8章 聖書の言語
聖書は全体として「一冊の」書物か?
  先の章では、ルカを読むのか、「ルカによる福音書」を読むのか、ということを問題にしました。聖書の文献批判による分析がここまでくると、私たちは、いったい「聖書」と呼ぶ一冊の本が、「全体として」一つのまとまりを持つのかどうか、持つとすればどういう意味でそうなのかが、問題になってきます。例えばマルコとルカ、この二人はイエス・キリストにある信仰によって結ばれています。それでいて二人は、自分たちの置かれている立場から見る視座においてはっきりと違います。では両者のつながりはどこにあるのでしょう。これからも、個々の聖書の記者の置かれていた歴史的な状況の違いがますます明らかにされてくるにつれて、こういう疑問が生じてくるのは避けられません。信仰を同じくする人たちが書いたからといって、それらの文書が一冊の本になるとは限らないからです。では聖書はいったいどういう意味で「一冊の」本なのでしょうか。
  例えば、ギリシアの叙事詩であるホメーロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』を考えてみましょう。これらの作品には、実際にあったトロイ戦争という歴史的な出来事が下敷きになっています。ホメーロスの作品が単なる神話的な文学的創作であって、史実を伝えるものではないと思われていた時代に、シュリーマンという人が、この作品に魅せられて、ついにトロイの遺跡を発見した話は有名です。こうしてトロイが実際に存在した都市であることが証明されたのです。ホメーロスの叙事詩は、史実を踏まえながらも詩的な言語によって、さまざまな神話や伝説や伝承を織りこんで、全体を「一つのまとまった作品」にしています。
  聖書もやはり「一つのまとまった作品」として読むことができるでしょうか。聖書は信仰の聖典だから、『イーリアス』のような文学作品ではない。だから、同じレベルで考えることができないと言うのなら、その「聖典」の意味が改めて問われることになります。もしも、それが叙事詩のような文学作品で「ない」というのなら、いったいそのまとまりを形成している原理はなんでしょう。
  同様の問題は『古事記』についても言えるかもしれません。『古事記』は日本の聖典であって、神話や伝説ではない。だから、これに歴史的な分析を加えるのは許されないと信じる人たちが今でもいるそうです。そうであれば、いったいどのような意味で『古事記』が「聖典」なのか、これがとても大切な問いかけになります。そこから初めて、これらの古典なり聖典なりに潜む文学的・宗教的・政治的な意味が明らかにされて、聖書が、ギリシアの叙事詩、あるいは『古事記』やその他の「聖典」とどのように違っているのか、あるいは類似しているのかが明らかにされると思います。
  もう一つの問題は、これまでお話ししたように、聖書が、「史実」を伝えているように見えながらも、学問的な視点からは、出来事が「神話化」されていることです。もしも、現在の歴史学の基準に照らして間違いのない史実だけを聖書の中から拾いだして、これだけを自分の信仰の基準にしようとするなら、私たちは今読んでいる聖書のほとんどの部分を捨ててしまわなければならなくなるのです。ルカやマルコが、「事実」を伝えているのでないとすれば、福音書の記者たちは、いったい私たちに何を伝えようとしているのでしょう。
  聖書は全体として一つにまとまった作品として読めるのだろうか。聖書はどのような意味で「事実」あるいは「真実」を伝えているのだろうか。この二つの疑問は、実は一つにつながっているのです。聖書を読んだ人ならだれでも知っています。「創世記」にはエデンの園が出てきて、そこには命の樹が生えていました。しかし、蛇がエヴァをだまして神に背かせたために、人間はこの園から追放されることになりました。しかも、この蛇も命の樹も新約聖書の最後の書である「ヨハネ黙示録」に再び現われるのです。新約聖書によれば、イエス・キリストは、旧約聖書で預言されたメシアです。このメシアが再び来臨する時に「ヨハネ黙示録」の預言が成就するのです。
  このように見ると、聖書は一つのまとまった「物語」として読むことができるように思われます。しかしこのことは、歴史的な事実かどうかにこだわらずに、読者が、聖書を「書いてあるままに」読む時に初めて言えるのだということを忘れてはいけません。だから、聖書が一つの作品であることと、聖書をその「書かれてあるとおりに」読むこととはつながってくるのが分かります。聖書は「言語」で書かれています。しかし、言語と言っても、いろいろな種類や違った働きがあります。いったい聖書は、どんな言語で書かれているのでしょうか。またその言語はどんな働きを持っているのでしょうか。このことがこのようにして問われることになるのです。
        ノースロップ・フライについて
