38章 パウロと人の子
■アダム=キリストのタイポロジー
 パウロは、フィリピ2章6〜11節において、「キリストは僕の身分になり、人間と同じ者/姿になられました。人間の姿/有様で現われ、へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」と述べています。ここは、最初期のキリスト教会から伝承された「キリスト賛歌」として知られている箇所です。「僕の身分/様/姿」とあるのは、イザヤ書53章11節の主の僕のことで、民の罪を自ら負う受難の僕のことだと考えられます。「人間と同じ者/似姿」とあり「人の姿/形姿」と2度「人間/人」が繰り返されているのは、神と共に永遠に存在していた「先在のキリスト」が、わたしたちと全く同じレベルで「人」になったことを指します。この点が「十字架の死」とあることで、いっそう明確にされます。したがって、この賛歌は、先在のキリストが地上に生存したナザレのイエスと同一であることを確認させるものです。しかし、この賛歌で繰り返されている「人/人間」に、終末的な「人の子」イエスの姿を読み取ることは難しいようです〔Gerald F. Hawthorne, Philippians.WBC (1983). 2:7〕〔TDNT(8)470. n472〕。
 第一テモテ2章5節の場合は少し様子が違います。これも「キリスト賛歌」の伝承からきていますが、「賛歌」というよりもエフェソの教会に伝承された「教義」に近いものです。この書簡はパウロによる真正のものではないという見方もありますが、ここ2章5〜6節は、パウロ以前からの伝承に基づくか、少なくともパウロ自身を通じていると考えることができます。ここに「神と人との間の仲介者もただひとり、すなわち<人であるキリスト・イエス>で、この方はすべての人の贖いとしてご自身を捧げられました」とあります。ここにでてくる「人であるキリスト・イエス」は、フィリピ人へ2章と同様に、「人間となったキリスト」を指すのでしょうが、それだけではなく、ここには、マルコ10章15節にある「多くの人の身代金/贖いとして自分の命を捧げるために来た人の子」が反映していて、「人であるキリスト・イエス」と「人の子イエス・キリスト」との並行関係をここに読み取ることができましょう〔ヨアキム・エレミアス/ヘルマン・シュトラートマン著『テモテへの手紙/テトスへの手紙/ヘブライ人への手紙』泉治典他訳。NTD(1975年)39頁〕〔Walter Lock, The Pastoral Epistles. ICC (1924).28〕〔TDNT(8)470〕。
 パウロ系書簡では、「人であるイエス・キリスト」とは「第二のアダム(人)」のことであり、これは「第一のアダム(人)」と対照されています。だとすれば、「人の子」と「第二のアダム」とは、相互に関係していることが洞察できましょう。この「第二のアダム」は、ローマ5章12〜21節において扱われていますが、これに劣らず重要なのは、ローマ人への手紙に先立つ第一コリント15章21〜22節です。
 
 そうであれば、死が人によって来たのだから、
 死者の復活もまた人によって来るのです。
 アダムにあってすべてが死んだそのように、
 キリストにあってすべてが活かされるのです。〔私訳〕
 
 For since death came through a human being,
 the resurrection of the dead has also come through a human being;
 for as all die in Adam,
 so all will be made alive in Christ. [NRSV]
 
   この節は未だに多くの謎を含んでいます。ここであげられている「死が人によってきたのだから、死者の復活もまた人によって来る」という図式は、これ以前に例を見ないことから、これはパウロによって<初めて>ここに導入されたと見ることができましょう〔TDNT(8)471〕。ここにわたしたちは、パウロによる「アダム=キリスト」タイポロジー(予型論)の起源を見ることができます〔Anthony C. Thiselton, The First Epistle to the Corinthians. NIGTC. Paternoster Press (2000)1227.〕。それだけでなく、この部分は、諸家によって「この書簡全体の目玉」であり、「パウロの立論の中核」と見なされています〔Thiselton 前掲書 1226〕。ここのタイポロジーは、第一コリント15章45〜47節へと続き、さらにローマ5章12〜21節へとつながり、パウロ的なこのタイポロジーは、その後、第一テモテ2章5節と同3章16節へと発展します。
 ここには、本質的に異なる二人のアダム(人)、天の霊的なアダムと地上の身体的なアダムとが対照されています。「人/人体」の隠喩で宇宙をとらえるとすれば、天的なアダム」は大宇宙"macrocosm" に対応し、地上のアダムは小宇宙"microcosm" に対応していると、ひとまずこのように見ることができましょう。上下関係で言えば、天のアダムは上にあり、地上のアダムは下にあります。もしもこの上下関係を「存在論的に」見るならば、天のアダムが第一であり、地上のアダムが第二になります。この場合のタイポロジーでは、「本体」(ギリシア語の「テュポス」。英語の"type")とこれの「写し」(antitype)の関係においては、天のアダムが「本体」であり、地上のアダムはこの本体の「写し」にあたることになります(天/本体と地上/写しの関係についてはヘブライ8章5節/同9章23〜24節を参照)。「この場合」に、タイポロジーは、本体と写しとが、活字の本体(タイプ)と印字された写し(アンティタイプ)の関係にたとえることができます。日本流に言えば、印鑑と押された印との関係です。本体が「第一」で、印字のほうが「第二」になります。
