2章 殷王朝とその宗教
■殷王朝とその文化
殷王朝(前1600年頃~前1050年頃)は、湯(とう)王が夏王朝の桀(けつ)を倒して創設した。ほんらいは「殷」ではなく「商」と称したらしい。殷王朝は、第30代の紂(ちゆう)王まで続くが、王朝内部に王位継承をめぐる争いが激しく、王位継承の過程は必ずしも明らかでない。しかし、現在の山東省から河南省に及ぶ黄河流域を中心に、中国初の統一王朝を形成し、最盛期に、その勢力は、河南と河北から陝西省中部まで及んだ。殷王朝は、最初その都を河南省の亳(はく)においたが、前15世紀後半、10代仲丁の時に都を現在の洛陽に近い鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)市に遷し、その後も遷都によって都をしばしば変えた。しかし、時代と共に各地に地方的な政治の中心が形成され、この貴族層が殷の王権の障害となり、前13世紀初めに第19代盤庚は、貴族層を排除するため、北の河南省安陽市の北郊に都を移した。この地が当時「殷」と呼ばれたとする説がある。これ以後、第30代紂(ちゆう)王が周によって滅ぼされる前11世紀後半までを安陽市北郊の小屯(しょうとん/シャオトン)村遺跡にちなんで王朝の「後期小屯期」とも言われる。ただし、小屯遺跡は王の宮殿跡ではなく、陵墓と祭祀を行なう場所だったから、王城の遺跡はまだ発見されていない。
殷の政治組織は、武官と文官に大別され、武官には、歩兵のほかに騎馬隊や弓隊などの諸部隊があり、旅団、師団などの単位で編成されていた。文官には、「尹」「史」「作冊」「吏」「縁事」などの官があり、祭祀や記録を扱ったとされる。また、手工業技術に関与した「多工」「百工」「左(右)工」などもあった。官吏には世襲の者も、服属する部族から徴集された者もいる。注意したいのは、このほかに、亀の甲を焼いて、そのひび割れで占う「卜(ぼく)官」がいたことである。殷の史料は、そのほとんどが卜占(ぼくせん)の記録である。女官は「婦」「多婦」と呼ばれ、殷王あるいは王子たちの夫人であると言われるが、巫女のような役割も果たし、時には軍事上の指揮官をも任されたらしい。
殷の時代の経済は農業が中心で、華北では、主としてキビ、アワが、江南ではイネ(水稲)が栽培された(コムギは未確認)。これらの穀物を用いた酒の醸造も盛んで、青銅器の酒器が非常に多い。農具は木製や石製の鋤・鎌などで、新石器時代とほとんど変わらない。青銅製の斧やのみなどは貴族層の兵器あるいは工具として使用された。灌漑などの可能性は認められるが、遺跡や遺物での確証はない。青銅器や玉器の技術など不明の点が多い。繊維製品は、麻が主材料であったが、養蚕による絹織物も生産されていた。子安貝が貨幣として用いられたとする説もあるが疑問である。
殷の文化として特筆すべきは、青銅器の鋳造と文字の使用である。青銅の技術は中国からではなく外来のものであるとする説が多い。銅、錫の鉱石からの分離や合金としての融合技術は、まだ十分ではないものの、石器時代と異なる新しい技術である。中期になると表面に複雑で多様な文様を描出するようになり、器形も大型化して高さ1メートル重さ82キロもある大きな方鼎(立方形の調理用器)なども作られた。殷時代の青銅器文化は、陝西北部、山西、山東、湖南、江西省まで広がっている。三足型や四足型、円形や方形など形も様々であるが、土器や青銅器などが比較的均質であることから、一つの文化が急速に広がったことを示している〔朝日百科『世界の歴史』(6)45頁図〕。原始的な磁器類が、長江(揚子江)流域で発達して、北の黄河流域に伝えられたとみられる。殷の文化圏は、北は遼寧南部、南は湖南南部、西は陝西西部、東は東シナ海沿岸まで達するから、これは前221年の秦の始皇帝が統一したときの範囲とほぼ重なる。統一の文化的基盤が殷後期に成立したと言えよう。
