ひとりで読む聖書
   いつか新聞の投書欄で、「私はクリスチャンではありませんけれど」という書き出しで「聖書を知ってからの私は楽しくて仕方ありません。新しい発見みたいなことに出合えるからです」と書いている人がいました。聖書をこのように「楽しみに」読むと言ったら、聖書は信仰の書物だから真剣に読まなければならないと、眉をひそめる人がいるかもしれません。しかし、私は、これからの時代では、こういう聖書の読まれ方がますます広まると思います。またそれが望ましいとも考えています。このような「楽しみ組」をも含めて、教会にも行かず神学にもとらわれず、自分ひとりでこつこつと聖書を読みながら、何か「新しい発見」をしている人が、現在の日本ではかなり多いのではないか。こう私は思っています。そういう読み方がいいか悪いかよりも、このような現象が何を示しているのかを考えることが大切だと思うのです。
  一昔前であれば、聖書を読みたいと思う人は、教会へ行って、そこで牧師さんの教えを聞くことを先ず第一に考えたでしょう。教会は聖書を学ぶ最も適切な場所で、そこで信仰の手引きをしてもらうのが一番早いからです。しかし、これからは、そういうことをせずに、自分ひとりで半ば「楽しみに」聖書を読む人が増えていくと思われます。なぜなら、情報の伝達方法が発達して、一人一人がだれからも妨げられずに、さまざまな情報に接する時代が来ているからです。以前は、音楽会や映画館へ行かなければ、音楽を楽しみ、映画を見ることができませんでした。しかし今では、自分の部屋で、ひとりで映画を見たり音楽を聞いたりするのがごく普通になっています。教会へ行かなくても、本やその他の情報を通じて、聖書に関する知識を手に入れたり、聖書の世界を直接ビデオで見たり、テープを通じて説教を聞いたりできるようになりました。当然、聖書も「自分ひとりで」読む人が増えてくる、そんな時代が来ているのです。ただしこのことによって、人と人とが直接に出会って交わりを持つことの意義が薄れることはありません。逆にいっそう大切になると思われます。
   一人一人が、自分なりの読みで聖書を読み始めるというのは、現代が流動的な時代であることを示しています。かつての中世のヨーロッパでは、制度として確立した教会があって、これが、諸国民諸国家の上に君臨し、それらを支配し統率できる教義的な権威と権力を有していました。このような教会制度の下では、教会へ行きさえすれば、さまざまな問題に答えを与えてくれました。そこでは、宗教を通じて、人々を全体として結びつける強いきずなが存在したのです。このような教会制度に支えられて現在のヨーロッパと呼ばれている共通の文化圏が形成されました。新聞で報じられているヨーロッパ共同体(EU)も、このような歴史的背景を抜きには考えることができません。こういう教会制度がその機能を発揮できたのは、共通の価値観とこれを支える社会秩序が存在していたからで、こういう時代は、宗教的に見れば、今よりもはるかに安定した時代であったと言えます。
  これに対して、現代の世界では、どの国を見ても、その国民全体に共通するまとまった教義も、まとまった教会制度も、まとまった聖書解釈も存在していません。私がこのような状態を嘆いていると誤解しないでください。ただ、私たちがきわめて流動的で多様な時代に生きていることを思い出してほしいだけです。逆に言えば、現代は、それだけ可能性と創造性に満ちた時代です。個人が、それぞれに自分の可能性を発揮することのできる時代が来ているのです。しかし、その多様性は、そのまま個人としての不安定さにもつながっています。ひとりで聖書を読む人が増えているのも、個人として「自分とは何か」を知りたいという願いと無関係ではないと思います。
アジアの中の聖書
