福音書間の矛盾
   この章では、現代の聖書解釈の方法論の基礎となっている文献批判ということについて考えてみたいと思います。この方法は、今世紀になってめざましい成果をあげていて、現在でも聖書学の基礎になっていると言っていいでしょう。この方法も、バルトの場合と同じく、主としてドイツで発達しました。
  すでに19世紀のドイツで、「ヨハネによる福音書」が史実に基づくものではないという主張がなされていました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と「ヨハネによる福音書」との間に明らかな矛盾があるからです。例えば共観福音書では、イエスは一度しかエルサレムに上られていません。これに対して、「ヨハネによる福音書」では、三度行かれたことになっています。また共観福音書では、イエスの伝道活動がほぼ1年であるのに対し、「ヨハネによる福音書」では、2年以上にわたることになります。ほかにも、この両方の間にはいろいろな食い違いがあります。この問題がきっかけとなって、四つの福音書が、歴史的な史料としてどこまで信憑性があるのかに関心が向けられ始めたのです。
  この問題はさらに発展して、共観福音書の間でさえもさまざまな食い違いが指摘されるようになりました。もっとも、このような福音書間の違いが注目されたのは、すでにアウグスティヌスの頃からのことです。しかし、これが、学問的な対象として取りあげられ、福音書の史料としての価値が本格的に問われるようになったのは、20世紀に入ってからなのです。聖書は、歴史的に見て、実際に起こったとおりのことを伝えているのだろうか。こういう素朴なしかし重要な疑問が、学問的な検討の対象とされるようになったのです。
聖書の文献批判
  聖書本文の文献学的研究は、先ず旧約聖書から始まり、やがて新約聖書にも及ぶことになります。旧約聖書の初めの五つの書は、いわゆる「モーセ五書」と呼ばれて、伝承ではモーセの著作であるとされてきました。しかし、すでに18世紀の頃から、これらの書に対する歴史学的な批判が行なわれていて、モーセ五書が、長い年月をかけて形成されたものであり、「申命記」などは、ずっと後の時代に書かれたものであることが明らかにされてきました。
  聖書の本文批判の基礎となったものに「様式」という概念があります。「詩編」は、モーセ五書の分類にならって五つに分けられています。しかし、これらの詩篇を、その内容、形式にしたがって、またその詩篇がどのような目的に用いられていたかなどにしたがって、「賛美の詩」、「嘆きの詩」、「教訓の詩」、「王の詩」など幾つかの文学類型に分類できます。この方法は、今世紀初頭、グンケル(1862年〜1932年)によって旧約聖書全体に適用されました。グンケルはまた、「創世記」が、ヤハウィスト資料(例えば、神のことを呼ぶ場合に、「創世記」2章4節以下には「主」<ヤハウェ>が用いられている)とエロヒスト資料(「創世記」1章以下には「神」<エローヒーム>が用いられている)、さらに祭司資料などが組み合わさって構成されていること、したがって、聖書本文は、それらの個々の「伝承断片」(ペリコペー)ごとに批判検討されなければならないと考えたのです。
  マルティン・ディベリウス(1883年〜1947年)は、グンケルの文学類型をさらに「様式」という概念に発展させて、これを福音書の文献批判に適用しました。彼は、このような様式がどのようにして形成されるかに注目して、それらの様式を生み出す基盤となっている人々の「生活の座」という視点を導入したのです。彼とほぼ時を同じくして、ルードルフ・ブルトマン(1884年〜1976年)が『共観福音書伝承史』(1921年)を著わし、ここに本格的な福音書の本文批判が開始されました。
  ブルトマンと様式史
   このいわゆるブルトマン学派の影響は大きく、現在の日本でも、聖書学の主流は、この学派の流れを汲む人たちによって占められていると言えます。しかし、この流れの中にもさまざまな立場をとる人がいて、必ずしも一様ではありません。また、現在では、ブルトマンの頃とは、その方法論も変わってきています。それでも、聖書を真剣に研究しようと思うなら、少なくともブルトマンたちによって始められた様式史による本文批判について、いくらかの知識が必要です。また、この方法に含まれる問題点がどのようなものかも知っていることが必要でしょう。ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、今では古典的なものです。しかし、そこで提示されている方法論は現在でも聖書学の基礎となっているのです。