   この問題を考えた人の中に、ノースロップ・フライ(1912年〜1990年)がいます。ノースロップ・フライの名著といわれる『偉大な表象体系ー聖書と文学ー』(1982年)を参考にしながら、これから、この問題を読者と一緒に考えてみたいと思います。この人は、カナダのトロント大学で長らく英文学の教授を勤めました。イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの批評から出発して広範な批評活動を行ない、その集大成とも言えるこの名著を著わしたのです。彼の活動の幅の広さにもかかわらず、意外に著作が多くないのは、彼が「教室で学生にじかに語る」ことに専念したからです。ちなみにこの本は、現在翻訳が進行中と聞いています。自分のことで恐縮ですが、1991年の8月に、カナダのヴァンクーヴァーで、国際ミルトン・シンポジアムがあり、私もこれに参加して研究発表をする機会を得ました。その際に、亡くなったこの著名なミルトン学者(彼はミルトン学の大家でもあったのです)の追悼講演があり、その席で講演者から、この「世紀の巨大な人物」に黙祷を捧げるようすすめがありました。
  フライは、ブルトマン学派の聖書の非神話化には、ひかえめながらも否定的な立場をとります。この点でフライは、フランスで行なわれている構造分析的な立場にやや近いようです。構造分析では、福音書の物語がどのような構造を持つかを、ちょうど言語を成り立たせる文法構造を分析するように解明しようとします。しかし、フライ自身は、ことさらに構造主義に影響されてもいないし、これを意識してもいないようです。彼は、言語の表わす表象によって、その意味を体系的に汲み取ろうとする独自の解釈論によっていると言えます。
   聖書は歴史的な事実を叙述する場合にも、それが人を教え導く、すなわち「教化する」目的に沿うように構成されています。新約聖書の場合に、「教化する」とは、人をイエス・キリストへの信仰へ導くことを意味します。ブルトマン流に言うなら、このような言語によって語られる物語は、史実を「神話化」していることになるのでしょう。しかし、このように「神話化」され「物語化」されている聖書の言語を「非神話化」することは、聖書の言語それ自体の機能を破壊してしまうことになる、こうフライは考えたのです。聖書は、それが語られている本来の言語の機能に従って読み評価するのでなければ正しい批評を行なうことはできません。この意味で、「聖書批評」と文献学的な「歴史批評」とを混同してはならないというのが、フライの基本的な立場なのです。
     聖書の言語で生活する              
   ここで、私自身の一つの体験を話してみたいと思います。私は、若い頃に、一つの忘れ難い情景に出合ったことがあります。ある集会に出席していた時のことでした。そこにかなり年輩の洗濯屋の店主が来ていました。しばらくすると、その店の店員さんらしい人が現われました。二人ともクリスチャンであるのは間違いありません。すると、その店の主人が、「来られないと思っていたのに、よく来れたね」と言いました。するとその店員さんが、「ええ、急に雲の柱が動いたものですから」と何気なく言ったのです。私は、その「雲の柱が動いた」という表現にとても不思議な思いを抱いたのを覚えています。この何気ない会話を今でも覚えているのは、そこに聖書を読む上で重要な問題が含まれているからだと今にして私は知るのです。
  読者の中で、聖書を知らない方は、「雲の柱が動く」という表現の意味が理解できないと思います。それは、「出エジプト記」(13章21節)の中に出てくる表現で、イスラエルの民がエジプトを出て、紅海の波を渡り、荒野をさまよった時に、「主は、昼は雲の柱となり、夜は火の柱となって、イスラエルの民を導いた」とあるところからきています。だから、おそらくこの若い店員さんは、始めは集会に出席できない事情があったのでしょう。ところが、突然何かの都合で集会に出ることができるようになったようです。彼は、急に事態が変わったことに神の導きを感じて、これを「雲の柱が動いた」と言ったのです。
  私が興味深く思ったのは、自分の身に起こった出来事を表現する時に、「雲の柱」という表現が、この店員さんの口からごく自然に出てきたことです。彼は、聖書に親しんでいるうちに、日常生活の中で自分の身に生じる出来事をこういう「聖書の言語」で表現することを学んだのです。このことは、彼が、現実の出来事を聖書の言語で「解釈している」ことを意味します。これに似た言い方は、クリスチャンならだれでも知っています。「あの人はファリサイ的だ」「ぶどう酒が新しいのなら新しい皮袋に入れなくては」「この迷える羊を助けてほしい」「ゴリアテに向かうダビデみたいに勇ましく」「ギデオンの300となって事に当たろう」。例はいくらでもあります。
