『古事記』の豊穣神話
■天の岩屋戸
 「天(あめ)の岩屋戸(いわやと)」は、『古事記』では、「天(あめ)の石屋戸(いはやと)」と書かれています〔古事記本文は以下による。萩原浅男/鴻巣隼雄 校注・訳『古事記、上代歌謡』日本古典文学全集。小学館(1990年)72〜83頁〕。
 『古事記』によれば、伊耶那伎命(いざなきのみこと)は、黄泉(よみ)に下った伊耶那美命(いざなみのみこと)を求めて黄泉を訪れ、そこから地上へ逃げ戻った後で、天照大御神(あまてらすおほみかみ)と月読命(つくよみのみこと)と建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の三柱のカミガミを生みます。そこで、天照大御神(太陽)には高天原(たかまのはら)を、月読命(月)には夜の国を、須佐之男命には海を治めることが告げられます。ところが、須佐之男命は、海原への支配を拒んで、大人になるまで泣き続け、このために地上に水がなくなり、草木は枯れ、川や海も干され、悪霊がはびこる事態にいたります〔『古事記』前掲書72〜73頁〕。須佐之男命は、自分の母である伊耶那美命の居る根之堅州国(ねのかたすくに)へ行きたいと願うのです。根之堅州国とは、地下の黄泉のことです。このために、伊耶那伎命は、怒りのあまり、須佐之男命を追放します。須佐之男命は、姉の天照大御神のもとへ行って、この件を直訴しようと高天原へ向かいます。天照大御神は、弟が自分の国を奪おうとするのではないかと恐れますが、須佐之男命は、自分には「耶(きたな)き心なし」と告げます。そこで二人は、「心清く明(あか)き」ことを表わすために「誓(うけ)いをして子を生もうと」約束します。『日本書紀』のほうによれば、この時、天照大御神は、自分の剣を弟に与え、須佐之男命は、八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)を姉に与えたとあります。その上で、二人は、誓約の間に、女が生まれたら汚い心ありとし、男が生まれたら清い心ありとすることを約束したとあります〔『日本書紀』第一巻。『日本書紀』(1)岩波文庫70頁〕。
 ところが須佐之男命は、天照大御神の所有する田をあらしたり、天照大御神が初物の穀物をお供えして食べる大嘗(おおにへ)の神殿に「屎(くそ)まり散らした」とあります。これは、古代の農耕の儀礼では最大の罪になります。その上で、天照大御神に仕える機織(はたお)りの侍女を死に至らしめたので、耐えかねた天照大御神は、天の岩屋戸(天にある石の洞窟の戸)を開いて、その中に隠れます。すると、高天の原も葦原(あしはら)の中(なか)つ国も暗くなり、「万(よろず)の妖(わざわい)」が起こり、カミガミの騒ぐ声が五月の蠅のように」なります(『古事記』前掲書81頁)。
 そこで、八百万(やほよろず)のカミガミが、「天(あめ)の安(やす)の河原に集い」ます。高御産巣日神(たかをみむすひのかみ)は、「神世七代」の伊耶那伎、伊耶那美とは別系統に属し、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と並ぶカミですが、この高御産巣日神が、ほかのカミガミとともに、とこしえの国に住み太陽を呼び寄せるとされる「常世の長鳴鳥」(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせます。
 また鍛冶職のカミに命じて青銅の鏡を造り、玉造りのカミに命じて八尺(やさか)の勾?(まがたま)を連ねた玉飾りを作らせ、天の香山(あまのかぐやま)の雄鹿の肩の骨を抜き取り、これらをカミに捧げて、占(うらな)いの祝詞(のりと)をあげます。その上で、腕力の強い天手力男神(あめのたぢからおのかみ)が、岩屋の戸の傍らに隠れて立ちます。さらに、天之宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天の香山(あまのかぐやま)の日陰にある葛(かずら)を襷(たすき)にして肩にかけ、真折(まさき)の葛(かずら)を耳に飾り、天の香山の笹(ささ)を手にして神楽(かぐら)を舞い、岩屋戸の前に桶を置いて足で踏みとどろかせ、胸も陰部も露わにして神憑(かみがかり)します。これを見て神々がどっと笑うと、その声と音が高天原(たかまがはら)に響き渡ります。
 天照大御神が、外の暗闇の中での騒ぎは何事か?と、岩屋の戸を少し開けて問いかけると、天之宇受売命は、「あなたさまよりも立派なカミが居られるので、喜び祝って歌舞をしているのです」と答え、その間に鏡を岩屋の前に差し出して、アマテラスの顔を映します。アマテラスが不思議に思い戸から身を乗り出すと、すかざず天手力男神が、その手を取って外へ引き出しました。天手力男神は、尻(しり)くめ縄(「注連縄」しめなわ)を戸口に張って、天照大御神が再び岩屋の中へ戻らないように申し上げると、高天原にも葦原の中つ国にも、太陽が照るようになりました。
■この神話について 
