37章 ヨハネ福音書とグノーシス
■グノーシス文書
 わたしたちはここで、ヨハネ福音書とグノーシスとの関係を探りたいと思うのですが、このためには、先ずグノーシスとは、そもそもどのようなものかを見ておかなければなりません。「グノーシス」あるいはグノーシス主義とは、紀元2世紀以降に本格的に現われた思想であって、パウロ書簡や共観福音書やヨハネ福音書などの1世紀の文書、あるいは紀元前の文書において「グノーシス」を論じても、「グノーシス」という用語そのものがあまりにも漠然としてほとんど意味を成さないと言えましょう。
 2世紀になると『ヘブル人福音書』『エジプト人福音書』『エビオン人福音書』『ペトロ福音書』などが著わされます。これらは正統派のキリスト教会から異端と見なされましたが、内容的に見てグノーシス的とは言えません。これらに対して、同じ2世紀のものでも『マルキオンの福音書』『ユダ福音書』『真理の福音書』、また『トマス福音書』(3世紀)などは、グノーシス派の人たちによって書かれた異端の書として、正統派の教会によって「外典」に分類されました。ただし、『マルキオンの福音書』は、内容的にルカ福音書に準拠していますからグノーシス的とは言えません。また「福音書」とは呼ばれませんが、2世紀の『ヨハネのアポクリュフォン』などは典型的なグノーシス思想に属する福音書だと言えます。
 しかし、ここで急いで付け加えなければならないことがあります。それは、2世紀以降に著わされたグノーシス系の福音書においても、それらを構成する「資料それ自体とこれの伝承過程」は、1世紀のキリスト教とユダヤ教の伝承の影響を受けていることです。以下で、この辺の事情を探るために、例として『トマス福音書』を採りあげてみることにします。
 この福音書は、ナーハーシュ派と呼ばれるグノーシスの一派に近い人たちによって書かれたものです。この書は、ヒッポリュトス(170頃の生まれ?)やオリゲネスなどの著作によって、異端の書として部分的に知られていましたが、その全貌は明らかでありませんでした。1945年にエジプトのナグ・ハマディで発見された「ナグ・ハマディ文書群」の中に『トマス福音書』が含まれていて、初めてその全貌が明らかになりました。ナグ・ハマディの『トマス福音書』は、エジプトで、2世紀の終わり以降にコプト語で書かれたものです(コプト語は、紀元前1世紀頃からエジプトがアラブ化される6世紀頃まで用いられたエジプト語で、表記にはギリシア文字を採り入れています。エジプトのキリスト教会は聖書のコプト語訳を用いました)。しかし、『トマス福音書』のコプト語訳はギリシア語訳から重訳されたもので、そのギリシア語訳は2世紀後半頃と推定されます。『トマス福音書』の原本それ自体は、2世紀中頃に北シリア東部のエデッサでシリア語で書かれたと考えられています〔ナグ・ハマディ(2)324~25〕。
 『トマス福音書』は全部で114の「イエスの言葉」を集めた語録です〔荒井『トマスによる福音書』(2)〕。ところが1897年にエジプトの古代都市遺跡のオクシリンコスで発見されたパピルスの文書群「オクシリンコス・パピルス」に『トマス福音書』のギリシア語訳があることが判明しました。現在では、コプト語『トマス福音書』のもととなったギリシア語訳の『トマス福音書』と「オクシリンコス・パピルス」の中のギリシア語『トマス福音書』とは、シリア語原本の『トマス福音書』から見ると、それぞれ別個に伝えられたと考えられています〔荒井『トマス福音書』(2)29〕。しかも、これらのイエスの言葉集の30項目ほどが、マタイ福音書とルカ福音書に採り入れられているイエスの語録(Q文書)と並行しているのです〔荒井『トマス福音書』(2)64~67〕。また、イエスの語録(Q)を考慮に入れないないならば、内容的に見た場合、共観福音書と並行すると思われる『トマス福音書』の項目は、全部で66項目もあるのです〔荒井『トマス福音書』(2)75〕。それ以外に、『トマス福音書』には、語録にも記録されなかったイエスの言葉が保存されていると考えられます。なお、『トマス福音書』が共観福音書と共通するこれら項目の中に、知恵思想に類するものと黙示思想の類するものが比較的多数あることも注目すべきです。
 『トマス福音書』のシリア語原本は2世紀中頃に成立したものであり、共観福音書は1世紀後半のものですから、これらの共通する項目は、共観福音書から『トマス福音書』に取り込まれたと見ることもできましょう。ところが、両方の諸文書を構成する資料の伝承過程から判断するならば、両者は別個の伝承に由来するものであり、『トマス福音書』の資料の中のある部分は、イエスの語録(Q)が成立するそれ以前の未分化の頃のものにさかのぼるのです〔荒井『トマス福音書』(2)75〕。これは『トマス福音書』の伝承が、イエスの語録が成立する以前の口頭伝承の時期(30年~40年代)までさかのぼりえることを意味します。
 したがって、コプト語訳の『トマス福音書』とギリシア語訳の『トマス福音書』とも言うべき「オクシリンコス・パピルス」とマタイ福音書やルカ福音書の資料とされたイエスの語録(Q)と、この三つが、ナザレのイエスにさかのぼりえる言葉断片を共有していたことになります。では、イエスの語録(Q)のほうは正統派の福音書と見なされ、これに対して『トマス福音書』のほうは、グノーシスとして排除されるにいたったのは、なぜでしょうか? 
 わたしたちはここで、『トマス福音書』の原本が成立したエデッサについて知る必要があります。エデッサは、キリスト教が早くから伝えられたアンティオキアから200キロほど東北に位置する所にありました。現在のトルコ領で言えば、その最も南東部にあるアンタクヤ(アンティオキア)の東北にあたるシャンルウルファの辺りになります(現在のトルコとシリアの国境に近い)。ここははるか昔、セム系の民族が分布していた地域で、バビロン第一王朝の6代目ハンムラビ王の時代(在位紀元前1792~1750年)の帝国の最北端にあたります。アブラハムがウルを出て北上したハランもこの少し南にありました。シャンルウルファには、アッシリア王ニムロドの虐殺を免れたアブラハムが、密かに誕生して7歳まで育てられたと伝えられる洞窟が現在も遺されていて、今もなお聖水が湧き出る聖地とされています。この地域はアケメネス朝ペルシアの支配下にありましたが、アレクサンドロス大王によってヘレニズムの支配下に入り、大王によって「エデッサ」と命名されました。大王の死後、ここはギリシア系のセレウコス王朝に支配されました。エデッサは地中海とメソポタミアとを結ぶ要地であったので、通商のルートにあたるだけでなく、西のローマ帝国の勢力圏と東のパルティア帝国のそれとの境界にもあたり、このため、両帝国が争う第3次シリア戦争の主戦場となりました(前247~241年)。弱小王国であったエデッサは、東のパルティア帝国と結んでローマ帝国と対抗しましたが、ローマのカラカラ皇帝の時代に、ついにローマ帝国のシリア州と合併しました(紀元216年)。
 このような地域であったためか、昔からユダヤ人が多く、エデッサの東にあるアディアベネ王国の王室は、紀元1世紀にユダヤ教に改宗しています。エデッサは、ペルシアのゾロアスター教を受け入れていましたが、隣国アディアベネの影響もあって親ユダヤ的であり、ユダヤ教の影響も受けていたと思われます。キリスト教については、イエスの弟子であったユダ・トマス(ヨハネ14章22節の「イスカリオテではないユダ」のこと)の世話によって、使徒の一人アッダイ(使徒タダイのこと)がエデッサに遣わされて、多数がキリスト教に改宗したという言い伝えがあります。またユダヤ戦争を逃れた多数のユダヤ人キリスト教徒が、エデッサにキリスト教を伝えたという説もありますが確かでありません。シリア語の文筆家で哲学者でもあるバルダイサン(ギリシア名「バルデサネス」)の著作によれば、彼は179年にキリスト教に改宗したとあります。彼の神学は大筋において正統的ですが、グノーシス的な要素も混入していますから、エデッサのキリスト教は、初めから混淆宗教的であり、グノーシス的な(?)ユダヤ人キリスト教徒の影響を受けていたと思われます〔荒井『トマス福音書』(2)37~38〕。
 エデッサに対して西方にあたる、シリアのアンティオキア(現在のアンタクヤ)は、1世紀にはローマやアレクサンドリアと並ぶ大都市で、早くからキリスト教が伝わり、ペトロやパウロの頃には、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが共存するキリスト教の中心都市になっていました。アンティオキアに対して、当時のエルサレムは、ユダヤ人キリスト教徒によるキリスト教の根拠地でした。42/43年のヘロデ・アグリッパ1世によるキリスト教への迫害で、十二使徒の一人ヤコブが殉教し、ペトロが捕らえられて、その後彼が奇跡的に救出されますが(使徒12章1~19節)、その後彼はエルサレムを離れます。その後のペトロの行動は確かではありませんが、エルサレムから離れたキリスト教の中心地であるアンティオキアに滞在していたのは確かです(ガラテヤ2章11節)。アンティオキアの教会は、異邦人キリスト教徒よりもユダヤ人キリスト教徒のほうが多数を占めていたと考えられていますから、エルサレムのキリスト教会との結びつきも強く、イエスの語録(Q)を担っていたユダヤ人キリスト教徒たちとも関係があったと思われます。マタイ福音書がアンティオキアの教会において成立したかどうかは確かではありません。しかし、アンティオキアの教会において、マタイ福音書は、ペトロと共に重要な意味を持っていたと考えられます。現在ここには、最古のペトロの教会と伝えられる洞窟教会が遺されています。
 このように見てくると、西のアンティオキア教会では、イエスの語録(Q)やマタイ福音書のように、以後、正統派のキリスト教として認められる文書が保持されていくことになり、一方で、東方のエデッサのキリスト教は、『トマス福音書』を産み出し、これが後にグノーシス思想として異端と見なされるようになったことが分かります。では、『トマス福音書』が後にグノーシスと見なされるにいたったその根源はどこから来ているのでしょうか? 
