33章 ダニエル書の黙示(後編)
■ダニエル書の黙示
 ダニエル書(2章36〜45節)の幻の解釈は、アレクサンドロス大王の帝国と、これに続くアンティオコス4世による迫害の前後の時代の推移を表象化して描いています。ダニエル書のベルシャツァルは、残忍な大量虐殺を行なった歴史上の人物アンティオコス4世を表象化したものです。このような圧政のもとでは、信仰者は、異教の神々の世界にあってもなお神の戒めに従うことが求められます。しかしそこには、「神自身が信仰者をあらゆる危険から守らなかったならば、彼らを完全に滅ぼしたに違いないほどの敵意」〔フォン・ラート『旧約聖書神学』U428〕が語られているのです。だから、選ばれた少数者を守るためにも、世界を支配する神の手が存在することになります。なお、こういう状況に遭って初めて、ヤハウェに従う者こそ苦難に導かれるという思想に近づいていることにも注目する必要があります。
 このように見るならば、アンティオコス4世による迫害とこれに対抗するマカバイ戦争は、イスラエルの歴史において、捕囚体験とイエスの到来との間の最大の出来事であったことが分かります。同時にこの迫害のもとで生まれた黙示思想は、新約聖書時代のローマ帝国によるイスラエルの滅亡後の思想へもつながることになります。この意味で黙示思想は、「歴史の恐怖」から生まれた思想です。この思想の中から終末への希望が語られるようになります。「イスラエルの宗教的希望は再び、しかも全く異なる前提のもとで、かつ今までまだ到達されていない宇宙的な拡がりを持つ概念によって語られることになったのである。それが黙示文学である」〔フォン・ラート『旧約聖書神学』U 411頁〕。
 だから、ダニエルの見た4頭の生き物とそこに繰り広げられる世界帝国の移りゆきは、直接イスラエルの歴史ではないまでも、まさにイスラエルの知恵からでた歴史観にほかなりません。この歴史は、先在の知恵によって世界の始めから定められているもので、人間の手と知恵とを完全に離れた天上の「神の知恵」によるものです。世界の歴史が終末に向かってすでに神の手によってプログラムされているというこの歴史観は、それまでのイスラエルの預言者たちの伝統とは異なる見方です。世界の罪悪の升目が満たされるまで終末は来ない(ダニエル8章23節)という歴史観は、「1335日」の間(12章12節)ひたすら待つことしか許されていないというある種の「諦め」を誘うかもしれません。このように、救済史が、人間ではなく、「神の自由」とその経綸に完全に委ねられていること、世界は、大いなる没落と深淵に向かっていて、救いは、「生き残ることが出来た」選ばれた者たちだけのものであること、そこには意外性も驚きもなく、すべてを見通す知恵があるだけです。「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(コヘレト1章18節)。これが「天の下」にいるイスラエルの知者のつぶやきともなります。
 
わたしの見たところでは、
光りが闇にまさるように、
知恵は愚かさにまさる。
しかしわたしは知っている。
両者に同じことが起こるのだと。
わたしはこうつぶやいた。
「愚者に起こることはわたしにも起こる。
より賢くなろうとするのは無駄だ。」
これまた空しいとわたしは思った。
         (コヘレト2章13〜15節)
 
 ダニエル書の作者は、歴史上の出来事を過去に投影させて描き、同時に同じ出来事を終末に向けて投影する預言的な描き方をしています。けれども、黙示的な知恵をイスラエルの預言の伝統から切り離すことはできません。作者は、この地上での出来事が、天上で神が定めた時代の区分に従って進んでいること、すなわち、時代区分だけでなく、地上と天上という「空間的な区別」をも採り入れています。黙示文学は、天上の世界と地上の世界とを区別するだけではなく、現実の出来事を過去と終末という時間的なつながりをも含む表象へと転位させます。このように、空間的と同時に時間的な転位によって、黙示文学の様々な表象がそれぞれに独特の意義を帯びて現われることになります。このような様々な表象の複雑な配置とこれを一貫した物語へと完成させるその働きこそが、イスラエルの知恵思想です。黙示文学で語られる預言や知識(アラム語で「マンダ」)は、巧みに構成されたもろもろの表象となって知恵という生地の上に織り出されていると言えましょう。