  聖書の文献批判の限界
  ただここで一つお断りしておきたいことがあります。読者の中には、このような学問的な方法を全く知らないままに、長年聖書を読み、信仰の道を歩んでこられた方、あるいは、このような流れとは無関係なところで、聖書の研究を続けてこられた方がおられると思います。そのような方は、今までの自分の歩みに少しも不安を抱く必要はありません。様式史に始まるドイツの文献批判は、どのように学問的でも、数ある聖書解釈の方法論の中の一つにすぎないことを知っておいてほしいのです。この方法は、長年にわたる歴史学、文献学、聖書学のドイツ的伝統の中から生まれました。それだけに、その方法は緻密で徹底しています。けれども、この方法は、あくまでも「文献」批判であって、これを超えるものではありません。現在は、このような限界を破ろうとさまざまな努力がわが国でも行なわれていますが、学問的な方法論は、それが厳密で徹底していればいるほど、その限界もまたはっきりと意識されるようになるからです。
  たとえば、聖書を学ぶのに欠かすことのできない他の分野、宗教学(特に比較宗教学)、神話学、言語学、社会学、心理学、文化人類学、文学、図像学などの分野と、この文献批判との間には、交流が十分であるとは言えません。だから、例えば、仏教とキリスト教とはどこが違うのか? 聖書の言語は、人間の心にどのような働きかけをするのか? 自然科学と聖書との関係はどうなのか? 聖書に出てくるさまざまな表象は、互いにどう関連し合っているのか? これらの表象は、キリスト教以外の宗教に現われる同じような表象とどう関連するのか? 政治権力と宗教とはどのようにかかわり合うのか? このような疑問に、文献批判は直接に答えてはくれません。これらは、私たちにとっては身近な問題ですが、その答えは、文献批判だけでなく、その他の諸学問の分野との交流によって初めて解決が可能になるのです。
マルコによる「皇帝への税金」
  ではこれから実際の例によって、様式史の文献批判がどのようなものかを見ていくことにしましょう。ここで読者の方にお願いがあります。それは、新約聖書を側に置いて、面倒でも文中に出てくる聖書の箇所を自分で確かめてほしいことです。ここでは、新共同訳を用いながら説明しますが、その他の日本語訳でも理解できると思います。まず「マルコによる福音書」12章13節〜17節をお読みください。
  「マルコによる福音書」のこの部分は、これだけで独立した内容を持っていて、一つのまとまった伝承断片と見なすことができます。同じ内容の断片は、「マタイによる福音書」(22・15〜22)と「ルカによる福音書」(20・20〜26)にもあります。これら三つを比較して見ると、三つとも言葉や表現が違っているのが分かります。三つのうちで、「マルコによる福音書」が最も古く、マタイとルカは、マルコのものを下敷きにしていると考えられます。しかも、この断片は、マルコがつくったものではなく、すでにこのようにまとまった形で、彼のところに伝えられていたものです。この断片は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉を軸にして、見事にまとまった物語を形成しています。このように、イエスの言葉を中心にして、その意味を説明するためにできた短くまとまった物語断片を、ブルトマンは「アポフテグマ」と呼んでいます。この断片は、イエスの言葉を説明する説教のために初代教会においてこういう形にまとめられたのです。
  ところで、この断片の冒頭は、もとのものではなく、マルコがつけ加えたと考えられます。冒頭に続く部分に「(そして)彼らは来てイエスに言った」とありますが、この言い方は、マルコが、伝えられた断片をつなぐ場合によく用いる言い方だからです。マタイやルカと比較してみると、冒頭部分は、三人それぞれに違っています。
