6章 堕天使たちとその名前
 
■シェミハザ
 「ベネ・ハエロヒーム」(神の子たち)の破滅を語る最古の黙示文学は『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の中にある「見張りの天使たちの書」です。そこでは神の子たちが、人間の娘たちに「肉欲」を抱いたとあります。しかし、この言い方は正確ではないので、以下に英訳を直訳してあげます。
 
あなたたちは、聖なる者たち、霊の者たちで、永生を持つ者。
だが、あなたたちは女の血筋によって己の身を汚し
肉の血筋によって子を生み
人間の血筋によって情欲を抱き
人間のするように行なったから
血肉となり、死んで滅びる。
 (『第一エノク書』15章4節)〔Nickelsburg(3)36〕
 
 ここにあげられた理由から判断するなら、天使たちの行為は、通常言われているような「高慢」からでた神への「反逆」行為ではありません。そうではなく、彼らが「身を汚した」と言われるのは、本来天界の「霊なる者たち」であるのに「肉なる者たち」と交わって、人間と同じ「血肉」となったからなのです。彼らが天から追放されたのは、自らの欲望に負けて、「人間の」女たちとの交わりに身を委ねたからです(第一エノク10章8〜9節/同15章4節参照)。これらの堕天使たちの指導者はシェミハザ"Shemihazah"です(第一エノク6章3節/同8章3節/同9章7節)。「シェミハザ」(原意は「わたしの名は見た」)というのは、クムランの死海文書の断片から復元されたアラム語原典の名前です。『第一エノク書』6章7節では、彼の後に20人の首領たちが続きます(第一エノク69章2節以下をも参照)。しかし、この堕天使たちのリストには、ベリアルもアザゼルもサタンの名もでてきません。ただし、アザゼル(英訳では「アサエル」のこと)は、シェミハザの同僚の副官として後にでてきますが(第一エノク9章6節/同10章4節)、これについては後述します。
 シェミハザ(「セミヤザ」とも訳されています〔ラッセル(1)188〕は、堕天使たちの頭目でありながら、彼の副官のアザゼル/アサエルに比較すると登場することが少なく、シェミハザの正体は明らかではありません。彼は、人間の娘たちとの結婚を言い出した張本人ですが(第一エノク6章2節)、その際に「実は、あなたがたはこういうことが実行されるのをひょっとすると好まず、わたしだけがこの大罪の尻ぬぐいをする羽目になるのではないかと心配だ」と述べています。この言い方だと、天使たちに誘いをかけてはいるものの、自分で強力なリーダーシップを発揮しているとは思えません。だから彼を堕天使たちの「王/頭目」だと見るのはあたらないようです〔ラッセル(1)225注54〕。彼の言う「大罪」とは、具体的に何を指すのかはっきりしませんが、前後の内容から、欲望に駆られて人間の娘を妻とすることだと思われます。しかし、ほんとうは、肉欲にかられたことよりも、ほんらい独身であるはずの天使の身でありながら、自分の子孫を残そうとしことのほうに、彼らの罪の本質があると見ることができましょう。どちらにせよ、シェミハザには、アザゼル(アサエル)やサタンのように、神に「敵対して反逆する」という意図は見えません。『第一エノク書』8章3節によれば、彼が人間に「全ての魔術/呪(まじな)いと(草木の)根を断つこととを教えた」とありますから、魔術や医療(薬草による)を人間に伝授したことになります。このことから、シェミハザは単にアザゼル(アサエル)の脇役に過ぎないという見方もあり、また、後でサタンが堕天使たちの「王座につく」ことを思えば、シェミハザには悪の頭目の名前だけが与えられていて、他の堕天使たちの「尻ぬぐいをさせられる羽目になる」(英訳では"I alone shall be guilty of a great sin.")という彼の予感は、あたっていたようです。
■アサエル/アザゼル
 村岡訳の『エチオピア語エノク書』では、この堕天使の名前は「アザゼル」"Azazel"と訳されていますが、英訳のほうでは「アサエル」"Asael"です〔Nickelsburg(3)〕。『第一エノク書』6章7節にあるシェミハザを頭とする堕天使たちのリストに、「アザゼル」はでていません。村岡訳の『エチオピア語エノク書』でアザゼルがでてくるのは8章1節が最初で、次いで9章6節と10章4節です。訳者は、この堕天使をレビ記16章8〜10節にでてくる荒れ野の悪霊「アザゼル」と同一視するところから「アザゼル」という訳語を当てたのでしょう〔村岡訳『エチオピア語エノク書』344頁注(3)〕。
 しかし、英訳は、村岡訳の「アザゼル」に、「アサエル」"Asael"という名を与えています〔Nickelsburg(3)〕。この「アサエル」は、『エチオピア語エノク書』/『第一エノク書』の6章7節の堕天使たちのリストの10番目にでてきます。「アサエル」というアラム語/ヘブライ語の原意は「神は造る」です。後で述べるように、『第一エノク書』では、このような場合の「神」は「天使」とほぼ同じ意味で用いられていますから、この名前は、同じリストの他の天使たちと同じように、自然と宇宙の様々な機能/働きを指すのでしょう。なお、「シェミハザ」(「わたしの名は見た」)の意味は、「わたし=神/天使は見た」という意味で、これには、神/天使は彼の罪の行為を「見た」という皮肉が込められているのかもしれません〔Nickelsburg(4)179〕。
 アザゼルは6章7節のリストにはでてきませんが、アサエルは、そのリストの第10番目にでてきます。だから、アサエルが最初に登場するのはシェミハザの手下の一人としてです。しかし、10章では、アサエル/アザゼルがシェミハザよりも先に登場して(4節)、「全地はアサエル/アザゼルが教えることで堕落した。いっさいの罪を彼に負わせよ」(8節)とあって、シェミハザ以上にアサエル/アザゼルのほうが堕罪の責任を負わされています。シェミハザとアサエルとの扱い方のこのような食い違いは、ほんらいシェミハザ伝承とアサエル伝承のふたつの伝承があったことを示すものでしょう。
 これらの堕天使たちの伝承はヘルモン山の周辺に伝わるセム系の神話/伝承に由来すると考えられます。セム系の神話は、その起源が古く確かなことは分かりません。セム系の文明は、古代のウルク王朝(前2500年頃)からアブラハムの生きたウル第三王朝の時代(前1800年頃)にまで及んでいます。メソポタミアを流れるチグリス河とユーフラテス河に沿って、古代のシュメール文明を受け継いで生まれたのがセム系の古代アッカド王国(前2500年頃)とエブラ王国(前2300年頃)で、古代バビロニア王国(前1800年頃)がこれらの文明を統合し継承しました。セム系の文明は、チグリス河とユーフラテス河に沿って北上し、三日月型に弧を描いて、カナン地方からパレスチナ地方へと南下します。この「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる地域にセム系の文化が形成されたのです。アブラハムがウルを出て、ハランへと北上し、そこからカナンへ降ってベエル・シェバへいたる旅の通路とこの三日月地帯とがちょうど重なります。言語的に見ると、古代アッカド語、バビロニア語、アッシリア語など三日月の東部のセム系言語と、アラム語、ウガリット語、カナン語、ヘブライ語など西部のセム系言語とに別れます。
