補遺 「主の家」伝承と贖罪の犠牲
■ヘブライの祭壇について
 
以下では、ヘブライの「主の家」伝承のごくあらましを述べるに留めます。「祭壇」のヘブライ語は冠詞付きで「ハ・ミズベァハ」"the alter" です。祭壇はアブラムが「石」あるいは「石柱」を立てて「主の御名を呼んだ」時代に始まり(創世記12章7〜8節)、モーセの立てた「主の旗」と呼ばれる「祭壇」(出エジプト記17章15節)〔TDOT(8)216.〕やイスラエル十二部族を表象する12の石柱(同24章4節)があり、さらにイスラエルがカナンに定着した後には、部族ごと、家族ごとに様々な祭壇と礼拝の様式が併存していました(士師記6章11節)。祭壇そのものが存在しない犠牲の場合さえあります(サムエル記上14章34〜35節)。ダビデ王によるイスラエルの統一と続くソロモンの神殿時代を経て、南王国ユダのヨシヤ王の宗教改革の頃になって、ようやくヤハウェ礼拝がエルサレムの中央聖所へと統一されて、それまで部族ごと、地方ごとにばらばらであった礼拝と犠牲の制度が確立したと言えましょう(前622年頃)(列王記下22章〜23章)。
 次に祭壇と共に重要なヘブライの「贖罪の犠牲」について見ると、これに関する部分は、主として「P資料」と呼ばれていて、これらは祭司資料編集者たちによると見なされています。祭司資料編集者たちがこの伝承を編集したのは捕囚期前後のことであり、したがって、犠牲を含む祭儀に関する部分は主として捕囚期か、それ以後の第二神殿(前520〜515年再建)時代のものだと考えられます。ただし、彼らが編集した基の資料は、捕囚期以前からのものです。これらの資料は、それまで伝えられてきた口伝や文書が、南王国ユダのヨシヤ王(前639〜609年)の頃に、宮廷の文書を司る書記官たちによって、巻物の形で編纂され保存されたものだと考えられます〔Thomas Römer. The So-Called Deuteronomistic History. T&T Clark (2005).46-48.〕。ここでは、ごく大ざっぱですが、イスラエルの「罪祭/贖罪の献げ物」"a sin offering"に限定して見ていくことにします。これらに関する出エジプト記・レビ記・民数記の記述は、祭司資料編集者たちによるものですから、実際の資料が彼らの視点から理念化されています。
■会見の天幕
 ヘブライの「主の家」伝承と贖罪の犠牲の始めとして、先ず、犠牲を献げる祭壇とこれが置かれている「会見の天幕」"the tent of meeting" について見ることにします(この「天幕」は後のダビデの頃には「幕屋」"the tabernacle" と呼ばれます)〔『旧約新約聖書大事典』教文館1110〜1111頁の図による〕。「会見の天幕」の作り方は出エジプト記36章8〜20節に記述されています。これによると、天幕は東西に長い長方形で、天幕の大きさは、長さ約14メートル、幅約5メートル半です。天幕が置かれている境内も長方形です。境内は幕で仕切られていて(出エジプト記38章9〜20節)、長さ45メートル、幅約18メートルの長方形です。この境内は、真ん中で東西に区切られていますから、ちょうど二つの正方形をつないだ形になります。
 天幕は、この境内の西側の区切りにあり、天幕の入り口が、区切り線のちょうど真ん中で接しています。天幕は美しい模様織りの10枚の幕でできていて(出エジプト記36章8〜13節)、それらはほぼ45センチ角の柱で支えられています(同30〜34節)(新共同訳には「壁板」とありますが、実際は角柱で、内部から幕の模様が見えるようになっています)。この天幕は、さらにその上から11枚の幕で覆われていて、さらにその上には、雨や砂塵よけのために、じゅごんの皮が屋根状に張られています(同14〜19節)。
 境内の東の入り口から入ると、東側半分の広い境内の真ん中に、四隅に大きな角がある青銅で覆われた祭壇があり(出エジプト記27章1〜8節)、ここが犠牲を献げる場所です(同38章1〜8節)。この祭壇は上部が凹んでいて犠牲の肢体を容れることができるようになっています〔岩波訳『出エジプト記・レビ記』244頁図版〕。祭壇と天幕の入り口の間には犠牲を洗う洗盤が置かれています。
