30章  『第一エノク書』の選ばれた者
    
■「たとえの書」について
    『第一エノク書』の37〜71章「たとえの書」(前40年?〜後50年?)には、エノクの系図がでています.そこにはアダム→セツ→エノス→カイナン→マハラレル→ヤレド→エノクとあります。ヤハウィストの系図(創世記5章18〜27節)では、セト→エノシュ→ケナン→マハラエル→イエレド→エノク→メトシェラ→レメクとあります。ところが創世記4章17〜18節には、カイン→エノク→イラド→メフヤエル→メトシャエルとあります。エノクには、このようにセツ系とカイン系との二つの系図があります。なお、エノクの名前の語源は「賢く訓練された」あるいは「捧げられ聖別された」のふたとおりに解釈されています 以下は主としてNickelsburg. 1 Enoch (2). 111-124.を参照した〕。
 創世記5章で、エノクは「神と共に歩んだ」とあり、神によって天へと引き上げられたとあることから、知恵の人エノクの伝承が生まれました(彼が365年生きたとあるのは、捕囚期のバビロニアの天文学がエノク伝承に関わっていることを示唆します)。だから、エノクが神の領域へと引き上げられたとあるのも、ジウスドラ→ウト・ナピシュティム→アトラ・ハシースというバビロニアの知恵の人の系譜につながるのでしょう〔フォーサイト219〕。この知恵の人エノクの伝承が、エノクの幻による天界の旅へもつながります。このために、以後の幻が「知恵の幻」と呼ばれ、「もろもろの霊魂の主」(天使と人間の両方の霊の主という意味で「神」のこと)から授かる「知恵のことば」を語り、これが「知恵のはじめ」であると言われるのです(『第一エノク書』37章)。
 「たとえの書」は、選ばれた義人たちと、同時に暴虐な王や権力者たちと、これら両方への神の裁きを語るもので、この部分には、いくつかの別個の文書がまとめられていると考えられます。これの成立年代については、紀元270年頃〔村岡164〕という説もありますが、56章5節などから判断すると、世紀の変わり目である前40〜後50年頃と見ることができます〔Nicklesburg (3)6〕〔Stegemann93〜94〕。したがってこの部分はキリスト教成立前後にあたります。ユダヤ教では、この「たとえの書」で初めて、「人の子」が神の権威を帯びた個人像として現われることになりますが、これはイエス直前のユダヤ教の歴史的宗教的背景から生まれたものでしょうか? それとも原初キリスト教会から影響された後のものでしょうか? この点が議論されています。
〔第一のたとえ:38〜44章もろもろの霊魂の主」(ヘブライ語の「天の軍勢の主」からでた言葉で「神」を指す)に従う義人・聖者たちが顕れる時には、罪人たちは追い払われ、権力者の命運が尽きます。その時には、主は、堕天使と人間が結ばれて生まれた種を憐れむことをしません。エノクが天界を旅して見ると、天の果てには聖者たちの住処があり、そこに「義と信仰の選民」が住んでいます(彼らの住む「場」は「時代」とも重ねられる)。主の御前には終わりがなく、世界が創造される以前から、それがどのように変わるかも主によって知られています。エノクは、主の御前に立つ四天使を見ますが、「選ばれた者」(単数)であるメシアも現われます(後出の39章を参照)。それから「天のすべての秘密」、すなわち選民の住処と罪人への稲妻による刑罰(ギリシア神話でゼウスが巨人ティタンたちを退治する雷光を想わせる)、霧や霞、太陽と月の運行をも見ます。ここでは、「光と闇の間の隔て」が、人間の霊的な「光と闇」に対応されています(『第一エノク書』41章)。「知恵」は、人間の間に住もうと降りますが、自分の住居を見いだせないまま、再びみ使いたちのところへ戻ります(シラ書24章3〜10節)。するとエノクは、別の空に、稲妻と空の星々を見ます。それらの星は、主を信じる義人たちの名前で、それらは、ちょうど天体の運行のように、その場と時を定めて姿を現わすのです(43章)。