  ところで、マルコが用いたこの伝承断片は、事実このとおりのことが史実としてあったのでしょうか。言い替えれば、だれかが、ちょうど現在の新聞記者やテレビのレポーターのように、現場に居合わせて、その場の情景を忠実に伝えたのでしょうか。答えは「ノー」です。この情景は、イエスの言葉を説明するためにつくられて伝えられた物語だと考えられるからです。では、この物語は、全く史実に基づかないものなのでしょうか。これも「ノー」です。少なくともこの断片は、イエスの身に起こった出来事を核にしてつくられたと見ることができるからです。どの程度実際の出来事が含まれているのかは、学者によって意見が分かれます。ブルトマンは、大筋においてこれを事実と認め、イエス以後の教団によってつくられたものと考える必要はないと言います。しかし、他の「マルコによる福音書」の注解は、たぶんユダヤ人とキリスト教団との間で論争が生じ、その討論の中から生まれた物語であろうと推測しています。もっとも、その著者は、「二、三の言葉がイエスにさかのぼる可能性を排除するわけではない」として、「皇帝のものは・・・・」の部分はイエスの言葉を忠実に残していると見ています。
  このように見ると、この断片は、イエスの言葉を軸にして、その言葉が語られたなんらかの状況を核にして、それ以後のキリスト教団が反対を受けたり論争に巻きこまれたりする中で、「イエスならばこれにどう答えたであろうか」を問う形で生まれたものだと言えます。こうして形成された伝承断片を、マルコは、彼の福音書の中に現在のような形ではめこんだのです。
  マタイとルカの見方
  今度は、マルコの断片の並行箇所であるマタイの方に目を向けてみましょう。すると、気がつくのは、マタイでは、最初に「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」とあります。ここはマタイの付加部分で、彼は、これによって、もっぱらファリサイ派を当面の論敵と見ていることが分かります。「どうお思いでしょうか」という言い方もマタイ独特で、さらに彼は、「偽善者」と言う言葉をイエスの口に入れて相手を攻撃しています。結びの部分では、「イエスをその場に残して立ち去った」とあって、これは、次の復活についての問答で、サドカイ派が登場するのでその場を空け渡すための手法なのです。
  一方ルカの方を見ると、最初に「そこで機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあります。ここでもルカは、自分なりの編集句で冒頭を始めています。彼は、「正しい人を装う回し者」と言うだけで、はっきりと特定のグループを指してはいません。彼は(そして彼の読者も)、もはや教会の相手がどのようなグループなのかということには関心がなかったからです。その代わりに「総督の支配と権威にイエスを渡そうとした」という句を挿入することで、ここでの問答が何をねらっているのかを読者に分からせようとしています。
  三人の言葉遣いも微妙に違います。マルコでは、イエスは彼らの「下心」を見抜かれたとあり、マタイは「悪意」とあり、ルカは「たくらみ」となっています。マルコの「下心」は、よほど税金の事情を知っている読者でないといったいどういう「下心」なのかが理解できないでしょう。マタイではファリサイ派の「悪意」が全面に出ていて当面の論敵がだれであるかを読者に意識させています。ルカでは「たくらみ」とあって、それがどういうものかをその前に説明してあります。このように三人の福音書記者は、それぞれに自分の読者にどのようにして福音を伝えるべきかを十分に考慮しながら、伝えられた伝承をそれぞれの立場から「編集」していることが分かります。
  三人三様の解釈
  では、この物語はどのように解釈すべきなのか。次にこの点を考えてみたいと思います。当時のユダヤでは、税金は神殿に納める神殿税とローマ帝国に納める人頭税の二つに大別されていました。ローマの支配を受け入れない過激派の人たちは、このようなローマへの納税を拒否することで、ローマの支配と闘おうとしていたのです。ファリサイ派もローマへの納税を快く思っていませんでしたが、彼らはこのためにあえてローマの権力に逆らうことはしなかったのです。だからイエスに向けられた質問は、二重の意味で罠であったと言えます。もしも皇帝への税を認めると言えば、イエスはローマに味方する者だと人々に印象づけることができたし、納めるなと言えば、ローマの権力に逆らう者として彼をローマの手に渡す口実ができるからです。