 シェミハザ伝承もアサエル伝承もこのセム系の神話へとさかのぼると考えられますが、その起源はよく分かりません。ちなみに、創世記6章以下の洪水とノアの箱船伝承は、ウルク第一王朝時代(前2700年頃)にシュメール語で書かれた『ギルガメシュ』の物語にその原型がでています。レビ記16章(6〜10節)のアザゼルも、おそらくその起源は古代のアサエル伝承へとさかのぼるもので、これが、後に変容して「アザゼル」としてレビ記に採り入れられたと考えられます〔Nickelsburg(4)180〕。
 シェミハザとアサエルの堕罪に関する伝承で、もう一つ注目されているのが、ギリシア神話のプロメーテウス物語です。この物語はギリシア神話としてよく知られていますが、これもまた、ほんらいは、シェミハザ伝承とアサエル伝承のもととなったセム系の神話から派生したと考えられます。この場合、プロメーテウスと共通するのはシェミハザではなくアサエルのほうですが、この問題は後の章で扱います。後述するように、アサエルが人間にもたらしたのは、武器その他の金属類の製法ですから、これは火を扱う冶金の技術と関連しています。ただし、冶金の技術は創世記4章21節にでてくるトバル・カインの記事にもでてきますから、『第一エノク書』のアサエル伝承は、これをギリシア神話と関連づけるのではなく、直接創世記のトバル・カインがその出所だと見る説もあります。しかし、トバル・カイン伝承よりもプロメーテウス神話のほうがアサエル伝承との類似性が強いことから、創世記のトバル・カイン伝承も、ギリシアのプロメーテウス神話も、『第一エノク書』のアサエル伝承も、共に同じセム系の神話/伝承へさかのぼらせて観るほうが適切だと言えましょう〔Nickelsburg(4)"Excursus:The Origin of the Asael Myth."191〜92〕。
 以上のことを含んだ上で、ここで、「アザゼル」の名前に由来するレビ記の記事を紹介します。レビ記16章は、贖罪の規定について述べる重要な箇所です。ここでアロンは、雄山羊2頭を臨在の幕屋の入り口へと引いてきます。その雄山羊のうち、1頭は贖罪の献げ物として祭壇に捧げられますが、もう1頭は、贖いの儀式を行なった後で、荒れ野の悪霊アザゼルのもとへ追いやられます。ちなみにこの「アザゼル」は、マルコ福音書5章で、イエスが追い出した悪霊に関係するのではないかと考えられます〔私市『聖霊に導かれて聖書を読む』108〜09頁〕。この不思議な儀式は、年代的に見るとずいぶん古いもので、殺されて捧げられた一方の雄山羊の儀式が済むと、アロンはイスラエルの人びとのすべての罪責と背(そむ)きと罪とを告白し、アロンの手によって、これらのすべての罪責をもう1頭の雄山羊の頭に移して、これを荒れ野の奥へと追いやるのです。その雄山羊は「全ての罪責を背負って無人の地へと行く」とありますから、これはまさに「身代わりの山羊」です。ルネ・ジラールという社会心理学者は、この身代わりの山羊が、イスラエル共同体の内部に渦巻く敵意や憎しみや暴力を解消するためにどうしても必要な儀礼であり、それが宗教的、社会的にどのように機能していたのかを解明しながら、この祭儀の社会的宗教的な意味をイエスの処刑やペトロの否認やゲラサの悪霊と関連づけています〔ジラール『身代わりの山羊』164頁以下〕。
 レビ記のアラム語訳では、山羊が追われたその荒れ野は「ツクの荒れ野」と呼ばれていて、これはエルサレムの南5キロほどの所にあるベイト・ハルデのことであり(ベツレヘムの辺り?)、雄山羊は、そこの崖から突き落とされることになっています〔村岡前掲書344頁(注3)〕。『第一エノク書』に、「アザゼルを縛って暗闇へ放り込め、ダドエル(ごつごつした神の山の意味)にある荒れ野に穴を掘ってその中に永久に坐らせておけ」(第一エノク10章4〜5節)とあるのもこの儀式と関連するのでしょう。ただし山羊が背負った悪霊に対するこの処置は、最後の審判ではなく、終末までの仮の処置のことです〔村岡前掲書344頁(注4)/第二ペトロ2章4節参照〕。
 先に述べたように、アザゼルではなくアサエルの名が、『第一エノク書』6章7節と69章2節の堕天使たちのリストの10番目に出てきます。これらのリストでは、筆頭がシェミハザです。ところがアサエルについては、さらに『第一エノク書』54章5節で、「アサエル(アザゼル)が率いる天使の軍勢を捕らえて地獄の深みへ投げ込んで、彼らのあごにごつごつした石をいっぱいくっつけてやれ」と神がミカエルたちに命じています。これも最後の終末において彼らが「燃えさかる火の炉に投げ込まれる」までの仮の処置ですが、ここではアサエルが、天使の軍勢を「率いて」いて、しかも彼は、サタンの手下とされています。アサエルの名は『第一エノク書』全体に見られますが、サタンが登場するのは37〜71章だけです。この部分は成立年代が新しく、54章は「ノア書」よりも後の部分ですから、サタンは後になってアサエルの頭にされたのでしょう。このことから判断すると、サタンが登場するのは紀元前1世紀頃からで、サタンが、それまでの「ノア書」のアサエルに取って代わったと見ることができます。
■堕天使の降下時期
 『ヨベル書』4章15節によると、見張りの天使たちが、神から遣わされて地上へ降ったのは、イエレド(ヤレデ〔村岡訳〕)の時であったとあります。イエレドはエノクの父で、系図では、イエレド→エノク→メトシェラ→レメク→ノア→セム/ハム/ヤフェト(創世記6章18〜32節)のように続きます。『ヨベル書』で、天使たちが遣わされたのは、「地上で正しいことを人類に教えるため」とありますから、イエレドの前の時代には、天使たちの堕罪はまだ生じていなかったことになりましょう。彼らはイエレドの時期にヘルモン山に降り立ったのです。だから天使たちは、地上へ降下した後で罪を犯したことになります(ヨベル5章1節)。だとすれば、天使たちの堕罪は、イエレドの後に、エノクの時代に起こったことになります〔グラッソン『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』113頁〕。『ヨベル書』では、「神の子たち」ではなく「主のみ使いたち」となっていますから、ここでは明らかに「天使の」堕罪が意識されています。この段階では、サタンやベリアルの名前がでてきませんから、彼らが堕天使として登場するのは、「ノア書」以後においてであることが分かります。
 「神の子たち」の項で述べたように、この伝承の起源にさかのぼるなら、ほんらい人間の勇者たちであった者が人間の娘と結婚するのは不自然ではありません。だから、創世記では、洪水が起こったのは、「神の子たち」のゆえというより、むしろ人間の罪に対する罰とされています(創世記6章5節)。ただし、創世記のこの部分はヤハウェ資料に基づいています。ヤハウィスト(たち)が、はたして「神の子たち」をその原初の「人間の勇者たち」の意味で理解していたかどうかは疑問ですから、ヤハウィストが、洪水物語の直前にこの話を置いたのは、やはり天での神々の会議で、何らかの異変が生じたことを示唆していると見るべきでしょう。これと関連して、詩編82篇1〜7節(前3〜2世紀)では、「あなたがたは神々、あなたがたすべては至高者の子かもしれない。しかしあなたがたは人が死ぬように死ぬ」とあって、ここでは、神が「神の子たち」を裁き、彼らは永生を失って死ぬと宣告されています(ただし82篇の中の2〜4節の部分は王権に関するもので、後からの挿入です)。もっともここでは、天使たちが地上へ降下するとは言われていません。また、神の子たちがどのような罪を犯したのかも明らかにされていません。それにしても、創世記6章1節から詩編82篇までの間に、少なくとも300年間が経過しているのに、そのどちらも、神々の天の会議において、何らかの異変が起こって、その一部が罪を犯したという内容を含んでいるのです。だから、『第一エノク書』を初め黙示文学は、この伝承を踏まえた上で天使の堕罪論を発展させたと考えられます。『第一エノク書』でも「罪は(天から)地上に送られたのではなく、人間自身が作り出した」(98章4節)とありますが、人間に「天の秘密」を教えたのが、シェミハザとアサエルであるのは間違いないでしょう。以上を総合しますと、黙示文学において天使の堕罪とこれによる「悪の起源」が生じたその直接の原因は、シェミハザとアサエル(アザゼルとも関連するか)の登場に始まる。このように結論してもいいでしょう〔ラッセル『悪魔』192頁〕。