〔第二のたとえ:45〜57章〕「選ばれた者」メシアが、栄光の座につき、主を否定する罪人たちを裁き、選民を住まわせ、彼らに平安を与えます。次に「高齢の頭」(ダニエル書7章9節の「日の老いたる者」)と人の子が現われます。人の子には義が宿り、彼はすべての秘密の藏を開き、王と権力者たちの高ぶりと横暴を砕くのです。彼らは、富と権力を頼んで暴虐を行ったために、暗闇とウジ虫の中に住まわせられます(46章)。義人たちの祈りと血が主のみ前に届き、天に住む聖者たちは義人たちの血と祈りのゆえに、彼らのために裁きを行なうよう主に懇願します。「高齢の頭」(神を指す)が栄光の座について、「生ける者の書」がその前に開かれます。「義の数」(正しい者たちのための裁きの時のこと)がめぐってくると義人たちの祈りが聴かれて、彼らは心から喜びます。それから義の泉といくつもの知恵の泉が見えてきます。渇く者はこれを飲んで知恵にみたされ、彼らは、聖者と選ばれた者たちと義人たちと共に住みます。人の子の名前が、高齢の頭の前にあります。この人の子の名前は、「太陽としるし」が創られる以前から存在していたのです。世界が創造される以前から、彼は選ばれ、主の御前に隠され、永遠に主の御前にいるのです(イザヤ49章3節)。主の知恵が、聖者や義人たちに人の子の姿を顕わし、彼らは救われ、彼らの命を奪った者たちはその報復を受け、主とその油注がれた者(メシア)を否定した者たちは、義人たちの前で火に投げ込まれます(48章)。メシアの前には知恵が水のように注ぎ出され、暴虐は影のように過ぎ去り、知恵の霊、悟りに導く霊、教えと力の霊が彼に宿ります(イザヤ書11章2〜3節を参照)(49章)。その(メシアの)時に、罪人たちは主の御前に悔い改めて憐れみを受けますが、悔い改めない者に憐れみはありません。その時、黄泉は、与っていた死者を主に返し、地獄も借りていた者を返し(ここには人類全体の復活が予測されている)、メシアは知恵の奥義を口から語り、人々の中から義人と聖人を選び出します(51章)。
 さらにエノクは、地上に起ころうとするすべてを見ます。鉄、銅、金、軟金属(鉛や錫)の山々が見えます。これらは地上の権力を象徴するもので、メシアが姿を顕わす時に、地の面からことごとく消滅するのです。そこには深い谷があり、大地に住む民がメシアに贈り物を持って来ますが、谷は埋まりません。正直者が稼ぎ出したものを不法な者が食い荒らすのが見えると、サタンが責め具を用意しているのが見えてきます。責め具は地上の王たちと権力者たちを滅ぼすためのものです。別の方には、火の燃えさかる深い谷があり、王たちや権力者たちが投げ込まれます。ミカエルとガブリエルとペヌエルが、アサエルの軍勢を地獄の深みへ投げ込み、サタンの手下となった地に住まう者たちに刑罰が降されます。
 さらに、上にある天の水と地下にある水の泉が開かれます(水はバビロニアの宇宙論では原初のもの)。高齢の頭はこれを見て、二度と水で滅ぼすことをしないと言います(ノアに与えられた主の約束と同じ)。主は、「程なく選ばれたメシアを見るだろう。彼は、わたしの栄光の座に坐り、アサエルとその手下たちを裁く」と告げます(54〜55章)。懲罰のみ使いたちが、青銅の鎖を持って歩いてきます。彼らは、それぞれが選んだ者たちのところへ行くと、王たちを王座から揺さぶり落とします。すると王たちは、狼のように、み使いが選んだ土地/国を踏みにじるのです。56章5節には、「パルティア、メディアのほうへ王が向かう」とありますが、これはヘロデ大王を指すと考えられています。前40年にハスモン家のアンティゴノスがパルティアと組んでパレスチナを占拠した時、ヘロデはローマへ逃れてそこで「ユダヤの王」に任ぜられました。その後、前39〜37年に、彼はローマの援助を得てパレスチナに戻り、パルティアを追い出して東へ侵攻し、パレスチナの実権を握ることになります。王たちによる蹂躙の結果、人々は父母も子も見分けがつかなくなり、黄泉は口を開けて、人々を貪り食うのです。すると別な車の一隊がやってきます。その音が轟くと、全ての者が倒れ伏します。ここで第二のたとえが終わります(57章)。
