注ぎ」を受けたことで始まる人間が、まさにその御霊の助けに支えられて、卑下から高挙への驚愕すべき業が起こったことを指し示していて、その出来事が、ほかならぬヤハウェの御腕(力)によって「成し遂げられた」(ネヘミヤ記9章20節)ことを物語っています。
52章13〜15節は53章11節後半〜12節と対応していて、ヤハウェの言葉で始まり、その言葉で終わる枠組みを形成しています。先に第四の歌は<霊的な視点から観た僕の伝記>であると述べましたが、この対応関係による枠組みは、ここで語られている僕の姿が祭儀的な様式で語られていることを意味します。バルツァーはこれを「祭儀劇」だと見ています〔バルツァー前掲書394頁〕。だから、僕の歌は、直接これを聴く/観る者たちに充てられているだけでなく、その様式によって、いつの時代のどのような場所の人たちにも参与を可能にする語りかけになっています。
■僕の人となり
53章1節の「わたしたち」とは誰のことでしょうか? これは直前の52章15節の「彼ら」のこと、「未だ語られなかったことを見て」「未だ聴かされなかったことを悟った」人たちによる告白です。だから、53章は直前の52章13〜15節と密接に結びついていて、以下は僕の生と死と高挙に接して「驚愕した」人たちによる告白なのです〔ヴェスターマン前掲書260〜69頁〕。ここで語られる「驚愕すべき出来事」とは、卑下された弱者に顕われたヤハウェの御業です(第二コリント12章22〜24節)。
ここで語られる僕の苦難は、嘆きの詩編に見られる人のある期間だけの苦悩ではなく、僕の生から死にいたる全生涯を覆うものです。僕が育った「渇いた地」とはイスラエルの民が置かれた干からびた状況です(イザヤ48章18節参照)。「麗しさ」とはエフライム族の祖であるヨセフの姿であり(創世記39章6節)、王位に就く前のダビデのことです(サムエル記上16章18節)。「麗しい」には神に祝福された人のすべてが含まれますから、「麗しさ」に欠ける僕には、このような祝福がいっさい与えられなかったことであり、人に顧みられることが何一つなかったことを指します。
■僕の苦難
3節にある僕が「傷を受ける」と「病を知る」は、精神的な「痛み」と「苦痛」の意味にもなります。「病」は嘆きの詩編にもでてきますが、そこでの病は神の罰と見なされ心の痛みと分かちがたく結びつくからです(詩編30篇/38篇)。だから身体的な病や打たれた傷は、そのまま人からの差別、蔑み、疎外にもなります(詩編22篇)。ここでの僕の「痛み」と「苦痛」は、詩編同様に、外面的だけでなく内面的な苦悩や苦難とひとつなのです。
53章3節の苦難は、4〜6節で一変します。なぜなら、2〜3節の描写は、実は僕に対して侮辱や嘲笑を向けた当事者たちによる悔い改めの告白であり、彼らの懺悔の源になっているからです。4〜5節の「わたしたち」と「彼」との比較対象が繰り返されるのに注意してください。だからここで語られている描写はすでに過去のことです。
4〜6節の「わたしたち」は1節の「わたしたち」であり、この「わたしたち」の罪と咎が、「彼」と呼ばれる僕に負わされたのです!なぜ彼が人々の痛みと罰を負わされたのか、どうしてこのようなことが起こったのか、その理由も経緯もいっさい語られません。また、この僕がいったいだれなのかも特定されません。さらに「わたしたち」が、どのようにして、僕の苦難が自分たちの罪と咎のためであったことを悟るにいたったのか、その理由も過程もいっさい語られません。ただ「彼の受けた罰」が「わたしたちの平和」となり、「彼との交わり」によって「わたしたちが癒やされた」ことだけが語られるのです。
■僕の死と埋葬
7節では僕の苦難が語られ、8節では僕の裁判と死が告げられ、9節には僕の埋葬が知らされます。先には僕個人の「病」がでてきましたが、今回の箇所では苦難は他者から加えられる言葉と殴打による暴力です。7節の「虐げ」とは僕に加えられた暴力のことであり、8節の「裁かれる」も、言葉による裁きだけでなく、その場で暴力が加えられたことを証ししています(イザヤ58章4節/なおマルコ15章16〜20節/ヨハネ19章1〜4節を参照)。その結果として僕が「殺された/処刑された」様子はいっさい語られていませんから、彼がどのように裁かれて、どのように処刑されたのかは分かりません。ただ、彼がその死後にいたるも恥辱を受け侮辱の的になったことが、その墓が悪人/罪人たちと共にされたことで示されます。このように僕の受難は、3節で語られ、これが7〜9節では一層深められて苦難を受けた僕と加えた人々の内面をうかがわせるものになっています。しかもその苦難は、僕特有のものと言うよりも、詩編などで語られている代表的な苦難であり典型的な恥辱として描写されています。このように、彼の苦難もその最期も、人々に顧みられることがなかったことが過去形で語られるのです。