   これに似た状況は、例えば17世紀の英国にもありました。当時の英国は、中世のカトリック教会から宗教的に独立したのですが、そのイングランド国教会の中からも、さまざまな信仰や思想が生まれて、国内は宗教的・政治的に混乱状態になりました。しかし、その混迷の中から、アメリカ建国の理念や、大英帝国と呼ばれる植民地共同体が形成される原理が生まれてきたのです。「楽しみ」の話からたいそう大きな問題へと発展しましたけれども、ヨーロッパ共同体などを持ち出すのは、私たちが置かれている日本をめぐる現在の状況を考えずにはおれないからです。とりわけ、アジアの中にある日本を考える時に、日本をめぐるアジアの宗教的な状態は、今後の世界の価値観を左右するほどの大きな意味を担っているように思われます。
  宗教的な視点から見ると、アジアの現状は、欧米とはずいぶん違っているのが分かります。それぞれの国に存在する無数の土着の宗教を抜きにしても、アジアには、ごく大ざっぱに色分けしただけでも、仏教(日本・タイ・ビルマなど)、儒教(韓国・中国)、ヒンズー教(インド)、イスラム教(インドネシア、マレーシア)、カトリック・キリスト教(フィリピン)、プロテスタント・キリスト教(オーストラリア、ニュージーランド)などの宗教的な文化圏があります。日本の国内に目を向けて私の周囲を見ただけでも、私のような新教のキリスト教徒もいれば、仏教やカトリックの学生もいれば、仏教徒の親戚、新興宗教の従姉妹、天理教徒の同僚もいます。この国だけでなく、アジアの国々は、どこでも似たような状況でしょう。しかも、日本は、欧米のいわゆるキリスト教文化圏と、政治的、経済的、文化的に密接なつながりを持たなければならないし現に持っています。これが現在の、そして将来の、私たちが置かれている状況です。
  こういう複雑な宗教的環境の中に聖書を置いてみるときに、聖書を、個人個人で、いわば「趣味」として読み始める人が増えているのは、ごく自然な成りゆきであり、また歓迎すべきことだと思います。ところが、困ったことに、こういう聖書の読み方をする人は、どういうふうにして自分と聖書とを関係づければよいのかが、なかなか見えてこないのです。初めから決められたコースがあって、これに従って聖書を学習すれば、ちょうど学校の教科課程のように、段階的に信仰に導かれる、こういうコースに乗ることのできる人はそれでいいでしょう。しかし、ひとりで聖書を読むというのは、こういうレディメードのコースになじまない人たちです。なじまないのは、自分がそういう既成の「キリスト教講座」では納得できない何か別の体験や状況を感じ取っているからです。そういう人たちは、聖書の一句一句から、今までだれも読みとることのなかった内容や意味を発見する可能性を秘めた人たちです。
  私たちは、ドイツやアメリカのような「キリスト教国」と呼ばれる国に住んでいるわけではありません。現在の日本は、ある意味で、世界中のどの国もまだ体験したことのないような複雑な状況に置かれています。日本国憲法一つをとってみても、これを守る守らないにかかわらず、こんな憲法は、現在の世界のどこにも存在しません。だから、私たちは、世界のだれもが経験していないような特殊な状況の中で聖書を読んでいるのだということを心に留めておかなければなりません。
自己流の読みと参考書
   ところで、こういう個人的な聖書の読み方をする場合には、突飛な連想や見当違いの解釈が入り込むのは避けられません。こんな時、はたして、自分の読みはこれでいいのだろうかという疑問や不安につきまとわれるものです。その上、分からないことや知りたいことがいっぱい出てきます。そこで、街の本屋さんやキリスト教関係の書籍の専門店へ行って、いろいろな本を買ってきて読むのですが、これがまた難しいか、読んでいて面白くないか、要するに「ほんとうに自分の役に立たない」のです。考えてみれば、これは当然かもしれません。まだだれも経験したことがない状況で、聖書の言葉に、それまでだれも思いつかなかった、少なくともだれも教えてくれなかった意味を読みとろうとするのですから、これを本格的にやろうとするためには、学問的な聖書解釈の訓練が必要だからです。
