2章 知恵と黙示
■知恵文学と黙示文学
 この章では、イスラエルの知恵思想と黙示思想を扱うことにします。知恵と黙示は深くかかわりあっていますが、この二つの関係はイスラエルの歴史から生じたもので、それだけに複雑です。以下では、先ずイスラエルの古代の祭儀について見た上で、知恵思想から黙示思想への移行についてやや詳しく考察します。知恵も黙示も、ナザレのイエスに働いていた神の聖霊、すなわちイエスの霊性に深くかかわっているからです。それだけでなく、黙示と知恵とは、共観福音書とヨハネ福音書を知る上でとても重要です。と言うよりも、ヨハネ黙示録にいたる新約聖書全体を読む上でもです。そこでまず、知恵文学と黙示文学の主な文書を紹介することから始めましょう。

 ここで言う「知恵」は、ヘブライ語で「ホクマー/ホフマー」、ギリシア語で「ソフィア」、英語では“wisdom”です。この知恵は、主として旧約時代の捕囚以降から新約時代にかけてイスラエルの宗教と思想に表われ、「知恵文学」と呼ばれる一群の文書によって代表されます。それらはヨブ記、箴言、コヘレトの言葉などで、いずれも前400年~前200年頃に成立したものです。ただし、内容的には、はるか以前にさかのぼります。さらに旧約の外典(新共同訳の続編)では、シラ書(前190年頃?)と知恵の書(前80年頃?)があります。また知恵文学には入りませんが、新約時代では、イエスの語録集や『トマス福音書』なども知恵の流れを汲むと言えましょう。
 イスラエルの知恵は、古代エジプトと古代バビロニアの知恵思想が、その主な源流と考えられますが、これにイスラエルの民が定住する以前からの土着のカナンの宗教も加えていいでしょう。箴言はかつて「ソロモンの箴言」と言われ、知恵の書もまた「ソロモンの知恵」と呼ばれるように、イスラエルでは、知恵思想は、ソロモン王の時代に初めて重要視されるようになりました。しかし、「知恵」そのものは、この時代から始まるのではなく、ノアは「彼によって人類が生き残ることができた人」(シラ書44章17節)として、アブラハムに先立つ知恵の人とされています。エゼキエルも、ノアとダニエルとヨブを「自分の命を救うことのできた」イスラエルの3人の「正しい人」としてあげていますが(エゼキエル14章14節)、この「正しい人」とは「知恵の人」の意味です。知恵の人としてのノアは、古代のバビロニア神話『ギルガメシュ』に出てくるウト・ナピシュティムという賢者までさかのぼることができます。
 「黙示」はギリシア語で「アポカリュプシス」、英語では“apocalypse”です。「黙示」ついては説明が必要です。なぜならギリシア語の「アポカリュプシス」は「啓示」のことで、新約聖書では、このギリシア語は「啓示」の意味で用いられています(ガラテヤ人への手紙1章12節に「イエス・キリストの啓示」とあるのがその代表的な例です)。しかし、「イエス・キリストのアポカリュプシス」という言い方が、ヨハネ黙示録の冒頭にもでてきます。だからこれを「ヨハネの受けた啓示」と訳してもいいのですが、ヨハネ黙示録の啓示の様式は、新約聖書の他の文書と比べると異なる様式の「啓示」であることが分かります。このために、この文書で語られるような啓示の様式を他の場合と区別して「黙示」と呼ぶようになりました。「啓示」とは、神が人にご自身を、あるいは真相を顕わす場合を言い、「黙示」はより狭い意味で、ヨハネに与えられた「黙示」のような特殊な形式の啓示を意味します〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』61頁〕。ヨハネ黙示録の啓示様式は、天使を仲介として終末あるいはそこにいたるまでの隠されていた出来事を目に見える幻として人に現わします。このような様式を「黙示文学」と言います。だからギリシア語の原語には、ほんらい「啓示」と「黙示」の区別がありません。これを区別したのはラテンの教会で、ヒエロニュムスのラテン語訳聖書(ウルガタ)では、同じギリシア語を「啓示」(revelatio)と「黙示」(apocalypsis)とに訳し分けています。英語では“revelation”(啓示)と“apocalypse”(黙示)です(英語の“apocalypse”は「黙示」の意味で用いられることが多いのですが、「啓示」の意味もあります)。
 正典の黙示文学としては、ダニエル書(前2世紀)が代表的な文書と言えましょう。ダニエル書に続いて主ものだけをあげると、まず『エチオピア語エノク書』があります。これは『第一エノク書』とも呼ばれ、アラム語からエチオピア語に訳されたと見られています。アラム語原本は、前450年頃?から前100年頃にいたるまでの諸文書を含んでいます。『スラヴ語エノク書』は『第二エノク書』とも呼ばれ、原本はギリシア語で前1世紀です。『シビュラの託宣』は、その断片と第3~5巻で構成され、複数の著者によるもので、第3巻目は前140年頃、第4巻目は紀元後80年頃、第5巻目は後130年頃です。新共同訳の続編にあるラテン語エズラ記は、後1世紀末頃に成立しました。これの原本はヘブライ語で、その3~14章までは『第四エズラ記』と呼ばれています。なお、これの1~2章と15~16章は後のキリスト教の加筆です。『シリア語バルク黙示録』の原本はギリシア語/ヘブライ語で、原本の成立は紀元後2~3世紀頃です。
