あとがき
   この本は、私の個人誌、季刊『光露』の86号(1989年)から98号(1992年)に連載されたものに基づいています。ただし、内容が多岐にわたるために、これを大幅に縮小して話し言葉に書き改めました。
   この本は、聖書の入門書でも聖書解釈論の入門書でもありません。私がこれの連載を思い立ったのは、自分自身の個人的な体験がもとになっています。それは、私たち夫婦が、フィンランドの宣教師さんたちの指導のもとで、異言をともなう聖霊のバプテスマを体験したことに始まります。この体験を与えられた人たちの聖書の読み方は、ほとんどの場合ファンダメンタリズムに基づいています。私たちもこの読み方に従っていました。しかし、書店で見かける聖書の注解書も、また私たちが接したある種のクリスチャンたちも、聖書の読み方が私たちとは異なるのです。それだけでなく、読んでいる聖書の訳も歌う賛美歌も別なのです。同じキリスト教を信じるプロテスタントでありながら、どうしてこうも違うのか? これが私たちが抱いた最初の疑問でした。
  幸い、自分の専門がイギリス・ルネサンスの詩人スペンサーとピューリタン詩人ミルトンだったので、自分なりに手探りでこの違いを埋める努力を続けることができました。『光露』の読者たちからの励ましのお言葉、さらに、少数の信友たちと長年続けてきた聖書研究会、これらが大きな支えになりました。その上、コイノニア会の方々、また、故小池辰雄先生が指導されていたキリスト召団の方々との交わりからも教えられることが多く、この小冊子は、これらの先生や信仰の友人たちの支えなしには生まれなかったと思います。
  私がこの本で取り上げた問題は、この方面の専門家の方々の間では、すでに論じ尽くされているのかもしれません。しかし、私たち一般の信仰者にとっては、こういう問題を考える糸口さえも与えられていないのが現状です。それはちょうど、専門医の方々の間では、ある病気の治療法に関して、専門用語で了解に達しているにもかかわらず、一般の患者には全くと言っていいほど、その内容が伝わってこないという医療の状況と多少似ているところがあります。言わば、患者一人一人の霊的な命にかかわることでありながら、自分の大事な問題について、専門医と患者との間に十分な了解が成り立っていないのです。このひずみは、学問的な聖書学の分野の人たちと聖霊運動にたずさわっている人たちとの間に、互いのコミュニケーションが全く成り立っていないという現状に、最も先鋭に現われています。このままでは、アメリカのキリスト教のように、日本のキリスト教も、聖書学と聖霊運動にたずさわる人たちとの間に横たわる溝が、ほとんど「絶望的」なほどに深まる恐れがあります。この小さな本が、そういう問題について一石を投じることができれば幸いです。
   この本の出版をお世話くださった信友の初宿正典氏と出版を引き受けてくださった新教出版社社長森岡巌氏に心からお礼を申し上げます。なお本書の出版に当たっては、甲南女子大学出版助成金を受けることができました。大学のご厚意に感謝いたします。〕終わりに、長年にわたり私と信仰生活を共にしつつ、常に祈りによって支えてくれた妻久子に感謝の気持ちをこめてこの本を捧げます。
 1996年9月   著者
戻る