 幻を見ているその人は通常、自分がその幻のどの部分に属するのかを見きわめようとします。しかし、黙示文学の観点は、自分に与えられている立場(トポス)から観るだけではなく、歴史の展開の「外側に」いて、世界の移りゆきを観るという視点をも含むことになります。言わば彼は、始めから終わりまでを見通す「神の目で」観るのです。したがって彼自身は、そこに展開する歴史の「時間の中に」いるのではなく、そこから離れた「神の時間」の中で観ていることになります。これは、上演されているドラマの登場人物から観ているのではなく、そのドラマを見ている観客から観ているのでもなく(なぜなら観客はドラマの結末をまだ知らないから)、ドラマの「制作者の視点」で観ていることになります。ここに、ほんらい人間には許されていない「神の立場」に自らを置くという黙示文学の「虚構性」が潜んでいます。これが黙示文学のさらには黙示思想の特徴であると同時にその問題点ともなります。
■黙示文学とダニエル書
 以上見てきたように、ダニエル書には、黙示文学の特徴が幾つか具わっています。しかし、ダニエル書に出てこない黙示的な特徴もあります。そこで、今度は、黙示文学からダニエル書を見るとどのように見えるのか? という問題に触れてみたいと思います。まず黙示文学の最も基本的な特徴だけをまとめると次のようになりましょう。
(1)神の定めに基づく歴史的な時代区分。
(2)人の子の到来による終末。
(3)人間の復活と裁き。
(4)神の御国の到来。
(5)天上での神の会議。
 これらの特徴から判断する限りでは、ダニエル書には5つの特徴が全て具わっているように見えます。しかし、それぞれの特徴をもう少し立ち入って吟味すると、そこにいろいろな問題が潜んでいることが分かります。その一つにダニエル書の9章をどのように見るのか? という問題があります。実はダニエル書は、次回に扱う第一エノク書と対比されて論じられているのですが、今回この点について述べるのは控えます。
■ダニエル書9章
 ダニエル書9章で、ダニエルは、粗布をまとい、灰をかぶって、主なる神に罪を告白します。イスラエルが捕囚の辱めと苦しみを受けたのは、彼らが神との契約を破って罪を犯したからです(9章7〜9節)。イスラエルはモーセ律法による神との契約に従いませんでした(9章13節)。それゆえに主は、イスラエルの罪を「見張っていて」、これに罰を降したのです。そこでダニエルは、罪を悔い改めて告白し、神の赦しと憐れみを乞います。この祈りに応えて天使ガブリエルが彼のもとへ遣わされて、70週が過ぎると、イスラエルの罪が赦され、とこしえの正義が到来して、聖なる者に油が注がれると告げます(9章24節)。さらに、油注がれた者(メシア)の到来までに7週あり、62週あると数秘的な期間が預言され、最後に、憎むべき者の上に定められた破滅が訪れるという約束が告げられます(9章27節)。
 ここには、イスラエルが体験した苦難は、民が主との契約を破ったことから生じたもので、その責任は民が負うべきことが告白されています。このように苦難の原因を人間の罪に帰している点で、9章のダニエルの祈りは、8章までの歴史観とかなり異なっているという印象を受けます。歴史に生起する悪と苦難は、人間の力を超えた4頭の獣に象徴される地上の権力から来るというのが、7〜8章で語られるダニエルのヴィジョンだからです。9章以外には、モーセ律法も契約も語られていません。さらにダニエル書には、第一エノク書に現われるような天使の堕落と悪霊の力こそが、人間を苦しめる悪の源であるという発想が見えないことにも注意しなければなりません。このために、従来この9章は、後からの挿入であろうと見なされてきました。
