34章 『第一エノク書』の「人の子」
■「人の子」の起源
 「人の子」"the Son of man" の用法と、これが意味している内容は多様ですから、これをイエス以前の時代とイエスの時代、さらにイエス復活以後の教会の用法とに分けて見ていく必要があります。この用語は、旧約聖書のヘブライ語「ベン(子)・アダム(人)」にさかのぼりますが、ほんらいは「人間/人類」を指していて(詩編8篇5節)、詩編8篇では、「人の子」が「アノーシュ」(人間)と並んで用いられています。
 「人の子」が、黙示思想ほんらいの用語として表われる最も代表的でしかも重要な箇所は、ダニエル書7章13節です。ここでは、当時のペルシアの帝国アラム語で、「バル(子)・エナーシュ(人)」としてでてきます(「バル」は後期ヘブライ語で「子」のこと)。「バル・エナーシュ」は、イエスの頃のアラム語では「バル・ナーシュ/ナーシャー」ですが、これは、「エナーシュ」から「エ」が脱落して「ナーシュ/ナーシャー」へと変じたものです。特に自分をも含めて人間一般を指す場合には、「バルナーシュ/バルナーシャー」と一語で言うこともありました〔TDNT(8)403 Carsten Colpe〕。
 ダニエル書(前2世紀)にさかのぼるこの言い方は、七十人訳のギリシア語では「ヒュイオス(子)・アントロープー(人の)」ですが、これでは、ギリシア語としては意味をなしません。それゆえにか、にもかかわらずか、原語の「バル・(エ)ナーシュ」の意味が、そのままギリシア語で引き継がれて、新約聖書でも用いられることになります(例えばマルコ14章62節。なお詩編8篇5節もヘブライ2章6節に引用されています)。ダニエル書の用法を引き継いだこの「人の子」は、新約では「メシア」と同じ意味にもなりますが、福音書で「メシア」を指す場合は、通常冠詞が付いて「ホ・ヒュイオス・トゥ・アントロープー」"the Son of the man"となります(ただしヨハネ5章27節は例外)。「バル・(エ)ナーシュ」(人の子)が、「アントロープス」(人)とだけ、単数で訳される場合もありますが、この場合の「アントロープス」(人)も、メシア的な「人の子」のことでしょう(第一テモテ2章5節)。
 ごく一般的な言い方をするならば、新約では、旧約にでてくるこの「人の子」が、「キリスト」を指す場合にも用いられます。詩編8篇の「人の子」は、新約では、贖われた理想的な人間全体を代表する「頭」としての「人の子」を意味していて、この点で、ダニエル書7章13節の「人の子」とは、内容的に異なっています。特にイエス復活以後の教会では、「人の子」は、神の右に座し、永遠の支配権を授与される「キリスト」として、終末における「来るべき方」の意味で用いられています。
 ダニエル書の「人の子」の起源については、バビロニア、エジプトあるいはユダヤなど、その起源には諸説があります。古代の人間観には、人間は宇宙全体を映し出す「小宇宙」"microcosm"であるという見方がありました。この小宇宙的な「人」は、人間を中心にして、これを囲む大宇宙"macrocosm"と対応する存在です。しかし、黙示的な意味での「人の子」は、このような大宇宙と対応する小宇宙的な人間像のことではありません。また、古代ギリシアの人間観には、人間には「宇宙の魂/世界霊」が宿っているという見方もありましたが、「人の子」には、このような「世界の霊魂」が宿る「人」という意味も含まれていません。さらに、ユダヤの思想家フィロン(前25〜後45/50年)は、天に存在する理想の「人間」の姿形を「真の人」と呼び、これを人間の元型を見なして「人の子」とも呼んでいます。しかし彼の「人の子」には、新約聖書に見られる個人性が欠如しています。
 これらに対して、ユダヤの「知恵」(ソフィア)思想から出て、知恵が擬人化された「人」が、黙示的な「人の子」へと発展して、これが、ダニエル書と『第一エノク書』の「人の子」思想へ受け継がれているという見方があります。この場合、「知恵」は「人の子」を「人の子」は「知恵」に顕わすことになりましょう。「もろもろの霊の主である知恵が、聖なる義人たちに彼(人の子)を顕わした」(『第一エノク書』48章7節)とあるのがこれです〔TDNT(8)412〕。
 フィロンの言う天における「真人」は、グノーシス思想に近いと見ることができますが、福音書の「人の子」をこのグノーシス思想に近づけて見る解釈があります。「人の子」がグノーシス的な意味であるとすれば、黙示的な「人の子」と天における「真人」との関係が明確にされなければならないでしょう。しかし、「人の子」と「真人」との一致は、ユダヤ黙示思想の「人の子」にも新約の「人の子」にも見いだすことができません。グノーシス的な「人の子」には、ユダヤ黙示思想に通じるところが見られないし、ユダヤ黙示思想は、グノーシスの大宇宙=小宇宙の「人の子」概念では理解できません。
■ウガリット神話
 ダニエル書7章の「人の子」に戻ると、この「人の子」の起源は、カナン(ウガリット語で「カアナン」)の神話にさかのぼるという見方があります〔TDNT(8)415-19〕。先に、『コイノニア』57号の「知恵と黙示」第1章「黙示の起源と知恵」の「ヨブと原黙示」の項目で、わたしはフランク・クロスの説を紹介して、ユダヤ黙示思想の初期の段階をヨブ記に見ることができると述べました。クロスは、最古のヤハウェ像をカナン神話のバアルに求めています。
 現在のレバノンの北西部の地中海沿岸、新約時代のシリアのアンティオキアの南西にあたる海岸に、ラオディケアという港町がありました。この港町の少し北に通称ラス・シャムラと呼ばれる村があって、1928年に、ある農夫がそこで墓石を発見したのです。このことがきっかけになって、1929年にフランスの発掘隊が、従来知られていない楔形(くさびがた)文字で記された粘土板の諸文書を発見しました。この発掘は現在に至るまで続けられていますが、これらの粘土板に記されている文字は、ユーフラテス河沿いに存在したアッカド王国のアッカド語の楔形文字ではなく、30のアルファベット文字で構成されていて、これが最古のアルファベット文字だということが分かったのです。
 紀元前14世紀に、エジプト王が、パレスチナおよびシリアの王国と交わした書簡が以前から知られていて、この書簡は「アマルナ書簡」と呼ばれています。従来この書簡の宛先がどこであったのかが謎とされてきましたが、発掘の結果、このアマルナ書簡の宛先が、ウガリット王ニクマドであったことが出土した粘土板から判明したのです。しかもラス・シャムラが、ウガリット王国の首都であったことも分かりました。ウガリット王国は、前14〜13世紀に最盛期を迎えましたが、前12世紀頃に、エーゲ海方面から侵入してきた「海の民」と呼ばれる人たちによって滅ぼされました。したがって、カナンのウガリット王国の時代は比較的短く、紀元前1500年頃〜1200年頃(青銅器時代の終わり)と見られています。
 このウガリット王国の時代は、イスラエルの民が、エジプトからカナンへ侵入してきた時期と重なりますから、イスラエル諸部族のカナン定住に伴って、両者の間に争いだけでなく様々な交流があったことが知られています。例えば「7」という数が重要な意味を持つようになったのは、ウガリット神話の影響からだと思われます。それ以後も、イスラエルとユダヤの民は、ツロ・フェニキアの民を通して、ギリシア文明を含む東地中海の文明に接して、これを受け入れたのです。セム系の民族は、ほんらいユーフラテス河から地中海沿岸にかけて、三日月状に分布していました。しかし、パレスチナと地中海文明との接触の結果、三日月型のセム系の文明が、ユーフラテス河沿いのシュメール/アッカド/バビロニアの東方と東地中海沿岸のパレスチナ/カナン/小アジア/ギリシアの西方のように大きく二つに分かれる結果になったのです。ウガリットのアルファベット文字がこのことを示すものでしょう。これにナイル河流域のエジプト文明を加えると、わたしたちは古代オリエントの文明のほぼ全体像を知ることができます。