   読者の方はお気づきと思いますが、これらの表現は、いずれも出来事を「比喩化」してとらえています。この場合比喩として用いられた「雲の柱」は、神の導きを表わす「表象」です。しかし、もし、そばに子供がいて、「雲の柱が動いた」と言うのを聞いたら、この人は火事でも見てきたのかと思うでしょう。「言葉どおりに」受け取れば、これはそうとしか受け取れません。しかも店員さんは、「聖書のたとえで言うならば」などという前置きをつけなかったし、「まるで雲の柱が動いたみたいに」とも言いませんでした。そういう言い方をすれば子供でも、彼の言うことが「言葉どおり」の意味ではなく、「たとえ」なのだと理解できたはずです。どうして彼は周囲の人に、「まるで・・・のように」とか「たとえてみれば・・・みたいに」のように、それが比喩であることを分からせるように言わなかったのでしょう。それは、このように比喩をはっきりと意識させる言い方をすれば、その比喩が、現実に生じた出来事では「ない」ことが語る者にも聞く者にも意識されるからです。彼が聖書の表象を現実の出来事と「直接に」結びつけて比喩化したのは、それ以外では表現できない聖書の言葉による現実の解釈と認識があったからです。
   読者の中には、「雲の柱がどうして動くのか? いったいそんなことがありえるのか?」と、先ほどの子供と同じ疑問を持たれる方がいると思います。この記述をなんらかの自然現象と結びつける説明もあります。だが、これは表象なのです。ただし、聖書にあるこの表象は、単なる架空の「たとえ」ではありません。それは、なんらかの歴史的な事実に基づく体験と深くかかわる表象なのです。何が起こったのかを今となっては、私たちは知るべくもありませんが、聖書が、はっきりとした体験から来る神の導きを証しする手段として「雲の柱」のような表象を用いているのは確かです。だから店員さんは、自分の現実を架空のたとえと結びつけているのではありません。過去のある出来事を、聖書の表象を通じて、今の自分に起こった出来事と結びつけているのです。それは、彼が聖書の言語の中で「生活している」からです。
      表象はどのような働きをするか
   どうして聖書は、そのような表象を用いて語るのでしょう。新聞記事のように起こった出来事をきちんと客観的に報道してくれれば信じるのに。私たちは、このように復活のイエスに向かってトマスがこぼした不平に似たような疑問を抱きます。こういう疑問は、私たちだけではありません。19世紀のイギリスの著名な文芸批評家ラスキンという人も同じことを考えました。彼は、詩人が、現実に潜む深い真実を語ろうとすればするほど、その言語が分かりにくい表象の言語となり象徴の形をとるのはなぜだろうと考えたのです。しかし、翻って考えてみれば、出来事を客観的に報道したならば、その出来事は一回限りの事件として「過去のもの」となります。私たちは、新聞の報道で「事実」を知りますが、それらの事実は、次々と新しい「事実」の前に忘れ去られます。今日の新聞は、明日の旧聞です。「事実」は決して「繰り返さない」からです。
   しかし表象化された聖書の言語は、神がなされたさまざまな「出来事」をただ伝えているのではありません。その1回限りの歴史的な出来事が、表象化されることによって、それ以後のありとあらゆる人たちが、自分の身に生じる現実の出来事を理解し表現する言語へと転じるのです。特に、聖書の言語は、「神を信じる人たち」に起こる出来事を理解し表現するための言語です。この言語を用いることによって、自分の身に「現在」起こった出来事が、はるか昔に、聖書で同じように表象化された出来事と結びつくのです。それだけではありません。このように「現在の体験」を表象によってとらえることで、その人は、将来もこのように「雲の柱が動く」ことを期待することができるようになります。このように、表象化、すなわち比喩化することによって、彼は、はるか過去のイスラエルの民の出来事を現在の自分の出来事と結び、さらにこれを将来の出来事への指針とすることができます。こうして、自分の過去・現在・未来を聖書の言葉でしっかりと結ぶことができるようになるのです。
       直喩と隠喩          