 しかし、これに異を唱えたのがボッカチーニです(Gabriele Boccaccini.“The Covenant Theology of the Apocalyptic Book of Daniel.”)。彼は、この祈りの部分が流ちょうなヘブライ語で書かれていて、9章がダニエル書の他の部分と異なることを認めた上で、それでもこの祈りの部分は後からの二次的な挿入ではないと主張するのです。祈りは、ダニエル書のほかの部分と同じ作者によるものか、あるいはダニエル書の執筆以前からすでに組み込まれていたのか、そのどちらかです。なるほど祈りは9章の他の部分とは異なるが、二次的な挿入ではなく、作者によって最初から意図的に9章の場に組み込まれていた。ここでのダニエルの祈りは、ネヘミヤ記1章4〜11節やエズラ記9章5〜15節と同じで、捕囚以後のイスラエル共同体の告白を表明していて、しかもこれはツァドク的な契約神学に基づいている。ボッカチーニはこのように考えるのです。
誰が9章を組み込んだにせよ、ダニエル書の作者は、悔い改めの祈りと黙示的決定論とを矛盾だとは考えなかったのです。だから、ダニエルのここでの祈りは、10章以下の第二部の構成の核となる位置を占めています。ところが第一エノク書には、このような特徴が見られません。このことから、黙示的表象は、契約神学の外部において形成されたと見ることができます。後で述べるエノク的な歴史観とダニエル書7章と9章のツァドク的な信仰とは、明白に対照的です。
しかし、コリンズは、ボッカチーニのこの見解に対して、あえて従来の見方から、この祈りはダニエル書全体の黙示的枠組みと鋭く対立すると見るのです。エルサレムの罰は民の罪の結果であるとするツァドク的な信仰と、歴史の過程はすでに決定されているという黙示思想とは相容れないからです。「この敬虔な祈りは、8章の終わりを理解できなかった者の祈りである」とコリンズは反論します。
しかしボッカチーニは、逆にダニエル書では、作者の関心は、契約違反に続く時代に注がれているのであって、そもそも歴史の全体像などは語られていないと見るのです。まして、歴史以前の天使の堕落については何も語られていません。9章の祈りなしには、ダニエル書は全体として信仰的にも論理的にも一貫性を欠くことになる。なぜなら、ダニエル書の一貫性とは、ツァドク的契約と黙示的な決定論との因果関係の確立にあるからです。だからダニエル書は、天使を非難もしなければ契約の無効も考えてもいない。このように見るのです。
筆者の見るところ、ダニエル書のこの問題の背後には、ユダヤ教の知恵神学に基づく賢者の思想があります。ダニエル書は、堕罪の結果としてもたらされる裁きと破滅だけなく、悔い改めという新たな状況の下で、イスラエル共同体が、全体として、またダニエル個人として、契約の再履行に望みを抱いている。このように見ることができます。
■天の王座
 ダニエル書の「人の子」は、地上の王国の権威を現わす4匹の獣(ダニエル7章)に対抗して、「日の老いたる者」から「権威と威光と王権」を授けられます(7章14節)。ここで「威光」(ヘブライ語の「イカル」)とあるのは、王権が帯びる「尊厳/威光」を意味し、この言葉はダビデ王の祈りにある「光輝/威光」を反映しています(歴代誌上29章11〜12節)。七〇人訳では7章14節は「支配と尊厳と王権/王国(バシレイア)」と訳されていますから、これは、地上の王権/王国と対照される天の王権/王国を指しているのが分かります。
クムラン文書の第一エノク書の「巨人の書」にも「天の権威/王権」がでてきますが、こちらのほうは、堕落天使たちの住むこの地上へ「天の諸力/諸権威が降りてきた」となっています〔4QEnGiantsb→DSS261〕。「天の権威/王権」が「降りてくる」わけですから、これをダニエル書の「天の王権/王国」と比べると、「巨人の書」のほうは地上へ降下する傾向を示しています。ベイヤールは、「巨人の書」に見られるこの傾向をダニエル書と比較して、ダニエル書では、王国が、地上の権力と対比されることで超越化する傾向があると指摘するのです〔Beyerle 56〜57〕。おそらく巨人の書のほうが、ダニエル書の終末観に比べるとより古い層に属するのでしょう。