 これらはユダヤ教の黙示文学ですが、これとは別にキリスト教の黙示文学も多くあり、それらの原本はギリシア語です。主なものでは、まずマルコ福音書13章が「小黙示録」(65~70年頃)と呼ばれています。次いでヨハネ黙示録(1世紀末頃)があり、『預言者イザヤの殉教と昇天』(1~2世紀頃)があります。これの前半はユダヤ教の文書で、後半はキリスト教起源です。また、『ペテロの黙示録』(2世紀前半)があります。『第五エズラ記』(後200年前後)とは、先のラテン語エズラ記(『第四エズラ記』)の1~2章のことです。『シビュラの託宣』は先にもでてきましたが、これの1~2巻と6~8巻の部分は、キリスト教的であると見なされていますが、1~2巻はほんらいユダヤ教の文書をキリスト教化したものです。『シビュラの託宣』のキリスト教的な部分は、複数の著者によって、2世紀半ばから3世紀初めに成立しました。『第六エズラ記』(3~4世紀)とは、先のラテン語エズラ記の15~16章のことです。そのほかに、『パウロの黙示録』(4世紀末)などがあります。
 黙示思想それ自体はダニエル書に始まるのではなく、それ以前に、すでにイザヤ書24~27章(前560~550年頃)は、「イザヤの黙示」と呼ばれています。イザヤ書60~62章(前515年前後)は、第三イザヤの一部ですが、これにも黙示的な描写がでてきます。さらにゼカリヤ書があります。これは1~8章(第一ゼカリヤ)と9~11章(第二ゼカリヤ)と12~14章(第三ゼカリヤ)に分けられていて、二人あるいは3人の作者によるものでしょう。ゼカリヤの預言活動は前520~518年ですが、第二と第三ゼカリヤは前4世紀頃です。なおこれらのほかに黙示思想の流れを汲むものとしては、死海写本と呼ばれるクムラン宗団の文書群(前175年?~前40年?)の中にある『ダマスコ文書』や『戦いの書』があります。
■古代イスラエルの祭儀
 ここで古代イスラエルの祭儀について説明します。古代イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し(紀元前14世紀後半頃か?)、カナンに定住して、強力なダビデ王国を築くにいたりました(紀元前1000年頃)。現在では、イスラエルは、もともと単一民族であったと考えられてはいません。カナンに侵入する以前に、おそらくアラビア半島の西部/南西部において、いわゆる12部族の連合が形成されたと思われます。イスラエルの宗教は、その歴史的な過程に沿って形成されてきました。最初期のイスラエルでは、(1)出エジプトとカナンの征服を祝う祭りがあり、これが後に、春の新年の過越祭(3月~4月)として祝われました。(2)また秋には、律法の授与とシナイ契約を更新する祭りがあり、これは後に、秋の仮庵祭として祝われました。(3)さらに、宇宙の創造者であり、悪しき敵(竜や海獣)を征服した「神」の王位への即位を祝う祭りがありました。「神」は「エール」(力/主)と呼ばれて、古代のカナンでは「バアル」、イスラエルでは「ヤハウェ」という名称で呼ばれましたが、この祭りは、神に選ばれた「神の戦士」が、世界を混乱させる竜を退治して、調和を取り戻すという宇宙的な秩序の回復と勝利を祝うものです。(3)の祭りの起源はカナンにありますが、これは後に仮庵祭の一部に組み込まれました。ちなみに1週間を七日とする制度も遊牧民からではなく、カナンの農耕民から出たものです。
 しかし、ダビデ王朝の時代になると、出エジプトとカナン征服の祭りも、神の即位の祭りも、王室による「シオンの祭儀」の導入によって規制されるようになります。(4)シオンの祭儀は、神によるダビデ王朝の選びと聖都エルサレムの選びと聖所と契約の箱の新たな設置を祝うものでした。それまではイスラエルに神殿がなく、シケムやシロ、その他複数の場所にヤハウェの聖所があったからです。これで見ると、古代イスラエルの宗教は、聖なる祭儀と聖なる歴史の二つから成り立つことが分かります。また、イスラエルをエジプトから贖い出した救いの歴史も、出エジプトとカナン征服(出エジプト15章)、そしてシナイでの律法授与とヤハウェとの契約更新(申命記33章)という二つの主題に貫かれています。こうして、イスラエルの祭りは、始めは「神の戦士」という神話的な様式であったのが、ダビデ王朝の即位を祝う祭りへと再編成されることになります。「神の戦士と竜退治」という主題は、イスラエルの王権思想と知恵思想に媒介されて、後の黙示文学に繰り返し現われる大事なテーマになります。ただし、カナン的な要素をイスラエルが継承したその過程、すなわちカナン時代からイスラエルにいたるその「造神話」”myth-making”の過程は、まだ十分に解明されていません〔Cross,“A Note on the Studies of Apocalyptic Origins.” Canaanite Myth and Hebrew Epic.343~46〕。
 古代イスラエルの祭儀は自然宗教から歴史宗教へ進化したようにも見えますが、それよりもイスラエル独自の、出エジプト→カナンの征服→エルサレムの中央聖所の設置と契約更新という「救済史的な伝承」として理解するほうがいいでしょう。そもそも「契約更新」の祭りは、十二部族の連合による国土取得を祝うものですから、契約の締結それ自体は征服以前の時期に位置づけられます。イスラエルの祭儀は、このように、神話的な要素と歴史とが融合しているのが特徴です。イスラエルにおいては、神話と歴史は常に強い緊張関係を保持していて、神話は、歴史に宇宙的次元で超越性を賦与しながらも、歴史を分解する方向に働くことは滅多になかったのです。
■知恵の時代