〔第三のたとえ:58〜69章〕このたとえは、「幸いなるかな、あなたがた義人たち、選民たちよ」で始まります。義人たちと選民たちは太陽の光にあって永遠の命を与えられ、霊魂の主の前に暗闇は過ぎ去り光が確立されます(光と闇という時間的でかつ空間的な区別が、義人のためであることに注意)。ここでエノクに「稲妻の秘密」が教えられます。「稲妻の秘密」の法則とは、稲妻が、主のみ旨次第で祝福ともなり呪いともなることです(ヨブ36章32〜33節)。同様に雷鳴の響きは、主の御言葉次第で、祝福ともなり呪いともなります。
  高齢の頭が現われると、憐れみ深かった主が、神の裁きを軽んじる者のゆえに怒りの裁きを行なうとミカエルが告げます。すると海の怪獣レヴィヤタンと陸の怪獣ベヘモトが現われます。ここで「黙示」という言葉が「隠されたこと」を意味することが知らされます。「黙示」とは、「はじめのことと終わりのこと、天上にあることと地上の深みにあること、天の果てにあることと天の基にあること、風の藏にあること」です。そこで雷鳴と稲妻とがそれぞれ区分され、海の霊、霜の霊、雹の霊、雪の霊、霧の霊、露の霊、雨の霊が、それぞれ季節によって区分され、それぞれの藏から出されるのです(60章)。
 天使たちが紐と綱を持って飛んで行き、「地の深みに隠されたこと」(ゼカリア2章5〜6節)を測り、これを露わにします。これは人々が、選ばれた者メシア(単数)により頼むためです。メシアは栄光の座にあって、聖人たちの行ないを裁きます。聖人たちは声を一つにして、信仰の霊、知恵の霊、憐れみの霊、裁きと平安の霊、善の霊によって主を崇めます(61章)。栄光の座にメシアが座り、王と権力者と貴人たちを裁きます。彼らは栄光の座に人の子が坐るのを見ます。義人たちは人の子と共に住み、主の剣が王や権力者たちの血で酔いしれます(62章)。王と権力者たちは、主の御前にひれ伏して懲罰のみ使いに嘆願し、メシアである人の子を崇めて「陰府の激しい炎に落ち込むのを防いでください」と嘆願します。すると別の顔、「人の子らを惑わして罪を犯させた」堕落天使の顔が隠れているのが見えてきます(63章)。
 ここでは、エノクではなく、ノアがでてきます。ノアは父祖エノクから、大地に住む者たちの最期を知らされます。エノクはみ使いたちの全ての秘密、サタンどもの全ての不法、魔術を行なう者の全ての力、悪魔払いの全ての力、鋳物の偶像を作る者たちの全ての力を知ったのです。これらの者たちは裁かれ、悔い改める可能性は与えられません。ただノアとその末裔だけは義をもって栄光の地位に定められます。エノクはノアに、懲罰のみ使いたちが地下水の力で裁きを行なうのを見せます。主のみ使いたちは、堕落天使たちを金と銀、鉄と錫などの山に閉じ込めます。すると山に水が波立ち、火の川が流れ、硫黄の臭いがします。硫黄が水と混合して燃え出すのです。堕落天使たちが裁かれます。水の泉の温度が変わると水が変じて火となり、大地の住民たちと支配者たちも「肉体の情欲に信頼をおき、主の霊を拒んだゆえに」裁かれます。エノクはここで、「すべての奥義の解釈」の本をノアに見せて、エノクに授かったたとえをノアに語ります。ミカエルとラファエルは、堕落天使にくだされる裁きの厳しさを語り合い嘆きます(65〜68章)。