 ところが、「天のアダム」と「地上のアダム」のタイポロジー関係は、ここでは単に「天」と「地」という上下の領域関係でとらえられているのではありません。パウロは、「天」と「地」のふたりの「アダム」のタイポロジーに、「時間的な」前後関係を導入しているからです。時間的に見るならば、先ず始めに地上の「アダム」の創造があります。パウロが受け継いだユダヤ教においては、このアダムが「原初のアダム(人)」であり、彼には「事実上、人類全体が含まれています」〔Conzelmann, 1Corinthians. Hermeneia, Fortress (1975) 268.〕。したがって、「このアダムの堕罪によって、全人類の死が受け継がれていくことになります」〔Conzelmann, 268〜269〕。しかもそこには、創世記3章の堕罪だけでなく、創世記6章の天使たちの堕罪も重ねられてくるのです〔Conzelmann, 268. n.47〕。
 この地上のアダムは、やがて来たるべき「新しいアダム」である「キリスト」の原型(antitype)になります〔TDNT(1)141〕。この原型に対応して、これを「成就」するのが「新しいアダム」であり、地上のアダムの後から啓示される「アダム=キリスト」です。この場合、後の「新しいアダム」のほうが、原型となった身体的なアダムを最終的に「完成/成就」させたことになりますから、「本体」になります。このように空間的な上下関係で見れば、「地上のアダム」(写し)と「天のアダム」(本体)というタイポロジー関係は、天のほうが第一で「本体」となり、「地上」のほうが、これの「写し」として第二になります。しかもこの場合は、先の活字のたとえで見たように、「地上のアダム」が「写し」であって「アンティタイプ」になり、「天上のアダム」が、「本体」であって、「タイプ」になります。
 ところが、時間的なタイポロジー関係においては、地上のアダムのほうが、先に来る第一のアダムであり、キリストのほうは、後から啓示される第二のアダムになります。この両者を時間的なタイポロジー関係で観ると、先に来るのが「予型」(タイプ)であり、後から啓示されるのが、予型の成就としての「本体」なので、これが「対型」(アンティタイプ)と呼ばれることが多いのです。しかも、時間的なタイポロジーでは、時間的に先のほうが「第一」となり、後のほうが「第二」になりますから、ややこしいです。空間領域的な観点と時間的な前後関係とでは、このように「第一」と「第二」の関係が、一見すると逆になるからです。しかも、上下関係で観る本体(タイプ)と写し(アンティタイプ)は、時間的に観ると第一の原型(タイプ)とこれが成就した第二の本体(アンティタイプ)ということになりますから、「アンティタイプ」の表わす意味もまた逆になります。空間領域的な対応関係と比べると、時間的な関係との対応関係は次のようになりましょう。
「第一のアダム=天的=本体(タイプ)」と「第二のアダム=地上的=写し(アンティタイプ)」。
「第一のアダム=身体的=予型(タイプ)」と「第二のアダム=霊的=本体(アンティタイプ)」
 したがって、宇宙的な「本体」(タイプ)から「写し」(アンティタイプ)へと、歴史的な「予型」(タイプ)から「本体」(アンティタイプ)へというように、ここでは、「本体」との関係で見る限り、「タイプ」と「アンティタイプ」が、ねじれた用語の使い方になってくるのです。このように、予型論では、天上と地上のような宇宙的な対応関係(本体は天上のほう)と、旧約と新約のような歴史的な対応関係(本体は新約のほう)とがあって、これによって「(予)型」と「対型」の対応の意味そのものだけでなく、呼び方もまた変わるのでとても紛らわしいです。これから判断すると、「型」(タイプ)と「対型」(アンティタイプ)の関係は、必ずしも「本体」(タイプ)と「写し」(アンティタイプ)との関係に対応するとは限らないようです(TDNT(1)141で、エレミアスは、新たなアダムのほうを「本体」〔タイプ〕とし、地上の第一のアダムのほうをこれの原型として「アンティタイプ」と呼んでいます)。これらふたつは「対」(つい)をなしていますから、一方が「型/タイプ」であれば、対応するもう一方は「対型/アンティタイプ」になるのでしょう。だから「アンティタイプ」は、対型(たいけい)と呼ぶよりも対型(ついけい)と呼ぶほうが適切ではないでしょうか(ヘブライ9章1〜8節の「幕屋」は、第一の「写し」と第二の「本体/原型」という<時間的な>前後関係を幕屋の構造によって<空間的に>現わしています)。〔なお、タイポロジーにおける「予型」と「原型/対型」との間の時間的関係と空間的関係との「ねじれ」については、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書への補遺→「予型と対型について」を参照してください〕。
 したがって、時間的に、すなわち歴史的に見れば、イエス・キリストは、第一の「地上のアダム」である予型(タイプ)に対応する第二のアダムであり、第一を成就した対型(アンティタイプ)になります。この「アダム=キリスト」のタイポロジー(予型論)は、四福音書を含む新約聖書全体を貫いています。地上のナザレのイエスは、新しい「人の子」として、かつてサタンに誘惑された最初の「人」アダムを克服して、サタンの誘惑に打ち勝ちます〔TDNT(1)141〕。ユダヤ教のミドラシュによれば、楽園のアダムは獣たちを支配していました。そのようにキリストもまた、誘惑に打ち勝つことで、獣たちを従えるのです(マルコ1章13節)。ミドラシュによれば、楽園のアダムは天使から食べ物を与えられていました。そのように、新しい「人」イエスも天使によって食べ物が与えられるのです。だから、ルカ4章1節以下の誘惑の描写には、パウロのアダム=キリストのタイポロジーが受け継がれていると見ることができましょう〔TDNT(1)141〕。
