39章 黙示思想と新約聖書
 
■イエスの知恵とQ文書
 わたしがこのヘブライの伝承を始めるにあたり、最初に考えた題名は「知恵と黙示」でした。「知恵」思想に関心を向けたのは、ヨハネ福音書研究の中からです。ヨハネ福音書にでてくるイエスが、神にして人であるという不思議な合一は、いったいどこから生じたのだろうか? この素朴な疑問から、ヨハネ福音書にある「ロゴスの受肉」は、人間に宿る「神の知恵」というイスラエルの知恵(ソフィア)思想にその起源を持つのではないかと考えたのです。ところが、イギリスへ留学していたちょうどその頃、ロンドンの本屋で、バートン・マックの『失われた福音書Q』(Burton L. Mack, The Lost Gospel. The Book of Q. And Christian Origins. Element.1993.)に出合いました。これは不思議な出合いでした。
 マックによれば、久しい以前から、イエスの教えには「知恵」と「黙示」の両思想が含まれていることが注目されていました。この相反するとも思われる二つが、なぜ結合しているのか? これが聖書学界での謎だったのです。この問題に答えようとした二人の学者が、ブルトマン(Rudolf Bultmann)とドッド(C.H.Dodd)です。ブルトマンは、イエスがほんらい伝えようとしたのは、黙示思想による終末的な神の国であって、知恵はイエス以後の教会による付加だと考えました(1921年)。これに対してドットは、イエスの譬え話の研究を通して、神の国が、終末に向けてすでに現実化しつつある過程にあることを指摘したのです(1935年)。
 その後、「知恵」と「黙示」の融合の謎を解こうとする試みは、1960年代〜70年代に、主としてアメリカで行なわれました。この中で浮上してきたのが「イエス様語録」(Q)です。そこには、格言的な知恵思想と黙示的な宣言の両方が含まれていたからです。これと関連して、「ナグ・ハマディ文書群」の発見(1945年)、とりわけそこに含まれていた『トマス福音書』が注目されました。Qも『トマス福音書』も知恵文学の性格を具えているからです。ほんらいはドイツで生まれたQ文書説が、アメリカで『Q文書の批評的編集』として出版されたのはこのような背景があったからです(James Robinson, et al eds. The Critical Edition of Q. Hermeneia. Fortress. 2000.)。
 Qには、黙示的と預言者的との両方の要素が見られますが、どちらも終末的な「裁き」と結びついています。ところがQを伝承的に解明するにつれて、これの基底には知恵思想があることが分かってきたのです。マックによれば、この文書は「Q宗団」と呼ばれる一つの宗団内で編集されたことになります。彼によれば、ナザレのイエスにさかのぼる知恵思想が文書として編集されるに際して、黙示思想はその第2段階以降に編集の基本原理として採り入れられたことになります。このような想定の下で、知恵から黙示への移行の過程を解明することが、史的イエスと原初キリスト教の成立を知る上で重要な課題になったのです〔Mack ,The Lost. Gospel. 33-37.〕。
 ただし、バートン・マックたちクレアモント学派が見出したイエスの知恵とは、ギリシア哲学のキュニコス派(犬儒派)に近いものでした。しかし、わたしの見方はこれとは異なり、イエスの知恵をヨブ記や箴言から知恵の書にいたるイスラエルの知恵思想にその起源を見出そうとするものです〔フォン・ラート『イスラエルの知恵』参照〕。ナザレのイエスに宿る「恵みと真理の御霊」は、旧約聖書で証しされている「知恵の霊」にその源流を持つもので、わたしこれを「知恵の御霊」と呼んでいます。この「知恵の御霊」はどのような過程を経てわたしたちへ伝えられたのか? これを知るための手がかりとして、「知恵と黙示」をわたしなりに探求し始めたのです。
 『トマス福音書』とQとを比較すると、知恵思想が、『トマス福音書』ではグノーシス的な傾向を帯びているのに対して、Qではそれが黙示的な方向をとります。この見方に立てば、知恵思想は、グノーシスと黙示と、双方向に変容していくことになります。イエスの運動を最初期に伝えたのは、口伝であって文書は存在しませんでしたから、マックによれば、最初期の口伝では、知恵は黙示的でもグノーシス的でもなかったという結論になります。
 ナザレのイエスを通じて啓示された霊的な知恵は、新しい天地をこの地上に到来させるものですから、わたしたちの住む「この時代(アイオーン)」の価値観を転倒させるほどのものです。それはほとんど反文明的、反宇宙的と言ってもよいほどの「霊知」です。このような「霊知」は、宇宙の創造主を「デミウールゴス(半~)」と見て、人間の内に宿る絶対的な「知」をこの宇宙とその半~に対抗させ、人知を究極の存在として志向する「グノーシス」へ向かう傾向を持ちます。しかしマックによれば、イエスの知恵伝承は、「グノーシス」へ向かうのと同じ確率で「黙示」へも向かったことになります。だから、この推定によれば、前者の方向をたどったのが『トマス福音書』で、これを発展させた2世紀のキリスト教的グノーシス文書であり、黙示の方向をたどったのが「イエス様語録」(Q)であり、これを受け継いだのが共観福音書になります。
 しかし、この知恵伝承には、さらにもう一つの流れがありました。それは、知恵と律法との結びつきです。この傾向はすでにシラ書(前190年頃)に見出されますが、第二神殿時代の終わりを告げるエルサレムの滅亡(紀元70年)以後では、知恵はファリサイ派の律法主義と結びついてラビ的ユダヤ教に受け継がれます。ところが、同じ後90年代頃に、ファリサイ派と競合関係にあったマタイ福音書の宗団でも、「知恵」が、新たな律法主義の影響の下で、黙示的でもグノーシス的でもない歴史的な方向をたどり始めるのです。ここから、「歴史において勝利する」ユダヤ=キリスト教への歩みが始まったとも考えられます。マタイ福音書の「神の国」キリスト教は、その後のキリスト教の歴史においてきわめて重要な意味を持ちます。これはおそらく、現代アメリカのいわゆるペンテコステ運動が目指す「勝利するキリスト教」の歴史観へもつながるものでしょう。
 ところで、マックたちが主張するQ宗団とQ文書成立の過程に関する想定は、その後の学界で疑問視されるようになります。ひとつには、そもそも「Q宗団」と呼べるほどの具体的な宗団が存在していたかどうか、この点が確かではないからです。マルコ福音書を成立させたキリスト教の教会さえ、未だその具体像が定まらない状態です〔Collins, Mark. 96-101.〕。Q文書それ自体の存在はすでに広く認められてはいるものの、これを成立させた宗団となると、その具体像が、マックたちが主張するほど確かではないのです。だから最近では、Q宗団の存在は否定されているようです。わたしは、Q文書を成立させたのは、せいぜい「Qの人たち」と呼ぶことのできる人たちだったと考えています。彼らは、イエスの言葉集を通してイエスの生き方に見習おうとした人たちで、最初期のキリスト教徒の中でも、比較的知的な階層の人たちだったのでしょう。
 さらにもうひとつ、マックたちの主張によれば、Qが文書として成立する以前の口伝の段階では、先に知恵思想があって、黙示的な傾向は、後の「宗団」の中で採り入れられたことになります。イスラエル捕囚期以後の旧新約中間期において、知恵思想から黙示思想への移行があったと見ることもできましょう。しかしこの両者の関係は、歴史的に見てそれほど判然とはしていません。ましてイエスの到来以後のキリスト教の中では、このような通時的な過程で知恵と黙示を関連づけることはできません。イエス自身が、イスラエルの黙示思想を受け継いでいるのは確かだからです〔Ehrman, Jesus: Apocalyptic Prophet of the New Millennium. Oxford (1999).〕。