■『第一エノク書』2章〜5章
 『第一エノク書』の2章2節に、アラム語で「神のあらゆる御業」"all the works of God" とありますが、これはヘブライ語の「神の驚くべき御業」(ヨブ37章14節)にあたるものです。この「神のあらゆる御業」はクムラン文書に繰り返し表われ、創造と歴史に関わる「神の業」を意味する重要な鍵語です。『第一エノク書』の2章2節は、「観察せよ/注目せよ」で始まりますが、これは神がその業を通して啓示することを「オーズ」(観る)するように求めているのです。ここで大事なのは、神の「あらゆる」御業とあるように、神が天体や自然を通して「行なう/実行する」業とその出来事が、「人間が行なったあらゆる邪悪の業」"all the wicked deeds that they have done"(1章9節)と対照されていることです。ここで言う神の御業は、神の創造的な働きを指しますが、特にその自然界(人間以外の神の被造物)が、神の定めと律法に忠実に従い、その定め/律法の命令に完全に服従していることです。このことが、人間の「律法を外れた邪悪な」業と対照されるのです。
 「御業」(ギリシア語「エルガ」複数)にあたるヘブライ語は「マァシェ」(行為/活動/働き)で、その動詞は「アーサー」(行なう/成し遂げる/建設する)です。『第一エノク書』では、自然が神の命令を「行なう」こと、すなわちすべてが、神の定めたとおりに秩序正しく生起することが、天文と暦においてきわめて重要だとされています(『第一エノク書』72〜82章)。しかも、「この文脈で重要なのは、これらの言語から読み取ることができる道徳的/倫理的な意味合いである。人類は、義の道をそれて、神の契約と諸々の命令を変えて、これを犯したのである」〔Nickelsburg(4)156〕とあるのに注意してください。エノク・グループが、神の業とその定め/律法について語る時に、その鍵語となるのはその御業を「変えるな」「破るな」です。被造物の秩序と予測可能なその行程(創世記8章22節)こそが重要であり、この点で、『第一エノク書』(4章1節)とシラ書(43章2〜4節)は共通していて、そこには、自然界を創造した創造主への頌栄が唱えられています。したがって、エノク・グループが人間の歴史について、その「初めから終焉/成就まで」を語る時にも、自然界のこのような神(とその律法)への服従と、これと対照される人間の不従順への神の裁きに焦点が絞られることになります。
 『第一エノク書』5章1〜2節で、鍵語となるのは「アーバド」(労する/働く/礼拝する)です。これは神の持続する創造の働きを表わし、特に、海が至高者の命令に服従させられることが重視されます(海は混沌と無秩序を象徴するからでしょう)。2章から5章の始めまでは、神が自然を通じて人間に教え示すことを「観察せよ/思いめぐらせ」とありますが、これに続いて「しかしあなたたちは、固く立って神の戒めに従って行動することをせず、道を外れて、高慢で頑なな言葉を語った」と2人称複数で告げられるのです。
 5章4節からは、神の命令に従わずこれを「歪める」罪人への裁きに入ります。ここで言う「罪」とは、神が定めた正しい道を「変更する」、「歪める」、「それる」、「迷い出る」こと(英語の"error")です。したがって、ここでは、神の定めた法/律法とはどのようなものなのか? これを探り求めること、すなわち神の定めた法/律法を「正しく解釈する」ことがきわめて重要になってきます。神の定めた法(ヘブライ語「トーラー」/ギリシア語「ノモス」)が、人間によって歪められている事例として、『第一エノク書』は天文と暦、すなわち当時のイスラエルの太陰暦を採り上げるのです。神の定めた天体の運行に対する誤った解釈に基づく誤った天文と暦は、民の社会と文化に禍をもたらすからでしょう。
 このような「罪」と「罪人」たちへの非難は、そのもととなっている「偽りの教え」に向けられ、さらに、その偽りから出る罪人らの「傲慢で頑なな言葉」に向けられます(5章9節)。自然と宇宙に働く神の法に倫理性を読み取るこのような観点と、このような観点に基づく自然認識は、こうして社会的、政治的な罪と不正にも向けられるようになり、その認識は、為政者たちの傲慢な圧政と重ねられます。神の尊厳に対する最大の傲慢は偶像礼拝です。また、このような「罪人たち」と対照されるのが「義人たち」で、義人たちは「知恵を授かり」ます。「知恵あるものは、不敬虔で高慢な歩みによって重ねて過誤を犯すことをしない」(第一エノク5章8節)のです。「罪人」と「義人」とを別つ最も重要な鍵語は「平和」(ヘブライ語「シャローム」)です。義人には平和が訪れ、罪人には平和が来ないのです〔Nickelsburg(4)157〜58〕。
 
『第一エノク書』6章注釈
1そのころ人の子らが数を増していくと、彼らに見目麗しい美人の娘たちが生まれた。
2これを見た見張りの天使たち、すなわち天の子たちは、彼女らを見て魅せられ、「さて、さて、あの人の娘らの中からおのおの嫁を選び、自分たちの子をもうけようではないか」と、言いかわした。
3彼らの筆頭であるシェミハザが言い出した。「実は、あなたがたはこういうことが実行されるのをひょっとすると好まず、わたしだけがこの大罪のしりぬぐいをするはめになるのではないかと心配なのだ」。
4彼らは異口同音に答えた。「ではわたしたちで誓いを立てよう。呪いの誓いで絆を結び、この計画をふいにしないこと、これを確実に実行することをいっしょに誓うことにしよう。」
5そこで一同は誓いをたて、(裏切り者を)呪う誓いを結んだ。
6そこに居合わせたのは合計200人で、彼らはヤレデの時代にヘルモン山の頂に降りたった。この山をヘルモンと名づけたのは、そこで誓いを立て、呪いの誓いで絆を結んだからである。
7以下はその首領たちの名である。彼らの頭目であるシェミハザ、2番目に続くのはアルテコフ、3番目はレマシェル、4番目はコカベル、5番目はアルムマヘル、6番目はラメル、7番目はダニエル、8番目はジケル、9番目はバラケル、10番目はアサエル、11番目はヘルマニ、12番目はマタレル、13番目はアナネル、14番目はセタウエル、15番目はサムシエル、16番目はサハリエル、17番目はトゥミエル、18番目はトゥリエル、19番目はヤミエル、20番目はイェハディエル
8以上は10名組のみ使いの首長たちである。」
(英訳〔Nickelsburg,(3)1 Enoch.24〕と『エチオピア語エノク書』〔村岡訳〕に基づく私訳。以下同じ。)
                           
