コロナ危機の日本(2)
何をどう信頼するのか?
(東京集会:2020年5月9日)
前回は、今世界で起こっているコロナ危機の際には、自分はどうすればいいのか、この肝心のことは誰も教えてくれないこと、その上、信頼できるはずの医療さえも、結局は一般論ですから、この「自分」は、いざその医療に与ろうとすれば、どの医療機関のどの医者にするのか?そもそも「何時」それをやるのか?これらを決めるのは自分ですから、医療の場合でも、「なにをどう信じる」のかを決めるのは、結局のところ「自分一人」です。若い人にはコロナ菌でも、年寄りにはコロリ菌です。科学も医療も、最終の信頼をどこに置くのかを決めてはくれません。
私たちクリスチャンには、自分の判断によらず、神を信じ、イエス様を信じ、イエス様の御霊のお働きを「ただ信じる」道が備えられています。しかし、日本では、私たちは少数派で、このコイノニアの交わりの場から一歩外へ出れば、そこで出逢う人たちは、ほぼみんな、イエス様を知らない人たちです。では、その人たちは今どうしているのでしょうか? 今日は、この点についてお話しします。今、世界中の人たちがやっている「信頼と信任」の拠り所は、大きく三つの「型」(タイプ)に分けられます。
(1)まず「自己判断」です。人の意見をいろいろ聞いても、結局は、誰にも何にも頼ることをせず自分だけで判断し、その自己判断をどこまでも「信じる」タイプです。これには強い意志と決断力が要ります。こういうタイプは、アメリカに比較的多いです。だから、アメリカ人は、トランプがどう言おうと、メディアがどう騒ごうと、自分で勝手に決めて行動しますから、人々に奉仕する天使のような人も居れば、核シェルターを買って備える大金持ちもおり、感染しようが死のうが何にもできずに黙って仕事する人たちもいます。政府の呼びかけに抗議運動する人もいて、実にさまざまです。自由とやりたい放題とは紙一重です。アメリカで死者と感染者が多いのは、社会的な格差が大きいからで、感染者と死者は、圧倒的に黒人やヒスパニックなどが多い。彼らは、誰が何を言おうと無関係で、いつも通りに生活するしかないのです。恐らく今後、コロナによって国中がバラバラにされ、人々の間で格差がいっそう広まるでしょう。こうなると、個人の自由の「民主主義」か、自己勝手の「民衆主義」か、「デモクラシー」か「デモクレイジー」か、見分けがつかなくなります。
(2)もう一つのタイプ、それは、今、中国で行なわれていることを見れば分かります。中国の中央政府は、コンピューターによる「人工知能」(AI=artificial intelligence)の機能を駆使して、なんと10億近い国民の一人一人を監視する体制を整えつつあるというのです。武漢の感染者は、全員政府からスマホを手渡されます。そのスマホで、個人個人の日常が、中央政府の管理室からこと細かく監視されます。 スマホの所有者は、誰とどれだけ接触したかが中央政府によって管理されますから、「自己判断」は許されません。こうして、ウイルスに感染した人の管理を徹底させ、今や感染が治まったとされています。感染者が出ると、その町ごと、地域ごとにAI技術で完全封鎖するからです。
こういう体制を可能にしているのが、中国が開発しているスーパーコンピューターと人工知能、これを管理し活用する頭脳集団です。これが「21世紀のハイテク独裁」と言われるものです。中国では、これが、国家権力によって国家規模で行なわれています。中国は今これで世界を征服しようと計画しているようです。実は、この事情はアメリカでもそれほど変わりません。今はやりのユバル・ハラリが、『ホモ・デウス』(神様人間)で指摘しているのがまさにこのことです。そこでは、科学技術の発達によって起こるであろう世界規模での人類の将来の姿が暗い予測で描かれています。自己判断か、国家判断か? 昨年、香港で生じた騒乱が、まさにこれなのです。
(3)自由な「自己判断」か?政府による指導か? 実は、この他に、もう一つ選択肢があります。それは「みんな」です。「みんな」と同じにやれば安心で間違いないという信頼関係です。コロナ対策で、日本は、禁止令を出さないという他に類を見ないやりかたを採っています。それでも、感染者と死者が比較的少ないのは、日本人が、高いモラルをもって互いに注意し、七割以上も外出が減るほどまで、自粛し合っているからです。これは世界的に見て驚くべき現象です。日本では、2020年5月9日現在で、感染者約1万5千人で、死者約500人です。30人に一人の割合ですが、お隣の韓国では、ほぼ同数の感染者で、死者は日本の半分です。これは、韓国は、日本の医療機関よりも制度が整っているからだと言われています。とにかく、日韓の感染者と死者は、絶対数が圧倒的に少ない。特に、日本では、医療体制が十分でないのに、これだけ死者が少ないのは、「みんな」のお陰です。これに私たちは大いに力づけられますが、そこには問題もあります。