 確かにウガリットの神話には、ダニエル書や黙示思想に関連すると思われる表象や神々が現われます。年老いた神で「白髪と白いあごひげ」を持つイルウ(ヘブライ語名は「エール=力/神」。ダニエル書7章9節参照)がいて、彼は天の神々の集会を支配しています〔以下のウガリット文書名は、柴田栄訳『古代オリエント集』筑摩世界文学大系T(筑摩書房:1978年初版)から〕。イルウは、被造物の創造者であり、「その言葉は賢く、その知恵はとこしへで、その言葉は幸いな命」とあります。興味深いのは、このイルウが「人の父」と呼ばれていることです(『ケレト』)。この父イルウが、天における王権をバアール(ヘブライ語名「バアル」)に譲ることになります(したがってバアールは「人の子」か?)。
 バアールは、イルウの傍に立つ英雄的な神です(『バアールとアナト』)。バアールは、「雲に乗るバアール」として、その敵ヤムを倒し、レヴィアタンを打ち砕き、七つの頭の竜を破り、「とこしえの王国と永遠の王権」を手に入れます(同書)。彼はまた雌牛と交わってモシエー(ヘブライ語名「モーセ」か?)を生みます。このバアールが、「地の君」であるモート(死)と死闘を繰り広げますが、バアールは、一度はモートによって冥府に降ります。しかし、最後にはモートがバアールによって殺され、バアールは生き返るのです。その他、処女の女神アナトは、戦と平和の両方の女神として、竜を退治し七つの頭を持つ蛇(ヨハネ黙示録12章3節)を撃ち、彼女によって、バアールに敵対する者はいなくなります(『バアール』)。
 アナトとバアールによる竜退治やバアールによる海の怪物退治、女神イシュタルを征服したバアール、あるいは死の神モートに象徴される嵐の神など、このような神話的な神々と英雄像に、ユダヤ黙示思想に現われる表象や人物の起源を見ることもできましょう。そこには、より若い神バアールが、太古からの神イルウを征服するという神の権力の交代劇を読み取ることもできます。あるいは、収穫祭に再演される混沌の竜退治と勝利者の即位の神話に、捕囚以前のイスラエルの祭儀の起源を見ることができるかもしれません。黙示思想は、これらの神話的な要素に終末的な勝利という意義づけを与えられたという見方もできそうです。なお、ウガリット文書には、王ダニルウ(ヘブライ語名「ダニエル」)の物語である『アクハト』もあります。
 ただし、ウガリット文書は、パレスチナの神話を正確に反映しているとは限りません。また、これらの神話が、ダニエル書7章の神の起源としての「エール」(神)あるいは「バアル」(主)を、「その全体像として」表わしているとは限りません。したがって、ユダヤ黙示思想が、古代のカナン神話の再構成でありこれの復権であるかどうかを確かめることはできないのです。これらの神話群には、ユダヤの黙示思想と共通するところがありますが、たとえそうであっても、わたしの見るところ、間接的な影響にとどまっていて、直接ユダヤ黙示思想へ吸収され、反映されていると見なすことはできないと思われます。
 イスラエルの宗教思想には、シュメールとアッカドなど、ウル王朝の文明を背景にしたアブラハム伝承に起源があり、これに、古代エジプト文明の影響を受けたモーセ伝承があり、ウガリット神話を吸収した士師記とサウル王の時代があり、フェニキア文明を吸収したソロモン王の時代があり、バビロニア文明の影響を受けた捕囚期があり、ペルシア帝国の支配下にあった捕囚後の時期があり、ギリシア系の王たちに支配されてヘレニズム化された時代があります。ユダヤの黙示思想は、これらの諸々の影響の中から生まれたと考えられますから、このような黙示思想とその中核をなす「人の子」思想について、これをどれか一つの神話や思想に、その起源を特定するのは無理だと思われます。イスラエルの黙示思想は、これらの影響を受けているとは言え、どこまでもユダヤ特有の思想であり、したがって、「人の子」も、他に類を見ない表象として、ユダヤ独自の概念であると考えるべきでしょう。
■『第一エノク書』の「人の子」
 ダニエル書の「人の子」については、33章ダニエル書の黙示(後編)で、「ダニエル書の『人の子』」としてすでに扱いました。今回は、前回に続き、『第一エノク書』の「人の子」思想を見ていくことにします。
【「人の子」の個人化】
 ダニエル書7章13節の「人の子のような者」とは、個人なのでしょうか? 集合的なものでしょうか? この点に関して、ステファン・バイエルの説に従うなら、およそ次のようになりましょう〔Stefan Beyerle:“One Like a Son of Man”: Innuendoes of a Heavenly Individual. Enoch and Qumran Origines. 54-55. 注Innuendoes=示唆/暗示〕。アラム語の「クバル・エナーシュ」は、ほんらい人類の中の人を一般的に指す言い方ですが、中期アラム語のクムラン文書にでてくる「ケバル・エナーシュ」の用法は、興味深いことに、古代アラム語に比べると個人化が進んでいます。
  『第一エノク書』93章11節には「すべての<人間たちの子たち>の中で、聖なる方のお言葉を聴いて、だれがふるえおののかずにおれようか。」"For who is there of all <the sons of men> who is able to hear the words of the Holy One and not be terrified;"〔Nickelsburg(2)143.〕とあり、さらに同書93章13節には、クムランの写本では(4Q212)、「あらゆる<人間たちの子たち>の中で、だれが大地全体の長さと幅を計り知ることができようか」となっています。英訳は、"Or who among <the sons of men>can know and measure what is the length and breadth of all the earth?."〔DSS(1)259〕です。念のために『第一エノク書』の原文の英訳では、93章13節は次のようになっています。"And who is there <of all men> who is able to know the length of the heavens."〔Nickelsburg(2)143〕。
ここで「だれが〜おれようか」とある、反語的な問いかけは、その答えとして、「<エノク個人>のほかには、だれひとりありえない」ことが、含まれているのは明らかです。 "the implied answer is: 'Enoch!' "〔Nikelsburg (4)452〕。
 このクムラン文書(前1世紀)において、わたしたちは、『第一エノク書』の「人間たちの子たち」が、エノク個人としての「人の子」"son of man"へと移行する過程を読み取ることができます。しかもその過程は、すでに『第一エノク書』において、内容的に始まっていることも分かります。ただし、クムラン文書の解釈では、個人性は含みとして読み取ることができるものの、文字通りに解釈するなら「人の子」は、ほんらいの一般的な「人間たちの子たち」の意味もまだ残っていると言うことができましょう。