 天幕は、全体がほぼ三分に二ほどの聖所と、三分の一ほどの至聖所とに、美しい垂れ幕で区切られています。東側の聖所には、左右にパンを置く机と七枝の燭台があり(出エジプト記37章10〜24節)、その奥には、至聖所の垂れ幕(同36章35〜36節)のちょうど前に、純金で覆われた香を焚く祭壇(これにも四つの角がある)があります(同37章25〜29節)〔岩波訳前掲書図版参照〕。
 至聖所には、モーセの十戒を刻んだ石板を納めた「契約の櫃(ひつ)」があり、その内側と外側は純金で覆われています。その櫃の上部の蓋の部分が「贖いの座」(冠詞付きの原語で「ハ・カポーレット」)です(同37章1〜9節)。契約の箱はイスラエルの最初期の荒れ野時代には、「会見の天幕」"the tent of meeting"に置かれていました。この天幕はイスラエルの民が野営する場所の外に張られていて、モーセはヤハウェとの「出会い」のためにこの天幕に入りました。だから厳密には、「会見の場」とは、櫃/箱が安置されている天幕の至聖所です。
 この天幕を大きく囲む境内は幕で仕切られていて、天幕の入り口の外に犠牲を献げる祭壇(ハ・ミズバフ)がありました。契約の櫃/箱はヤハウェが直接宿る場ですが、これを安置した天幕それ自体もヤハウェの臨在を顕わすと考えられましたから、櫃とこれを置く天幕全体が「神の会見の天幕/住まい」(オーヘル・モエッド」(出エジプト記27章21節)と呼ばれたのです〔TDOT(1)365-67.〕。すでに「会見の天幕」において、天幕の外の祭壇と、天幕の内部のパンの机と燭台のある聖所と、契約の箱と贖いの座のある至聖所とに区切られていたのでしょう。なお、この「会見の天幕」は、後にイスラエルがカナンに定着した時代の「幕屋」(ハ・ミシュカン)"the tabernacle"(出エジプト記25章9節)と区別する必要があります。「幕屋」"the tabernacle" が出てくるのは英訳聖書では出エジプト記38章21節の「契約の証の住居」辺りからですが〔NRSV〕、出エジプト記のこの部分は後代の加筆でしょう〔Childs. Exodus. OTL. 637.〕。契約の箱の上の二つのケルビム像は、ソロモンの神殿の時に作られたものですが(列王記上6章23〜28節)、それ以前に、すでに小型のケルビム像が櫃と贖いの座の上にあったのでしょうか。
■契約の箱と贖いの座
 「契約の櫃(ひつ)/箱)」の原語は冠詞付きで「ハ・アロ(ー)ン」"the ark"です。語源は明らかでありませんが、原語はほんらい「棺(ひつぎ)」「筺/箱」「納骨箱」などの意味です。これが、宗教的に用いられてモーセの十戒を刻んだ律法の石板を納める「契約の箱」を指すようになりました。「アローン」とその製法は出エジプト記37章1〜9節にでています。長さ約1メートル13センチ、幅約68センチ、高さ68センチほどで、アカシア材で作られ、その内と外側は純金で覆われていました。
 この「櫃/箱」は、「贖罪の座」"the mercy seat"と一体になっていました(出エジプト記25章10〜22節)。「贖いの座」は契約の櫃よりもやや大きめで、純金で作られていて、その上には、羽を前方に伸ばしたケルビムの彫像が、互いに向き合って両端に置かれていました〔フランシスコ会聖書研究所訳注(サンパウロ)出エジプト記25章付属図(167頁)〕。ただしこの記述は、祭司資料編集者たちによって、ソロモンの神殿の契約の箱の記述にならっていると見られていますから(列王記上6章23〜28節/同8章6〜9節参照)、実際に運ばれていた契約の櫃の上に、このようなケルビム像が置かれていたかどうか、確かでありません。しかし、荒れ野時代でも、契約の箱に何らかの装飾が施されていたのは確かでしょう。なおこの契約の櫃は、新バビロニアによるエルサレム神殿の破壊の際に失われました。したがって、第二神殿以降は、至聖所には契約の箱がなく、大祭司は香炉だけを携えて、主なる神の御臨在による浄めに与ったことになります。
ソロモンの神殿