■マルコ福音書の知恵と黙示
〔作者と執筆場所と時期〕「マルコ」という名前は使徒言行録に5回でてきます(使徒12章12節/同25節/13章5節/同13節/15章37節)。使徒言行録によると、彼のヘブライ名は「ヨハネ」で、ギリシア/ローマ名が「マルコス/マルクス」です。彼の母はマリアで、その家はエルサレムにあり、ペトロは、牢屋から逃れてすぐにこの家を訪れています。パウロとバルナバは彼を伴ってアンティオキアに戻り、二人は彼を第1回伝道旅行に伴いましたが、小アジアの港ペルゲに着いたとたん、どういうわけか彼はそこからエルサレムへ戻ります。このためか、第2回伝道旅行では、パウロは彼を伴うことに反対し、バルナバはパウロと別れて、マルコと共にキプロスへ向かいます。彼は「バルナバの従兄弟」であり、後にはパウロの同労者としてエフェソに留まっています(コロサイ4章10節)。このことから、おそらく彼はフィレモンへの手紙24節の「マルコ」と同一人で、第一ペトロ5章5節で、彼は「わたしの子マルコ」と呼ばれています。
 マルコが、ペトロの通訳として同伴し、ペトロから伝えられた主イエスについての伝承を覚えていて、マルコ福音書を著わしたという伝承が、130年頃のパピアスの証言としてエイレナイオスが伝えています。この証言は、上に引用した使徒言行録その他の箇所とも符合しますから、信憑性が高いと思われます〔James Edwards, The Gospel According to Mark. The Pillar NT. Commentary. Eerdmans (2002).3-5.〕。この伝承によれば、マルコが福音書を著わしたのは、エルサレムの滅亡が間近に迫った紀元70年頃で、その場所はローマだとあります〔Ezra Gould, The Gospel According to St.Mark.ICC. T&T Clark (1896). xvi-xvii. 〕。
 ただしこの説は、従来、四福音書の名前は、ほんらい文書とは関わりがなく、それらを正典に加えるための便法として権威ある使徒たち、あるいはその他の名前から借りてきて冠せられたにすぎないという主張の下に退けられてきました。となれば、上にあげたマルコなる人物とマルコ福音書とはかかわりがないことになりましょう〔シュヴァイツァー『マルコによる福音書』 NTT(1976年)20〜21頁〕。
 しかし、このような架空の作者名「に違いない」説は、福音書のジャンルの研究が進むにつれて、逆その想定こそが「違っている」と見直されるようになりました。四福音書は、それぞれ内容に差異があるものの、これらはいずれも共同体に宛てた「公的な」文書であり、それゆえに、たとえ作者自身が、自分の著作であるとその文書に記さなかったとしても(匿名性はヘブライの伝統です)、それが誰によって書かれたのかが重要視されたのです。マルコ福音書には「最初から」一貫して現在の名前がつけられているのはこの理由からで、この福音書の出所を明らかにするものとして作者の名前で呼ばれてきたのです。だから、使徒言行録のマルコとコロサイ人への手紙とフィレモンへの手紙のマルコとは同一人物だと見なすことができます〔Collins, Mark. 2-6.〕〔France, The Gospel of Mark. NIGTC(2002).7-9.〕。したがって、先に述べた「一昔前からの」グールド説は正しいと考えられています。ただし、執筆の場所としては、ローマのほかにシリアのアンティオキアも考えられます。
〔マルコの語り方〕
 マルコ福音書が語るイエスは、そのまま史実であるとか、逆に、非歴史的な神学であるとか、神話的イエスであるとか、20世紀の視点から見た実存的共同体だとか、様々なマルコ福音書論が提示されてきました。しかし、現在では、マルコ福音書は「歴史物語」に属していて、しかもそれは、イエスが歴史物語化される初期段階の作品だという結論にいたっています〔Collins, Mark. 33-35.〕。
 ただし、イスラエルには、ギリシアのヘロドトスが書いたような歴史を伝える伝統がありませんでした。このため、イスラエルでは、過去の出来事を正確に伝える「歴史」ではなく、民族的あるいは共同体的な偉業を成した者を物語化する手法が用いられたのです。前6世紀半ば頃に、モーセから王朝時代を経て捕囚期にいたるイスラエルの歴史を神学的に解釈した「歴史物語」が誕生しました。例えば、旧約聖書のダビデとダビデ王朝の宮廷史がこれにあたります(サムエル記上16章〜列王記上11章)。しかしこれは、ダビデ王朝時代に書かれたものではなく、後に申命記史家たちによって編集され記されたものです。そこで採られている方法は、様々な口伝や文書による伝承を作者が比較的自由に組み合わせることで、モザイク状の諸伝承から一つの歴史物語を形成するやり方です。そこには、ダビデ王朝の王権イデオロギーが、これに対する批判をも含めて描かれています。この手法は、ヤハウィストによるアブラハムたちの族長物語やモーセ物語から、申命記史家たちによるサムエル、士師からエリヤ/エリシャなどの預言者の物語にも用いられています。
 旧約聖書のこのような歴史物語の語り方こそ、マルコ福音書に用いられている語りの手法です。マルコは、イエスに関する様々な諸伝承、例えばイエスの言葉、譬え話、受難伝承、奇跡(しるし)伝承などを組み合わせて、これらをイエスの死と復活による救済の出来事として著わしたのです。だから、マルコは、申命記史家たちに倣(なら)って、諸伝承を神学的な視点から「共時化/総合した」"synchronize"ことになります〔Collins, Mark. 38.〕。マルコは、イエスを神と民との間を仲保する最後の最大の預言者として描きました。マルコ福音書では、イエスの歴史的な出来事が、<神の約束の言葉が実現した>出来事なのです。ただしマルコ福音書では、ダビデの物語とは異なって、イエスは、神の直接的な支配から比較的に独立した個人として描かれています。しかもイエスの生涯は、神の定めた計画に従っているのです。旧約聖書とのこの違いは、例えばヘロドトスなどヘレニズムの歴史家の影響を受けているからでしょうか。また、マルコ福音書がその著者の名前を記さない「匿名性」も、ヘブライの聖書的な伝統に従っています。
〔マルコ福音書の預言者イエス〕
 旧約聖書の預言者たち以後には、預言者の時代はひとまず途絶えます。預言が復活するのは、第2神殿期で「主の終わりの日」が近づいたと信じられる頃からです(紀元前1世紀)。これは終末的なメシアの到来預言と関連します(申命記18章18〜19節/詩編146篇7〜9節/イザヤ61章1節)。だからこれは「終末的な預言者としてのメシア」の到来を指します。ヨセフスは、この間の預言者について、洗礼者ヨハネのような真正の預言者の活動(後26〜29年頃?)から〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻5章2節〕、チュウダ(後45年頃)やアナニアスの息子イエスのような偽預言者にいたるさまざまな例をあげています。何よりもヨセフス自身が、自分に与えられた預言の霊を信じていました。
 マルコ福音書の預言者像には預言者エリヤ像が重ねられています。洗礼者ヨハネ(マルコ1章6節)とエリヤ(列王記下1章8節)、荒れ野へ導かれるイエス(マルコ1章12節)とヨルダンの東に逃れるエリヤ(列王記上17章2〜7節)、弟子たちを呼び出すイエスと(マルコ1章16〜20節)、エリシャを呼び出すエリヤ(列王記上19章19〜21節)などの類似です。ライ病の癒しには(マルコ1章40〜42節)、預言者エリシャによるナアマンの癒しの例を見ることができます(列王記下5章)。
