章 人知の堕落
■『第一エノク書』8章注釈
1アサエルは、鉄の剣と武器、楯と胸当、あらゆる戦の道具の造り方を人間に教えた。彼は、地からとれる金属を示し、金を巧みに加工する方法を、また銀を女性の腕輪や飾りに加工する方法を教えた。また彼は、アンチモンによる眉毛の塗り方、ありとあらゆる宝石と染料とを見せた。こうして人の子たちは、自分たちとその娘たちのためにこれらを造り、彼らは、不義を犯し聖なる者たちを惑わせた。
2すると地において、はなはだしい不敬虔が行なわれ、人々の行状はすっかりすさんでしまった。
3シェミハザは、魔術と草木の根を断つ方法を教えた。
ヘルマニは呪(まじな)いと魔術と知力を無効にする術(じゅつ)を教えた。
バラケルは稲妻のしるしを教えた。
コカビエルは星々の兆しを教えた。
ジケルは流星のしるしを教えた。
アルテコフは地のしるしを教えた。
シャムシエルは太陽のしるしを教えた。
サハリエルは月のしるしを教えた。
すると人間たちは、こぞって、その妻たちと子供たちに秘術を明かし始めた。
4彼らが滅んでいく時、彼らの叫びが天に達した。
 〔村岡訳とNickelsburg訳に基づく私訳〕
 『第一エノク書』6〜9章は、天使の堕落について語る最も重要な部分ですが、そこには、アサエル伝承とシェミハザ伝承と、二つの系統が認められます。第6章で指摘したように、アサエルは、シェミハザ伝承の資料では堕天使たちの10番目にでてきますが(6章7節)、ここ8章1節では筆頭に表われます。同様に10章8節でも、全地の堕落がアサエルの堕罪の結果にされています。アサエル伝承では、禁じられた知識を彼が伝えたために地の荒廃を招くことになりますが、彼自身は魔術と結びつきません(8章1〜3節/9章6節/10章7〜8節)。堕天使たちが魔術/呪(まじない)類と結びつくのは、人間の女たちと交わり身を汚したとされるシェミハザ伝承のほうです(7章1節/9章7節/10章11節)。アサエル伝承とシェミハザ伝承とに共通するのは、天使による反逆行為であり、その結果もたらされる「闘いと暴虐、それに禁じられた性交」です。
 話の内容から見ると、7章6節から8章4節へ直接つながるほうが自然ですから、8章1〜3節のアサエル伝承は、後の挿入と見るほうが適切でしょう。6章7節のリストのほうでは、シェミハザが筆頭ですから、先にシェミハザ伝承があり(前300年頃)、これに8章1〜3節のアサエル伝承が挿入されることによって(前165頃)、堕天使たちの頭が、シェミハザからアサエルへ移行したと見ることができます。なお16章2〜3節には、堕落天使伝承の簡潔なまとめが述べられていて、この部分はほんらいシェミハザ伝承から来ていると思われます〔Nickelsburg(4)190〕。
[1]【アサエル】「アザゼル」と読む異本があります(第6章「アサエル」の項目を参照)。
【造り方を】アラム語の「アバド」(造る/作る)が繰り返されています。「アバド」はヘブライ語「アーサー」(行なう/造る/製造する)から出ていて、「アーサー」は「アサエル」"Asael"の名前の由来です。だから彼は、人間に「造る/製造する」ことを教えのです。ただし、この「作る」は、「行なう」(ギリシア語「ポイエオー」)をも意味しますから、「行為/業」(ギリシア語「エルゴン」)をも指すことになります。彼の「行為」と「業」については、「アサエルが行なったことを見よ。彼はあらゆる不義を地の者たちに教えて、人の子たちが学ぼうと努めていた天の永遠の秘義を明かした」(9章6節)と言われています。これはまた、「アサエルの行なった教えの業によって全地が荒廃した。〔だから〕そのすべての罪を彼に帰せよ」(10章8節)とあるのと一致します。したがって、彼の行為は、天使たちによる神への反逆を意図するだけでなく、人間にも同様の反逆を「教える」ためであったのです。彼が人間に教えた「造る業/行為」とは、鉱山の発掘と冶金に関わる知識であり(ただし染料を除く)、これに基づいて「製造する」行為です。これら鉱物類は「大地の中」からの産物ですが、当時は、鉱物も水晶やダイヤモンドなどの宝石類も、地中にあって、ちょうど植物のように「育つ」「生える」と考えられていました。
【鉄の剣と武器など】アサエルが人間に教えた製造物は、まず戦いの道具です。「鉄の」が抜けている異本がありますが、「剣」とは鉄製の刀剣類のことです。続いて「武器」とあるのは、短い「投げ槍/ダーツ」などです。「楯」は金属製の物が広く用いられていました。「胸当」(原語「スリーン」)は、ヘブライ語では「山」ですが、ここではアラム語の用法からでしょう。胸当は革製で、その上に金属の覆いが付いていたと思われます。なお「スリーン」は、この出来事が起こった舞台とされるヘルモン山の別名です。冶金については「ありとあらゆる殺戮用の道具を製造する技術」(69章6節)だと述べられています。
