1章 堕天使たちとノアの洪水
■堕天使伝承の起源
聖書によれば、人間の堕罪は、楽園においてアダムとエヴァが神の知恵を奪取して、自分たちが神のようになろうとしたことから始まったとされています。奪取された知恵は、人間の欲望と結びついて奇怪な知恵へと変質したのです。言うまでもなく、知恵の堕罪とは、神の知恵それ自体の堕落のことではなく、人間がその知恵を己の支配下におこうとしたために、知恵に具わる神性が失われたことを意味します。しかし聖書のこの物語にはひとつの謎があります。蛇がエヴァを唆して罪を犯させたことです。この蛇の正体はなんだろうか? これを探ると、創世記6章1節から4節で語られているもう一つの興味深い話へつながります。
創世記6章のこの箇所で「神の子ら」(新共同訳)とあるのは天使たちを意味します。彼らは人間の女性と結ばれて「ネフィリム」を生んだとあります。「ネフィリム」の動詞形は「倒れる・堕ちる」の意味で、その上、七十人訳のギリシア語ではこれが「巨人たち」と訳されていますから、後に、ギリシア神話の影響を受けて、彼らはゼウスに叛逆するティーターン(巨人)たちと結びつけられます。これが「叛逆した天使たち」の堕罪物語の始めです。彼らが人間の女と結ばれることで、堕天使たちの悪霊が人間に宿るのを恐れた主は、人の年齢を120歳に制限しました。5章で語られる人間の寿命と比較するとずいぶん大幅な削減になっていますが、この部分は旧約聖書でも最古の伝承に属しかつ編集の手が加わっています。
ノアの洪水伝承は、メソポタミアの洪水伝承へさかのぼることができます。その一つが『アトラ・ハシース物語』です。「アトラ・ハシース」とは「最高の賢者」の意味です。この伝説では、人間が急速にふえすぎて世界が騒々しくなったために、神々は洪水を起こして人間を滅ぼそうとします。知恵の神エンキは、ひとりの人間アトラ・ハシースに舟をつくるように命じます。彼が家族や動物を舟に乗せると暴風雨になり大洪水になりました。舟はたすかったが、ほかの人間たちは土と化したとあります。ここでは人間の数が増えすぎたことが洪水の原因になっていて、人口の急増が社会的問題となり、これが環境破壊につながった可能性があります。エンキは人間のために神々に執り成して、知恵の人アトラ・ハシースを立てて人類を救おうとするのです。
創世記の年齢制限には、『アトラ・ハシース』で見たように、本来は人口増加を防ぐ意味がこめられていたのでしょう。『アトラ・ハシース』では「人間の数が増えすぎた」ことが神々による洪水の原因とされています。同じように、創世記の「神の子ら」と女たちとの結婚は、これに続く洪水物語への導入部になっています。このため特に捕囚期以後から、創世記6章1〜4節が大いに注目されて、第二の楽園喪失物語へと発展することになります。
これら堕落天使たちの長がサタンですが(『ヨベル書』10章)、ほんらい彼は、神に仕える天使であったというのが通説になっています。ヨブ記には、このサタンが「ほうぼうを歩き回っていた」(ヨブ記1章7節)とありますが、いったいなんの目的で巡り歩いていたのでしょう? どうやら彼にはもともと、人間が悪を行なわないように常に監視し、かつ罪を罰する役目を神から与えられていたようです。このような「見張りの天使たち」が神々の会議の中から神によって派遣されていたとダニエル書(4章14節)は伝えています。
ところが、この天使たちのある者は、人間の罪を罰するという本来の権限を神から賦与されたにもかかわらず、自分勝手にその権限を行使する誘惑に陥ったようです。こうして神に属する権限を奪取しようとするおそるべき叛逆が生じることになったのです。人間を悪から守り、罪を罰するはずの天使たちが、人間を監視し告発して恐怖の支配下に人間を閉じこめようと意図するにいたったのです。こうして彼らは、神に向かって人間を告発し訴え続ける「神と人間の敵」へと転じました。「ほうぼう巡り歩いてきた」というサタンの言葉の裏には、このようなかつての「神の見張り役」の意味が潜んでいるのでしょう。堕落天使の長サタンは、蛇に入り込んで自分たちと同じ叛逆の罪へとエヴァを唆したのです(『アダムとエヴァの生涯』7章以下)。サタンとその手下たちは、このようにして、巨人たちをして地上に暴力が満ちるように仕向け、彼らによる暴虐が洪水をもたらす直接の原因になります(『第一エノク書』7章以下)。