 先に述べたように、イスラエルの知恵思想が文書として編集し始められたのは、ソロモン王の時代でした。ダビデ王(在位前1010?~前970?)からソロモン王(在位前970/960?~前930/920?)の治世にいたる約80年間は、ダビデ王朝の最盛期であって、イスラエルは、その宗教、文化、政治、経済のすべての分野にわたって絶頂期にあったと言えます。ソロモンが王位を継承すると、彼は、エルサレムを中心としてカナン文化圏一帯を知恵思想によって「ヤハウェ化する」政策を始めました。このために、列王記(上下)全体を通じて、「知恵」という言葉がソロモン王の記事に集中して表われることになります。主から「知恵の霊」を注がれたソロモン王は(列王記上3章12節)、父ダビデ王の意志を継いで、一大ヤハウェ王国を築くことに成功したと言えましょう。
旧約聖書の神学において、「知恵」(ホクマー)は、律法(トーラー)や契約(ブリート)に比べると、長らく周辺的な地位しか与えられませんでした。全宇宙を秩序立ててとらえることで、そこに生じるあらゆる事象を神の業として洞察するのが知恵の働きです。このような知恵を中心に据える時に見えてくるのが「創造の神」です。知恵は、民族、人種、性別を超える普遍的な視野を有していて、同時に、信仰を神殿や祭儀ではなく現実の生活体験へと結びつけます。日常において体験する現実は、多様な拡がりを持っていますから、これに対応する知恵もまた多様な姿を採ります。現代でもそうですが、宗教とは、互いに矛盾し対立する霊的体験から成り立っていて、こういう霊的な出来事や現実を理念や教義で割り切ることはできません。知恵はこのように相互に矛盾する出来事や思想をつなぐことによって新たな思想的土台を生み出す働きをするのです。それは知恵が、イスラエルの「ペシェル」(解釈/教え/比喩/謎)の思想に基づいているからです。だから知恵がソロモン王国において大きな役割をはたしたのは、知恵が、異なる民族性や多様な宗教文化に対応することによって、これを一つに統合する働きを有するからなのです。
 大事なのは、ここで言う知恵が、いわゆる「処世術」のこと、「巧みな世渡り」の知恵ではありませんから注意してください。だから、箴言の知恵は、その起源において、天地創造にさかのぼります(箴言8章22~31節)。ソロモンの知恵は、宗教的な領域に属する「霊的な知恵」なのです。それは預言と並ぶ霊の賜物と見なされました。後にイザヤが、ユダ王国の為政者たちを厳しく責めているのは、彼らが、イスラエルがかつて有していたこのような知恵(イザヤ11章2節)を見失ったからです(イザヤ5章20~21節)。ちなみにイエスが「知恵」と言うときには、まさにこの霊的な意味です(ルカ7章35節)。
 知恵は預言と異なり、実際の行政に携わる官僚や職人の工芸技術にも及んでいますから、知恵の霊は、一人一人の才能あるいは個性と切り離すことができません。けれどもそのことは、知恵の御霊が「世俗化する」ことではありませんから注意してください。逆に、カナンの異教世界全体のあらゆる技術や能力が、「ヤハウェの霊」のもとに統合されていったのです。この意味で、ソロモン時代の知恵は、ほとんどヨーロッパ中世の神学と同じ役目を担っていたと言えましょう。「主を畏れることは知恵の初め」とあるのは(箴言1章7節)、人々の目を世俗の処世術よりも主に向かわせるためであり、同時に、ヤハウェの霊を多様な現実へと結びつける、こういう二重の働きを意味していました。このように、ソロモン王国の知恵は、当時のカナン文化圏全体をヤハウェの御霊によって支配すること、すなわち「カナン文化のヤハウェ化」にありましたから、その知恵は百科辞典的な広さに及んでいます(列王記上5章9~14節)。
 しかしながら、ソロモンによる知恵の黄金時代以降、王国は二つに分裂しました。その結果、王権は衰退して、主の預言者たちが腐敗した王政を厳しく弾劾する時代に入ります。ついに北イスラエル王国はアッシリアによって、南ユダ王国は新バビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ民族はバビロンの捕囚を体験することになります(前6世紀)。その後、捕囚を経て再びエルサレムへ帰還したユダヤ民族が、かつての王権を再興することはありませんでした。しかし、ソロモン時代の知恵は、それ以降も受け継がれ、ヨブ記(著者は前5世紀前半頃か?)、箴言(成立は前4~3世紀)、ダニエル書(前半は前4~3世紀、7~12章は前164年頃)、コヘレトの言葉(前200年前後)、シラ書(前190年頃)、知恵の書(前80年頃か)、『ソロモンの詩編』(前1世紀半ば頃)などの知恵文学を産み、これがイエスの時代へと受け継がれることになります。
■箴言と知恵
 箴言の原題名は「マーシャール集」です。「マーシャール」とは、諺、格言、たとえ、比喩などの意味ですが、これに知恵の諭しや禁止が含まれていて、内容は日常生活から宮廷の官僚たちへの心得にいたる幅広い分野に及んでいますが、箴言の内容から、これの成立年代を探ることはほとんど不可能です。諺や格言は、それが収録されて編集される時期よりもはるかに前から伝えられてきたからです。例えば、箴言の22章17節から23章11節までは、エジプト『アメンエムオペトの教訓』と対応する箇所が多くあります。しかしこの教訓集は、紀元前12世紀頃の編集だとする説からそれよりもはるかに後の時代だという説まであり、よく分かりません。箴言の編集が行なわれ始めたのは、ソロモン王の治世の後、王国が南北に分裂して、北王国が滅亡した頃(前700年頃)ではないかと考えられます。新共同訳に「ソロモンの箴言(補遺)」とある25章~29章がこの部分です。その後、南王国が滅亡した(前587/586年)後のバビロン捕囚の間に、初期のマーシャールに改変が加えられました。厳しい捕囚体験を通して、改めて過去・現在・未来を見通す視点からの見直しを迫られたからです。箴言の中で最後に編集された部分は1~9章で、これは捕囚以後の時期と考えられますから、箴言全体の編集が現在の形で成立したのは前3世紀頃になるでしょうか?