【腕輪や飾り】武器類に続いて、第二の「製造物」は、女性を美しくするために、金、銀、宝石類などで造られる装飾具です。これらも鉱物と冶金に関係するものばかりです。眉に塗るのは鉱物から採ったものです。染料は衣服を染めるためで、これは例外的に鉱物とは関係がありません。旧約聖書では、女性の装飾それ自体は必ずしも悪とはされていませんが(エゼキエル16章10節以下)、ここでの装飾品は、誘惑のために悪用されるものです。「エルサレムの娘たち」は、「主に逆らう悪人ども」に惑わされ、指導者たちは「女に支配されている」(イザヤ3章11〜12節)とあります。このように、ここでの女性の装身具は、その真の用途からはずれて、人を誘惑するための道具立てなのです(イザヤ3章16〜24節)。いつの時代でも、その当時の科学技術の粋が、武器類の製造と装飾用の工芸あるいは女性の化粧品に適用されるのは変わらないようです。
【アンチモンによる眉毛の手入れ】「眉毛」を彩るのは娼婦の特徴とされており、これには、マラカイト(緑)、桂孔雀石(けいじゃくせき=青緑)、方鉛鉱の結晶(黒/灰色)、輝安鉱の結晶(アンチモンの黒色)などが用いられました。眉染めには呪(まじな)い、相手を誘惑する魔術、また魔除け(入れ墨もこれの一種)の意味がありました。腕輪や宝石類も同様に魔除けの目的で用いられました。
【人の子たち】1節の終わりの部分「こうして人の子たち」以下は、『エチオピア語エノク書』には抜けていて、ギリシア語訳から補っています。人間(人の子たち)は、武器を造り、娘たちに装飾品を造り、天使たちを誘惑したのです。ここでは、天使たちの側からではなく、人間のほうから誘惑したことになっている点が注目されます。人間の女性によるこの誘惑は、6〜7章では、シェミハザの堕罪の原因になっていますから、この8章1節から判断すれば、シェミハザの堕罪の陰には、すでにアサエルがいたことになります。
 だとすれば、ギリシア語訳に含まれているアサエル伝承には、『エチオピア語エノク書』の6〜7章には抜けている次のような複合的な内容が語られていることになりましょう。(1)天使たちの堕落のほんらいの原因はシェミハザ(6章3節)ではなくアサエルである。(2)天使たちは人間の女性たちに誘惑された。(1)については、86章1〜4節に、最初に一つの星(アサエル)が墜ちてきて、これに続いて多くの星々が墜ちてきたとあることと符合します。また(2)については、『ヨベル書』(4章15節)に、見張りの天使たちは、初めは人間に「定めと正しいことを行なう」ように教える目的で遣わされたとあります。また、旧約のアラム語訳『タルグム』の創世記6章4節に「人間の娘たちは、目を染め、髪を梳かし、体を露わにして歩く姿が美しかった」とあることからも、彼女たちの誘惑の様子を読み取ることができましょう。
 したがって、天使たちの堕罪は、彼らが地上に降下した「後で」起こったことになります。ただし、これは『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)6章1〜5節で語られていることと矛盾しますが。これらの伝承から判断すると、天使の堕罪は、女たちと交わるための地上への降下が、その最初からの目的ではなかったことになり、したがって、天使たちと人間との交わりは、降下の結果として生じたと考えられます。
 これら複数の伝承をまとめますと、次の三つの複合が行なわれていることになりましょう。
(1)天使たちは、人間の女性と交わり子孫を残す目的で神に反逆して地上へ降下した(6〜16章)。
(2)アサエルが、神に反逆して降下し、人間には禁じられていた知識を教えた(8〜10章の断片から)。
(3)天使たちは人間を教化するために降下したが、逆に人間の女性に誘惑される結果になった(8章3節)。
 これらの伝承を総合して内容を整理すると、まずアサエル伝承があり、彼が反逆の意図を抱いて人間に反逆の知識とこの知識に基づく「造る」行為を教え、その行為から文明が生まれたことになります。実際の伝承過程ではなく、その内容から見るならば、これにシェミハザ伝承が続くことになります。ここではまず天使たちが人間の女性を誘惑して子孫を生ませたという話があり、これがやがて、人間の側から天使たちを誘惑したことへ変容したと考えられます〔Nickelsburg(4) 196〕。
 ところで、上にあげた(2)のアサエル伝承は、これをさかのぼると、プロメーテウス神話につながると考えられます。ただし、アサエル伝承とプロメーテウス神話との最大の違いは、プロメーテウス神話では、反逆の結果もたらされた火とこれによる文化が、人間の益と見なされていて、プロメーテウスは英雄視されていることです。これに対して、アサエル伝承では、反逆の結果が人間に暴虐と災いをもたらしたために、彼は堕天使と見なされています。ここでは「反逆の知」が、英知と奸知という二つの有り様として描かれているのです。
[2]ここでは、「荒廃」が二つの原因に帰せられています。(1)地の荒廃は、人間が武器を用いて戦いを繰り返したために生じたこと。(2)荒廃は、堕天使たちが(誘惑の結果)人間に生ませた巨人たちの暴虐によって生じたこと。「荒廃する」(ギリシア語「アファニゾー」)は、七十人訳の創世記6章12節で用いられていますから、ここから来ているのでしょう。聖なる者たちが誘惑された/した結果、大地が荒廃したという『第一エノク書』のこの伝承は、『第一エノク書』10章7〜8節/『ヨベル書』5章2〜3節/シラ書49章6節にも見られます。