 ここで、堕落天使たちの名前が列挙されます。彼らは、人の娘たちを惑わした者、エヴァを誘惑した者、人の子らに殺戮の武器を見せた者、また墨と紙で書くことを教えた者などです。なぜなら「人間は墨と筆で信仰を全うするように生まれたのではない」からであり、「知識のゆえに彼らは滅び、この知識の力のゆえに死はわたしを食い尽くす」からです。世界は創造の時から永久にその位置からずれることなく、日と月はその運行を完了し、星はその運行を完了するのです。大地の人々は霊魂の主を賛美し、人の子が啓示されたことをほめたたえ、人の子に裁きの権限が与えられ、悪が彼の前から消え去ったことを賛美します。ここで第三のたとえが終わります(ここは福音書にあるイエスの「人の子」像へつながる)。
 この後に、人の子メシアは、生きながら主のもとに上げられ(エノクと同じ)、エリヤのように「霊の馬車で」(列王記下2章11節)引き上げられます(70章)。エノクは霊的に(現実の肉体ではない)天に引き上げられます。すると衣装は白く顔は水晶のようなみ使いたち(の子ら)が歩いていて、二つの火の川が見えます。光の間に水晶で建てられたものがあり、セラフィームやケルビームたち、ミカエルやラファエルやガブリエルたち、そして、彼らと共に「高齢の頭」が現われます。「その頭は羊毛のように白く、その衣は形容を絶する」とあります。エノクがその前にひれ伏すと、高齢の頭は、エノクに向かって「あなたは義のために生まれた人の子である。義はあなたの上に宿り、高齢の頭の義はあなたを離れることがない」と告げます。「人の子」を探し求めたエノク自身が、こうして「人の子」と呼ばれます。人の子は長寿を給わり、義人は平和を給わるのです(71章)。   
■義と聖なる選ばれた者
 以下にあげる訳は、『第一エノク書』の「たとえの書」(37〜71章)の第一のたとえ(38〜44章)の39章4〜8節です〔Nickelsburg. 1 Enoch (2). 111.〕。
 
〔義人たちの住まい〕
4 するとそこにわたしは、(もう一つの幻で)聖なる者たちの住まいと
   義人たちの安息の場を見た。
5 わたしの目はそこに、彼らの住まいと共に義の天使たちと
   聖なる者たちの安息の場を見た。
 そこで彼らは訴えと執り成しをして
   人の子たちのために祈っていた。
 そこでは義が、彼らの前を水のように流れていて
   憐れみは大地を潤す露のようであった。
   彼らの間には、何時までも何時までこの状態があった。
 
〔聖なる者たちの住まい〕
6 するとそこにわたしの目は義と信実の選ばれた方を見た。
   彼の日々には義が続き
   義人にして選ばれた者たちが何時何時までも彼の前にいるだろう。
7 するとわたしは、諸霊の主の翼の下に彼の住まいを見た。
   すべての義人にして選ばれた者たちは、彼の前に炎のように輝いた。
 そこでは彼らの口は祝福で満たされ
   彼らの唇は諸霊の主の御名を讃えた。
 そこでは義が絶えることなく御前にあり
   真理が御前に絶えることがなかった。
8 そこにわたしも住みたいと願い
   わたしの霊はその住まいを慕った。
 そこにわたしの嗣業が前もって備えられていた。
   このように諸霊の主の御前でわたしについて定められていたからである。
  (『第一エノク書』39章4〜8節)〔Nickelsburg. 1 Enoch.より私訳〕
 
 ここでは、エノクが天に昇って見た幻が、並行法で語られています。5節には、「義人たち」と「聖なる者たち」がでてきます。これらは「義人にして選ばれた者たち」(7節)であり、彼らへのこの呼び方は「義の天使たち」(5節)と「聖なる天使たち」に対応するだけでなく、「義と聖なる方」(単数で「選ばれた者/メシア」を表す)と、その称号を共有しています。彼らは「選ばれた者たち」ですが、死んだ者たちです。しかし、これら義の選ばれた者たちは、死者たちの山にはいません(22章)。彼らはすでに天使たち共に天での交わりを得ているからです。「たとえの書」では、義の死者と天での天使たちの共存がすでに実現しているのです。ここでの彼らの「住まい」は、義人たちと天使たちと「選ばれた方/メシア」と「知恵」が住まう天的な場の称号で呼ばれています。