 マルコ福音書のイエスは、預言者を超えるメシア的存在ですが、それでも、そのイエス像には、終末的な預言者像を見ることができます。イエスが宣べ伝える「神の国の<福音>」(マルコ1章14節)は、イザヤ書61章1節の七十人訳にある「貧しい者たちに<福音する>」から出た名詞であり、これは同52章7節の七十人訳「善い福音として、平和を伝える福音の足」と関連します。マルコ1章14節とイザヤ書52章7節/同61章1節とを結ぶと、そこには、神から遣わされて福音を伝える預言者と、伝える預言者自身が実はその福音の内容でも<ある>という、二重の意味での「メシア的預言者像」を見ることができましょう〔Collins, Mark. 47.〕。
 しかもこのメシアは、「終末的な預言者」です。悪霊追放も終末的な預言者の特徴で(マルコ1章23〜24節)、これは直接旧約聖書にその例を見ることはできませんが、第二神殿時代の後期には、アブラハムがエジプトでファラオの悪霊を追い払ったとされ、ダビデ王やソロモン王さえ、悪魔払いを行なったと信じられていました〔Collins, Mark. 49.〕。ただし、ここに見るマルコ福音書のイエス像は、旧約時代の預言者の伝統を受け継いではいるものの、むしろ終末的なメシアの性格のほうが強いと言えましょう〔Collins, Mark. 50.〕。特にマルコ13章以下のイエスは「黙示的な預言者」と呼ぶこともできます(マルコ13章1〜31節/14章62節)。
 このように見ると、マルコ福音書のイエス像には、旧約の伝統的な預言者像と同時に、黙示的でカリスマ的メシア像が重ね合わされていることが分かります。この二重性は、おそらく旧約のダビデ王権思想にさかのぼる「カリスマ的メシア」像と、逆に旧約の反王権的な預言者像との不思議な結びつきから生じたのではないかと考えられます。
〔マルコ福音書のメシア・イエス〕
 イスラエルの王権は、前586年の新バビロニアによるエルサレムの滅亡で事実上途絶(とぜつ)します。捕囚からの帰還後に、ダビデ王朝の子孫ゼルバベルが、ペルシア帝国によってユダヤの総督に任命されます(前538年)。ハガイとゼカリヤは、彼をメシア的王権と見なしましたが(ハガイ21章21〜23節/ゼカリヤ4章6〜11節)、ユダヤ内の指導権は、事実上大祭司に移ります。その後2世紀半ば頃に、ギリシア系の王権の弾圧に対抗して、マカバイの独立戦争が起こり、その結果ハスモン王朝が誕生しました(前143/2年)。そこで再びユダヤに、ダビデ的王権の復活への希望が芽生えます〔Collins, Mark. 53.〕。前1世紀の初め頃からのクムラン宗団の文書『イスラエルの一致規定』(『<宗団>規定』は適切な訳語ではない)では、エルサレムの神殿に対抗して、光の子たちによる真のイスラエル共同体が、「アロンとイスラエルのメシア」に導かれて地上に顕われることが期待されています(Deas Sea Scrolls:1QS.Col.9.7-10.)〔DSS(2)130-31.〕。
 さらに重要なのは、『第一エノク書』37〜71章の「たとえの書」(前1世紀末〜後1世紀初め?)に出てくる単数の「義人」「選ばれた者」です(『第一エノク書』38章1〜2節など)。この「たとえの書」の「選ばれた者」がイザヤ42章1節の「選ばれた者」と同一視され、これがイザヤ書の「主の僕」と結びつきます。こうして、「たとえの書」において初めて、イザヤ53章の「主の僕」が終末的なメシアと結びつくことになります。『第一エノク書』の「選ばれた者」は、イスラエルの王位に即位しますが、彼は「知恵の啓示者」とも呼ばれていて(『第一エノク書』51章3節)、「人の子」(同46章1〜3節)とも同一視されています〔Collins, Mark. 59.〕。
 ただし問題があります。それは、『第一エノク書』のメシアはイザヤ書に見る「<受難の>僕」とは言い難いことです。『第一エノク書』の「贖う者」は、クムラン宗団の「ソロモンの詩編」に出てくるダビデ的メシアに近い存在で、「一致の民/共同体」の敵を打倒することが期待されているからです。しかもそこに出てくる「人の子」は死者の復活と新天新地を待望させる新たな時代(アイオーン)をもたらすのです。さらにこの「人の子」は、「世の初めから隠されていた者」ですから、彼は、「先在の人の子」とも言える存在です(詳細は第4部「人の子伝承」に譲ります)〔Collins, Mark. 60-61.〕。これから、『第一エノク書』の「人の子」とは、神に選ばれ贖われた共同体が、終末的な裁きに先立って、王たちや権力者たちに向かって顕われて、その者どもを驚かせるのです(知恵の書5章1〜9節参照)。
 第四エズラ記(ラテン語エズラ記)の7章26〜44節では、メシア(キリスト)が、マルコ13章と同じ黙示的な状況にあって、彼を信じる共同体と共に終末の時に顕現します。ところがこのメシアは、直接終末的な裁きに関わることがありません。興味深いのは、このメシアが「死ぬ」と預言されていることです。受難の死は、伝統的に預言者に帰せられていますから、それだけここでの「メシアの死」が注目されています。
 しかもこのメシアは、同11章36〜39節では、邪悪な鷲(ローマ帝国)を打ち負かすライオンの姿で顕われます(ヨハネ黙示録5章5節の「ユダのライオン」を参照)。しかもライオンの姿をしたこのメシアは、世の初めから先在していると解釈されています〔Collins, Mark. 62.〕。このようにユダヤ教のメシア像には、一貫して「勝利するダビデ王権」のメシア像が流れていると言われていますが、このメシア像が、マルコ1章7〜8節の「聖霊によってバプテスマする」イエスに反映していると見る説があります〔Collins, Mark. 62.〕。
 「受難の死の預言者」と「勝利するメシア」、この二つが結合しているのが、マルコ8章27〜33節のペトロのメシア告白の場面でしょう。このようなメシア像は、ユダヤ教には見られないマルコ福音書独特のものだと言えますから、これこそが、ナザレのイエス自身に宿るメシアの霊性であったと考えられます。マルコ福音書でのペトロは、この結びつきを理解することができません。マルコは、復活信仰の視点から想起して、この事態を「メシアの秘密」として描いています。このように、マルコ福音書では、伝統的な「人の子」が「神の子」と同一化されるのです〔Collins, Mark. 69-70.〕。
〔マルコ福音書の教師イエス〕
 捕囚期以後には、預言者たちもカリスマ的な指導者として、「教師」と呼ばれるようになります。『第一エノク書』の「たとえの書」でも、メシアが啓示を伝える「教師」と呼ばれています。このように、捕囚期以後の第二神殿時代では、祭司やレビ人たちが、エルサレムやパレスチナのその他の地で、民に律法を教える「教師」として訓練されるようになりました(申命記33章8〜11節/シラ書45章15〜17節)〔Collins, Mark. 73.〕。紀元前200年頃のエルサレム神殿には、「神殿書記/学者(グランマテイス)」と呼ばれる、律法の専門家たちがいました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』12巻3章3節142〕。このような神殿所属の律法学者たちとは別に、エズラたちの努力による民への律法普及によって、律法が、従来の家族内での教訓から「私塾/学校」で教えられるようになります。シラ書の著者ベン・シラは、律法を教える「専門家」ではありませんでしたが、民を広く教化するイスラエルの市井(しせい)の「知恵の教師」の一人だったのでしょう〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』20巻12章1節263〜65〕。このような「教育」の重要性は、ヘレニズム世界に共通する認識だったと言えます〔Collins, Mark. 73-74.〕。