 知恵はほんらい普遍性を持っていますから、ヤハウェとの契約関係にあるイスラエルの民族的な排他性が、ソロモン王の時代には、この知恵を通じて周辺の諸民族に向かう普遍性へと開かれていくことになりました。捕囚の間のバビロニアの文化的な影響と、これに続くペルシア帝国の支配下で、イスラエルの知恵思想は、その普遍性をいっそう広げていくことになります。しかしここでは、箴言の中でも特に注目される特徴に視点を絞ってみたいと思います。それは「知恵の女性」(3章13~20節/4章6~9節/8章)と、これと対比される「愚かな女性」(9章13~18節)です。
  箴言の知恵の女性(ソフィア)は、「彼女をとらえる人には命の樹となり保つ人は幸いを得る。主の知恵によって地の基は据えられ主の英知によって天は設けられた」(3章18~19節)とあるように、「知恵の女神」とでも言えるほどに神格化されています。すなわち知恵は、ここではっきりと「擬人化」“personification”されているのです。このことは、後の知恵思想を理解する上でとても大事です。この知恵の女性は世界の創造の原初にいて、ヤハウェと共に創造の業に携わった者として描かれます。これがその後、哲学的な解釈が加えられることで後世に大きな思想的影響を及ぼし、新約時代には、キリスト論的な解釈が与えられるようになりました。この知恵は、後のヨハネ福音書では、ベタニアのマルタとマリア(ヨハネ11章)、あるいはマグダラのマリア(20章)の姿となって現われます。また彼女を探し求め(箴言2章4節)、彼女を観て(8章35節)、彼女に触れ(4章8節)、命の樹として愛する(3章18節)とありますが、知恵についてのこの感覚的な描写は、第一ヨハネの手紙の「初めからあったもの」「よく見て、手で触ったもの、すなわち命の言葉」へとつながることになります。
  知恵は、「主が大地の基を定められた時、わたしはそこにいた」(箴言8章29節)とありますが、これは知恵が主の傍らにいて「建築士として」働き、主の創造の業も設計も工事も知恵が行なったという意味です(ただしここを続く30節と関係させて「主の創造の業を見て遊び戯れた」と読むこともできます)〔有賀「箴言とヨブ記」65~66頁〕。箴言の知恵は、このように宇宙全体を支える秩序のそもそものはじまりである「根源の時」へとさかのぼるのです。宇宙の原初から存在していた「先在の知恵」がここに顕われてきます。人はこの原初からの知恵の定めた秩序の下にあって、命の樹である知恵の女性と死霊の宿る愚かな女性とのどちらを選ぶかが試されます。その選択は人間に普遍的なもので、そこには人の「善と悪」「命と死」「救いと滅び」がかかってくるのです。この「先在の知恵」は、はるか後のヨハネ福音書の冒頭にでてくる「先在のロゴス」(ヨハネ1章1節)へとつながることになります。
 かつてイスラエルは、ヤハウェと共に歩み、その歩みの中で、その時々に示されるヤハウェとの出会いの中で、あるいは従い、あるいは背き、あるいは立ち帰り、あるいは離れました。その選択が、箴言では、二人の女性をめぐる選択を通じて、イスラエルの民だけではなく、全世界の人間の生と死、救いと滅びにかかわるのです。神が予め定めたこの原初からの知恵は、やがて「世界の初めより終わりまでをも予見する」知恵、世の始めより終わりまでを見通す神の知恵へと発展することになります(例えば『エチオピア語エノク書』39章11節)。だから、知恵は、その普遍性だけではなく、知恵が世界の初めから存在し、存在することによって世界を支配するという「知恵の不動性」を帯びてきます。この不動性は、知恵の女性にある種の「厳しさ」を賦与しています。この厳しさは、その普遍性と共に、捕囚の体験から来ているのは間違いありません。

 しかし著者はまた、イスラエルの悲しい歴史を背景にして、知恵の女性を性的な魅力で、しかもこの知恵の貴婦人を愚かな女と対照させて描いた。問われているのは命と死であり、主への誠実と不誠実である。これはもはや、フォン・ラートが解釈したような「世界秩序」の擬人化をも「世界の自己啓示」をもはるかに超える問題である。捕囚以後の日々の歩みにおいて、知恵は「正しい行ない」を超える領域へと高められた。ホセア書やその他の書で無慈悲にも暴かれたかつての苦闘を偲ばせる言葉で、彼女は、契約の重み、主への誠実さの重みを帯びて描かれるのである〔Murphy 226 〕。

■イスラエルの危機と知恵
 エルサレムの滅亡とバビロンの捕囚体験は、ユダ部族を中心とするイスラエルに深刻な影響を与えました。かつてのダビデ王朝の時代のように王権を信奉する理念は衰退して、これに伴って、預言活動も衰えることになります。王政の不正や王権の横暴を批判し、正義と公正を訴えることが、預言者たちに与えられた役割だったからです。神殿再興を願ったハガイ(前520年に預言活動)と、これとほぼ同時代のゼカリヤが(前520~518年に預言活動)、その例外と言えましょうか。