 詩編110篇の王の詩や同8篇5節「あなたが御心に留めてくださるとは人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょうあなたが顧みてくださるとは」とあり、これがダニエル7章の人の子像と結びついて、栄光を受けたイエスの人の子像に適用されていると考えられています。またダニエル7章13〜14節には、「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、権威、威光、王権を受けた」とありますが、パウロ書簡の言語は、これらの黙示的な言語を受け継いでいると言えます〔Nichelsburg(4)85〕。
 パウロは、イエスを「人の子」とか「選ばれた者」と呼んではいませんが、彼もまたイエス・キリストが終末において顕現する「裁く者」であると観ています。この意味で、共観福音書の人の子伝承を通じて、パウロもエノク伝承を受け継いでいると言えましょう。第一テサロニケ4章13〜18節には、「イエスが死んで復活したと同じように、神は、イエスを信じて眠りについた人たちをイエスと共に導き出す」とあり、「大天使の声と神のラッパと共に、キリストに結ばれて死んだ人たちがまず最初に復活する」とあります。この伝承は、マルコ13章26〜27節の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる時に、彼は天使たちを遣わして、地の果てから天の果てまで、人の子によって選ばれた人たちを呼び集める」とあるのと対応するものです〔Nichelsburg(4)85〕。同様に、第一テサロニケ5章1〜11節も、イエスの語録集(Q)からマタイ24章43〜44節(=ルカ12章39〜40節)へとつながる伝承と関連します。また、第一テサロニケ人への手紙で語られるイエス・キリストの再臨は、第一コリント15章23〜28節では、「最初にキリストの復活、次にキリストの再臨に際してキリストに属する人たちの復活、次いで終末の到来」とあって、ここには黙示思想が継承されているのを読み取ることができます〔Nichelsburg(4)85〕。
 さらにもうひとつ、パウロとエノク伝承との関連で注目したいのは、『第一エノク書』の動物の比喩です。そこでは、終末に「白い雄牛」が現われます(『第一エノク書』90章37節)。これはエノクが、人類の歴史を見通すヴィジョンの中で、第二番目にでてくるヴィジョン(『第一エノク書』85〜90章)に登場する「アダム」の寓意です。そこでは、その白い雄牛を指導者として、全人類が、「白い家畜」に変容する場面がでてきます(同90章38節)。エノクのこのヴィジョンは、イエスが第二のアダムとして、異邦人をも含む彼に属するすべての者が、変容することと対応すると言えましょう〔Nichelsburg(4)85〕。
 パウロ系書簡が「人の子」用語を避けたのは、異邦人キリスト教徒たちにはこの用語が理解しがたいと考えられたからでしょう。栄光化されたイエスを言い表わす用語として「主」が用いられたのはこのためです。この点で、アラム語の「マーレー」(主)〔単数独立形〕が、ギリシア語読みで「マラナ・タ/マラン・アタ」(主よ、来たりませ)(第一コリント16章22節)としてでてくることに注目すべきです。これも人の子伝承からでしょうか?
■二人のアダム
 パウロはアダム=キリストのタイポロジーを次の二つの観点においています。
(1)復活の確かさを確認すること(第一コリント15章22節)。「アダムにあって」は「キリストにあって」から導き出されたパウロの造語でしょう。
(2)復活の霊の体を確認すること(第一コリント15章44〜49節)。「土の姿をまとった/呈したのと同じように、天上の姿をまとう/呈することになるでしょう。」
 これら二つの点、自然の体をまとうキリスト者が、復活に際して霊の体へと変貌するのは、パウロ自身が聖書から導き出した結論です。彼は、創世記2章7節(七十人訳)の「人は生きたプシューケーになった」〔ヘブライ語「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に息(プシューケー)を吹き込まれた。人はこうして、生きる者となった」〕をその根拠としています。タルグムの様式に従って、パウロは、これに二つの言葉「最初に」と「アダム」とを加えて、「<最初の人アダムは>生きたプシューケーになった」としたのです。このようにテキストの解釈を拡大することによって、パウロは、七十人訳の創造物語にメシア的な解釈を組み込んだことになります。これが、後のパウロ系書簡でのキリスト論へと発展することになります(コロサイ1章15節=創世記1章26節/第一コリント6章17節とエフェソ5章13節=創世記2章24節)。パウロはこのようにして、「最後のアダムは命の霊となった」を導き出したのです〔TDNT(1)141〜43〕
 このようにして形成されたパウロの「二人のアダム」は、第一コリント15章45〜47節において、次のように対照されています。
45節:「最初のアダム」→「最後のアダム」/「生きたプシューケー」→「生きた霊」
47節:「最初の人」→「第二の人」/「土(地)から」→「天(天上)から」。
 この二人の「アダム」は、神による「創造の歴史」の中で、タイポロジーによって結ばれています。そして、このタイポロジー関係こそ、キリストを信じる者たちが、先ず地上の命で生まれ、それから、天の霊体へと変貌するための「予型」(タイプ)となったのです。