「みんな」主義は日本タイプです。最近では、SNSという「みんな」がいます。しかし、「みんな」一緒だと安心かと思うと大間違いで、自分は「みんな」から外れるのではないかと常に気を遣うことにもなります。だから、「みんな」は、安心をもたらすだけでなく、自分は「みんな」からはずれるのではないかという恐れに脅かされることにもなります。行き過ぎると、「みんな」という得体の知れないものが、絶えず自己を脅かす存在になります。特に、飢饉や天災や疫病などの出来事が起こると、人々はその原因を自分たちのせいではなく、「誰かほかの人」のせいにしたがる傾向があります。「あいつが悪い」と「みんな」が言い出すと、もう止まらない。そこに正義面した「正義中毒」の患者が出ると「魔女狩り」が始まることになります。15世紀末から16世紀のドイツのバンベルクでは、ペストの疫病に怯えた「みんな」が、魔女狩りを始めて何千という女性が拷問されて焼き殺されました。1692〜93年のアメリカ東部の町セイラムでも、少女たちによる魔術師(男性)狩りの事件が起きました(Arthur
Miller: The Crusible.1953)。現在の日本では、感染者たたき、場合によっては医療の従事者までがこういう「みんな」にたたかれるという事態が起きています。
(4)以上で分かるように、「人」としての個人と、「みんな」という名の民と、そして政府が言う「国」、これら三つが、いざという時の信頼の拠り所になります。個々の「人」か(アメリカ型)、みんなの「民」か(日本型)、政府という「国」か(中国型)、この三つです。ところが、今見てきたように、これら三つには、どれにも一長一短があります。「いい・悪い」があるのは、これら三つは、どれも大切だからです。どれか一つにより頼(たの)むわけにいきませんから、私たちは、これら三つを併せて判断しようとします。「個人」と「世間」と「政府」の三つのどれをどの程度に採り入れるのか? さあ、これが難しい! どれにも一長一短がありますからね。多くの人は、どうしてよいのか迷い、不安の内に過ごすことになります。これを載せてから今朝の新聞を見ると、「みんな」意識に潜む怖さを指摘し(少し強調しすぎ!)「現場の感覚に基づいて個人が行動を決めることが難しくなっている」とあります〔『朝日新聞』2020年5月8日号「社会を覆う『正しさ』:ゼロリスクの道徳「秩序乱す集団へ排除の矛先が向く」〕医療人類学 磯野真穂(いそのまほ)〕。
(5)ここで、私たちは、改めてナザレのイエス様の御霊のお働きに目を向けることが求められます。イエス様の御霊は、個人と民と政府の三つに応えて働いてくださるからです。働いてくださるのは、繰り返します、人も民も政府も大事だからです。このことをしっかりわきまえてください。大事だからこそ、「人の業」ではなく、イエス様にお委ねするのです。クリスチャンと言われる人たちは、どうでもいいことだけは教会で「アーメン」と唱えて、「ほんとうに大事なことは自己判断でやる」ということを「しない」ことです。自己判断なら、責任は自分で取ればいい。イエス様判断なら、責任はイエス様の神がとってくださる。「出来事」はごまかしがきかないから、責任はきっちりとらされます。イエス様を信じるなら、人も民も政府もイエス様が護ってくださる。どうせこの世は終わるのだから、政府も民もどうなってもいい。正しいのは教会だけだと思い込む「正義中毒」、日本の政府は悪魔の手先で皇室は悪霊の頭などと信じる「独善宗教」に陥ってはいけません。日本の皇室を敬う日本人は、昔から、「五穀豊穣」(生活が守られる)と「安心立命」(この世と来世の命が与えられる)と「霊験新(あら)たか」(不思議な神の御業を見る)ことを祈り求めて来ました。人の罪を赦し、民の誤りを教え導き、政府の不正を正してくださるのが、イエス様を通じて啓示される神からの赦しと慈愛の絶対恩寵です。このイエス様を「ただ信じる」のです。そうすれば、人や民や政府への私たちの想いが、イエス様の御霊によって支えられ、平和と平安(エイレーネー)が訪れます。
イエス様を「ただ信じる」者は誰でも救われます(マルコ5章36節)。教会へ行く行かない、洗礼を受けているいないにかかわりなくです。ただし、ここでも注意が必要です。教会に行っている受洗したクリスチャンが、コロナにかかったとしても、その人が「罪を犯した」とか「信仰が足りない」などと、自己判断で裁いてはいけません。人それぞれに、信仰の有り様があります。同様に、「あの国の民はコロナの死者が多いから悪い」などと決めつけてはいけません。結果や数字だけを見て、「あそこの政府は間違っている」と批判するのは控えてください。何があっても、イエス様を「ただ信じる」のです。たとえ「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)でも、人は誰でも、誘惑に弱く不正に迷う罪人です。イエス様の「赦し」の恩寵から湧き出るものすごいパワー(力)こそ、人の罪、民の迷い、政府の不正を赦して贖(あがな)う「命の働き」なのです。
「自分の命を得ようとする者は、かえって自分を失い、わたしを信じることで、自分の想いと命をあえて失う者は、かえって自分自身の命を得る。」(マタイ10章39節)
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。」(マルコ10章45節)
「自分の命を愛する者は、かえって自分を失う。この世においては、自分の命を棄てる人が、自分を保って永遠の命に到達する。」(ヨハネ12章25節)
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