3章 周王朝とその宗教
■周王朝
 周は前1028年~前256年の770年間にわたる中国で最も長期にわたる王朝である。その後期の東周時代(前8世紀~前3世紀)は「春秋時代」と呼ばれて、中国の伝統的な文明が開花し、孔子を始め「諸子百家」と呼ばれる学者や学派が生まれた。今に遺る周の碑文には、文王、武王、成王、康王、昭王、穆(ほく)王の6代にわたる王の事績が記されている〔朝日百科『世界の歴史』(2)29頁〕。周は殷の西域にあって殷の支配下に置かれていたが、文王の頃から次第に力をつけた。『史記』によると、武王は、堯帝の農官であった后稷(こうしよく)の15世代後の子孫であると言う。武王は、前1050年ころ殷の紂王を牧野(河南省)で破り、比較的容易に殷を倒して周王朝を創設した。武王の後を継いだ成王が幼少だったため、彼の叔父の周公旦(武王の弟)が一時政治を行った。しかし殷の監視のため東方に派遣されていた管叔(武王の弟)らは、周公が王位を奪おうとしていると疑ったために反乱を起こした。これに殷の旧領を支配していた紂王(ちゅうおう)の子の武庚(ぶこう)が加担したから、大動乱になったが、周公は成王の命を受けてこれを鎮圧し、殷の勢力を一掃して、周の支配を確立した。彼は洛邑(らくゆう)を建設して「成周」と呼んで東方支配の拠点とし、西の都を「宗周」と称した。彼は各地に一族や功臣の有力者を封建して諸侯とし、土地と民とを支配させた。周王は諸侯を統制することによって東方を支配しようとし、周公旦の子である伯禽(はくきん)を魯(ろ)(山東省曲阜県)に、武王の弟の子(弟とも言う)である召公鰍(しょうこうせき)を燕(北京市西郊)に、武王の弟である康叔を衛(河南省淇県)に、功臣の太公望(たいこうぼう)と呼ばれる呂尚(ろしょう)を斉(せい)〔山東省の臨克(りんし)県〕に封じて支配させた。これが周の封建制度である〔ネット版平凡社『世界百科大事典』による〕。周の最大版図は、黄河流域の殷の版図を含みつつ、北は渤海沿岸を含み、南は長江まで拡がっている。
 第4代昭王の時には、東・南方の夷(い)と呼ぶ部族がしだいに強力になり、周の東南進出は停止した。このために行なわれたのが夷狄(いてき)を防ぐ「尊皇攘夷」である。昭王も南征の途中で死んだと伝えられている。第5代穆王(ぼくおう)のときに一時西北に進出したが、以後周の勢力は宗周と成周を結ぶ地域に限定された。第6代共王の前後から、王朝内部で貴族層の再編成が行われ、限られた地域内で貴族層の地位と秩序を維持する方策がとられた。また秩序維持のために王朝における儀礼が重視され制度化された。しかし周王の統制力が緩み始めると、貴族と諸侯の間で土地や民の売買が行なわれるようになり、周の封建制度が揺らぎ始めた。第10代鉛王(れいおう)は王室の回復を図ったが、これに反対する貴族たちに追われ、前841年に吃(てい)(山西省霍県)に亡命し死亡した。この亡命期間、有力貴族であった共伯和が政治を代行した(共和制時代)。鉛王の死後、子の宣王が即位して、南進を企てたり、北方の蛮族の南下を阻止したが、王権の強化を急ぎすぎたために、再び貴族の反抗を招いた。12代の幽王は失政が多く、申皇后と王位継承の太子である宜臼を廃位させて、代わりに愛妾の褒滑(ほうじ)を皇后に任じて、彼女の子である伯服を王位継承の太子にしたため内乱が生じ、幽王は外敵に殺され、周王朝は一旦滅亡した。しかし、ほんらいの正統の太子である宜臼は、東の成周に逃れ、即位して平王となった(前770年)。これ以後は東周時代(春秋・戦国時代)となり、周王室の力は失われることになった〔以上は主として平凡社『世界百科大事典』ネット版による〕。