  聖書を読みながら、自分はこの箇所をこう解釈したいと思うのだが、はたしてそれでいいのだろうか、という疑問を抱きます。そこで、手に入る注解書や辞書に当たってみます。ところが、注解書には、この聖書のこの箇所は、文献批判的にはこうであるとかああであるとか、ここはテキストの成立上疑問があるとか、まるで神学の専門家でなければとうてい正しく理解できないようなことが書かれているのです。そうでなければ、読者が自分で判断する隙間もゆとりもないほどに厳密な「釈義」が述べられていて、まるで、あなたには聖書を自分で解釈する資格がないから、私がその代わりに解釈してあげると言わんばかりの書き方がしてあります。
  クリスチャンと言わず、聖書を読もうとする時に、せっかく問題意識を与えられながら、こういう状況に追い込まれる人がけっこういると思います。それほどに人々の考え方が多様化していて、福音のあり方も流動的になっているからです。私は、特に聖書学の専門の方々にお願いしたいのです。現在の日本で、最も重要なのは、こういうさまざまな読みを可能にするような聖書解釈の方法論であり、かつこういう読みの可能性を示唆してくれるような聖書の注解書や参考書だということを認識してほしいのです。それも、ある程度学問的にも聖書的にも訓練を積んだクリスチャンや教会内の人だけではなく、「教会外の」ごく一般の人たちをも視野に入れてほしいのです。学生や家庭の主婦や企業で働く人たちだけではありません。さまざまな学問的な分野の人たちが、聖書に興味を抱いています。そういう人たちは、教義学的に厳密な釈義とか精密な文献批判を求めているのではありません。人文科学の他の分野の人たちとも共有できる広い視野に立つ注解を求めているのです。
  何よりも大切なのは、聖書を自分で読みたいと志す人たちが、不必要な誤解や誤謬を避けることができて、しかも読者に「読みの幅」を与えてくれる注解書です。外国の文献に基づく学問的な注解も重要だとは思います。しかし、同時に注目してほしいのは、今の日本には、この国独特の状況の中で、実にさまざまな体験を持ち、多様な問題に直面している人たちがいて、そういう人たちが、聖書を読んで、そこから自分の生き方を確立しようとしていることです。難しい要求であることは重々承知していますが、注解の仕事というのは、ある意味で、きわめて禁欲的な仕事です。多くのことを知りながら、多くのことを切り捨てて、正確で示唆に富む注を簡明に付けるのは容易なことではありません。学問的な裏付けを持ちながら、現代の日本の置かれている状況の中で、聖書のテキストを鋭く洞察し、それを一般の読者や研究者が納得のできるような形で提供してくれる聖書の注解や注釈になかなか出合えないのです。
  とにかく、当分、自分流で聖書を読む人たちは、私のように手探り状態を続けるほかはないでしょう。けれども、手探りでもいいから、何か根本的な問題に突き当たっている人は、ぜひ聖書を読んでほしいのです。読んでみれば、けっこう面白いのですから。面白いから、好きだから読み始める。そういうところから、一歩一歩と自分なりの読みを深めていけばいいと思うのです。そういう人が増えてくるならば、日本の未来は明るいと言えます。少なくともこういう流動的な時代の中で、間違いなく存在する私という個人が、いったいどのような意味を持つのかを問うためにもぜひ聖書を読んでほしいのです。聖書を読むこと、それが自分という個人をつくる営みそれ自体なのですから。私は、これから、こういう人たちが、すなわち、「普通の人」が聖書を読む場合を念頭に置いて、自分なりの聖書の読み方をご参考に供しながら、聖書解釈の方法を、読者の方々と一緒に考えてみたいと思うのです。
  「テキスト」について
   聖書は、現代の私たちには、一冊の書物、どんなに貴い「神のお言葉」であるにしても、やはり「書かれた文字」としての読み物です。私たちは、学校で習う教科書のことを「テキスト」と呼んでいます。これは、教科書が、授業ではただの本ではなく、特別に重要な本であるという意味です。そうであるのなら、聖書は、最も重要な「テキスト」であると言えるでしょう。聖書というこの「テキスト」は、時代が変わり、学校制度が変わっても、基本的には変わりません。まさに「テキスト中のテキスト」と呼ぶのにふさわしい本です。ただし、「テキスト」という言葉それ自体は、人が何か書かれたものを真剣に読もうとする時に、自分の目の前に置かれている「書かれた文字の集まり」を単純に指しているにすぎません。だから、どんな読み物でも「テキスト」になりえます。