■ユダヤ教神秘主義
 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864~1920年)は、ヘレニズム化されたオリエントにおける都市型の宗教の救済観に、グノーシス思想の源を見いだそうとしました。「ヘレニズム」とは、アレクサンドロス大王によって、東方世界が西方世界によって統合されギリシア化されたことを表わす用語で、ドイツの歴史学者グスタフ・ドロイゼン(1808~1884年)によって造られた用語です。グノーシスの救済観は、「信仰による」救済ではなく、「認識(グノーシス)による」救済を求める知性主義に根ざすものです。ヴェーバーは、これの担い手として、ユダヤの知識人たち、それもエルサレムの政治権力からも、聖職制度からも離れた人たちを考えたようです〔上山安敏『グノーシス:異端と近代』「ユダヤ教神秘主義とグノーシス主義」44~45〕。先に述べたように、エデッサにはユダヤ人が多く住んでおり、ここはヴェーバーの言うグノーシス発祥の条件に適合する場所です。
 グノーシス思想をさらにさかのぼれば、バビロニアの宇宙観やペルシアのゾロアスター的な二元論やギリシアのネオプラトニズムや、あるいはエジプトのヘルメス主義などにその源を求めることができるのかもしれません。しかし、ユダヤ教関係のほかには文献が少ないために確かなことは分かりません〔Hans Jonas, The Gnostic Religion. Beacon Press, Boston. 1958. 15~17〕。
 ユダヤ教グノーシスの場合は、ヘレニズム化されたユダヤ人が、律法と知恵とを一体化するところから始まったと考えられます。ただし律法と知恵、特に律法と「イスラエルの知恵」との一体化は、シラ書においても見られることであり、それ自体でグノーシス化を意味しません。しかし、この「知恵(ソフィア)」思想が、ギリシア的な「知恵」と融合して、そこに普遍性を見いだそうとするにいたって、ヘレニズム化した「知恵」が、モーセ律法や預言者の教えを「補うもの」とされ、この補完性が、やがては知恵の神話化へと道を開くことになります。後の2世紀のグノーシス文書『ヨハネのアポクリュフォン』に見られるソフィアの堕落神話などは、このような傾向が発展して生じたと思われます。
 さらに今一人、キリスト教以前のユダヤ教神秘主義にグノーシスを見いだそうとしたのはゲルショム・ショーレムです。彼によれば、紀元前2世紀のユダヤ教において、グノーシスはすでに「ユダヤ化」されていたことになります。しかし、この場合の「グノーシス」は、ユダヤ的一神教の枠内にとどまるもので、天の王宮、天界への神秘的上昇、エクスタシーを伴う王冠の幻、「ヤハウェ」を表わす神聖文字の神秘化などを伴うものでした。この「グノーシス」思想は、律法の神秘的な解釈へと適用されることによって、ラビ的な律法主義の内面で入り込んだとショーレムは見ています。しかし、このグノーシス的な傾向は少数の秘義宗団にとどまっていたために、異端と見なされるにはいたらなかったようです。ただし、ショーレムのこのような「グノーシス」への見解は、はたしてこれを「グノーシス」と呼ぶことができるのかという批判を浴びることになります。なぜなら、このユダヤ教神秘主義の「グノーシス」は、完全に一神教の中にとどまっていて、後のキリスト教的なグノーシスのように、神と悪魔、善と悪、半神的な創造主(デミウールゴス)とこれを否定する超越的な「知」(グノーシス)のような二元性をそこに見ることができないからです〔上山前掲書「ユダヤ教神秘主義とグノーシス主義」49~52〕。
 エデッサで著わされた『トマス福音書』が、どのようなユダヤ教神秘主義の人たちによるものかは確かでありませんが、これのシリア語原本の段階で、はたしてこれを「グノーシス」と呼ぶことができるのか? ということが問題にされるのも、このような理由からです。2世紀に異端とされたコプト語の『トマス福音書』とシリア語の原本とが同じなのかどうか? これがギリシア語に訳され、さらにエジプトにおいてコプト語に訳されていく過程において、グノーシス的な傾向を強めていったのではないか、とも考えられます。少なくとも、イエスの語録や共観福音書との資料的な共通性を見る限りでは、『トマス福音書』を構成するイエスの言葉の中には、ユダヤ教的なキリスト教とも、グノーシス的な傾向とも、どちらにも解釈が可能な項目が多くあるからです。
■ヨハネ福音書と『トマス福音書』
 コプト語訳『トマス福音書』は、次のようなグノーシス的な特徴を具えています。
(1)至高者として「父」のほかに「母」が命の源(エバのこと)として想定される。
(2)創造神が消極的な評価しか受けていない。
(3)人間は「光」から出た「光の子」であるが、現実には、肉体の中に閉じこめられている。
(4)自己を認識することにおいて救済が成り立つ。
 しかしこれらは、『トマス福音書』の最終的なコプト語訳について言えることであって、これがどの程度原本の『トマス福音書』あるいはこれを構成する資料に適用できるのかが問題になります。ここで、『トマス福音書』の伝承語録の一つをとりだして、新約聖書の言葉と比較することで、この点を検討することにします〔大貫「第一ヨハネの手紙とトマス福音書語録17」『グノーシス考』118~57〕。
 
 イエスが言った、「私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れ ず、人の心に思い浮かびもしなかったことを与えるだろう。」
                     (『トマス福音書』17)
 はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、
 目で見たもの、よく観て、手で触ったもの。
                   (第一ヨハネの手紙1章1節)
 すなわち私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。
                           (同3節)
 『トマス福音書』と第一ヨハネの手紙とを比較してみると、第一ヨハネの手紙のほうは、「聞く」→「見る」→「観る」→「触れる」の順になっています。これは人間の身体的感覚からすると、最も遠い方から始まって、順次感覚に近い「触れる」までつながっていると言えます。「見る」と「観る」とが重なるようですが、「見る」はむしろ「見られる」ことを意味していて、その受動的な状態を再度人間の側から確認することが、次の「観る」になっていると考えられます。第一ヨハネの手紙1章3節のほうは、「見る」と「聞く」の順序が異なりますが、おそらくこの手紙の筆者は、3節のほうを先に書いて、これだけでは「命の言葉」が、具体的な肉体となって実在したことを言い表わすのに不十分であろうと考えて、1節を後から追加し、そうすることで、「言葉」の肉体化をいっそうはっきりさせようとしたのでしょう。
 これに対して『トマス福音書』のほうでは、「見る」→「聞く」→「触れる」とあって、人間の感覚から見れば、最も非感覚的な「聞く」が、より感覚に近い「見る」と逆の順序になっているのが分かります。しかも、第一ヨハネの手紙との比較で最も目立つのは、全体が否定形で言い表わされていることで、これによって、『トマス福音書』は、人間の感覚による把握を超えた超在的なキリストを描こうとしています。ここには、第一ヨハネの手紙の筆者が反論する<非>肉体的なキリスト像が想定されます。ただし、同時にここで確認しなければならないのは、これの「伝承資料の段階」においては、『トマス福音書』のキリスト像が、はたして2世紀後半のグノーシス的なキリスト像と見なすことができるのか? これを判定することはできません。したがって、第一ヨハネの手紙が否定しようとしている論争の相手のキリスト像を『トマス福音書』のこの断片に読み取ることは適切とは言えないことになります。