 中期アラム語のもうひとつの例は、創世記13章16節「大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」を書き換えたクムラン文書(1QapGen)です〔DSS(2)102〕。クムラン文書では、聖書の書き換えは重要な意味を帯びています。特に、アブラハムの記事では、彼の年代記とその子孫の系譜が重視されています〔DSS(2)89〕。ここのクムラン文書では、神がアブラハムに告げた言葉は、「たった<一人の人間>も数えることができない」と読むことができます。複数から単数へのこの移行は、アブラハムの子孫が「一人の人(イサク)」からだけしか出てこないことを強調するための書き換えだと思われますが、ここでは、「一人の人」とあるよういに、アブラハムから出る民族全体と一人とが重ね合わされているのが分かります。ここでも個人として「一人の人間」でありながら、それが、ユダヤの民全体を表わすことと矛盾しないのです〔Enoch and Qumran Origines.55〕。
 以上見てきたように、『第一エノク書』も創世記13章16節のクムラン文書の書き換えも、「バルナーシュ」をほんらいの一般的な意味でありながら、しかもその個人性を否定してはいません。この点で対照的なのは、「見張りの書」(前300年頃?)です。この書の7章3節にある「彼ら(巨人たち)は、<人間の子たち>の労苦を食いつくした」では、「人間たちの子たち」は、明らかに人間一般を指しています(ギリシア語訳は「人間たちの労苦」)。それゆえに、ダニエル書7章13節「人の子のような者」は、ほんらいの一般性を保持しているものの、その文脈によって個人性を読み取ることができると言えましょう。
【天的な存在について】
 ダニエル書7章14節では、「人の子」は、「日の老いたる者」から「権威、威光、王権を受けた」とあります。ここで授与される「威光/威厳」(イカール)とは、地上の王国を表象する4匹の獣(ダニエル書7章)に対抗するために「人の子」に賦与されたものですが、この「威光」は、ダニエル2章37節と5章18節では、「天の神」「いと高き神」だけが授けることができるものです。この「威厳/威光」は、歴代誌上29章11〜12節のダビデの祈りにも表われますが、そこでは、地上の王国に対するイスラエルの神の「天の王国」を表わす言葉として用いられています。また、ダニエル書関連のクムラン文書でも、「威光」は「天の王国」を表わすものです。この「威光」が、ダニエル書7章では、「人の子」だけに授けられる点が注目されます。ペルシア時代から「威光」は王権とも結びついていますが、ダニエル書では、この用語が「天の王国」に限って用いられているからです〔Enoch and Qumran Origines.56〕。
 次に、天の王座とその周辺について見るならば、「人の子」像と共に描かれる天の王座や「日の老いたる者」は、ダニエル書では7章9〜10と同13〜14節に表われます。またエゼキエル書(1章4〜28節)では、王座が、四つの生き物と車輪とを伴ってでてきます。『第一エノク書』においては、エノクが天へ昇って観る王座とその周辺の様相は、その14章8〜23節に描かれています。これらの文書は、いずれも天の王国/王座を地上から超越した存在として描いています。これに対して、『第一エノク書』の伝承とは別個に伝えられて、後にマニ教の教典の一部となった「巨人の書」(後250年頃?のペルシア語の文書)がありますが、この「巨人の書」の基となった古い伝承の幾つかの断片(前2世紀のものか?)が、クムラン文書で発見されました〔DSS(2)290〜95〕。これらの断片が伝えるところでは、天使たちと人間とは比較的自由に交流していたようです。それらの断片の中には、天にいる巨人たちが見た不吉な夢をエノクに頼んで解いてもらう箇所があります(4Q530:EnGiantsb)。そこには「わたし(エノク)も今夜夢を見た。すると、巨人たちよ、見よ。天の統治者が地上に降ると、そこに王座が据えられ、大いなる聖なる方が座られて、〜幾千幾万という天使たちがその御前で仕えていた〜」(16〜18)とあります〔DSS(2)293〜94〕。ダニエル書とこれらの断片に見る「巨人の書」との主な違いは、「巨人の書」では、巨人たちが地上の存在に近く、神の顕現さえも、地上へと向かう/降る傾向があることです。おそらくこれらの「巨人の書」が伝える断片は、ダニエル書の入念な終末観に比べると、より古い層の伝承を伝えているのでしょう〔Enoch and Qumran Origines.56〜57〕。引証した断片には、古代シュメールの神話に登場するギルガメシュさえでてきます。
 エゼキエルに戻りますと、エゼキエル書の1章22〜28節には、天の聖所の青写真と思われる描写があります。4匹の生き物とドームの上には王座があり、「王座のようなものの上には、高く人間のように見える姿をしたもの」がその座を占めていて、炎とせん光と輝きが「栄光」を放っています。王座はラピス・ラズリできていますが、新アッシリア時代のマルドゥク伝承では、古代バビロニアのマルドゥク神は、天の神=王として王座に座し、その台座もラピス・ラズリでできています。マルドゥクの王座は中空にありますが、それよりも低い天界では、台座は碧玉でできています。この碧玉は、エゼキエル書1章22節の「水晶のような輝きのドーム」と対応していると思われます。エゼキエルの描く「ドーム」は、ラピス・ラズリの天の王座の台座となっているからです。
 『第一エノク書』(14章8〜9節)にでてくる天の聖所も、燃える炎の舌で囲まれた大きな雹でできた建物の隠喩で表わされています。また『第一エノク書』14章18〜20節では、王座の建物は氷の「ようで」あり、その天井には炎が巡り、王座の下からも炎の河が流れ出ています。王座はエノクが見ることができないほどの輝く栄光を放っています。
【まとめ】
 このように見てくると、「人の子」をめぐる天の描写は、地上を超越した神の神聖と純粋を表わす王座と結びついているのが分かります。これから判断するならば、ダニエル書の「人の子」は、天の聖所の天使の会議の一メンバーと見ることができましょう。ただし、彼は、個人として特徴づけられていることに注目しなければなりません。なぜなら、この点が、後の個人としてのメシア像と関連してくると考えられるからです。また彼は、堕天使たちとは対照的に、神の王座に完全に服従しています。しかし彼は、地上の人類とはっきり区別されていて、黙示的終末観の超越性を保っていることが分かります。以上の分析から見ると、黙示思想にでてくる「人の子」は、時代と共に、集合的な存在から個人化へ進む傾向があり、同時に、地上的から天上的な存在へと高められていく傾向があることが分かります。
■『第一エノク書』の「人の子」像
 旧約時代と新約時代の中間期にあたるユダヤ教の時期では、「人の子」像はまだ定まっておらず、これが表わす内容も多面的でありながら、現在知られている例も多くはありません。その中で、特に重要なのは、『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)にでている「人の子」像です。
 『第一エノク書』10章で、「大いなる聖なる至高者」が、天使をラメクの子ノアに遣わして、こう告げさせます。以下の『第一エノク書』からの引用は、村岡訳を参照しながらニケルズバーグ訳に基づいた私訳です〔Nickelsburg(3)〕〔村岡訳〕。
 