■ノアの知恵
堕落天使たちのこのような悪知恵と対照されるのがノアの知恵です。主が堕落した人間から取り去ろうとしたのは「わたしの霊」(創世記6章3節)、すなわちヤハウェの霊です。堕天使のゆえに取り去られるこの霊こそ、ノアに注がれていた「知恵の御霊」にほかなりません。このヤハウェの御霊は、以後のイスラエルの預言者たちに注がれるヤハウェの御霊(サムエル下23章2節)の源流になります。しかも、洪水物語では、ノアに注がれたこの霊は、すべての息のある被造物ともつながっていることに注意しなければなりません。
ノアは、古代メソポタミア伝承のアトラ・ハシースや『ギルガメシュ叙事詩』に登場するウト・ナピシュティムの系譜に属する賢者です。ノアもまた神に向かって人間のために「執り成し」の役目を与えられています。「ノア」という名が「慰め」(創世記5章29節)を意味すること、またその名が神に対する「ニホーアハ・宥め」と関連すること(関根正雄訳『創世記』8章21節注)もこのことを示しています。わたしたちはここに、神の怒りと憐れみの間に立って、執り成し調停する「知恵」の働きを見ることができます。
堕天使の存在は、人間に働く悪の力について、ふたつの解釈を可能にします。悪は人間の力を超えたところから働くのか? それとも人間が主体的に選び取るのか?という問題です。前者の場合には、人間の罪もいくらか軽減されますが、それでも神の似姿である人間は、罪に対する責任を免れることができないでしょう。人間に働く悪のこの二重性にどのように対処するべきか? ノアの執り成しと彼の知恵の大事な役目がここにあります。この疑問は、新約時代まで尾を引く大きな問題になります。
ところで神の「知恵」もまた、「ほうぼう巡り歩いて」宿り場所を求めます。この意味で知恵は、人類のどの時代、どの民族、どの文化にも共通して普遍的に与えられているのです(使徒17章26〜27節)。パウロが、人間は誰でも自然界の被造物を見ることで神を知ることができるはずだと言ったのはまさにこのことです(ローマ1章20節)。しかし、この知恵はどこにも休み場所を見出すことができず、ついにイスラエルに宿ることになります(シラ書24章8節)。サタンがほうぼう巡り歩いて人間を告発し続けるとすれば、この「知恵」もまた慰めと執り成しを与え続けていることになります。
■洪水物語の成立
ソロモン王国の頃か、あるいは捕囚期かに、旧約聖書のいわゆるJ資料(ヤハウェ資料)を編集したと考えられる人物がいます。彼は「ヤハウィスト」と呼ばれ、ソロモン王の時代か、あるいは遅ければ、イスラエルの民がバビロニア文明に接した捕囚期に生きた人です。ヤハウィストは、イスラエルの預言・歴史伝承に通じていて、第二イザヤに大きな影響を与えました。彼は同時に古代バビロニアの伝承にも通じる視野を持っていて、第二イザヤに唯一神教の場を提供し、知恵伝承によって、ユダヤ教により自由で人間的な要素を加えました〔Van Seters, The Life of Moses〕。さらにこれとは別に祭司資料(P資料)というのがあって、これは捕囚期にバビロンで編集されたと言われています。ところがこれらと並行して捕囚期あるいはそれ以前から、申命記史家(たち)と呼ばれる人(おそらく複数)が編集を進めていたというのが学界の通説になっています。ヤハウィストにも申命記史家たちにも学問的に未確定の要素が多いのですが、大事なのは、聖書では、文献的に見て明らかに異なる資料が用いられていることです。