■賠償の献げ物と僕
10〜12節では、僕の受難とその死の期間を通じて、ヤハウェは彼の生き方と殉教を知り、しかも終始「彼の側に立っていた」ことが証しされます! 彼がその死後に「よみがえった/復活した」のかどうかは明言されません。しかし、僕は神によって「高められた」こと、このことによって、人々が驚愕の内に彼を見直して、自分たちの非を認めたことだけは確かです。彼は人々のための「罪の贖いの賠償の献げ物」になったからです。彼はこの献げ物によって「多くの人を義とした」とありますが、ここは「彼は自分が義人であることを立証し、多くの人の前に義人として顕われた、なぜなら彼は多くの人の罪を背負ったから」という読み方もあります〔ヴェスターマン前掲書267頁〕。
ここで語られているのは、イサクの奉献記事を除くと、旧約聖書中で唯一の人間の献げ者であり、しかも繰り返されることのない一度限りの贖罪の献げ物です。それは祭儀を伴うことのない贖罪であり、その意味で神殿制度によらない贖罪の犠牲です。ヤハウェはこのような仕方で、人々の咎を赦し、背いた者たちのために僕を「執り成す」者としたのです(イザヤ59章16節参照)〔ヴェスターマン前掲書268〜69頁〕。
■受難の僕の歌の意義
「受難の僕」の特徴は、52章15節にあるように、僕を迫害し殺した当人たちが、僕の真の姿を初めて認識して驚くところにあります(ヨハネ8章28節参照)。悪人たちは、後になって自分たちの過ちを認め、かつて自分たちが迫害したその人物に感嘆し尊敬するというのが、受難の僕伝承の特徴です(この点は特に知恵の書2章と同5章に具体的に描き出されています)。これは神が、主の僕の受難を容認するだけでなく、同時に、必ず彼の正しさを立証せずにおかないという伝承に基づくものです。
このように、自分に敵対し自分を殺す者たちによって殉教した「主の僕」が、神の栄光を受けてかつての敵対者たちに顕われ、彼らを驚かせ悔い改めに導くというこの逆説こそ、実はイザヤ書以来の「受難の主の僕」伝承が伝えてきた意義なのです。新約時代でこの伝承を伝えているのは『ペテロ福音書』です〔小林稔訳「ペテロ福音書」『聖書外典偽典』(6)新約外典T(教文館1976年)147〜57頁〕。そこでは、イエスを十字架刑にして埋葬した後で、ユダヤ人たちや祭司たちがその罪に気づかされて(前掲書7章)、「イエスこそ神の子であった」と悟るのです(前掲書11章)(ルカ23章47節参照)。ペテロ福音書は、従来1世紀末から2世紀前半の間の作と見なされてきました(前掲書144頁)。しかし、ユダヤ人だけでなくピラトまでもが己の非に気づくという「非歴史的な」設定は、イエス復活直後のユダヤ人キリスト教徒たちの期待を代弁するものであると見て、これを40年代(カリギュラ帝のユダヤ迫害の直後)の作だとする説もあります〔John Dominic Crossan;
Who Killed Jesus? HarperSanFrancisco(1995)95.〕。
■52章注釈 [13]【成し遂げ】原語は「サーカル」の使役態(ヒフィル)で、「悟る/注視する/洞察する」と「成功する/幸いを得る」の両方の意味があります。「栄える」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔中澤訳〕"prosper" [NRSV]と訳されていますが、「幸いを見る」"beatified" "have a good fortune"〔ヴェスターマン前掲書394頁〕という訳もあります。「サーカル」はほんらい小枝などを集めて「編む」ように、様々な条件を総合して物事を「洞察する」ことです〔TDOT(14)113〕。これがとくに霊的(神学的)な意味では、イスラエルの民をヤハウェの導きに従って「教え導く」ことを指します(エレミヤ書3章15節)。これは同時に、神の成す業を深く見抜く(洞察する)ことをも意味しますから(ネヘミヤ記9章20節)、物事を成し遂げる(成功する)の意味にもなります〔TDOT(14)119〕。このように深く洞察して結果を導き出すという「過程」と「結果」の両方を含む動詞です。
