聖霊運動について
 先に述べたとおり、聖書にはさまざまな解釈の仕方があります。私は、その中から、アメリカを始めとして、現在の日本でもいぜんとして大きな力を持つ伝統的な聖書解釈の方法から考えてみたいと思います。実は、この解釈は、私自身が身近に体験したものです。私は、学生時代に、京都で、北欧(フィンランドやノルウェーなど)の宣教師の人たちから福音を聞いて入信しました。これらの国々では、ルター派のキリスト教が国教になっているのですが、私が接した宣教師の人たちは、国教会には所属しない人たちで、聖霊の働きを強く求める信仰に立っていました。こういう聖霊運動は、一般に「使徒言行録」2章の出来事にちなんで「ペンテコステ」運動と呼ばれています。もっとも、この呼び名は、こういう聖霊運動を信じるさまざまな教派や団体に共通して用いられているので、ある特定の団体を指すものではありません(日本にも「ペンテコステ」の名を持つ教派がありますが)。
 私が直接体験したこの運動は、今世紀の初め頃にアメリカを中心にして起こり、それが、世界の各国に広がったもので、現在ではキリスト教の大きな勢力にまで発展しています。アメリカには、聖霊による覚醒、いわゆるリヴァイヴァル運動の長い伝統があって、この運動もこういう伝統に根ざしていると考えられます。しかし、現在の聖霊運動は、過去のそれとは異なり、カトリック教会をも含めて、はるかに大規模で世界的な広がりを持っています。私の接したフィンランドの宣教師さんたちもこの流れを汲む人たちでした。私は、この人たちに教えられて、異言を伴う「聖霊のバプテスマ」を体験したのです。また、T・L・オズボンさんなど、戦後のアメリカのペンテコステ系の宣教師さんたちとも知り合うことができました。アメリカでは、最近この運動が、テレビというメディアと結びついてますますその規模が拡大し、アメリカの政治勢力に影響を及ぼすまでになっています。
「ファンダメンタリズム」とは何か?
 この流れの人たちに共通しているのは、聖書をその書かれてある字義どおりに信じる読み方をすることです。例えば、「創世記」に、神は7日間で天地を創造したと書いてあるから「文字どおりに」7日間で世界ができたと信じるのです。このような解釈は、したがって、現代の自然科学、例えば人間が猿から進化してきたという進化論などとは相容れません(「創世記」には、神は人間を「神の似姿」につくられたとあるから)。そこで、学校で進化論を教えるのは聖書に反するという理由で、進化論を学校から締め出そうとする運動が、現在でもアメリカ南部の州では行なわれているようです。
 なぜこのように字義にこだわるかと言えば、この解釈論は、聖書が直接に神の霊(聖霊)による霊感を受けて書かれたという信仰に立つからです。ここで、「直接に」という言い方に注意してください。聖書が、聖霊の霊感を受けて書かれたという信仰は、さまざまな意味に理解できますから、それ自体は、およそキリスト教のあらゆる教派に共通していて、とりわけ、ペンテコステ系に限定されるものではありません。しかし、聖書を書いた人(ルカやパウロなど)が、「直接に」聖霊の啓示を受けて、その一言一句までもが、聖霊の言葉そのままの「書き取り」であるということになると、もはやそれは、「人間の言葉」ではなくなります。こういう聖書の読み方を「逐語(ちくご)霊感説」と言います。だから、逐語霊感説では、聖書の言葉は、一言一句がそのまま、神の霊感によって、書き取りのように書かれたと信じるのです。
 実は、こういう聖書の見方は、長い間キリスト教の伝統になっていました。近代になって、自然科学の台頭にともなって、こういう考え方に学問的なメスが入れられるまでは、聖書の逐語霊感説が支配的であった言えます。少なくとも、17世紀の終わり頃までは、神学的にも、これが権威を持つ聖書解釈論であったと言っていいと思います。特にアメリカの南部は、保守的な傾向が強く、この逐語霊感説に立脚した教会が今でも強い力を持っています。こういう聖書理解の仕方を、特に、「根本主義」あるいは「ファンダメンタリズム」(Fundamentalism)と呼ぶのです。