 イエスの頃は、ギリシア語「グランマテウス」(ヘブライ語「スーファル」、アラム語「スーファラー」)は、「律法に通じた人」のことを指し、「スーファリーム」(複数)は、律法に基づいて読み書きを教える「教師」のことです。彼らは「ホフミーム」(賢者たち)として「知恵の教師」でもあったのです。
 しかし、マルコ福音書でイエスは、ギリシア語「ディダスカロス」(教師/先生)の呼格「ディダスカレ」と呼ばれています(4章38節/5章35節/9章17節/同章38節/10章17節/同20節/同35節/12章14節/同19節/同32節/13章1節/14章14節は定冠詞付き)。また「ラビ/ラボニ」とも呼ばれています(9章5節/10章51節/11章21節/14章45節)。「ディダスカロス」は、一般的な意味ではなく、ある特殊な技能や能力を有する場合に用いる用語です。このギリシア語は七十人訳では希で、2回ほど用いられていて、七十人訳のエステル記6章1節に「王は自分のディダスカロスに宮廷の記録を読み上げさせた」とあります。ただしここのヘブライ語は「セフェル」(書記)の意味です。また、第二マカバイ記1章10節には「プトレマイオス王の<師>」とあります。
 ヘブライ語「ラーメド」(学ぶ/研究する)の強勢のピエル態「ルメッド」(教える/訓戒する)は、七十人訳の後期のラビの用法では、律法によって神からの秘義を解き明かすことを意味します。クムラン宗団の文書に、「だから彼(神)は彼ら(イスラエルの残りの者たち)のために義の教師を立てて、彼らを彼の心に適う道へ導くであろう」とありますが(The Damascus Document. Col.1.11)〔DSS(2)52.〕、ここで言う「義の教師」とは、まさにこのような教師のことです。この場合の「教師」は、個人あるいは特定の共同体と神との関係を教示する人を指すのですが、マルコ福音書では、このラビ的な意味での「師」(ディダスカロス)が用いられていて、しかもイエスの場合は、必ずしも個人/宗団に限定されてはいないようです(マルコ12章14節)。特にナザレの会堂で「教えた」とあることなどから判断すると、イエスは、神の隠された「知恵」を教える教師であり(マルコ6章2節)、弟子たちに「神の国の奥義/秘義」を解き明かす教師です(4章33〜34節)。だから、マルコ福音書で言う「教師」とは、終末的な奥義/秘義に通じた霊能の賢者であって(13章1節)、聖書を解き明かすことのできる人を指すことになります〔Collins, Mark. 75-76.〕。
 マルコ福音書のイエスの伝道の仕方は、8章29節でのペトロのメシア告白を境に分かれます。前半は巡回の旅であり、後半は、エルサレムへまっすぐに向かう旅です。巡回の伝道は、ギリシアのキュニコス学派の哲学者たちの採った方法と類似していると指摘されていますが、その教えの内容は、ギリシアの哲学者たちと異なっていて、終末的な神の国と、悔い改めを説くことでした〔Collins, Mark. 77-79.〕。
〔マルコ福音書のナザレのイエス〕
 以上から、「マルコ福音書のナザレのイエス」とはどのような人物なのかを探りたいのですが、「マルコ福音書のナザレのイエス」という言い方それ自体が、すでに問題を含んでいます。なぜなら、マルコ福音書が描く「マルコのイエス」と歴史的に実在した「ナザレのイエス」との関係がここで問われるからです。しかし、マルコ福音書の<作者自身の意図>は、まさに自分の信じる「ナザレのイエス」をそのままの姿で伝えようとすることです。ただし、その際に、彼は自分の聴衆/読者を念頭に置いていますから、彼らのヘレニズム的な傾向をも意識していたと思われます。例えば、マルコ1章14〜15節では、イエスが神から遣わされた終末的な預言者であると同時に、これに続く弟子たちの召命の場面も、エリシャがエリヤに従った記事に倣ってはいるものの、クセノフォンがソクラテスの弟子となる場面とも共通するところがあると指摘されています〔ラエルティウス『優れた哲学者たちの生涯』2巻48〕〔Collins, Mark. 74.〕。
 初めに述べた通り、イエス様語録(Q)には「知恵」と「黙示」の二つが受け継がれており、Qの人たちは、イエスの言葉を「知恵の教師」の教えとして受け継いでいました。マルコは、この「知恵の教師」が、実は終末に到来する「メシア」であり、またその到来を預言されていた「大いなる預言者」であると語ることで、Qの人たちをして、イエスがキリスト=メシアであり、その死は彼らのためであったことを納得させたのです。知恵の子イエスと復活のキリスト、マルコ福音書ではまだ不完全であったこの二つの結合をより徹底させて、イエス・キリストを「知恵のロゴス」の地上への来臨と受難による復活と栄光の主として描くことで、キリスト教神学の核心を完成させたのはヨハネ福音書です。
■ナザレのイエス像
 以上のマルコ福音書の中から見えてくるナザレのイエスの実像とはどのようなものでしょうか。わたしたちは、イエスについて、その出来事の「エピソード」(短い記録)と、イエスの言葉や譬えなどを通して、イエスの生涯の輪郭を描くことはできますが、それ以上に、現代的な意味で言う「歴史的な」イエス像を描くことは容易でありません。四福音書の記者たちは、旧約聖書の預言の成就者としてイエスを描いています。けれどもこのことは、何よりもイエス自身が、そのようなヘブライの伝承を信じて、そこから降る霊性に活かされていたことを証しするものです。福音書の記者たちは、ナザレのイエスの実像を保持しようとして、彼らに伝えられたイエス伝承をできるだけ忠実に記録して、「自分たちの知っている」福音を伝えようとしました。
 イエスの実像とそこにこめられた霊性は、旧約聖書と、四福音書と、新約聖書の諸書簡、という6面体の聖櫃(せいひつ)に閉じ込められています。だから、わたしたちそれぞれが、この箱に納められている出来事とその意義を祈りと信仰によって外から透視することになります。結果としてそこには、観る人の数だけのイエス像が生じます。それはどれも「おぼろ」でしょう。しかし、たとえおぼろで不完全でも、わたしたちには、神からの不思議な恩寵によって、あえてそのような透視によって「イエスを信じる」ことが許されているのです。だから私も、手元に与えられている文献から拾い集めて、これらをサンダースの『歴史的イエス像』〔E.P.Sanders, The Historical Figure of Jesus. Penguin Books (1993).〕を参考にしながら整理したものを提示することにします。このような方法で、歴史的なイエスの実像にいくらかでも迫ることができるとすれば、それは次のようになるでしょうか。
 イエスを初めとして、イエスに従った弟子たちは、洗礼者ヨハネの影響を受けています。洗礼者ヨハネは、当時のエッセネ派と関係があったと思われます。洗礼者もまた黙示的な信仰によって、その預言活動を行なっていました。だから彼は、終末の裁きを間近にして、「今すぐに心を入れかえて、裁きに備えて悔い改めの生活をせよ」と説いたのです。これに対してイエスは、「父があなたを愛しているのを先ず知ること」を人々に教えました〔Sanders,233-24.〕。これは、洗礼者の「黙示的な裁き」ではなく、イエス独自の「黙示的な愛」の教えでした。