バルツァーによれば、13節は天の法廷の場面です。神ヤハウェは王座にあって法廷を見守りますが、そこに裁判官と告訴された被告人と訴える者たちがいます。ここで裁かれ争われるのは「僕の生死と彼の高挙」です。バルツァーによれば被告人はモーセです。彼は「成功する/成し遂げる」者ですが(申命記29章8節)、これに対して主に背きモーセに逆らった民は「愚か」です(申命記32章28〜29節)。だから13節の「知恵と洞察」は神ヤハウェから出たもので、「高くされ」はモーセがネボ山へ導き登ったことを反映し、「挙げられ/連れて行かれる」はヤハウェの命を受けた天使が彼(モーセ)を天の領域へ運んだことを指します。だが、彼が生きている状態なのか死んだ後の状態かは明らかでありません。「最も高位に就く/大いに崇められる」は、彼が神ヤハウェの御座の近くに置かれることです〔バルツァー前掲書394〜96頁〕。
[14]【あなたを見て驚愕した】「驚愕した」は「おののいた」〔新共同訳〕「うちふるえた」〔中澤訳〕「感嘆した」〔フランシスコ会訳聖書〕などと訳されていますが、「驚き畏れて当惑する」ことです。なお、「あなたを」を「彼を」とも読む異読があります〔ヴェスターマン前掲書頁〕[NRSV]。14節の「〜のように」は15節の「ちょうどそのように」へつながるので、異読は15節の「彼」と一致させるためでしょう。ちなみに14節の2行〜3行を括弧の中に入れてある訳もあります〔中澤訳〕。バルツァーによれば、「驚愕した/震えおののく」(原語「シャーマム」)は不吉な悪霊の存在を背後に感じさせる用語です。また「多くの人」とありますが、15節のように、それが誰かは特定されていません〔バルツァー前掲書399頁〕。
[15]2行目の「見たであろう」と3行目の「悟ったであろう」は「見る〜悟る」〔フランシスコ会訳聖書〕〔中澤訳〕[NRSV]と未来のこととする訳と「見た〜悟った」〔新共同訳〕と完了形にとる訳があります。ここは英語の未来完了形"will have seen...will have understood" が適切でしょう〔ヴェスターマン前掲書392頁〕。
バルツァーによれば「王たちが口を閉ざす」とあるのは、古代ペルシアの宮廷で、誰かが帝王に特別の謁見を許された時に廷臣たち(諸国の王たち)がこれを見て「口を覆う」仕草をすることを表わします。15節で王たちが「口を閉ざす」のは、僕が神の王座近くに招かれたからです。バルツァーはまた、この15節には、諸国の王たちがペルシアの帝王キュロスに対してひれ伏す場面(45章14〜15節)が反映していると見ています。ただし、「僕」に対する王侯たちの驚愕と驚き(口を閉ざす行為)は、先のキュロスの場合に見る権力による強制された「ひれ伏し」ではなく、この意味で、キュロスにまさる僕の高挙が神によって行なわれたことを意味しますから、バルツァーはそこに、ペルシアの政治権力に対する第二イザヤの批判がこめられていると見ています〔バルツァー前掲書399〜400頁〕。なおバルツァーは「多くの国民は驚愕する」を「彼は多くの国民に水を振りかける」と読み、そこにペルシアの帝王が諸国の民の代表(王たち)たちを謁見する際に歓迎のしるしに「バラの水」を振りかけた仕草が反映していると見ています。なおこの15節はローマ15章21節/第一コリント2章9節に受け継がれています。
■53章注釈
[1]「わたしたち」は、通常52章15節の「多くの国民」と「王たち」を指すと解釈されています〔ヴェスターマン前掲書260頁〕。しかし「わたしたち」を第二イザヤの時代のイスラエルの民のことだと解釈することもできます〔フランシスコ会訳聖書53章(注1)〕。これに対してバルツァーは、全く異なる見解を提示します〔バルツァー前掲書402頁〕。
バルツァーによれば、「わたしたち」とは、天の法廷で僕の高挙に異議を唱えて告訴する側の敵対者(サタン?)になります。この敵対者たちは、28章7〜22節でイザヤによって批判されている祭司や預言者たちと重ねられます。彼らは、陰府の死者たちを占いによって呼び出しその託宣を聞こうとする者たちです(同15節)。彼ら偽預言者らは、「彼は誰に知識を与え、誰に、お告げを解き明かそうとするのか」と第一イザヤを嘲っています(ただしフランシスコ会訳聖書28章注5はこれを逆に第一イザヤによる彼らへの批判の言葉だと見ています)。これに対して第一イザヤのほうも、彼らの嘲りをそのまま逆手にとって厳しく批判しています(同11〜13節)。ヤハウェ信仰と死者を呼び出す占いを共存させている祭司と預言者らは「幻を見ながらよろけ、判断を下すのも失敗する」〔フランシスコ会訳聖書〕からです。バルツァーによれば、53章1節前半の「誰がわたしたちの聞いたことを信じるのか?」も、告訴側(サタン?)からの問いかけです。僕の高挙について聞かされた告訴側は、神の宣言を信じることができないほど驚愕しているのです。「誰が〜、誰が〜」と繰り返されているのは、その驚愕の表われです。バルツァーはここに死者を呼び出す占いへの批判をも読み取っているようです〔バルツァー前掲書403頁〕。だとすれば52章15節の「王たち」もイザヤ14章9〜11節の「陰府に降った王たち」のことでしょうか。