   比喩についてもう少し考えてみましょう。先ほど、「・・・みたいだ」という言い方と「雲の柱が動いた」と断言する言い方との間には、意識の違いがあると言いました。その違いはどこからくるのでしょう。それは、比喩と自分自身とがどこまで深くかかわり合っているかという点にあります。同じ比喩を引用する場合でも「まるで『雲の柱が動いた』ようなものだ」と言ったとすればどうでしょう。この言い方は、聖書が表象する出来事を話し手自身は信じていないことを示唆しています。少なくとも比喩と自分との間に距離をおいて見ています。とりようによっては、その比喩を多少馬鹿にしているとも受け取れます。この場合、その話し手は、「雲の柱が動く」という表現が、人間の肉眼では見えない「神の導き」を内包していることには気づかないで、この表現を表面的な文字どおりの意味にしか理解していないのです。その上で、現実の自然現象では、そういうことがありえないという認識に立って発言しています。こういう人には、「雲の柱が動いた」というのは、実は砂漠の砂が突風で舞い上がって、それがまるで雲の柱のように見えたことを表現している(これがほんとうかどうか私は知りません)、とでも説明すれば、あるいは納得するかもしれません。私たちは、聖書解釈で、時々こういう「科学的な説明」に出合うことがあります。だから、ある意味で、この人は、「科学的」に、すなわち自分とは直接かかわりのない「客観的」な立場から観ていることになります。
  このように、「・・・のようだ」とか「まるで・・・みたい」という比喩の仕方を、文学・言語学では「直喩」(ちょくゆ)と呼んでいます。直喩は、そのたとえが、実際の出来事とは違うことを念頭に置いた表現法です。これに対して、先ほどの店員さんのように「雲の柱が動いた」という比喩の仕方を「隠喩」(いんゆ。英語で「メタファ」)と呼びます。彼は、自分の身に起こったことを直接に聖書の比喩でとらえたからです。ひょっとすると、彼には、神様からの「雲の柱」がほんとうに「見えた」のかもしれません。隠喩は私たちの日常の言語に深く入りこんでいます。「おいしい」話、どうにも「出口」が見つからない 、「腸が煮えくり返る」、いくらでもあります。
        聖書の隠喩
   私たちは聖書の中で隠喩にしばしば出合います。「創世記」49章では、ヤコブがイスラエルの12部族にそれぞれ次のような預言をします。「ユダは若い獅子。あなたは獲物を取って上ってくる」(9節)。「ダンは道端の蛇。小道のほとりに潜む蝮」(17節)。「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木」(22節)。特に9節は、「ヨハネ黙示録」5章で7つの封印をだれも解く者がいなかった時に、「ユダから出たライオン」(キリストを指す)が、これを開くとあるのと結びついてきます。
  では、次のような場合はどうでしょう。「狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11の6)。これはイザヤが見た絶対平和の終末のヴィジョンです。私はある宣教師が、「現在の自然現象ではこのようなことは不可能であるが、終末の時にはこれが『現実に』起こる。なぜなら聖書に書かれたことは必ず実現するのだから」と説教しているのを聞いたことがあります。明らかにこの宣教師は、ここに書かれていることが「字義どおりに」自然現象として実現すると信じているのです。しかし、こういう字義どおりの解釈に対しては、当然、反論が生じることになります。この場合、反論する側もされる側も、聖書の言語を外の物理的現象と直接に結びつけているのが分かります。
  別の人は、これを単なる「詩的な」表現として、イザヤは、世界に戦争がなくなり、人と人、民と民とが平和に暮らす日が来ることを「比喩的に」述べていると解釈するでしょう。いわば、「たとえてみれば・・・みたいなものである」という直喩的な意味に受け取るのです。しかし、イザヤはここで、そのような直喩では語っていません。ではイザヤは、人間と動物とが互いに平和に暮らす日が来ることを意味しているのでしょうか。ある標準的な聖書の注解書は、ここをこのように解釈しています。
  これらの解釈は、どれもある程度この節の釈義としてあてはまるように見えますが、同時に、どれ一つを採っても、それだけではここでのイザヤの表現を十分には汲み尽くしていないように思えます。「神の聖なる山」(9節)では、何か人間の考えの及ばないことが実現する、しかも自分はそれを「見た」、というのがここでのイザヤの意味です。しかし、それが具体的にどういうことかは、読む者に隠されています、あるいは読む者に「委ねられて」います。このように、隠喩には、言葉では表現できないこと、表面的には矛盾すること、神秘なことなどを言い表わす働きがあります。
       イエスの隠喩