 ところで、ダニエル書と巨人の書の天の王権は、ともにエゼキエル書にある天の聖所(エゼキエル1章22〜28節)にさかのぼると思われます。エゼキエル書では、4匹の生き物とドーム(新共同訳で「大空」とあるのは「ドーム」のこと→NRSV)の上に王座があり、人間の姿らしい者がそこに座していて、炎とせん光と輝きが「栄光」を発しています。この王座は「サファイア」でできているとありますが(エゼキエル2章26節〔新共同訳〕)、「ラピス・ラズリ」という読みもあります(NRSVの欄外の読み)。古代バビロニアのマルドゥク神は、天の神王として王座に座し、その台座はラピス・ラズリでできていました。また、マルドゥクの王座よりも低い天界では、台座は碧玉で、これはエゼキエル書1章22節の「水晶のような輝きのドーム」と対応していると思われます。1章22節の「水晶のような」は、ヘブライ語では「深い色を帯びた水晶に似た」の意味です(NRSV欄外の読み)。このような対応は、エゼキエル書の王座の原型が、古代バビロニアの王座にさかのぼることを示唆するものです。こうして、古代バビロニアの王権/王座からエゼキエル書の神殿の王座へ、さらに第一エノク書14章9節以下の王座とダニエル書7章の王座へとつながることになります。
ダニエル書7章と第一エノク書14章との共通点は、王座と王座へ入る広間に見ることができます。第一エノク書の王座の建物は炎で包まれていますが、別の箇所では、水晶のような高い王座があり、ケルビムの炎が吹き出しています(第一エノク14章10〜12節)。ダニエル書のほうでも、燃える炎の王座、燃える火の車輪、流れ出る火の川(ダニエル7章9〜10節)があり、どちらも地上を超越した神の神聖を表わしていると考えられます。
ダニエル書の「人の子」を囲むこのよう描写から見るならば、「人の子」は、人間ではなく、天の聖所の天使の会議の一人と見ることができます。彼は個人として特徴づけられ、堕天使たちとは対照的に、神の王座に服従する存在です。しかも彼は、人間とは区別されて、黙示的終末の超越性を保っています。このように個人化された「人の子」像が、後のメシア像へつながるとベイヤールは考えるのです。以上見てきたように、黙示思想においては、時代と共に、集合的な人物像が個人化する傾向があり、同時に、地上的な神の権威が、より天上的な権威へと超越化する傾向を読み取ることができます。
■ダニエル書の人の子
ダニエル書7章9〜13節には、「日の老いたる者」と「人の子」とがでてきますが、この二人の人物が何を意味するのかは、7章15節以下の説明によってもはっきりしません。「日の老いたる者」が裁きを行なうことが語られる以外は、「人の子」は神秘に包まれています。「人の子の<ような>者」とあるのは、「その者と日の老いたる者」が、人間存在ではないという意味にもなり、しかも人間のように見えるという不思議な存在を指すことになります〔Goldingay 7:9〜10〕。
 「人の子」はエゼキエル書にもでてきますが、そこでは神が「わたし」に向かって「人の子よ」と呼びかけますから、これは人間を指します。しかしこの場合でも、「わたし」は、エゼキエル個人を指すだけではなく、そこには、イスラエルの民の代表としての「わたし」の意味が込められていると見ていいでしょう。実はダニエル書にもこれと同じ「人の子」の用法が見えますが(8章17節)、ここは読み方に問題があります。個人と共同体とが重ねられたこの自己存在のあり方は、これ以後に現われる「人の子」の基本的な性格となります。
ダニエル書7章13節の「人の子のような者」の意味については、次のように大別できるでしょう。
(1)王やメシアとして高められた人物像。
(2)ユダヤ人全体の象徴。
(3)大天使ミカエルのような天的な存在。
確かに「人の子のような者」は、以上の三つのどれにも該当するように思われます。彼は至高者の聖なる民(ユダヤ人)を表わします(7章18節/同27節)。同時に彼は、王権を授かる個人を指すとも解釈できます(7章14節)。これに対して、4匹の獣は個々の王たちに支配された王国を指しますから(7章3節以下)、これらの獣に対応するものとして、「人の子のような者」は、終末的な王国の聖なる民全体を予想させます。彼は天の存在に囲まれていて(7章10節)、しかもその存在は、明らかに「人間のような」存在でありながら(10章16節/同18節)、必ずしも人間とは限りません。だとすれば、大天使ミカエルが、この人物像に最もふさわしいのでしょうか(12章1節)。
上にあげた三つの解釈は、相互に排除し合うのか? それともそこには共通項があるのか? この問題を考察しているのがアルバーニの論文です(Matthias Albani.“The‘One Like a Son of Man’(Dan7:13) and the Royal Ideology.”)