 次にパウロ書簡と『トマス福音書』とを比較してみます。
 
 目がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、
 人の心に思い浮かびもしたかったことを
 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。
        (第一コリント人への手紙2章9節)
 実はここにあげたパウロの言葉に近い表現が、ローマのクレメンス(1世紀)、ヒッポリュトスやアレクサンドリアのクレメンスなど2世紀以後のキリスト教文書にも表われます〔大貫『グノーシス考』132~33〕。ところが、それらはすべて、パウロ書簡からの引用ではなく、それぞれ別個のキリスト教伝承から出たものであり、しかも、そのキリスト教伝承もユダヤ教の伝承にさかのぼるものなのです。
 第一コリント人への手紙2章の言葉は、キリスト教会の礼典式文とも関係があると言われています。しかし、これの源はイザヤ書64章16節や同65章17節によるユダヤ教の礼典式文にさかのぼるもので、先にあげたふたりのクレメンスやヒッポリュトスの言葉の諸伝承も、それぞれの段階で、ユダヤ教からキリスト教へ受容されて、それぞれのキリスト教文書に入り込んだと考えられます。パウロは、「聖書にあるとおり」とあって、これを『トマス福音書』のように「主の言葉」として引用しているのではありません。第一コリント2章9節は、コリントの教会に影響を及ぼしていたパウロの敵対者たちを意識していたと思われますが、彼らはおそらくユダヤ人キリスト教徒たちであり、イエスの語録の担い手たちと同じように、イエスの直後からのキリスト教の巡回伝道者たちであったと思われます。だとすれば、彼らもまた、「主の言葉」として語っていたのをパウロは直接ユダヤ教の礼典式文の伝承からの引用によって反駁していることになります。
 この事情は、2世紀のグノーシス的な文書の場合も同じであって、グノーシス的な諸伝承は、キリスト教文書を通じたものではなく、ユダヤ教の伝承から直接取り込まれたと見るべきです。『トマス福音書』の語録(17)も同様に、その源は、2世紀前半にユダヤ教の礼典式文にあると見ることができます。したがって、1~2世紀を通じて、ユダヤ教の礼典式文の伝承があり、これと並行するように、イエスの語録(Q)や共観福音書の言葉伝承が存在していたことになります。だとすれば、『トマス福音書』の語録(17)は、ユダヤ教の礼典式文の伝承の中から、キリスト教の「主の言葉」伝承へと取り込まれるという過程を経て、『トマス福音書』に「主の言葉」として採り入れられたことになります。
 第一ヨハネの手紙の場合は、その論敵の言葉伝承を見分けるのは困難ですが、おそらく、敵対者の言葉は、当時のユダヤ教礼典式文から採り入れられて、イエスの人間性を否定する形でキリスト教化したものか、あるいは、ユダヤ教からいったん主の言葉伝承に取り込まれたものをグノーシス的に変容させていたのではないかと思われます。第一ヨハネの手紙への敵対者の立場は、「神の子」としての「キリスト」を肉体を具えた人間と同定することを否定するもので、これはケリントスの異端の教えと共通するところがあると思われます。
 以上のことから判断すれば、紀元1世紀の段階で、キリスト教文書の「グノーシス性」を論じるのは、あまり意味をなさないように思われます。例えば、一般に理解されているように、グノーシス思想は、聖書の律法を半神の造物主(デミウールゴス)が制定した「悪」であると見なしていますが、初期のグノーシス主義者の場合、この見方は、必ずしも当てはまりません。もしも、律法からの自由をグノーシス的だと考えるのであれば(ガラテヤ人への手紙の律法観によれば、パウロも律法が悪霊によって制定されたと見ていた節があります)、パウロは言うまでもなく、イエスさえもグノーシス的であると言えなくもないことになります。
■ヨハネ福音書と『トマス福音書』の違い
 共観福音書と『トマス福音書』との関連を見てきましたので、これから、ヨハネ福音書と『トマス福音書』との関連について見ていくことにします〔主として荒井『トマス福音書』(2)83~87を参照〕。先に述べたように、『トマス福音書』とイエスの語録をも含む共観福音書との間には、多くの共通する伝承が認められます。ところが、これらの共通する項目には、不思議にも、ヨハネ福音書との関係を認める項目が見られないのです。このことは、『トマス福音書』の筆者たちが、紀元90年頃に成立した文書としてのヨハネ福音書を知らなかったことになります。
 「不思議なことに」と言うのは、『トマス福音書』を産み出したエデッサのユダヤ人キリスト教徒たちのキリスト教が、ヨハネ福音書14章22節に出てくる「イスカリオテでないほうのユダ=ユダ・トマス」を教祖とすることが伝えられているからです。しかも共観福音書とヨハネ福音書との間には、マルコ福音書やルカ福音書と、また、少ないとは言えマタイ福音書との共通性が見いだされますから、共観福音書とヨハネ福音書とは、それぞれの文書が成立するその資料を伝承のある段階で共有していたと考えられます〔E.P.Sanders and Margaret Davies, Studying the Synoptic Gospels. SCM Press (1989)104.〕。
ヨハネ福音書が成立した地理的な場所については、近年、次のように推定されています。ヘロデ大王(在位前37~前4年)の死後、その支配地域は、3人の息子たちに分割されました。その一人がヘロデ・フィリポスです(在位前4年~後34年)。彼の支配地域は、当時のパレスチナとシリア領との境に接していて、ガリラヤ湖とその北30キロほどの所にあるセメコニテス湖(現在のイスラエル領の東北端で、レバノン領の境に近いケファル・ブルムの辺り)とを結ぶ線から東北に当たる広い地域でした。この地域は、ヘルモン山脈の東南にあるフィリポ・カイサリアから南へガウラニティス地方とバタネア地方へと続く領域です。この地帯はその後53年頃から、ヘロデ王家の血を引くアグリッパ2世(在位44年~66年)が受け継ぐことになりました。ヘロデ王家は、純粋のユダヤ人の血を引くとは言えませんが、ローマとパレスチナとの間にあって、一貫してユダヤ教を保護する姿勢をとり続けましたから、アグリッパの領土にも多くのユダヤ人たちが住んでいました。したがって、キリスト教の誕生以後、ここにはユダヤ人キリスト教徒たちの共同体が存在していた可能性があります。
 近年、シリア領に近く、アグリッパ2世の支配したこの地方、特にガウラニティス地方とバタネア地方がヨハネ福音書を成立させた共同体が存在していたと推定されています〔大貫隆著『ヨハネによる福音書』日本基督教団出版局(1996年)52~53〕。ただし、初期の教父エイレナイオスたちの伝承によれば、ヨハネ福音書を成立させた共同体が、エフェソと深い関わりがあることが伝えられています。現在でも、この伝承を否定する決定的な根拠がない以上、ヨハネ共同体は、ユダヤ戦争以後に、おそらくユダヤ教の側からの迫害によって、エフェソへ移り住んだと考えられます(80年~90年か)。マーティン・ヘンゲルは、エフェソへの移動時期を80年頃と見ており、レイモンド・ブラウンは90年頃と推定しています〔Chart(1).History of the Johannine Community. Raymond Brown, The Community of the Beloved Disciple. Paulist Press (1979).〕。わたし自身は、ヨハネ福音書が成立した時期から判断して、85年頃と推定しています。