 この物語では、月や星に比べて、女神の太陽神が大事な役割を果たしています。これは、オリエントの太古からの豊穣神話の流れから見ると、比較的新しい段階の神話であることが分かります。また、スサノオは、結果として、海よりも死者の黄泉を選びますが、「天」と「死者の黄泉」との間に、「海」が入っていることにも注目しなければなりません。「海」が重視されるのは、ギリシア神話の「ポセイドン」(ローマの「ネプトゥヌス」)も、ヘブライの「天」と同様に、天の雨水のカミです。日本神話の「天(あま)」と「海(あま)」も同様です。アマテラスの石屋戸ごもりは、日食を指すという解釈もありますが、スサノオの蛮行が農耕に関わっていること、アマテラスの籠もりが「ものもろの祟り」をもたらすことを考え併せると、冬から春にかけての太陽の運行が、この神話の背景にあることが分かります。
 以上が、『古事記』による「天の石屋戸」の物語です。『日本書紀』と『古事記』のいわゆる「記紀」の編纂が発起されて完成にいたるのは、6世紀の終わり頃から、7世紀を経て8世紀の初頭までのことです。この時代は、推古→舒明→皇極→孝明→斉明(=皇極)→天智→天武→持統・文武→元明の諸天皇の在位時代で、倭国が、朝鮮半島と大陸の諸王国に並び立つ律令国家を造り上げる日本の大事な時期にあたります〔週刊朝日百科『日本の歴史』45号2〜11頁を参照〕。すでに3世紀頃から、中国の後漢の後を受けた北魏と、また、朝鮮半島では、百済と任那と新羅と高句麗から、数多くの仏教の僧侶たち、道教や儒教の博士たちが、仏教・儒教・道教の経典を携えて渡来し、大和朝廷の王子や貴族たちを教えていました。また、倭国からも、半島と大陸へ、僧や博士や使者が、幾多の困難を経て派遣されました。5世紀〜8世紀は、大陸と大和との国際交流が盛んで、大陸・半島と大和との間で、人の往来が盛んであった時代です。
〔記紀の編集〕
 ここで記紀(『古事記』と『日本書紀』)の成り立ちについて触れておきます。『日本書紀』によれば、推古28年(620年)に、時の皇太子(ひつぎのみこと)、すなわち聖徳太子と、嶋大臣(しまのおおきみ)の地位にある蘇我馬子(そがのうまこ)とが相計らって、中国の『帝記』に見習って、歴代の天子の系譜と故事を記するようにとの勅令が出されました。ところが、この計画は、その後に大化の改新(645年)が起こり、その上、さらに壬申の乱(671〜2年)があって、大和朝廷の皇室の正統性への見解に影響を及ぼしたと考えられます。このため計画はなかなか進行しなかったようです。ようやく天武天皇の治世10年(681年)になって、改めて皇子や重臣たちに、「帝紀(すめらみことのふみ)及び上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記し定める」〔『日本書紀』〕ように勅令が出ています。これは、『日本書紀』の本格的な編纂の開始を意味するのでしょう。『日本書紀』のほうは、養老4年(720年)に至ってようやく完成しますから、推古天皇の最初の勅令から100年かかったことになります。
 ただし、『日本書紀』の天武天皇のこの勅令には、稗田阿礼(ひえだのあれ)も太安麻呂(おおのやすまろ)も含まれていません。しかし、『古事記』(上巻の序)のほうには、天武天皇の勅令として、「故(かれ)、惟(こ)れ帝紀を撰録し、旧辞(きうじ)を討覈(とうかく)して〔よく調べて〕、偽(いつはりわり)を削り、実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」とあり、さらに続けて「時に舎人(とねり)有り、姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是(こ)れ甘八(二十八)。人と為(な)り聡明にして、目に渡(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき。然れども運(とき)移り世異(かわ)りて、未だ其の事を行なひたまはざりき」〔前掲書『古事記』46頁〕とあります。天武天皇は、その勅令の直後に没したと思われます。改めて、元明天皇が次のように詔(みことのり)しています。
 
「焉(ここ)に旧辞(きうじ)の誤り忤(たが)へるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年(711年)九月十八日を以ちて、臣安万呂(しんやすまろ)に詔(みことのり)りして、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦(よ)む所の勅語の旧辞を撰録して献上せよといへれば、謹みて詔旨(みことのり)の随(まにま)に、子細に採り?(ひり)ひつ」〔日本古典文学全集『古事記 上代歌謡』(小学館)48〜49頁〕。
 
 『古事記』では、命をうけた安麻呂が『古事記』を献上するのは、元明天皇の和銅5年(712年)です。だから、『日本書紀』に比べれば、『古事記』のほうは比較的早く編纂が進んだことが分かります。稗田阿礼(ひえだのあれ)が「誦(よ)み」、安麻呂が「(その)勅語の旧辞を撰録」し、二人の息がぴったり合っていたのでしょう。