【王権の没落と聖なる民】
アルバーニによれば、「人の子のような者」は、ダビデ王朝に約束された終末的な権威/王権を象徴すると見ることができます(7章14節)。ダニエル書7章の獣たちの王国は、メシア的な王国像と対応しており、この神の王国の「擬似的な王」として「至高者の聖なる民」が登場していると見るのです。彼は、この聖なる民とその権威が、イスラエルの宗教的かつ歴史的な王権イデオロギーを受け継いでいると考え、ここに、天使的な人物像と王権的な人の子とのつながりを見出そうとしています
しかもダビデの王権には、「父子」のイメージが重なります。ヤハウェは、王をその即位に際して「わが子」と呼ぶのです(詩編2篇7節)。王権とヤハウェとのこの関係はダニエル書7章9節の神の王座にも反映しているとアルバーニは見ています。
ところで詩編110篇3節には、「曙の胎から若さの露があなたに降る時」という難解な箇所があります。ここは読み方に問題があり、「聖なる輝きを帯びた曙の子」あるいは「王衣をまとう曙の子」とも読むことができます。「曙」について、エジプトでは「曙は王たちを象徴する星々を生む」と言われていましたから、この詩の3節も「ヤコブから出る王の星」(民数記24章17節)と関連づけることができましょう。王は「神の子」であり「神的な存在」(詩編45篇6節)として神の右に座すのです(詩編10篇1節)。
「曙の子」としての星の表象は、エゼキエル書28章12〜19節でも、「火の石(星々)の間を歩む」(同16節)ティルスの王と共に現われます。エゼキエルは、この王が高慢のゆえに天から投げ落とされる姿を星と重ねるのです。このティルスの王は、ダビデ王朝の王たち、特にソロモン王と親密な関係にあったことは、列王記上5章15〜26節にも描かれています。
至高者の王座の山もまた「神の星々」と呼ばれていて(イザヤ14章13節)、この表象が、神の座を取り巻く「天の軍勢」へと発展したと考えられます(列王記上22章19節)。ウガリットでは、星々は「神の会議のメンバーたち」のことで、彼らは「神の子たち」を表わします(詩編89篇7節/同29篇1節/ヨブ1章6節/創世記6章2節)。「神の子たち」は、ほんらいカナンの山々に集う神々だったのですが、ここではシオンの山に集う「神の星々」へと転移されているのです(イザヤ14章13節)。神の山の神殿に住まうイスラエルの王は、「ヤハウェの子」とされ(詩編2篇7節/110篇3節)、ついには彼もまた「大いなる神」と呼ばれるようになります(イザヤ9章6節?/詩編103篇20節の「大いなる者たち」を参照)。
ところが、このように高められたイスラエルの王権は、ダビデ王朝の没落(前587年)とこれに続く唯一神教の台頭によって、「曙の子ヘレル」のように天の星から陰府へと落とされるのです(イザヤ14章12〜15節/エゼキエル28章のティルス王/同34章のファラオを参照)。わたしたちはここに、異教の王たちの高慢が、そのままイスラエルの王たちの高慢へと転移されているのを見出すことができます(エゼキエル21章30〜32節)。この結果、イスラエルの王権イデオロギーは、捕囚を通じて、「選ばれた民」へと転移されることになったと考えられます(詩編8篇4〜7節)。
【義人たちと天使たち】
 以上見てきたことから分かるように、黙示文学では、王ではなく義なるユダヤ人たちが、星々であり天使たちになります。これらの天の星々は、アンティオコス4世を指す「小さな角」と闘うことになりますが(ダニエル8章10節)、その結果、「多くのものを義へと導く賢者」たちは、天の星々となって復活するのです(ダニエル12章3節/第一エノク104章2〜6節)。地上の義人たちは、「永遠の相の下では」すでに天の聖者たちであり(ダニエル7章10節)、彼らは天に記された者たちとなりますから(12章1節)、今や「神の義人」だけが、この世と神の世界とをつなぐ存在となります。したがって、黙示文学では、地上の義人と天上の「聖なる者たち」とは緊密に結ばれていて、人間と天使たちとの間の溝は越えがたいものではなくなります。この状況は、王権イデオロギーにおいて、王と神の神性との関係に対応すると考えていいでしょう(詩編2篇7節/45篇7節)。ダニエル書の義人たちは、人びとの多くを義へと導くゆえに(4章24節)、かつてのイスラエルの義なる王たちなのです。イスラエルの王たちは民を義の道へ導くことに失敗しました(エゼキエル21章30節)。まして異教の王たちは言うまでもありません(イザヤ14章11〜15節)。