 このような推定から判断するなら、ヨハネ福音書を成立させた共同体は、地理的に見ると、そのはるか北西に位置していたアンティオキアと、そのアンティオキアからさらにはるか北東に当たるエデッサとつながっていたことになります。ヨハネ福音書は、いわば後のキリスト教の正統派を形成するアンティオキアのキリスト教と、さらにそのキリスト教以後の2世紀に顕著になるグノーシス系の宗教と、このどちらの系統の原型をも具えた共同体が産み出した福音書であるとも言えそうです。同時に、そのどちらも、ユダヤ人キリスト教徒たちと関わりの深いキリスト教であったこともまた、ヨハネ福音書にその特徴を見ることができそうです。
 エフェソはパウロ系の諸集会が多かった地域です。ヨハネ共同体は、比較的小さな共同体でしたが、ヨハネ福音書は、この共同体によって成立し、広くキリスト教の諸集会に受け入れられていきました。これも、エフェソへの移住の結果ではなかったかと考えられます。ヨハネ福音書の成立がエフェソであったとすれば、はるか離れたエデッサにあって、これもまた孤立していたトマスの共同体が、『トマス福音書』の原本を成立させた頃に(2世紀初頭?)、ヨハネ福音書を知らなかった事情が納得できます。
 ではここで、二、三の例をあげて『トマス福音書』とヨハネ福音書とのつながりを見ることにしましょう〔荒井『トマス福音書』(2)を参照〕。
 
 (1)イエスが言った、「心の中で迫害された人たちは幸いである。
 彼らは、父を真実に知った人たちである。
 (2)飢えている人たちは幸いである。
 欲する者の腹は満たされるであろう。
         『トマス福音書』(69)
 これの(1)は、ご存知の通り、マタイ5章10節の山上の教えと並行する箇所です。「幸いだ」で始まるこの一連のイエスの言葉では、マタイよりもルカのほうがイエスの語録(Q)に近いとされています。ルカ福音書にはマタイ福音書の「義に(飢えかわく)」はなく、また、マタイ5章10節の「幸いだ、義のために迫害される人たちは」以下は、マタイ独自の編集による付加です。だとすれば、『トマス福音書』の(1)は、イエスの語録からではなく、直接マタイ福音書から取り込んだことになります。
 さらに(2)のほうは、ルカ6章21節の「幸いだ、今飢えている人々は」以下と並行しています。ルカのこの部分は、イエスの語録と同じですから、トマスは、この節をおそらく直接イエスの語録から取り込んだのでしょう。したがって、トマスは、(1)ではマタイ福音書から、(2)ではイエスの語録から採って語録(69)を形成したと思われます。
 問題は「父を真実に知った(人たち)」とある箇所です。『トマス福音書』では、一般に「神」が「父」と置き換えられています。これは、直接イエスの言葉にさかのぼるとも考えられますが、この「父」は、「母」と組み合わされて、後のグノーシス思想では重要な意味を持つようになります。また、「父」と「子」(御子キリスト)と「自己」とを結んで、「自己を知る(グノースコー)」という思想も後のグノーシス的な思想を形成することになります。言うまでもなく、これは主として2世紀以降のグノーシス思想に顕著に表われる傾向であって、『トマス福音書』のこの語録が「グノーシス」であるとは言えません。ただここには、イエスの語録もマタイ福音書もグノーシス的傾向の萌芽となる思想も含まれているのが分かります。
 ところが、この「父を知る」は、ヨハネ福音書では重要な意味を持っています(例えばヨハネ10章15節)。ここに、『トマス福音書』とヨハネ福音書との共通点を見ることができましょう。また、ヨハネ福音書に、イエスが「父」から出て「父」に戻る、とあるのも、グノーシス思想と共通すると言えるのかもしれません。ただし、このことは、『トマス福音書』がヨハネ福音書から、後のグノーシス思想へと発展する傾向を受け継いだことにはなりません。ただここには、両者に共通する伝承あるいは信仰/思想が、おそらくそれ以前の段階にあったことが想定されます。その「共通する伝承」は、あるいはイエスの語録形成よりもさらに古いものかもしれません。ともあれ、『トマス福音書』もヨハネ福音書も、共観福音書的な信仰と「グノーシス」的な傾向との両方を共有していたことになります。
 
 イエスが言った、
 「あなたがたは、何を見に野に来たのか。
  風に揺らぐ葦を見るためか。
  あなたがたの王やあなたがたの高官のような
    柔らかい着物をまとった人を見るためか。
  彼らは柔らかい着物をまとっている。
  そして、彼らは真理を知ることができないであろう。」
                 『トマス福音書』(78)
 これは、共観福音書では、洗礼者ヨハネについてイエスが言った言葉で、マタイ11章7~8節(=ルカ7章24~25節)と並行しています。この場合は、ルカよりもマタイのほうが、イエスの語録に近いです。しかし、『トマス福音書』のほうは、イエスの語録や共観福音書のように直接洗礼者ヨハネについてではなく、より一般化した形で、「王や高官」への批判がこめられています。このことから、ここは、この世の栄華に対して「真理」を対置するユダヤ人キリスト教徒の思想/信仰が表われていると見られます。これを「グノーシス」的な傾向と見なすこともできましょうが〔荒井『トマス福音書』(2)242〕、全く同じような思想傾向は、イエス以前の黙示文学にも見ることができます(例えば『エチオピア語エノク書』)。トマスのこの語録は「禁欲」的であるから「グノーシス」的であると判断するのであれば、洗礼者ヨハネも「グノーシス」的であることになりましょう。しかも、この言葉がイエスにさかのぼるとすれば、イエスは禁欲的ではなかったから、この語録とイエスは結びつかない、という判断がはたして適切かどうか、わたしには疑問です。少なくとも『トマス福音書』の原本の段階を「グノーシス」と判定することは適切でないと思います。
 ヨハネ福音書との関連では、『トマス福音書』のこの語録の「真理を知る」が、ヨハネ8章31節と共通することがあげられます。ヨハネ福音書のこの部分は、アブラハムを自分たちの先祖と自負するユダヤ人に対するイエスの厳しい攻撃の中で語られます。ここでヨハネの言う「真理」と「自由」は、「罪の奴隷」(この言い方はパウロ的)という言い方と結んで、パウロの信仰/思想を反映していると見ることもできます。ただし、「真理を知る」は、後のグノーシス思想では、悪霊に支配されたこの世界に対立する「真理」を「知る=グノーシスする」というグノーシス思想の大事な要因となります。この意味でも、『トマス福音書』とヨハネ福音書とは、共観福音書には見られない思想傾向を共有していると言えましょう。
 以上二つの例にすぎませんが、『トマス福音書』とヨハネ福音書とに共通するいわゆる「グノーシス」的な傾向を見てきました。これに類する例はまだほかにもあります。しかし、ここで、両者の異なる傾向についても見ておきたいと思います〔荒井『トマス福音書』(2)85~87参照〕。
 
 そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見出す者は死を味わうことがないであろう。
                             『トマス福音書』(1)
 この言葉と並行するのがヨハネ福音書の次の言葉です
 
 ところがあなた(イエス)は言う、
 「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と。
                     ヨハネ8章52節