ノアの物語はヤハウェ資料を基にしていますが、祭司資料によって完全に編集し直されています。しかし、現代の文献学によって、ヤハウェ資料と祭司資料とを選り分けて、両者を識別することができるようになりました。洪水物語では、祭司資料とヤハウェ資料は、創世記の創造物語の1章と2章のようにふたつ並んで出てきません。両方がより合わされています。ヤハウェ資料が含まれる部分は8章で終わり、9章は祭司資料に分類されます。ノアの洪水物語は、バビロニアの洪水物語を直接下敷きにして語られているとは思えません。聖書では物語が「ヤハウェの霊」の視点から解釈し直されて大きく変容しているからです。しかしバビロニアの洪水物語と共通する以前からの口頭伝承か文書かがあったのかもしれません。
■暴虐と流血
洪水の序曲は、「大地は荒廃し、地上には暴虐な流血が溢れていた」(創世記6章11節)で始まります。「暴虐」(ハーマース)とは直接的な暴力による流血や犯罪を意味するだけではなく、権力者たちが、法を曲げ偽りの裁判によって民を搾取する圧制をも指します。だから、ここでの「暴虐」は、個人だけでなく社会的、国家的な領域をも含むのです〔TDOT(4)〕。堕落した「神の子たち」は、人間の力を超えた悪霊であるだけでなく、地上の権力者たちにも力を及ぼすからです。
これらの「暴虐」は人間の責任なのか? それとも人間を超えた力なのか? シナイ契約とこれに基づく律法は、この点で人間の責任を明確にしていますが、ノアの場合、少なくともヤハウェ資料の段階では、そのような契約思想はまだ知られていません。しかもこれらの暴力と流血は、人間だけでなく自然にも及び「大地は傷つけられ荒廃していた」(同6章11節)のです。暴虐が、人間と自然を取り囲み、自然さえも人間に向かって叛逆し、洪水をもたらす結果を引き起こすのです。
ノアは箱船から3度鳩を放っていますが、鳩は航海の時に水夫たちが利用していました。彼が社会情勢を深く洞察していただけでなく、自然界の知識にも通じていた知恵の人であったことを、ヤハウェ資料はこの記述でさりげなく語っているのです。しかもノアは、物語の間中、一度も言葉を発しません。ノアの知恵は神に向かってひたすら沈黙しています。しかし彼は、神の知恵が「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに及んでいる」(詩編19篇4〜5節)ことを知っているのです。ノアが世の権力者たちに働きかけるもろもろの不法を見抜くことができたのは、神だけがこの世の本当の支配者であり王であることを知っていたからでしょう。その上で、人間の悪でさえも神のご計画の内に取り込まれていることを彼は洞察していたのです。
■ノアの執り成し
人間が悪に支配される傾向を有するのは、人間が社会的な生き物だからです。悪は人間が創り出す文明それ自体に組み込まれていますから、その中に生きる人間が悪をおこなわずに生きることはできないのです。「人間は幼いときから悪をおこなう」(創世記8章21節)のです。暴虐で偽りに満ちた権力者どももまた、彼らの上に立つ霊力に操られています。自然は荒廃し、人は憎み合い、国は戦争に明け暮れている、これがノアの目に映った世の姿です。
しかし彼は、人間を支配する権力や悪霊以上の力を知っていました。人間が偽りと流血に明け暮れ、自然が平和な姿を変えて凶暴な顔を向けるときでも、彼はもろもろの暴力の上に、これらの悲惨な現状をさえ克服できるお方がおられて、その「霊」を地上に遣わして人のために執り成し、そうすることによって世の暴力と闘っているのを知っていました。この霊は、被造物と共に「今にいたるまで呻き苦しんでいる」(ローマ8章22節)神の「知恵の御霊」です。この御霊に励まされて、ノアは、この世を呪いの内に閉じこめようと働く力に抗して執り成しの祈りを続けることができたのです。これこそ人と自然の奥からノアに顕われて輝く光です。洪水の後で主がノアに次のように言われたのは、彼の執り成しが受け入れられたことをあらわしています。「人が悪をおこなうのは避けられない。にもかかわらず、わたしは二度と地を呪われたものとは見なさない」(創世記8章21節)。人間の原罪に向けられたこの驚くべき絶対恩寵、これこそノアに顕わされた福音の原点です。