こうして、ダニエル書では、地上の王権の歴史は、つもる罪の集積にほかならず、これがアンティオコス4世にいたって頂点に達することになります(7章2〜8節)。このように見てくると、地上の王権に立ち向かう者としての「人の子のような者」は、王権を帯びたメシアであると同時に大天使ミカエルでもあること、しかも両者が矛盾しないことが見えてきます。それならば、ダニエル書7章13節の存在は、どうして「神の子」ではなく、「人の子のような者」なのでしょうか?
【曙の子と天の人の子】
 これに対する答えは、アンティオコス4世の「小さな角」にあり、おごり高ぶる王権にあります。彼は「エピファネス」とある通り、ヘレニズムの王たちの例にならって己を神格化し、天の王へと自分を高めます(ダニエル8章11節/11章36〜37節/第二マカバイ9章10節)。エジプトのプトレマイオス朝でも、王たちは「神から遣わされた救い主」であり「太陽の子」です〔TDNT (8) 336〕。セレウコス朝のギリシアの王たちも、先祖をアポロンとすることで、自らに「神」の称号を帰しています。イザヤは、この「小さな角」が、星々に囲まれた至高者の座へ登り詰める姿を描いているのです(イザヤ14章12〜15節)。「曙の子」とは「神の子」を表わす言い方にほかなりませんから、イザヤの「ヘレル・ベン・シャハル」の墜落は、バビロンの滅亡を嘲るものです。詩編11篇3節の難解な「曙の胎」もまたこのような高慢な王権を表わすのでしょう(ダニエル4〜5章参照)。
このようにして、ユダヤの民から見るならば、彼ら「神の子たち」は、唯一の神に敵対したがゆえに(ダニエル4章35節)、神とその民によって排除されるべき権力にほかならないのです。だから「神の子」「至高者の子」は、アンティオコス4世のようなセレウコス朝の王たちを指す蔑称にほかなりません(詩編82篇6節)。こうして、「神の子」は、正統ユダヤ教の間では、高慢なヘレニズムの王たちを指す用語になっていたと考えられます(イザヤ14章12節/ダニエル8章11節)。ダニエル書が、7章で「神の子」を避けて、高慢ではなく謙虚さを表わす意味をこめて「人の子」の称号を用いたのはこのためです。詩編80篇17節は、「人の子」を苦しめる者どもから彼を救いイスラエルを回復するよう祈り求めていますが、ここに出てくる「神の右に立つ人の子」は、神によって立てられた「イスラエルの王」を指しています(詩編110篇/同18篇36節/同2篇2節以下)。このように、「人の子」の即位と神の敵の征服/滅亡こそが、ダニエル書7章9〜14節の意味することであるのが分かります。
【人の子とミカエル】
 詩編80篇の「人の子」とダニエル書7章13節の「人の子のような者」とは、やや違いがあります。「のような」とは、彼が人間ではなく天の存在であることを指すもので、ユダヤ教のメシア観が、人間的な地上のレベルから天上のレベルへと高められていく過程をここに読み取ることができます。「人の子」は、メシアと同様の役割を担うものの、メシアと同定されているわけではありません。イスラエルの王たちが、その理想像(詩編72篇)を失墜したために(同82篇2〜5節)、もはや地上には義なる王を期待することができなくなった結果、地上の王権は、天上に転位されることになったのです。こうして、アンティオコス4世の不義による圧政に苦しむ義なるイスラエルの民は、その死後に天使によって天の星々へと高められることになりました(ダニエル12章3節)。