 ここでソロモンの神殿に触れておきます。この神殿も、天幕同様に、その本堂は入り口近くのポーチと聖所(外陣)と至聖所(内陣)から成り立っていました(列王記上6章/同7章13〜51節)。したがって、燔祭の祭壇は、本堂の入り口近くの境内にありました(列王記上8章64節)。この神殿では、聖所と至聖所は、垂れ幕ではなく純金で覆われたオリーブ材の開き扉で仕切られています(列王記上6章31〜32節)。ただし、天幕にはでてこなかった「青銅の海」(直径4.5メートル/円周13.5メートル/高さ2.2メートル)と、10個の円形の「洗盤」とこれの「洗盤用台座」(1メートル80センチの正方形で高さ1メートル35センチ)がでてきます〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)601頁図版〕。これら10組の洗盤と台座は「神殿の右側と左側に5個ずつ」あり、「海」は「神殿の南東の隅」に置かれていたとあります(列王記上7章38〜39節)。洗盤とその台が犠牲の肢体を洗うためであれば、その位置は、天幕の場合にならって、神殿本堂の外にある祭壇と神殿の入り口の間にあったはずです。おそらく本堂の入り口を除く3面を囲む形で、かなり広い3階の?脇廊が本堂を囲むように巡らされていて、洗盤と台座は普段そこに保管されていたのでしょう〔フランシスコ会訳聖書列王記上7章の図版参照〕。ソロモンの神殿の記事には、不思議なことに、燔祭の祭壇についてほとんど書かれていません。捕囚期の編集者たちによって理念化されているからでしょうか。
 なお、イスラエルのベエル・シェバには、最近発掘されて世界遺産に登録されている遺跡があり、そこには、これまで伝えられている「アブラハムの井戸」と異なる場所に、古いアブラハムの井戸が発掘されています。その井戸から入り口を通って遺跡へ向かう途中に、ソロモン時代の祭壇が発掘されています。やや大きな石垣のような石組で、人の胸ほどの高さの立方体で、上の四隅に大きな角がついています。
■第二神殿の再建
 ここで捕囚期以後の第二神殿時代(前515年〜紀元後70年)について、そのあらましだけを見ておくことにします。第二神殿の再建は、ペルシア帝国のキュロス2世の勅令(前539/8年))によって、イスラエルの民のエルサレム帰還と、同時にエルサレム神殿(主の宮)の再建が認められたことに端を発します。これによってゼルバベルと時の大祭司イエシュアの指導によって、民の帰還が始まりました。その際に、かつてネブカドネツァルの軍隊がエルサレム神殿から奪った神殿の聖具も共に持ち帰ったと記されています(エズラ記1章2〜11節)。王命を受けたのはシェシュバツァル(歴代誌上3章18節のシェンアツァル=エズラ記3章2のシェアルティエルと同一人物)です。ゼルバベルは彼の息子とされていますが(エズラ記3章2節)、実際はシェシュバツァルの兄弟ペダヤの実子だったのかもしれません(歴代誌上3章19節参照)。帰還と同時に朝夕の「焼き尽くす献げ物」が以前の祭壇の場所で捧げられたとあります(エズラ記3章2〜3節)。
 しかし神殿の再建はキュロス2世の息子カンビュセス2世の時期に、周囲の異民族の妨害などのために中断され、ダレイオス1世の時代に再開されます(エズラ記4章6〜24節に「アルタクセルセス王」とあるのはカンビュセス王の時代と混同したためか)。ダレイオス1世の治世にゼルバベルと大祭司イエシュアの指導の下に神殿の再建が行なわれました(前520〜516/5年)(エズラ記6章13〜18節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章1〜7節〕。神殿に続いてその境内を囲む回廊も造られました〔ヨセフス前掲書11巻4章7節108〕。ただしヨセフスは、祭司やレビ人たちや長老たちは、かつてのソロモンの壮麗な神殿を思い起こして、できあがった神殿が往事のものに見劣りすること、自分たちの現在の貧しさを思って、「すっかり気落ちして、悲嘆の涙にくれた」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章2節〕と伝えています。