 知恵思想もまた大きな変容を遂げました。イスラエルの知恵思想の源は、古代エジプトと古代バビロニアと古代のカナン神話からでています。ダビデ王朝の時代に知恵思想が盛んになったのは、宮廷における行政のエリートたちを養成するのが一つの目的で、このために、古代エジプト王朝の知恵思想が採り入れられたと言われています。知恵文学は、遠くエジプト第5王朝時代(前2400年頃)の『宰相プタハヘプテの教訓』にまでさかのぼることができます。これは、ファラオの側近であったプタハヘプテが、自分の経験に基づいて後継者のために書き残した教訓です。そこには、神の定めた「世界秩序」(エジプト語で「マート・正義」)に従うことが教えられています。この教訓と並んでよく知られているのが『アメンエムオペトの教訓』で、これは、箴言の22章17節から24章22節の「賢人の言葉(1)」と対応する部分が多いと指摘されています。『アメンエムオペトの教訓』の成立ははっきりしませんが、前13世紀から前600年までという長い期間にわたると見られますから、モーセの出エジプトからダビデやソロモンの王朝時代を経て、南王国ユダの滅亡とバビロンへの捕囚に近い頃までに当たることになります。
 宮廷文化を背景とするこのような知恵思想は、捕囚による王権の喪失と共に衰退しました。しかしながら先に指摘したように、ソロモン時代の知恵思想には、天文学(占星術を含む)や動植物学や心理学や神話・歴史などに及ぶ広範な知識の集大成が含まれていました。百科辞典的とも言えるこれらの諸知識が、捕囚によってバビロニアの天文学や諸学問に触れることによってさらに深められたのです。
 先にわたしは、ソロモン時代の知恵思想は、単なる世俗の知識や処世術を超えた霊的な洞察に支えられていると述べました。このことは、イスラエルの知恵には、単なる人間的な知識や視野“sight”を超える深い洞察“insight”が具わっていることを意味します。すなわちこの知恵には、自然と宇宙、歴史と宗教に関する知識だけでなく、それらの諸物や出来事を「解釈する知恵」もまた具わっているのです。この知恵は、未曾有の歴史的な危機に際して、自分たちに生じた出来事を新しく解釈するだけでなく、イスラエルの信仰の拠り所、すなわち聖書をも解釈し直すことを可能にしてきました。この知恵によって、それまで断片的な歴史伝承や種々雑多な物語であった数々の挿話が一貫した内容へと編集されたのです。知恵によるこのような「解釈の技法」をロンドン大学のクレメンツ教授は、その論文「知恵と旧約神学」で次のように述べています。
   

   
  国土の喪失と民族の存亡の危機に際して、このような霊的な知恵による洞察が、イスラエルの宗教と彼らの信仰を支えて、これを新たな創造へと向かわせたと言えましょう。イスラエルの知恵思想にこのようなことが可能であったのはなぜでしょうか? それは、古代オリエントでは、宗教と国家制度を支えている神々が、その制度と秩序そのものに内在するものとして崇拝され維持されていたのに対して、イスラエルでは、ヤハウェが、イスラエルの宗教と国家秩序の「彼岸に」立っていたからです。ヤハウェは秩序の創造者であったから、この主を宗教や秩序と同じレベルで見ることができなかったのです。
■預言者たちの「時」
 先に述べたように、イスラエルの宗教は、モーセによる出エジプトとシナイ契約に基づく「救済の歴史」に沿うものでしたから、預言者たちの王権批判も、この救済史的な信仰に基づくものでした。ホセアは出エジプトと荒れ野の旅の伝承に立って新しい国土回復を語りました。イザヤはダビデとシオン伝承によって「新たなシオン」の到来とヤハウェによる救済を預言しました。エレミヤは「新しい契約」を告げ、第二イザヤは新しい出エジプトによるヤハウェの創造と贖いについて語ったのです。
 ヤハウェが、過去においてイスラエルの民にしてくださったこと、すなわち、この「神の救済の歴史」に基づいて、必ず再び救いの業を行なってくださる。預言者たちがイスラエルの民に与えた希望はこの信仰から生まれたものです。そこには、常に新たな創造の御業を行なうヤハウェの言葉と業への希望と信頼がありました。言い換えると、この信仰は「ヤハウェの言葉/業(ダーバール)」にたいする信仰であったとも言えましょう。預言者たちは、「ヤハウェの言葉」を神の言葉と業とが一つになった「神の出来事」としてとらえたのです。その際、預言者たちを支えたのは、アブラハム、イサク、ヤコブを通してイスラエルに与えられた「イスラエルの選び」の約束です(アモス3章1~2節)。またモーセを通じて与えられた「シナイの契約」です。
 しかし、イスラエルの民がまさにこの契約を破り、偶像礼拝に陥る罪で神の律法に背いたことも預言者たちは忘れませんでした。彼らが腐敗した王政を非難し、王侯貴族たちと民の偶像礼拝を厳しく弾劾したのはこのためです。だから彼らは、王たちと民に向かって、「悔い改めてヤハウェに立ち帰れ」と叫び続けたのです(アモス5章4~6節/ホセア11章8~9節/同12章7節)。このように預言者たちは、裁きを語りながら赦しを告げ、弾劾しながら悔い改めによる救いを迫ったのです。
 どうして預言者たちは、このように相反することを同時に語ることができたのでしょうか? それはヤハウェが、イスラエルの態度によってその御心を変えることができるからです。ヤハウェに従いその律法を守る時に主は民を祝福し、その律法に背く時には災いをもたらすのです(申命記30章)。神はこのように、「イスラエルとのかかわりの中で」その態度を決めることができるのです。このように預言者たちは、ヤハウェの言葉と御業が、「その時に応じて」イスラエルに生起する出来事として臨むことを知っていました。それは「臨機応変の全く予測不可能な神による介入」とも言えましょう〔フォン・ラート『イスラエルの知恵』401頁〕。このようなイスラエルに向けられた「時の神」こそが、出エジプトとカナンの征服を導き、ダビデ王朝を繁栄に導いたヤハウェによる救済史の基本的な信仰だったのです。