彼らを代表する者こそ、偉大なる王侯の天使ミカエルであり(12章1節/10章13節)、「いと高い神の聖なる民」(7章27節)をば、その苦難から救う「いと高き者の聖者らに授けられる王権」(7章18節)なのです。この大天使は、王権を授かる「人の子<のような>者」にほかなりません。彼は、地上の王ではなく、天の王です。「雲に乗って来臨する」終末の天からのこの支配者は、地上で「神の子たち」を称するアンティオコス4世たちの王権に対抗するものであり、「雲の頂に登っていと高き者の<ように>なろう」(イザヤ14章14節)とした高ぶりの王たちを滅ぼす者です。このような天的な存在こそ「イスラエルの民を救う神の角」(詩編89篇18節)であり、「人の子」は、その権威を神の主権から授与されるのです。「ミカエル」とは「神に似た者」という意味です。このようにして、ダビデ王朝に向けて預言されていたイスラエルの王権は、これを超越する姿でその理想を成就することになったのです。
  もっとも、コリンズは、アルバーニの見解に対しても批判を加えて、ダニエル書は、ダビデ王朝にも君主制の回復にもほんらい興味がないと見るのです。だから彼は、ダニエル書から王権イデオロギーを読み取る見解を否定しています。ただしコリンズは、アルバーニが提唱した「人の子」と「神の子」との対立関係それ自体には反対していません。
エゼキエル書の「人の子」に対して、ダニエル書の「人の子」は、天から雲に乗って来臨する「人のような姿」として顕われます。この人の子は、天上から降り、全世界を支配する王座に坐る日の老いたる者から諸国民を支配する「権威と威光と王権」を授かりますから、この「人の子」は、個人というより集合的な意味を含んでいます。ここではイスラエルだけでなく、世界を統治する人の子なのです。彼は「真理の書」に記されている内容をダニエルに教えますが(10章16〜21節)、同時に、この人の子は、戦いによって王権を授かる「いと高き方の聖なる民」(ダニエル7章27節)と見なされていて、ここにダニエル書の人の子のメシア的な性格を読み取ることができます。
■事後預言と預言
ダニエル書の11章39節から11章40節への作者の視点の移行は、すでに起こった出来事に向けられる視点から、未来の出来事へと視点が移行していることに注目する必要があります。すでに生じた出来事を「預言する」ことを「事後預言」と言います。とすれば、ここでは、事後預言からほんとうの預言へと作者の視点が移行することになります。しかし、作者の目から見るならば、表象化されて語られている過去も未来も、神から示されたひとつながりの「啓示」として構成されているのです。ここでは、過去を表象化することが、未来への預言を表象化するための大切な手段となります。言い換えると、過去は、常に「新たに啓示される」ことによって未来の啓示へとつながるのです。なぜなら、事後預言の対象となる過去の出来事もまた、それが起こる以前において、ほんらいの預言を通じて語られていたからです。ラートが、「事後預言とはほんらいの預言の模倣にすぎない」と言うのはこの意味でしょう。だから、現在と過去と未来とを物理的に区別する時間そのものが、この世界では当てはまらないこと、少なくとも、学問的な批評を加える場合には、そういう時間観念それ自体もまた問われていることを知る必要があります。
 このように、ダニエル書では、現在自分たちが立っている歴史的な立場(トポス)が、そのまま終末の到来へとつながり、11章40節以下では、現在の出来事が「終わりの時」へ投影されてきます。この点では、イエスの語る「終末のしるし」もまた、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者」に始まり、「人の子のしるし」が顕われる終末まで続くことになります(マタイ24章15〜31節/ルカ17章20〜24節)。
■ダニエル書と新約聖書