 神殿の詳細は分かっていませんが、ヨセフスの記事から判断すると、列王記上に記されているソロモンの神殿よりも規模が小さく、したがって、祭壇は本殿の入り口近くの外にあり、本殿は、ソロモンの神殿と同じように聖所と至聖所に分かれていたでしょう。ただし、至聖所には、契約の箱もケルビムが置かれた「贖いの座」もありませんでした。それでも、大祭司は年に一度、香炉を携えて至聖所で、香炉の煙の中で主の御臨在に与ることで、祭壇と民全体の贖罪による浄めに与ったのです。なお神殿の再建に続いてエルサレムの城壁が再建されましたが、その規模は、神殿の丘全体と、その南に延びるかつてのダビデの町の細長い部分(シロアムの池まで)だけでした〔Dan Bahat. The Illustrated Atlas of Jerusalem. 36.〕。
 
■ヘロデの神殿
 ヘロデ大王は、かつての第二神殿が、ペルシア帝国の意向に沿ったためにソロモンの神殿よりも低く慎ましい姿であることを取り上げ、大王の生涯の大事業として、これを壮大な神殿に造りかえる計画を立てました(前20/19年)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』15巻11章1節〕。この神殿は大王の時代にはまだ完成せず、紀元64年頃にようやく最終的に完成しました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』20巻9章219〕。これは神殿がローマ軍によって完全に破壊される6年ほど前のことになります。
 ヘロデの神殿については復元図なども多く出ていますので、比較的よく知られています。神殿の境内を囲む城壁は、北側315メートル、南側273メートル、西側485メートル、東側468メートルです。城壁の東には、キドロンの谷を挟んでオリーブ山があります。したがって東側の城壁はそびえるように高かったでしょう。南側は旧ダビデの町で、シロアムの池に通じています。城壁の南側にはかなり長い階段があり、そこを上がって城壁の西に向かうと、西南の角にL字型の階段と通路(ロビンソンのアーチ)があって、境内に入ることができます。下の町の人たちは(おそらくイエスたちも)、ここを通って境内に入ったのでしょう。城壁の西にも谷があり、その谷を渡るように、神殿本堂の西南からエルサレムの「上の町」へ通じる通路があります(ウイルソンのアーチ)。ここは上の町の貴族や上層部の人たちが多く出入りしたでしょう。城壁の北側の西北部にはローマ軍が駐屯するアントニアの砦が隣接しています。ここでイエスが鞭打ちの刑を受けたという言い伝えがあり、現在の「嘆きの道」はここが出発点になりますが、確かなことは分かりません〔Leen and Kathaleen Ritmeyer. Jerusalem in the Year of 30 A.D. Jerusalem: Carta (2004) 7/9/15.〕。
 ロビンソンのアーチを通って境内に入ると、そこは「異邦人の庭」です。両替の商人たちはここにいました。犠牲の動物もここで売られていたかどうかよく分かっていません。境内の東側はソロモンの回廊になっていて、そこを通って神殿の北側に出ると、そこには犠牲の動物たちとこれを連れた人たちが大勢いたことでしょう。
 神殿本体もまた立派な壁で囲われていました。神殿南側の二つの大きな門から中へ入ると、そこはイスラエルの「女性の庭」で、女性はここまでしか入れません。この庭の西側に15段ほどの半円形の階段のあるニカノル門があり、これを通ると南北に回廊があり、そこがイスラエルの男性の庭です。その回廊の西側に、広い正方形の祭壇が見えていて、その上では祭司たちが犠牲を焼いています(2カ所で)。ここは祭司だけの場です。天井がないので煙は上までのぼります。祭壇の北側(向かって右側)に杭が並んでいて動物たちがつながれています。それらは神殿の北門から連れ込まれたものです〔Leen and Kathaleen Ritmeyer. The Ritual of the Temple in the Time of Christ. Jerusalem: Carta (2004)3/17/18.〕。祭壇のある庭の西側には、階段を上ったところに立派な門柱を具えた入り口があり、そこが聖所と至聖所の本殿です。聖所の中にはかつての天幕と同じにパンを置く机と七枝の燭台と香の祭壇があります。その西側の垂れ幕の奥が至聖所です。至聖所には長方形の窪みがあって、そこかかつて契約の箱と贖いの座が置かれていた場所です〔前掲書21〜26頁〕。