〔10章7節〕
 み使いたちは、荒廃させた地を癒やせ。
  すなわち地に癒やしを告げ、疫病からの癒やしを告げよ。
 人の子らは、見張りの天使たちが、その子らに教え伝えた秘義のゆえに
  滅ぼされることがないと告げよ。
 
〔10章21節〕
人の子らはすべて正しい者となり、
 すべての民はわたしを崇めたたえ、
 わたしを祝してひれ伏すであろう。
                     
 ここは『第一エノク書』の「見張りの天使たちの書」(前300年?〜200年)に属する箇所ですから、ここで言う「人の子たち」は、まだ人間一般を指しています。しかし、ここでの「人の子たち」が、いつか「正しい者」となって、天の至高者を褒め称えるときが来ることをこの引用箇所は予測しています。
 次に『第一エノク書』46章1〜5節では、「人の子」は次のように描かれています。46章は「たとえの書」に含まれますから前40?〜後50年?の作です。
 
〔46章1〜5節〕
そこにわたしは「日々の頭」を見た。
  その頭は白い羊毛のようであった。
すると彼と共にもう一人の者がいて、その顔は人間に似ていた。
  その顔は、聖なる天使のように恵みに満ちていた。
そこでわたしは共にいた平和の天使に尋ねた。
 すると彼は、この人の子についてのあらゆる隠された秘義を示してくれた。
 彼がだれであり、どこから来たのか。なぜ彼は日々の頭と共に歩むのかを。
そして天使はわたしに答えてこう言った。
 「これは義なる人の子であり、義が彼に宿る。
彼は隠された尊い秘義を啓示するであろう。
  もろもろの霊の主が彼を選び、
  彼の受ける分は、もろもろの霊の主の御前に
  真理によってとこしえに栄える。
そしてあなたが見た人の子は、
 王たちや力ある者どもをその席から、強い者たちをその王座からつまみ出す。
 彼は強い者たちの束縛の手綱を緩め、
 罪人どもの歯を砕くであろう。
彼らは王たちの王座と王国を覆すであろう。
 彼ら(王たち)が彼(人の子)を崇め、彼をたたえなかったからである。          
 ここに表われる人の子は、ダニエル書7章の人の子像に近く、「もろもろの霊の主」"the Lord of Spirits" である方が「人の子」を選ぶと、この人の子が、王や権力者や強い者たちをその座から引きずり下ろして、諸々の王国の王座を覆(くつがえ)すのです。ここは、ルカ福音書の「高ぶる者を覆し、権力ある者たちをその王座から引きずり下ろす」(ルカ1章51〜52節)を想起させます。
 「人の子」は、『第一エノク書』48章にも表われます。48章は「たとえの書」(前40年?〜後50年?)に属する箇所です。
 
〔48章1〜4節〕
その所に、汲めども尽きせぬ義の泉をわたしは見た。
  また、そのまわりに知恵の泉がいくつもあって、
  渇ける者はみなそこで飲み、知恵に満たされた。
  彼らの住処は、義人たち、聖者たち、選ばれた者たちと共にあった。
するとその時、かの人の子が、もろもろの霊の主によって名を呼ばれた。
  彼の名は、高齢の頭の前にあった。
太陽と星座とが創造される以前に、
  空の星が造られる以前から、
  彼の名はもろもろの霊の主の前で呼ばれた。
 
