1章 中国古代王朝の文化と宗教
■中国の古代王朝と文化
 中国古代の文化は、前6000年から前5000年にさかのぼる。中国では、前6000年に、すでに一部の地域で農業が行なわれていたが、それだけでなく、動物の家畜化、製陶技術、青銅器の冶金術なども、おそらく古代オリエントから伝わっていた。これらの技術が伝わったのは、シベリア経由か、中央アジア経由かは定かでない。1921年に、黄河の流域の中程、西安のある陜西(シャンシー)省の半坡(はんぱ/ハンポー)遺跡で発掘されたのが「迎韶(ぎょうしょう)文化」である。迎韶村で彩文(さいもん)土器が発見されたのにちなんでこの名がつけられた。彩文土器は、口の広い赤い椀のような土器の壺で、黒で素朴な魚の紋様が描かれている。口の小さい丸い大型のもので、渦巻き紋様の土器もある〔朝日百科『世界の歴史』(1)28頁図〕。移動する遊牧民は、壊れやすいので、土器を用いなかったから、土器は、定住による農耕が始まった新石器時代の末期(前4365~前4115年)に属する。中国のこの時代の文化が、発掘によって明らかになり始めるのは1950年代以降である〔エリアーデ『世界宗教史』(2)2頁〕。迎韶の彩文文化にやや遅れて、黄河河口により近い済南(チーナン)近くの竜山(りょうざん)で、三足土器の黒陶文化(前3000年~前1500年頃)が発見されている。黒陶の土器は、轆轤(ろくろ)を用いたもので、卵の殻のように薄くて硬い土器で、黒漆のように光るから磁器のようである。河南省安陽での殷の遺跡発掘の際に、迎韶文化層の上に竜山文化層が見つかったから、これら二つの文化層は、前後して重なり合っており、中国の「黄河文明」と呼ばれている。
 今回の章を「中国古代王朝の文化と宗教」と題したが、ここで言う「古代」とは、中国最古の歴史書、司馬遷の『史記』の最初に出てくる本紀(帝王の年代記)の「五帝本紀第一」「夏本紀第二」「殷本紀第三」「周本紀第四」の時代のことである。夏(か)と殷(いん)と周(しゅう)の三王朝を合わせて「三代(だい)」と呼ぶが、かつて黄河の流域には、黄帝(こうてい)、紐柊(せんぎよく)、帝コク(ていこく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)などの名君が存在していたという言い伝えがあり、「五帝」と呼ばれている。黄河流域の中央で、現在洛陽(ルオヤン)のある河南(ホーナン)省に、最古の夏王朝が起こったという伝承がある。夏王朝の始祖である禹(う)王は、大洪水を13年かけて治めることに成功したと伝えられている。しかし、夏王朝17代目の梁王(りょうおう)が暴君だったために、殷の成湯大乙(いわゆる湯王)に滅ぼされたと言われる。堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)の三人は、前23世紀~前22世紀にかけて徳の高い聖王として知られており、後代の儒教は、これら三名君に、湯(とう)、文、武、周公、孔子の5名を加えた8名を儒教的な聖人として理想化した。ただし、占いの卜辞(ぼくじ)や文献の史料で確認できるのは、殷の湯王以降であるから、夏王朝の禹王以前の人物は、半ば伝説的な帝王と見なされている〔週刊朝日百科『世界の歴史』(3)15頁〕他。
 堯(ぎょう)は帝コク(ていこく)の子であり、神の知恵を授かり徳を修めて親族を親しませ、文武百官の職分を昭(あきら)かにし、よろずの邦々(くにぐに)を和(なご)ませたと言われている(日本の年号「昭和」はこの故事にちなんでいる)。堯は天文を観測させ、農耕に必要な暦法(1年366日に閏年を加えた)を制定し、在位70年にして親孝行の評判の高かった舜を民間から起用して帝位を代行させた。
 舜(しゅん)は先の皇帝紐柊(せんぎよく)の6代目に当たる人で、姓は有虞(ゆうぐ)、名は重華(ちょうか)だとある。頑固な父と口やかましい継母と異母弟に悩まされたが、子としての道を守り弟を愛したと言われる。30歳で朝廷に起用されるが、始めは、不徳を理由に起用を固辞したと言う。彼が1年住むと村ができ、2年で町となり、3年で都となったと言う。天体観測により「日月五星」の運行法則を定め、上帝・天神・山川の諸神それぞれに祀りを行ない、諸侯にそれぞれ「公」「候」「伯」「子」「男」の五種の瑞(たま)を授けて任じ(明治の爵位制度「公」「候」「伯」「子」「男」はこれにちなんだもの)、巡行を行ない、度量衡を統一し、刑法を定めた〔週刊朝日百科『世界の歴史』(3)12頁〕。舜は堯の帝位を代行して31年目に61歳で帝位に就いた。その17年後、在位39年で禹を推薦して帝位に就かせた。
