7章 道教
道教について
 以下の道教については、ネット版の平凡社『世界百科大事典』から、関連する諸項目を集めて私なりにまとめたものである。特に、日本最古の文献への道教の影響については、その引用例が大巾に縮小してある。ここで扱うのは宗教としての「道教」であって、道家学派の哲学のことではない。「道教とは何か」――この問題に対して研究者のあいだで見解が一致していない。問題の第一点は、中国の古代から中世の思想史において、「道教」という言葉が実際にどのような思想として用いられてきているかがあり、それが中国土着の民族宗教としての「道教」とどうかかわっているかがある。第二の問題点は、中国の民族宗教としての道教が、唐代から宋代の初期(紀元618年〜1000年頃)にいたる道教の学者たちによって、どのような宗教として自覚され、教理が体系化されたかにある。
 中国の思想史において、「道教」という言葉が最も古く用いられているのは、前4世紀頃に成立したと推定される『墨子』の「非儒篇」と、前3世紀頃の成立だと推定される「耕柱篇」においてである。「非儒篇」では、儒者、すなわち当時の孔子の学派の儒学者たちが、自分たちの教を「道教」と呼ぶのは正しくないと批判を行なっている。さらに「耕柱篇」では、墨家の学者が、墨子の教説こそが真正の「先王の道教」であると強調している。「先王」とは、中国の最古代の夏・殷・周の三王朝の聖王たちが実践した政治を規範とすることを意味する。儒者は、その規範を早くから「道教」と呼んでいた。しかし墨子の学者たちは、儒者のいわゆる「道教」(「先王の道」)を「似て非なるもの」だと批判して、自分たち墨子の学派こそ真正の「道教」であると強調した。だから、中国の思想史において「道教」という言葉を最初に用いたのは儒家の学者たちであるが、次いで墨家の学者たちが、儒学者の「道教」を批判し是正する意味で「道教」を用いた。墨家のいわゆる真正の「先王の道教」とは、夏王朝の禹王以来の上帝鬼神への宗教的な信仰のことであり、その祭祀の宗教儀礼の誠実な実践を根幹とするものである。墨子の学者は、儒者が、こういう宗教的な根幹を軽視もしくは無視していると見たのである。だからこそ、儒家のいわゆる「道教」が似て非なるものだときびしく批判した。ここでは儒家もしくは儒教が自称する「道教」が、墨子の上帝鬼神、すなわち天神の信仰の立場から否定的に批判されている。
 ところが、紀元前後に、今度はインドから中国に伝来した仏教もまた、自分たちの宗教的な立場を呼ぶのに「道教」という言葉を採り入れているのである。インド伝来の仏教が、中国において自己の教を「道教」と呼ぶのは、仏教哲学の根本であるサンスクリット語の「菩提」が、老荘の道家哲学の根本である「道」を用いて漢訳されたことにもよる。三国の魏の時代(紀元220年〜265年)に漢訳された『仏説無量寿経』では、訳文中に四ヵ所も「道教」の語が無量寿仏の教えである仏教を意味して使用されている。こうして「菩提の教え」が「道の教え」、すなわち「道教」と呼ばれるようになる。
 漢民族の宗教としてのいわゆる「道教」が、みずからの教えを道教として意識し、対外的にも道教と呼ぶようになるのは、中国仏教のそれよりも後のことである。「道教」が教理として文献に出てくるのは、北魏の歴史を記録した『魏書』(554年)においてである。『魏書』の「太上老君」(老子)の神勅の中に見える「道教」の語は、中国古来の伝統宗教を呼ぶ言葉である。この道教は、さらにインドからの外来宗教である仏教と対立されることになる。外来すなわち「夷」の宗教に対する中国固有の「夏」(か)に由来する「中華」として、道教の独自性が強調されているのは、南朝(南斉)の道士顧歓(420〜83年?)の書いた『夷夏論』である。そこでは、それまで、インド伝来の仏教を指す言葉でもあった「道教」が、もっぱら中国固有の伝統的な宗教を指す言葉として確定されていて、この「道教」を仏教とまっこうから対立させて、「夏」の宗教である道教が「夷」の宗教である仏教に優越することが強調されている。
 インド伝来の仏教に対して中国固有の宗教を意味する道教の語が、中国の思想史においてその用法を定着させるのは、上述のように5世紀の半ばころ、南朝においては劉宋の時代、北朝においては北魏の時代であるが、その後の中国社会において、仏教と競合する二大宗教としての道教が、その教理と儀礼と宗教哲学を完成させた。道教は、いわゆる唐代道教の黄金時代を迎え、皇帝貴戚以下、官僚政治家、学者知識人、一般民衆に及ぶ広範な層の信奉者を獲得するにいたる。