 ヨハネ福音書では、これは直接イエスが語った言葉ではなく、イエスが「わたしの言葉を守るなら、その人は死ぬことがない」と言ったのに対して、ユダヤ人が、「死ぬ」とあるの「死を味わう」とヘブライ語的に言い換えて反論している箇所です(「死を味わう」は「死なない」と同義)。ここには、『トマス福音書』とヨハネ福音書との大事な違いを見ることができます。それは、『トマス福音書』では、「言葉の解釈を見出す」ことが、「死を味わうことがない」ための条件とされているのに対して、ヨハネ福音書では「言葉を守る」ことが、「死なない」ための条件とされていることです。『トマス福音書』の場合は、「言葉を解釈する」こと、すなわち、与えられた言葉を人間の側がどのように「認識する」のかが、救いの大事な要素とされているのです。これに対してヨハネ福音書の場合は、与えられた言葉をそのまま「守る」ことが、救いの条件であって、そこには、イエスの言葉を人間の認識によって理解し直すという知的な作業が入り込む余地が、あまりないのです〔荒井『トマス福音書』(2)86〕。この違いは、神の託宣を「解釈」しようとするギリシア的な預言者(プロフェーテース)と神の言葉にそのまま「従おう」とするヘブライの預言者(ナービー)との違いとも対応するものでしょう。
 この違いは、「父」と「子」を通じて「自己」を認識すること、すなわち、自己の内に「父と子」の同質性を認識することに人間の救いを見出そうとするグノーシス的な傾向と、人間が、「子」を通じて与えられる「父」の言葉を受け入れること、すなわち、父の言葉からの「働きかけ」によって、人間が「変えられ」て「救われる」こととの違いとなるのです。ヨハネ福音書では、ロゴス(み言)であるイエスが、人間の内面に「認識される」のではなく、み言が「肉体となる」(ヨハネ1章14節)ことによって、歴史の中に、人間の自己にとっては「他者」として啓示されるのであり、イエスの霊性に自己の霊性を見出すのではなく、イエスの復活の御霊にあって、自己の霊性が新たに創造されるのです。
 ヨハネ福音書とグノーシス思想との違いをさらにあげるとすれば、グノーシス思想では、「愛」とは地上の世界に背を向けて、プレーローマ(充満)的な霊界の「真理」に、人間ほんらいに具わる「知性」(グノーシス)によって到達しようとするところにあります。ところがヨハネ福音書では、「神は御子を賜うほどに<この世を>愛した」(ヨハネ3章16節)とあるとおり、イエスの父からの「愛」は、逆にこの地上へと向けられて、「この世」それ自体を救いの対象とするのです。イエスは、この世から人を離脱させることを目的にして、この世に降下したのではなく、「世の罪を取り除く」(ヨハネ1章29節)ために遣わされたのです。したがって、ヨハネ福音書では、「肉」として言い表わされる人間性それ自体が、堕罪そのものであるという見方が希薄です。この点では、むしろパウロのほうが、「肉」を「霊」と対比させることで、「罪の肉」と見ていると言えましょう。ヨハネ福音書のこのような見方は、人間の肉体を霊魂の牢獄と見なして、肉体に「閉じこめられている」霊魂の救済を目指すグノーシス思想とは異なっています。
 先にわたしは、地理的な視点から見て、ヨハネ共同体が、『トマス福音書』を産み出したエデッサのユダヤ人キリスト教徒たちの宗団と、イエスの語録を含むマタイ福音書の系統に近いアンティオキアの集会と、東西ふたつのユダヤ人キリスト教徒たちのどちらにも接触できる可能性があったことを指摘しました。ヨハネ共同体とヨハネ福音書の成立過程は、今なお謎の部分が多く、確認することが難しいのですが、以上見てきたところから判断するならば、ヨハネ共同体は、後の正統派キリスト教と、2世紀以後に顕著になるグノーシス思想の傾向との両方を含む霊性を有していたことになります。
 しかし、最近の研究の結果から見ると、少なくとも1世紀のキリスト教諸集会については、正統派とグノーシス派という分類それ自体が、あまり意味をなさなくなるほど流動的で多様な原初キリスト教諸集会の姿が浮かび上がってきています。そもそもイエス自身が、知恵の賢者か、黙示的革命家か、ヘブライ的な預言者かと、様々に論じられている有様です。
 ドイツの教義史家であり教会史家であったフェルディナント・クリスティアン・バウル(1792~1860年)は、その『ヨハネ福音書の構成と性格について』(1853年)において、ヨハネ福音書を次のように位置づけています。この福音書は、律法に拘束され続けていた原初のパレスチナ諸集会(ペトロ系のアンティオキア集会)と律法から解放されたヘレニズム的キリスト教諸集会(パウロ系のエフェソやコリントの諸集会)との対立を弁証法的に統合したもので、原始キリスト教史の展開の頂点に立つものである〔大貫隆『ロゴスとソフィア:ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』教文館(2001年)46~48頁〕。
 ただし、これについては、パウロ系の諸集会が、ペトロ系の集会とどのような関係にあったのか? またヘレニズム的な諸教会がどのような意味で「グノーシス」的であったのか? パウロ自身は、そのような傾向を否定する立場にありながら、彼自身も、後のグノーシス思想の萌芽となる霊性を共有していなかったのか? コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙が「グノーシス」的だと言われるのはなぜなのか? さまざまな疑問が残ります。それでも、バウルが指摘した原初キリスト教の二つの傾向に、さらに2世紀にグノーシス的として排除された『トマス福音書』の集会を加えるなら、これら三者の間にあって、ヨハネ福音書の占める位置は、現在でもなお、バウルの見方とそれほど離れてはいないとわたしは考えています。
■ヨハネ福音書とグノーシス
 ここで、ヨハネ福音書とグノーシスとの関わりに入りたいと思います。しかし、ここからは、問題が、今までとは違った意味で複雑になります。なぜなら、ヨハネ福音書とグノーシスとの関係について考える場合に、グノーシス思想が、あたかも、ヨハネ福音書とは別個にすでに存在していて、ヨハネ福音書がそれにどの程度影響されているのか? というように論じることは、ほとんど意味を持たないからです。だから、ヨハネ福音書とグノーシスと言う時には、ヨハネ福音書がどのようにしてグノーシス思想の人たちに採り入れられていったのか、あるいはグノーシス文書に適用されたのか? を問うほうがより適切だとさえ言えます。ヨハネ福音書そのものの「グノーシス性」もこのような視点から見るほうがいいでしょう。
 先ずヨハネ福音書の「人の子」像を採りあげることから始めましょう。ヨハネ福音書の「人の子」とグノーシスとの関係については、この福音書の「人の子」像が、ユダヤ黙示思想とこれに基づく共観福音書の「人の子」の系譜よりも、グノーシス的な「真人」神話に近いと見る説があります。この説の根拠としては、先在のロゴスが天から降ったこと、すでに復活して高挙された人の子が、地上のイエス像に重ねられていること、イエスの運命が信仰者の運命と結ばれていること、などがあげられています。しかし、グノーシス的な意味では、「先在」とは「魂の先在」のことであって、ヨハネ福音書の人の子には、このような「魂の降下」という思想をその背後に読み取ることはとうていできません(例えばヨハネ3章13節)。ヨハネ福音書の記者は、宇宙観やこれに基づく人間観、魂の運命などには興味を示さないのです。彼の言う「人の子」とは、当時の読者が意味する「人の子/人」のことであって、そこには、集合的な魂が、暗闇に落ち込み、そこからの救いを求めているという思想は全く存在しません。