  マルコの言う「下心」とは、このような、あるいはもっと複雑な内容を意味していたのかもしれません。これに対するイエスの答えは、この罠を見事に破るものでした。しかし、これだけでは、この伝承が何を伝えようとしているのかが、必ずしも明確ではありません。マルコは、この伝承の前に、ぶどう園のたとえを出して、終わりの日のさばきについて触れ、この伝承の後には、復活についての問答を置いています。マルコはここで、皇帝の支配する領域と神の支配する領域とを二分してそこに境界を設けようとしているのではありません。イエスの答えは、後半の神の支配のほうに重点が置かれています。皇帝の支配(とこれの象徴としての納税)も、あくまでも神の支配の下に置かれるべきであること、したがって、人は一切を神に委ねて、ただ神のみ前でその決断を行なうべきであることを言おうとしたのだと思います。迫って来る終末の時の中で、それぞれの場合に応じて、神の前での決断をうながしていると見ることができます。少なくとも、これはマルコにふさわしい解釈であるように私には思われます。
  しかし、マタイになると少し様子が違ってきます。ここではファリサイ派が前面に出てきます。先に述べたように、この派の人たちはローマに納税するのを快く思っていませんでした。したがって、彼らの罠の裏には、神の支配を受ける民が、ローマ帝国の支配に甘んじてこれに税を納めるのが正しいことなのかという含みを読みとることができます。これは、皇帝を神とする皇帝崇拝とも関連しています。おそらく、マタイは、この伝承の裏に、この問題をめぐって、イエス以後の教会とユダヤ教との間に論争があったのを見抜いていたのでしょう。イエスはこれに対して、先ず皇帝の神格を否定した上で、これを単なる地上の政治権力とみなし、「権力が自分のお金を返せと言うのなら返してやれ」と言われて、税金問題を宗教的・信仰的な問題として持ちだそうとするファリサイ派の根本的な誤りを指摘されたと考えられます。
  ではルカの場合を見てみましょう。彼は質問者のねらいを「総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とはっきりと説明しています。つまり、相手は、イエスを権力に渡そうとしてその口実を得るためにこのような罠をしかけたのです。これに対してイエスは、地上の政治権力の領域と宗教的な神の領域とを区別されて、それぞれの領域にふさわしい行為をせよと教えられたのです。こういう解釈が、ルカの伝承の扱い方から読みとることができます。だから相手は、「イエスの言葉じりをとらえることができなかった」とルカは結んでいるのです。このように、同じ伝承でも、福音書の記者によって、それぞれに物語の解釈や強調点の置き方が違っているのがお分かりいただけたと思います。
  史的イエスの問題
   では最後に、この伝承の核となっているイエスの言葉、イエスの振舞い、これはいったい何だったのだろう。言い替えれば、実際に起こった史実としての出来事は何だったのだろうと考えてみましょう。実は、これを特定することはきわめて難しいのです。日々の新聞記事でも、ある事件が「実際は」どうであったのかをはっきりと見きわめることがいかに難しいかを私たちは知っています。昨日今日の出来事でさえもこうなのだから、2000年前のパレスティナで生じた出来事を特定するのは至難です。かりに、幾人かの人がその場に居合わせて、それぞれに自分の見聞きしたことをレポートしたとしても、それらはおそらく一致しないでしょう。この問題が、「病の癒し」というような問題であればなおさらです。これがいかに難しいかは、テレビで超能力や霊界現象を扱う場合を考えてみれば想像がつくと思います。
  こう考えれば、福音書の伝承が、イエスの振舞いや言葉、特にそれらを通じてイエスが伝えようとされた信仰それ自体をいかに忠実に伝えているかは、逆に驚くほどであると私は思います。伝承はそのまま史実ではありません。しかし、伝承は、それが伝えようとしている出来事のほんとうの意味を驚くほど正確に伝達する力を持っていることを忘れてはいけないと思います。
