7章 巨人たちの暴虐
■『第一エノク書』7章注釈
1彼らも共にいるすべての者たちも、自分たちの選んだ女たちから一人ずつ妻をめとった。彼らは彼女たちに入り込み、彼女たちと交わりはじめた。また女たちに魔術と呪(まじな)いを教え、(薬)草の根や灌木の断ち方を教えこんだ。
2すると彼女らは彼らによってはらみ、とてつもない巨人を生んだ。巨人たちはネフィリムを生み、ネフィリムにはエリウドが生まれた。すると彼らは、その大きな背丈に応じて成長した。
3彼らはすべての人間の労苦の実を食いつくしてしまい、人間はもはや彼らを養うことができなくなった。
4そこで巨人たちは、人間をむさぼり食おうと彼ら(人間)を殺し始めた。
5彼ら(巨人たち)は鳥や獣、(地を)這う生き物や魚に対して罪を犯し、互いの肉を食らいあい始めた。彼らはまた、血をすすった。
6そのとき、地はこの無法者たちに対して非をならし訴えをおこした。
*訳文は、〔Nickelsburg,(3)1
Enoch.〕と〔村岡訳『エチオピア語エノク書』〕に基づく私訳です。
ここでは、創世記6章2節と同4節前半の記述とが結びつけられています。しかしながら、創世記6章5〜7節と同11〜12節では、邪悪と暴虐を行なうのは人間のほうであって、巨人たちは直接これに関わってはいません。ところが、『第一エノク書』では、暴虐と大地の汚染と荒廃は、巨人たちとその子孫によってもたらされるのです。その上で彼らは、人間を犠牲にして食い、鳥や獣などの生き物に対して罪を犯すのです。聖書の記述から『第一エノク書』へのこの視点の移動はきわめて重要で、これが『第一エノク書』の9〜10章へとつながり、彼らの暴虐が、洪水の原因になります。
[1]【共にいるすべての者】6章にでている20名だけでなく、彼らに率いられた180名すべての堕天使たちのことです。
【彼女たちに入り込む】「入り込む」はほんらい性交を指します(創世記30章4節)。しかし、天の霊的な存在がどのようにして人間の肉と「交わる」のか? その説明はありません。だから、ここの「入り込む」には、霊的な存在が、そのままで人間の肉体に「入り込む」という意味合いも含まれているのでしょう(この見方から、ここは、直接性交を指しているのではないという説もあります)。ところが、『第一エノク書』39章1節には、堕天使たちの地上への降下と堕罪とに対照させる意味で、裁きの時には、「選ばれた聖なる子ら(神の天使たち)が上なる天から降りてきて、彼らの種は人の子らとひとつになる」〔村岡訳〕とあります。これで見ると、聖なる天使たちの「種」が、義人と聖なる人たちに宿ることになります。ちなみに、ここで言う「選ばれた聖なる天使たち」は、第一テモテへの手紙5章21節を思い出させます。また「聖なる種」は、第一ヨハネの手紙3章8〜10節にでてくる「神の種」とつながるのでしょうか。
神の聖なる天使たちが地上の義人たちに種を与えることが可能だとすれば、天の霊界から地上の人間界に降ったことそれ自体が堕罪を構成するとは言えなくなります。これらふた種類の天使の降下から判断すると、堕罪は、天の霊界と地上の人間界という上下関係を表わす水平な区分だけでなく、初めから神への反逆の意図を秘めた天の見張りの天使たちと人間たちとの混交と、これに対応する聖なる天使たちと聖なる義人たちとの交わりという、言わば天と地とを含む全体を垂直に二分する「聖さ」と「汚れ」の価値観こそが、地の繁栄か荒廃か、平和か暴虐かを分けていると見ることができましょう。