 パウロは、先にあげた肉体のアダムと「復活の霊の体」のキリストとのタイポロジー関係をさらに敷衍させて、ローマ5章12〜21節において、罪と死の中にあるアダムが、「来るべき方」キリストを表わす「予型」(タイプ)であることを全人類に示したのです。彼は、キリストを信じるすべての人が、神の恵みによって、「一人の人イエス・キリストにおいて」新しい命に歩む「人」へと変貌することを伝えたのです。
■最後のアダム
 ここで改めてパウロの「アダム・タイポロジー」を見直してみると、「最初のアダム」という見方は、初期ユダヤ教にすでに存在していたけれども、「最後のアダム」が贖い主であるという考え方は、ユダヤ教には存在しませんでした。しかしながら、この「最後のアダム」という考え方により近い概念は、パレスチナにもヘレニズム・ユダヤ教にもすでに存在していたのです。それは「原初/最初の人」を贖い主/救い主と見なして、これが「最後の贖い主/救い主」への予型(タイプ)となるという考え方です。このような見方は、東方の救済神話にすでに見出されるものです。この「最後の贖い主」への予型(タイプ)と見なされたのが、ユダヤ教の「人の子」です〔TDNT(1)142〕。特に、新約聖書の時期と並行するユダヤ教の時代では、「最初の人」こそ理想の「真の人」であり、彼の堕罪によって失われた栄光を復元/復活/更新させる者こそが「メシア」であると考えられました。ここに見られるのが「先在のメシア」であり、これがアラム語「バル・ナーシャ」(人の子)なのです〔TDNT(1)142〜43〕。このような「理想の真人」思想は、フィロンが、創世記の二つの創造物語(1章27節/2章7節)の解釈に採り入れているものです〔TDNT(1)143〕。
 パウロはおそらく、ユダヤ教のこの神学を採り入れて、これを「キリスト」へと連結させたと考えられます。パウロもまたキリストに「神の像」を見出しているからです(コロサイ1章15節=創世記1章27節)。パウロもフィロンと同様に、「天の人」の優先性を強調しています。ただしこのことは、「アダム」が「キリスト」に先だって創造されたという意味ではありませんから注意してください。そうではなく、キリスト者の「肉の体」が先行していて、これが再臨/来臨に際して霊体へと変貌するという意味なのです。パウロが言う「最後のアダム(人)」にも、「天の真人」という見方がその背後にあります。しかし、これの終末的な役割においては、パウロはフィロンと異なっています。「パウロの場合には、終末に訪れる天の人は、人の子としてのイエスの自己表明に照らされて解釈されていて、パウロは、イエスに先在のメシア(バル・ナーシャー/人の子)を見出しているのである」〔TDNT(1)143〕。ただしパウロは、この「人の子」という称号が誤解を招くと考えて、これを避けて、「バル・ナーシャー」を「人」と訳したのです(第一コリント12章21節/ローマ5章15節/エフェソ5章31節)。「しかしながらパウロは、彼の詩編8編の解釈や第一コリント15章27節に明らかに示されているとおり、イエスが、自分は人の子であると語ったことを知っていたのは疑いない」〔TDNT(1)143〕。
 
  パウロにとって、「アダム」は、個人であり、同時に集合体です。ヘブライ語で言う全人類がそこに含まれている「人」です。この人間性は、創造された被造物全体と共に「束ねられて」いて〔Thiselton, NIGTC.1225.〕、構造的に「罪と堕罪」の集合体の中にいます。パウロにとって「アダム」とは、個人であると同時に全集合体です。しかも、個人=人類の「アダム」は、これも同じ個人=人類の「受難の主の僕」(イザヤ40〜55章)として預言されていた「人の子」イエスによって、贖いと復活の救いが授与され、終末に来臨する「最後のアダム」(キリスト)によって救いの成就が約束されるのです。しかし、ユダヤ教においては、第一コリント15章22節に見られるような「アダムの体」に全人類が包含されるという思想は見あたらないのです〔Thiselton, NIGTC.1225.〕。
 パウロのアブラハム・タイポロジーでは(ローマ4章)、神の恵みと誠実によって、旧約から新約への継承が、キリストにあって保証されています。ところが、アダム・タイポロジーにおいては、継承ではなく断絶が働くのです。終末のアダムは、自然体のアダムを根源的に転倒させるからです(第一コリント15章20〜22節/ローマ5章12〜17節)。ここに表われる神の行為は、黙示的なアダム・タイポロジーです。これの背景には、死と生の二つのアイオーンに基づく黙示思想があります。最初の復活と全人類の復活は、黙示的な意味での復活観に基づいているのです。この黙示性は、キリストの天上での即位に置いても同様です。黙示的な世界では、一つの世界の死が、別の世界の到来を告げるのです〔Thiselton, NIGTC.1226.〕。  
 最初のアダムと第二アダムという図式が前例を見ないことから、第一コリント15章21節の「人による死」と「人による死からの復活」というタイポロジーは、ここが初めてでしょう。ところがこのタイポロジーは、同15章45〜49節では次のようになります。
 
こう書いてある
「最初の人アダムは命のある自然の体になった」。
 最後のアダムは命を与える霊となった。
だが最初に霊の体があったのではなく、
  自然の体があり、
  次いで霊の体がある。
最初の人は土からで、地のもの、
第二の人は天からのもの。
土からのもののように、
  土からのものたちもなり、
天上からのもののように、
  天上からのものたちもなる。
わたしたちは、土からのものの姿をまとったそのように、
  天上からの姿をもまとうようになる。
         (第一コリント15章45〜49節)
Thus it is written,
"The first man, Adam, became a living being";
the last man Adam became a life-giving spirit.