   新約聖書では、「ヨハネによる福音書」に、「わたしは世の光である」、「わたしはよい羊飼いである」、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」、「わたしは道である」、「わたしは命のパンである」、「わたしの与える水を飲む者はいつまでも渇かない」、「わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠に生きる」などがあります。イエスが、ぶどうの木や羊飼いと同じでないのはすぐに分かります。イエスと「道」との関係はどうでしょうか。これが「道路」のことでないのは明らかです。では、茶「道」や華「道」のような「道」のことでしょうか。この隠喩は、ここでの「道」とある程度共通するところがあるようです。しかし、ここでイエスの言われる「道」は、茶道や華道のように教え導かれて伝授されること以上の意味を含んでいます。人は自分の力に頼ってイエスの教えを「歩む」ことが求められているのではない。ただイエス「を」歩むことが求められているのです。イエスが「光」であるというのは、イエスを「仰ぐ」ことによって心の目が開かれて、「まことの」光が「見えてくる」ことを意味しています。目の見えない人がイエスに癒されたという「ヨハネによる福音書」九章に出てくる物語は、イエスの光が「ほんとうに見える」ことを示唆しています。
  このように、隠喩は、何か説明し難いもの、厳密に定義づけようとしても抜け落ちてしまうような内容を含んでいて、これを直接読者に伝える(あるいは隠す)働きをしていることが分かります。隠喩は、理性では説明できないこと、言い替えれば論理では把握できないことを言い表わすのに用いられます。
     科学の言語と詩の言語
   隠喩は、特に詩を読んだり書いたりする場合に、大切な働きをします。この意味で、聖書の言語は詩の言語に近いと言えます。詩の言語と比較するために、ワープロのマニュアルの場合を考えてみましょう。ワープロを買った経験のある方はお分かりと思いますが、マニュアルには、各部品の名称から始めて、操作の仕方まで細かく書いてあります。これを詩を読むつもりでうっとりと読み通してもワープロは動いてくれません。マニュアルの言語は、その一つ一つが厳密に機械と対応していなければなりません。書いてあるとおりにやって、書いてあるとおりに機械が動くかどうかが大切です。したがって、そこでは、言語はそれだけでは意味を完結させないのです。その言語の「外にある」機械が、実際にその言語のとおりになるかどうかが言語の意味を決めるからです。このような言語は、それが指し示す言語の「外のもの」と対応することによって初めて意味を獲得します。
  「今日は暑い」、「この机は四角だ」、「この花は赤い」、これらの言語は、いずれもそれだけでは完結した内容として受け入れることができません。なぜなら、実際にその言葉のとおりであるかどうかが、五感による体験によって確かめられて、初めてその言葉が「ほんとう」だと分かる、すなわち、その意味が完結するからです。このように、言葉の「外にある」事実と合致することが感覚によって検証されて初めてその意味を獲得する言語は、科学的な言語であると言えます。
  ところが、「私はあなたを愛する」、「どうか僕を信じてほしい」などと言われた場合に、あなたは相手の愛を確かめる証拠をさっそく探すでしょうか。もしもそんなことをしたら、相手の愛を逆に失うことになるでしょう。なぜならこれらの言葉は、語られた言葉それ自体のうちに意味が存在しているからです。この場合、「事実」は、言語が「語られること」それ自体によって生じているのであって、その言葉の外に何らかの現象が存在しているわけではありません。このような場合に、言語で表わされた「こと」(言・事)を言語の外にある事実と関連づけようとするなら、かえってその言葉の働きを破壊してしまうのです。
  詩を読む時にも同じことが言えます。詩は、その言葉がつくり出すイメージの世界それ自体を読むのであって、言葉の外の世界と結びつけて読むことはできません。語られた言語それ自体のうちに「真実」が潜んでいるからです。詩のこのような働きは、それが隠喩の言語で語られることから生じていると言えます。
      霊の言語
   私は、聖書を読む時に「キリストの聖霊」の働きが大切であることを指摘してきました。聖書の言語は、み霊による「霊的な」言語だからです。読者の方はお分かりになったと思いますが、ここで「霊的な」というのは「隠喩的な」と言い換えてもいいかもしれません。隠喩は比喩の一種ですから、もう少し広げて、聖書は「比喩」あるいは「たとえ」の言語で書かれていると言うことができます。後で述べるように、聖書の言語は、隠喩だけではありません。けれども、少なくとも、言語と「外の現象」とを客観的に結びつけることでその真偽を判断する言語でないことだけは確かです。パウロが、「コリントの信徒への手紙(1)」で次のように述べているのは、まさにこのことであると言えます。    パウロはここで、「霊」の人と「自然」の人とを対照させています。語られた言葉それ自体の奥から神の語りかけを聞く人と、これを自然現象や人間の経験と結びつけることで、自分の感覚で判断する人との違いを述べているのです。
        隠喩から教義へ   