 しかし、ファンダメンタリズムの人たち(ファンダメンタリスト)のこうした信仰を、一概に無知で愚かだときめつけることはできません。日本でも、仏教の聖典を命がけで中国から持ち帰った人たちは、それらの聖典が、文字どおりに啓示を受けたものであると信じて、これを一字一句尊びこれに解釈を施しました。こういう聖人たちの遺産は、今なお受け継がれ守られています。これらの聖典を単なる「古典」としてしか、あるいは歴史的な「文献」としてしか読まなくなった現代でも、仏典を尊ぶ人たちは、信仰の対象としてこれを読み、これに生きようとしています。同じ意味で、ファンダメンタリストの逐語霊感的な態度こそ、信仰者としてむしろ「ほんもの」だと言ったら読者の方は笑うでしょうか。聖書学の専門家の中には、ファンダメンタリズムを無知で愚かな聖書解釈だと見なす人が少なくありません。けれども、「幸いにして」(と私は今でも思っています)私に聖書を最初に教えてくれた宣教師さんたちは、このファンダメンタリズムの聖書解釈をとるペンテコステ系の人たちでした。こういう信仰のおかげで、私は、聖書と「聖霊の働き」とが密接なつながりを持つことを身を持って教えられたのです。
ファンダメンタリズムの考え方
 ではなぜ、このようなファンダメンタリズムが「笑えない」のか、そのわけをこれから考えてみましょう。先にも述べたように、聖書の逐語霊感説が崩れたのは、近代以降、すなわち自然科学の発達にともなうものでした。ルネサンスの後期以降に発達した自然科学は、人間の理性の営みを神の支配の下から解放して、理性それ自体に独立した価値を認め、これに信頼を置く方法論を生み出しました。理性の働きをば、それ自体で「正しい」ものと見なして、これに信頼するところから「近代」が始まったと言えます。近代から現代にいたる西欧の学問は、こうして、神に支配されてきた「神学の侍女」としての地位から脱却することによって成立することができたのです。ところが、このために、人間の内面で、「科学」と「宗教」とが分離するという結果が生じることになりました。科学と宗教のこの分離は、つきつめると、理性と信仰との分離、もっと厳しい言い方をすれば「分裂」と言ってもいいほどに深い亀裂を近代の思考のあり方に残しました。ファンダメンタリズムは、このような分離を拒否したのです。
 ところで読者の中には、アメリカのような進んだ国で、どうしてそのような非科学的で保守的な信仰が今もなお残っているのかと不思議に思うかも知れません。一般に科学技術や学問の分野では、常に「進歩」があって、進歩に乗り遅れたものは、廃れて滅んでいくと考えられています。しかし、特に宗教的な分野では、このことは必ずしも当てはまりません。そこでは、いろいろな思想や信仰が、古いものからより新しいものへと、年代順に、ちょうど日本の歴史を時代区分するように、一つの流れとなってつながっているとは限らないのです。むしろ、古いものも新しいものも、全く同じに現代まで生き延びていて、現代を輪切りにすれば、同じ断面に古いものも新しいものも同時代的に現われて見えるのです。宗教とは、それくらい底の深いもので、100年や200年で「古くなった」などと考えてはとんでもない誤りを犯すことになります。
 先に述べたように、ファンダメンタリズムは、科学的な真理と宗教的な真理とを巧みに区別して、この二つを切り離し、両方ともうまく使い分けようという近代から現代にいたる分離方式を受け入れませんでした。つまり、ファンダメンタリズムは「近代」を拒否したのです。彼らが、拒否したのは、近代が、理性と信仰とを分離させたからです。なぜ、それがいけないのか。彼らは、宗教から分離した科学を、言い替えれば、信仰から分離した理性そのものを信用しなかったからです。現代の理性とこれの生み出す科学技術は、信仰から離れているがゆえに「根本的な」欠陥を持つと彼らは考えたのです。だから、彼らは、宗教を科学に合わせようなどとは考えませんでした。科学的な理性は、それ自体に欠陥が潜む、こう考えたからです。
 したがって、ファンダメンタリズムは、宇宙を解釈し、自然現象を分析して、その分析に基づいて人間により快適な環境をつくりだそうなどとは考えませんでした。彼らは、神の意志とみ言葉によって、人間と世界それ自体を「新しく創り出そう」とするのです。良くも悪くもこの点に、ファンダメンタリズムの先見性(ポストモダン?)と時代錯誤の保守性とがあると言えます。
ファンダメンタリズムと聖書