彼は、義人たちの杖であり、
 彼らは彼により頼んで倒れることがない。
彼はもろもろの民の光であり、
 心に憂いを抱く者の希望である。
 
『第一エノク書』の「たとえの書」に出てくる「人の子」は、死者の復活と新天新地を到来させる者として期待されています〔Collins, Mark. 60.〕。
 
 こうして選ばれた者たちは選ばれた者と共に住まい
 その信仰に対してこれらの量り(報い)が与えられる
 それらの秤は義人たちを力づける。
 
 これらの秤は地の深みに潜む秘密を露わにする。
 荒れ野で滅ぼされた者たち、
 獣に食われた者たち、
 海の魚に食べられた者たちのことである。
 彼らは「選ばれた方」の日に、戻ってきて彼により頼むであろう。
 「諸霊の主」の御前では、誰も滅ぼされることがなく、
 誰一人滅びることもありえないからである。
  (『第一エノク書』61章4〜5節)〔Nickelsburg(3)1 Enoch.77.〕
 
 さらに新天新地については次のように語られています。
 
 その日、わたし(諸霊の主)は「わたしの選んだ者」を
    彼ら(選ばれた者たち)の中に住まわせる。
  わたしは天を変貌させ、それを永遠の祝福とし、光とする。
  わたしは地を変貌させ、これを祝福とする。
 (『第一エノク書』45章4〜5節)〔Nickelsburg(3)1 Enoch.59.〕
 
 そしてこれから後は、朽ちるものは何一つ存在しない。
   人の子が顕われたからである。
 そして彼は栄光の座に座り、
   その御前から、すべての悪が消え失せる。
 そして人の子の言葉が出て行き、
   諸霊の主の御前で勝利するであろう。
 (『第一エノク書』69章29節)〔Nickelsburg(3)1 Enoch.92.〕
 
 『第一エノク書』のこの人の子でされに注目すべきは、彼が「隠されていた」者であったことです〔Collins, Mark. 61.〕。
 
 このゆえに彼(人の子)は彼(諸霊の主)の御前で選ばれ隠されていた。
   この世が創造される前から永遠に。
 主霊の主の知恵が、聖なる者たちと義人たちに
     彼(人の子)を顕わした。
 彼(諸霊の主)は、義人たちの嗣業を保たれたからである。
 彼らはこの不義の世とその道を
   諸霊の主のみ名によって憎んだゆえである。
彼らはそのみ名によって救われ、
  彼(諸霊の主)こそ彼らの命の正しさを証しするからである。
(『第一エノク書』48章6〜7節)〔Nickelsburg(3)1 Enoch.62.〕
 
 ここで語られる「正しさの立証」"vindication" と「人の子」が「隠されていた」ことは、イザヤ書49章2〜3節の主の僕を思わせるから、『第一エノク書』のこの箇所はイザヤ書から出ているのかもしれません。『第一エノク書』の人の子が、はたして創造に先立つ先在的な存在であったかどうかは、議論がありますが、次の節は、人の子の先在を示唆していると言えましょう〔Collins, Mark. 61.〕。
 
 世の初めから人の子は隠されていた。
  いと高き方が、彼のみ力によって、
    彼(人の子)を隠し置かれたからである。
(『第一エノク書』62章7節)〔Nickelsburg(3)1 Enoch.80.〕
 
以上見てきたように、『第一エノク書』の「人の子」とは、神に選ばれ贖われた共同体のことであり、その共同体は、終末的な裁きに先立って王たちや権力者たちに向かって顕われて、その者どもを驚かせるのです(知恵の書5章1〜9節)。さらに例をあげると、
 
〔48章6〜8節〕
このために、彼(人の子)は選ばれ、彼(もろもろの霊の主)の前に隠されて
  世界が創造される前から永遠に存在していた。
もろもろの霊の主の知恵が、聖なる者たちと義人たちとに彼を啓示した。
  彼が義人たちの分け前を守ったからである。
なぜなら彼らは、この暴虐の世を忌み嫌い
  もろもろの霊の主の御前で、この世で行なわれるいっさいの
  この世の道を憎んだからである。
彼(もろもろの霊の主)の名によって彼らは救われ、
  彼は彼らの命を奪った者に報いてくださる。
             
 また48章の終わりには、「なぜなら彼らは、もろもろの霊の主とその油注がれた者(メシア)を否定したからである」(48章10節)とあって、「人の子」が、「油注がれたメシア」とされているのが特に注目されます。
 以下の62章〜69章も「たとえの書」に属しますが、ここでは、「人の子」が、世界の創造の初めから「もろもろの霊の主」と共に存在していたことが語られています。「人の子」は、義人たちや選ばれた者たちが、彼と共に住まうため啓示されるのです。
 
〔62章7節〕
人の子は初めから隠されていた。
 至高者が彼をそのみ力によって保護し
 彼を選ばれた者たちに啓示するためである。
             
〔62章14節〕
もろもろの霊の主が、彼ら(義人たちと選ばれた者たち)の上におられて、
  彼らは人の子と共に食事をし
  何時までも何時までもそこで寝起きを共にする。
             
 さらに、以下に見るように、人の子には裁きの権限が授与されて、彼が現われて栄光の座につくと、罪人たちと彼らを惑わしたもろもろの霊とは滅びの集会所に幽閉されます。ここには、終末において顕現する人の子像が、はっきりと示されています。
 
〔69章26〜29節〕
彼ら(聖者たち)は大いに喜び
  ほめ称え、栄光を帰し、崇めた。
  人の子の名前が彼らに啓示されたからである。
彼はその栄光の座に座り
  裁きの権能が人の子に与えられた。
  彼は罪人どもを消し去り地の面から追放する。
     ・・・・・・
その時からは、朽ちるものは一切なくなる。
  人の子が現われたからである。
彼が栄光の座に座ると
  あらゆる邪悪は彼の前から消え去る。
人の子の言葉が発せられると
  それはもろもろの霊の主のみ前に固く立つ。
これがエノクの第三のたとえである。
 