以上で分かるように、53章1節前半の「わたしたち」の問いかけには諸説があります。筆者(私市)の見るところでは、告訴側"The Accuser"は「わたしたち」ですから複数になるはずです。「批判」するにせよ「驚愕」するにせよ「感嘆」するにせよ、「わたしたち」は前節の「多くの国民」と「王たち」の言葉だと理解するほうが適切でしょう。なおここは新約聖書で福音の受容が拒否される理由として引用されています(ヨハネ12章3節/ローマ10章16節)。
【ヤハウェの御腕】ヤハウェの「しるしと不思議」の力ある業を指します。ここにも出エジプト体験が反映していますが(出エジプト15章16節)、それは周囲の諸民族を驚かせるほどものです(申命記33章26〜27節)。バルツァーはここにもモーセとの関連を見いだそうとしています(イザヤ63章12節)。しかし、僕の歌で顕わされる「御腕」は、人間の力の限界を超えている点で、モーセよりもさらに大きい神の業のことではないでしょうか(イザヤ52章10節)。なお、1節はヨハネ12章38節/ローマ10章16節に受け継がれています。
[2]【若枝】イザヤ11章1〜5節から判断すると、この「若枝」はダビデ的な王権思想を受け継いでいると考えられます。ところがこの2節には、ダビデのような王に相応しい風貌(サムエル記上17章42節)が欠けているのです。しかも彼は「ヤハウェの前に」成長したとあるところに、人の想いを超えるヤハウェの不思議な意図を読み取ることができます。なおバルツァーは、ここにも出エジプト記2章のモーセの生い立ちを読み取ろうとしています〔バルツァー前掲書406〜407頁〕。
【風貌】3行目の「風貌」と4行目の「麗しさ」と5行目の「容姿」は並列されています。これを「面影/風格/容姿」〔新共同訳〕の意味にとる訳と、「風貌/威厳/威容」[フランシスコ会訳]のようにとる訳があります。"form or majesty...his appearance" [NRSV]。なお私訳の「麗しさ」は「輝き」〔中澤訳〕/"beauty" 〔バルツァー前掲書〕を参照しています。
[3] 3節後半の訳には、特に「彼から」"from him"に問題があります。
(1)ここを「彼はわたしたちから顔を隠すほど」〔新共同訳〕"as one who hides his face from us"〔NRSV欄外注〕のように読む訳があります。しかし「彼を見ないように人が顔を隠してしまうほどに」〔フランシスコ会訳聖書〕「(人から)顔を覆って避けられる者のように」〔中澤〕"as one from whom others hide their faces" 〔NRSV〕〔バルツァー前掲書392頁〕〔ヴェスターマン前掲書254頁〕という訳が一般的です。
(2)4行目では「彼は<わたしたちから>軽蔑され、わたしたちから無視された」という訳があります。"We despised him,we held him of no account, an object from which people turn away their faces"〔REB〕。しかし「彼は蔑まれ、わたしたちは彼を顧みなかった」〔フランシスコ会訳聖書〕"...he was despised, and we held him of no account"〔NRSV〕〔バルツァー前掲書〕〔ヴェスターマン前掲書〕〔中澤〕が一般的です。なおこの3節は、マルコ9章12節に受け継がれています。
[4] 【わたしたちの病】「病」は罪のゆえに降る神からの「罰」と見なされたから、これを「わたしたちの罪業」と訳すこともできます。バルツァーはこの病に主がモーセに与えた皮膚病(出エジプト記4章6節)を読み取っています。だとすれば、これはヤハウェが僕を遣わす「しるし」ともなるわけですから、ここの「病」に否定的な意味を読み取る必要がなくなります。同様に4節後半の「打つ」とあるのも、ヤハウェがヤボクの河畔でヤコブと「格闘した」(創世記32章23節以下)ことと関連づけて、ここにも肯定的な意味を見いだそうとしています。また「低くされる」にモーセの「謙虚さ」(民数記12章3節)を反映させています〔バルツァー前掲書409頁〕。だからバルツァーの解釈によれば、4節にはイスラエルの民を率いて荒れ野を旅したモーセの体験が反映していることになります。なおこの4節はマタイ8章17節/第一ペトロ2章24節/第一ヨハネ3章5節に受け継がれています。