[3]6章7節のリストとここ8章のとを比べると、シェミハザで始まるのは共通していますが、それ以下の順番が変更されています。8章のリストでは、始めの二人は魔術とこれを解く術、続く4人は天体の運行による「しるし」/兆しを読む術を教えます。ここでは、魔術と占星術が、悪霊から生じたことを証ししていると思われます。ただし、作者がはたしてどの程度まで、彼の同時代の魔術師や占星術を悪霊的だとして、これらを断罪しているのかは、必ずしも明らかでありません(魔術は科学に通じ、占星術は天文学に通じています)。
【魔術と草木の根を断つ】「魔術」「呪い」「占い」を意味する用語は、それらの語源の意味も実際に遣われた内容もよく分かっていません。特に、『エチオピア語エノク書』とこれのギリシア語訳、およびクムラン文書に含まれる『第一エノク書』のアラム語断片では、ギリシア語とアラム語の意味が確定できません。
 堕天使たちの「魔術」は、ここ8章3節と7章1節とにでてきます。7章1節には、シェミハザに率いられた堕天使たちが女と交わり、「魔術と呪(まじな)いを彼女たちに教えた」とあります。ここのギリシア語訳は「魔術=ファルマケイアス」「呪い=エパイオダス」です。ギリシア語「ファルマケイア」(英語"pharmacy"の語源)は、主として薬草や薬や毒薬などを用いる呪術/魔術のことで、「ファルマコス」は呪術師/魔術師です。「エパオイダス」のほんらいの意味は呪文を使って「縛る/呪縛する」ことです。ヘレニズム世界では、一般的に「魔術」を指す場合には「ファルマケイア」が用いられていました。
 ヘブライ語では、これに類する言葉が三つあり、「アシャップ」(呪い師/魔術師)と「ヘレシュ」(工芸などの技能/薬物による魔術)と「ケシェプ」(呪い/魔術)あるいは「ケシャップ」(呪い師/魔術師)です。「ヘレシュ」のギリシア語訳として、七十人訳では「ファルマケイア」が用いられています。『第一エノク書』のギリシア語訳にでてくる「エパオイダス」は、ヘブライ語「アシャップ」の訳語かもしれません〔Nickelsburg(4) 197〕。
 アラム語では「アーシャップ」(呪文と使って呼び出す呪い師)と「ハルトム」(魔術師/呪いや占いを司る祭司/賢者→英語の"magus")があります。クムラン文書のアラム語の断片では、「アーシャップ」が多く用いられているようで、8章3節での英訳は"incantations"です(4Q201.Col.4.1)〔DSS(1)247〕。
 8章3節では「魔術と草木の根を断つこと」"spells and the cutting of roots"〔Nickelsburg訳〕となっていますが、7章1節では、"sorcery and charms"(悪霊の力を借りて行なう黒魔術/妖術とこのために唱える呪文)とあります。7章1節の「黒魔術」は、ギリシア語の異本では「ファルマケイアス」で、これは「医療」〔村岡訳〕、特に「薬」とも訳すことができましょう。しかし、ヘレニズム世界では、「ファルマケイアス」は、さまざまな病気癒しの「魔術/呪文」をも指していました。また9章8節には"hate-inducing charms"(のろい/呪詛のための魔術)とあり、用語が異なります。8章3節の「魔術」は、薬草と並行して用いられていますから、より科学的で、医療に近い内容をも含むのでしょう。この8章は、天文、医術、冶金などの文明的な知識と技術とを語るものですから、それ自体に必ずしも悪霊的な意味が込められてはいません(ダニエル書1章20節/2章10節)。しかし、これらが堕天使たちによって伝えられたところに問題が潜んでいます。
 「草木の根を断つ」とあるのは、接ぎ木の技術のことですが、ここでは特に医療用の薬を造るための木や薬草の栽培のことです。草木を「教えた」とあるのは、薬草から採取した医療/魔術の飲み物(potions and brews)の造り方のことです。
【ヘルマニ】6章7節を参照。ヘブライ語「ヘラム」は「呪(のろ)い」のことで、この名前はまた「ヘルモン」との掛け詞(ことば)になっています。彼は、呪(まじな)いがかけられている場合に、その呪い"spells"を解く/無効にすることを教えたのです。彼はまた「魔術」を無効にする方法をも教えたとありますが、「魔術」(ヘブライ語/アラム語「ハルトム」。ギリシア語「エポイダス」)とあるのは、古代アッカドやエジプトで、夢解釈を行ない祭儀の呪文/式文を唱える神官たちを指す言葉から出ています(創世記41章8節)。モーセの「奇跡」と競い合った魔術師/賢者たちも(出エジプト7章11節)、これらの神官たちです。『第一エノク書』では、夢解釈が、エノクに啓示される「幻視」の意味を解く重要な鍵となっていますから、夢や幻の解釈を「無効にする」この堕天使ヘルマニの能力は、エノクに与えられている幻視の能力と競い合うことになりましょう。この点では、ヨセフやモーセに与えられた夢幻(ゆめまぼろし)を解釈する霊能が、エジプトの魔術師たちのそれと対照されているのと同じです。最後の用語「知力」"skill"は、ギリシア語訳では「ソフィア」で、ここでは先行するすべての魔術を行なう「知識/知力」を総称しています。