 だから、ファンダメンタリズムでは、聖書は、そもそも「解釈」などすべきものではないのです。彼らは、どうすれば聖書を「実現」できるのか、と問うのです。イエスが病人に手を置かれると、その病人が癒やされたと聖書に書いてあります。だから、イエスのみ名を信じて手を置けば病気が直る、こう信じるのです。こういう信仰に立つ場合、いったい聖書の何を「解釈する」というのでしょうか。子供でも分かる単純な物語を、まわりくどい表現で「現代向けに」言い換えることに対して、ファンダメンタリズムが批判を向けるのはこの理由からです。もっとも、このような批判に対しては、現代の聖書学から「無知な熱狂主義者」の保守的な聖書解釈という批判が、ファンダメンタリズムに返ってくることになります。けれども、どちらの側も相手を正当に評価するならば、互いに学ぶべきことが多く、実りある対話が開かれることを知ってほしいと思います。ファンダメンタリズムとペンテコステ系の聖霊運動とは、必ずしも同一ではありません。聖霊は、とても広い豊かな内容を含むものですから、字義どおりの聖書解釈を必ずしも前提とはしないのです。
 ファンダメンタリズムの聖書解釈それ自体も、一般に外部の人たちが考えているほど、字義にとらわれて硬直したものではありません。実際彼らの論理は、聖書に書かれている事柄が、必ずしも全部が全部「文字どおり」物理的に事実だというわけではないのを暗黙の内に了解しているのです。したがって、そのメッセージは、日常の体験と自然現象との類比などを織りまぜながら、たぶんに比喩的な論理に支えられていて、それは、ほとんど、ヨーロッパ中世の聖書解釈の伝統と出合うと言ってもいいほどです。ヨーロッパの中世では、現代の科学的な理性と宗教や文学に現われる比喩的な「知性」とは、まだ分離していませんでした。そこでは、「奇跡」は身近に起こりえるし、聖霊の働きも自然それ自体と明確に区別されてはいなかったのです。
ファンダメンタリズムの問題点
 では、ファンダメンタリズムには、どのような問題点があるのでしょう。次にこの点を考えてみます。先ず問題となるのは、聖書を「字義どおりに」受けとめるやりかたです。聖書は、紀元1世紀の東地中海文化圏を背景に書かれています。したがって、字義どおりの解釈では、現代には適合できない時代錯誤の解釈が入りこむのを避けることができません。先に述べた進化論もその一例です。例えば、聖書に「女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか」(1コリント11・14〜15)とあるから、女性の断髪を嫌う。また「酒に酔うな」とあるから酒をいっさい飲んではいけない。ぶどうのジュースはいいが、ぶどう酒はいけない。では、いったい、どれくらいまでのアルコール度が許容されるのか、という問題までが笑えないことになってきます。
 聖書にともかくもなんらかの言及がある場合はまだいいのです。問題は、聖書になんの指示もない場合です(現代では、特に日本では、こういう問題に出合うことが多いのです)。そこで、信者ひとりひとりの良心の「自由裁量」に委ねられるのですが、これがなかなか難しい。このように、ファンダメンタリズムでは、ちょうど交通規則のように、聖書を一つの法律体系として解釈する傾向が強いようです。法律は「字義どおり」に解釈されるのが建て前ですから、ファンダメンタリズムのこのような傾向は、ある意味で当然かもしれません。この意味で、聖書は、生活のルール集としての役割が大きいように思います。
 髪を短くしない。酒を飲まない。これらのことは、個人が決めればいいことですから、聖書に書いてあるとおりに行なうのは、その人の信仰の自由です。こういうことでファンダメンタリズムを軽蔑するのは筋違いというものです。しかし、次のような場合には、ことはそれほど簡単ではありません。聖書には、「ユダヤ人」という言葉が幾度も出てきます。しかも、この言葉が、イエスを迫害し十字架につけた人々として、いわば、批判的な意図をもって用いられているのです。もしも、この「ユダヤ人」を「文字どおりに」解釈して聖書を信じ、これに従って行動するならば、どういうことが起こるかは、容易に想像がつくと思います。あるいは、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ1・31)とイエスは言われました。この「剣」を「文字どおりに」解釈したらどういうことになるでしょうか。