 ヤハウェの言葉は、「創り出し」また「破壊します」(イザヤ45章7節)。神が共におられる「時」イスラエルは救われ、神に背く「時」イスラエルは滅びるのです。神との契約がこの信仰を支え、その同じ契約がイスラエルを裁くのです。イスラエルはこの信仰によって、神の救済史を歩んできました。だから、たとえ災いが民に臨んでも、主に従い続けるなら、主は必ずその契約を思い起こして、主の民を救うことができるのです。だからイスラエルは、そのような救いの到来を常に「ヤハウェの新しい御業」として未来に待ち望むことができたのです。
 ただし、これに続く時代の預言には、黙示思想を予感させる内容が現われてきます。それは預言者たちが「主の日」と呼ぶ「裁きの時」です。ほんらいこれは、ヤハウェに敵対する者に報いる裁きの時を指していました(イザヤ2章12節/同13章9節/エゼキエル13章5節/同30章3節)。しかし今やその「主の日」が、裁きとなってイスラエルに向けられる「時」が来るのです(アモス5章18節/ヨエル2章1節)。わたしたちはここに、イスラエルが頼りにし、預言者たちが悔い改めを呼びかける根拠にしていたイスラエルの救済史が、その根底から脅かされる事態を彼らが予感していたのを知るのです。
■知恵から黙示へ
 黙示思想がイスラエルの知恵思想から生まれたという指摘は、すでに19世紀から20世紀の初頭にかけて指摘されていました。しかし20世紀後半になって、改めて知恵思想と黙示思想との関係に目を向けたのは、フォン・ラートです〔フォン・ラート『旧約聖書神学』(Ⅱ)410~18頁〕。彼は、黙示文学において展開されている天文や天体など「宇宙の歴史」に関わる広範な知識に注目しました。ラートはそこに、ソロモンの時代に盛んになった天文学、動植物学、心霊学、薬学などの広範囲な知識とこれに基づく知恵思想が、黙示文学(例えば『エチオピア語エノク書』)にも受け継がれているのを見たのです。そして黙示文学に現われている「宇宙の秩序づけ」とこれに基づく終末論は、イスラエルの知恵の伝統、すなわちその「ペシェル」(比喩/教え/問いかけ/謎の解釈)によらなければ不可能であることを洞察しました。ラートは「黙示文学は明らかに知恵の伝承の中に根を持つ」ことを見抜いたのです。「なぜなら黙示文学は究極の世界の秘密のカーテンを開くからです。つまり『解釈』(ペシェル)」なのです〔フォン・ラート『旧約聖書神学』Ⅱ414頁〕。だから黙示文学は、預言書よりも、むしろダニエル、エノクなどの知恵の人と結びつくことになります。
 このように黙示文学は、イスラエルの預言の伝統よりも知恵とエノク伝承に深く関わることになります。そこには、イスラエル民族を中心とした救済史ではなく、宇宙の歴史というより広範な世界領域への洞察が秘められていました。預言者たちの伝統的な救済史に代わって、ダニエルの二つの幻のような専制国家の世界帝国が現われ、これを導く神の摂理が啓示されるのです。イスラエルの歴史の代わりに、世界帝国を導く神のみ手が顕われるのです。出エジプト体験に基づくイスラエルの救済ではなく、「天の雲に乗って」全世界に来臨する人の子による終末的救済が啓示されるのです。
 かつてイスラエルは、主の御前に正しく歩むことによって、主からの契約を信じて救いを待ち望むことができました。ヤハウェの導きは、人の予想をはるかに超えた力として、その時々に啓示されてきました。しかし歴史はもはや、イスラエルがヤハウェを体験する場ではなくなりました。世界の歴史の流れは、初めから確定しているからです。人間はヤハウェの前に、歴史においてその責任を負うことで、信仰によって「実存的に」生きるのではなく、全く異なる二つの世界の狭間におかれることになりました。こうして救済史は、完全に人間の手を離れて、ただ神の自由のもとに置かれることになったのです。ヤハウェはもはや、人間の悔い改めによって心を変える神ではなくなりました。「知恵」はすでに、「太初(たいしょ)、大地に先立って」存在していたのです(箴言8章22節以下)。コヘレトの言葉の作者は、「何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある」(3章1節)ことを知りました。「神はすべての物事をその時にかなうように創り、人間に過去と未来に対する感覚を与えたけれども、神の御業をその初めから終わりまで見極めることは許さない」のです(コヘレト3章11節)。「ここでもまた黙示文学と知恵との関連性を把握する必要がある」のです〔フォン・ラート『旧約聖書神学』Ⅱ413頁〕。