 ダニエル書に表われた黙示思想が新約聖書とキリスト教に及ぼした影響をここで細述することは控えます。ここでは、新約とのかかわりから見て、ダニエル書に表われる順番に主な項目を列挙するにとどめたいと思います。
〔砕く石〕ダニエル書2章44〜45節に、「山から人手によらず切り出された大きな石」がでてきます。この石は、「人手によらす」天の神によって興される永遠の国で、人間の手によるすべての国々を打ち滅ぼすとあります。「石」はほんらい神の力の表象で(申命記32章18節)、イスラエルがこれにより頼む「貴い隅の石」です(イザヤ28章16節)。イエスは、イザヤのこの預言を引用して、「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれる」と語りました(ルカ20章18節/同時にローマ9章33節をも参照)。
〔復活〕ダニエル書3章17〜18節で、三人の敬虔な主の僕たちは、金の像を拝むように強制されてこれを拒否し、このために燃える炉に投げ込まれて殉教を覚悟します。この時に三人は、神が彼らを王の手から救うであろうと述べてから、「たといそうでなくても、王の神々を拝むことをしない」と告白します。彼らのこの信仰は、火の中にあっても彼らを救う「第四の人」の到来を招くのです。この物語は、アンティオコス4世時代の厳しい迫害を背景にしていますが、ここには、「殉教者の復活」への信仰が表わされています。この殉教の死は、「かつてなかったほどの苦難」が訪れた時に、「永遠の命か、あるいは永久の恥と憎悪の的となるか」のどちらかの裁きを受けるための復活思想へとつながります(12章2節)。わたしたちはここに、十字架のイエス・キリストによって現わされる死と復活へつながる初期の信仰を見ることができます。
〔根と株〕ダニエル書では、神の裁きを受けて切り倒された木について、「切り株と根は地中に残すよう」三度も繰り返えされています(4章12節/同20節/同23節)。たとえ罪の王国が倒れても、その切り株と根から、神は新しい民を興されるからです。このたとえは、イザヤ書に表われるものですが(イザヤ11章1節)、これはパウロが、律法の義に躓いて、イエス・キリストの救いに漏れたイスラエルの民が、それでも新しい異邦の主の民の根となったと告げていることへつながるものです(ローマ11章17〜18節/15章12節)。
〔神の会議〕「神の会議」はダニエル書の4章14節にでてきます。ここに登場する「見張りの天使」から、やがて堕落天使の物語へとつながり、悪霊論へ発展することになります。なお天使については、ダニエル書にはガブリエルがしばしば登場します(8章16節その他)。この天使は新約では、マリアに受胎告知をする天使であり、新約でも重要な働きをします。
〔マンダ〕ダニエル書4章33節に「理性がわたしに戻った」とある「理性」の言語はアラム語で「マンダ」です。この語は、2章21節と5章12節にもでてきますが、以後の思想にとって重要な意味を持つ言葉です。
〔人の子〕「人の子」はイエスの口から自分を指す言葉としてしばしば語られ、四福音書の描くイエス像に浸透していると言えましょう。福音書の人の子は、ダニエル書と同じように「雲に乗って来臨する」人の子ですが(マルコ8章31節/13章26〜27節)、同時に彼は「苦難を受ける」人の子です(マルコ10章33節)。このようにダニエル書の人の子モチーフは、新しい意味を帯びてイエス像に現われてきます。
〔終末の御国〕ダニエル書7章14節に表われる「人の子の支配」は、「いと高き方の聖なる民」の永遠の御国です(7章27節)。この御国の思想も新約聖書に浸透しています(特にヨハネ黙示録7章11〜12節)。イエスは「神の国が近づいた」と言い(マルコ1章15節)、パウロも終末が差し迫っていると述べています(第一テサロニケ4章13節以下)。これは、現在から見て、終末が時間的に短い未来に来ることを意味するよりも、むしろ終末が現在と密接に「つながっている」ことを指すものにほかなりません。
        ヘブライの伝承へ