 「ヨハネによる福音書」に出てくる「ユダヤ人」というのは、神と人間に対する多分に宗教的な傲慢を意味していて、それは私たち自身に潜んでいるものだというのが私の解釈です。しかし、こういう解釈が可能になるのは、近代の学問的な歴史批評や文献批判のもたらしてくれた成果のおかげなのです。聖書の「ユダヤ人」は、私たちひとりひとりの「内なるユダヤ人」の意味に理解すべきです。字義どおりに受け取ろうが、比喩的に解釈しようが、それは、信仰の自由の問題だと言うのは、ここでは許容できません。したがって、聖書の「ユダヤ人」を文字どおりに解釈して、これを人種差別の根拠とするファンダメンタリストがいるならば、彼は、神とキリストのみ前で裁かれるべきです。ちなみに、私は、日本のキリスト教が、欧米のキリスト教から絶対に学んではならないものが二つあると思っています。一つは、このユダヤ人への敵対意識であり、もう一つは、キリスト教を植民地主義の道具として悪用することです。
ファンダメンタリズムの非寛容性
 以上、私は、ファンダメンタリズムが、聖書を「文字どおりに」解釈する場合に、どのような問題が生じるかを二、三の点をあげて説明しました。次に、これよりももっと複雑で、しかも重要な問題点を指摘しようと思います。それは、ファンダメンタリズムの内に潜む「価値観の非寛容性」ということです。一般にファンダメンタリストは、自分たちの聖書解釈に基づく「福音」以外の一切の価値観を認めようとしない傾向があります。近代批評に基づく聖書解釈さえも、「自由神学」という呼び方で一括して否定します。もっとも、この点では、「自由神学」の方もファンダメンタリズムと聖霊運動とを一括して「熱狂主義」の名の下に否定する傾向がありますから、お互い様だと言えなくもないのですが。聖書の学問的な批評に基づくキリスト教神学さえ否定するのであれば、仏教やイスラム教などのもろもろの「異教」については想像に難くありません。ファンダメンタリズムは、この点に関してはきわめて頑固です。ここには、キリスト教の最も保守的な伝統を守り抜こうとする意気込みが感じられます。
 この問題が難しいのは、私が今ファンダメンタリズムの「功罪」を論じている時に、こういう宗教的な非寛容性を「罪」の方に入れて考えているのに対して、ファンダメンタリズムは、この点こそ最も重要な自分たちの「功」であると考えるからです。ここには、キリスト教のきわめて重要な問題点が、浮き彫りにされています。なぜなら、こういう非寛容な姿勢こそ「ユダヤ・キリスト教の伝統」だと言えなくもないからです。おそらく、この文章を読んでいる読者の中でも、この問題については、必ずしも意見が一致するとは限らない。今私はこう思いながら書いています。これが克服されなければならない「罪」であると私が思うのは、1章で述べたとおり、聖書の伝える福音を「現在の日本」という視野に立ってとらえようとしているからにほかなりません。福音の歴史は長く、現在でも、さまざまな「キリスト教」が、私たちの国に流れこんで来ています。これらの外からの影響を正しく見極めながら、自分の内側を深く見つめる視点を見失ってはならないと思うのです。
 では、その非寛容性はなぜなのか? ここで、ファンダメンタリズムによる聖書解釈の具体的な例をあげて、この問題を考えてみましょう。
趙牧師の説教
 私は、ここで、思い切って、現在のペンテコステ運動の指導者の一人である韓国の趙牧師の体験について考えてみようと思います。趙牧師は、オーストラリアで、日本に関する彼の思いを率直に語った説教をしています。高知ペンテコステ教会の大川修平牧師が、英語の原文に日本語の訳を添えて送ってくださいました。
 このメッセージの中で、趙牧師は、自分がどのように不思議な神の導きで伝道者となり牧師となったかを述べた後で、多くの病人が彼の集会で癒やされたことを語り、さらに彼と日本との出合いについて語っています。日本占領時代に体験した少年時代の不幸な出来事、それにもかかわらず、神は彼を日本へ伝道に遣わされたこと、大阪の集会では、大勢の日本人が彼に尊敬と愛を示してくれたことなどを話した後で、彼は次のような体験を語っています。
 


 問題が、日本と韓国との微妙な関係に及ぶにもかかわらず、私が、あえて趙牧師の説教のこの部分を取りあげたのは、ここには、ファンダメンタリズムの聖書解釈の特徴が、実によく集約されているからです。