  もう一度「史実」に戻ると、現実にイエスという人が、何を語り何をしたのかを、歴史的な事実として突きとめようとする作業を現代の聖書学はやろうとしています。このような学問的な努力は、ブルトマンたちの様式史による文献批判をさらに発展させた方法論を用いてなされているようです。そこから生まれてくるイエス像がどのようなものかは、まだ試みの段階にすぎません。ただ、社会学的な方法論をも加味して描かれる「史的イエス」は、十字架と復活の信仰によって伝えられるイエス・キリストの姿とは、かなり違ったものになりそうです。イエスの宗教活動は、あくまでユダヤ教内部での改革運動の域を出るものではなかったとさえ言われるようになってきました。しかし、私は、洗礼者ヨハネもイエスも「知恵の子たち」と呼ばれていることから、イエスは、ユダヤ教の伝統的な「知恵の霊」を宿しておられたと見ています。学問的な探求に終わりはありませんから、この「史的イエス」の追求は、これからもあくことなく続けられていくでしょう。
  以上のことを総合してみると、学問的な対象としての「史的イエス」をも含めて、それぞれの福音書がそれぞれの立場から、伝えられた伝承を用いてイエスの姿とその福音とを描いているのが分かります。しかしこれを全体として眺めると、そこには、地上のイエスをも含めて、ひとりひとりの個人の思惑や信念を超えたある大きな流れが、実際の地上のイエス(史的イエス)、彼の復活信仰によって生まれたパレスティナ宗団(マルコやマタイの宗団)、キリスト教がギリシア世界にも広がってヘレニズム化した教会(ルカの宗団)などが、福音の大きな流れとなって見えてきます。この流れの中で、どのような伝承が生まれ、それらが、それぞれの福音書の記者によってどのように受け継がれ編集されたかを、様式史を用いた文献批判は明らかにしたのです。
  聖書の文献批判の問題点
  今までに述べたことは、ブルトマンたちの様式史による文献批判のほんの一例にすぎません。しかも、これを「様式史」と言うよりは、「伝承史」と言うべき内容で紹介したにすぎません。それでも文献批判というものがどのような方法で行なわれるのかを少しはご理解いただけたと思います。また、ほんの一例からだけでも、そこに含まれる問題点を読者の方々と共に考えるよすがにはなると思うのです。
  今見たように、文献批判では、ある伝承断片のどの部分がマルコやルカの福音書の記者たちの手によって編集(挿入、削除、置換)された部分であり、どの部分が彼らの手元へと伝えられた伝承であるかを分析することから始めるのです。さらに、共観福音書の並行記事を比較検討しながら、その伝承が、彼らが共通に持っていた資料であるのか、独自に手にしていた資料であるのか、またそれらの資料が直接イエスの生存中までさかのぼるほどの原初のものを含むのか(これは厳密に学問的な検討を加えるときわめて少ない)、あるいはイエスの直接の弟子たちが指導したパレスティナ教団から出たものか、それとも、後の異邦人キリスト教の教会でつくられたものかなどを決定しようとするのです。
  このような決定は、さまざまな学問的な議論を重ねなければなりません。ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、独自の厳格な方法論によって、ずいぶん厳しい尺度で内容を分析しています。それでも、現在では、ブルトマンの分析は、かなりの部分が修正されたり全く違った意見が出されたりしています。これは当然であって、およそ学問的な研究とは、ひとつひとつの問題(この場合は伝承断片)について数々の論議がなされてきて、それでも決定を見ないものなのです。
  ブルトマンのような大家が、権威をもって主張し、長らく学会の定説となっていたことでさえも、全く反対の学説によって崩れることが学問の世界では起こりえます。だから、私は、権威ある注解書や事典などに書かれてあることが、互いに食い違っていたり、場合によっては正反対のことが書いてあったり、時代と共にその内容が修正されたりしても、少しも驚きません。学問の世界のことだけであれば、むしろいろいろな意見や学説が出る方が望ましいからです。