[5] 【わたしたちの罪】「罪」(原語「ペシャア」)は「不義/背教/邪悪」などと訳すこともできます。
【懲罰】バルツァーによれば、この語は申命記11章2節の「教訓/懲らしめ」と同じで、ここに同6節にでてくるダタンとアビラムのモーセへの反抗と懲らしめが反映しています。したがって続く「平和」とは、イスラエルの民が、モーセの執り成しによって滅亡の「罰を免れた」ことを指します(民数記17章20節参照)〔バルツァー前掲書411頁〕。
【平和】原語は「シャーローム」(平和/和解/癒やし)です。「わたしたちに平和を」〔フランシスコ会訳聖書〕〔新共同訳〕。"our healing" 〔バルツァー前掲書訳〕。"our welfare" 〔ヴェスターマン前掲書訳〕。
【彼との交わり】原語「ハヴーラー」は鞭などで打たれた「傷跡」のことです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕その他。第一ペトロ2章24節は七十人訳からです。ただし、別の原語「ヘヴェル」は「交わり」を意味します。"through his fellowship/invocation we have received healing"〔バルツァー前掲書392頁〕。今回の箇所では、原語が二つのどちらのほうからでているのか確かでありません〔Analytical Hebrew and Chaldee Lexicon.246「ハーヴァル」の項。〕〔バルツァー前掲書411〜12頁〕。「ハーヴァル」はほんらい呪(まじな)いや魔術にかかることから来ています。バルツァーはここに民数記21章4〜9節の「青銅の蛇」とその「魔術的効力」が反映していると見て、ここを「交わり」と訳しています。通常の解釈とは異なりますが、ここは大事な箇所なのであえてバルツァーの説を採用しました。「わたしたちの<癒やし>」は「わたしたちの<復興>」の意味にもなります。なおこの5節はコロサイ1章20節/第一ペトロ2章24節/第一コリント15章3節に受け継がれています。
[6]【負わせた】原語は「パーガァ」(押しつける/打つ/執り成す)の使役態で「降りかからせる/上に載せる/執り成す」の意味です。この6節はマタイ15章24節/第一ペトロ2章25節に受け継がれています。
[7]【身をかがめ】通常は、屈辱に耐え忍ぶ姿だと理解されています。ただしバルツァーは2節の「成長」に僕の少年時代を、3節の「人/男」に僕の成人した大人の姿を、7節の「身をかがめる」に僕の老年の姿を見ています〔バルツァー前掲書414頁〕。
【雌羊】原語は「雌羊」ですが、七十人訳では「アムノス」(小羊/羊)になっています。
【物言わず】これを前行の雌羊にかけて「物言わぬ雌羊」と訳すこともできますが〔新共同訳〕〔バルツァー前掲書392頁〕〔REB〕、次の行にまわして「物言わず口を開かない」という訳もあります〔フランシスコ会訳聖書〕〔中澤訳〕〔ヴェスターマン前掲書254頁〕。原語「ネエラマー」は「アーラム」(舌を縛る)の受動態完了形なので、この雌羊は「物言わぬ」よりも「物も言えない」のでしょうか。ただしバルツァーはここに哀歌3章26〜27節にでてくる「主の救いを待ち望む沈黙」の姿を読み取って、これをモーセの最期と重ねています(民数記17章12〜13節)。だとすれば、これは「希望の沈黙」です。なおこの7節はマタイ26章63節前半/マルコ14章61節前半/ヨハネ1章29節/使徒言行録8章32節/ヨハネ黙示録5章6節に受け継がれています。
[8]【拘禁され】原語「オーツェル」は「閉じ込める」で、これは人々から排除され隔離されたことを指しますが、「弾圧」とも訳すことができます。
