三位一体と信仰の自由
                     (2022年7月6日)
はじめに
 「自由」には、いろいろな分野がありますから、ここで、はっきりさせておきます。これから語る「自由」は、政治の世界のことではありません。結婚や就職など、社会と道徳の分野にも入りません。ここで言う「自由」は、宗教的な分野のことです。ただし、仏教、神道、キリスト教など、もろもろの宗教関係を扱う「宗教の自由」のことではありません。これから語るのは、クリスチャン同士の自由、言い換えると、キリスト教の内部における「教会での自由」のことです。だから、これは、キリスト教のエクレシア(教会)における「信仰の自由」です。
 一口に「キリスト教」と言っても、現在の日本に目を向けるだけで、大はカトリック教会から、小は、私たちのコイノニア会にいたるまで、多数の教団や宗団や集会があります。しかも、それぞれの教団や集会によって、信仰の内容も実に多種多様です。比較的「まとまっている」と思われる日本においてさえこうですから、広い太平洋を含むアジアの諸国家、諸民族、諸部族の間では、私などが予想もしないような「キリスト教」の形態があろうと思われます。ただし、ここで強調したいのは、時代と場所とで、かくも多種多様な形態を採りつつも、キリスト教は、その人類学的な視野から見て、驚くほど、共通する特長と信仰を一貫して保持し続けていることです。
■正統と異端
 イエス・キリストにある「自由」の最も分かりやすい例は、体の不自由な人が、イエス様によって、体の自由を与えられることです(マタイ11章5節/ルカ4章18節)。これは、人の考え出す理論や心情による議論を超えて、人の自由とはどういうことかを、誰にでも「からだで分からせて」くれます。だから、イエス様にある「自由」は、「命をもたらす良い自由」です。人間の「自由」には、自殺する自由から、自分の命を犠牲にして人の命を助ける自由まで、善悪ともども、いろいろあります。だから、最初に、イエス様の自由が「良い自由」であることをはっきりさせておきましょう。
 その上で、あえて採り上げますが、キリスト教における「信仰の自由」と言えば、必ず話題にあがるのが、「正統」"orthodox"か、「異端」"heterodox"か、という問題です。キリスト教の歴史では、「父と御子と聖霊」という異なる位格(いかく)を具えた三神を「共に礼拝」(ホモティミア)する「三一神」への信仰を正統だと見なしてきました。これは、三神が、三つの「ペルソナ」でありながら、それらは「本質において同じ」であるという神秘な神観です〔水垣渉「古代教会の教義形成について――ビーナート(W.A.Bienert)の見解をめぐって――」新約原典研究会(2022年6月1日資料)を参照〕。
 この三一神信仰が、「正統」信仰として、カトリックと東方正教会で認められるまでには、その教義学的な解釈をめぐって長期にわたる論争が続けられ、「論争」が「紛争」へいたることもしばしばありました。正統信仰に対しては、例えば、グノーシス思想などが異端とされました。正統派は異端を弾劾し、異端は正統派を非難し続け、その結果、どちらの側からも、教会から追放されたり処刑される人たちが少なからず出ました。
 このように、キリスト教の正統信仰は、異端との「闘い」の中から生まれたと言っても過言ではありません。「異端」は、正統信仰が確立した後でも、途絶えることなく、様々な信仰が異端視されてきました。正統と異端は、一方が存在しなければ、他方も存在しません。だから、両者は、相互補完の関係にあります。異端なくして正統なく、正統なくして異端なしです。それにもかかわらず、筆者(私市)が三一神への信仰を大事だと見なすのは、これこそが、先に指摘したように、多種多様な形態を有しながらも、キリスト教が、驚くべき一致と共通性を保持することができた要因だからです。
■信仰の自由
 「三一神の正統性」の神学的内容を釈明するのは、私の力の及ぶところではありません。にもかかわらず、あえて「三一神の正統性」を提示したのは、わけがあります。それは、三一神の正統性が、キリスト教における「信仰の自由」と深く関わっているからです。
 「信仰の自由」は、個人の人権の一つとして、現在の日本国憲法の第20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と明示されています。「信仰の自由」に限らず、個人の人権として、憲法で保障されている「自由」は、日本では、従来、政治権力「からの自由」、特定の組織「からの自由」のように、「分離する」自由"free from..."として理解される傾向が強かったと言えます。しかし、人を他者から分離する自由は、「個人」ならぬ「孤人」を生じる結果になりかねません。日本では、「個人」と(「公人」に対する)「私人」との区別さえつかない人が少なくないのはこのためです。日本人は、「公私」の区別を付けるのは上手です。「公」とは、江戸時代の「ご公儀」を受け継いで、「上から命令されることに服従する自分」だという考えが強いです。ところが、「個人」とは、自分から教会を作り、社会を作り、国家を作る働きのことです。これが、まことの民主主義の原点です。