  しかし、聖書のような「信仰の書」となると、ことはそう簡単ではありません。例えば、「マルコによる福音書」1章に出てくる四人の弟子の召命の話は、「人を漁する者」として長い間親しまれてきました。この記事が、ブルトマンの言うように「人を漁する者という隠喩に由来しており、いずれにせよ史的価値をもっていない」と断定されると、聖書を信仰の糧としてきた人は、いささかショックを受けるのではないかと思うのです。「マタイによる福音書」8章のカペナウムの百卒長の子供の癒しなどが、「史実の報告ではなく理念的情景」であり「教会によってつくられた」ものであると判断されるのは、残念な気がします。しかし、これらがほんとうに学問的な根拠を持つ正しい判断だとすれば、私たちは、いかに残念でもこれを受け入れなければなりません。
  ここには、私たち一般の読者が、しっかりと覚えておかなければならない三つの大切な問題が提起されています。一つは、どの伝承がどれほど「史的価値」を持つかは、純粋に学問上の問題ですから、たとえ大筋では一致しても部分的に、時によっては根本的に相容れない学説が対立する場合があり、たとえ今は一致していても、時の経過によって修正されたり否定されたりする可能性を絶えず秘めていることです。
  二つ目は、このように伝承の「史的価値」を追求する方法論では、史料として信憑性がより高い伝承とそうでない伝承との間に当然区別がつけられるようになり、その結果、福音書のある部分を重視し他の部分は軽視するという事態が生じやすいことです。しかも、それが、伝承どうしの間だけでなく、一つの伝承の内部においても、原初にさかのぼる部分とそうでない部分との間に、はっきりと価値の上で区別をつける傾向をうながすのは避けられなくなります。言い替えれば、このように「史料としての価値」を基準にして聖書の本文を読むならば、聖書本文の解釈が問題となる以前に、解釈すべき本文のテキストそれ自体が分解し崩壊してしまうのです。
  したがって、第三点として、もしもこのような価値基準で聖書を読み、これを信仰のよりどころとするならば、聖書のどの部分を重視してどの部分を軽く見るのかということについては、ごく一部の聖書学者の判断を仰がなければならなくなり、しかも、その判断もしばしば食い違ったり対立したりすることになります。こうなると一般の聖書の読者は、いったい聖書のどこを信じていいのか途方に暮れてしまいますし、自分で聖書を読んでこれを信仰の糧とすることが難しくなってしまうのです。
  ファンダメンタリズムが、聖書の現代神学を拒否するのは、一つには、こういうところにも原因があると考えられます。言うまでもなく私たちは、学問それ自体を非難してはならないし、厳密な学問的基準を聖書解釈に持ちこんだからという理由で聖書学の専門家を非難するのは、厳密な診断の結果病気を発見したと言って、医者を非難するのといささか似ていなくもないと思います。ただここで、私たちが聖書を自分たちの信仰の糧として読むためには、このような学問的な史料価値を基準とする以外に、何かもっと違う基準を導入しなければならないことに気がつくべきです。
福音書を書いた人の基準
   そのような「違った価値基準」を導入する前に、様式史あるいは伝承史による方法論それ自体についてもう少し考えてみましょう。例えば、「ルカによる福音書」12章の遺産の分配についてのイエスの言葉、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」では、これを史実と考える説にブルトマンは疑問を呈しています。彼はこれをイエスに関する「逸話」と見なして、このような逸話は、「その人物の精神を適切に表現しているという意味以外で、史的とみなすことはまずしない」と述べています。しかし、ここで見逃してならないことがあります。それは、「この人物の精神を適切に表現している」という一句です。福音書は、現代的な意味での伝記でもなければ歴史的な文献でもありません。イエスの福音を伝えるために書かれた信仰の書です。ということは、福音書の記者たちは、まさにこのこと、いかにイエスの精神を自らに体してこれを適切に表現するかということを先ず第一にして書いていることです。聖書それ自体に即した言葉でこれを表現するなら、「イエスのみ霊に導かれて」書いていることです。もっともこのような方法は、当時のギリシア的文化圏では、「伝記」を書く一つのスタイルであったと言えます。
  現代の聖書学の方法論はほんとうに正しいのか?