 稗田氏(ひえだうじ)は、代々アメノウズメノミコトの子孫である猿女(さるめのきみ)の一族です。猿女氏(さるめうぢ)は、女系相続の氏(うじ)として宮中に出仕しましたが、ほんらいは伊勢・志摩の出で、大和に移住してから「稗田」と称しました〔前掲書47頁(注)9〕。「サル」は「戯(ざ)る」のことで、宮中で巫女(みこ)としてこっけいな仕草を演じる人のことですが、これは、天の石屋戸物語で、アメノウズメノミコトが演じた役割です〔週刊朝日百科『日本の歴史』(49)146頁〕。ちなみに、ヨーロッパの宮廷にも「道化」が居て、同じ役割を演じています。シェイクしピアの『リア王』に出てくる「道化」(clown)が有名です。
『古事記』には、稗田阿礼が聡明で、上古(いにしへ)の事績を「口に誦(よ)む」とあります。これは、暗誦して唱えることですが、ここでは、伝承された古事録を節をつけてくり返し吟じることを指すのでしょう。これは、ほんらい、巫女が霊感を受けて託宣することを継承するもので、稗田氏は、代々託宣を授与されて告げるシャーマンの家系であって、阿礼も霊に感じて語る業を受け継いでいたと思われます。したがって、「口に誦む」とは、口伝あるいは文書をただ「暗誦して唱える」だけではなく、その内容を「霊感して語り告げる」ことをも含みます。彼女の行為は、明らかに宗教的・霊的な営みですから、「過去の故事を記録する」(これはむしろ安麻呂の仕事)ことだけではなく、阿礼の「同時代の人たちに向けて」霊に感じて託宣する行為をも兼ね具えていることをも見逃してはなりません。
 女帝の推古天皇から孝謙天皇(女帝)にいたる飛鳥・奈良時代の大和朝廷は、当時の大陸と半島の諸国と交流して、「四書五経」など孔子や老子を学び、その上『一切経』を通じて仏教を深く研究し、鑑真など当時の最高の僧侶を招いて受戒しました。しかも、従来の天皇家の祭儀をそのまま執り行ない、その上、大陸の史書にならって『日本書紀』を編纂し、日本古来の神話伝承を稗田阿礼に朗唱させてこれを『古事記』として編纂させたのです。
 このように、阿礼の時代は、道教と儒教と習合した仏教、それも仏像崇拝を旨とする護国仏教が、朝廷を中心に普及していて、大陸との交流も盛んで、そのような宗教環境の中で、皇室の代々の事績を同時代の人たちに向けて託宣すること、これが阿礼の使命だったのです。神功皇后の神憑りと仁徳天皇の逝去と皇后の新羅征伐の物語は、このような国際情勢を反映していると思われます。また、応神天皇の百済の朝貢と酒の歌なども、大和朝廷と渡来の人と文化との深い関わりを反映するものです。また仁徳天皇による民への思いやりにも、儒教あるいは仏教の教えを読み取ることができます。阿礼が感じたのは、そのような国際性と仏教の普及の中における「新たに創造された」皇祖皇宗の霊性の有り様であったことを見抜かなければなりません。
〔私市の磐船神社〕
 大阪と京都の間にある交野(かたの)市近郊の私市(きさいち)に、磐船(いわふね)神社があります。「私市(きさいち)」は、敏達(びだつ)6年(597年)に「詔(しょう)して日祀部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を置く」〔『日本書紀』(巻の二十敏達天皇)岩波文庫版(4)28頁〕とあり、「私部(きさいちべ)」は天皇の后(きさき)に仕える部民(べみん)のことです。敏達5年に「豊御食炊屋姫尊(とようけかしやひめのみこと)(後の女帝推古天皇)を皇后とする」とありますから、私部(きさいちべ)は、この皇后に仕える部民(べみん)であったろうと思われます。私市にある磐船神社は、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀るもので、『古事記』には、その由来が、神武天皇の東征の最後に、天皇に仕えた物部(もののべ)氏の祖神、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)とされています〔前掲書『古事記 上代歌謡』160〜61頁〕。この神社では、饒速日命(にぎはやひのみこと)は、天の磐船(あめのいわふね)に乗って高天原(たかまがはら)より降臨したと伝えられています。この神社は、交野(かたの)を南北に流れる天の川(あまのがわ)の上流にあり、神社の境内では、「天の岩戸」(あめのいわと)と呼ばれる三つの巨石が扉のように重なり合っていて、これが、天照大神が隠れた「天の岩戸」であると伝えられています〔磐船神社のブログより〕。巨岩には、大日如来と観音菩薩と地蔵菩薩と勢至菩薩の四体が彫られているとありますが、これらは聖徳太子以後に、朝廷の仏教化に伴って、後から彫られたものでしょう。また、岩戸に向かってお参りすると、ちょうど伊勢神宮の方向になることから、この神社の岩戸伝承は、『古事記』に記されている大和朝廷の天の岩屋戸伝承に倣(なら)ってできたとも考えられます。しかし、冬季の太陽の衰微に関わる豊穣神話は、現生人類(ホモ・サピエンス)と共に古いと思われますから、およそ2万年〜1万5千年前とも言われるほど前に日本列島に移住してきた原住民族や、その後も続いた西方、あるいは南方からの移民にさかのぼる可能性もあります。どちらとも決めかねますが、おそらく、物部氏の古くからの伝承が、大和朝廷の天の岩屋戸神話と統合されたのでしょう。
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