 「自由」には、「〜からの自由」"free from..."という消極的な側面と同時に、これと表裏を成して、何かを積極的に「追い求める自由」"free to do..."があることを忘れてはなりません(日本国憲法で言う「幸福を<追求する>権利」のこと)。こういう積極的な「自由」は、人を人と結び、共同体を作り、組織を育てる「自由」の働きをします。これによって初めて、「孤人」ならぬ「個人」が生まれるのです。
 私たちは、イエス様が「人の子」と呼ばれているのを知っています。「人の子」には、イエス様を「一人の」人と見なす意味も含まれていますが、「人の子」としてのイエス様には、イスラエルの民だけでなく、さらに人類全体に働きかける共同体的(communal)な意味も含まれています。だから、「人の子」が雲に乗って再臨する時には、全世界の人たちが、公正な裁きを受けることになります(マルコ14章62節)。
 「信仰の自由」とは、このように、人と人とを結びつけ、共同体を形成するために働く「自由」を指すものです。ナザレのイエス様の御霊に与る時、私たち一人一人は、イエス様の霊的な人格を宿す「個人」になります。こういう「御霊(みたま)の人」は、自分勝手な振舞いをする「私人・孤人」のことではありません。そうではなく、その「個性を発揮する」ことで、人と人とを繋ぐ「共同体を形成する個人」とされることを指しています。こういう「個人」こそ、イエス様の「エクレシア」(教会)を形成し、これを成長させる力の源です。
 人には、人を殺したり自分を殺す「悪い」自由と、人を活かし人の命を守る「良い」自由とがあります。イエス様にある「信仰の自由」は、個人に働く「良心の自由」として、「何人(なんびと)も侵(おか)してはならない」(日本国憲法第19条)人権とされています。端的に言えば、キリスト教で言う「信仰の自由」は、「すべてを捨ててもイエス様に従う自由」のことです(マルコ1章17〜20節)。だから、これは、積極的で実践的な自由です。イエス様にあるこの自由は、デンマークの哲人キェルケゴールの言葉を借りれば、イエス様に従う以外の「ほかのすべてのことから人を自由にする」のです。
■討論の自由
 クリスチャンそれぞれの「個人の信仰の自由」は、個人と個人との相互関係の中から生まれます。ところが、その自由は、「対立と矛盾」を含む様々な有り様をもたらします。互いに異なる信仰を抱きながら、イエス様を信じて歩み続けるとすれば、いったい、異なる信仰同士の有り様は、結果として、どうなるのでしょうか?「信仰の自由」からは、こういう大きな疑問が生じます。いったい、何が正しく、何が誤りなのか? 相手が誤りだと想う場合には、どうすれば良いのか? この疑問を解決する手段として、次の二つが重要視されます。
(1)自分の良心に従い、聖霊の光に導かれるままに、自己への啓示をはっきりと語ること。
(2)自分が語った事の結果は、これを聞いている相手を含む他の人々の判断に委ねること。
 この二つです〔A・D・リンゼイ『民主主義の本質』永岡薫訳。未来社(1992年増補版)39頁〕。人との交わりを形成する「個人の信仰の自由」と切り離すことができないのが「討論」です。ここで、「信仰の自由」は、クリスチャン同士の「討論する自由」へと不可避的に発展します。共同体を形成するために「話し合い」「論じ合う」ことは、人類が古代から行なってきたことです。しかし、この「討論する自由」が、キリスト教のエクレシア(教会)共同体を形成する手段として重要な意義を帯びるのは、16〜17世紀の宗教改革においてです。
 2022年6月の現在、ウクライナへのロシアの侵攻をめぐって、専制国家と近代の民主的な国家との違いが、改めて注目を浴びています。近代国家の議会制民主主義は、17世紀の英国国教会のイギリスにおいて、「小規模な信徒の集まり」から始まったと言われています。国教会の内外の「小さな信徒共同体」は、「上から」求められる「信仰の同意(一致)」よりも、信仰による相互の不一致や異論を容認した上での「討論による同意」をその手段として用いたからです。彼らは、討論の結果、「投票による多数決」に従う「全員の同意」という「多数決の原理」を選んだのです〔リンゼイ『民主主義の本質』。「第3章:共同思考としての討論と集いの意識」70頁以下〕。