■周の封建制度
 『尚書』(しょうしょ)によれば、文王は天の上帝から「天の有する大命」を授かり、武王がこれを受け継いで、殷に勝利したとある。天は王の徳/不徳に応える存在であり、紂王が滅びたのはその「不徳」のゆえである。以後周王朝は、天(上帝)からの天命をその王権の拠り所とした。これが「天命思想」である。しかし、周は上帝だけを王権の根拠としたわけではない。殷同様に、先祖の祭祀も統合の重要な基礎であった。周王朝は、同族の氏族共同体を重視し〔これを「邑(ゆう)」と呼ぶ〕、邑以外の諸侯には、公・候・伯・子・男の官位を授けて、地方に封建した。邑では、50を超える周の同族が地方の要地に置かれ、同族の結束を固めると共に地方の諸侯を軍事的に支配した。諸侯は長子相続制度を基本理念とし、王朝と諸侯は本家と分家の関係に対応する「法宋制度」を採用した〔朝日百科『世界の歴史』(2)27頁〕。最大の本家である周王には周族が結集し、このために祖先を祀る宗廟が重要な祭祀的意義を有していた(一族の結束と繁栄を図る宗廟の風習は現在でも東南アジアの華僑の間に遺っている)。陝西省の岐山県にある周原は周の本拠地だとされているが、そこの鳳雛(ほうすう)村で、1976年に西周時代の立派な遺跡が発見され、これは当時の宗廟の跡だと考えられている〔朝日百科『世界の歴史』(2)27頁図〕。この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王(たんおう)の時に秦(しん)によって完全に滅ぼされた。前771年を界として、それ以前は、都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東に遷ったので東周時代(春秋戦国時代とも言う)と呼ぶ。周が王朝としての実力を堅持していたのは主として西周時代で、山東省の斉(せい)の桓公や山西省の晋(しん)の文公などの有力な諸侯は「覇者」と呼ばれた。こうして北から晋(しん)、斉(せい)、衛(えい)、魯(ろ)、秦(しん)、曹(そう)、周(しゅう)、鄭(てい)、宋(そう)、楚(そ)、呉(ご)、越(えつ)などの春秋時代が始まることになる。
■周の文化
  周の版図は殷のそれを中心としているから、最近の発掘によって、周の文化は殷のそれをほぼ受け継いでいることが分かってきた。西周前期の陶器も青銅器も形や紋様において殷のものと区別できないほどである〔朝日百科『世界の歴史』(6)45頁図〕。青銅器の銘文の文字、発見された文王から昭王の時代に至る甲骨文の字体、語法も基本的には殷後期と同じである。ただし、周前期には、銘文がしだいに長文になり、1ヵ月を月相によって四分する語があらわれる。また青銅器では方座をもった辛(き)が造られ、兵器の戈がより有効なものに改良されている。周前期の文化圏は、北、南とも殷よりやや拡大する。前950年ころの第4代昭王のときから中期になる。青銅器では、酒器が減少し多様性も失われる。文様では殷から周前期にかけて主流である饕餮(とうてつ)紋様が崩れて、岳鳳(きほう)の紋様が多くなり、山形の紋様、鱗の紋様などが出現する。この変化は、祭祀儀礼の変化を意味し、紋様の変化は霊魂観念に変化が起きたことを示す〔ネット版平凡社『世界百科大事典』による〕。
 山東省の曲岐(きょくぎ)県で魯の時代の城下都市の跡が発掘された。この都市は西周時代の後期に建設されたと考えられている。東西3.5キロ、南北2・5キロの土の城壁で囲まれていて、都市の中央には周公廟を中心に宮殿が配置されており、宮殿の北側と東側には民の居住地がある。西側には広大な墓地があり、南部には広い敷地に礼廟が配置されている。宮殿の周囲には、青銅器、鉄器、土器、骨器の工房や職人の住居がある。魯は孔子の生誕地であり、孔子との関わりが深いから、礼廟は孔子のためであり、ここは孔子の聖地として知られていたようである〔朝日百科『世界の歴史』(2)29頁図〕。