【バラケル】ここからは、まず「稲妻/天空の輝き」「星々」「流星」が来ます。「稲妻」と「流星」は、不定期に現われる「兆し」で、「星々」は、規則的で予見可能な「兆候」です。星と惑星に関する占星術は、オリエントからヘレニズム世界に広く普及していましたから、異教的かユダヤ的かの区別をつけることはできません。そもそも占星術や天文の知識は、そのような区別自体を無意味にするからです(ヨエル3章1〜4節/マルコ13章)。バラケルは、「稲妻のしるし」"signs of the lighting flashes"を教えたとあります。雷鳴と稲妻は、古代パレスチナでは、カナンのバアル~を思わせ、ヘレニズム世界では、ゼウスの稲妻を想起させ、イスラエルではヤハウェも雷と稲妻の神です。これらは、地上の出来事の兆しとして重要な意味を持っていました。この場合のしるし/兆しには、神のみ心にかなう場合と逆に神の不快を表わす場合とのふたとおりの解釈が可能です。ここでは、そのどちらの場合をも含めて、未来の出来事への予兆を意味しているのでしょう。クムランでは、特定の獣帯(黄道十二宮の星座 "the zodiac")における雷は不吉の兆しと解釈されました。例えば、金牛宮(Bull)の方向で雷鳴が生じると、町の包囲攻撃や国家的な困難、あるいは宮廷での暴力事件の兆しであり、双子座(Twins)のほうに生じるなら、外敵による恐怖や疫病の兆しとされました(4Q318.Col.8.)〔DSS(2)388〜89〕。エトルリア人の間にも同様の言い伝えがありましたが、おそらくこれは、バビロニアの占星術から派生したものでしょう。このように、ここで語られている兆しは、東地中海一帯に広く共通するものです。
【コカベル】彼は「星々のしるし」"signs of the stars"(「天体の兆し」〔村岡訳〕)を教えたとあります。星々の諸相と運行が天からの予兆であるというのは、前4世紀以降には地中海一帯の認識でした。これも古代バビロニアから出たものです(『ヨベル書』12章16〜20節)。『ヨベル書』(8章3節)では、カイナム(ルカ3章36節参照)という人が、町を攻撃するために、古代の人が刻んだ碑文(実は見張りの天使からの教え)を訳して、日月星辰の占星術を行ない、<このために>罪を犯したとあります。クムラン文書でも人の誕生日とその日の天の黄道帯/獣帯"the zodiac"の位相とを結びつけていますが(4Q186/4Q561)、これは17世紀のヨーロッパでも行なわれていて、現代にいたっています。
【ジケル】「星の観察」〔村岡訳〕。流星や彗星は異常な出来事を予知すると見なされていて、特に「死」や「嵐」や「政情不安」の前触れとされました。
【アルテコフ】彼が教えた「地の兆し」には、様々な場合が考えられます。流血や破壊の火と煙(ヨエル書3章3節)を意味する兆し、「主の日の到来」(ヨエル/アモス)への兆しなどです。兆しの中でも地震は特に不吉な前兆とされました。また、洪水その他の災害も同様です。奇形の子供の誕生が不吉の兆しであることはメソポタミア、ギリシア、ローマ、パレスチナ一帯に共通していました。地の兆しには、動物たちの異常な行動も含まれていたのでしょう。動物の内臓や鳥の飛翔なども兆しと見なされ、古今東西の占いで用いられました。
【シャムシエル】日食や月食は、太古から天の兆しと見なされました(6章7節の注釈を参照)。
【サハリエル】6章7節の注釈を参照。3節末の「すると人間たちは、こぞって、その妻たちと子供たちに秘術を明かし始めた」は、『エチオピア語エノク書』には抜けていて、ギリシア語訳とアラム語断片によるものです。
[4]「彼ら〔人間たち〕が滅んでいく時、彼らの叫びが天に達した」とありますが、村岡訳では天使たちがわめき叫んだことになっています。この4節は、8章1〜3節の挿入によって妨げられた7章から8章4節へのつなぎとして後から付加されたのでしょうか。したがって4節が、以上のリスト全体のまとめなのか、それともアサエルだけにつながるのかは不明です。
■聖書物語の書き換え
 今回扱っている「見張りの天使たちの書」、特にその6〜11章は、「天文の書」を除く『第一エノク書』全体の核となる神話を伝えるものです。同時にこの部分は、第7章でも述べたとおり、聖なる伝承をその時代に適応させるために読み替えられています。この意味で、「見張りの天使たちの書」は、それぞれの時代に対応する書き換えの最古のモデルにされていると言えます。改めてここで『第一エノク書』の書き換えを振り返りますと、次のような過程で行なわれているのが分かります。
(1)ヘブライ語がアラム語へ訳し替えられています。
(2)創世記6章1〜4節が、洪水物語およびその前後の記事と溶接されています。
(3)神の裁きが、人間に向けてではなく、巨人たちの罪に向けられています。
(4)「神的な存在(天使たち)と人間の女との交わり」という神話的主題が、「人間に明かすことを禁じられた秘密を人間に明かすこと」と「見張りの天使たちによる天への反逆」という二つ異なる神話によって補完されています。