 禹(う)は、黄帝の子孫に当たり、夏王朝の始祖である。堯帝の時代に大洪水がおこり、禹の父の扮(こん)が治水にあたって失敗する。堯のあとを継いだ舜帝は、代わりに禹に治水を命じた。禹は益(えき)や后稷(こうしよく)などの部下とともに天下を経めぐって水を導き、農業などの産業を整備した。衣食を粗末にし、身を粉にして働いたことが禹の徳行として称賛されている〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。書経の一つで夏・商(殷)・周の記録を孔子が編纂したと伝えられる『尚書』(しょうしょ)によれば、禹は、現在の中国の黄河と長江との間の広大な地域を分けて行政区画を行ない「冀(き)」「?」(えん)「青」(せい)「徐」(じょ)「揚」(よう)「荊」(けい)「豫」(よ)「梁」(りょう)「雍」(よう)の九つの州を定め、大規模な治水を行なったとされる。禹は平陽に都を定めて夏王朝を開いた。王都を中心に500里ごとの正方形五つを重ねて、周囲2500里を貢(みつ)ぎを収める制度として「禹王五服(うおうごふく)」を定めた。夏王朝は、現在の中国でも理想の国家として崇められている。ただし、夏の文字がまだ発見されていないため、これらの事績はまだ確認されるにいたっておらず、史実のほどは明らかでない。実際の治水は黄河の中流域に限られていたようだ〔週刊朝日百科『世界の歴史』(3)12~14頁〕。以上の3帝は、いずれも争いによらず禅譲によって帝位についているが、これも儒教的な賢人の理想を表わすものであろう。
■中国古代の宗教
 最古の中国の神話や宗教形態を解明するのは難しい。「盤古」(ばんこ)は、中国の開闢(かいびやく)神話にでてくる神である。『三五暦記』に、天地がなお範子(けいし)、すなわち卵のように混沌としていたとき、その中に生まれ、1日に9回変容して成長すること1丈(じょう)、これに伴って天地もそれぞれ1丈ずつ伸びることで、1万8000歳にして天地が形成されたと言い伝えられている。また『述異記』には、盤古が死んで、その頭は四岳、目は日月、脂膏(しこう)は江河、毛髪は草木になったとする「死体化生」(したいかしょう)の説話もある。巨人の死体から万物が生じるという神話は、古代オリエントにもインドや北欧にもみられる。日本の大気津比売神(おおげつひめのかみ)の説話も同じ形式であるから、これは、おそらく朝鮮経由のものであろう。たとえば「陰(ほと)に麦生(な)り」は、朝鮮語で陰は poji、麦は pori であるから、両者はその音の類似によって結合されたと考えられる。この神話は農耕地帯において、農耕文化とともに伝播(でんぱ)したと思われる〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。 
 また、女茅(じょか)は、中国の神話にみえる創生の神である。南方族の洪水説話に伏羲(ふくき)と女茅(じょか)の兄妹、あるいは姉弟の2人だけが助かって夫婦となり、人類の始祖となったという伝説がある(ノアの洪水伝説と類似する)。また共工が紐柊(せんぎょく)に敗れて、怒って天誅(てんちゅう)を祈った時に、女茅が、これを補修したという話が『淮南子(えなんじ)』にでている〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。彼女の身は竜体で、同じく竜体の伏羲と下半身で相交わる図が神像として後の世まで伝わっている〔週刊朝日百科『世界の歴史』(3)12頁図〕。
 中国でも太古の人類の例にならって、村共同体の中央には建物があり、そこは聖なる空間で、豊饒と死と埋葬に関わる祭儀の場であったと推定される。この建物を囲むように、半地下式の民家があるのも新石器時代の他の文化と共通する。子供は、大きな甕棺(かめかん)に収められて、家の近くに埋葬されている。その上部が開いているのは、霊魂が出入りできるためであろう。青銅器時代の殷(いん)では、甕棺は、死者の死後の家であったから、これが祖先崇拝と結びついていた。祖先崇拝は人類に共通する特徴である。赤い彩色土器には、三角形と市松模様と子安貝で構成された紋様(死の紋様)が描かれていて、この紋様は、埋葬用の土器に限られている。紋様は死後の再生や誕生や性的な結合と関連するのかもしれない。二匹の魚と二つの人面で構成された人面魚人紋様は、呪術師や祭司などによる超自然的な存在を表わすのであろう〔エリアーデ『世界宗教史』(2)3頁〕。循環する宇宙観、生存と豊饒、性と死、呪術宗教、祖霊崇拝など、これらは人類に共通する特徴である。
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