 このように、『第一エノク書』の「たとえの書」にでてくる「人の子」は、ダニエル書の「人の子」を反映していると思われますが、ダニエル書の「日の老いたる者」とある「老いたる」が抜けています。ただし、ここでもダニエル書と同様に、人間に「似ている」とあって、人間の姿であって人間ではない天的な存在として描かれています。「聖なる民の至高者」に選ばれた者として、彼には永遠の王権が約束されています。彼自身も「選ばれた者」とあるように、集合体ではなく、明らかに個人です。しかし、彼は、メシア的ではあっても、また「メシア」の称号を持つ存在とは言えません〔TDNT(8)424〕。この「人の子」は、選ばれた者であり、「人間の姿をした天的な存在」です。しかも彼は世界の創造に先立つ人格的な存在であり、彼の言葉は、もろもろの霊の主の前で永遠に偉大なのです(48章3〜6節/69章27〜29節)。ただし問題は、この「人の子」が、はたしてどこまで「メシア的」な存在か? と言うことです。彼は、メシア的な意義を帯びてはいても、ユダヤの民全体の象徴ではなく、また「知恵」がそうであるようには、神と共にある「創造の仲介者」ではないと見る説もあります〔TDNT(8)426〕。しかし以上の引用から分かるように、この点は明らかでありません。彼は、何よりも「終末的な」存在なのです。
 次の71章からの引用も「たとえの書」の終わりの部分です。ここで、エノクは天に昇り、そこで日々の頭に会い、エノク自身が「人の子」へと変容することになります。ここでの「人の子」は、来るべきアイオーン(世界/時代)の支配者と言えましょう。
 
〔71章10〜17節〕
彼ら(天使たち)と共に日々の頭がいた。
  その頭は白く羊毛のように清く
  その衣服は表現し難い。
わたしはひれ伏した。
  わたしの肉はすべて溶け去り
  わたしの霊は変容した。
わたしは霊の力により大声で叫び、
  ほめたたえ、賛美し、崇めた。
するとわたしの口から出た賛美が
  日々の頭の目によしとされて受け入れられた。
すると日々の頭が、ミカエルとラファエルと
  ガブリエルとペヌエル共に来た。
  幾千幾万の数知れぬみ使いたちも共にいた。
するとその天使が、わたしに近づいて声をかけて挨拶をし、
  そして言った。
「あなたは義のために生まれた人の子である。
  義があなたに宿り
  日々の頭の義は、あなたを離れることがないであろう。」
それから彼は言った。
  「彼は(日々の頭)は、来るべきアイオーンの名において平和を告げるであろう。
   平和は、創造の時から、そこから出るからであり
   あなたは永遠に何時までも平和を保つであろう。
すべての人はあなたの道を歩み、義はあなたを離れることがないであろう。
   彼らはあなたと住処を共に、あなたの分を受け
   あなたから離れることは永遠にないであろう。
その人の子は長寿を与えられ
  義人たちには平和があり
  彼らには真理の道がある
もろもろの霊の主のみ名において永遠に。」
 
 ここに見るように、『第一エノク書』では、エノクの昇天とともに、エノク自身が人の子と同一視されることになります。エノクは、この「日々の頭」である人の子の前で顔を伏せ賛美するうちに、エノク自身の霊が変貌して、ミカエルからか? 日々の頭からか? はっきりしませんが〔TDNT(8)426n204〕、彼は「あなたは義から生まれた人の子である」と呼ばれ、「日々の頭はあなたを離れることがない」と告げられます。ここでエノク自身も「人の子」に変貌しますが、エノクが人の子に「化体/受肉」するのではありません。彼は、その名にもかかわらず、神の像ではなく、人間の原型とも言えません(『第一エノク書』70〜71章)。ここでは、地上のエノクが、天の存在である人の子へと「変貌した」と言うべきでしょう。この「人の子エノク」は、終末を予測させてはいますが、終末の「開始者」であるとは言えません。彼は未来の審判者であり、この意味で、原初キリスト教の人の子像にきわめて近いと言えます〔TDNT(8)427〕。わたしたちはここに、ユダヤ黙示文学にでてくる「人の子」像の原型を見ることができます。
 ところで、ここに見られるように、エノクが啓示によって天に昇ることにより、地上にいるはずのエノク自身が「人の子」へと変貌するというこの過程は、とても重要な意味を持つと考えられます。なぜなら、後に、ナザレのイエスが、「人の子」について語ることによって、彼自身がその人の子へと変貌するという過程の原型を、このエノクの変貌に見いだすことができるからです。 
 また、以下の引用については、先にダニエル書の【「人の子」の個人化】で述べたので繰り返しません。
 
〔93章11節〕 
あらゆる人の子たちの中で、だれが聖なるお方の
  お言葉を聴いて、おののかずにおれようか?
  だれがその方の想いを悟ることができようか?
またすべての人たちの中でだれが、
  天の御業を観ることができようか?
 