[1]ここから、シェミハザとアサエルに導かれた「見張りの天使たち」の堕罪に入ることになります。1節は創世記6章1〜2節ほぼそのままです。訳文にはでてきませんが、冒頭は「そして(次の)出来事が起こった」です。「見目麗しい美人の」とあるのは、創世記6章2節の記述を1節へ移したもので、これを続く2節の「魅せられた」、すなわち「欲望した/欲情した」へつなぐためでしょう。
[2]「天の子ら」〔村岡訳〕は、創世記6章2節では「神の子たち」ですが、英訳では「見張りの天使たち、(すなわち)天の子たち」です〔Nickelsburg(3)174〕。反逆の天使たちですから「天の子たち」に伴う「聖なる者」は意図的に省かれていますが、ここでは(『第一エノク書』12〜16章にわたって)、彼らは確かに「天の存在」です。またこの2節には、「彼らは女たちをほしいと思った=欲情した」という創世記にはない追加がなされています。これは罪の起源を示唆する重要な言葉ですが、「欲情する」には、結婚して子供を産むことが結びついています。だから、「欲情する/欲する」(英語の"desire")は、続く「子を生む」ことをも含んでいます。人間の女性と交わって子を生むことは、天界と地上との区別を失わせるからです(15章4節)。「さて、さて」〔村岡訳〕とあるのは、むしろ「さあ〜しよう!」で、これから行なおうとする陰謀の意図を表わす言い方です。ほんらい「霊体」である天使たちが、人間と同じように生殖し子供を生むことで、その霊性が、堕落して神と人間との境界が失われること、これが「罪」の重要な要因と見なされているのでしょう。
[3]「シェミハザ」の原義は「神は見る」ですが、ここで言う「神」は、「天の存在/天使」に近い意味です。おそらくこの名前には、「神/聖なる天使たちはシェミハザの罪を見抜く」という皮肉が込められているのでしょう。なお、後の8章では、彼よりもアサエルほうが首領と見なされるようになります。彼らがグループで行動するのは、これによって、神の罰を回避するためでしょうか? それとも、数を頼んで神の座を奪取するためでしょうか? 
 シェミハザについては、「彼らのなかの筆頭である」(英訳 "their chief")とあって、ここでは、彼が堕天使たちの頭とされています。堕天使たちの頭については、ヨハネ黙示録に、竜(サタンの表象)が、その尾によって「天の星の3分の1を掃き寄せて、地上に投げつけた」(黙示録12章4節)と記されていて、これに続く12章7〜8節では、天において戦いが起こり、ミカエルとその他の天使たちが竜と戦いを挑み、その結果「もはや天使(たち)にはその居場所がなくなった」とあります(黙示録12章8節)。もしもヨハネ黙示録12章のこれらの「天の星」が、サタンの手下/天使たち("Satan's angels")を指しているとすれば、ヨハネ黙示録のこの箇所は、終末の出来事であると同時に、創世記6章が示唆する原初における天使の堕罪をも含むことになります〔Beale, The Book of Revelation. 636〕。
 ただし、『第一エノク書』では、高慢な王者や権力者たちが「地上を歩み、そこに住まう分際で、空の星を裁き、至高者に対して手をふりあげ・・・・・」とありますから、この「空の星」は、「天使たち」のことではなく、神に選ばれた聖なる者たち、特に「人間の」聖徒たちのことを指すと考えられます。「天の星」が迫害される聖徒を表わすのは、ダニエル書でも同様で、西(ギリシア)から現われた雄山羊が、やがて強大な角を生やして、「天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、すなわち星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった」(ダニエル8章10節)とあります。ダニエル書がここで言う「雄山羊の角」は、歴史的に解釈すると、ユダヤ教の礼拝を激しく弾圧したアンティオコス4世のことを象徴していますから、ここでも「星」は迫害された聖徒たちを指すことになりましょう。このように見るなら、ヨハネ黙示録の「地上へ投げ落とされた天の星」も、この世の権力に迫害される聖徒たちの表象となります。
 しかし、たとえ聖徒たちを指すとしても、ダニエル書には「天の万軍」とあり、『第一エノク書』には「地上に住む分際で空の星を」とありますから、これらは天に属する天使たちをもその視野に入れていると見るのが自然でしょう。だとすれば、地上の聖徒たちと聖なる天使たちは、共に「天の星星」として重ねられていると見るべきです。これを言い換えると、『第一エノク書』でもダニエル書でも、さらに時代が降ってヨハネ黙示録でも、天の領域に住む天使たちと地上にいる神の聖徒たちとの間には、明確な区別がつけられていないこと、両者が互いに共存するという観点が存在しえることを意味します。
 これは、天界(魂の住む不変の領域)と地上(動物としての肉体が存在する変転の領域)という、従来のギリシア的とも言える世界像、天界と地上という水平な二元性が、『第一エノク書』などのヘブライ的な黙示思想の世界像には必ずしも当てはまらないことを意味します。なぜなら、このようなヘブライ的な世界像では、神に仕える「聖なる存在」と神に反逆する「邪悪な存在」というふた種類の霊界が、天界と地上とを、ちょうど光の世界と闇の世界のように、天と地の両方を含みつつ、全体が垂直に分断されているからです。
 このように光と闇とに縦に分断される世界像は、ダニエル書の「人の子」(7章13節)が、天使なのか、人間なのか、地上の権力なのか、天の権威なのか、という問題とも関連すると思われますが、今はこの点に触れません。『ヨハネ黙示録注解』の著者ビールは、その12章4節の注釈で、モファットの次のような見解を紹介しています。
「ダニエル書8章10節は、先にはアンティオコス4世に適用されたものであるが、ヨハネは、今やこれをアンティオコス4世の背後に存在する悪魔的な力へと拡大して適用する。ダニエル書と同様にヨハネの言い方も、神の民への迫害について述べているが、おそらくそこには、(神の民に)対応する天使たちも含まれている」〔Beale 136〕。
 なおシェミハザがここ3節で、自分は「この大罪/大きな負い目」を背負う身(英訳 "a debtor of a great sin")になると恐れていますが、罪が「大きな負い目」とされていることに注意してください。罪を「負債/負い目」と見るこの考え方は、旧約以後から新約にかけて生じた罪概念です。『第一エノク書』によれば。姦淫(近親相姦を含む禁じられた性行為のこと、これには動物を含む異なる種と人間との性交も含まれます)と偶像礼拝と殺人が三大罪悪です。
[4〜6] 【一同は誓いを立て】ここで言う「誓い」は「呪い」と同じ語で、この「呪いの誓い」は、仲間破りと裏切りに対する呪いのことです。しかしここには、彼らの思いとは逆に、その一致団結した「呪いの誓い」こそが、自分たちへの神からの呪いを招く、という二重の「呪い」が重ねられています。このような「呪いの誓い」は、神への意図的な反逆を示すものです。
【ヤレデの日に降った】ここでは、ヘブライ語の「ヤーラド」(降る/墜ちる)と「ヤレデ」とが掛け詞になっています。この言い方はアラム語では不可能です。「ヤレデ」〔村岡訳〕/「イエレド」〔新共同訳〕/"Jared"〔REB/NRSV〕は、創世記5章18節ではエノクの父です。ところが、同4章17〜18節では、エノクはカインの息子で、イラド〔新共同訳〕/"Irad"〔REB/NRSV〕がエノクの父になっています。したがって、エノクに関する二つの系図を比べますと、イエレドの息子エノクとカインの息子エノクとがあって、「エノクの父」にはふたとおりの系図があります。