 これで分かるように、ヘロデの神殿は、ソロモンの神殿と異なって異邦人の庭があり、そこから壁に囲まれて「女性の庭」と「男性の庭」があり、燔祭の祭壇があります。聖所と至聖所の本殿は立派な石造りで、これに隣接して別館があって、宝物などや聖具が保管されていたのでしょう。 
■贖罪の献げ物
 ここでは、「贖罪の献げ物」に限ることにします。「贖罪の献げ物」に関する一般的なヘブライ語は「ゼヴァ(単数)/ゼバーハ(複数)」で、この名詞は動詞「ザーバァハ」(屠る/犠牲に献げる)から来ています。これのギリシア語名詞は「スーシア」です。「贖罪の献げ物」の場合は、火で焼き尽くす「燔祭」と祭壇に血を注ぐ「罪祭/贖罪の献げ物」が組み合わされます。また、「贖罪の献げ物」は、その性質上「賠償の献げ物」とも関連します。「贖罪の献げ物」に関する規定はレビ記4章1節〜5章13節にでています。「賠償の献げ物」はレビ記5章14〜26節にでています。「燔祭」の大まかな規定はレビ記6章1〜6節にでています。
 「贖罪の献げ物」は、自由な献げ物ではなく、義務づけられた献げ物です。人が意図的に神の律法を破った場合には、これに対する赦しはありません。その者は必ず罰を受けなければなりません。しかし、故意ではなく、「気がつかずに」主が禁じられたことに違反した場合には、贖罪の犠牲によって赦されます。また、誤って神の聖なる所有物を汚したり、主から禁じられたことを破ったり、隣人を騙(だま)したり、物品を奪ったり、偽りの誓いをした場合などには「賠償の献げ物」をすることで赦されます。賠償の献げ物は、その性質上、贖罪の献げ物に近いところがありますから、その方法にも共通点があります。
 贖罪のための犠牲は、一般的に、平日の朝夕二回ですが、安息日や月の新月には犠牲の動物の数が追加されます(民数記28章3〜8節/同9〜15節)。また祝祭日には犠牲獣の数が大幅に追加されます(民数記28章16節〜29章1〜39節)。犠牲は主として雄羊と雄山羊ですが、新月の日や祝祭日には雄牛が加わります。また、犠牲の動物は、犠牲の目的によって、特定の動物が要求される場合と(レビ記4章)、贖罪(浄め)のための犠牲のように、身分や財力に応じて違った動物が認められる場合があります(レビ記5章)。レビ記4章によれば、「贖罪の献げ物」に関する規定は、大祭司自身のため並びにイスラエルの民全体に関わる贖罪と、イスラエルの特定の部族あるいは民の指導者の贖罪と、それ以外の一般のイスラエルの民の場合に分かれていて、それぞれに応じて、犠牲の動物にも違いがあり、献げる場所も異なっています。
〔一般の民の贖罪〕
 一般の民の贖罪の犠牲は(レビ記4章27〜35節)、これを献げる人と、祭儀を行なう祭司によって行なわれます(レビ記1章3〜13節)。献げる動物は雌山羊ですが、貧しい者は鳩(同5章7節)か、さらに貧しければ小麦粉(同5章11節)を代用することができます。奉納者は次のように行ないます。
(1)犠牲の動物を天幕へ連れて来る。
(2)その動物の上に自分の手を押さえるように置く。
(3)動物の喉(頸動脈)をかき切って屠(ほふ)る。
(4)その血を容器で受ける。
(5)頭部を切り落とす。
(6)犠牲の皮を剥ぎ、内臓を抜く。
(7)肢体を切り分けて洗う。
 こうして奉納者は、犠牲の肢体を内臓と共に厳かに祭司が待つ所(天幕の前にある境内の燔祭の祭壇)まで運び、そこで祭司に渡します。ただし動物の屠りとその肢体の処理などは、後にはレビ人など、専門の役職の人があたるようになりました。犠牲を受け取った祭司は、