(5)この方法によって、原初における悪の起源が隠喩化され、これによって、太古の出来事が「現在」へ転移されて、作者の時代の出来事と結びつけられています。こうすることで、その隠喩化は、さらに未来へと延長されて、「終わりの時」にいたるまでが、解釈の射程に入ることになります。この手法によって、「神による地への裁きと地の回復」という古代の物語が、「最後の審判と新しい創造」の原型へと造り替えられるのです(例えば、イザヤ書65章の17節を境にして、その章の前半と後半とを比較)。
 このような聖書解釈による書き換えの手法は、聖書物語の核となる部分を再解釈して展望を広げる手法を伝えるものであり、この方法それ自体もまた「知恵の働き」として受け継がれているのです。
 このようにして『第一エノク書』は、続く時代のヘブライ語、アラム語、ギリシア語による書き換えのモデルになりました。『ヨベル書』『モーセの遺訓』『十二部族の遺訓』『アブラハムの遺訓』『ヨブの遺訓』がこれに続きます。また、知恵文学では、シラ書がこの手法を用いて、律法と預言書と知恵思想とを結びつけています。この手法はまた、新約の福音書の形成にも応用されています。イエスの物語が口伝で細かく伝えられ、マルコへと受け継がれ、マルコから変容してマタイとルカへ、その後では、幾つかの偽福音書へと変容しています〔Nickelsburg(4)29〜30〕。
■堕天使らによる秘義と知識
 『第一エノク書』6〜8章を通じて、わたしたちは、堕天使たちが人間に伝えたもろもろの「秘義と知識」について見てきました。それらは、天体や天空の事象、地上の事象、武器をも含めて「文明の利器」と呼ばれる道具の製造、人間の権威や欲望を表象する装具や女性の装飾や化粧品、魔術的な力や諸知識を用いる知力など、文明と文化、これを生み出す知力など、人間の営みのほとんどすべての分野に及ぶものです。
 このような人間の能力は、いったい何を意味するのか? 『第一エノク書』が現代のわたしたちに問いかけているのは、この疑問です。現代では、これらの技能や能力は、善悪の価値観から離れて、それ自体独立した中立性を持つと見なされる傾向があります。しかし、『第一エノク書』の語りに沿って判断すると、現代のわたしたちの見方とは違う様相が見えてきます。
 主はエノクに向かって、堕天使たちに次のように伝えよと命じます。「お前たちは天にいたが、いかなる秘義/神秘もお前たちには啓示されなかった。お前たちが学んだのは<盗んだ秘義>なのだ。これをお前たちは、頑(かたくな)な心で、女たちに教えた。この秘義によって、女たちと男たちは、地上に悪をはびこらせたのである」(『第一エノク書』16章3節)。このことは、堕天使たちが人間にもたらした秘義と知識と知力それ自体は、神から切り離されたものであること、したがって、ほんらい神の属性に帰せられる「聖性」と「真理」と「義」などを具えては<いない>ことを示唆しています。すなわち、人に伝授された知識と知力は、聖と汚れ、真理と虚偽、義と不義を区別する価値観を伴わないのです。啓示とは、価値観を創出する源にほかなりませんから、人間にもたらされた秘義は「魔術」であり、その能力は「技能/技術」となり、その知識と知力は「偽り」の欺瞞性を帯びることになります。
 この意味で、堕天使たちが伝えた秘術は、エノクに与えられる天文や諸事象への「真の」啓示と対比/対立されることが分かります。こうして、堕天使たちが人間にもたらしたものは、神から与えられる真の知識と霊的な能力に対して、「偽りの」知識であり技能であることが暴かれるのです。この結果、堕天使たちがもたらした秘術と知力は、10章2〜3節でノアに告げられる全地に対する神の裁きと対応/対置されることになります。天の至高者は、ウリエル(ギリシア語訳)〔村岡訳〕/サリエル(アラム語版)に告げて言います。「ノアのところへ行きわたしの名によって告げよ。『身を隠せ。』そして彼に、終わりが来つつあり、全地が滅びると伝えよ」(第一エノク10章2節)。ここでノアに告知される全地に臨む裁きは、神からの「真の啓示」に基づくもので、彼の知識と知力は(動物界/気象/造船/航海術など)、その真の意味が、暴虐な者たちには隠されています。ここでは堕天使たちがもたらした「魔術的な知」と、救いをもたらす「真の知」とが対照されているのです。
 では、「真の」知力と「偽りの」知力との違いはどこにあるのでしょうか? この問いはさらに、真の啓示とは何か? という、より深刻な論争へ道を開くことになりますが、今はこの問題に立ち入ることを控えます。ただ、この点を探るヒントのひとつとして、わたしは、7章の結びで述べた「人間の能力の過剰性」に着目したいと思います。先に、「人間は、巨人たちの超人的な能力を受けて、自分でも想像を超える巨大な物理的な力と知力とを自覚し、かつこれに過剰なまでの信頼を置くことができる」と指摘しました。