殷から春秋時代にかけて、陵墓の副葬品に馬骨や戦車が出土する。戦車の起源は西アジアにあると思われるが、殷時代には、何頭かの馬に引かせた戦車隊が軍隊の中核を成していた。農民たちも周囲を城壁で囲まれた大小の都市国家に居住していて、国王はそれら都市国家群に君臨していた。とは言え、殷の国家は諸侯の支配を認めた上で、その祭祀を殷の王権に集中させることで成り立っていたから、連合的な性格の王権だったようである〔朝日百科『世界の歴史』(2)25頁〕。
後期になり初めて文字が用いられる。甲骨文字と呼ばれ、漢字の現存の最古のものである。記録の大半が占いの記録なので「卜(ぼく)辞」とも言う。文字は、ほぼ安陽市北郊小屯村一帯でしか発見されず、原始的な絵画文字から進化した文字であるから、この文字の起源もまだ大きな問題である〔『平凡社世界大百科事典』ネット版による〕〔朝日百科『世界の歴史』(2)24頁甲骨卜字図〕〔同(6)47頁甲骨文字図〕。
■殷の宗教
このように、殷王朝では、青銅器の発達、首都を中心とする都市の出現、軍人貴族階級と王権の成立、文字の始まりなどを見ることができる。この時代の祭儀用の青銅器とその紋様の図像学や、王家の陵墓などが殷の宗教生活に関する情報を与えてくれるが、特に注目されるのは、動物の骨や亀の甲羅に刻まれた占いの文字である。ただし、これらは王族を中心とする祭儀宗教であって、当時の神話や神学は未知のままである〔エリアーデ前掲書5頁〕。紋様にある蝉の仮面などは誕生と再生を象徴するのであろう。
当時の宗教は、最高神として「天」があり「帝」と称され、「天」のほかに豊饒を司る「自然」と「祖先の祖霊」の三種の神格化を見ることができる。天(天帝)は、宇宙と自然現象を支配するだけでなく、豊饒と王の勝利をも保証するものであるが、人類の宗教で一般に見られるように、天帝は、至上神として、厳しい自然災害や戦乱の危機の時以外に呼び求められることがなく、殷時代の後期では、しだいに祖先崇拝の祭祀のほうが重視されるようになる。このことが諸侯の権力を強め、殷王朝の弱体化につながったという見方がある〔朝日百科『世界の歴史』(2)26頁〕。
天帝を執り成すことができるのは、王家の祖先だけである。王は王家の先祖からの助けを得て、「比類なき人間」としてその権威を強化する。饕餮(とうてつ)と呼ばれる怪獣の紋様(太陽の両脇に二羽の鳥を配した組み合わせ)が青銅器に彫られているが、これは上帝を象徴するものらしい〔朝日百科『世界の歴史』(2)26頁図〕。殷王朝の支配は、王家の先祖の呪術的な宗教の力によるところが大きい。祖霊崇拝は石期時代に始まり、農耕民族の宗教の本質を成すもので、殷の貴族階級から一般人にいたるまで、祖先崇拝が重視されていた。王の祭祀は、先王たちをそれぞれの即位の順に祭る五種類の祭祀として系統的に行なわれた。祭儀の具体的な様子は明らかでないが、この五種の祭祀が一巡するのに360日前後を要したから、これを「一祀」として数え、王の即位年数を十三祀などと表現した。祭祀表のカレンダーの基礎は太陰太陽暦で、閏月を設けて太陽の運行を調節し(殷暦)、星などの観察も行われていた〔ネット版平凡社『世界大百科事典』〕。
王は、天帝や神々に捧げる犠牲と先祖に捧げる犠牲と、二種類の犠牲を執り行なった。「犠牲」に「一年」の意味があるように、犠牲の祭儀は日常に行なわれ、安陽近くの王の陵墓では、犬や馬など動物の骨と共に無数の人間の犠牲が発掘されている。人身犠牲は殷代の上帝崇拝の盛んな早い時期に集中している。五体完全な殉死者(90人)から斬首された頭骨だけのもの(1930人)までを含む墓が多数発見されている〔朝日百科『世界の歴史』(2)25頁〕。殷の紂王は、周辺の遊牧民を捕らえて、日ごとに二十人の犠牲を捧げたと伝えられている。犠牲は陵墓にとどまらず、神殿や宮殿などの建築物にも捧げられた。これらの複雑な犠牲の祭儀は、暦と結びついて、占い師、祭司、シャーマンなどの聖職階級が執り行なっていたと思われる〔エリアーデ前掲書6~7頁〕。