6章 老子
■老子と道教
 ここで道教の祖とも称される老子について、ほんの一言だけ触れておくことにする。老子の言葉を伝える『老子』(正式には『老子道徳経』と呼ばれる)は、戦国時代の代表的な著書だとされている(前4世紀~前3世紀初頭の作?)。老子の後を継いだ戦国時代の荘周(そうしゅう)も、『荘子(そうし/そうじ)』を著わし、荘周(荘子とも呼ばれる)は、老子と共に「老荘」と並び称されている。
 老子は道家の開祖とされる人物であるが、生没年は分からない。その著述と伝えられる書物も『老子』と呼ばれる。老子に関する最古の伝記資料である『史記』の「老子列伝」によれば、姓は李、名は耳(じ)字(あざな)は舛(たん)といい、楚の苦県(こけん)(河南省鹿邑県)の人である。かつて周の王室図書館(守蔵室)の役人であった。老子は、周室の衰運を見定めるや西方へと旅立ち、途中で、関(かん)を通った際に、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて「道徳」に関する書、上下2編を書き残し、いずくへともなく立ち去ったと言われる。しかし、『史記』の記述をそのまま歴史的な事実と見ることはできない。現在では、老子は、孔子(前551年~前479年)にややおくれて、前400年前後の人物とする説や、架空の人格とする説などがあるが、前5世紀に道家思想の先駆的な実践者として老舛(ろうたん)なる人物の存在を推定することができる〔蜂屋邦夫訳注『老子』ワイド版岩波文庫363頁〕。
 老子の伝記のこのようなあいまいさは、後漢から六朝時代にかけて、仏教の流行と道教の成立につれて、老子は関を出たあと天竺(てんじく)に行って仏教を興したという説話や、各朝代ごとに転生して歴代帝王の師となったという老子の転生説話が生じたことにもその原因がある。後漢時代には、老子の神格化が始まり、宮廷での祭祀が行われたが、やがて道教の始祖として「太上老君」として神格化された。
 一方『老子』書については、「道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地之始。有名、萬物之母」で始まり、全体が81章の断片的な章で成り立っている〔岩波前掲書〕。各章は、格言的性格をもつごく短い有韻の短編の集積であって、全編を通じて固有名詞や作者の個性を感じさせる表現が見られない。もともと口伝による道家の成句が敷衍(ふえん)されて、ある時期に一書にまとめられたと考えられる。その原型は前4世紀末には成立していたと推定されるが、現行本の成立は漢代である。『老子』は、内容が難解な上、多様な解釈が可能であるから、古来おびただしい注釈書が著された。代表的なものに、魏の王弼(おうひつ)の注と、ややおくれる河上公の注がある。なお、近年、湖南省長沙の馬王堆漢墓から発掘された帛書(はくしょ)本『老子』は、現存最古のテキストとして重要である〔ネット版平凡社『世界百科大事典』参照〕。
■老子の教え
 老子の思想の根本は、一切万物を生成消滅させながら、それ自身は生滅を超えた宇宙天地の理法としての「道」(どう/タオ)である。この道の在り方は、一般に「無為自然」という言葉で表されているようであるが、これを体得した人物を「聖人」という。「上徳は為すこと無くして、而(しか)も以って為すこと無し」(高い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはせず、しかも何の打算もない)〔岩波訳『老子』38章〕とある。司馬遷の『史記』には、孔子が老子のもとを訪れて教えを請うたが、「傲慢な姿勢とすべての欲を捨てよ」と言われて、孔子は茫然として引き下がったとある。だが、これは創作である。しかし、この記事は、二人の偉大な宗教的人物が、相容れないものをもっていたことを洞察している。老子は、孔子のような儀礼の重視、社会的な価値の尊重と合理主義には批判的である。儒家にとって「仁」と「義」こそ最大の徳であるが、老子は、これらを人為的として、むしろ「無為自然」を説いている。「無為自然」が失われる時には、「道を失いて而(しか)る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて、而る後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにして、乱の首(はじ)めなり」(道を捨てると仁に頼り、仁を捨てると義に頼り、義を捨てると礼に頼る。礼は忠と信のうわべにすぎず、混乱の始まりとなる」と言う〔岩波『老子』38章〕。老子の思想では、万象の始まりに「一」があり、これが分裂するところに、萬物が現象し始める。「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、神(しん)は一を得て以て霊(くす)しく、・・・・・萬物は一を得て以て生じ」(『老子』39章)とある。このあたり、新プラトン主義の祖といわれるギリシアの哲人プロティノス(紀元205年?~270年)が唱えた「モナド(monad)(単一なるもの)」の分裂による万物の形成を想わせる。
 老子によれば、人は隠れて無名の生活をしなければならない。公的な生活を避けて名誉を軽視することは、孔子の理想とする君子のありようとは正反対である。ところが、老子は隠棲の「道」を説く一方で、現実世界で真の成功者となるための聖人の処世、政治の具体策をもくり返し説いている。他と争わない、外界にあるがままに順応する、因循(いんとん)の処世術、人為的な制度によらず人民に支配を意識させない「無為無事」の政治こそが、政治を行なう君主の道だと強調される。「無為の道こそ万策に適合する」、こういう現実主義こそ老子ほんらいの思想の核心であった〔エリアーデ『世界宗教史』(2)22~23頁〕。
 魏・晋の時代(紀元220年~316年)以後は、老荘の学は、その流行にともなって深化される。老子の「道」は、窮極において神秘であり不可解であり、あらゆる創造の根源を意味する。「言葉で表現できる道は永遠ではない」のである。老子の説く「空(くう)」は、暗い谷を思わせる「世界の母」としての豊饒と母性をも含んでいる。人間の男性的要素と女性的要素を併せ持つ両性具有の「幼児の姿」を通して、生命の周期的な更新が可能になる。陰陽の宇宙的で社会的な統一は、生死をも超越し、「空」において、みずからを宇宙の循環の外に置くことができる。聖人の道は不死の道であり、道の修行者は肉体的な不死を獲得するにいたる。こういうエクスタシーへの道は、万物の起源への旅であり、時空から解放された霊魂は、生死をも超越して永遠の現在を再発見すると言う〔エリアーデ前掲書26~27頁〕。
 なお日本では、早く、聖徳太子の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』中に『老子』からの引用が見られるが、その思想に対する理解が深まりをみせるのは、鎌倉・室町時代の禅思想と、老荘思想の普及以後である。江戸時代には、当初『老子』を儒家的立場で解釈した朱子学の林羅山(はやしらざん)(1583年~1657年)らによって老荘思想が説かれたが、やがて朱子学の荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666年~1728年)の学派による文献学的な研究によって、『老子』の原義の追究に多大な成果を挙げた〔ネット版平凡社『世界百科大事典』を参照〕。
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