 ヘブライ語の「アーダ」(余分/過剰)は、王や祭司たちの身の飾り、さらに彼らに授与される霊的な威力をも意味する言葉ですが、同時にこの言葉には、入れ墨をしたり身を飾ること、化粧用具"cosmetics"などの意味もあり、これが誤用されると、娼婦たちの華美や高慢を意味することになります〔TDOT(10)466〕。いったいなぜ人間は、他の動物が行なわないこと、「身を飾る」ことをするのでしょうか? これらはほんらい、魔除け、魔術的な魅力、権威や権力を象徴する性格を帯びています。なぜ人間は、自分とその家族が生存していく上に必要なものをはるかに超える多くのものを生産する能力を持つのでしょうか? 人間に具わるこの余剰な生産力が、現代の資本主義社会を成り立たせる根拠になっています。また人間は、余剰の物資と食料を利用すれば、他の生き物に依存することなく、子孫をいくらでも増やす生殖力と養育能力をも具えることができます。これらが、野放図に発揮されるならば、どのような結果が生じるでしょうか? わたしが若かった頃、地球の人口は20億と言われていましたが、現在はそれが50億をはるかに超えるとも言われています。このために、地球の温暖化は、人間がいなくなれば解決する?!という意見まで出てくることになります。
■『第一エノク書』の二元性
 これまでに、光と闇との二元性、知性における真理と虚偽との二元性、霊(神)と肉(人間)などの二元性について見てきました。しかし『第一エノク書』では、これらの二元性が、必ずしも判然と区別されているわけではありません。
 『第一エノク書』を空間的に俯瞰(ふかん)すると、天使と天体が存在する宇宙と、神話的な要素を交えて描かれる地理的な地上と、無機質な物質の中に生物が住む自然界とで構成される不思議な宇宙的世界像が見えてきます。エノクは、視覚、聴覚、臭覚、味覚を通じてこの世界を体験するのですが、彼は、その旅程において、神が構成する宇宙に存在する「創造の秩序」とその秩序を構成する諸機能を知るようになります。彼の「知識」は、主として「観る/見る」という体験を通じて得られますが、その全体像を通じて啓示されるのは、創造する神が定めた「法」に対する自然界の従順/服従であり、同時に、自然界とは対照的に、神の法に対する人間の不従順と反逆です(「見張りの天使たちの書」3〜5章)。
 6〜11章で描かれる天使たちの反逆は、神によって創造された世界への否定と肯定の両面に関連しています。堕天使たちは、人間には禁じられた知識(鉱物や冶金)を地上にもたらし、天体の運行を予測する術を教えます。このように、自然界の秩序への肯定を含む一方で、彼らが生んだ巨人たちの行為を通じて、地上が引き裂かれ、地とその産物が汚染される結果に陥ります。ところが、汚染された地が浄化されると、今度は、巨人たちの破壊的で否定的な暴虐とは対照的に、地はぶどう酒や油を豊かに産し、人類が再び増え広がる姿が描かれるのです。17〜19章では、「大いなるアイオーンが終わる大いなる裁き」の時に(16章1節)、反逆の堕天使への断罪が執行されます。そこに描かれる終末的な出来事は、自然界と諸天体を巻き込む宇宙的な規模で空間的に描写されます。
 ここでは、一見空間的で地理的とも思われる天と地との二分法もそれほど明瞭ではありません。なぜなら地上には義人の園が存在すると同時に罪人のための谷があり、堕天使たちが閉じこめられている丘もあるからです。また、時間的な区別も判然としません。堕天使たちの子孫が、地上で暴虐を行なっていると同時に、彼らに対する裁きは「すでに」告知されていて、堕天使たちはこれを知って恐れおののいているからです。このように、『第一エノク書』には、天界と地上とを分ける空間的二元性、現在の世と来るべき裁きの降る終末との時間的二元性、神の正義と人間の不義という価値観の二元性、これら三重の二元性が重なり合い、しかもこの三重の二元性が、渾然一体となって不思議な世界像を形成しているのです。
 このような世界像の中で語られる堕天使の物語は、天使の霊と人の霊との混交、この世を支配する霊力とこれに対してすでに確定している裁き、暴虐とこれを告発する正義、という様相を伴って展開します。こういう世界像の中に人間の「知識」とその「能力」をおいてみると、天の霊性と神の裁きと正義、これに対置される地上の肉性と反逆と暴虐、この狭間に置かれた人間の「過剰な能力」、という問題点が浮かび上がってきます。それは、「わたしの霊は、人の内に長く留まるべきではない」とある創世記の言葉を『第一エノク書』がさらに徹底させて提示するテーマ、すなわち、天/神の霊が人の霊と交わってはならないという「堕罪の原点」へとつながるのです。 神と人間との間には絶対的な区別がなければならないこと、これが神の独自性と超越性を保つための大事な前提となります。もっとも、エノクの召還(14章)と上昇は(71章)、まさにその天界へと向かっているのですが、これは、生きながら天に挙げられたエノク独自の特性なのでしょうか。
 神と人間との区別、霊と肉との区別を犯すなら、犯した者たちの聖性は汚されます〔Nickelsburg(4)"Excursus:The Watchers and Holy Ones."140〜41〕。神と人間とのこのような二元性の中に天使の反逆をおいて観るときに初めて、天使の堕落の核心的な意味が露わにされてきます。神性と人間性との区別が失われると、悪霊的な巨人たちによる人間の犠牲化が始まります(8章)。悪霊どもとこれに荷担した牧者たちは、異邦の諸民族共々に、イスラエルの民をも犠牲に供します。その結果、彼らは、神の民を犠牲にした責任を問われ、罪人らは裁きに服すことになります(12〜16章)〔Nickelsburg(4)40〕。