   もう一度「ヨハネによる福音書」の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」に戻ります。この隠喩からは、さまざまな連想が働きかけてきます。ぶどうは一つ一つの房となり群れをなして実ります。一本の幹がどこまでも広く枝を四方に張っていきます。聖餐に用いるぶどう酒とも結びついてきます。ぶどうの幹から枝へと流れる樹液は、イエス・キリストから彼を信じる者たちへと流れるイエスの贖いの血であり命の樹液であると言えます。カナの婚宴でのイエスの奇跡も思い出されます。ぶどうは「喜び」の象徴です。ところが、「ヨハネ黙示録」(14章)では、これが神の「怒りのぶどう」となります。けれども、「ヨハネによる福音書」のこの比喩で私たちが連想する最も一般的な内容は、これが教会を意味する表象だということでしょう。聖書のカバーには、しばしばぶどうの絵がデザインしてありますが、おそらくこの表象の意味も、全世界に広がる神の民、キリストの「からだ」としての教会をイメージしているのでしょう。こうして、隠喩は、さまざまにその意味を広げていきます。しかし、「ヨハネによる福音書」のこの言葉は、クリスチャンの間では、一般にキリストと教会とを指していて、聖書注解でもほぼそのように解釈されています。
   「善いサマリア人」(ルカ1の25以下)のたとえ話でも、傷ついた旅人は罪を犯して救いを求める人、サマリア人はキリスト、彼が傷ついた人を連れていく宿屋は教会、という伝統的な解釈があります。ついでに強盗はサタンを表わす、というのをこれにつけ加えてもいいでしょう。これらの解釈はいずれもそれなりにイエスのたとえの内容を的確にとらえています。ただし、ここで注意しなければならないのは、これらの解釈では、ぶどうの木=キリスト、枝=教会、サマリア人=キリスト、宿屋=教会、旅人=罪人のように、それぞれの表象が、ある特定の概念と関連づけられている点です。しかもそれらの関連づけが、いずれも具体的な表象からより抽象的な概念へと移っていることに注意してください。すなわち、私たちはここに、一つ一つの具体的な表象の内容が、それぞれ抽象化された一つの概念へと「置き換え」られていく過程を見ることができます。こうすることで、隠喩に含まれているさまざまな読み方の可能性が、ある一つの解釈へと「権威づけられて」いるのです。こういう過程を難しく言えば、「換喩(かんゆ)」化する、あるいは、サマリア人のような人物の場合は、「寓意(ぐうい)」化すると言います。
   しかし、イエスが実際にユダヤの民衆にこのたとえを語られた時に、はたしてこれはそういう意図をもって語られたのでしょうか? また、聞いていた民衆は、この話をそのような「親切な隣人」のたとえ話として受けとめたのでしょうか? 当時のサマリア人とユダヤ人との関係を考えるならば、このような善意の隣人という解釈だけが、話の本来の意図であったとはとうてい考えられません。そこには、何かもっと違った衝撃を与える意図があったのではないか? 聞いている人たちが身近に見ていた現実に対する鋭い批判が含まれていたのではないか?聖書の歴史批評は、こういう疑問を抱いて、このたとえ話の本来の意図を追求しました。このように、聖書のたとえ物語を、それが生まれた原点とも言うべき出来事までさかのぼって、これの意味を史的に確認するのが、学問的な追求の重要な目的です。これによって、聖書のたとえや物語が、本来の生き生きとした働きを取り戻すからです。
       正統と異端はなぜ生じたか?
   ぶどうの木はキリストである。ではキリストとは何か? その枝は教会である。では教会とは何か? このように、隠喩から換喩へ、さらにより抽象化した概念へと比喩が置き換えられる過程では、表象の中身が次第に厳密に定義されていくようになります。「教会」とは、ある特定の組織化された制度であって、会堂と聖職者がなければならない。その聖職者階級さえもさらに厳密に定義され、細分化されていくことになります。
   17世紀のイギリスでは、この「教会」とは何かをめぐって、英国国教会とピューリタンたちとの間で激しい論争が行なわれ、このために多くの人が処刑されました。聖書は「神の言葉」である。では「神の言葉」とは何か? このような過程を経て聖書の教義化が次第に進行していくのです。聖書の言語が、このような過程を経て「神の言葉」として権威づけられ、一つの命題に置き換えられて厳密に定義されてくると、私たちは、ぶどうのたとえを自分なりの仕方で解釈することが難しくなります。聖書の解釈は、もはやこれを読む一人一人に委ねられるのではなく、一つの権威によって統一され、体系づけられるからです。一人一人が、自分で聖書を読みこれを解釈する権利が、このようにして奪われていくのです。
  このような聖書解釈の方法論によれば、「神の言葉はAである。しかるにBはAでない。ゆえにBは神の言葉でない」という、いわゆる三段論法による「論証」が可能になります。正統と異端、聖書の「正しい」解釈と「誤った」解釈とが、このようにして区別されてきます。キリスト教の歴史では、正統と異端とをめぐって、幾度も迫害が行なわれ、多くの血が流されてきました。