(1)犠牲の血を受け取って、祭壇の四つ角と壇の側面に塗り、残りをその基に流す(レビ記1章5節/11節/同4章30節)。これで、祭壇全体が血で染まります。
(2)動物の肢体と内蔵を整えられた薪の上に並べる。
(3)肢体と内蔵を焼いて煙にする(レビ記1章9節/同13節/シラ書50章12〜19節参照)。
 これで見ると分かるように、贖罪の場合は、犠牲の「血を祭壇に塗り注ぐ」行為と、その犠牲を「焼き尽くす」行為の二つが行なわれます。
〔部族あるいは指導者の贖罪〕
 この場合も一般民の場合とほぼ同じです。ただし、動物には雄山羊が用いられます(4章22〜26節)。
〔民全体と大祭司・祭司の贖罪〕
 この場合(レビ記4章3〜21節)、贖罪を行なうのは、「油注がれた祭司」とあり、レビ記8章12節には「アロンの頭に油を注ぎ」とあるので、「アロン」に相当する祭司、すなわち最高位の祭司あるいは後の大祭司のことです。大祭司自身が罪を犯した結果イスラエルの民全体にわざわいが及ぶ場合もこれに相当します。大祭司は次のように行ないます。
(1)傷のない雄牛1頭を会見の天幕の前に連れて来る。
(2)自分の片手をその牛の頭に押しつける。共同体の場合は、その長老たち全員が牛の頭に手を置く。
(3)牛を屠る。これは民の贖罪と同じ(3)〜(7)の手順で行なう(屠る作業は、大祭司あるいは長老たち自身の手で行なったのでしょうか)。
(4)大祭司は、天幕の入り口で犠牲の血の一部を受け取って、天幕に入る。
(5)聖所と至聖所を隔てる垂れ幕の前で、指先で血を空中に七度振りまく(レビ記4章6節)。これは聖所を汚れから浄めるためでしょう〔North. Leviticus. OTL.39〕。
(6)聖所の香炉の祭壇の角に血を塗る(レビ記4章7節)。
(7)天幕の外にある祭壇へ出ていって、そこで祭壇の基に血を流す。
(8)境内の燔祭用の祭壇の上で犠牲の肢体と内蔵を焼き尽くす(同7〜10節)。
■大贖罪日の献げ物
 年に一度の「大贖罪日」、ヘブライ語で「ヨーム(日)・キップール(贖罪)」の場合は、至聖所で大祭司によって贖罪の犠牲がささげられます(レビ記16章3〜31節)。これにも長い歴史と変遷がありますが、「贖罪の日」は第七の月「ティシュリ」(9月末〜10月始め)の十日にあたります。
〔T〕大祭司自身と祭司全員のための贖罪の献げ物として雄牛1頭を、燔祭として雄羊1匹を用意する。
〔U〕イスラエル共同体の贖罪の献げ物として雄山羊2匹を、燔祭として雄羊1匹を用意する。
  年に一度の大贖罪日では、大祭司は天幕の垂れ幕の奥の至聖所に入ります(同2節)。これは大祭司だけに許されることです。大祭司は、
(1)至聖所での贖罪の献げ物への雄牛1頭と、燔祭のための雄羊1匹を用意する(3節)。
 ただし、実際に屠る作業と犠牲の肢体の用意などは補助の祭司たちが行なうのでしょう。
(2)次にイスラエル全体の贖罪のために、2匹の雄山羊を至聖所の入り口へ引いてきて、籤で1匹を贖罪の献げ物に、もう1匹を荒れ野のアザゼルのためのものにする。
(3)沐浴して全身を浄める。
(4)大祭司の正装ではなく、他の祭司と同じ白い衣装をまとう(4節)。
(5)彼は天幕の外の境内にある祭壇(出エジプト記27章1〜8節)から採った炭火を香炉に容れて片手で持ち、もう一方の手には香料(出エジプト記30章34〜38節)を携えて至聖所に入る〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)226頁〕。
(6)香炉で香料を焚いてその煙が櫃(ひつ)"the ark" の上の贖いの座 "the mercy seat "を「覆う」ようにする。
(7)それから至聖所から出て雄牛の血を受け取る。
(8)彼は雄牛の血を携えて、「契約の櫃/箱」とその上部を覆う純金の「贖いの座」(カポーレット)が置かれた至聖所に入る。
(9)そこで、雄牛の血を贖いの座の上の東に向けて指で振りかけ、さらにその血を指で贖いの座の正面に向けて7回振りかける〔岩波訳〕。これは大祭司自らの罪と祭司全体の罪のためです。
(10)次にイスラエルの民のための犠牲として屠られた雄山羊の血を受け取り、これを至聖所の贖いの座で、雄牛の場合と同じように振りかける。