  私たちが聖書を読むというのは、聖書のテキストを読むことであり、さらにそれを解釈することです。そこで、テキストを読むというのは、どういうことかを考えてみなければなりません。聖書というテキストを読む時に、自分の解釈がはたして「正しい」のか、という疑問を抱くことがあります。ところが、これに答えるのはとても難しいのです。なぜなら、ある特定の聖書のテキストに関して、実にさまざまな解釈が成り立つからです。「ヨハネによる福音書」の最初に出てくる「言(ことば)」(聖書の引用は新共同訳からです)を例にとってみましょう。これをギリシア的なヘレニズムの思想の中に置いて、「知性・理性」という意味に理解することも可能です。これに対して、これを、人格を有する神の言葉と理解して、肉体をとる前のイエス・キリストを指していると解釈することもできます。あるいは、これを、ギリシア的な意味と対立させて、ヘブライ独特の伝統に基づく思想を含むと解釈する思想家もいます。もっと単純に、普通の「ことば」の意味に理解しても「間違い」だとは言いきれません。
  このように、聖書の言葉一つをとっても、実にさまざまな読み方や解釈の可能性があります。このことは、あるテキストを解釈する場合に、これを扱う人の立場によって解釈が大きく異なってくることを示しています。この点は重要です。なぜなら、聖書のテキストを解釈することは、ある絶対的な「真理」があらかじめ予想されていて、この「正解」を、まるで受験問題の正解のように発見したり、その「正解」に到達したりすることとは全く違った営みだからです。言い替えれば、テキストの解釈とは、これの読み手、あるいは受け手によって、さまざまに変化し、これに大きく左右されるという性質を持つのです。したがって、ある一つの読みが正当化されたからといって、それ以外の読みを「不当」だとする根拠は全くないことになります。
知識のある人の読みは正しいか?
   ある特定の立場なり見解なりに立って、あるテキストを解釈する場合に、当然のことながら、そのテキスト(ここでは聖書)に対する知識の豊かな人と、そうでない人とがいます。一般には、聖書の学問的な知識が豊富であればあるほど、その人の解釈が「正しい」と考えられています。ところが、このこと、つまりテキストに対する知識が豊富であることと、そのテキストに対してその人がどういう立場からこれを解釈しているかということとは、全く別の問題なのです。
  このことは、例えば、公害の問題などによく現われています。同じ資料を手にしながら、その道の専門家といわれる人たちでも、一方はその資料に基づいて、人体に有害であると主張し、他方はその同じ資料から、それが無害だと言うのです。このように、自然科学の分野でさえ、テキスト(数字もやはりテキストです)の解釈をめぐって正反対の結論を出すことがあるのを私たちは知っています。
  自然科学の分野でさえもこうなのですから、霊的な内容にかかわる聖書の場合、その解釈の多様性は想像に難くありません。だから、ある人がどんなに知識を有していても、そのゆえにその人の解釈が「正しい」と考えるのが誤りであることが分かります。少なくともその解釈に反対する、あるいは、これと全く異なる解釈が、「誤り」だと考えてはならないのです。知識の豊富な人は、豊かな知識のまさにそのゆえに、自分と異なる解釈、異なる真理を見落とす危険性があります。あるいは、知識の乏しい人の発想を「そんなことは、ありえない!」と一蹴する危険があります。だから、知識を持つ人の解釈が正しくて、学問的な知識の乏しい人が誤りであると決めてかかってはいけません。私たちは、ある「テキスト」の解釈について考える場合に、だれがどのような状況の中でそのテキストを解釈しているのかを知らなければ、その人の解釈を正しく評価することができないのです。
  自己流の読み方はどうすればよいか?