 ヨハネ福音書では、昇天した「人の子」は、ユダヤの伝統的な黙示思想を背景とする「人の子」像であり、同時にそれは、イスラエルの「知恵」(ソフィア)あるいは「言葉」(ロゴス)思想から来ているものです。これの背景としては、アレクサンドリアのフィロンが求めた「ソフィア」と「ロゴス」の融合が考えられます。この場合、ロゴスの「降下」とは、必然的に歴史的なイエスの地上での生と結びつくもので、この地上での人の子イエスが、父の御心に従って復活・昇天して、これによる栄光化を通じて、天の父と共にある「人/人の子」として高挙されたことを表わしていると理解されます。ただし、ヨハネ福音書の序の「ロゴス」は、ダニエル書に表われる「人の子」をも「日の頭」をも、また黙示的な動物の象徴をも伴いませんが〔TDNT(8)415〕、この点はヨハネ福音書と黙示思想との関係について次の項目で考察することにします。
 ヨハネ福音書の「人の子」は、常に「神の民」を自分と同一化させようと働きかける者です。このような「人の子」概念は、哲学的に抽象化されたヘレニズム的な「天上の人」と一見共通するようにも見受けられますが、ヨハネ福音書の「人の子」が表わす実体は、ヘレニズム的な「真人」とは、かなり異なっています。確かに、プラトン的に理想化された「人」も、地上に実在する個々の人間たち以上に「真の」存在であるには違いないのですが、プラトン的な意味での「真の」とは、体験できる実在の人間たちを抽象化したところに到達される概念です。このような概念においては、「一人の歴史的な人」の存在を問うのは無意味になります。なぜなら、このような「人」は、哲学と神話との領域にまたがる概念に属するからです。だから、このような「人」概念を突き詰めると、それは「知性」(ギリシア語で「ヌース」)に行き着くことになりましょう。このような「人」は、神話的な擬人化にすぎませんから、そこには、明確な「人格性」、言い換えると「個人的な霊性」が欠如しているのです。
 ひと頃、ヨハネの人の子がグノーシス的だと言われたことがあるのは、おそらく、グノーシス的なキリスト教が、逆にヨハネ福音書からその「人の子」像を取り込んだことからくるものです。ヨハネの「人の子」は、むしろイスラエルの知恵思想と結びつくものです(バルク3章37節以下/知恵の書9章16節以下)。ヨハネの「人の子」は、ロゴスとして、先在から卑賤(十字架)を経て栄光への経緯をたどる者ですが、その卑賤において、グノーシス思想とは決定的に異なるものであり、同時にこの点では、ユダヤ教とも異なるものなのです〔Schnackenburg John.(1)553〕
■ヨハネ福音書と黙示文学
 これからヨハネ福音書の黙示性について考察したいと思うのですが、その前に、キリスト教黙示文学とは、どのようなものかを見ていくことにします。キリスト教黙示文学は、ユダヤ黙示文学からその諸特徴を受け継いでいます。したがって、両方に共通する「黙示文学」の特徴を整理すると、ほぼ次のようになります〔ナグ・ハマディ文書群(4)3~10を参照しています〕。
(1)幻:ダニエル書にあるような夢や幻が出てきます(ダニエル書7章1節)。だたし、夢や幻は、必ずしも黙示文学の特徴とは言えません。知恵文学にも預言書にもでてきます。
(2)声:すでに『第一エノク書』で見たように、エノクは天からの「声」を聞きます。ただし、これも黙示文学独自のものとは言えません。
(3)天使:『第一エノク書』やダニエル書(8章16節)のように、天使が顕われます。ただし、これも黙示文学独自のものとは言えません。
(4)恍惚状態:「その後に、わたしの霊が取り去られて、天へ昇った」(『第一エノク書』71章1節)。この状態は、知恵文学と黙示(啓示)文学とを見分ける時のひとつの「しるし」となっています。
(5)遺訓:『第一エノク書』の「エノク書簡」(91~105章)にあるように、先祖からの遺訓と自分の見た啓示を子孫に遺訓として伝えます。この形式は、知恵文学から黙示文学へ受け継がれたと見ることができます。
(6)世界史:『第一エノク書』の「夢幻の書」(85~90章)にあるように、諸王国の推移だけではなく、世の初めから終末までの人類の歴史を俯瞰します。これが、黙示思想の特徴であると言えます。知恵思想でもイスラエルの救済史が語られますが(シラ書44~50章)、黙示思想では、それが全人類を俯瞰する視野で見ている点に特徴があります。この際に重要な概念として「アイオーン=時代/世界」があります(『第一エノク書』16章1~3節)。
(7)時代区分:「エノク書簡」(93章1~17節)にあるように、世の初めから終末までを10週に区分します。このような時代区分は、世界史の俯瞰に当然伴うもので、黙示思想特徴を表わしていると言えます。
(8)預言:ダニエル書2章に見られるように、筆者は、自分ではなく、「ダニエル」や「エノク」に託して過去の歴史を回顧し、これを表象化することによって、未来への予言へとヴィジョンを拡大します。この場合、筆者の現在が基点になります。これも黙示文学独自の特徴で、このような「預言」の仕方は、キリスト教にも大きな影響を及ぼしています。
(9)終末待望:ダニエル12章1~4節にあるように、歴史の終わりが到来して、裁きが行なわれます。この場合に、しばしば終末までの「時間刻み」が告知されます(ダニエル12章12節)。これは黙示思想の大事な要素だと言えます。
(10)終末に先立つ艱難:これについては、共観福音書のマルコ13章(=マタイ24章=ルカ21章)が、そのまま当てはまります。ただし、共観福音書では、エルサレムの神殿崩壊と終末とが二重になっています。これはイエスによる真正の預言であって、(8)にでてくる「過去の預言」、すなわち事後預言ではありません。
(11)天変地異:共観福音書のマルコ13章24~27節とマタイ福音書とルカ福音書との並行箇所を参照してください。ただし、このように地上の歴史的な出来事を天体の表象で表わすやり方は、必ずしも黙示文学だけではなく預言書にもでてきます(ヨエル3章1~5節)。
(12)時の計算:終末が何時起こるかを予測する神のスケジュールのことです。例えばダニエル12章7節/同11~12節を参照してください。クムラン宗団の人たちは、終末の到来を紀元70年と設定していました。エルサレムの滅亡を予め計算していたような不思議な予測です。
(13)死者の復活:これは新約聖書にでていることで、黙示思想の大事な特徴です(マタイ27章52節)。黙示思想で死者の復活を示唆する初期の言葉はダニエル12章2~3節です(さらに『第一エノク書』103章4節を参照)。黙示思想の復活の特徴は、義人たちも罪人たちも、全人類が陰府から復活して、神の裁きを受けることです(『第一エノク書』51章1~3節/ヘブライ9章27節)。
(14)最後の審判:終末の裁きによって、義人は永遠の命へと、邪悪な者たちは永遠の滅びへと定められます。これも新約聖書にでてくることで、「終末」と「死者の復活」とに伴う黙示思想の特徴です(『第一エノク書』97章1~6節)。
(15)エルサレムの更新:新約聖書のヨハネ黙示録21章9節以下が最も良い例です。黙示思想では、この「天のエルサレム」は、神の玉座から地上に降下する形で成就します(ヨハネ黙示録21章10節/『第一エノク書』14章9節以下を参照)。しかし、この「天の新たなエルサレム」(ガラテヤ4章26節)は、新天新地の更新とも結びついています(『第一エノク書』91章16節/ヨハネ黙示録21章1~5節)。
(16)新たな創造:これは、(15)の項目から導き出されるものですが、これも黙示思想特有のものではなく、創世記1章やイザヤ43章18~19節にあるように、旧約聖書の信仰に基づくものであり、この創造信仰は、新約聖書へと受け継がれたものです。しかし、そこに黙示思想の特徴を見出すとすれば、終末の到来に「先立つ現在の時点に」おいて、最後の裁きを待つ義人たちと邪悪な罪人たちとが、陰府の世界をも含むどのようなところで裁きを待ち望んでいるのか、あるいは裁きを恐れて怯えているのか、これを描く姿です(ラテン語エズラ記=第四エズラ記7章78~101節/『第一エノク書』=『エチオピア語エノク書』「見張りの天使たちの書」22章/39章)。