【交わる】「入り込む」に続く「交わる」も具体的な「性交」を意味しますが、同時に、ここでは天使たちの霊性が「汚される」という意味にもなります。"They began to defile themselves with them (women)."だから「交わる」は、霊的な存在と肉的な存在とが「混じり合う」という意味をも含みます。この結果「霊」と「肉」との区別が付かなくなるのです。この意味では、天使たちが「身を汚す」のは、彼らが人間と混じり合ったそのことに原因があるのであって、「人の娘たち」は、直接汚れの理由にならないとも言えましょう。しかし、10章11節には、シェミハザとその一味が「人間の娘たちとつるんで、彼ら(天使たち)は、彼ら(娘たち)によって、彼ら(娘たち)の汚れに染まった」〔英訳〕とありますから、人間の情欲と淫行が「汚れ」をもたらしたとも受け取ることができます。15章3〜8節には、天の天使たちが人間の女たちに対して「欲情して」、血肉(人間のこと)にその種を入れた結果、霊肉混合の巨人たちが生まれ、彼らの子孫が地上にはびこったために暴虐が行なわれ、またその巨人たちの体から地に悪霊が跋扈(ばっこ)し始めたことが語られています(第一エノク15章7〜9節)。
【魔術と呪】「医療と呪い」〔村岡訳〕。「魔術と呪い」以下は、8章3節で扱います。
[2]【巨人とネフィリム】この2節のギリシア語の異本では、「彼女らははらんで、背丈が3000キュビトというとてつもない巨人を生んだ」〔村岡訳〕となっています。ここには巨人とネフィリム(ヘブライ語では冠詞が付いた複数の「ハネフィリーム」)がでてきますが、この二者の関係について、以下で考察を加えておきたいと思います。
(1)始めに聖書の記事を確認しておきます。創世記6章2節では「神の子たち」(ベネ・ハエロヒーム)が人間の娘たちを妻にします。ヤハウェは、「わたしの霊(ルアハ)はいつまでも人間(アダム)のうちに留まるべきではない。彼は肉/人(バーサール)にすぎないから」と言い、人間の寿命を120歳に制限します(6章3節)。続いて「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは神の子らが人の娘たちのところへ入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たち(ギバーリーム)であった」(6章4節)とあります。
ここでは、神の子たち(ベネ・ハエロヒーム)が人間の娘に生ませたのが、「ネフィリム」と呼ばれる巨人たちであること、彼らには「わたしの霊(ルアハ)」とあるように、神の霊性を分かち持つ天使たちの霊が宿っていること、その結果、ほんらい無力で弱い肉(バーサール)にすぎない人間に、不釣り合いな超人的な体(背丈が3000キュビトとあるから約1300メートル!)と力が具わった英雄(ギバーリーム)たちが生まれたこと、このために神は、人間の寿命に制限を加えることによって、あまりにも「強く」なりすぎたネフィリムたち巨人を含む「人間」を制御しようとしたことが語られています。
この箇所は創世記の中でも最古の伝承に属する部分で、複数の神話的な要素が入り込んでいますから不明な点がいくつかあります。3節にでてくる「わたしの霊」が意味することもその一つですが、4節の文章でも、構文上、ネフィリムと英雄(ギバーリーム)とが、同じなのかそうでないのかが、はっきりしないなど、議論が分かれています。しかし、現行のままの内容で読み取るなら、語られている大意は上にまとめたようになるでしょう。
ここでは、ベネ・ハエロヒームと人間の娘たちの間にネフィリムが生まれて、これがギバーリームたちだとありますから、ネフィリム(巨人)とギバーリームとは、同一の存在を指していることになりましょう。しかし、創世記の記事から判断する限りでは、この「名高い英雄たち」(ギバーリーム)が、直接地上の暴虐や地の荒廃に関与しているようには見えません。もっとも、暴虐と荒廃は人間の罪から出ていて、ネフィリムとギバーリームも「人間」に含まれていますから、彼らも人間の罪と無関係ではないでしょう。