But it is not the spiritual that is first,
but the physical, and then the spiritual.
The first man was from the earth, a man of dust.
the second man is the man of heaven,
As was the man of dust,
 so are those who are of the dust;
and is the man of heaven,
 so are those who are of heaven.
Just as we have borne the image of the man of dust,
we will also bear the image of the man of heaven.
 
 ここには、「霊的な天のアダム」と「自然の地のアダム」とがありますが、これについてのシセルトンの解釈には、グノーシス敵とも思われる図式が入り込んでいて、筆者(私市)はこの解釈に疑問を覚えます。
「キリストは「霊的な天のアダム」のほうになります。第一コリント15章21節では、キリストは「活かす霊」ですが、この「活かす霊」とは、キリスト到来以前から伝承されてきたものです(??)。高挙のキリストは、天のアダムがすでに占めているのと同じ質の存在です。キリストは、未来に来臨すると言われている黙示的な人の子であって、これも天的な姿です。 天のアダムである高挙のキリストは、「主」であるから、現在すでに支配者です。だとすれば、天から来臨すると言われる「人の子」は、形而上的な宇宙の存在者になります(?)。しかも、これらのことが、人の子キリスト論が、アダム(人)救済論へと変容する中で生じるのです(?)。」〔TDNT(8)471〕
 15章45節の前半は、創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた」とあるのを踏まえていますが、後半は、パウロ自身による拡大です。パウロはここで、フィロンの言う「天的な原人/真人」に対して戦おうとしているようにも見えます〔ヴェントラントNTD315頁〕。フィロンは、人間の創造に関する創世記の二つの記事(1章26〜27節/2章7節)を結ぶと同時に区別して、前者はイディア的な人間の創造であり、後者は地上的な人間の創造であると観ていました。この見方は、パウロの当時のユダヤ教においても行なわれていたようです。したがって、コリントの(グノーシス的な?)人たちもこのフィロンの考え方に基づいていたと考えられます〔ヴェントラントNTD315頁〕。ところがパウロはこの両者の関係を時間的に置き換えることで逆転させるのです。このやり方は、ガラテヤ人への手紙で律法についてパウロがとった方法に通じています。イエスこそが真の霊の人であり、最初のアダムは、そうではないのです(ヴェントラントはここで、創世記1章のアダムと2章のアダムとのフィロンの区別を混同しています)。パウロにとって重要なのは、原初の超越的な人(アダム)ではなく、歴史的なイエスこそが「新しい人」であることです。パウロは、彼独自の「最後のアダム」をダニエル書以来のユダヤ教的黙示思想による「天的な人の子」から導き出したと考えられます〔ヴェントラントNTD315〜16頁〕。したがって、「第二の人」あるいは「天からの人」というのは、終末に再臨するイエスのことを指しているのではありません。そうではなく、イエスがこの地上に使わされたその出来事を指しているのであり、イエスこそ、神から出て、神の命を創造する聖霊の人であることを言おうとしているのです〔ヴェントラントNTD316頁〕。キリストは霊であり、霊とは復活の命そのものを言い表わしています。それは、人類の終末における出来事です。「だがそれにもかかわらず、キリスト者は今すでに<天の人>と呼ばれています。なぜなら、彼らはキリストに結ばれ、キリストの新しい存在にあずかっているからである」〔ヴェントラントNTD317頁〕。ここにも、パウロの「人の子」思想が、「すでに」と「いまだ」の間にある「今」において現実しているのを見出すのです。
 「自然の体」(ソーマ・プシュキコン)で蒔かれて、「霊の体」(ソーマ・プネウマティコン)としてよみがえるとは、どういう意味でしょうか? ここでは「自然の体」と「霊の体」を形成する「内実」のことを指しているのではありません。ヘレニズム的な考え方からすれば、「霊」もまた、超自然的ではあっても、なんらかの「実質」(例えば「エーテル」)を有するものであることを意味しました。ところが、パウロは、ヘレニズム的な用語で、ユダヤ教的な概念、と言うよりも、ユダヤ教の概念それ自体をも乗り越える新しい「霊」の在り方を含ませたのです〔Conzelmann283〕。しかしながら、「新しい」のは、パウロのほうではなく、人の子としてのイエスこそが、「このような」霊の人それ自体を現実において体現していたこと、そのことが、パウロに啓示されたこと、これがパウロがここで言おうとしていることなのです。この場合「最初の人」は、タイポロジーに解釈されていて、「自然」と「霊」との対応関係において、「本体」の「霊のキリスト」に対応するアダムはアンティタイプとなります〔Conzelmann284〕。
 第一コリント2章14〜15節の「自然の人」と「霊の人」との対比が、この15章44節の基になっています。「霊の人」の「霊の体」とは、神の聖霊によって授与される「からだ」のことです〔Thiselton, NIGTC.1275〜76.〕。ここでいう「「肉と血」とは、朽ち果てる肉体のことを指しているのではなく、弱い罪性を有する「人間性」そのものを指しているのです。この人間性は、イエス・キリストにある「救済的変容」を経なければならないのです。したがって、「身体的な体」"a physical body"ではなく「自然の体」""natural bodyと訳すべきです〔Thiselton, NIGTC.1275.〕「自然の体」とは、創造者によって創造されたがゆえに、永遠の命を受け継ぐ「可能性」を秘めている人間の全体像を表わし、「霊の体」とは、聖霊による新しい摂理のもとにあって、永遠の命を現実に授与されている人間の全体像のことであって、これは、パウロが旧約聖書と共有できる内容です〔Thiselton, NIGTC.1277.〕。