  隠喩は、連想に基づくさまざまな意味から生じる解釈を可能にしますから、多元的な思考により適合している言えます。これにたいして、隠喩をより抽象化した解釈は、一元的な解釈によって権威づけられ、教義化へと進む働きをします。しかし、隠喩から教義化へと進んでも、隠喩本来の根本的な構造は変わりません。これのいい例が、「神は三位一体である」という教義です。ここでは「神=3」、「3=1」という不思議な結びつきが行なわれています。これは論理的な論証ではありません。それは「論理」ではなく「比喩」であり、しかも「イエス=ぶどうの木」と同じ隠喩の構造によって「神の神秘」を表象しています。
     科学の時代と比喩
   先に説明したように、直喩では、「・・・のように」とあるように、比喩それ自体と外の事実とを区別しながら、その両方を関連づけます。しかし、隠喩では、「イエス=光」のように、「A=B」という構造をとって両者をより直接的に結びつけます。太陽をアマテラスと一体化して太陽を拝むのも、こういう隠喩の働きから来ているのです。しかし、現代のような科学の時代では、「A=B」という比喩の仕方は力を失ってきました。火星(マルス)が戦の神であり金星(ヴィーナス)が愛の女神であった時代は、過去のものとなりました。だから、現代では、Aは「たとえてみればBのようなもの」であるというふうにしか比喩を用いることができなくなったのです。こうして、「詩的」な言語に代わって「科学的」な言語が真理として尊ばれるようになりました。私たちは、隠喩から直喩の時代に移ってきたのです。
  言うまでもなく、現実はこのような図式で整理できるほど単純ではありません。現代は科学の時代、というよりも科学「技術」の時代です。このようなテクノロジーの発達が、聖書の言語をますます過去へ押しやって、科学と科学技術が十分に発達すれば、やがて聖書もそして宗教それ自体も無用になる時代がくると本気で思いこむ人たちが出てきてもおかしくありません。私たちは、科学のおかげで、言葉を「使う」ことを覚えました。言葉を使う主体としての自分を感覚によって認知できる自然から切り離して、自然を客観的に観ることができるようになりました。さらに、一つ一つの言葉をそれぞれの「現象」あるいは「事実」にあてはめて、言葉と事実とを厳密に対応させ、こうすることで、「わたし」という主語が、客観化した対象を目的語としてこれを支配することを学んだのです。私たちは、こうして言葉を通じて自然を「操作する」こと、自然を思うようにコントロールすることを知ったのです。このようにすれば、比喩を用いないで、客観的に自然現象を理解できると考えるようになったのです。
  ところが科学の発達にともなって、状況が少し変わってきました。先ず私たちが客観的に理解する手段として用いる言語も、実際は比喩から自由でないことがだんだん明らかになってきたのです。このことは、先ず社会科学の分野で大きな問題となります。例えば、18世紀のイギリスの著名な歴史学者であったギボンという人は、『ローマ帝国の斜陽と没落』(英語の題名を直訳してあります)という大著を著わしました。これはローマ史の後半を学問的に叙述した歴史です。しかし、この著作の題名である「斜陽と没落」は、明らかに太陽の運行を表わす言葉なのです。言うまでもなく、それは「比喩的な」意味です(このような比喩を「類比」と言います)。しかし、ギボンは、膨大なローマの歴史の後半を全体として解釈する際に、彼の脳裏には、その推移を太陽の軌道の類比でたどる思考が働いていたことがこれで分かります。それだから、この著作が、学問的でないとか、客観性に欠けると思う人はいないでしょう。それどころか、人間の思考がより高く総合的なものへと近づけば近づくほどに、その思考にはギボンのように類比的な比喩が入りこんでくることが分かります。単に現象だけを追い求めてこれを技術化して役立てる、こういうことだけしか視野に入らない「科学」は、真の意味で科学する心ではないからです。
   私のような自然科学にうとい者でも、近ごろの宇宙論をのぞいてみると、宇宙の「成長」とか時間の「ゆがみ」などという面白い言葉が目につきます。「成長」とは言うまでもなく生物に対して用いる言葉です。けれども最先端の宇宙物理学者が「宇宙の成長」とか「時間のゆがみ」とかなどという「詩的な」言葉を使うのが、私にはとても興味深く思われるのです。それだけでなく、現代の科学では、私たちが言葉の普通の意味で用いる「物質」なるものは、もはや存在しないようです。物質とは、どこまでも追求して行くならば、どうやら光の波動のようなものになってしまうらしい。こうなると、もはや私たちの「感覚」ではとらえることができません。いったい今の物理学者は、どんな言語で考えているのでしょう。確かなことは、彼は何も見ず、何にも触れず、自分の感覚で確認することができない世界を扱っていることです。彼は数式でこれを行なうらしい。数式とは言うまでもなく一つの記号です。