(1)創世記5章では、アダム→セト→エノシュ・・・・・イエレド→エノク→メトシェラ・・・・・ノアとなります。これはセツ/セト系のエノクの系図です。
(2)創世記4章では、アダム→カイン→エノク→イラド・・・・・で、これはカイン系のエノクの系図です。
 このように、エノクには、セツ系とカイン系と二つの系図が存在していますが、セツ系は祭司資料であり、カイン系はヤハウェ資料です。二つの系図では、エノクの父「イエレド」とエノクの息子「イラド」は別人になっていますが、もしもこの二人が同一人物であったとすれば、イエレド/イラドをエノクの父とするほうと、逆にエノクの息子とするほうとがあり、二つの系図の関係が問題になりましょう。
 「エノク」という名前の由来についても、「創立者/創始者」の意味と「導入者/導き入れる人」とのふたとおりの原義が考えられます。創世記4章でカインの建てた町の名が「エノク」になっていますが、「エノク=創立者」という名から判断すると、実はエノクが、この町の創立者ではないかと思われます。また、創世記5章22〜23節では、エノクについて「そして彼は神と共に歩んだ」が二度も繰り返されていますから、これは、彼がなんらかの秘義あるいは神秘体験への「導入者/導き入れる師」であったことを示すと考えられます。
 セツ系では、彼は365年生きた後で、「神が取り上げた/天へ上げられた」とあります。この「365」という年齢は、太陽暦の1年の日数を表わしますから、エノクは、太陽神あるいは太陽の運行とつながりがあると推定されています。『ヨベル書』4章17節に、エノクは書く技術と知識と知恵を初めて導入し、天のしるしを(特に太陽暦のこと)その月の順序に従って書き記したとあるのも、この推定と符合します。
 実は、このようなエノク伝承には、バビロニアの神話/伝承がその背後にあると考えられます。それは古代バビロニアの「洪水前の10人の王名」と呼ばれる文書板で、アポロドルス("Apollodorus")とアビデヌス("Abydenus")が書き遺したベロッスス("Berossus")の断片です〔Skinner, Genesis.132〜39〕。この文書板の断片は、シッパルの王アシュルバニパルの文書板群から発見されたバビロニアの祭儀に関わる文書板で、そこには、洪水前の10名の王たちの名前が記されています。このリストの7番目にでてくるのが「エンメドゥランキ」("Enmeduranki")です。シッパルは、太陽神シャマシュを信奉する町で、エンメドゥランキは、そこの神官として、太陽神シャマシュとの交わりに入り、「アヌとエアの愛し子」と呼ばれました(「アヌとエア」は、古代シュメールの天の神アヌと大地の神エアで、この神々は、アッカド王国を経てセム系の神話に採り入れられました)。彼は子孫にその占いの術(占星術)を秘義として伝授したと言われています。
 ベロッススの断片では、王名がギリシア語で書かれていますが、これらの王名は、1893年に、ホンメル(Hommel)によって、もとのバビロニア語に移し替えられました〔Skinner137〕。王名の1番目は「アルル」です。これは、バビロニア神話の太母~イシュタルに由来する名前で、彼は「人間の種」を創造します(この名前は創世記3章20節のエバの名前の由来でしょうか〔Skinner102〕)。2番目は「アダパ」で、3番目は「アメル」(人/人類)です。4番目が「ウマヌ」(働く人)で、その7番目が「エンメドゥランキ」です。先に述べたように、彼は占い(占星術)の神官であって、エノクと同様に、神々のもとへ上げられ、天の秘義に与ったと伝えられています。なお10番目の王「ハシアサトラ」は、アトラ・ハシースのことです。アトラ・ハシースは、洪水伝説を語る『アトラ・ハシース物語』にでてくる「最高の賢者」で、同じく洪水伝説を伝える『ギルガメシュ叙事詩』に登場する賢者ウト・ナピシュティ−ムの系譜につながる人物です。ノアは、古代シュメールや古代バビロニア神話にでてくるこれらの人物の系譜につながると見ることができましょう。
 創世記5章のセツの系図とこれらバビロニアの王名とを直接結びつけることはできません。しかし、3番目の「アメル=人」は、ヘブライ語に訳せば「エノーシュ=人類」になり、4番目の「ウマヌ=働く人」は、ヘブライ語では「クーン=造る/製造する」にあたり、これは「カイン=造る/獲得する」の名前の語源です。同様に7番目の「エンメドゥランキ」も「エノク」と訳されていると推定できます。
 そこでもう一度、先にあげたセツ系とカイン系の二つの系図をこの王名のリストと照合させてみますと、セツ系では3番目にエノシュ(人類)、4番目がケナン、5番目マハラエル、6番目イエレド、7番目エノクになります。一方カイン系ではアダム、カイン、エノク、イラド、メフヤエルの順です。そこで、セツ系とカイン系の「人」を意味するアダム/エノシュから順に揃えてみると次のようになります。
 
セツ系:  (3)エノシュ(4)ケナン(5)マハラエル(6)イエレド(7)エノク
カイン系: (1)アダム(2)カイン(3)エノク(4)イラド(5)メフヤエル
 
 これで分かるように、アダム/エノシュと、どちらも「人」で始まり、カイン/ケナンが続きます。ここで、セツ系にあるマハラエルとエノクとを入れ替えてみると、二つの系図の3番目がエノク、4番目がイエレド/イラドで、5番目にマハラエル/メフヤエルが来ます。このように、「人」エノシュ/アダムから始めると、両方の系図とその名前とがほぼ一致しているのが見えてきます。
 では、セツ系ではエノシュが3番目にあり、カイン系ではアダムが最初にでてくるのはなぜでしょうか? バビロニアの王名では、「人」が3番目で、1番目と2番目は、神々の名前になっています。だとすれば、カイン系の系図では、神々である最初の二人が省かれて、アダム(人)で始めたとも考えられましょう。あるいはセツ系の場合は、バビロニアの王名のリストに準じて、「アダム」と「セツ」の二人は超人的/神話的な存在と見なされていて、このために3番目にエノシュ(人)が置かれたとも考えられます。ただし、今となってはこれら二つの系図の相互関係をこれ以上確認することは難しいようです。
 以上エノクを中心にして創世記のカイン系とセツ系の系図とを見てきました。これらの考察は20世紀初頭の聖書注解者によるものですが、ここにあげたバビロニアの王名リストと創世記の系図とのつながりについては、現在でもこれ以上に確かなことは分かっていないようです。また、『第一エノク書』のエノク伝承と創世記の祭司資料との年代的な前後関係も確定できません〔Rad,Genesis.72〕。しかし、バビロニアの王名リストに「人」が登場し、ヘブライ語のカインとエノクにつながり、最後にノアの洪水と関連する人物がでてくるという類似性は、偶然とは考えられませんから、何らかのつながりを想定することができましょう〔Rad,Genesis.71〕。