■ローマ5章から
[12]このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
   罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。
これによって、すべての人が罪を犯したからです。
[13]律法の前にも罪は世にあったが、
律法なしに、罪は罪と認められないのです。
[14]それでも死は支配したのです
    アダムからモーセまでも、
    罪のなかった人の上にも、
    アダムの罪過と同じように。
    このアダムは、来るべき方のタイプです。
[15]しかし、罪過と同じことが
    恵みの賜物にはあてはまりません。
一人の罪過によって多くの人が死んだのなら、
なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、
    多くの人に豊かに注がれたからです。
[16]この賜物は、罪を犯した一人によるものと同じではありません。
  裁きは、一人の罪から断罪にいたったけれども、
  恵みの賜は、多くの罪過から義認へいたるからです。
[17]一人の罪過によって、死がその一人を通して支配したのであれば、
  なおいっそう、恵みと義認の賜を豊に受けている人たちが、
    命にあって支配するにいたるのは
    一人のイエス・キリストによるのです。
 
Therefore just as sin came into the world through one man,
  and death came through sin,
and so death spread to all because all have sinned----
sin was indeed in the world before the law,
  but sin is not reckoned when there is no law.
Yet death exercised dominion from Adam to Moses,
  even over those whose sins were not like the transgression of Adam,
  who is a type of the one who was to come.
But the free gift is not like the trespass.
For if the many died through the one man's trespass,
  much more surely have the grace of God
  and the free gift in the grace of the one man, Jesus Christ,
  abounded for the many.
And the free gift is not like the effect of the one man's sin.
For the judgment following one trespass brought condemnation,
but the free gift following many trespasses brings justification.
If, because of the one man's trespass, death exercised dominion through that one,
  much more surely will those who receive the abundance of grace
    and the free gift of righteousness exercise dominion in life
    through the one man, Jesus Christ.
     [NRSV]
 この5章12〜15節は、ローマ5章に挿入されたパウロのタイポロジー的な思想です。ローマ5章12節〜21節では、アダムとキリストとが「ひとりの人」として対照されています。パウロはこの5章12〜15節において、すでに第一コリント15章21節や45〜49節で採りあげられたタイポロジーを改めて徹底させています。すでに見たように、フィロンに代表されるヘレニズム・ユダヤ教においては、創世記1章26節の「天のアダム」と創世記2章7節の「地上のアダム」とが対比され、創造の秩序に従って、「天のアダム」が第一の人であり、「地上のアダム」が第二の人という序列になります。この序列に準じて、すべての人間は、その理性において「天のアダム」と等しくなり、同時に、その身体において、「地上のアダム」と等しくなるのです。
 ところがパウロは、ローマ人への手紙のこの箇所で、ほんらい「天」に属するはずの一人の人キリストを終末論的に「最後の人」として位置づけているのです。このようなパウロの位置づけは、彼の視野にあるのが「人間の死からの復活」だからです。すなわち彼の視野には、創世記1章と同2章のアダムだけでなく、それ以上に、「罪を犯した」創世記3章のアダムもまたそのタイポロジーに導入されるのです。パウロのこのようなアダム観には、おそらくシラ書25章24節の「女から罪が始まり、女のせいで我々は皆死ぬことになった」とあることや、知恵の書2章24節の「悪魔のねたみによって死がこの世に入り込んだ」とある知恵思想がその背後にあります〔ヴィルケンス417〕。ただし、知恵思想だけでなく、ここでパウロが、終末論的なタイポロジーとして「アダム」を採りあげている背景には、黙示思想の影響もあると考えられます〔ヴィルケンス418〕。パウロは、ユダヤ教以来のこのような思想的伝承を踏まえた上で、それまでのタイポロジーを変容させて、これを「アダムの罪過」と「アダム・キリストの恵み」との対比関係においてとらえ直し、そうすることで彼のタイポロジーを「全人類に」徹底させるのです。この目的のために、パウロは、ここで独自のタイポロジーを挿入していると見ることができます。