   このように言うと、聖書の学問的な研究よりも「自己流の読み方」のほうがより重要なのだと思う人がいるかもしれません。確かに、聖書に向かう場合には、「自己流の読み」を大切にしなければなりません。なぜなら、後で述べるように、これ無しには、そもそも聖書を読んだことにならないからです。しかし、ここでは、この「自己流の読み」をどうやって進め、深めていくかをもう少し考えてみましょう。聖書を読む場合の困難な点は、さしあたり二つあります。一つは、そこに出てくる語句や用語であり、もう一つは、そこで語られる出来事の時代背景です。この二つが、聖書と現代の日本とでは、ずいぶん異なるからです。
  聖書は、旧約の大部分が、ヘブライ語で書かれていて、新約は、コイネーと呼ばれる紀元1世紀頃の話し言葉のギリシア語で書かれています。だから、聖書を本格的に研究しようと思うならば、この二つの原語の知識をある程度備えているのが望ましいのです。しかし、現代では、優れた英語訳が幾つも出ていて、英語をある程度読める人なら、これらを参考にしながら日本語で聖書を読むならば、聖書のテキストの意味を原義からかけ離れて取り違えることはまずありません(英語の現代語訳はそんなに難しくないので、高校程度の英語の力があれば十分に理解できます)。
  また、英語が読めなくても、現在の日本には、聖書の語句事典、聖書神学事典、それに各巻の注解書・解説書などが日本語でそろっていますから、よほど専門的なことを調べるのでない限りは、日本語で書かれたもので十分間に合います。時代背景についても同様で、優れた聖書事典が訳されたり編集されたりしていますから、これらと聖書の各巻の注解書などで、聖書に出てくる事柄や出来事の背景を理解することができます。
  翻訳の宗教
   聖書を信仰の対象として読んでいる人は、日本語の翻訳だけでは不安だと思うかもしれません。特に「聖書のこの箇所は、ギリシア語の原語ではこういう意味です」などと言われると、やっぱり日本語だけではだめなんだと思いこんでしまいがちです。しかし、考えてみれば、キリスト教では、こと原語に関する限り「正典」はないと言えます。新約聖書の著者たちは、ヘブライ語の原典を用いて伝道したのではありません。70人訳と呼ばれるギリシア語訳を用いたのです。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、不思議に思うかもしれませんが、これが、どこかの教団の正典であるというのは聞いたことがありません。カトリック教会では、ウルガタと呼ばれるラテン語訳が「正典」であり、英国では、欽定(きんてい)訳と呼ばれる英語訳が、長い間事実上の「正典」だったのです。
  原語で書かれた聖書は、聖書の翻訳と学問的な研究には資料として不可欠ですが、信仰の正典としては必ずしも必要ではないのです。いつぞや、イスラム教の教師の話を聞いたことがあります。イスラム教では、アラビア語の原典だけが正典であって、これ以外のものは、一切の翻訳をも含めて、決して正典とは認めないとその教師は言っていました。これは、イスラム教の本質にかかわることなのかもしれません。ところが、キリスト教では、翻訳こそその生命なのです。キリスト教は、本質的に、「翻訳の宗教」です。これは、キリスト教が、いまだかつて一度も、ある特定の民族や国語や土地と特別の関係を持たなかったことを証ししています。キリスト教が、「外国から来た」(したがって外国語の)宗教であると考えるのは正しいのです。なぜなら、キリスト教は、どの国のどの民族にとっても、常に「外国から来た」外国語の宗教であったからです。そうでなかったことは、一度もありません。キリスト教とは、そういうものなのです。だから、安心して日本語で読んでください。
  聖書に限らず、古典と呼ばれるものは、幾世代にもわたって読み継がれてきたものです。その間に、ありとあらゆる階層のありとあらゆる人たちがこれを読んで理解し、何ものかをそこから与えられてきました。だから、古典は、「だれにでも分かる」のです。そうでなければ古典ではありません。聖書も同じで、およそありとあらゆる時代の人たちに読まれ、理解され、信じられてきました。それほどに分かりやすく、しかも深く現実に根ざしているのです。
  自己流で調べること