■道教の代表的文献
 11世紀の初め、熱烈な道教の信奉者であった北宋の皇帝真宗の勅による『雲蓉七籤(うんきゅうしちせん)』120巻(実際の編纂責任者は道士の張君房)が出る。『雲蓉七籤』の特徴は、道教とは何かを主としてその経典類によって明らかにしていこうとする点にある。『雲蓉七籤』では、漢訳仏典もしくは中国仏教の用語、いわゆる仏教漢語が各所に多く用いられていることもその特徴である。仏教漢語を根底において支える仏教的な思想も少なからず持ちこまれてきている。みずからを「道教」とも呼ぶ漢訳の中国仏教が、それほど抵抗もなく、中国固有の宗教であることを強調する道教に全面的に取り込まれている。かつて仏教を「夷」の宗教として非難攻撃した排外的な態度は、ここではまったく見られない。仏教は、漢訳されれば、もはや中国人の宗教とされて、中国伝統の宗教を代表する道教の中に完全に組みこまれている。『雲蓉七籤』において、道教は、漢訳の中国仏教を再び道教と理解して、中国の宗教として受け容れていると言えよう。
 『雲蓉七籤』の道教の教理では、漢代以後の儒教思想のうち、とくに『易』と『春秋』の儒学、天神の祭祀を中心とする『儀礼』(ぎらい)『周礼』(しゅうらい)『礼記』(らいき)のいわゆる三礼(さんらい)の学、また儒家の「天人相関説」と、これに関連する上帝鬼神の災異信仰などが重要な位置を占めて導入されている。『雲蓉七籤』では、その上に、中国の古代の儒家の道教を批判しながら道教の正統性を強調している墨子ないしは墨家が、「先王の道教」を神仙的に道術化して実践する者として記載されている。漢・魏時代の「真道」としての道教が、『雲蓉七籤』における道教の全体的な基盤となっていることが分かる。
 要するに『雲蓉七籤』の道教は、古来道教と呼ばれることがあった儒教や中国仏教、みずからを道教として積極的に主張した墨子の学派をそれぞれ内部に組み込んでいて、儒教や中国仏教を対立的にとらえたり、批判し排除する立場を取っていない。『雲蓉七籤』における道教とは、中国の古代から中世にいたる思想史において、「道教」と呼ばれたすべての宗教思想あるいは呪術・道術を整理総合して、幅広く集大成したものである。
 道教とは中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤として、その上部に墨家の上帝鬼神の思想、儒家の神道と祭礼の哲学、老荘道家の「玄」と「真」の哲学、さらには中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理や儀礼を重層的、複合的に取り入れることで、隋・唐・五代の時期に体系と儀礼を完成するにいたった。「道(タオ)」と称する宇宙と人生の根源的な真理と、実在世界の不滅とが一体になることを究極の理想とする漢民族の土着的な伝統宗教なのである〔以上はネット版平凡社『世界百科大事典』に基づく〕。
■日本の陰陽道と道教
 これまで道教は日本の文化に対してほとんどみるべき影響を与えていないと考えられてきた。その大きな理由としては、日本には神代の昔から固有の宗教思想として「神道(しんとう)」があるから受け入れる必要がなかったか、受け入れを拒んだからだとされる。しかし、「神道」という言葉は、その教義の中枢をなす「大神」(天照大神)、「神宮」(伊勢神宮)、「斎宮」や「神器」(三種の神器)、さらに「天皇」「上皇」「紫宸」「大極」などの言葉と同じく、もとは漢語であり、中国古代の宗教思想、つまり道教の用語であった。「神道」という中国語が日本古代で初めて用いられているのは、720年(養老4年)、元正天皇の時代に成った『日本書紀』である。『書紀』で用いられている「神道」の意味は、中国の後漢時代の中頃、山東琅邪(ろうや)で成立した「神書」と呼ばれる『太平清領書』(道教の一切経『道蔵』の「太平経」)で多く用いられている用法に近い。