 洗礼者は「メシア」の到来を告知しましたが、彼が言う「メシア」とは、クムラン宗団から受け継いだ祭司系のメシアのことです。イエスの伝道活動でも、人々から「メシア」到来への期待がイエスに寄せられました。しかしイエスに期待されたのは、祭司系ではなく、ダビデ系の「メシア」でした。イエスの頃のパレスチナでは、アラム語の「マシアハ」(油注がれた者)は、ダビデ的な王権に近い意味を含んでいたからです。ただし、イエスの時代の「メシア」とは、「何らかの使命」を帯びて神から油注がれた者、という意味以上の存在ではなかったようです。だから、「メシア・イエス」のような<称号>は存在しませんでした。イエスの弟子たちも周囲の人たちも、イエスが「何らかの使命を帯びた」メシアであるとは思っていたでしょうが、イエス自身が、自分の称号として「メシア」を用いたことはないと思われます。「私を誰だと思うか?」(マルコ8章27〜30節)とイエスが弟子たちに尋ねたのはこの理由からです。とは言え、四福音書からイエスの言葉を採りだして、これはイエスにさかのぼるとか、後からの編集だとかを決定することは不可能です。なぜなら、わたしたちは、イエスが「言わなかった」と判断することなどできないからです〔Sanders, 176.〕。
 四福音書が証言する通り、洗礼を受けて「聖霊が降る」体験をした後で、イエスは何よりも「御霊の導き」に従っています。「我をここに導きしもの、ここからも導き給う。他にしるべを求めじ」とは、詩人ミルトンが『楽園回復』(1巻335〜36行)でナザレのイエスに語らせている言葉です。続く荒れ野での40日の試練の記録が、どこまでイエス自身から出ているのか、どこから最初期のキリスト教徒たちが創出したのか、これを見分けるのは難しいです。イエス自身がそのことを弟子たちに語ったことも十分ありえるからです〔Sanders,112-13.〕。
 ガリラヤでのイエスの伝道活動は、各地の会堂を訪れる巡回の旅でした。ユダヤ教の会堂は、必ずしも「神聖な」場所ではなく、そこで人々が、集まり、食事をし、語り合い、祈り、賛美を献げる場で、いわば現代の市民ホールのような役割を果たしていました〔Sanders, 99.〕。
 イエスの一行が行く先々では、彼らに食事と宿泊を用意する人たちが現われました。イエスは、どの町、どの村に入っても、そこで人々と食事を共にし、癒しと悪霊追放の霊能の業を顕わしました。当時のユダヤ教では、ダビデやソロモンは、癒しや悪霊追放の霊能を有していたと信じられていましたから、霊能者は、この「ソロモンの知恵」を受け継ぐ人と見なされたのです。だからイエスは、エリヤのような奇跡を行なう預言者であり、同時に知恵の教師でもあったのです。ただし、イエスの時代で、イエス以外に同様の霊能活動を行なった人物は知られていません。ガリラヤを中心にして、イエスが癒しと悪霊追放の霊能者だと信じられたのはこのためでしょう。また、イエスが行なった奇跡について言えば、この時代には、自然と超自然との区別が判然としていませんでしたから、「霊の働き」は、自然と超自然の両方を含む世界に及ぶものでした〔Sanders, 142.〕。
 イエスは教会をも教団をもつくろうとはしませんでした。イエスの伝道活動は、一つの「運動」だと見なすほうが適切です。しかも、イエスが伝えた教えは、罪人と正しい者との立場が入れ替わるほどの黙示的な転倒でした。それは、「最初の者が後になり、後の者が最初になる」という不思議な価値観の逆転だったのです〔Sanders, 196.〕。イエスは人々に倫理的に「完全であれ」と教えました。しかし、この「完全」を人間的に誤解してはなりません。なぜならイエスが言うのは「父の完全性」のことであり、父は慈悲深く憐れみ深い方だからです〔Sanders, 204.〕。このような「父の憐れみ」は、後にパウロが「神の義」と呼ぶものですが、そこには、イエス独自の黙示思想による逆転の発想があります。
 ここで問題になるのは、イエスの霊能活動と、当時のユダヤの律法制度との関係です。イエス自身は、律法に対してかなり柔軟な姿勢で臨み、霊能活動においても、律法を柔軟に適用しようと意図したと思われます。だからイエスは、己の律法解釈に従って、モーセ律法の規定を守って癒やしを行なったのです。イエスの教えは、その真意をたどるなら、ユダヤ教の律法の廃止とは直接に関係しません。
 共観福音書によれば、イエスは、伝道開始の最初から、ファリサイ派や律法学者たちと正面から衝突したことになります。しかし、サンダースはこの点に関して否定的です。例えばマルコ2章1〜12節の安息日の癒やしが、当時のファリサイ派の殺意を引き起こしたとは思えないと言います。ファリサイ派の中の一部の厳格派が、イエスの柔軟な律法理解に反感と怒りを抱いたというのが真相かもしれません(ルカ6章11節を参照)。イエスに敵対した「狭義の」ファリサイ派は当時6000人ほどいたと思われますが、彼らファリサイ派は、イエスの裁判に直接関与していないことにも注意しなければなりません。イエスは律法学者やファリサイ派の「知恵」に対して、霊的権威のある「黙示的な知恵」で挑戦しました。だから、イエスとファリサイ派との衝突が、結果としてイエスを死に追いやったという見方は、福音書が書かれた頃の教会とファリサイ派との関係がそこに反映しているというのがサンダースの見解です〔Sanders,214-15.〕。
 けれども、ナザレのイエスと当時のファリサイ派との衝突には、その当時のユダヤ教の律法制度の実態が関係します。この時期のユダヤ教の律法制度は、第二神殿時代の過渡期にあたりますから、現在でもこれの実態はなかなか掴めないようです(例えばマルコ7章11節の「コルバン制度」)。だから、共観福音書が証しするイエスとファリサイ派との衝突が、実際にどのようなものだったのか、その実態は断定できません。
 イエスは、ローマに対する反乱の支持者ではありませんでした。この点でいわゆる「熱心党」とは異なります。しかし、イエスはカリスマ的な「メシア運動」の指導者と見なされ、神殿を中心とする社会制度の基盤に異議を唱える「預言者」だと思われていましたから、当時のユダヤ教の指導層と対立したのです。だからイエスを受難に追いやったほんとうの原因は、律法よりも彼の神殿制度に対する姿勢にあります。
 イエスは、黙示的な意味で、真のイスラエルの民のために「新しい神殿」が実現すると信じていたのです(『第一エノク書』90章28節以下参照)。だからイエスが、受難に先立って、エルサレム神殿の滅亡を預言するような何らかの発言をし、かつそのように行動したのは確かでしょう(マルコ11章15〜19節/同13章1〜2節)。それが正確にどのような言動だったのかを見定めるのは、今となっては難しいですが〔Sanders,258.〕。
 イエスの終末思想について言えば、イエスは、終末から神と人間の関係を規定したのではなく、逆に神と人間との交わりから、終末を間近に待ち望んだと言うほうが正しいでしょう。新しい救いが<すでに>始まっていると説いたのは、初期ユダヤ教ではイエスただ一人です。救いの時はすでに始まっている(マタイ11章2〜6節)。しかし救いは<まだ>完成してはいないのです。この「すでに」と「まだ」は、両方とも、神の御手にあります。神はそのような「時」に左右されないのです〔Sanders,170-71.〕。イエス自身は、自分に働く霊的な出来事の実相をこのように理解していたと思われます。だからその出来事は、神にあって「宇宙的な」広がりを持つことになります〔Sanders,173.〕。ここに人の子の来臨と再臨の曖昧性があります。マルコ福音書が伝えるほど、弟子たちがイエスの霊性について全く無知だったとは思えませんが、彼らがイエスを十分理解していたとも思えません。事実はおそらくその中間でしょう〔Sanders, 124.〕。