   「自己流で読む」ことに戻りましょう。聖書を「自己流で読む」というのは、聖書のテキストをその歴史的背景や語学的な内容において理解すると同時に、これを、自分に対する語りかけとして読み、自分なりの洞察を加えることを意味しています。この二つの作業、テキストをその言葉と出来事の時代背景から理解することと、テキストがいったい自分に何を語りかけているかを知ることとの、二つの作業がどうしても必要なのです。
  「自己流」とは、いい加減な読み方のことでないのは、やってみればすぐに分かります。いい加減では、自分が納得できないのに気がつくからです。聖書のテキストからの語りかけに応じて、自分の内に常に新しい問題意識が芽生えてきます。それは、テキストに新しく問い返すことを意味します。そこで、さらに自分のやり方で調べます。そうすることで、テキストの言葉の持つ意味が、いっそう深く「自分のもの」になったと感じることができるでしょう。このようにして自分の読みと調べたこととが、少しずつ近づき合ってきます。調べたことと自分の思っていたこととがある調和に達した時、私たちは聖書を読むほんとうの喜びを味わうことができます。この調和こそ、言葉の本来の意味で「調べる」、すなわち、美しい音色で音楽の「調べ」を奏でることなのです。
第二の聖書
   ところで「第二の聖書」という言葉を読者はご存知でしょうか。この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉です。神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられる。いわば、自然は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」(the Second Bible)であるという意味です。この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言い表わしていると思います。なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。人はいわば聖書と共に自然を「読ま」なければなりません。神をよりよく知ろうと思うならば、聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことが必要なのです。この場合、自然は、活字になっている聖書のテキストと同じくらいに重要な意味を持ってきます。すなわち、自然という「テキスト」を読むのです。このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが「第二の聖書」の意味なのです。
  「テキスト」は活字だけではない
   このように、「テキスト」という言葉は、学校の教科書や本のように必ずしも活字になっていなくても、自分の目や耳で確かめることのできる現象を広く指す場合にも用いられます。もちろん、このような用法は、「テキスト」という言葉の意味をかなり拡大していますが、こういう広い意味での「テキスト」が、最近しきりに用いられるようになってきました。それは、「言葉」というものが、語られたり読まれたりする狭い範囲にとどまらないで、音も色彩も、身の周りの一切の現象も私たちが読むことのできる「テキスト」であるというふうに考えられるようになってきたからです。例えば、人々は、空を見て天候という「テキスト」を読みます。株をやっている人などは、絶えず世界の情勢に注意を払って、株価という「テキスト」を読んでいます。若いお母さんは、育児という「テキスト」をどう読むかが切実な問題になります。このように、自然だけではなく、社会情勢をも含めて、私たちは、実にさまざまなテキストを読みとり、かつこれを解釈しなければならないのです。聖書を読むことは、聖書の「テキスト」を読むことだけを意味しません。それは、私たちにかかわりのあるあらゆる「テキスト」を読む基礎を築くことなのです。
  ここまで「テキスト」の意味を広げてくると、聖書の研究とは、なにも神学事典や、聖書の注解書を読むことだけを意味するのではないことが分かります。「聖書しか読まない人は、聖書も読まない人だ」と言ったのは、内村鑑三だったでしょうか。自分の身の回りに現実に生じている出来事こそ、神のお言葉の最良の注解だという意味です。神は、いわゆる言語としての言葉を通じてだけでなく出来事を通じて語られるからです。宇宙に生起する一切の現象が、神のお言葉なのだと分かる時、私たちは、初めて聖書の言葉をほんとうに知ったと言えるのかもしれません。