  このように「物の形」としてはもはや存在しない世界を数式という記号を用いて扱う人たちにとっては、その記号は、これの外にある世界と一つ一つ対応させなければならない性質のものなのでしょうか。どうもそうではないようです。実験や観察を無視することはできないけれども、物理学の最先端では、そのような記号それ自体が完結した世界であって、それの外に「物質」が存在するのではない状況にあるのかもしれません。そうでないと、例えばある科学雑誌に出ていたのですが、ヨーロッパの最先端の物理学者が、プラトンの世界像を取り入れようとしているなどということはありえないからです。プラトンどころではない。「物」が「もの」となり、形を持たなくなれば、見えるのは「数式」だけです。そうなれば、プラトンよりはるか以前のピタゴラスというギリシアの古代哲学者が考えたように、万物は「数」で成り立っているという命題に現代の物理学は戻ることになるでしょう。宇宙を総合的に扱おうとすれば、こうして私たちは、再び比喩の時代に戻りつつあるような気がします。
  さらにコンピューターが現代の武器であるとすれば、そのコンピューターの目指している究極の世界はどうやら人間の頭脳それ自体らしい。いかにして人間の頭脳に近づくかで、現代の技術者たちは競い合っています。人間の頭脳が人間の頭脳をつくろうとすれば、人間の頭脳が人間の頭脳を対象に考えなければなりません。そうなれば言葉を「用いて」考える主体が言葉をあてはめられる客体・対象それ自体となります。こうして言葉を「使う」主体それ自体が「使われる」対象と一体となるのです。こうなれば、いったい人間が言葉を使うのか、言葉が人間を支配しているのか、定かではなくなるでしょう。聖書の言語とは何か? 現代においてこれが改めて問われてきている背後には、以上のような状況があります。
     聖書の言語を正しく読む
   聖書には隠喩が深く入りこんでいます。そのことは、聖書が、時代を超え民族を超えて読み継がれる永遠の霊性を宿しているだけでなく、それぞれの状況に対応する「自由な読み」を可能にしていることを意味します。聖書には、隠喩だけでなく、寓喩、類比、直喩などのさまざまな「たとえ」の形があります。さらに、「比喩物語」も出来事の「物語」もあり、「歴史」や「伝記」もあります。しかし、聖書の言語は、根底において、語られている言葉の「外の事実と」結びつけて解釈するための言語ではないのです。なぜなら聖書の言語は、本質において「霊的な」次元で人間に語るからです。だから、もしも聖書の物語を、いわゆる「客観的な史実」に還元することによって、そこに語られる内容を解釈しようとするならば、それは聖書の言語それ自体を破壊する危険をおかすことになります。そのような試みに反対するつもりはありませんが、それが聖書の解釈それ自体であると主張するならば、その解釈論は誤りです。聖書は、それが用いられている言語に従って読み評価するのでなければ、正しい批評を行なうことができません。この意味で、聖書批評と文献批判とを混同してはならないのです。
  聖書の言語は、その「書かれてあるとおりに」読むべきです。しかし、聖書の言語は、本質的に霊的、すなわち比喩的なものですから、これらの言語を、これらの外にある具体的な事物や自然現象と直接に結びつけようとしてはいけません。そうすることは、聖書の言語の物理的な意味を強調するあまり、これの隠喩的な特質を失わせるからであり、さまざまな「自然現象」を通じて語られる霊的な内容を損なう危険があります。この点を誤ると、「字義どおり」は、人間の理性や知性を抑圧する頑迷な教条主義に陥る危険性があるのです。
  こうして私たちは二つの危険性、聖書の言語を解体して客観的な史実と結びつけようとすること、聖書の言語をこれの外にある物理的現象と直接に結びつけようとすること、この二つに注意しなければならないのが分かります。ただし、私たちは、聖書が「科学的に」正しいことを証明すること、あるいは聖書の内容を「歴史学的な視座」から検証することは、それなりに大きな意味があることを認識しなければなりません。文献批判によって、聖書のテキストの成立過程が明らかにされたこと、あるいは、ノアの洪水が事実であったことが、地質学によって確かめられたこと、これらの成果はとても大きな意味を持つと思います。しかし、たとえ、それが確かめられなくても、聖書を本来の目的に沿って読む者には、本質的に重要でないのです。
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