 最初にお断わりしておかなければならないのは、病気が直ったこと(しかも癌までがこれに含まれています)はほんとうなのか、という疑問についてです。私は、ここで、「奇跡」という言葉を定義することはしません。病気直しについて、この牧師は、率直で真実な語り方をしています。決して意識的に嘘や偽りを言う人ではないと言えます。しかも、自分が祈って病気を直したと証言しているのであって、人づてに別の出来事を伝え聞いたのではありません。ここで述べられていることは、大筋において、ほんとうにこのとおりのことが「起こった」、こう前提していいと思います。一般に、ペンテコステの聖霊集会では、このように奇跡が起こることは、決して珍しいことではないのです。しかも、このことが、きわめて重要な意味を持つのです。ここでは、奇跡が説教に付随しているのではありません。そうではなくて、説教が、これらの奇跡に付随しているとさえ言えるのです。だから、もしも、ここで語られている奇跡がほんとうに起こった出来事でないならば、そもそも、この牧師の説教はおろか、伝道活動そのものが、根本的に成り立たなくなるのです。この問題で嘘をつくことは、いわば、会社が不渡り手形を出したのと同じ意味を持つと考えていいでしょう。言うまでもなく、医学的な検討を加えたものではありませんから、疑わしい事例が含まれるのは避けられません。しかし、10の事例のうちで一つか二つが間違いであったからといって、ほかの事例も全部間違いだと結論してはいけないと思います(懐疑的な人は、よくこのような論法を使うことがあるので)。ここでは、パスカルの論法、「偽物があるのは本物がある証拠である」が当てはまると考えられます。

趙牧師の聖書
 ではここで、ファンダメンタリズムの聖書解釈の仕方を、趙牧師の説教から見てみましょう。趙牧師は、大阪のホテルで、サタンに出会ったと語っています。「サタン」と言えば、ルターが、サタンに向かってインクの壷を投げつけた話は有名ですし、ボンフェッファーも、収容所で、ナチスの指導者に会った後で、「私は今サタンに出会った」と言っているのを思い出します。ボンフェッファーは、実在の人間に出会ったし(だからそれはサタンではないのでしょうか)、趙牧師は、ベットの端にサタンを見ました(だからそれは実在ではないのでしょうか)。
 趙牧師は、このサタンに向かって、「イエスの名によって出て行け」と言いますが、いっこうに出て行きません。そこで、み霊に示されて、「聖書を引用した」と語っています。「イエスのみ名によって出て行け」も聖書の言葉ですが、彼は、「聖書を直接に引用している」という自覚なしに、自分の言葉の一つとして、これを語ったようです。ところが、これでは、サタンは出て行かなかった。そこで、彼は、今度は「直接に」聖書を引用し始めるのです。するとサタンは、恐れをなして「お前は聖書を引用するのか」と言います。牧師は、「そうだ」と言います。すると、サタンは、「ひゅっと」出て行ったのです。
 ここで注意してほしいのは、「引用する」ということが、今私が、趙牧師の説教を引用しているのとはずいぶん違った内容を指していることです。それは、むしろ、「告白する」という意味に理解すべきです。「告白する」の原語であるギリシア語の「ホモロゲオー」とは、「同じことを言う」という意味です。すなわち、牧師は、ここで、聖書の言葉をそのまま「自分の言葉」として語っているのです。いわば、自分が聖書の言葉と一体になって、その言葉を告白しています。ここでは、聖書は、「解釈」されているのではありません。「引用」されているのです。引用である以上、元の言葉を自己流に変えてはいけません。しかも、それを、ちょうど今私が、趙牧師を引用しているように、自分とは異なる別の人の言葉として、客観的に引用しているのではありません。「自分の言葉」として引用しているのです。しかし、引用というのは、自分の言葉では「ない」からこそするものです。したがって、ここで趙牧師は、自分の内面にはどこにも見あたらない、自分とは全く別の次元の言葉を「自分の言葉」として告白し、これに基づいて行動していることが分かります。
 くどいようですが、ここでは、聖書の言葉は、決して変えられません。書かれてある文字どおりに「引用する」のです。聖書は、人間の言葉ではなく、神の言葉であり、それも、聖書に書かれてあるそのまま文字どおりにそうなのだ、という信仰がここにはあります。したがって、その聖書のテキストが、どういう歴史的な背景を担っているのか、また、文献学的にどのような編集過程を経ているのか、また、これを現代の科学的な自然観とどう調和させるべきか、などいう問いは、この場合問題とはなりません。少なくともそういう問題意識は、この場合意味を持たないことが分かります。過去のある時点で書かれた聖書の言葉が、そのままで、一足飛びに、いわばタイムスリップして、現在の、しかも自己のもっとも切実な問題意識の中に突入してくるのです。だから、この時、「自分」は、もはや通常の意味での「自分」ではなくなります。自分は、引用された聖書の言葉それ自体となるからです。その「自分」とは、奇跡を行なう神の言葉の中でのみ存在できる全く別の「自分」です。「あなたは、神がそうだと言われるとおりのあなたである」とファンダメンタリストが言う時、それはこういう状態を意味しています。