   ここで指摘したいのは、現代の歴史学的な方法論とこれに基づく価値基準が、はたして福音書の記者が本来第一に目指している「福音書それ自体の方法論」とどこまで一致しているのか、現代の学問的方法論と福音書自体の方法との間には、ズレがあるのではないかという点です。言うまでもなく、文献批判もこのズレを承知しています。しかし、このことは、例えば次のような場合に問題になってきます。
  それは、先にもあげた百卒長の物語についてです。ブルトマンは、この物語が教団によってつくられたものであろうと判断します。その判断の根拠の一つに、この物語では、奇跡が遠隔治療によって行なわれていることがあげられているのです。彼は、離れた所にいる人の病気を癒やすなどということは、ありえないことだから、この物語は史実でないと判定したのです。
  ところが、ありえないどころではない。現にアメリカのオーラル・ロバーツは、この「遠隔治療」を、しかもテレビで行なったのです。言うまでもなくそのようなやり方には、事実誤認も含まれるでしょう。しかし、実際にそれが行なわれて、事実病気が直った例があるのです。しかも、そのような「遠隔治療」を行なうきっかけとなったのが、ほかならないこの百卒長の物語であるとすれば、いったいどういうことになるのでしょうか。そういうことは、学問的な方法論の対象にはならないと言うのであれば、それまでです。しかし、そうであれば、少なくとも宗教的な内容をその生命とする聖書のようなテキストの研究方法としては、文献批判の方法論は、あまりにも狭く不十分だと言われても仕方がありません。
  学問的な方法論と聖書それ自体が内蔵する宗教的・信仰的な価値との間のこのようなズレは、例えばブルトマンの次のような言葉からも読みとることができます。「電灯や無線を用いたり、医学的外科的な発見にあずかりながら、しかも同時に新約聖書の世界の霊や奇跡を信じることは不可能である」(ブルトマン「新約聖書と神話」)。ファンダメンタリズムの人たちが、現代の聖書学と対立するのはこういう場合です。なぜなら、彼らは、まさにこのこと、テレビやマスメディアやコンピューターを駆使しながら、「新約聖書の霊や奇跡」を人々に伝えているからです。
  非神話化とは何か?
   私たちは、ここまできて、ブルトマンたちがなぜ聖書本文の文献批判を始めたのか、その根本的な考え方に行き着くことになります。それは現代生活が、「新約聖書の霊や奇跡」の時代とは全く異なる世界観・人間観の中で営まれていると考えるからです。したがって、現代の人たちに聖書を伝えるためには、新約聖書の「神話的な」世界を解体して、そこに含まれる信仰の核を現代の人たちに分かる言葉と思想とで語らなくてはならない。こう彼は考えました。これが、彼の提唱した新約聖書の「非神話化」の目的であり、ブルトマンの様式史批評の基本的な姿勢です。このような考え方に沿って成し遂げた彼の業績は大きいと言わなければなりません。
  「神話」という言葉はあまりにもいろいろな意味に用いられるので、この言葉を使うのはためらわれるほどです。しかし、ブルトマンの「非神話化」に触れるためには、これを避けることができません。神話は、現実の世界を自然科学的な観点から表現するのではなくて、人間がその宗教的な霊性を通じて解釈したことを語っています。だから、聖書に表わされた神話は、科学的な宇宙観としてではなく、人間の根元的な存在において、言い換えれば「実存的」に解釈されなくてはならない。それだから、新約聖書の重要性は、それが用いる神話的なイメジャリ(表象)にあるのではなく、それらの表象に包まれて、その核を成している人間の実存それ自体を理解することにある。これが、「聖書神話」に対するブルトマンの考え方であったと言えます。
  このような意図の下に、彼は、文献批判というメスを用いて、伝承断片の成立過程を再構成することによって、成文化する前の伝承の歴史を解明し、そうすることで、新約聖書が伝えようとした内容を人間の「実存」という現代人にも分かる言葉で提示することができると考えたのです。
  神話を否定するのか解釈するのか?