しかも、聖書のテキストからは、彼らが、天使と人間との「異常な」(エノク・グループの言う「欲情/淫行の」)関係によって生まれた超人的な能力を有しているのが分かります。神の霊性を持つ天使と肉である人間との、このような言わば「不義」の関係、"illicit sexual union"〔Skinner145〕が、神の創造の秩序に混乱と「かき乱し」をもたらしたことをこの記述は示唆しています。その結果、ヤハウェは、「自分の霊」をこのような人間に宿らせることで、それが弱い人間の領域に超人的かつ「悪霊的な作用」"demonic invasion"〔Rad114〕を及ぼすことを懸念したようです。彼は、人間の行き過ぎた能力を発揮させることを許さず、これに制限を加えようとしたのです〔Skinner145〕〔Rad115〕〔ヴェスターマン111〜12〕。しかし、『第一エノク書』は、地上でのこのような超人的な人間性がもたらす彼らの霊性から、地上を荒廃させた暴虐と地上を支配する悪霊どもが生じたと見ているのです。
(2)「ネフィリム」は、創世記6章4節以外に民数記13章33節にも登場します。モーセがカナンのネゲブ地方に偵察を送って、その地方の様子を探らせた時に、帰ってきた偵察隊の中に「そこで我々が見たのはネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ」と告げる者がいます。ただし、ここでモーセの偵察たちが見たのは、創世記のネフィリムではなく、彼らの子孫たちのことです。創世記6章4節に「当時もその後も」とあるのはこの意味でしょう。「ネフィリム」という用語は、聖書中に2回しか表われませんが、これで見るとネフィリムの子孫であるギバーリームは、洪水以後も「名高い英雄/勇者」として存在していたことが分かります。民数記16章2節にでてくる「名のある(イスラエルの)人々」もギバーリームと見なされていたのでしょう。エゼキエル書32章27節に「武器を持って陰府に降った遠い昔の勇者たち」とあるのもこれらの英雄たちを指しています(創世記10章8節/イザヤ3章2節などを参照)。ネフィリム伝承は、このように、より人間化されることによって、英雄たちを指すギバーリーム伝承としてイスラエルに知られていたのです〔Skinner147〕。
(3)ギリシア語七十人訳聖書では、創世記6章4節の「ネフィリム」と「ギバーリーム」は、どちらもまとめて「ギガンテス」(複数「巨人たち」。英語の"giants"の語源)と訳されています。古代のカナンやギリシアの神話では、神々と人間の女性とが交わるのは少しも不自然ではありませんでした。ゼウスがアンピトリュオーンの妻アルクメネーと交わって生まれたのがギリシアの英雄ヘラクレスです。フェニキアでも創世記6章1〜4節に似た神々と人間との婚姻と洪水物語とが結びついた伝承があります。また、小アジアの北部フリギアでは、洪水にちなんで「ノア」と刻まれたギリシアの貨幣が発見されています〔Skinner141〕。洪水物語は、ヘレニズム世界に広く知られていましたから、この貨幣の文様も聖書の洪水物語から出ていると考えられます。
問題は、聖書のネフィリムとギバーリームが、「ギガンテス」(巨人)と訳されてギリシア世界に知られていたことです。これが、ギリシア神話のティターン族と結びついた可能性があるからです。ティターン族は、ゼウスに反逆した古い神々で、彼らもまた「巨人」(英語の「タイタン」"Titan")として知られていました。この問題は8章で扱うことにしますが、聖書のネフィリム伝承は、その背後に「神/神々と人間との交わり」というより広範囲な神話的背景を有していることをここで指摘しておきます。