 ここには、「自分」が全く別の自分になるという問題意識が、すなわち、「自分」とは何か、という聖書解釈のもっとも根源的な問題意識が、鮮明に現われています。趙牧師の説教が、告白的であり、彼が語る説教は、その内容よりもむしろ聖書をこのように信じている「彼自身」が、伝えるべき福音そのものであるということが、このようにして起こるのです。
 ついでながら、こういう状態を「熱狂」と呼ぶのは正しくないと言えます。なぜなら、「熱狂」とは、自分がそうでないのに、何か別のものだと勝手に夢想して、そういう人間的な幻想に酔って、ありもしないことを実在と取り違えることだからです。確かなことは、聖書を「自分の言葉」として引用する時、彼らは、それが、自分から出たものではないことを明確に意識している点です。彼らは、聖書を自分自身と混同するほど、愚かでもなければうぬぼれでもありません。なるほど、彼らは、聖書の文字どおりの言葉を人間の理性よりも上に置いています。しかし、そのことは、今自分が行なっていることが、自分から出たものでは「ない」ことを、いっそう鮮明に自覚することであって、それと自分とを混同することではありません。奇跡が、今ほんとうに起こるか起こらないかという時に、自分の念力や熱狂でそれが実現できると夢想するほど、「非現実的」な人間は、決して聖霊運動の優れた指導者にはなれないのです。
ファンダメンタリズムの限界
 問題はむしろ、彼らがこのように聖書を自分の言葉とする時に、あまりにも「冷静に」「現実的に」聖書の文字どおりの言葉を、その「字義どおりに」実行するところにあるのです。神学の専門家ならご存知のとおり、聖書のテキストが、現在の形に確立するまでには、それぞれの語句が、さまざまな編集過程を経ています。その過程は、決して一元的でもなければ、単一の価値観に統一されてもいません。その過程をたどることによって、私たちは、聖書の言葉の背後に潜む問題を探り当て、それによって、それらの言葉を、柔軟に現在に適応できるのです。「寛容」な読み、「自由」な読みが、このようにして初めて可能になるのを私たちは知っています。
 ところが、ファンダメンタリズムでは、このようなテキストの成立過程に潜む背景は、完成したテキストの言葉の平面的な「字義」の背後に押しこめられて、窒息してしまうのです。テキストの言葉が織り出す単純で辞書的な意味の表層だけが、そこでは、教義的権威を帯びて支配します。だから、例えば「律法」は、旧約では、「申命記」を中心とした「モーセ」の律法、新約では、キリストの「恵み」と対照させられる一元的な意味に限定されてきます。この「律法」が、流動的な意味を帯びていること、また、現在でもさまざまな意味に解釈が可能であること、このような視野は、そこからは生じてこないのです。「聖書に書いてあるとおり」以外は、異端であり、禁止するか排除すべき夾雑物であるという一元的な価値観が、このようにして生じてくるのです。
 このように、言葉の意味の成立過程に潜む歴史を切り捨てて、できあがった結果だけを重んじるやり方は、人々の背後にある歴史や文化を重んじるよりも、人間をできあがった聖書の一元的な価値観へとどのように導き入れるかに重点を置くように仕向けます。酒を飲まないこと、タバコを吸わないこと、「異教徒」と交わりを持たないこと、その他、聖書にあるとおりです。日本人とって有難迷惑なことに、ファンダメンタリズムは、この点でも、日本人、アメリカ人、韓国人などの区別を「しない」ことです。まさにこのこと、すなわち、聖書の言葉それ自体だけではなく、これを語る人も聞く人も、それぞれに固有の過去を背後に持っていて、現在の「自分」を自分たらしめている文化的な伝統や民族的な遺産を担っていることが、全く無視されるか、忘れ去られてしまうということ、この点が、ファンダメンタリズムの聖書解釈の限界なのです。
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