(17)天界への旅:啓示を受ける者が、天使に導かれて天界に昇り、天の領域と地の領域と陰府の領域とをあまねく巡って、その全貌を俯瞰するもので、これは黙示思想の大事な特徴です(『第一エノク書』18章/21章/32章/33章/41章)。
(18)自然界と天体の運行:黙示思想は、『第一エノク書』の「天文の書」(72~82章)に見るように、地上の自然界だけでなく、天体の運行とも深くかかっています。ユダヤではこの思想/信仰に基づいて、伝統的なユダヤの太陰暦から当時としては革新的な太陽暦の導入が試みられます。この部分は黙示思想の最も初期の部分に入るものです(紀元前3世紀よりもさらにさかのぼるか?)。
(19)義人と罪人への定め:黙示思想を貫く基本的な価値観ですが、言うまでもなく、旧約聖書時代から新約聖書においても基本的な主題です。(13)(14)(17)(18)を参照。
(20)冥界/陰府への旅:これも黙示思想特有のものですが、すでに(14)(17)(18)に含まれています。あえて冥界/陰府への旅だけを取り出すとすれば、『第一エノク書』22章が最も適切でしょう。これについて新約聖書では第一ペトロの手紙3章19~20節が特に注目されています。使徒信条に、キリストが「陰府へ降り」とあるのもこれと関係します。
(21)地上への帰還:天使に導かれて天界を旅した作者が、再び地上に戻り、受けた啓示を子孫に伝えます(『第一エノク書』81章5~6節/ヨハネ黙示録1章1~3節)。
(22)目覚め/覚醒:幻や啓示を授かった者が「眠りから覚める」のは、黙示思想に限らず預言書その他でも見られる描写です(ゼカリヤ4章1節/)。
(23)秘匿命令:啓示されたことを封印して人から隠されたままにすることです。「世の初めから「隠されていた」事柄が、神の摂理によって「啓示される」のは、「啓示/黙示」の本来的な性格ですから、ことさら黙示思想に限られません(ダニエル12章4節/『第一エノク書』89章61~64節/ヨハネ黙示録5章1~4節)。
(24)伝達命令:啓示されたことを遺訓として子孫に伝えるよう命じられること。これは黙示思想特有と言うよりは、黙示思想が知恵思想から受け継いだものです(箴言1章2~6節/シラ書序言7~14節/『第一エノク書』81章/同104章11~13節/第一ヨハネ1章1~4節)。
 以上、黙示思想の諸特徴を列挙しましたが、中には、黙示思想に限らない項目、あるいは黙示思想と知恵思想とが重なり合う項目などがあることが分かります。そこで、黙示思想独自の特徴を集めてみますと、
第一に、(6)世界史、(9)終末待望、(10)終末に先立つ艱難、(7)時代区分、(12)時の計算、(15)エルサレムの更新、(8)擬似的な作者の過去・現在・未来にわたる預言など、さらに新たな天地の創造に関する項目があげられます。これらは、時間的な軸に沿った項目です。
第二に、(19)義人と罪人への定め、(13)死者の復活、(14)最後の審判、など「裁きに関する項目があげられます。これは、価値観に沿った項目です。 
第三に、(17)天界への旅、(20)冥界/陰府への旅、(21)地上への帰還、などがあげられます。これは空間的な軸に沿った項目です。
第四に、知恵思想と黙示思想とが関連し合う項目としては、(4)恍惚状態、(5)遺訓、(24)伝達命令などがあげられます。
 そこで、これらの諸特徴を比較的多く含む黙示文学はどれかを大貫氏のリスト〔「ナグ・ハマディ文書群」(4)14~15〕に従って見ていきますと、ユダヤ教黙示文学では、『第一エノク書』=『エチオピア語エノク書』(前2~前1世紀)と『スラブ語エノク書』(後1世紀)のエノク系文書に圧倒的に多数含まれていることが分かります。大貫氏のリストには、ユダヤ教黙示文学に属する文書が(旧約聖書の中の部分的な黙示断片を除く)、ダニエル書からゼファニヤ黙示録まで、全部で10の文書名があげてあります(クムランの黙示断片を除く)。また、これらの文書が書かれた時期は、紀元前2世紀からの紀元1世紀に及んでいます(『ギリシア語バルク黙示録』のみ後3世紀)。したがって、ユダヤ教の黙示文学は、内容的に見ても前3世紀~後1世紀に集中していると見ていいでしょう。
 一方、キリスト教黙示文学では、上に列挙した項目を比較的まんべんなく含むものはヨハネ黙示録(後1世紀)のみで、(6)~(14)を含むものが『シュビラの託宣』(後2~3世紀)で、(9)~(21)を含むものに『ギリシア語エズラ黙示録』(後2~9世紀)があります。大貫氏のリストによれば、キリスト教黙示文学に属する文書は(新約聖書の中の黙示的な断片を除く)、ヨハネ黙示録に始まり『マリアの黙示録』まで全部で16になります。これらが書かれた時期は、紀元1世紀末から9世紀までです。これで見ると、紀元1世紀末を境にして、ユダヤ教黙示文学の時代からキリスト教黙示文学の時代へと移行していることが分かります。
 内容的に見るならば、ユダヤ教黙示文学からキリスト教黙示文学への移行に伴って、先の黙示的特徴が、時間軸に沿う項目から次第に空間軸に沿う項目へと移行する傾向があると言われます。同時に、王国やイスラエルの民や世界の諸民族のような集合的な人間観から、より人格性を帯びた個人的な人間観へと視点が移っていく傾向が見られるとも言います〔ナグ・ハマディ文書(4)18〕。しかしながら、これら両方の全過程において、歴史の終わりに訪れる終末とこれによって成就する新しい世界の創造への信仰だけは、人間の神への服従か不従順かという善悪の価値観を伴って、一貫して変わることがなかったのです。だから、時間軸から空間的な世界観への移行と言うよりも、むしろ、先の項目の諸特徴で見たように、黙示思想の本質は、終末へ向かう「時の動き」に合わせて、義人たちと悪人たちとが神の裁きを受けるために分別されていき、このような「時の動き」と正邪の分離が、新たに霊的な「場」あるいは「領域」の世界を展開させていくということです。だからこれは、終末を志向する時間軸「から」空間的な世界観へと移行するという意味ではありません。
 なお、これ以外にグノーシス的黙示文学に属する文書があります。しかし、この場合は、「黙示」と言うよりも「啓示」に近いと言えます〔ナグ・ハマディ文書(4)16〕。もともと「黙示」と「啓示」は、ギリシア語では同じ「アポカリュプシス」ですから、「黙示」は「啓示」の特殊な顕われ方だと見ることができるからです。
■ヨハネ福音書の黙示性
 ヨハネ福音書と黙示思想との関係を見るために、ここでヨハネ福音書16章8~11節を採りあげてみたいと思います。
 
 「その方(パラクレートス)が来ると、世を告発するだろう
   罪について、義について、また、裁きについて。
  罪についてとは、わたしをどこまでも信じないこと、
  義についてとは、わたしが父のもとへ去り、
    あなたがたが(弟子たち)はもはやわたしを見なくなること
  また、裁きについてとは、
    この世の支配者(悪魔)が断罪されることである。」
                  (ヨハネ16章8~11節)
 ここでは、この世の権力者たちによって「告発された」イエスが(ヨハネ8章46節)、イエスの復活を通して降るパラクレートスによって、逆に彼らを「告発」します。地上で罪を宣告したこの世の悪人たちが、真理の御霊(パラクレートス)によって、逆に自分たちの「罪」を暴かれます。この世で迫害された義人たちは、今は「見えない」イエス・キリストからのパラクレートスによって、彼らの「義」が立証されます。また、この世を支配していた悪の支配霊(悪魔/サタン)が「断罪」されます。このような「逆転」の発想こそ、ユダヤ黙示思想の終末観に基づいていることをわたしたちは先に見ました。だから、この16章8~11節は、ヨハネ福音書の中でも、黙示思想に「最も近い」と言うことができます。