■『第一エノク書』の「人の子」像の背景
 以上『第一エノク書』の中から、「人の子」に関係する箇所を選び出して引用しました。ここで、これらの引用箇所をさらによく理解するために、これらの箇所の背景となる『第一エノク書』の宗教的な思想をジョージ・ニケルズバーグの解説を参照しつつ紹介したいと思います〔Nickelsburg(4)47〜56〕。なお、『第一エノク書』の人の子像と新約聖書との関係については、別個に扱うことにします。
 「たとえの書」の中心となる主題は、神の至高権に対する反逆です。この反逆のもとは見張りの天使たちの堕罪にあるとは言え、これによって結果する地上の暴虐は、主として地上の王たちと権力者たちによるものです。これら統治者たちが、神の至高権を認識するにいたらなかったことが、一貫して主張されています。このために、虐げられ圧政に苦しむ民、特に「正しい者たち」のために、悪からの救出と救いを行なう神の働きが現われます。それは、何よりも先ず、裁きを行なう「神の王権」として描かれます。その裁きは、世界を再び天の王の意志に従わせ、地上に一致をもたらすためです。
 聖書的な契約思想によれば、神の裁きは人間の全行為に及び、正しい者には報酬をもたらし、邪悪な者には罰を執行しますが、しかし、『第一エノク書』の裁きの場合は、現在行なわれている不正と、将来において、正義と公正が回復されるという約束の形を採ります。このように、神が、苦しめられる義人たちを救い、彼らの正しさを立証することが、『第一エノク書』による聖書的な主題であると言えます。だから、このような神の計画は、全人類に裁きが臨み、選ばれた義人たちが祝される時を告げる大いなる審判を予告するという形を採ります。神の審判が降されるのは、義人たちを不正に虐げる罪人たちが罰せられ、義人たちの敵が断罪される時です。興味深いのは、神によって選ばれた義人の代表として、神に油注がれた者が、神の代理である「選ばれた方」として登場することです。
 復活もまた、『第一エノク書』の描く「大いなる裁き」の全体を流れる大事な主題です。義人と罪人とは、すでに死者の段階で分けられています。義人たちは、エルサレムにおける長寿という形で彼らの報いを期待できます。反対に、生前に正義と公正をうまく免れた罪人たちは、永遠の苦悶へとわたされることになります。また、黙示思想一般では、永遠の命の場として、天が予定されていますが、『第一エノク書』では、第三イザヤ(65〜66章)から霊感されて、新たにされた地と回復されたエルサレムが、裁きの後に義人たちに与えられる場所として設定されています。
 この際に、裁きを執行するのは、神でもあり(1〜5章)、「聖なる方」であり(10章)、罰を降す天使であり(53〜54章/62〜63章)、選ばれた方であり(37〜70章)、義人であり(91章/95章/98章)、「人の子」エノクです(71章)。また、宇宙的な働きもこれに加わります。これらの様々な裁きの執行者たちが、どのように関係し合うのか、またその裁きの執行の時期的な順序を識別するのは困難です。
 この裁きにおいて、契約思想は『第一エノク書』における要因ではありません。律法とこれの解釈は、「知恵」に体現されて啓示されるからです。知恵思想は、「見張りの天使たちの書」(特に5章と32章)を初め、『第一エノク書』全体を一貫しています。解釈学的に見ると、「知恵」は、これの受け手を見いだすことと、これの伝達とを使命としています。『第一エノク書』では、「正しい知識」を得るこが、救済と固く結びついているのです。このような知的座標に基づいて、「エノク書簡」は、邪悪な者には長い禍と呪いの言葉を浴びせますが、これは知恵文学の特長の一つです。裁きの基準としての律法は、「戒め」(ギリシア語の「エントレー」)として表わされます。しかも、『第一エノク書』においては、律法/戒めの根源には、宇宙の秩序に基づく英知の思想が、その背後にあるのです。
 だから、『第一エノク書』の作者たちにとって、啓示の過程とは、原初の先見者あるいは賢者であるエノクが、天へ昇って「知恵」を授かり、降下してこれを書き留め、その文書をメトセラ?とその子孫に伝えるという形を採ります(81〜82章/104章)。ここで言う「知恵」は、原初的であると同時に終末的です。「エノクの知恵」が、終末的な状況において伝えるように記されるのです(1章/5章/37章/90章/92章/100章/104章)。このような「知恵の降下」は、箴言8章、シラ書24章などにも見ることができます。
 「エノクの知恵」は、総合的な概念で、そこには、神からの啓示、律法や戒めに表われた神の意志、神の戒めを守る/破る者たちへの報酬と罰を与える裁き、裁きの場としての宇宙の構造などが含まれています。『第一エノク書』では「知恵」は、「たとえ」としても表わされます。「たとえの書」は、この意味で、「知恵のヴィジョン」の書です。特に48章では、「知恵」は、天の領域と「選ばれたお方」に属するものであり、この意味で、「天」と「選ばれた方」とは、これらを拒む地上の王や権力者たちと対照されています(45章/46章)。この対照/対立は、偽りの知恵と偽りの啓示、これと、真の知恵と啓示との対立、という形を採ります。
 「エノクの知恵」は、正しい者のアイデンティティを表わしますから、「正しい者」とは、「選ばれた者」「知恵を授かる者」と称されます。神の正義の永遠の計画においては、終末的な「残りの者たち」こそ、選ばれて知恵を授かる者たちなのです。聖書では、人間一般に適用される基準が、ここではエノクのヴィジョンと知恵に与る者だけに限定されています。ところがこれとは対照的に、エノクの知恵が、全人類に普遍性を持つこともまた、主張されています。この一見矛盾すると思われる対照は、創世記12章3節のアブラハム契約や第二イザヤの託宣などと関係してくるのでしょう。「罪の赦し」は、『第一エノク書』では5章に表われるだけですが、選ばれた者には知恵が授けられ、彼らには過去の罪が赦されるのです。
 黙示思想それ自体が、現代的な概念であるとすれば、この意味での「黙示思想」を『第一エノク書』の宗教思想にそのまま当てはめることはできません。この書の「黙示的な構成」は、「黙示的終末」と呼ぶことができる特徴を具えています。古いアイオーンの終わりに行なわれる最後の裁きと新しいアイオーンの始まりがそれです。『第一エノク書』の終末は、ノアの洪水のタイポロジーに基づくものです。神の裁きは新しいアイオーンを導き入れますが、裁きは同時に、神の創造の本質とその全体とを再構成する神の意図に貫かれています。そこには、死を超える復活の約束が存しています。
 第三イザヤの神話的な終末観は、『第一エノク書』やダニエル書の終末を予想させますが、第三イザヤは、『第一エノク書』やダニエル書の意味で、黙示的とは言えません。なぜなら『第一エノク書』では、黙示は、夢やヴィジョンを通じて、また天界と宇宙とを旅する過程として描かれるからです。そこには「啓示された知恵」があり、この知恵こそ救済の鍵となります。
 以上をまとめると、「終末」という用語は、それが現代的な起源を有することから、これを注意深く用いなければなりませんが、啓示概念を伴う『第一エノク書』の宗教思想には、終末の中心的な要素が含まれていると言えましょう。啓示された「知恵」と終わりの時の「命」という、黙示的な終末観と終末的な啓示は、選ばれた共同体の形成原理であり、『第一エノク書』の宗教思想の中核をなしているのです。
 