(11)大祭司は、ここで至聖所での祭儀を終えて、大祭司の正装に着替える。天幕の外の祭壇で、自分たち祭司とイスラエルの民全体のために、先の至聖所で用いた雄牛の血の一部と、雄山羊の血の一部を、今度は外の祭壇に7度振りかけることで、祭壇そのものを浄める。これによって、祭壇が再び贖罪の献げ物をささげるにふさわしく浄化されたことになります〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)226頁〕。なお、犠牲の動物の肉は、通常祭司が食べることができます。しかし、この日の犠牲の場合は、祭司と民全体の罪の浄めのために、雄牛と雄山羊の肢体は宿営の外で焼き尽くされます(レビ記16章27節)。
(12)最後に、先に籤で選ばれたアザゼルへの雄山羊を追い払うために、下役に命じて荒れ野へ連れて行かせる。
 上に述べたレビ記16章の犠牲の記事には、幾つかの謎があります。アロン(大祭司)が自分と家族のために連れてきた燔祭の雄羊がどうなったのかがよく分かりません。アロンが贖罪の日に身にまとう大祭司の服装と比べるとはるかに質素です(レビ記16章4節と出エジプト記28章の大祭司の服装とを比較)。そもそも荒れ野の放浪時代には、まだ「大祭司」制度はありません。これらの記事が捕囚期頃に祭司資料編集者たちによって編集されているからでしょう。出エジプト記の会見の天幕や祭壇や大祭司の服装などは、同6章〜28章/37章〜39章でも繰り返されていますが、捕囚期の祭司資料編集者たちが、伝承された資料やソロモンの神殿の記録などから編集したものですから、そこにいたるまでの長いイスラエルの祭儀制度の歴史があったことが推定されます。
■燔祭と罪祭
 そもそも、犠牲の獣を焼く燔祭"a burnt offering"と、獣の血を注ぐ罪祭 "a sin offering" の二つの制度は本来別個のものだったものがイスラエルで結びついたと考えられます。「燔祭」すなわち「焼き尽くす捧げ物」の起源は古く、ノアにさかのぼるものです(創世記8章20節)。アブラハムが主ヤハウェと結んだ「契約の犠牲」では、3歳の雌牛と雌山羊と雄羊と山鳩が、二つに引き裂かれて(山鳩を除く)捧げられ、その裂かれた間を「煙を吐く炉と燃える松明」が通り抜けたとありますが(創世記15章7〜20節)、これも燔祭につながる起源でしょうか。レビ記16章の燔祭と罪祭は、個人と家族と民全体のそれぞれの<「咎」と「汚れ」、すなわちその「罪」全体>を贖うためのものです(レビ記16章16節)。ほんらい人間同士では、罪過への「宥め/慰撫」"propitiation"と、罪の「贖い/償い」 "expiation" は別のことですが、神の怒りを避けるための行為が、これら二つの概念を融合させたと見ることができます〔TDOT(7)293〕。なお、年に一度の大贖罪は、至聖所の契約の櫃の蓋の部分に当たる「贖いの座」(カポーレット)に犠牲の血を振りかけ、さらに聖所と天幕の外の祭壇にも振りかけて贖罪を執り行ないます。「贖いの座」とは、神と人とが出会う神学的(霊的)な場のことであり、この「出会い」は出エジプト記24章15〜18節のシナイ伝承にさかのぼるものです〔TDOT(7)298〕。
 このように見ると、荒れ野時代の「天幕」"the Tent"→定住期の「幕屋」"the Tabernacle"→ソロモンの「神殿」「ベート・アドナイ(ヤハウェ)」(主の家)"the Temple"へと移行していった過程をたどることができます。祭司資料編集者たちは、これらの伝承に基づいて、出エジプト記、レビ記、民数記の祭儀部分を編集し直したのです。したがって、先にも述べたように、これらの記述は多分に理念化されています。それにもかかわらず、聖書の「主の家」伝承は、第二神殿以後のユダヤ教に受け継がれることになりますから、この伝承はイエスの頃にも、さらに新約聖書に大きな影響を及ぼしています。
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