【取り去られた】原語「カーラハ」の普通能動態は「捕らえる」ですが、受動強意態は「取り去られる」です。「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」〔新共同訳〕は分かりやすい訳です。「裁き」には、"sentence"(〔死刑の〕判決)〔REB〕/「断罪」〔ヴェスターマン前掲書393頁〕/"by a perversion of justice"(不正な裁判)〔NRSV〕などの訳があります。ただし、「裁き」(ミシュパット)は「定め/勅命」をも意味しますから、この語を僕に与えられた「定め/使命」(42章1〜4節)の意味に解して、ここは僕の使命が遂行途中で中断されたことを指すという解釈もあります〔中澤訳注〕。しかしバルツァーは、「裁き」(ミシュパット)を神の側から見ると、僕の義を立証する「正しい判定」の意味になることに注目します。だとすれば「取り去られる」は苦難を経て神の下へ「移し替えられる」"translated" の意味に解することもできましょう〔バルツァー前掲書415頁〕。人間の側による不義の裁きとその結果処刑されることと、神の正しい判定によって天に移し替えられること、この二重の意味が重ね合わされていることになります。
【生き方】原語「ドール」は「寿命/世代/時代/種族」を意味します。この行は次の4通りの解釈に大別することができます。「その運命に誰が思いおよんだか」〔中澤訳〕"who gave a thought to his fate"〔REB〕。「誰が<彼の世代について>考えるだろうか?」〔ヴェスターマン前掲書〕〔バルツァー前掲書416頁〕。「彼の行く末を誰が考えただろうか」〔フランシスコ会訳聖書〕"Who could have imagined his future" 〔NRSV〕。この行を続く行と結んで「<彼の時代の>誰が思い巡らしたであろうか〜のことを」〔新共同訳〕という訳もあります。
【思いめぐらす】「彼の世代/時代につい思いめぐらせる」は、「僕」をモーセ像と重ねるならば、ユダヤ教の過越の食事で出エジプトの出来事を「想い起こす」ことにつながることになります。
【わたしの民の】「わたし」とはヤハウェのことであり、その僕が、イスラエルの民を代表して「打撲/罰」を受けることだと解することができます。「<わたしの>民の背きゆえに、<彼が>神の手にかかり」〔新共同訳〕はこの解釈でしょう。ここを「彼の民」と読む訳もあります"because of the sins of his people a blow has struck him"〔バルツァー前掲書393頁〕。「わが民の不義ゆえに彼が打たれた」〔中澤訳〕/「彼が受けた致命傷は、わたしの民の背きの故」〔フランシスコ会訳聖書〕。ただし、「わたし」は「僕」が自分とイスラエルの民を同一視していることを表わすとも受け取れます〔フランシスコ会訳聖書53章(注)6〕。"put to death because of our sins"〔REB〕 。
【打撲】原語「ネガ」には「打撃/罰/疫病」などの意味がありますが、ここでは打たれて殺されることです。「致命傷」〔フランシスコ会訳聖書〕。なおこの8節はルカ5章35節前半/第一コリント15章3節に受け継がれています。
[9]【富める者】原語「アーシール」は単数で「ある一人の金持ち」の意味ですが、ここで言う「金持ち」は不正と暴虐を行なう上層部の者のことです。「アーシール」を「オーセ・ラー」(悪を成す者ども)と読み替えることもできます〔Biblia Hebraica注〕〔ヴェスターマン前掲書254頁〕。「悪を成す者ら」〔中澤訳〕。
【塚】原典では「死者」ですが、「埋葬地」へと読み替えています〔Biblia Hebraica注〕〔ヴェスターマン前掲書〕〔中澤訳〕。バルツァーは、ここにもモーセ像を読み取り、モーセが「悪しき異教の者たちの住む「モアブの地の谷」に葬られたが、誰もその埋葬場所を知らないとあることと関連づけています(申命記34章6節)。「塚」は「高い場所」のことですから、カナンのバアル崇拝の場所とヤハウェの礼拝所の両方に理解することができますが、誰もその場所を知らないのです〔バルツァー前掲書47頁〕。
【暴虐】原語「ハーマース」は「邪悪/不正/暴虐」(創世記6章5節)のこと。「不正」〔新共同訳〕。「暴虐」〔中澤訳〕。"violence" 〔NRSV〕。僕をモーセ像と重ねているバルツァーは、ここにモーセの謙虚な姿を読み取ると同時に、彼を英雄視しない第二イザヤの視点から、9節後半でモーセ像の「非英雄化」が行なわれていると見ています〔バルツァー前掲書418頁〕。なおこの9節は第一ペトロ2章22節/ヨハネ黙示録14章5節に受け継がれています。
[10] 【その痛み】原語は「病(やまい)にかからせる」こと。これを「苦痛」あるいは「弱さ/病弱」"infirmity"と訳すこともできます。バルツァーはノートの説を紹介して「ヤハウェは彼(僕)を汚れた者とした」と解釈しています。<聖なる>ヤハウェが自分の僕を<汚れた>者にするというのは最大の謎/神秘です。ここにはヨブの苦難にまさる矛盾と逆説が潜んでいます〔バルツァー前掲書419頁〕。