■『第四エズラ記』(ラテン語エズラ記)
 旧約続編のラテン語エズラ記(これの3〜14章は別名『第四エズラ』とも呼ばれます)では、エズラが、主から七つの幻と終末の幻を与えられます。ただしこの文書は、紀元1世紀末のものですから、ヨハネ福音書やルカ福音書とほぼ同時代です。
 終末とメシアに関する記事の中で、最初の記述は第三の幻を述べた箇所で、7章26〜36節にでてきます。メシア〔新共同訳では「イエス」とあるが、これはメシアのこと〕が顕われて、彼に従う人たちと「400年」(創世記15章13節と関係するか?)の間、この地上において喜びが与えられます。しかし、その後に、油注がれたメシア〔新共同訳では「キリスト」とある〕もその民も死んで、それから「七日間」太古の静寂に戻ります。その後で、「まだ目覚めていないアイオーン(世)が揺り起こされ」ます。これは、来るべき終末と新しい世が、すでに地上において始まることを意味しているのでしょう。その後、陰府から人類が復活して、最後の裁きが始まるのです。
 次に終末にかかわる記事が表われるのは第五の幻の箇所で、ライオンの表象で現わされるメシアが来臨します(12章31〜34節)。彼はユダヤの民のためのメシアであり(ヨハネ黙示録5章5節参照)、天の至高者が、終末まで「取って置かれた」メシアです。このライオンが、侮辱に満ちた王たちを現わす鷲(ローマ帝国の表象)を非難し、これを裁きによって滅ぼしてから、「残りの主の民」を解放します。しかし、このメシアも、終末の裁きの日が来るまで、しばらくの間、民を喜ばせることになります。
 「人の子」は第六の幻にでてきます(13章3〜13節)。彼は神と共に世界の創造に先立つ存在です(13章26節)。また、彼は天の雲に乗って来臨し(ダニエル7章13節)、シオンの山に降り立ち(13章2節/同25節/同32節)、唇から炎の息を出し、舌からは稲妻を吐き出して、敵対する群衆を滅ぼし、残りの民である「平和な群衆」を集めて導きます。このために彼は、主から「わたしの子」と呼ばれます。
 この幻の説明が、13章25〜50節にでています。これによれば、終末のイスラエルは、先の「世」(アイオーン)の継続ではなく、至高者が、「全被造物を贖う/解放するのですから(13章26節)、新しいアイオーンになります。人の子に降りかかる様々な出来事が、旧約聖書で預言されているとおり(福音書の終末とも共通します)、この人の子に起こります。この人の子は、先に出てきた「メシア」ではなく、また天使でもなく、エリヤ、エノク、モーセのような終末の預言者に近いと言えましょう〔TDNT(8)428〕。だから、ここに描かれているのは、後期の段階の「人の子」像です。ラテン語エズラ記は、時期的にヨハネ福音書と同時代ですから、参考になりますが、共観福音書やヨハネ福音書に比較すると、人格的な存在というよりは、超越的なメシアの表象として描かれています。ダニエル書の人の子も「雲に包まれた」存在ですから、キリスト教以前のユダヤ教では、「人の子」は、まだ具体的な人間の姿をしたメシア像ではなかったと思われます。
■ヘレニズムと「人の子」
 おそらく最初期のキリスト教徒は、「キリスト」のことを「バル(子)・ナシャー(人)」(どちらの語も後期ヘブライ語=アラム語)と呼んでいたと思われます。これのギリシア語訳は、字義どおりには「人の子」ですが、これではギリシア語として意味が通じません。したがって、ほんらいのギリシア語では、「人の子」は、内容的に「人」"the man"と同じ意味で用いていたと考えられます。パウロも第一コリント15章21節では、キリストを「人」と呼んでいます。C・H・ドッドによれば〔ドッド『第四福音書の解釈』〕、ヨハネ福音書の「人の子」には、フィロンやヘレニズムの影響下にあるユダヤ人キリスト教徒のイエス・メシア信仰の影響があり、プラトニズムから来る「原人」としての「人間」の意味をも幾分反映されているのかもしれません。プラトニズム的な意味では、原型的な「真の人」とは、至高者の種を宿している「人間」のことで、彼は、至高者と再び合体する運命にあります。ヘレニズムの人間観はヨハネ福音書にも影響を与えていて、ここでは「人の子」は「神の子」と等しい存在であり、少なくとも、「父」と一つの存在です。人の子は、父のもとから降り、再び父へのもとへ昇るという過程をたどりますから、その行き着く先は、現象世界を超えた「真の人間」に近いと言えるかもしれません(特にヨハネ3章13節/6章62節)。だたし、この点は、後に考察したいと思います。
 ヘレニズム的な意味での「キリスト」は、誰にでも宿るものではなく、彼は、「贖われた人」全体を代表する存在であり、その総称となるものです。パウロの言う「キリストのからだ」もこのような概念を背景にしているのでしょう。ただし、このような思想は、キリスト教以前のユダヤ教の伝統に沿うものです。ダニエル書13章7節の「クバル・アナーシュ」(人の子のような者)も、至高者に選ばれた理想のイスラエルの民を代表する者のことです。ただしここでは、神の民全体が、擬人化(personify)されているのに注意しなければなりません。ヨハネ福音書1章51節の「人の子」は、創世記28章12節のヤコブの夢のユダヤ教の解釈に従って、神のみ使いが、ヤコブ=イスラエルの上を登り降りしていたという解釈に基づいています。ここでは、「イスラエル=人の子」であろうと思われます。だから、ヨハネ福音書の「人の子」は、ダニエル書よりもむしろ詩編80篇18節の「人の子」により近いと言えましょう。言うまでもなく、ヨハネにとって、「人の子」は、ユダヤの民のことではなく、キリストの真理に従う人たち全体の代表ですが。
 ただし、ドッドのこのようにヘレニズム化した「人の子」思想を2世紀以後のグノーシス思想に基づく「真人」と同一視することはできません。四福音書のヘレニズムに影響された「人の子」をキリスト教以前のヘレニズム化したユダヤ教と関連づけるのは正しいと思いますが、これを紀元2世紀以降の後期グノーシスと関連づけることはできないからです。なぜなら、福音書は、まさにこのグノーシス思想とは異なることを証ししようとしているからです。キリスト教以前と以後とのユダヤ思想のヘレニズム化は、その意味が全く異なることに注意しなければなりません。
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