 パウロはこのような「罪と死」のタイポロジーをより明らかにするために、ここで「律法」を導入しています。パウロは、律法を罪/罪過と関連させる点において、『第四エズラ記』(ラテン語エズラ記)の作者と同様に、黙示的だと言えましょう(四エズラ3章25〜26節)。ところがパウロは、人間の「救い」に関しては、律法ではなく、キリストの恵みを律法に対置させています。すでに第一コリント人への手紙で見てきたように、パウロはこのローマ人への手紙においても、人間の救済を考える上で、グノーシス的な「天」と「地」の対立関係から脱却しているからです。その代わりにパウロが救いの根拠としているのは、マルコ福音書10章45節の「人の子」です〔ヴィルケンス421〕。
 12節冒頭の「このようなわけで」は、18節で繰り返される結論を導き出すためのものです。12節の「一人の人」は、彼を通して「罪が入り込んできた」とあることから、創世記1章の「真人/原人」のことではありません。ここで「罪が入り込んできた」とあるのは、「罪」それ自体が、あたかも人間から独立した存在であるかのように見られていて、それが、アダムを「通じて」この世全体に侵入し、かつこの世を支配したという印象を与えます。この罪が「死を伴って」来たのです。
 その上で、12節では、「一人の人によって」と「罪によって」とが並行しており、「世に入り」が「すべての人に及んだ」と並行していて、罪がこの世に入り込んだ結果、すべての人が罪を犯したことが強調されます。だから、続く「これによって」とあるのは、多くの議論を呼んできました。「一人の人」と「すべての人」とを並行関係において重ね合わせることで、「一人」の罪が「すべて」に波及するという原罪論(特にアウグスティヌスの解釈)を導き出す根拠とされてきたからです。「これによって」とは、「理由」をあらわすと同時に、一人の罪に全人類が「参与させられる」ことをも含むのでしょう〔Cranfield(1)274〜79 〕。
 しかし、人とは独立した「罪」が、すべての人に「死」をもたらしたことが、どうして、「すべての人が罪を犯した」ことへとつながるのでしょうか? しかも、この「すべての人」とは、全体的な意味だけではなく、「一人一人の」人間をも指していて、それぞれの「個人的な」罪が指摘されているのであれば、「一人の罪」から「それぞれの個人の罪」へという拡大関係が、どこから生じるのかが問題になります。現代のわたしたちには理解しがたいパウロのこの「拡大解釈」は、イエス以来伝承されてきた「人の子」が、個人であると同時に共同体をも意味するという「人の子」に潜む二重性からしか説明でません。
 ただし、このような「人の子」観は、イエス以前のユダヤ教から伝承されているものですから、ここでのパウロの「拡大解釈」それ自体を「パウロの独自性」に帰することはできません。ここでは、単数の「罪」が、超個人的な普遍性を帯びて、一人一人の「罪」へと拡大し、それぞれの「罪過」という形をとることで具体性を帯びるのです。このことが、「アダムの罪過と同じように」へとつながり、アダムが、人類の「個人的な罪過」の「タイプ」であることが確認されるのです。
 13節で、「罪」と「罪過」と「死」の関係の中へ「律法」が入り込んできます。なぜなら、「罪」も「罪過」も、特に後者は、「律法違反」なしには生じえないからです。唯一の例外が原初のアダムですが、しかし、アダムにも「楽園の戒め」が与えられていましたから、この「戒め」が「モーセ律法」のタイプとして機能したのです。このことは、楽園においては「戒め」によって、モーセ以後においては「律法」によって、「罪を知らなかったアダム」にも、律法の下のすべての人にも、罪が「呼び覚まされた」ことを意味しています。13節の「律法がなければ罪は罪と認められない」とあるのは、まさにこのことを指し示すものです。「律法」は、罪を罪として「認める」根拠であり、これこそが「律法」の働きそのものだからです。まさにそれゆえにこそ、「罪の結果」である「死」もまた、律法なしには「支配する」ことができないのです。
 このように「律法が入り込む」という時間軸に沿って、パウロはアダム=キリストのタイポロジーを再構成して、これを通時的に、すなわち救済史的に理解しているのです。ところが、ローマ2章12〜13節においては、「律法なしに罪を犯した者は律法なしに滅び、律法の下で罪を犯した者は律法によって裁かれる」とあって、ここでは、ユダヤ人と異邦人とが共有する同時性において、律法と人間の罪との関係が、共時的に、言い換えると領域的にとらえられているのです。ただし、律法と律法違反の罪との相互関係がこのようであれば、モーセ律法の下でのユダヤ人の罪については説明できるけれども、それ以前の時期における普遍的な死の支配は、このままでは説明できません。
 14節は、まさにこの点にかかわっています。14節末尾の「このアダムは」に続いて「来るべき方のタイプ」とあるのは、「来るべきアダムのタイプ」を意味するのは明らかです。ここで「タイプ」とあるのは、ヘレニズム的な本体としての原像(=タイプ)に対応する写しとしての似像(アンティテュポス)のことではなく、原型(テュポス)とそれに後続する対型(アンティテュポス)との救済史的な時間関係において対応する予型(タイプ)のことです。したがって、「このアダム」が予型/タイプであり、「来るべきアダム」が、これの対型/アンティタイプになります〔ヴィルケンス431〕〔Cranfield(1)283〕。しかし、ヘレニズム的な天と地上との共時的で領域的なタイポロジーにおいては、天のアダム(キリスト)がタイプ(予型)であり、地上のアダムがアンティタイプ(対型)になりますから、まぎらわしくて注意しないと誤解します。