【善しとし】それがヤハウェの意志であったこと。"It was the will of the Lord to crush him with pain." 〔NRSV〕。「ヤハウェは彼を砕かんと欲し」〔中澤訳〕。
【彼がその命を〜とするならば】動詞の「する」(原語「タースィーム」)は、「あなたが〜する」(二人称単数)〔Analytical Hebrew and Chaldee Lexicon.779.〕と「彼が〜する」(三人称単数)〔Biblia Hebraica Stuttgartensia:Morphologically Tagged Edition. Logos Bible Software.〕という、二つの異なる人称指示があります。「彼は〜とした」〔新共同訳〕「もし彼が〜するなら」〔フランシスコ会訳聖書〕"If he gives his life" 〔バルツァー前掲書〕。これに対して、「<お前が>彼の命を〜とするならば」〔中澤訳〕"When you make his life" 〔NRSV〕という訳があります。この場合、ここで語るのはヤハウェであり、「お前/あなた」とはイスラエルの民のことであり、「彼」とは自分を犠牲に献げた主の僕を指すと解釈できます〔中澤訳注〕。ヤハウェは、イスラエルの民に向かって、僕の犠牲を罪の賠償の献げ物として受け入れるよう語っていることになります。バルツァーによれば、ヤハウェ自身が「僕が自分自身を賠償の献げ物とするならば」と言いながら、同時に「彼を砕くことを善しとする」とありますから、僕の生はヤハウェがこれを定めたことになります。バルツァーはこれを出エジプト記32章30節以下でモーセがイスラエルの民の罪のために己を犠牲にした出来事と重ね合わせて、そこにヤハウェの意志の量りがたさと同時に、モーセとこれを受け継ぐ僕像の非神格化を読み取っています。僕は明らかに不名誉な葬られ方をされながら、しかも彼は無実であり正当だったのです〔バルツァー前掲書420頁〕。
【賠償の献げ物】罪を犯した場合、これへの賠償の献げ物として雄羊を献げることがレビ記5章14〜19節に定められています。「罪への献げ物」とも訳すことができましょう。"an offering for sin" 〔NRSV〕。ただし、今回の箇所は、旧約聖書中で、動物ではなく人間がその献げ物として示唆される唯一の箇所です〔フランシスコ会訳聖書イザヤ53章(注)8〕。ここで「僕の命を賠償の献げ物とする」ように仕向けるのは、僕自身の意志でしょうか? それともヤハウェの意志でしょうか?
【彼の日は末永く】ここを「彼は末永く子孫を見るだろう」と読む訳があります〔フランシスコ会訳聖書〕〔新共同訳〕。この訳はおそらく僕の殉教を前提にしているのでしょう。しかし「彼は子孫を見て」その上「彼は末永くその日々を長らえる」〔ヴェスターマン前掲書〕〔バルツァー前掲書〕という訳もあります。"He shall see his offspring, and shall prolong his days." 〔NRSV〕"He will enjoy long life and see his children's children." 〔REB〕。この解釈は、おそらく『第一エノク書』に見るように、この時代では、義人が迫害を受けた後で、再び神によって彼の義がこの地上において立証されることで、末永く生きながらえるという信仰に基づくと見ているのでしょう。しかし、僕が人間として己の命を賠償の献げ物として献げること、その結果、神の御手によって、彼の子孫が末永く栄えるという信仰は、ここ第二イザヤ書独特の信仰であり、これが後のマカバイ記に見るような律法のために殉教する者の復活へと受け継がれると見ることができます。このような信仰が、直接イエス自身にどのような影響を与えているのか、これを客観的に証拠立てることは困難ですが、聖霊体験を経たイエスが、第二イザヤの主の僕に自分の姿を投影させたとしても不思議ではありません。
【彼の手によって】 「彼」とはヤハウェではなく、僕のことです。「その命の苦しみののちに、彼は(光を)見」〔中澤訳〕。なおこの10節はマタイ20章28節/マルコ10章45節/ルカ22章19節後半に受け継がれています。