 知恵と黙示との関係について、このようなラートの見解とは幾分異なる見方もあります。ヘルムート・ケスターは、知恵伝承の制度化がソロモンの時代に始まったこと、そしてこの知恵が、伝承的に神からの啓示を源としていると指摘しました。だから彼も「知恵神学の始まりは、黙示思想の発生と密接に関係している」ことを認めています〔ケスター『新約聖書概説』(上)324頁〕。しかしケスターは、黙示文学と知恵とは、「双子の姉妹のように」並行して別々に現われたと見るのです〔ケスター前掲書〕。彼は、「知恵」を「きわめて実用的な利益のため」で「職業上の知識」として役立てるためのものだと見ています。これに対して、黙示思想においては、知恵は啓示を通してのみ顕わされます。それは、幻や夢や恍惚が開示する秘義となります。黙示思想の知恵は神話の言語によって語られるのです。ケスターによれば、世俗の実用的な知恵と黙示文学に現われる秘義や宇宙的な天文学とを結びつけることができないのです。ただしケスターは、知恵のヘレニズム化によって、イスラエルの知恵が「個人化」したこと、さらに黙示思想が、後にエッセネ派(クムラン宗団を含む)とファリサイ派とキリスト教とグノーシスとに枝分かれしていったと述べていて、これはとても重要な指摘だと思います〔ケスター前掲書311頁〕。ケスターによれば、初期キリスト教は、このような黙示から、その神話論的な特徴を受け継いだことになります。
 以上見てきたように、イスラエルの「知恵」は、偏狭な民族主義に閉じこもっていては問題が解決しないことを洞察したのです。そこからコヘレトの言葉やヨブ記や箴言や知恵の書が生まれました。知恵は神のもので、この知恵はユダヤ民族に律法(トーラー)として与えられたと見なされるようになりました。神はアブラハムと契約を結ぶ前にノアに代表される人類と契約を結びました。黙示文学では、啓示は象徴的な言語で語られ、同時に天体を中心とする宇宙あるいは自然に対する正確な知識が重んじられます。この知恵と知識を理解する人が「義人」と呼ばれ、しばしば「知者」「賢者」と言われ、その知識は「知恵」として尊ばれました。イスラエルの知恵思想はメソポタミアの天文学に接して、そこから堕天使論などが生まれることになります。だから黙示文学を孤立的に扱うことをせず、知恵文学と並行して考え、両者が同じ根から出ていることを突き止めなければならないのです。「トーラー(モーセ五書)と黙示思想と知恵思想は相互に密接に関連し合っている」からです〔ケスター前掲書324頁〕。
 知恵と黙示のこのような関係について、諸説を整理し、改めて知恵思想と黙示思想を区別しながら結びつけようとしたのがコリンズの論文「知恵と黙示、その発祥の相互関係」です〔Collins 165~85.〕。コリンズはこの論文で、「知恵」と「黙示」の関係を明確にするためには、用語の定義、特に「知恵」をどのように定義するかを明確にしなければならないと考えました。彼は、「知恵」を以下の5つの意味に分けました。
(1)知恵の諺や格言(例えば箴言10~30章)。
(2)神学的あるいは思想的な知恵(例えば箴言8章やヨブ記)。
(3)自然についての知恵(例えばヨブ記38~41章)。
(4)霊能的な知恵(例えば予言や夢解釈)。
(5)黙示的な啓示を含む高度な知恵(例えばダニエル書に出てくる「人の子」のような超自然的な存在や死後の世界、最後の審判や天の巻物など)。
 このように分類した上で、コリンズは、知恵と区別される黙示の特徴をつぎの3点にまとめています。
i超自然的な世界の重要性と人間世界への超自然的な天使などの介入。
(ii)終末的な裁きと死を超えた世界での報酬あるいは罰。
(iii)この世が根本的に悪であるという認識。
 コリンズは、先にあげた知恵の分類の(1)~(3)に属する知恵を処世のための知恵あるいは自然への知識として、これを(4)~(5)の知恵、特に黙示的な知恵と区別しています。しかしわたしの見るところでは、ここに掲げられた分類は便宜的なもので、必ずしもこのように判然とは区別できないと思われます。箴言の格言的な言葉にも「主への畏れ」が浸透しているからです。先に指摘したように、箴言の諺も単なる処世訓ではなく、ヤハウェの御霊にある洞察に裏打ちされていると見ることができるからです。後で、イエスの知恵について考える時に、このことはとても大切です。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10章16節)というイエスの言葉は、当時の諺からでていると思われますが、イエスがこれを単なる処世訓として用いているのでないのは明らかです。だから、わたしには、ここに掲げられた分類は、知恵の種類や区別というよりも、むしろ知恵が、黙示的な啓示へと、段階を追って移行し高められていくその過程を示しているように思われます。
■ヨブと原黙示
 先にあげたケスターもコリンズも、知恵思想と黙示思想とを比較して、その共通性と同時に、それらの特徴をあげて、両者の違いを指摘しました。しかしどちらも、ラートが提起した問題、黙示思想の起源それ自体はどこからか? という問いに十分に答えているとは言えません。黙示思想の発生の由来それ自体を追求しているのが、クロスです。彼は、イスラエルの知恵の発生の起源を古代バビロニアの神話とこの流れを汲むカナンの神話に求めています。イスラエル王政の末期から捕囚期にかけて、預言は衰退して変質し、王政への理念は後退しました。古代からの知恵の役割も変容しました。クロスによれば、これらの要因が相互に働いて「原黙示」が生み出されることになります。その起源は前6世紀にあります。預言者たちは、王の託宣、戦争、王と民に向けられる主の審判に関わる政治・宗教的な役割を担っていました。しかし、王権の衰微と同時にその預言活動も衰退しました。前6世紀には、それまでの祭司制度に基づく契約思想とヤハウェへの服従/不服従に由来する祝福と呪いの神学は、もはや歴史的な有効性を失っていたのです。黙示の起源は、イスラエルの捕囚期後に、申命記史家たち(捕囚前期のユダ王国から捕囚期と捕囚後期にかけて、申命記から列王記下までを編集したとされる歴史家たち)とゼカリヤ書と第三イザヤ(捕囚後期にイザヤ預言を編集した人物)などの作者たちが提起した問題、すなわち「生き残った者たち」、つまりヤハウェによって厳選された「選びの民」への思想にも現われている、こうクロスは考えて、そこに原黙示の発生を見たのです。