 14節では、アダムの原罪に基づく「死」と律法違反に基づく罰としての「死」とが、はっきりと区別されていないために、この点が問題視されることになります。しかしこの点は、「原罪」が、原初の人の個人性が、全人類の普遍性へと拡大する連体関係において理解されていることから来るものです。
 しかし、続く15〜17節では、アダムとキリストとが対照的に語られていますが、この対照は、「タイポロジーから見るならば」、決して「異質な」者同士の対照あるいは対立ではありません。アダムとキリストとのタイポロジー的な関係は、15節で完結します。続く16〜17節では、アダムの行為は、律法違反による死として、この死はどこまでも人を支配し続けます。キリストの行為(十字架の贖い)は、恵みの賜としてアダムの罪過と対比されます。律法違反と恵みの賜とは、一見すると、それらが意味する内容において、うまく対応しているとは言えないように思われます。なぜなら、律法違反は「行為」であり、これに対する「恵みの賜」は体験的な「出来事」だからです。しかしながら、恵みの賜は、人の「業/行為」によらないというその「非行為」性によって、人の「業/行為」と対照されるのです。ここでは、タイポロジーの黙示的な特徴がはっきりと表わされています。なぜなら、黙示思想においては、終末において、それまでのこの世の罪とこれに伴う人間の諸現実を圧倒する神の恵みの支配が訪れるからです。「滅びを終わらせる者は、滅びをもたらした者に無限に卓越する」〔ケーゼマン『ローマ人への手紙』293〕からです。
 この対応関係は、パウロ以前のユダヤ教においては、「神の怒りは罪人に、神の憐れみは義人に向けられる」という対応によって理解されてきたものです。しかし、パウロにおいては、「神の怒りは不信仰に、神の憐れみは罪人の信仰/非行為に」向けられるのです。伝統的なユダヤ教の黙示的なタイポロジーは、ここで全く新しく再構成されているのが分かります。キリスト教はユダヤ教から創造の仲保者としての先在の「ロゴス」と終末に到来する「人の子」の二つの思想を受け継ぎました。この二つ、先在のロゴスと終末の人の子とを結びつけたのが、これもキリスト教がユダヤ教から受け継いだ知恵思想によるものです〔ケーゼマン『ローマ人への手紙』279〜80〕。
 つまりパウロは、ユダヤ教が伝承してきた「二人の人」のタイポロジー関係に、初めのアダムと終わりのアダムという終末的で救済史的な対応を持ち込むことによって、本体(タイプ)と写し(アンティタイプ)という上下関係を表わすタイポロジーを時間軸に沿って再構成したのです。これは、律法と罪と死を「人」と結びつけるためであり、この方法は、ガラテヤ人への手紙で、律法と罪との関係を時間軸に沿って再構成したのと同じ手法によると見ることができます。その上で、自然の体と霊の体という人のふたつの存在形態をその時間実に沿って重ね合わせ、そうすることで、二つの「からだ」を対応させているのです。
 これは、パウロ独自のタイポロジーであると言えますが、しかし、パウロのこのような対応関係の特徴は、一人の人とすべての人とを重ね合わせることと、同時に、時間軸に沿って、人の一つの形態から別の形態へと対応関係においてつながることで成り立っているのが分かります。神は、具体的な個人において世界を掌握されます。しかし、その個人は、世界の中における個人であり、個人の救済が、同時に現実的な救いの領域として創造の広がりを伴うのです。パウロにとって大切なのは、二つのアイオーン(時代)の対立という観点ではなく、終わりの時はすでに始まっていて、そこに働く命そのものこそ、ここでは重要なのです〔ケーゼマン『ローマ人への手紙』272〜73〕。ローマ人への手紙に見るこういうパウロのタイポロジー関係そのものは、決してパウロによる「独創の発想」から出たものではありません。わたしたちがすでに見てきたように、個人と共同体、地上の「人」とその後に来る復活の「人」との対応と連続のように、それはナザレのイエスにさかのぼるものであり、しかもこれこそ、まさに「人の子」としてのイエス自身に端を発していることを読み取ることができます。このように、パウロのタイポロジーの独自性は、その源を人の子イエス求めることができます。
 このようにして、「自然の体と霊の体」というタイポロジーはパウロによって完成されました。第一コリント15章35節以下にさかのぼって見るならば、パウロのこのようなタイポロジーは、蒔かれた種と土との類比による対応関係において理解することができます。そこでは、自然の体は土であり、霊の体は種です。土なくして種は育たず、種なくして土は実を結ばないのです。土は種をはぐくみ、種は土に依存して育つのです。この類比は、存在論的な関係ではなく、創造論的な関係に基づく類比なのです。自然の体(ソーマ・プシュキコン)と霊の体(ソーマ・プニューマティコン)の関係はこのように、救済史的な創造論において初めて正しく理解できます。しかしこれとても、パウロ独自とは言えないでしょう。時間的な対応関係は、ヨハネ12章24節の「一麦」のたとえにも見ることができます。なによりも、この関係はイエスが語った共観福音書の種まきのたとえに繰り返し表われます。「人の子」とは、ナザレのイエスの自己表現にほかなりません。それは、個人であって共同体であり、一人であって、全人類です。それは、地上のイエスであり、御霊のイエス・キリストであり、再臨のキリストなのです。
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