 中国の建築については、古代の帝王がそこで政教を明らかにしたとされる「明堂 (めいどう)」と呼ばれる建物がある。政治、儀礼、祭祀、教育などの国家の重要な営みはすべてそこで行われた。後代には、「圜丘(えんきゆう)」という天をまつる壇や宗廟や、学校にあたる辟雍(へきよう)などに分化していった。明堂は『周礼(しゆらい)』や『礼記(らいき)』などに記されているが、その具体的な規模についてはよく分かっていない。漢の時代には「儒教の殿堂」として徳治政治の拠り所とされた。「明堂」は、さらに意味が転じて、大宇宙を表わす星座の名や房宿のこと、医学では小宇宙を表わす人体の経絡(けいらく)や孔穴(つぼ)の部位を図示した「明堂図」、道教では体内にある「宮」の名などを意味するようになった〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。
■周王朝の宗教
 周王朝の初期の宗教神は、「天/上帝」と称される天空神で大熊座に住む人格的な存在である。この神は千里眼を具えていて、あらゆるものを見聞し、その命令は絶対に誤りがないから条約や契約の際に呼び出された。全知全能のこの「天」は、孔子を始め諸学派によって崇拝されるが、これらの学派によって「天」はしだいに原理化され、宇宙の原理や道徳律の根拠へと変化する。神話的な擬人化から原理化へのこのような変容は、インドのブラフマン、ギリシアのゼウス、ヘレニズム哲学でも見られる傾向である〔エリアーデ『世界宗教史』(2)8頁〕。
 「天」はまた「天命」を授かる王権の守護者であり、王は「天の息子」であり「上帝の摂政」である。王は、干ばつや洪水などの自然災害、日食などの天変地異、農耕の季節などを天に代わって司(つかさど)ることになるから、王は政(まつりごと)として犠牲を捧げなければならないし、犠牲を捧げることができるのは、原則として王だけである。王権の拠り所は、上帝だけでなく、すでに見たように、祖先崇拝も重要な意義を帯びる。祖先崇拝は殷の時代の様式がほぼそのまま周王朝にも引き継がれている。ただし、殷時代の「甕棺(かめかん)の家」は、周王朝では位牌(いはい)として、その息子によって祖廟に安置され、飲食を捧げて祖霊を呼び出す複雑な儀式が執り行なわれた〔エリアーデ前掲書9頁〕。
 周時代には、王の畑に蒔く種子は、天の息子(王)ではなく、女王の住まいに保存された。ここに母系社会の「母なる大地」の名残を見ることができるかもしれない。家の土地の神々、王や領主の領地の神々は、それぞれ階層ごとに組織化されていて、祭壇は通常屋外に設けられた。大地が天のものとして中性化するのは、父系社会においてである。
 ただし、古代の中国は決して均一ではなく、辺境には、タイ族、ツングース族、トルコ族、モンゴル族、チベット族などが居住したから、言語も文化も宗教も統一されてはいなかった。漢民族の思想家たちはこれら辺境の民を「夷狄(いてき)」として斥(しりぞ)けたが、北方モンゴルのシャーマニズムや、後に道教にとりこまれる宗教的なエクスタシーの技法などは外来のものであろう〔エリアーデ前掲書10~11頁〕。
 実はこの場で、儒教の祖となる孔子の『論語』を、続いて、道教の祖となる老子の『老子』を採りあげるべきところであるが、この両者は、次の章で扱うことにする。
           古代中国の王朝と宗教へ