ノアへの契約は、人が平和に暮らすことのできる自然の有り様を約束します(8章22節)。そこには生きとし生けるものと共生する思想があります。彼は、いわゆる宗教的な基準、「きよいもの」「きよくないもの」の区別にはこだわらず(創世記7章8節)、すべての生き物に目を留めています。神が人間の罪を赦されたのは、必ずしも契約と律法に基づくのではなく、それ以前に、ノアの執り成しの祈りによる神のみ心から出たものなのです。彼の受けた神からの啓示が「原福音」(proto-evangel)と呼ばれる理由がここにあります。
■虹の契約
メソポタミアの神話では、人間の数を減らすことと洪水とが関連していました。ところが9章で祭司資料は、「産めよ、増えよ」(創世記9章1節)という神の祝福で物語を終わらせています。ひとつには捕囚の前後にイスラエルの民の数が激減したことがここに反映しているのかもしれません。だがそれ以上に、この祝福は、創世記1章の神の祝福を踏まえていて、祭司資料が、洪水後の世界を「再創造」への出発点と位置づけたことを表わしているのです。
古代メソポタミアでは、神々はまだ太古の海から天空にいたる住まいにいて人間と関わっていましたから、人間は自然とそこに住む神々だけと直接向き合って暮らしていたのです。ところがノアは、自然の彼方にあって自然そのものを創造する神を洞察したのです。人間はここで初めて、人間と自然それ自体を創り続ける神と出会うことになります。自然は人間に、恵み深い顔と恐ろしい顔の両相を向けますが、ノアの知恵は、その奥におられるお方を洞察するのです。そのお方と人間とが自然を間にして契約を交わすことで、神と自然と人間との間に調和と平和が確保されることをノアは知っていたのです。こうして「原初の深淵」(創世記7章11節)から再創造がおこなわれ、新たなエデンが生まれることになります。新しい楽園では肉でも食べることができます(創世記9章3節)。
しかし祭司資料の編集者は、人間に恵みを与える「平和な自然」が保たれるためには、ひとつだけ禁断の樹があることを知っていました。「命それ自体を食べない」ことです(創世記9章4節/6節)。血は命であり、動物を殺しても、命は神のもとへ返してから肉を食べなければならないのです。こうして神と人とが、自然を間にして契約を交わすことで人の責任が明確にされ、契約は、人間に授与された神の知恵を堕罪から守る大事な機能を持つことになります。人間は神の似姿ですから、その命である血を流すことは許されないのです。金力で、権力で、武力で、知力で人を殺さないこと、洪水伝承が私たちに発している唯一の警告がこれです。アブラハム契約、シナイの契約、モーセによる律法授与、それらに先立ってノア契約があったからこそ、それ以後の契約も律法も常にこれに立ち返って吟味されなければその本質を見失うでしょう。ノアは宥(なだ)めの供え物を献げますが、ノアの捧げた全焼の供え物は、立ちのぼる煙となり、ノアの祈りとなります。契約も律法も、そして宗教も、常にここから出発しなければならないのです。
契約の「しるし」は、この場合、裂かれた獣の肉の間を通り過ぎる神の奇跡(創世記15章10節)ではなく、自然の中に現われる虹です。虹は繰り返し現われており、これからも現われます。だから、虹は一度限りの契約のしるしとはならないのでしょうか? 自然は繰り返し神と人間との間に交わされたこの契約を思い起こさせないのでしょうか?
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