(4)『第一エノク書』7章に戻ります。7章2節には、堕天使たちが巨人たちを生み、巨人たちがネフィリムを生み、ネフィリムがエリウドを生んだとあります。ここで問題になるのがネフィリムと巨人(ギバーリーム)との関係です。七十人訳ではどちらも「ギガンテス」ですが、アラム語では「ギバーリン/ギバーラー」です。これはおそらくヘブライ語「ゲベル」(単数「勇者」)から出たのでしょう〔Nickelsburg(4)184〜85〕。アラム語訳旧約聖書である『タルグム』では、この節について、七十人訳と同様に、ヘブライ語の「ネフィリム」も「ギバーリーム」も一様に「ギバーラー」(巨人)となっていますから、ギバーリーム/ギバーラーが、堕天使の子孫一般を指す言葉として用いられていたのでしょう。ただし、「ネフィリム」をシェミハザなどの堕天使のことと解釈し、その子孫たちをギバーラー(巨人)と呼ぶ『タルグム』の異本もあるようです。また、『第一エノク書』の「巨人の書」の資料断片では、ネフィリムとギバーリームとが区別されています。しかし、ギリシア語訳とエチオピア語訳では、ネフィリムもギバーリームも一様に「巨人」と訳されているようです〔Nickelsburg(4)184〕。
ではなぜ、『第一エノク書』では、堕天使→巨人→ネフィリム→エリウドのように、世代ごとに区別されているのでしょうか? 『第一エノク書』の86章4節と88章2節では、天から降った堕天使たちの子孫を象とらくだとロバにたとえています。これで見るとおそらく、シェミハザ伝承では、堕天使たちの子孫には三種類の異なる子孫が存在したと考えられていたようです。『ヨベル書』7章22〜23節でも、堕天使の産んだ子供を「ネピル」「エルバハ」「エルヨ」の3種類の名前で呼ばれています。ただし、『ヨベル書』では、彼らは互いに争い殺し合っていますから、世代ごとの分類ではありません。また、ヘーシオドスの『神統記』(147〜53行)には、天(父)と大地(母)との間に3人の息子、コットスとプリアレオスとギュゲスが生まれたとあり、彼らは巨大な体を持つ傲慢な息子たちで、「粗暴なやから」であったと記されています。このギリシア神話の影響を『第一エノク書』に読み取る説もありますが、確かではありません。堕天使たちの子孫が3種類に別れていたことから、『第一エノク書』では、彼らが一度に生まれたのではなく、3世代にわたって3種類の堕天使の子孫が生まれたと考えたのでしょうか? またなぜ、ネフィリムが(創世記とは逆に)巨人の子孫としてでてくるのか、確かな理由は分かりません。いずれにせよ、ここでは、「ネフィリム」(墜落する?)というセム系の語源の意味はもはや失われてしまって、単に「巨人の子孫」を意味する用語になっていたのでしょう。
【エリウド】さらに不明なのは、第三の「エリウド」です。この名前は、ギリシア語訳の『第一エノク書』にでてくるだけで、内容的に並行する『ヨベル書』7章22節では、「エルヨ」です。おそらく「エルヨ」は、『第一エノク書』から出ているのでしょう。ギリシア語訳「エリウド」の最後のdが、アラム語の名前の末尾の字を読み間違えたのであれば、dを別の字で読み替えることによって、この名前は、ヘブライ語の「アル・ヤハウェ」(ヤハウェに逆らう/取って代わる)から出ているとも考えられます〔Nickelsburg(4)185〕。とすれば、「エリウド」の由来は、内容的には、ダニエル書11章36節の傲慢な「王」に通じていることになりましょう。いずれにせよ、巨人の巨大な体は、貪婪な食欲を表わし、堕天使たちの子孫は、バシャンの王オグ(申命記3章11節)やゴリアテ(サムエル記上17章4節)や「マカバイ(鉄槌)と呼ばれるユダ」(第一マカバイ記3章3節)などに見られる巨躯(きょく)の猛者(もさ)を生み出すことになります。
[3〜5]以上見てきたように、聖書では、巨人の子孫たちは、巨大な体躯を具えた猛者(もさ)として表われます。ところが『第一エノク書』7章3〜5節では、この巨人とその子孫たちの描き方に大きな変容が生じているのです。