 『第一エノク書』を一貫するのは、聖なるものと汚れたもの、正義と不義、真理と虚偽の二元性ですが、これらの二元性は、啓示によってしか人間には識別できないものです。人間には人間を超える能力が与えられた、というのが『第一エノク書』のメッセージですが、このような能力を「正しく」用いるためには、その能力自体が、人間のものとされたその時から、偽りと不義に陥る可能性を秘めていることを自覚することが必要になるのでしょう。正しさと邪悪、正義と不義は、「啓示」によって顕わされるものであり、この啓示を通して初めて、人間に授与された能力の正当/不当性が決まるからです。だから「正しい」ことは、常に啓示されるものであり、これによって啓かれる「真理」によらなければならないのです。そうでなければ、その「正しさ」は、偽りの「正しさ」に変容することになります。エノク・グループが、太陰暦に対抗して、「主から啓示された」太陽暦を提示するのも、一つにはこのような理由からです。
 この世は、堕天使による罪と暴虐がはびこり、犠牲にされる人間が絶えることなく、生物を含む大地の汚染が進む領域であり、神の意志が行なわれている天と宇宙の領域から分断されています。ところが、このように悲観的な不義と災厄の現在に、あたかも対抗するかのように、次のような楽観的とも言える救済と補償への見通しが与えられるのです。
(1)聖なる天使たちが反逆の悪霊どもを絶滅する時が来ます。
(2)罪と圧政を行なう邪悪の手先となる人間どもが裁かれる時が来ます。
(3)汚れに汚染された地は清められて再生する時が来ます。
 天界と地上の空間的な二元性、今の世と来るべき世の時間的な二元性、霊と肉との二元性、光と闇との二元性、これらすべての二元性を貫く一つの二元性があります。それは、「真理と虚偽」、言い換えると「まことの神と偶像」という二元性です。これが二元性の根底に流れる価値観なのでしょう。しかしこれは、正確には、二元性とは言えません。なぜなら闇が光を現わす<ために>存在するように、「ために」という価値観が入り込む時には、二元性の条件である相対的で独立した法則性は一元性へと変容し始めるからです。
 このような世界像では、天体の法則が神の「法」へとつながり、その法が人類の罪を暴くことで罪人どもの暴虐と欺瞞を告発し、その告発が洪水という裁きをもたらします。このようにして、天体の運行が、人間の暴虐と虚偽の問題へと結びつき、その赦されざる罪が、神の裁きをもたらすという思考のプロセスが形成されるのです。このプロセスは、現代の地球の環境汚染(自然への暴力と偽りの幸福感)の図式とも通底する問題を提示しているのかもしれません。
■現代の武器商人
 以上見てきた人間の能力と知識の問題をさらに考察するために、話が飛躍することを覚悟の上で、人間はなぜ武器を造るのか? について、あえて現代の一例を提示してみたいと思います。
 2006年にアメリカで制作された「ロード・オブ・ウオー」"Lord of War"(戦争の王/戦争の手配師)という映画を見ました。アンドリュー・ニコル(Andrew Niccoll)の原作に基づいて、一人のアメリカ人の武器商人の体験を事実そのままに映画化したものです。主人公の名前は「ユーリー・オルロフ」で、ウクライナ出身のアメリカへの移民の子です。弟の名前はヴィターリで、ふたりは、ニューヨークのリトル・オデッサ地区で育ちました。家族はユダヤ人ではありませんが、父はユダヤ教の親派でした。
 ユーリーは、1980年代から武器を扱う仕事を始めますが、ゴルバチョフによるソ連の崩壊で、彼の武器商人の仕事が一挙に拡大することになります。ウクライナ、ハンガリーなどの東欧にそのまま残された膨大な武器が、武器商人たちによって諸外国に流出したからです。ソ連とアメリカとの冷戦時代に、人類史上かつてない大量の武器が製造されました。ソ連の崩壊と共に、その武器は全く使用されないままに残されたのです。
 闇の武器商人としての彼の手法は、何事にも合法を装う虚偽で成り立っています。彼の仕事は、レバノンから始まり、アフリカに移り、そこで彼は、リベリアのバプティスト大統領のために武器を調達する役目に携わることになります。大統領もその息子も殺戮を平然と行なう残虐で冷酷な人物でした。銃は、大人の兵隊でなくても、子供でも同じように人を殺すことを可能にするという理由で、彼らは、カラシニコフ部隊という少年部隊を編成したのです。ユーリーは、彼らとの取引の中で、武器商人として信用を得ていきました。
 アンディというリベリアの将軍は、オルロフを「戦争の王」"Lord of War"と呼びました。それは彼が人を殺したからではなく、化粧品を扱ったり自動車を販売するのと同じように、合法を装って「商品」を売りさばくことだけを心がけたからです。武器商人にとって平和は最大の損失であり、休戦交渉は最悪のニュースです。彼は、自分の手を血で汚すことなく武器を売り込むことで、「戦争の手配師」の仕事を巧みに行なったのです。戦争が多いほど、また長引くほど、儲けが多くなるからです。