 ここで「ヤレド/イエレドの時代」に戻ることにします。先に見たように、セツ系とカイン系との系図では、イエレド/イラドとエノクとの親子関係が逆になります。イエレドがエノクの息子であれば、イエレドの時代に起こったとされる見張りの天使たちの堕罪は、エノクが天に移された後のことになり、これは『第一エノク書』93章3〜4節の記事と一致します。しかし、イエレドがエノクの父であれば、堕罪はエノクが昇天する前の出来事になり、同12章1〜14節と内容的に一致します。同86〜88章でも、エノクに与えられたヴィジョンが、未来に起こる預言的な啓示として描かれていますから(87章4節に注意)、これもエノク存命中のことではなく、彼の昇天の後になりましょう。したがって、「ヤレド/イエレドの時代」に起こった堕罪とエノクの昇天との前後関係は、『第一エノク書』のテキストからは確定できません〔Nickelsburg(4)1Enoch(1).177〕。ただし、天使たちの堕罪とエノクの昇天との前後関係が、伝承によって矛盾していることは、この二つの出来事に何らかの相互関係があって、時間的に相前後していることを示唆すると思われます。
【ヘルモン】「ヘルモン」は、ヘブライ語「ハーラム」(呪い)との掛け詞です。エノク伝承には、ヘルモン山周辺の長い神話的な背後があるのでしょう。この場合の掛け詞は、ヘブライ語でもアラム語でも可能ですから、アラム語を用いながらヘブライ語で考えることができた人たちの伝承だと見ることができましょう。
[7] ここの堕天使たちのリストは、69章4〜13節にも表われます。69章のリストは、6章のに比べて二次的であると思われますが、6章に表われない名前もあり、また同じ名前が異なる読みででてきますから、ふたつのリストを比べることで、名前の由来がより明らかになります。なお、20の名前のうちの16は「エル」(力/神/天使)の複合語です。以下にあげる20名の天使たちの名前は、村岡訳と英訳とでは、読み方も順番も異なっていますので、ここでは、英訳に従うことにします〔Nickelsburg(3)24〕〔Nickelsburg(4)179〜81〕。
(1)【シェミハザ】"Shemihazah" この名前はヘブライ語の「シェーム」(名前)と「イ」(わたしの)と「ハーザー」(眺める/観る/観察する)から構成されていて、原義は「わたしの名前は見た」"My name has seen."です。「わたしの名前」とは「わたしの神」のことで、この名前は「わたしの神は観た」を意味すると解釈されています。これには、堕天使たちの悪事が神の目から隠れることがないという皮肉がこめられているのでしょう〔Nickelsburg(4)179〕。「神が観る」には、創世記6章5節に「ヤハウェは人の悪事を観た」とあるのが反映されているのでしょうか。創世記6章には、ヤハウェ資料と祭司資料とが混在していますが、どちらも人間の罪を厳しく見て、そこに洪水がもたらす終末的な神の裁きを「観て」います。エノク・グループも、同じような観点から、「裁き」を予想させる名前でこの堕天使の頭を呼んだと解釈できます。
 ただし、わたしはここで、ヤハウェ資料や祭司資料よりもさらに以前のシェミハザ伝承にさかのぼって、この名前の由来を考える必要があると考えています。創世記のネフィリム伝承も、『第一エノク書』の堕天使伝承も、ヤハウェ資料や祭司資料よりも前の古代の神話的な背景を担っています。シェミハザに続く堕天使たちのうち、16名の名前には「エル」の接尾辞が付きますが、これは古代のセム系の「エール」から来ています。「エール」は古代アッカド語の「イル」から出ていて「神」を意味しますが、もともとはセム系の神の固有名詞であるイル/エール~のことです〔TDOT(1)244〕。「エール」の原義をさかのぼれば、具体的な自然現象を生起させる「力」あるいは「霊力」の働きに行き着くのですが、「エール」は「強さ/卓越性」を表わします。このエール神の名前は、旧約の「エロヒーム」(神)、「エル・シャダイ」(シャダイのエール~/全能の神)などに受け継がれていて(創世記17章1節/28章3節)、特に創世記49章25節では、「シャダイ」は母の乳房を意味する古代~の名残をとどめています〔TDOT(1)255〕。
 黙示文学の作者たちは、ヤハウェ資料や祭司資料の作者たちよりもさらに古く、すでに死語となっている「エール」の古代の用法を意図的に復活させて用いる傾向があります〔TDOT(1)255〕。したがって、シェミハザの名前に関しても、堕天使に向けられる皮肉と裁きだけではなく、そこに古代からのカナン神話の名残を読み取ることができると思います。だから、ここ6章の天使名にでてくる接尾辞の「エル」は、聖書の「神」よりもさらに以前の用法、「自然現象を司る天使」という原義をも潜ませていると考えられます〔Nickelsburg(4)179〕。
 だとすれば、「シェミハザ」という名を構成する「わたしの名前」も、神の裁きを意識した「わたしの神」という意味だけではなく、そこには、ほんらいの原義である「わたしの(自分の)名前」の意味が含まれていると解釈することができましょう。「名」はその者自体を表わしますから、「シェミハザ」は、「わたしの名前は観る」、すなわち「わたしは観る」という意味に取ることができます。この解釈に立てば、「わたしの名前」は、「わたしの神」すなわち聖書の神を表わすよりも、天使としてのシェミハザ自身のことを指すと見ることができましょう。「名」はその者自身のことですから、「シェミハザは観る」と解釈するほうが、より自然ではないかと思われます。言うまでもなくここでの「シェミハザ」は、それが「堕天使の」名前であることを意図して用いられています。
 『第一エノク書』では、1章2節から2〜3章を通じて、「観る」「見つめる」「注意して観察せよ」が繰り返されます。作者はここで、堕天使シェミハザの名前に「観る」を組み込むことによって、彼らが人類に「誤った観点」を持ち込んだことを示そうとしているのではないでしょうか。堕天使たちの首領の名前にこのような意味を込めることによって、彼らの「見方/見地」が、人類を滅亡させる暴虐と流血と大地の荒廃をもたらすことを警告し、同時に、正しい観点に立って「天と地の有様を思いめぐらせて観察する」(2章1節)ことを読者に勧めているのではないかと思われます。
(2)【アレトコフ】"Areteqoph"「アラキバ」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「アレートコフ」(地は力/砦)です。「地」は「天/神」に逆らう力の拠り所となる砦である、という堕天使の意気込みを伝える名前でしょう。村岡訳にはでていませんが、英訳では、彼は「大地の様々なしるし」"signs of the earth" を人間に教えたとあります(8章3節参照)〔Nickelsburg(3)25〕。地上で生起する様々な現象をば吉凶を占う「しるし」と見なす呪術が意識されているのです。なお「アラキバ」〔村岡訳〕はギリシア語訳に基づく異本からの読みです。
(3)【レマシェル】"Remashel"「ラメエル」〔村岡訳〕。ギリシア語訳から推定したヘブライ語名は「レマシュエール」で、「神の夕べ」を意味します。次にでてくる「星」とつながるのでしょうか。ただし、これを「ラムテエル」(神の燃える灰)と読む説もあります〔Nickelsburg(4)175〕。だとすれば、この名前は、地の火山活動を意味していて、煙と雷鳴の嵐を伴う神の怒りと裁きを表わすことになりましょう(詩編18篇8〜20節)。