まず第一に、彼らは、その巨大な体を養うために、人間の労苦の実、すなわち人間が生産した食べ物をことごとく食いつくします。もはや人間の力では、彼らに食べ物が供給できなくなると、今度は、人間を殺して食べ始めます。それだけでなく、地上の動物や魚までも食べつくします。7章5節に「鳥や獣、(地を)這う生き物」とあるのは、エデンの園で、ほんらい人間の食べ物としては与えられていなかったものです(創世記1章29〜30節)。巨人たちがこれらを食べることで「罪を犯した」とあるのはこの意味でしょう。巨人たちは、それでもまだ足りず、今度はお互いを殺し合い食い合うのです。最後にユダヤ人としては最も忌まわしい「血をすする/飲む」行為を始めます。これは、神の創造した命それ自体を食らうことを意味し、神が与えた生命/聖命に対して暴虐/冒涜を犯すことです。だから、殺人と流血と血を飲むことが、洪水以後の人類にも固く禁じられたのです(創世記9章3〜4節)。
このように、『第一エノク書』の巨人は、創世記のそれとは異なって、暴虐の限りを尽くし、人間と地上の生き物を犠牲にするどう猛な姿で描かれます。彼らに具わる超人的な力は、人間の支配を超える恐ろしい悪霊的な威力となって猛威を振るうのです。ここに描かれている巨人たちの暴虐は、おそらく、戦いに勝利した当時の軍隊が、敗れた民に行なった暴虐をモデルにしていると思われます。
『ヨベル書』においては、巨人たちは、まず天の掟を破って「淫行」を持ち込みます。これが発端となって、暴虐が始まり、その暴虐は、人間たちをも同じ暴虐へと巻き込んでいきます。その結果「彼らは誰もが自分を悪に売り渡して暴虐を行ない、おびただしい血を流した。地は暴虐に満ちた」(ヨベル書7章21〜23節)とあります。ここで言う「堕罪/暴虐」(創世記6章11節)とは、『ヨベル書』によれば、偶像礼拝と近親相姦と殺人(流血)の三つのことで、これに「休閑すべき農地を休ませない」ことが加わります〔村岡訳『ヨベル書』7章21節注304頁〕。「この三つ/四つのゆえに洪水が起こる」(ヨベル7章21節)のです。
ついにこれらの暴虐に対して神の裁きが降ります。「主は、いにしえの巨人たちを容赦されなかった。彼らはその力を誇って反逆した」(シラ書16章8節)からです。こうして、洪水は「高慢な巨人たちを滅ぼし」(知恵の書14章6節)、その巨人の暴虐の霊に支配された人間をも滅ぼすのです。このように、『ヨベル書』では巨人たちの暴虐が強調され、シラ書では彼らの反逆が裁かれ、知恵の書ではその高慢が滅ぼされますが、『第一エノク書』の巨人には、これらの暴虐と反逆と高慢とが重ね合わされています。「巨人」のヘブライ語「ネフィリーム」は、おそらく動詞「ナーファル」(落ちる)の語呂合わせからでたのでしょうが、知恵の書(14章6節)では、巨人の特徴を表わすギリシア語は「ヒュペレーファノス」(傲慢)であり、「ソフィア」(知恵)がこれに対置されます。彼らは、戦いには巧みでも真の知恵に欠けていたのです。
[6]この6節「そのとき、地はこの無法者たちに対して非をならし訴えをおこした」は、ほんらい8章4節の「すると人間は滅び、その叫びが天へ上った」につながります。したがって8章1〜3節は後の挿入です。7〜9章にかけては、流血(7章4〜5節)と告発/訴え(同6節)とこれに対する天の応答(9章1〜2節)が語られます。
【訴えをおこした】「告発を引き起こす」ことで、裁判/裁きの法廷へ訴え出ることです。暴虐のために地は血で汚染されて、復讐を求める叫びが天に向かって訴えるのです。「義人の霊魂は滅びることなく、彼らの記憶は偉大なお方から消えることがない」(第一エノク103章4節)からでしょう。この義人たちの叫びが、神の裁きを促すのです(第二マカバイ記8章3〜4節/ヨハネ黙示録6章9〜10節)。そして義人たちの告発の叫びが天使の仲介を招き、彼らを通じて神による義人たちへの「宥め/納得」が示されます。「告発」と「仲介」と「納得/補償」の3要素をここに見ることができましょう。