 日本において最も古く道教の影響が読み取れるのは、7世紀の後半、『古事記』の原型とされる「帝紀」を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させている天武天皇の治世である。天皇は、684年(天武13年)に、「八色(やくさ)の姓(かばね)」を定めて、その第一位と第五位に、道教の用語である「真人」と「道師」を用い、死後にはその諡(おくりな)に道教の神仙信仰をそのまま表す「瀛真人(おきのまひと)」の三字が用いられている。
 『古事記』でも、道教の教理の影響が随所に読み取れる。例えば、冒頭の「天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は天御中主(あめのみなかぬし)神、次に高御産巣日(たかみむすひ)神、神産巣日(かむむすひ)神。此の三柱の神は並(みな)独り神と成りまして身を隠したまひき」とあって、世界の始まりを独り神で身を隠している三柱の神から語り始めている。天地の開闢を独り神で身を隠している三神から始めるのは、中国の南北朝の時代、6世紀に成立した道教の経典『九天生神章経』などの記述に「空洞の中に隠れた三気の尊神」とあるのに基づく。
 『万葉集』巻二の柿本人麻呂の天武の皇太子草壁の死を悼む歌に、「飛鳥(とぶとり)の浄(きよみ)の宮に 神ながら太敷きまして 天皇(すめろき)の敷きます国」と歌って、天皇(てんこう)の2字が「王」「大王」に代わって用いられている。
 中国の史書にならって漢文で書かれている『日本書紀』においては、神代の巻冒頭の「古天地未剖、陰陽不分云々」〔古(いにしえ)、天地未だ剖(わか)れず、陰陽分かれず云々〕の叙述を初め、同じく伊弉諾(いざなき)尊の「用桃避鬼之縁」(桃を用いて鬼を避くるの縁)、神武紀の「郊祀天神」(天神を郊祀する)、垂仁紀の「常世国則神仙秘区」〔常世国(とこよのくに)は則ち神仙の秘区なり〕など、道教の教理を踏まえた表現が少なくない。『日本書紀』で、道教の二種の神器である「剣鏡」が、そのまま日本国の天皇の神璽とされていることなどがある。伊勢神宮に多紀皇女らを派遣しているが、伊勢神宮の「神宮」という言葉も中国古代の宗教用語であり、道教と密接な関連をもっている〔ネット版平凡社『世界百科大事典』による〕。
 元正天皇の養老2年(718年)頃に成立した養老律令では、道教と関連する記述がほとんど見えない。中国の律令制を根底から支える政治哲学は儒教である。古代日本の律令制定は、天智天皇の治世の近江令(7世紀)を始め、漢代の儒教が強調する「忠孝」の教を根底に置いている。とくに藤原不比等を責任者とする養老律令では、儒教から区別された道教は、君父を無視する教えであり、忠孝の教えに無益であるとして排除された。養老令に道教もしくは道教の学術に関する言及がまったく見られないのはこのためである。それにもかかわらず、道教は、隠れた形で養老令にも持ちこまれている。例えば、「凡そ天神地梢は神梢官皆常典に依りて祭れ」と規定している。また「凡そ践祚の日(中略)忌部、神璽の鏡剣たてまつれ」「凡そ六月、十二月の祁の日の大祓には(中略)東西の文部、祓の刀たてまつりて祓詞(はらいごと)読め」と規定しているのが道教の影響である。中務省に所属する陰陽(おんみょう)寮では、陰陽頭(かみ)の職として、「天文、暦数、風雲の気色、異(あや)しきこと有らば、密封して奏聞せむ事」と規定し、その属僚として「占筮して地を相(うらな)う」ことを職とする陰陽師6人、陰陽生(定員10人)を教育指導する陰陽博士一人、「天文の気色を候(うかが)い、異しきこと有らば密封する」ことを職とする天文博士一人などが記載されている。これらの陰陽頭や陰陽博士などの職は、道教の教理あるいは道術を持ちこんだもので、道教を学習し修得することなしに、その職務を遂行することができない。
 4世紀以降で、中国の南北朝時代から11世紀末までの隋・唐・五代・宋にいたる道教思想の根底をなすのは、『易』の陰陽五行を中心とする哲学と、『老子』の「道」と「玄妙」の哲学である。日本における道教の影響を考え直すためには、日本固有の神道とされ、陰陽道とも呼ばれてきた呪術宗教のすべてを、中国の道教の教理である『無上秘要』と『雲蓉七籤』の内容と詳細に比較検討していくことが求められるであろう。
〔ネット版平凡社『世界百科大事典』による〕
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