[11]【光を見いだし】「光」は原文にありませんが、クムラン写本と七十人訳から補っています。「彼は自らの辛苦を抜け出で光を見、その悟りによって満足するだろう」〔フランシスコ会訳聖書〕「その命の苦しみののち、彼は(光を)見」〔中澤訳〕。「満足する」は前の光にかかるのか、それとも後の「その悟り/知識」に続けて「その悟りによって満足する」のかがはっきりしません。
【その悟り】「<その>悟り」の「その」は、僕のことなのか、あるいは、続く「わたしの義なる僕」とある「わたし=ヤハウェ」のことなのか?どちらにも受け取ることができます。バルツァーによれば、ここでの「悟り」は第四の歌の始めの52章15節「聴かされなかったことを悟った」とある「悟り」につながります。ここには僕と悟った人たちへの「ヴェールをかぶった啓示」が表わされています。バルツァーはこの「悟り」をモーセが神から受けて民に与えた啓示と対応させています(申命記4章39節)〔バルツァー前掲書425頁〕。
【多くの人を義とする】3行目冒頭の「義とするだろう」を2行目にまわして「(彼は)義とする者を知って満足する。わが僕は多くの者に対して義しい」〔中澤訳〕」と読む訳もあります。
【彼らの罪】「罪」はヘブライ語で「不義」"iniquities" 〔NRSV〕とも「負債」"debts"〔バルツァー前掲書〕とも訳すことができます。なおこの11節は使徒言行録3章13節前半/ローマ5章15節/同19節/第一ヨハネ3章5節に受け継がれています。
[12] 【多くの人を分け前とする】ここは「多くの人を分け前として与えられ/強い者たちを戦利品として得る」の意味に採る訳が多いようです〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔中澤訳〕。ただしここを「多くの人と共に(分け前を分かち合う)」とする解釈があります。 "I will give him a share with the many"〔NRSV〕。また「多くの」を「偉大な」ととり、「偉大な者たちと共に分け前に与り、強い者たちと共にぶんどり品を分かつ」〔ヴェスターマン前掲書255頁〕という訳もあります。しかし、死んだ僕がどのようにして「多くの人を分け前として」与えられるのでしょう? バルツァーによれば、ここには、モーセが亡くなった後でイスラエルの諸部族に「分け与えられる」土地相続が反映しています(民数記26章53〜54節)。イスラエルの民は金の子牛を拝んでヤハウェの怒りをかったために、ヤハウェはモーセに「わたしは彼らを滅ぼし、その名を天の下から消し去り、お前(モーセ)を彼らよりも強く数の多い民にしよう」(申命記9章14節)と告げています。これは明らかにモーセに約束された「新しく強いシオンの民」のことです。しかし第二イザヤ書のヤハウェの僕にとっては、分け前は土地相続ではなく「ヤハウェの言葉」であり「ヤハウェがエルサレムに与える正義」のぶんどり品です(イザヤ54章17節)。だからイザヤ54章全体に見るように、シオン/エルサレムの平安こそ僕への「分け前」なのです〔バルツァー前掲書425〜26頁〕。
【戦利品として】ここに戦の「ぶんどり品」がでてきます。おそらくここには、イザヤがその子につけた名前「サマリアからのぶんどり品」が関係しています(イザヤ8章1〜4節)。しかし第二イザヤ書の言う「ぶんどり品」は戦ではなく平和と喜びのぶんどり品です。ヤハウェの御手によってアッシリア滅び、来たるべき「平和の君」によって、人々は光を見いだし、国が大きくなり、「戦利品を分け合う」ようにして人々は平和を喜ぶのです(同9章1〜2節)。アッシリアが滅びてその軍勢が逃げ去る時に、残されたぶんどり品を人々が分け合う姿をエルサレムに平和の喜びにたとえているのでしょう(33章3〜4節)〔バルツァー前掲書426頁〕〔フランシスコ会訳聖書33章(注)4〕。バルツァーはさらに、主の僕に与えられる「ぶんどり品」に武器を鋤や鎌に変える平和の象徴と(2章4節)、エルサレムを訪れるおびただしい巡礼の群れが「僕の足下に置かれる戦利品」に象徴されていると解釈しています。
【罪人のひとりに】ここで語られる「罪」は、52章14〜15節に出てきた「多くの人」と「王たち」罪です。「罪人」「多くの人の過ち/咎」「背いた者たち」、これらの様々な罪過が赦されること、これが「僕への分け前」となり「ぶんどり品」です〔バルツァー前掲書427頁〕。なおこの12節はマタイ26章28節/同27章38節/マルコ14章49節/同15章27節/ルカ11章22節/同22章37節/ローマ4章25節/ヘブライ9章28節/第一ペトロ2章24節に受け継がれています。
ヘブライの伝承へ