 イエスがエルサレムに入ってから、人々は彼を「ダビデの子」として迎えました。ただし、「ロバの子」に乗ってエルサレムへ入城したことは、イエスが「王」であること、しかも、軍事的な権力の王では「ない」こと、この両方を意図していたのです〔Sanders, 242.〕。
 イエスは素直に父と子との一体性を受け容れていました。だから自分が「神の子」だと呼ばれても、この呼び方を容認したのです(マタイ11章25〜27節)。イエスが逮捕された後でも、父がいつでも天使を遣わしてくださると明言したのは、この父子一体性からです(マタイ26章53節)。マタイ福音書は、イエスを信じる人たちがイエスに対して抱いていた信仰を忠実に伝えています〔Sanders,162.〕。イエスが弟子たちに、このような父への信頼を教えたことが、弟子たちをして、彼を「神の人」あるいは「神の子」と信じさせた理由でしょう。イエスは彼らに、自分が行なう霊能の業こそが、神の国の到来のしるしであると告げたのですが、弟子たちがイエスの言う神の国の到来を確信できたのは、イエスの復活信仰を体験してからのことです〔Sanders,165.〕。
 イエスは自分を「受難の人の子」と見なしていました。しかし、サンヒドリンは、イエスを処刑する方針は固めましたが、処刑の明確な決定を下してはいません(ルカ22章2節参照)。彼の処刑の最終判定はピラトによるものです。
 イエスは、自分が宣べ伝えている「神の国」の指導者であることを自覚していたのは確かです。だから、イエスが復活した後に、弟子たちは、「神の国の王」という意味で、最高の尊敬をこめてイエスを「メシア」(=キリスト)と呼んだのです。しかし、イエスの在世中にあっては、「メシア」にせよ「神の子」にせよ「人の子」にせよ、<このような意味で>用いられた例はありません〔Sanders, 240-43.〕。
 生前のイエスについては多くが謎であり、その霊性は「神秘」のヴェールに包まれていますが、それにもまして、イエスの復活ほど、謎と神秘に包まれた出来事はありません。しかも、それは、まぎれもなく「確かな体験」であり、そうであればこそ、再臨の遅延にもかかわらず、復活したイエスの臨在体験が消え失せることなく、神学的な反省を経て現在に伝えられているのです〔Sanders, 280.〕。
 共観福音書の作者たちが、イエスをユダヤ的な救済史の枠組みにおいて描いているのは確かです。なぜなら、イエス自身が、自分に与えられた神の御霊の働きを「ヘブライの伝承」に置いていたからです。だから福音書の記者たちが、「史的イエス」をば、後になって「神学(霊)的に」描いたと考えてはなりません。なぜなら、イエス自身が、己の霊性を神学的に理解していたからです〔Sanders, 97.〕。
 以上のことから判断するなら、「黙示」と「知恵」とを対照させるべきではありません。黙示思想は、預言と知恵とが収斂(しゅうれん)するところに生じたものだからです。ユダヤ黙示/啓示文学と知恵文学とは、相互に影響し合っています。だから、イエスの終末性と黙示性とを含めて、イエスのすべてを包括する適切な用語があるとすれば、それは「霊知の人」でしょう。このような「賢者」と黙示的先見者との間には、本質的な対立は存在しません。
■マタイ福音書の黙示的特徴
 以上黙示思想から見たナザレのイエスの霊性と、これに続くキリスト教の流れについて述べました。ここからは、新約聖書の諸文書に表われた黙示的な特徴をごく簡単に指摘するに止めます。
 マタイ22章11〜13節では、礼服を着ないで王子の婚礼の席に入ってきた者に対して、王は「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と命じています。ここにでてくるマタイ福音書の伝承は、『第一エノク書』のアサエル伝承を知っていたに違いないでしょう。『第一エノク書』10章4〜5節では、至高者が天使ラファエルに命じて、悪霊どもの頭アサエルを閉じ込めるように命じて、次のように言います。「ラファエルよ、行ってアサエルの手と足を縛り、彼を暗闇に放り出せ。ドゥダエルの荒れ野に穴を掘り、彼をそこへ投げ込め。彼(の上)に鋭いぎざぎざの石を入れてやれ。彼を暗闇で覆い、何時何時までも彼を住まわせておけ」〔Nickelsburg(3)28〕。
 マタイ23章で、イエスは律法学者とファリサイ派に向けて、「禍(わざわい)なるかな〜」で始まる一連の厳しい弾劾の言葉を浴びせますが、ここは、『第一エノク書』98章9節〜99章2節に出てくる一連の「禍なるかな」を想起させます。マタイ25章31〜36節で、人の子が終末の裁きの席に着いた時に、正しい者たちと悪い者たちとを「羊と山羊を分ける」ように選り分けます。この場面は、『第一エノク書』62章に出てくる裁きの場面に類似しています。そこでは、もろもろの霊の主による裁きの日に、主に選ばれた正しい者たちを苦しめた地上の王たちや権力者たちが、恥で顔を覆われ、主の天使たちから罰を受けます。一方、主に「選ばれた正しい者たち」は、もはや顔を伏せて嘆くことがなく、栄光の衣をまとうのです〔Nickelsburg(3)79-80〕。
■ルカ福音書の黙示的特徴
 『第一エノク書』97章7〜10節には、不正に金銀を獲得する富める者たちの姿が描かれていて、彼らに「禍だ」が向けられます。この場面は、ルカ6章24〜26節で語られるイエスの平地の教えの中に反映していると思われます。ルカ福音書では、マタイ福音書とは異なり、禍(わざわい)を宣告されるのは、イスラエル内部の指導者たちではなく、より広く富める者、飽き足りている者、楽しげに笑う者、人々から誉れを受けて喜ぶ者たちですから、この点で、ルカ福音書のほうが、マタイ福音書よりも『第一エノク書』に近いと言えましょう。
 ルカ福音書でイエスは、悪魔(サタン)との闘いに勝利しますが(ルカ4章13節)、イエスの受難を前にして再びサタンが戻ってきます(ルカ22章3節)。その間、神とサタンとの闘争が、イエスとユダヤの指導層とのそれに置き換えられます。しかしサタンは完全に敗北して(ルカ10章19節)、イエスは天において霊的な権威(王位)を授けられ、再び地上に降るのです(使徒言行録1章9〜11節)。これは、そのまま「人の子」が勝利して、彼によって地上の権力者たちが裁かれるというダニエル書の図式に通じるものです。
 ルカ23章35節では、人々が十字架のイエスに向かって、「もしもお前がメシアで、<選ばれた者>なら、自分を救うがよい」と嘲ります。『第一エノク書』には、エノクが天に昇って、そこで義人たちが天使たちと聖なる方と共に住まう場所を見る場面があります。「するとその所で、わたしの眼は<選ばれた方>(単数)を見た。彼の前には数知れぬ義人たちと選ばれた者たちがいた」(『第一エノク書』39章6節)とあります。ルカ福音書がここで言う「選ばれた者」には、『第一エノク書』のこの「選ばれた方」が反映している可能性があります。
 ルカ23章47節で、イエスの十字架上の死を目撃した百人隊長が、「この人は正しい人だった」と証言します。ここの「正しい人」は、四福音書でルカ福音書だけに出てくるので、その意味が注目されています。ここの「正しい人/義人」は、『第一エノク書』の「たとえの書」にでてくる「正しい方/義人」(単数)と類似しています。『第一エノク書』では、諸々の諸霊の主である「聖なる方」によって、「正しい者たち」の会衆が顕われ出ると同時に、罪人たちが裁かれます。まさにその裁きの時に、「義人たちの目の前に<正しい方>が顕われる」(『第一エノク書』38章2節)のです。このように、ルカ福音書にでてくるこれら「選ばれた者」と「正しい人」には、『第一エノク書』の反映を見ることができます〔Nickelsburg, 1 Enoch. 84〕。