  聖書が一番伝えたいこと
   私の職場の同僚が、一つの新聞記事を切り抜いて持ってきてくれました。それは、カトリック教徒の作家である加賀乙彦氏夫妻が、洗礼を受けた時の体験を語った記事でした(『日本経済新聞』1988年1月23日)。これによると、ご夫妻は、信濃の別荘に、友人である上智大学東洋宗教研究所長の門脇神父を招いて、3日間質問責めにしたそうです。ご夫妻は、「天使なんているんですか」「聖霊とは・・・」「最後の審判とは・・・」といったたぐいの初歩的な質問を連発しました。そして、「笑わないでいただきたい。長い間聖書を読み、キリスト教の教義に親しんでいながら、私が洗礼を受けなかったのは、こういう初歩的な疑問を突っ込んで考え、解決していなかったからであった」と述べておられます。現在の日本には、このご夫妻のように、ある程度のキリスト教の知識や素養を持ち合わせているのに、「こういう初歩的な疑問」が心の底にひっかかっていて、聖書の世界に入れない人がずいぶんいると思うのです。「いったい神は存在するのか?」という根本的なところから始まって、こういうさまざまな疑問に悩まされている人には、聖書の言葉も、すんなりとは受け入れられないものです。
  ご夫妻は、「もう何も質問することがなくなった」時に、「不思議にも私と女房の気持ちが同時にふっと軽くなり、明るい光に満ちてきた」という状態になったのです。加賀氏は、さらに、別の記事の中で(『朝日新聞』1988年2月17日)、「その瞬間から何かが変わったのである。今まで聖書という文学の登場人物の一人であったイエスが、福音の喜びをもたらしてくれる存在として身近に迫ってきた。この気持ちはうまく言えないが、イエスは十全な愛に充ち、つきせぬ歓喜を私に与えてくれたのだ。・・・聖書の読み方がすっかり変わってしまった」と言っています。氏はそれまで長い間聖書に親しんできました。しかし、小説の主人公を見るように、何か遠い存在でしかなかったイエスが、「福音の喜びをもたらしてくれる存在として身近に迫ってくる」と「聖書の読み方がすっかり変わってしまった」のです。
  ここには、私が、聖書を読む方に知っていただきたい大切なことが語られています。氏は、ここでは特に福音書を指しているのでしょうが、聖書を読みながら、イエスを小説の主人公として、すなわち、たんなるフィクション(創作)として読んでいたので、フィクションなら、直接現実の人生とかかわってくることもないし、分からないこともそんなに気にならなかった。ところが、ご夫妻は、神父さんに来てもらって、いろいろ「初歩的な」質問を始めたのです。このことは、氏が、福音書をはじめ、聖書に書いてあることは、いったいほんとうなのかと真剣に思い始めたことを意味しています。そうして、「ほんとうだとしたら」当然湧いてくるような疑問を、次々と神父さんに尋ねたのです。こうして、自分の疑問が解けてくると「尽きせぬ歓喜が与えられた」のです。
  それは、イエスの存在が、突然身近に感じられてきたからです。この時からイエスは、架空の人物ではなく、遠い過去の歴史上の一人物でもなく、自分のかたわらにいてくださる実在感のある人物になったのです。このこと、イエスが、単に歴史上の一人物でも架空の人物でもなく、今もなお生きて、しかも「自分とかかわりを持つ存在」であると実感すること、これが、聖書が私たちにいちばん伝えたいと願っていることなのです。
  私は今、福音のたいへん「初歩的な」話をしているように思います。この道で信仰を積み、長年聖書を研究している読者には、なにを今さら、と思われるかもしれません。しかし、私たちが信仰の最初で経験する「聖書のイエスは生きておられる」という確信、これこそが、聖書解釈の最も中心的な課題であり、聖書解釈は、結局のところ、「この問題」を軸に展開していることを読者に知っておいてほしいのです。聖書はほんとうなのか? ほんとうだとすれば、どのような意味でほんとうなのか? 私が、あえて聖書学の分野に踏み込んで読者と一緒に考えてみたい思うのもまさにこの点にあるのです。聖書は「ほんとうなのか?」という「初歩的な疑問」に始まって、それがどういう意味でほんとうなのかを問うことこそ、現代の聖書学の最も重要な課題となっているからです。
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