(4)【コカベル】"Kokabel"原義は「神の星」で、"Star of God"と英訳されています。ヘブライ語「コカビーム」(星星)から来ている名前で、ヘブライ語名は「コカブエール」です。ただし、この名前も古代のカナン神話に起源を持つもので、ここでは言わば「凍結された古風な言い方」〔TDOT(1)254〕としてでてきます。名前の起源は「エールの星星」ですが、「〜の」は、様々な解釈が可能です〔TDOT(1)255〕〔Nickelsburg(4)178〕。原義は「神の星」と解釈されていますが、この名前がほんらい意味するのは、(1)「星星、すなわちエール~/星星であるエール(~)」と(2)「エール(~)の星星」とのふたつに分けることができ、(2)はさらに、「エールが住む星星」「エールが司る星星」「エールが動かす星星」などの意味を含みます。『第一エノク書』においては、この「エール」は、古代のカナン神話の「神」ではなく、むしろ「天使」ですから、「星/星星を司る天使」"the angel in charge of star(s)"〔Nickelsburg(4)179〕の意味でしょう。したがって「コカベル」は、ほんらい星の運行を司る天使のことです。8章3節に彼は「星星のしるし」"the signs of the stars"を人間に教えたとありますから、彼も堕天使の一人として、星/星星を占い(占星術)の拠り所とする「誤りの/偽りの」観察を人間に伝えたことになります。
(5)【アルムマヘル】"Armumahel"「神は分別」の意味です。判読の難しい名前で、ギリシア語訳の読みでは「オラムマメー」ですが、終わりの「ル」が抜けていると思われます。ヘブライ語名としては「オーラムエール」(神は彼らの光)と読む説と、「アルムーマエール」(神は分別である)と読む説とがあります。「神は分別」のほうであれば、意味の上で第7番目の「ダニエル」(神は裁き主)と関連するのでしょう。ただし、ここでも「コカベル」の場合のように、「神は分別(である)」と「神の分別」"prudence of God"の両方の意味に取ることができましょう。
(1)「神は分別」とすれば、神は堕天使たちの悪巧みを見抜く/見分ける、という含みであって、この名前は堕天使に対する皮肉をこめてつけられたことになります。
(2)しかし「神の分別」の意味に理解するならば、本来この天使は神に属する分別を具えていたのに、堕罪のためにその天使に具わる聖なる分別/識別が失われて、「聖なる知恵」が「汚れた誤りの分別/識別力」へと転じたことを示唆することになりましょう。
(3)「神」が「天使」を意味するとすれば、神に属する思慮を具えた「思慮の天使」(仏教の文殊菩薩=仏に代わるほどの完全な知恵を具えた菩薩)のことで、堕罪の結果、彼の思慮は、神に対する反逆を意図する「思慮/知謀?」へと転落したことを示唆することになります。
(6)【ラメル】"Ramel"「ラムエル」〔村岡訳〕。ギリシア語訳から推定したヘブライ語名は「ラミーエール」(神の雷/神は雷)です。雷は神の顕現を表わしますが、古代のエールは雷の神でもあったから、「神の雷」「雷のエール(~)」「雷を司る天使(雷神)」などの意味をも含みます。彼は3番目のラメエル(雷鳴)と関連するのでしょうか。雷は田畑に豊作をもたらすしるしとされ、また、天の中央から鳴り響くので最高神ともされて、古代のカナンと同様に、古代中国でも日本でも「風神・雷神」として崇拝されました。風神・雷神図は敦煌の洞窟にも描かれていますから、日本に伝わる「雷神」は『第一エノク書』のラメル/ラメエルと何らかのつながりがあるのかもしれません。
(7)【ダニエル】"Daniel"「ダネル」〔村岡訳〕。「神はわたしの裁き」。「ダニエル」という名の人間は、(1)ダビデ王の次男ダニエル(歴代誌上3章1節)。(2)エゼキエル書に、「ノア、ダニエル、ヨブ」の3人の賢者の一人としてでてくる人物(エゼキエル14章14節/同20節)がいます。ただし、エゼキエル書にでてくるダニエルは、イスラエルの人ではなく、ウガリット文書群(前1400〜1200年)の一つで『アクハト』の物語にでてくるダニルウ(ダニエル)のことだと考えられます〔『古代オリエント集』313頁〕。ダニルウは賢明な王であると同時に地上の豊穣を司る半~半人の伝説的な人物です。エゼキエル書のダニエルがこの人物であることは、エゼキエル書28章3節で、彼がフェニキアの王ティルスと比較されていることからも分かります(エゼキエル書のここの「ダニエル」は、ウガリット語では「ダヌル/ダネル」でしょう)。(3)聖書のダニエル書は、エゼキエル書と「見張りの天使たちの書」よりも後に書かれています。彼はイスラエルの人ですから、(2)のダネルとは異なる人物とされています。しかし、ダニエル書の作者の念頭には、カナンから伝えられたダネルのような賢者像があったのではないかと思われます。
 したがって、このリストの7番目の天使は、(2)のエゼキエル書の半ば神話的なダニル/ダネルのことでしょう。『ヨベル書』によれば、エノクは、この賢者ダニエルの娘エダニと結婚したことになっています(ヨベル書4章20節)。セツ系の系図では、エノクは7番目にでてきますが、ここのダニエルもリストの7番目です。
 問題は、ここでもこの名前が堕天使につけられていることです。サタンと同一視されている「バアル・ゼブル」(高く上げられたバアル/主)が、「バアル・ゼブブ」(蝿の王)という蔑称で呼ばれているのとは異なって、ここでの「ダニエル」は、そのままで読めば尊称です。だから「神の裁き」とは「神が裁く」ことであって、この名前も堕天使が神によって裁かれることを意図してつけられた皮肉と見ることもできましょう〔Nickelsburg(4)180〕。しかし「裁き」がほんらい「判断/判定/判別」を意味することを考えるなら、ここでもこの名前は、5番目のアルムマヘルの場合と同じように、神に属する聖なる判別の働きが、汚されてその~性を失ったことを示していると見ることができましょう。
(8)【ジケル】"Ziqel"「エゼケエル」〔村岡訳〕。ギリシア語訳から推定したヘブライ語名は「ヅィキーエール」(神の流星)です。これはほんらい彗星あるいは流星を意味しますが、それだけでなく空を明るく照らす様々な現象をも含みます。8章3節では、彼は人間に流星のしるしを教えたとあります〔Nickelsburg(3)25〕。また、エノクは雲と霧に招かれ、流星と稲妻に促されて天へ上昇します(第一エノク14章8節)〔Nickelsburg(3)34〕。
(9)【バラケル】"Baraqel"「バラクエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「バラクエール」(雷光の神)。彼は6番目のラメルと関連するのでしょう。8章3節に、彼は人間に彗星や流星など空を照らすしるし"the signs of the lighting flashes"(「占星術」〔村岡訳〕)を教えたとありますから、この天使の役目は8番目の天使とも関連します。