■エフェソ6章19節
また、わたしのためにも祈ってください。
口を開いてみ言を語り
大胆に福音の神秘を
知らしめることができるように。
        (エフェソ6章19節)
 エフェソ人への手紙の作者は、先にはエクレシアの人たちの戦いが、人間の力の及ぶところではない霊力との戦いであると告げてから、戦いの武具を列挙し、その締めくくりに「福音の奥義」を大胆に語ることで、これを開示できるように祈ってほしいと求めています。人間の力が及ばない世界とは、黙示思想が伝える霊的な世界の特徴です。「黙示」とは「アポカリュプシス」、すなわち「啓示」のことですから、黙示文学は啓示文学と訳すほうが分かりやすいでしょう。「啓示とは何か?」と問われるなら、これを現代の哲学的な言い方では「主観と客観とが一つになっている世界」と言い換えることができましょう。これは「客観的な」意味で霊的な世界が現実に存在していることを指しています。霊的な世界が啓示されるとは、個人の主観性だけでは全く無力な世界が現実に存在することにほかなりません。この世界の特徴は、啓示されることで初めて、客観性を帯びることです。集団にせよ、個人にせよ、人間の主観の世界だけではどうにもならない絶対的な無力の世界が「アポカリュプシス」されるのです。だからそれは「主客一如」の世界が存在することです。
 このことは、ナザレのイエスという個人に啓示された霊的な世界が、その十字架の死を転機にして、彼を信じる人たちに啓示されていくことです。現在わたしたちが「主観」と見なしているイエスの霊性が、実は客観的に存在する世界を指し示していること、したがって、イエスの周辺にいた弟子たちだけでなく、時間的に未来の信者たちへも伝わり受け継がれることを意味するのです。「主客一如」はこの意味で「時空一如」、時間と空間がひとつである、ということにつながってこなければなりません。だから、パントクラトール(全能)なるキリストの世界は、ナザレのイエスが個人として啓示されていた世界が、幾十年かの過程を経て、ようやくエフェソ人への手紙の作者にも啓かれたことになります。これが、エフェソ人への手紙の言う「キリスト」、あるいはコロサイ人への手紙の言う「キリスト」の世界です。
 ここに展開されているのは、地上の人間に向けられた「存在の無力性」です。それは、個人としての人間だけでなく、組織化された人間においても、その無力さにおいて変わるところがありません。だから、うっかりすると、ここでの堕天使論は、個人にせよ、組織にせよ、人間の道徳的、倫理的な責任を無意味にしてしまいかねないのです。たとえここで、個人の実存を持ち出しても、あるいは、なんらかの社会的、政治的な組織や運動を持ち出しても、またそれらが、宗派・宗団のような宗教的な組織であっても、ここでエフェソ人への手紙の作者がわたしたちに提起している問題に「より良い答え」が出せたと誇るわけにはいかないでしょう。「人間の力を超えた霊力」に代わる、より透徹した概念を現代の心理学や倫理学や神学が保証してくれるわけではないからです。
 以上見てきたように、ここで展開されている堕天使の世界は、それなりに長期の伝承を背景にしていますから、これを「古代の神話」だときめつけて、現代的でより合理的な解釈で処理したいという誘惑は分かりますが、事はそれほど容易ではなさそうです。わたしに言わせるなら、ここに示されている堕天使論の実態を解明するには、まだまだ分からないことが多すぎます。いったいこの作者たちが、どういう霊的な実態を見据えてこのように語り、このように考えているのか? これについて未解決の問題が多すぎるのです。事は神学だけでなく、神話学や、宗教学に属する心霊学などの領域に入るのですが、これらの諸学問が、堕天使に由来する悪霊論を現代的な視点から解き明かしてくれるとは、残念ながら期待できません。せいぜい社会学の一分野である「カリスマ共同体論」が、この問題に示唆を与えてくれる程度です。むしろエフェソ人への手紙の作者は、わたしたちに、この悪霊論への明確な答えを用意してくれています。それは「天にあるものも地にあるものも一つに統括するキリスト」(1章10節)です。エイレナイオスは、この「統括」(アナケファライオーサスタイ)の内にサタンをも含めることで、正しくもその答えを洞察していたのです。
■第一ペトロの手紙
 第一ペトロの手紙と『第一エノク書』108章2〜13節との間には、様々な対応関係を読み取ることができます〔Nickelsburg, 1 Enoch. Hermeneia. 560.〕。ここは『第一エノク書』の最終のエピローグにあたります。以下にその大要をまとめます。
 エノクが、終わりの時に掟を守る者たちのために著わした別の書。悪をなす者どもが消される日を待ち望むあなたがたに告げる。悪をなす者の名前は、命の書から、聖者たちの書から削られる。彼らの霊魂は、赤々と燃える炎の中で叫び、泣き、激しく苦悩する(『第一エノク書』108章2〜4節)。主は預言者たちを通して起こるべき出来事を語る。それによれば、天には起こるべき出来事を記した本があり、そこには罰せられる罪人どもと、選ばれた貧しく謙虚な霊を持つ者たちに起こるべきことが記されていて、天使たちは、それらの出来事を読むことができる(同6〜7節)。天にその名前が記されている者たちは、神を愛して、金も銀もこの世の善いものをも愛さず、悪人に辱められた霊魂で、その体を拷問に委ね、自分を過ぎ去る風と見なした。主は彼らを様々な試練に逢わせたが、その霊魂の浄さは証明された(同8〜9節)。彼らに与えられる祝福は、その書物に数えられている。彼らは現世での命よりも天を愛する者であることが分かった。たとえ悪しき者どもに踏みつけにされても、彼らから中傷や侮辱を受けても、わたし(主)を祝福し続けた者たちである(同10節)。わたし(主)は敬虔な者たちを輝く光の世代から呼び出して、暗闇の中にあって、その誠実にふさわしい名誉を与えられなかった者たちの「からだ」を変容させよう(同11節)。わたしの聖なる名前を愛したこの者たちを導き出して、栄誉の座に坐らせよう。彼らはいつまでも燦然と輝くであろう。神の裁きは正しく、真実なものに真実を報いる。彼らは真理の道を歩んだからである(同12〜13節)。義人たちが輝く一方で、闇の中に生まれた者どもが闇の中に投げ込まれるのを見るであろう。罪人どもは義人たちが輝くのを見てわめくだろう。彼らは、その処罰の日と時とが書き記されている場所へ立ち去るからである(同14〜15節)。
  ここには、預言者たちが、キリストの苦難について調べ、天から遣わされる聖霊によって福音が啓示されたことで、天使たちもこれを見たいと願っているとあります(第一ペトロ1章11〜12節)。また、誠実な愛によって真理に従うことで魂を浄めた者たちが、朽ちることのない姿に変容されるとあり(同22節)、主は彼らを激しく試されたとあります(同7節)。彼らは金や銀などの朽ち果てるものに頼らなかったので(同18節)、主は彼らを暗闇から輝く光へと導き出したのです(2章9節)。彼は、ののしられても、苦しめられても、正しい神に裁きを委ねたからです(同23節)。終末には、ノアの時代に神に従わなかった霊どもが裁かれるのです(3章20節)(『第一エノク書』のエピローグの前には「ノア書」が置かれています)。ただし、これらの共通性は、黙示的な知恵文学とも共通することを知っておく必要があります(知恵の書3章4〜9節)。
■第二ペトロの手紙/ユダの手紙:
 第二ペトロ2章4〜5節とユダ6〜7節には、堕天使への裁きとノアの洪水による人類への裁きが語られていますが、これは、『第一エノク書』の「見張りの天使たちの書」で語られている堕天使たちと人間の女性との関係に触れているものです。このように、キリスト教会によるペトロ伝承には、全般的にエノク伝承の影響を読み取ることができます。ペトロは、キリスト教における「エノク」のタイプ(型)とされているのかもしれません。
■第一ヨハネの手紙の黙示思想
 
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、
神は光であり、神には闇が全くないということです。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、
それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、
互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
                      (第一ヨハネ1章5〜7節)
 
 第一ヨハネ1章5〜7節は創世記を踏まえています。創世記1章3節の「光」は永遠の光でないように思われるかもしれません。しかし、創世記3章22節によれば、楽園の「命の樹」は永遠であって、この命の樹は、ヨハネ黙示録22章2節の「命の樹」につながっています。創世記1章3節の「光」はまた、ヨハネ黙示録22章5節にある「主からの光」ともつながります。この「光」は神を知る光のことです。創世記1章3節の「光」は、昼も太陽もつくられる前の光ですから、それは、神から発して全宇宙に<浸透>する光なのです。
 このような「命の光」は、詩編27篇1節/36篇10節/56篇14節にもでてきます。特に27篇1節の「光」は、フィロンの哲学では、プラトンなどのヘレニズム哲学と一致させられて、「真理の光」と呼ばれています。「光」と「命」とは、御子であるロゴスに具わる諸相です。古代から「生まれる」ことを「日の目を見る」と言うように、光は命なのです。古代世界では、光は魔除の働きをしましたが、創世記では、光は「神からの最初の価値」を決定するのです。この「光」こそが、「認識する光」となります。「知恵は永遠の光の反映であり、恩寵の光」(知恵の書7章26節)なのです。このような「大いなる光」は、メシアをも指し示すもので、ヨハネ黙示録(21章23節)では子羊がその光源なのです。
■ヨハネ黙示録
 ヨハネ黙示録の作者がマルコ福音書の人の子伝承を受け継いでいることは、ヨハネ黙示録1章7節/同3章3節に明らかです。さらに、ヨハネ黙示録では、人の子伝承とダニエル書のメシア・ダビデ伝承とが重なり、これにイザヤ書の主の僕伝承が加わってきます。このように重層した伝承は『第一エノク書』の「たとえの書」と同時代の黙示文学、例えば第四エズラ記(=ラテン語エズラ記)の特徴です。
 これに加えて、ヨハネ黙示録と『第一エノク書』の「たとえの書」との並行関係には注目すべきところがあります。どちらにも見者(エノク/ヨハネ)が天に昇ります(ヨハネ黙示録4章1〜2節=『第一エノク書』39章3節「するとその日々に、つむじ風がわたしを地の面から取り去り、諸天の境の中へと置いた」〔Nickelsburg,1Enoch.〕以下同様)。どちらも同じような神の御座のヴィジョンが与えられます(ヨハネ黙示録4章2〜11節=『第一エノク書』40章1〜10節「するとわたしは、何千何万、その何千倍もの人たち、数えきれない無数の人たちが、諸霊の主の栄光の御前に立つのを見た。以下略」)。どちらも天界と地上とが裁きによってつながることになります。
 さらにヨハネ黙示録と『第一エノク書』との関連について見ることにします。
 
(3)主の裁きの日には、すべての王たちも権力者たちも高められた者たちも地を受け継ぐ者たちも立ち上がる。そして彼らは、主が栄光の座に座り、その御前で義の判定が行なわれるのをその目で見て確認させられる。そこには偽りの言葉がない。
(4)するとちょうど産みの苦しみが女に臨むような苦しみが、彼らに臨む。女の胎に子供が入り、彼女に難産が臨むように。
(5)すると彼らの中の一つのグループが、もう一つのグループを見る。そして彼らは、恐れおののいて顔を伏せる。それは人の子が、栄光の座に座るのを彼らが観るからである。
(6)すると王たちも権力者たちも地を受け継ぐ者たちも、こぞって、隠されていたのに今彼らすべてを支配する人の子を祝福し栄光を帰し崇める。
(7)なぜなら、人の子は世の初めから隠されていたからであり、至高者が、人の子をその権威のうちに保ち、選ばれた者たちに彼(人の子)を顕わすからである。
(8)すると選ばれた者たち、聖なる者たちの会衆が、植えられる/散りばめられる。
その日には、すべての選ばれた者たちが、彼の御前に立つからである。
       (『第一エノク書』62章3〜8節)〔Nickelsburg, 1 Enoch. 80.〕
 
  ここに描かれる『第一エノク書』62章3〜8節の「産みの苦しみをする女」とは、ヨハネ黙示録12章1〜6節の「産みの苦しみの女」とつながります。このような「受難の苦しみを受ける母/女」の伝承は、おそらくヨハネ共同体に受け継がれてきた伝承でしょう。そこには、救いの基本的な型が描かれています。もともとこの伝承は、創世記3章13〜16節の蛇と女との間に置かれた恨みに端を発しています。エバが人類の母であるように、イエスの母マリアは「神の民」を象徴します。ただし、このことは、メシアの母としての人間マリアの歴史的実在を排除するものではありません。実在の母マリアは、新しいエバとして、キリストのエクレシア/教会を象徴するものとされたのです。
 カトリックとプロテスタントの間で、特にマリアについてほど解釈が大きく食い違ってきた例はありませんが、最近では、両者の違いは埋められつつあるようです。ヨハネ2章の「カナの婚宴でのマリア」はヨハネ黙示録12章の「産みの苦しみの女」と結びつけられてきました。ヨハネ2章のカナのマリアは、十字架の下でのマリア(ヨハネ19章26〜27節)とともに、ヨハネ黙示録12章の女と共通する点が多いと指摘されています。
(1)どちらも「女」と呼ばれる。(2)創世記のエバとつながりながら、同時に受難という「産みの苦しみ」を味わう。(3)創世記3章15節の「女の子孫」とは、メシアであるキリストを預言するだけでなく、同時にキリストの教会全体をも含んでいる。
 だから、マリアが、十字架の下で、イエスの愛弟子である「キリスト教徒」の弟子の母とされるのは、教会が以後もキリストの母によって支えられることを意味することになります。この意味で、ヨハネ黙示録12章の「受難の女」は、イエスの母「マリア」であり、彼女は「メシアの母」であり、「教会の象徴」なのです。ただし、ヨハネ福音書が強調していることは、イエスの母マリアが、「教会の象徴」だということであって、後代のマリア崇拝と区別されなければなりません。彼女は、カナの婚宴でのマリアのように、イエスに向かって執り成しを行ないますが、命令はイエスの父から来るのです。
 さらにまた、ヨハネ黙示録20章1〜3節では、サタンが千年の間閉じ込められ、業火の滅びに渡されます。『第一エノク書』10章12〜13節でも、主に命じられた大天使ミカエルによって、シェミハザとその手下の堕天使たちは、身を汚した人の女たち共々に、地の底の谷に70世代の間縛られて、永遠の裁きを待つことになります。彼らは最後に業火の淵に投げ込まれて、永遠の苦しみを受けるのです〔Nickelsburg, 1 Enoch. 29.〕。
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