 5節に「彼らは訴えと執り成しをしている」とある「彼ら」とは、おそらく天使たちでしょう。人間に公正をもたらすのは義と憐れみですが、義人を迫害する王たちや権力者たちには「憐れみ」は与えられません(38章6節)。「選ばれた方=メシア」の前には義の泉が流れていますから、彼は後で「人の子」(単数)の称号で出てくる方と同一です(48章1節)。
 6〜8節で、エノクは「選ばれた方」(単数)の住まいへ移行します。彼の前には義にして選ばれた者たちの賛美の合唱が流れています。「義と信実の選ばれた方」というメシア的な称号に「信実/信仰」が加えてあるのは「たとえの書」だけの独自な言い方です。  
 このように、「たとえの書」では、「選ばれた方」「義なる方」「人の子」「油注がれた方」が主役ですが、「選ばれた方」「義なる方」は、イザヤ書の「主の僕」から出た称号であり、「人の子」はダニエル書7章の「日々の頭/日の老いたる者」 "Head of Days")と関連する終末的な救い主の称号ですから、ここでは、「義の僕」と「人の子」が合体しているのが分かります。この「選ばれた方」は「たとえの書」に、併せて16回でてきますが、彼が第二イザヤ書の「主の僕」から出ているのは明らかでしょう(『第一エノク書』49章3〜4節はイザヤ書42章1節を言い換えたもの)。「義なる方」も「主の僕」の名称にほかならないのです(イザヤ書53章11節参照)。「油注がれた方」は「たとえの書」に2回でてきますが(48章10節/52章4節)、これはダビデ的メシアの称号です(詩編2篇2節/イザヤ書11章)。「諸霊の主、彼に油注がれた方」「地の王」(48章8節)も詩編2篇2節を反映しています。またこの「油注がれた方」には、イザヤ書11章1〜5節の「知恵と識別の霊」に授けられる王権の託宣にも与るのです〔Nickelsburg. 1 Enoch (2). 116-117.〕。このように見ると、ここ39章には、そこに表れる称号を通じて、イスラエルの宗教思想の幾つかの流れが合流しているのが分かります。これこそ「たとえの書」が、第二イザヤ書や詩編2篇やダニエル書から受け継いだものです。
 第二イザヤ書の「主の僕」は、また、「ダビデ王」に帰せられる属性をも帯びていて、彼は卑しい者たちに公正を行なう者であり(イザヤ書42章1〜4節/同11章2〜4節)、神に選ばれた僕であり(イザヤ書42章1節/詩編89篇3節)、王たちの前で高く上げられる者です(イザヤ書52章13〜15節)。
 さらに、「たとえの書」の主役「選ばれた聖なる者」には、「先在の知恵」が反映しています(箴言8章22〜31節)。「たとえの書」で「知恵」は、天から地への降下と、地から天への上昇に際して現われます(『第一エノク書』42章)。「知恵」はしかし、「選ばれた方」とも「人の子」とも同一視されてはいません。ただし、「知恵」は「人の子」と関連づけられていて(48章6〜7節)、「人の子」が隠されているのは、諸霊の主の知恵によるとあります。『第一エノク書』49章1〜2節では「知恵」が「選ばれた方」と結びついて、終末の裁きを行ないます。このように「知恵」はこの書の主役と同一ではないものの、主役は「知恵」の特徴を帯びていると言えましょう〔Nickelsburg. 1 Enoch (2). 118.〕。
 「義なる選ばれた方」による最後の裁きと、地上の王たちや権力者たちが断罪され、選ばれた義人の「身の証」が立てられること、これが「たとえの書」の中心的な主題です。この主題は、以下のような過程を経て展開されます。