 やがて彼は、自分が、アメリカ大統領を含めて、だれも止めることのできない力に動かされていることを知るのです。彼は、この世界を支配する「戦争の王」の力に操(あやつ)られて、その「王」のもとで働く一人の有能な「戦争の手配師」にすぎません。その仕事を止めることができない理由を彼は次のように言います。「わたしは<無敵>という呪いを受けている。だれもわたしを倒すことができないからだ。」彼にとって、武器商売を続ける究極の理由はお金ではありません。どんなに富が増えても、続ける理由はひとつ、それが彼に与えられた「能力」だからです。彼が続けるのは、彼が「うまくやれるから」"because I'm good at"だからにほかならないのです。妻の忠告で止めようとした時でさえも、バプティスト大統領が直々に彼の自宅へ来て、その仕事の「必要」のために、止めることができませんでした。アメリカ大統領でさえも、密かに彼を利用するほかなかったのです。
 彼の思考様式は、自分が売った武器で人が殺されるのは悪であるという価値観から切り離されています。彼は善悪の価値観を心得てはいます。だが、彼がやらないなら誰かがやる仕事であり、自分の仕事は「必要悪」だと考えているのです。彼の「能力」は、殺人それ自体が絶対悪であるという価値観から切り離されています。なぜなら彼にとっては、「暴虐」はこの世の仕組みであり、この世を現実に支配し動かしている原理であり力だからです。だから彼に言わせると、暴虐は「真理」であり、この「真理」に沿う彼の判断は常に「正しい」のです。だからこそ彼は「うまくやって」いけるのです。ただし、この「正しさ」には、「殺すな」という「聖なる」価値観は含まれません。彼の言う「真理」は、このような聖性からもこれに基づく価値観からも切り離されているからです。言うまでもなく彼も、この聖なる価値観を知ってはいます。しかし彼は、これをうまく仕事に利用することはするが、これに従うことはしないのです。彼は法的な用語に含まれる合法と非合法との二重の意味の間をすり抜けていきます。だから、彼にかかると、軍事用ヘリコプターも人命救出用に変わるのです。しかしその結果生じるのは、女性や子供たちが平然と殺されていく現実の出来事です。世界の最大の殺人武器は、核兵器ではなく、小銃と拳銃です。現在世界には、5億5千万丁の銃が出回っていますから、ほぼ11人に一人の割合です。彼のような人物を動かしている力の正体が現代の堕天使です。その名は、ヘブライ語「ミルハマー」(戦争)から出た「ミルハマエル」です。
 彼の「仕事」を止めることができるのは、殺人は悪であるという絶対的な価値観だけです。絶対的な価値観とは、言い換えるなら「聖なる」価値観、聖性に基づく掟のことです。これが「啓示される」こと以外に、この殺戮を防ぐ道は存在しません。聖なる方だけが、無条件に、殺人は悪であるという「裁き/裁定」を下すことができるからです。だから、彼の言う「真理」に対抗できるもう一つの「真理」は、「殺すなかれ」というモーセの十戒に表わされる「聖なる掟」だけです。一方が「真理」であれば、他方は「虚偽」です。だから「真理か虚偽か」という判別/裁定は、このようにして、聖なる方から啓示される時にのみ、その絶対的な価値観としての意義を獲得できるのです。
 人間の判断には、政治的な正しさ、経済的な正しさ、物理的な正しさ、軍事的な正しさ、社会的な正しさ、組織的な正しさが常に伴います。これらの諸々の判断によって、人は行動し、「うまく」結果をだすことができるからです。しかし、その判断からは、聖なる価値観は排除されるのです。「現実に働く力」に沿う「正しさ」には、このような「正しさ」を超える聖性が下す「裁き/裁定」は入り込むことができないからです。
 人の能力や知識それ自体は、必ずしも価値観を伴いません。価値観は、その能力や知識に、なんらかの「裁定/裁き」が下される時にのみそこに発生するからです。人の下す判断は、それぞれの立場や利益や思惑や配慮が絡みますから、絶対的な裁定ではありません。したがってそのような裁定は、そもそも真の意味での「裁定」にはなりません。真の意味での絶対的な裁定は、ただ聖なる方のみがこれを下すことができるのです。
 ある思想なり理論なりが「正しい」かどうかを人間が絶対的な基準で決定することはできません。自然法則さえも、その判断の正しさの絶対性を決めることはできません。だから、たとえ学問的に正しくても、その「正しさ」が、聖なる絶対的な価値観を排除している限り、それは限定された相対的な正しさにすぎないことになります。なぜなら人はそのような正しさをどのようにでも「利用する」ことができるからです。「正しい」判断とは、聖なる方に従う判断であるか、あるいはこれに反逆する判断であるか、この「聖性」によって初めて、その「正しさ」の絶対性が決まるからです。この意味で正義は聖性からしか生じてこないのです。「聖なるもの」とは、「啓示される」もののことです。価値観は啓示によってのみ、価値観として有効に働くことができるのです。この意味で、啓示とは、人間のあらゆる能力と知識を分別し、聖性と汚れ、正義と不義、真理と虚偽、正しさと邪悪とに分けていく働きをする力であり、神の聖性が顕わす「裁き」なのです。
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