以上で分かるように、この7章には、天の天使たちの「汚れ/堕罪」と巨人たちの「暴虐」と堕天使たちによる人間への「教化」と「大地の汚染」と、大きく四つの主題がでてきます。どの主題に重点が置かれているかについては、意見が分かれますが、中心となるのは、天使たちが「身を汚した/堕罪した」ことであり、その結果として生まれた巨人とその子孫による「暴虐」が続き、その血による汚れが大地の汚染と見なされていることです。8章で詳しく語られる堕天使たちによる人間の「教化」は、テーマとしては副次的で、このモチーフがなくても、天使たちの堕罪とこれに続く物語が成立するという指摘もあります〔Nickelsburg(4)184〕。確かに7章の段階では、教化は二次的な意味しか帯びていませんが、これの意味するところは、8章になって初めて明らかにされるのです。
■人間の能力の過剰性
7章で提示されている問題の本質は、暴虐と流血と大地の荒廃とが、堕天使たちとその子孫たち、すなわち人間にとって「過剰」とも言える霊力的な力を持つ巨人たちによってもたらされたことです。エノク・グループは、創世記の記事に潜在する主題を引き出して、これをこのような天使たちの堕罪として特徴づけたのです。この点が、創世記と異なる点ですが、同時に、エノク・グループの観点は、創世記6章1〜6節に潜む問題と通底するところがあると言えましょう。
ここに表わされている人間の能力の「過剰性」は、これを抑制しようとする神からの介入を招きますが、この点は、洪水物語に続くバベルの塔の物語(創世記11章)にも通じるものです。だから、創世記と『第一エノク書』とはこの点で通底していると見ることができます。ただし、『第一エノク書』は、創世記の巨人伝承に潜在的に含まれている「人間の能力の過剰性」を取りあげて、これに「暴虐の罪」という特徴を与えたのです。
「暴虐」とは、単に物理的な暴力のことだけではなく、そこには人間の能力、特にその知力も含まれています。だから、人間には、過剰なまでの知的な暴力が働いていることを知る必要があります。英語の「暴虐」("violence")の語源である"violate"(荒らす/暴行する/辱める/犯す/踏み越える)に潜む人の欲望と能力の本質的な過剰性、これが問題なのです。しかも、人間に具わるこの能力と知力の過剰性は、本来人間が求めて得たものではなく、人間の外から訪れた魔性の天使たちによってもたらされたというのが、『第一エノク書』のメッセージです。
人間は、自分でも想像を超える巨大な物理的な力と知力とを自覚し、かつこれに過剰なまでの信頼を置くことができます。人の欲望の「過剰性」(英語の"excess")とこれによってもたらされるある種の「不均衡/不調和」、それにもかかわらず、人が自分に与えられた能力を過信すること、これは、ヘブライの人だけでなくギリシア人が最も恐れたことのひとつです。この過信こそが、実は人間に禍をもたらす根源的な欠陥であり、堕罪の原因であるとエノク・グループは見ているのです。ギリシア神話のプロメーテウスの悲劇につながる人間の能力の悲劇性もここに潜んでいるのでしょう。
神は、このような人の力と知力とを制約し、あるいはこれに介入することによって人の業を制御(コントロール)する必要を見いだしたことを『第一エノク書』はわたしたちに伝えているのです。人間の過剰なまでの能力を制御するために、神は、さらに大きな、人知ではとうてい図りがたいほどの、とてつもない大きな知恵と力を有していること、このことが啓示されることになります。ここに、人知の堕罪と人知の贖い、というテーマが提示されてくることになります。
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