 ヨブ記がいつ頃書かれたかについては、前600年頃から前200年代まで諸説があります。しかし、著者が生きていた時代は、捕囚以後のペルシア時代で、前5世紀半ばから4世紀の間と見るのが妥当なようです。とすれば、ヨブ記の成立は、箴言とほぼ同じか、やや後の時期になりましょう。ヨブとその苦難の意義については様々な考察が加えられていますが、ここではそのことには触れません。ただし、ヨブの苦難は明らかにイスラエルが体験した「民族の虐殺」とこれに続く捕囚という過酷な体験を反映しています(ヨブ3章)。知恵は、物事を認識するだけでなく、その認識を伝達することもまた、知恵の大事な働きだからです〔Perdue 74〕。けれどもヨブ記は、これを民族的な体験としてではなく、ヨブ個人の問題として提示するのです。ヨブは神に自分が被った過酷な苦難に値する罪を犯してはいないと訴えます。これに対する友人たちの答えは、伝統的なイスラエルの価値観、神は正しいものを祝福し、悪を行なうものを罰する、罪を悔い改めて神に帰るなら、神はその人を受け容れてくださる、という価値観を語りつづけるばかりです。ただしエリファズの洞察はさらに深く、彼は民族を襲った「歴史の恐怖」の前に、人間は神の前に正しくはありえないことを自覚しています(ヨブ4章12~21節)。しかしヨブは、そのような忠告を受け容れません。彼は自分一人の内に閉じこもって、自分に課せられた過酷な運命に耐えるのです。
 現代風に言えば「信仰オタク」に近い?このヨブに向かって、神は大自然の不思議と神秘を展開して見せます。しかしこれではヨブの問いに対する答えにはなりません。逆に神はヨブへの答えを拒否しているようにも見えます。ただしここで注意したいのは、こういう宇宙と大自然の不思議な業が展開されていくその過程において、創造の神がヨブの眼前に顕われてくることです。ヨブの眼前に広がる神秘な宇宙は、ヨブ個人の苦しみなどは全く関知しないかのようです。神は雷と稲妻のバアル〔クロスによれば最古のヤハウェ像はここから出ています〕の言葉でヨブに答えます(ヨブ37章4~5節)。彼にとっては、歴史は神の摂理ではなく「謎」となったのです。
神はヨブに語ります。「何者か、(神の)知恵を暗くするこの者は。知識もないのに言葉を重ねて」(ヨブ38章2節。新共同訳で「経綸」と訳されている原語は「知恵」をも意味します)。神はここで、被造物の身でありながら、創造主なる「神の知恵」について不遜な批判を重ねるヨブを叱るのです。世界を支配する神の知恵へは人知がとうてい及ばないことをヨブは思い知らされることになります。彼は、自分が「溶解して無に帰し」「虚無の深淵に沈む」のを覚えるのです〔有賀前掲書78頁〕。「ヨブは、神が人間理性を完全に超えた全くの他者として、世界及び人類の創造者・支配者として、彼の存在を圧倒し、彼の被造性を暴露したもうた時、始めて、自分のプロテストの根本的な誤りを悟ったのであった」〔有賀前掲書89頁〕。
 ここにはかつてイスラエルの預言者たちが知っていた「神の時」、その時々に、イスラエルの民を導き、あるいは救い、あるいは罰し、あるいは赦し、あるいは裁く「神の時」は見えてきません。これとは全く異なる「神の時」が顕われてくるのです。これをコヘレトの知恵は、「裁きの座に悪が、正義の座に悪がある」と嘆いて、「正義を行なう人も悪人も神は同じように裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(コヘレト3章16~17節)〔英訳REB〕と表わしています。人間にはどうにもならない「神の自由と歴史の恐怖」、これがヨブ記に表われている「ヨブの畏れ」です。
 ヨブはこのようにして、イスラエルの伝統的な宗教の核心を拒否しました。彼は出エジプト記の歴史の神を拒絶したのです。その結果、ヨブの理念は、宮廷祭儀や王理念よりもはるかに神話的な性質を帯びるようになります。イスラエルの救済史はかすんで、古代の族長の神、創造者エールが回復してきます。ここに、太古の混沌の竜との戦いの創造神話が、新しい終末論的な性格を帯びて立ち現われるのです。古いことと新しいことが対照され、未来を司るのは、神が招集してサタンも加わる「天使の会議」になります。このような創造神話の復活によって、超越的なヤハウェの一元的な主権のもとに神話的二元論が暗い様相で現われることになりました。ヨブに代表される信仰の閉塞状態と神秘に満ちかつ冷徹とも見える宇宙の神、この出会いの中から黙示思想が生まれてきたと考えられます。クロスはこう結論します。
  「このようにして、古代イスラエルの叙事詩的主題は、新しい複雑な歴史観へと変容し、二元的な神話を伴う暗い様相を帯びながら、それでもなお、歴史におけるヤハウェの至高性を保持し、神の民としてのイスラエルへの召命を確認し続けた。この捕囚後期から捕囚後の前期にかけての文学において、黙示思想の初期の特徴とその動機を読み取ると言うのが正確であると思う」〔Cross 346〕。
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