   しかし、このようにして「非神話化」を進めた結果、一つの問題点に突き当たることになりました。それは、イエス・キリストの贖いの十字架と復活という聖書の中心的なメッセージ(これを「ケーリュグマ」と呼びます)についてです。これなしには、イエスはもはや「キリスト」(救い主)ではなくなるし、キリスト教がキリスト教でなくなると言えます。新約聖書の核となるこの伝承こそ、歴史的な人物であるイエスが、救い主キリストとなった決定的な伝承であり、それが教会の信仰の原点でもあるからです。「史的イエス」から教会によって宣べ伝えられた「信仰のキリスト」への転機となるのがこの「ケーリュグマ」なのです。
  ブルトマンは、これも「神話」と見なして、これを「非神話化」したのでしょうか。答は「イエス」であり「ノー」です。「イエス」と言うのは、彼はこれをもやはり「神話」であると考えたからです。しかし、彼は、この「キリストの神話」を解釈し直すことによって自己の信仰とこれに支えられる実存を見いだす道を選びました。
  教会は、史的イエスを核にしながらさまざまな伝承を生みだしつくり出してきました。これらの伝承は、福音書の記者たちによって、さまざまな神話的表象をともなう聖書本文の世界となって織り出されていきました。これらの本文を伝承ごとに分解して、その一つ一つの「神話」を解体する、すなわち「非神話化」するならば、「聖書神話」そのものは崩壊してしまいます。しかし、この神話を「解釈」するというのであれば、神話は、ドイツ的純粋さを誇る実存論という限定された枠の中で生き延びることになります。いったいブルトマンは、どちらをしようとしたのでしょうか。「聖書神話」を「否定」したのでしょうか? それとも「解釈」したのでしょうか? 実は、彼はその「両方」をしようとしました。彼は聖書本文をぎりぎりまで「非神話化」することによって、これの神話的な世界を崩壊させました。そして、最後の中核となる「キリストの神話」の前で立ち止まったのです。そしてこれを彼なりの仕方で「解釈」したのです。ここに、彼の聖書解釈の方法論の相矛盾する二面性が見えてきます。聖書神話を解釈するのなら、その神話の中に自らを投じなければなりません。その時、その人にとって、「神話」は「信仰」に変質します。だから、神話を解釈するのと神話それ自体を否定するのとは、正反対の方向を指すことになります。ブルトマンの方法論の問題点がここにあります。
  ブルトマンの流れを汲む現代の聖書学者たちの中には、師の立場を乗り越えて、キリストの神話それ自体をも解体させて、史料としての聖書本文を通じて「史的イエス」の「実像」になんとか迫ろうと努力している人たちがいます。そこでは、もはやブルトマンの様式史による文献批判とは異なるさまざまに違った方法論が用いられています。だからといって、ブルトマンが突き当たった矛盾と問題点が解決したわけではありません。彼は、聖書解釈の方法論について、特に聖書を学問的な批判の対象としながら、しかも信仰の書として読む場合に、何が問題となるのかを、また、これを解く鍵がどこにあるかを、身を持って教えてくれたのです。
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