 ところが、ヨハネ福音書のこの部分は、黙示的では「ない」とも言われる箇所なのです。もっとも、わざわざこのような断わりが加えられること自体が、この箇所と黙示思想との関係を裏書きしていますが。では、ここが黙示思想で「ある」と言い、「ない」と言うのは、どのような意味でしょうか? 次にこの点について考察したいと思います。
 黙示思想では、
(1)終末は1度に、完全な姿でこの地上に実現します。したがって、これは歴史の終末においてのみ起こることです。
(2)人の子の到来も悪人の裁きも聖徒たちの浄福も「目に目える」形で地上に実現しますから、その時点で完全な姿で成就されます。
(3)終末は、全宇宙的な規模で、新しい「アイオーン」(時代/世界)として顕われます。これがいわゆる「新天新地」です。
 ところがヨハネ福音書では、
(1)終末が世の終わりに起こるのではなく、パラクレートスによって、終末が「すでに」始まっていて、現に終末的状況が生起し、進行しているのです。しかも、この終末的な状況は「まだ」不完全であり、やがて終末が完成し成就することが期待されています(ヨハネ6章39~40節/同44節/同54節/16章31~33節/17章11節)。
(2)パラクレートスの働きは、世の人には言うまでもなく、弟子たちにも「目に見えません」。
(3)パラクレートスがもたらすのは、直接的に言えば、宇宙的な規模の出来事ではなく、復活したイエス・キリストの人格的な現臨として顕われています。
 では、ヨハネ福音書の世界は黙示的では「ない」のでしょうか? そうとも言えません。なぜなら、
(1)ヨハネ福音書では終末的状況が現在成就しているとは言えません。これの完成はまだ将来を待たなければならないからです。この意味では、黙示的で「ない」とは言えません。「まだ」が「すでに」とつながっていて、地上においては「まだ」でも、天においては「すでに」定まっているというこの時間構造は、『第一エノク書』においてすでに語られていることです。
(2)パラクレートスは、肉眼では見えませんが、霊的な視野において、弟子たちはイエスに「出会い」、その姿に「接する」ことができますから、これも黙示的なヴィジョンで「ない」とは言えません。
(3)ヨハネ福音書のパラクレートスがもたらすイエス・キリストは、人格的な現臨ですが、この現臨は、天地創造の初めから存在した「ロゴス・キリスト」であり、「すべてのものはこれによって生じ、生じたものでこれによらないものはなかった」とありますから、イエス・キリストの臨在は、宇宙的な視野で語られています。この意味でも、ヨハネ福音書が黙示的で「ない」とは言えないのです。
 このように見ると、ヨハネ福音書について、黙示的で「ある」のか「ない」のか、という議論が、それだけではあまり意味を持たないことが分かります。なぜなら、この問題は、そもそもナザレのイエス自身の黙示信仰/黙示思想がどのようなものであったのか、ということと深く関わってくるからです。
■ヨハネ福音書の「人の子」の結び
  結論として言えることは、黙示的に見た場合に、上にあげたヨハネ福音書の三つの特徴はどれも、ヨハネ福音書ではなく、地上に生存したナザレのイエスの黙示信仰に見ることができるものです。これを言い換えると、イエス自身が、黙示信仰を大きく変容させていたことを意味します。だから、ヨハネ福音書において初めて、ナザレのイエスが地上で実現しようとした黙示的な出来事が、そのほんらい姿とその意義とを「取り戻した」と言うことさえできましょう。なぜなら、イエスにあっては、終末は「すでに」始まっていたからです。この世の支配者はすでに裁かれていたのです。イエスにあっては、神の国が目に見えるしるしを伴いながら、見えない姿で来ていました。共観福音書には、やがて訪れるであろう終末の状況が、黙示的な様相を帯びて描かれていますが、ヨハネ福音書では、パラクレートスによって、これがより霊的な世界へと変容されて実現していると言えましょう。
 御霊の導きのもとに、イエスの出来事のほんとうの意義が、徐々に明らかにされてきたのです。ヨハネ福音書の言う「真理の御霊」が、「あらゆる真理へ導く」と言うのは、この意味です。言い換えると、イエスとイエスを取り巻くユダヤ人たちとの間の黙示思想をめぐる諸問題が、ヨハネ福音書において初めて、はっきりとした形で解決されていると言うことができます。
 ナザレのイエスの出来事は霊的な出来事であり、霊的な出来事とは、目に見える世界を包摂しつつ見えない世界を顕現するものです。この意味で霊的な出来事は、啓示を伴うものと言えます。この場合の「啓示」とは、歴史で起こった出来事でありながら、それが霊的な啓示を伴うことにおいて、過去の出来事を新たに照らし出し、同時に、未来の出来事をも予見させる洞察を与えるものです。
■知恵と黙示のまとめ
 20世紀になって、1920年代から30年代にかけて、知恵思想と黙示思想とに注目したのが、ルードルフ・ブルトマンとC・H・ドッドでした。二人は、イエスの「黙示的メッセージ」 "apocalyptic preachment" に注目しましたが、同時に彼らは、イエスの「知恵の言葉」をも、黙示と併せて解き明かそうとしたのです。ただし彼らは、イエスの語録(Q)には関心を示していません。当初は、イエスの黙示的発言こそが、イエスにさかのぼる「真正な」言葉であると考えられ、「知恵の言葉」は、後からの二次的な「伝承」だと考えられました。また、イエスにおいては、黙示も知恵も「終末的な」様相を帯びていることについて、二人は一致していました。ちなみに、20世紀になって、イエスの終末思想に最初に注目したのは、アルベルト・シュヴァイツァーです〔シュヴァイツァー著『イエス伝研究史』(1911年)〕。
 ところが、1945年に「ナグ・ハマディ文書群」が発見されるに及んで、その中に含まれていた『トマス福音書』が注目されるようになり、『トマス福音書』とQ文書との比較検討が進められるようになりました。その結果、Q文書が、エジプトとパレスチナを含む1世紀の知恵文学の様式に入ることが分かってきたのです。ジェイムズ・ロビンソンは、それを「賢者の言葉」"sayings of the sages"と呼びました〔Mack34~37〕。こうして、Q文書(イエスの語録)が、知恵思想に基づくことが明らかになってきたのです〔Robinson lix~lxvi; "Sapiential Origins of Q and Thomas:Koester, Robinson, and Kloppenborg."〕。
 しかしながら、知恵思想によるQ文書にも黙示的な預言の言葉が含まれていることが分かってきて、1970年代から80年代にかけて、Q文書の言葉は、その多くが裁きに関するものであり、しかも終末的な裁きに関することが次第に明らかになったのです。しかも、Q文書の中で、最古の層に当たるのが知恵の言葉であって、終末的な裁きに関する黙示的な言葉のほうが、実は第二次的であることが指摘されるようになりました〔クロッペンボルグ40~41. John Kloppenborg, Q--Thomas Reader. 1990.〕。原初キリスト教の形成とその伝承過程において、イエスの黙示的な終末預言の言葉が、終末の遅延に応じて次第に知恵思想へと傾いていったと考えられていたのが、このようにして、実はその過程が逆であることが分かってきたのです〔Mack38〕。ただし、知恵思想と黙示思想の両者の関係が、どちらが先か後かで説明できるほど単純でないことは、わたしたちがすでに見てきたとおりです。
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