(1)義なる方が義人たちの集まりに顕現する(38章1〜2節)。
(2)この方の顕現が王たち権力者たちと地を支配する者たちをかき消す(同1〜6節)。
(3)選ばれた義なる方が義人たちと選ばれた者たちを従えて諸霊の主のみ座に就く(40章5節)。
(4)選ばれた方が、選ばれた者たちと共に、新たに創造された世界で王座に就く(45章3〜4節)。
(5)義である人の子が顕われて、隠されたことを啓示し、王や権力者たちを倒す(46章4〜8節)。
(6)それまで敵から隠されていた方の名前、「人の子」「油注がれた方」「選ばれた方」がここで啓示される。この方の「身の証」が立てられ、隠されたことが明るみに出され、地の王たちが裁かれる(『第一エノク書』49章3〜4節)。ここで、ダビデ的王権思想とダニエル書の伝承が融合します(48章8〜10節/49章3節)(詩編2篇/イザヤ書11章)。
(7)選ばれた方が裁きの座に就き、彼を迫害した王や権力者だけでなく、死からよみがえった善悪様々な人類が裁かれる(『第一エノク書』51章)。彼は、選ばれた者たちの集まりを顕現させる(53章6節)。
(8)この裁きは復活に結びつく(61章3〜5節)。
 彼は、イザヤ書13〜14章/52〜53章と第二イザヤの苦難の僕像の伝承を融合したもので、王たちを裁く天の審判者です。彼によって、迫害された者たちの身の証が立てられます。彼らには、王たちの目からは隠されていた人の子がすでに顕わされていたのです。ここに、ダビデ王、主の僕、天の知恵、ダニエル書の人の子、これらの諸像が統合されることになります〔Nickelsburg, 1 Enoch(2). Hermeneia.120. 〕。
 このように見てくると、『第一エノク書』の「たとえの書」は、イスラエルの信仰のこの時期でのつづれ織り(タペストリ)だと言えます。そこに描かれているのは、
(1)詩編2篇やイザヤ書11章のイスラエルの王権思想であり、
(2)このイスラエルの王権思想が捕囚期以後に変容したのが第二イザヤ書の主の僕神学であり(イザヤ書42章49節/同52〜53節)、
(3)古代オリエントの天における神への反逆の神話であり(イザヤ書14章)、
(4)ダニエル書7章に投影されている若い神が王座に就くというカナン神話であり、
(5)ユダヤ教の「天の知恵」思想です。
 ところが同じような織物絵巻でも、「たとえの書」とほぼ同時代の知恵の書(=ソロモンの知恵)では、「たとえの書」とかなり違う図柄を見出すことができます。ここでは、『第一エノク書』62〜63章と知恵の書4章18節〜5章13節とが共通しており、イザヤ書52章13節〜53章12節の最後の僕の歌を終末的に再解釈しているのです〔Nickelsburg, 1 Enoch(2).258-262. 〕。
 『第一エノク書』62〜63章では、選ばれた義なるお方と共に選ばれた義人たちが地から天に上げられ(62章15〜16節)、これに対応して、地上で権力を振るった王たちが恥と裁きに震えおののくのです(知恵の書1章1〜10節→6〜7節は新共同訳と[NRSV]では全く異なるので注意)。ここでは「天の知恵」が、栄光のみ座にあって諸霊の主とともに地上の人間の想いを明るみに出します。彼はまた、地上の王たちや支配者たちの想いをも吟味して(知恵の書6章)、義人たちには救いが、彼らを迫害した敵には裁きが降ります(知恵の書18章)。このような「知恵」は、「神のロゴス」に近いと言えましょう(知恵の書9章1〜2節)。知恵の書2〜3章は、イザヤ書52〜53章を裁きの場へと変容させていますが、この変容は、アンティオコス4世による迫害よりも早く、前300年からの伝承だと思われます〔Nickelsburg, 1 Enoch(2).120-21〕。
         ヘブライの伝承へ