(10)【アサエル】"Asael"「アサエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「アサエール」(神は造った/行なった)。聖書にでてくるアサエルという人物には、ダビデに仕えた将軍の弟(サムエル記下2章18節)やレビ人アサエル(歴代誌下17章8節)などがいますが、彼らは天使とは別人です。「アサエル」は、フェニキアやアラム語圏でも用いられた名前ですから、この天使名がヘブライ起源とは限りません。問題は、彼が『第一エノク書』8章1節/9章6節にもでてきて、しかもそこでは(特に9章6節では)、彼は他の天使たちに優越する地位を与えられていることです。しかも、8章1節の「アサエル」には、ギリシア語訳では「アザエール」あるいは「アザゼル」"Azazel"とも読む複数のパピルス資料があります〔Nickelsburg(4)188〕。6章のアサエルと8章1節/9章6節の天使が同一であれば、アサエルは、6章のリストの10番目から8章ではリストの1番目に移されていることになります〔Nickelsburg(3) 24〜25〕。村岡訳では、6章のリストでは「アサエル」で、「アザゼル」の名はなく、8章1節/9章6節では「アザゼル」となっていますから、この読み方だと6章にはアザゼルはでてこないで、8章以下になって堕天使たちを率いるアザゼルが登場することになります(アザゼルについては、先の「アサエル/アザゼル」の項目を参照)。6章のリストのほうが、8章あるいは69章の天使たちのリストに比べると古いと考えられますから、この食い違いは、6章から8章以下への伝承過程で名前が変容して、「アサエル」が、レビ記16章10節にでてくる悪霊「アザゼル」と結びつき、両者が同一視されたためと考えられます〔Nickelsburg(4)180〕。したがって、村岡訳『エチオピア語エノク書』では、この頭目の名前は「アザゼル」になりますが、英訳では「アサエル」です。以後筆者は、この「アサエル/アザゼル」を「アサエル」と表記することにします。
(11)【ヘルマニ】"Hermani"「アルメルス」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「ヘルマニ」(ヘルモンの者」です。この名前はおそらく、堕天使の伝承が、ガリラヤ北部のヘルモン山の周辺に起源を持つことから来ているのでしょう。8章3節で彼は(村岡訳では「アルマロス」)、呪縛や魔術の業を解く(無効にする)呪文や呪術を人間に教えたとあります。
(12)【マタレル】"Matarel"「バトラエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「マータールエール」(神の雨)です。以下に「雨」と「雲」と「冬」(雨の多い季節)の気象/季節に関わる三天使の名前が続きます。
(13)【アナネル】"Ananel"「アナニエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「アーナーネール」(神の雲)です。
(14)【セタウエル】"Setawel"「ザキエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「セターウエール」(神の冬/雨期)です。
(15)【サムシエル】"Samshiel"「シャムシャエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「サムシエール」(神の太陽)です。雨期を表わす天使たちに続いて、空を照らす太陽と月の天使名が来ます。彼は「太陽のしるし」"the signs of the sun"を人間に教えた(8章3節)とありますから、具体的には太陽暦に関することでしょうか。
(16)【サハリエル】"Sahriel"「サハリエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「サハリエール」(神の月)です。ヘブライ語では「月」は通常複数で用いられますから、ここでは太陰暦に関わる事象のことでしょう。
(17)【トゥミエル】"Tummiel"「タミエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「トゥミエール」(神の完成)です。この名前はヘブライ語「トーム」(完全/完成/廉直)から出ています。神の創造した被造物全体が完全であることを指すのでしょう。この名が堕天使に用いられていることは、人間の堕罪と同時に、被造物全体がその完全性を失ったと考えられているからです。神は天使ラファエルに向かってこう告げます。「大いなる裁きの日には、アサエルは燃え上がる炎のなかへ投げ込まれる。こうして番人どもが荒廃させた/堕落させたこの大地を癒やせ。こうして大地を癒やせ。疫病から(地が)癒やされるために。番人どもが人の子孫に告げ知らせた秘義によって人の子たちがすべて滅びることがないように」(第一エノク10章6〜7節)。
(18)【トゥリエル】"Turiel"「トゥルエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「トゥリーエール」(神の山)。ここで「山」と「海」に関わる天使たちがでてきます。
(19)【ヤミエル】"Yamiel"「ヨムヤエル」〔村岡訳〕。ヘブライ語名は「ヤミエール」(神の海)あるいは「ヨーミエール」(神の日)です。ふたとおりのヘブライ語名が可能ですが、「山」と並んで「海」のほうを指すと考えられます。
(20)【イェハディエル】"Yehadiel"。ヘブライ語名は「イェハディエール」(神は導く)です。
[8]【10名組】20名の首領が、それぞれに10名を率いているので全部で200名です(村岡訳『エチオピア語エノク書』では「10名組のみ使い」ではなく「200人のみ使い」です)。この分け方は、第二神殿時代よりも以前のイスラエルの軍隊組織に対応しているのかもしれません〔Nickelsburg(4)181〕。
■名前のまとめ
 『第一エノク書』82章7節には、天使ウリエルが、主なる神から全被造物の秩序を保つ命を受けて、これを司るとあります。この天使は、天において、昼と夜とを司り、人間を照らす光を割り当て、太陽、月、星星、その他の諸々の天体の運行を司っています。ウリエルの下に、四つの季節を司る指導的な四天使たちがいて、さらに彼らの下には、一年の月を司る12名の天使たちがおり、さらにその下には、日と日とを別つ360名の天使たちがいて、彼らは幾千もの星星を支配しています。これが、聖なる神の秩序に従って、正しく運行する諸天体のあるべき姿です。これから判断するなら、宇宙を司る天使たちは無数にいることになります。ただし、ここ6章では、天体の運行や地の事象を司るのは、神の聖なる天使ウリエルではなく、7節にあげられた堕天使たちを首領とする200人の天使たちです。しかも、これはまだ一部であって、82章には、ほかにもまだ大勢の堕天使たちがいることが示唆されています。
 6章7節の堕天使たちの名前から判断すると、それらは二つに大別されます。一つは、創造、思慮/分別、裁き/判定、被造物の秩序/完全性、導き、などを意味する名前で、これらはすべて神の御心/御意志に関わる内容を持つ名前です。もう一つは、気象、太陽、月、星星、海と山、季節など被造物全体に関わる名前です。すなわち、神の創造した秩序と、この秩序に働く神の御心、これらに対応するように堕天使たちの名前が割り当てられているのが分かります。だから彼ら堕天使たちは、神のみ心と神の創造の秩序、この全体を自分たちの支配の下に置き、そうすることで、神の創造の御業全体に「取って代わろう」とする者たちであり、ここにでてくる堕天使たちの名前は、このようなもろもろの霊力を表象していると考えられます。8章では、これらの堕天使たちが、それぞれの名前に応じた知力と知識を人間に教えこみます。言い換えると、人間は、人間を超えた霊的な力によって、自分たちの知力と知識とが支配されている、というのが、これら堕天使の名前が告げていることなのです。
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