 こういう「同意」が、最も顕著に現われたのが、王党派の軍隊を次々と破ったクロムウェルの鉄騎隊でした。クロムウェルの軍隊は、当時の長老派やアナバプティストなど、「互いに討論できる規模」の小さな宗団の集まりから成り立っていました。だから彼らは、自分たちの現実の体験によって、論じ合うことができました。クロムウェルは、これらの小宗団に、自己満足の自我に動かされず、「神の御心を求める意志」を抱いて、「全体を活かすために小我を没する」よう説得しました。その結果、鉄騎隊は、驚くほどの力を発揮することができたのです〔永岡薫編著『イギリスデモクラシーの擁護者A・D・リンゼイ』聖学院大学出版局(1998年)30〜31頁〕。
■語る自由と聞く自由
 人は、自分の意見がほんとうに正しいかどうかを知りたいものです。どんな意見にせよ、自分の意見に向けられる見解を聞くことで、自分なりの判断を働かせ、<もっと善い考えに>到達できるからです。だから、自分の話を聞く相手の自由を認めるほうが、語る自分にも、かえって好都合です。語る側と聴く側の両方に、自由に語る権利と、自由に聞く権利とが保証されていれば、両極端の反対意見(異見)を互いに「気持ちよく闘わせる」ことができます。
 互いが真っ向から対立する場合でも「語り合う」ことができるのが、「自由」の働きです。この場合、相手の意見と正反対の見解を語る「自由」が自分にある。この自由を「知る」だけなく、それを「実行する」権利が自分にあると知ることが大事です。ただし、それは、自分の側の自由な権利ですから、これだけでは、「語り合い」は生まれません。
 大事なのは、聞く相手の側も、「信仰の自由」に従って、自分に語られていることをどのように扱うべきかを決める権利と自由があると悟ることです。同時に、語るほうの側も、<このこと>をはっきりと認識していることです。この意識に欠けると、語る側にも聴く側にも、様々な思惑(おもわく)が入り紛(まぎ)れて、神の「まこと」に呼応して、自己の「まこと」を尽くして語ることができなくなります。だから、相手は、その自由意志によって、自分の意見を全面的に受け容れるのか、部分的に受け容れるのか、完全に排除するのか、聴いている相手の自由が、権利として認められていることを「語る側が」認識することが大事です。
 私は、相手が心から本心を語っていると感じる場合には、その人の「まこと」に、自分の「まこと」で応えることにしています。これが「まことの」自由への心構(こころがま)えだと思うからです。場合によっては、相手の意見や考え方に真っ向から反対することがあります。私がそうするのは、自分の意見に対して反対<異>見を率直に聞かせてほしいからです。相手の意見をどのように扱うかは、「私の自由」ですから、反対意見をそのまま受け容れるつもりはありません。相手の意見を聞いて、自分の考えの足りないところ、弱いところを知りたいのです。「悪魔もまた教師だ!」(T・L・オズボーン)。
 だから、討論の結果に後悔したことがありません。たとえ相手に自分の意見が通じなくても、その相手と自分の間に潜む隠れた問題が浮かび上がってくるからです。これに触発されて、今まで考えてもみなかった「神からの真理」に思い至ることができるからです。
■「まこと」の自由
 自由な討論の結果、互いに相容れることができない。こういう立場にいたった時に、私たちは、どうすればよいのでしょうか? これから、「この点」について考えてみます。
 
「あなたたちは、自分の肉(人間的な想いと力)に動かされて裁いて(断罪して)いる。
 わたしは、だれをも裁くことをしない
 しかし、もしも、このわたしが裁くとすれば
 わたしのその裁きは、まこと(真実/事実)である。
 なぜなら、わたしは、一人ではない。
 わたしとわたしをお遣わしになった方、
 父と二人だからである。」
      (ヨハネ8章15〜16節)
 
 引用した節は、「わたしは世の光である」で始まるイエス様の御言葉と、これに対する「ファリサイ派」の反論を受けて、イエス様の口から語られています。この対話の前には、姦淫の「罪の女」への無条件の赦しが語られています。引用を含むヨハネ8章のこの対話は、さらに発展して、「わたしの言葉にどこまでも留まり続けるなら、あなたがたは、わたしのまことの弟子になれる。そうすれば、自由とは(何か)を悟る。その自由は、あなたがたを解放してくれる」(ヨハネ8章31〜32節)という御言葉につながります。
 反論・異論にどう対処するのか? この問題提起へ戻りますと、出発点は、「あなたがたは<自分の肉に従って>判断して(裁いて)いる」です。ここで、イエス様が相手にしているのは、ユダヤ教の中で、最も敬虔だと言われたファリサイ派の模範的な教師たちです。しかし、どんなに信心深くても、どんなに模範的な聖職者でも、討論し反論し合っているのは「人間」に違いありません。人間である以上、人の想い、人の情念に動かされないわけはありません。とりわけ、「信仰」という最も奥深い出来事を対立する者同士で論じ合うという厳しい現実の中では、どんな人間でも、それなりの情念や怒りや思惑に動かされずに語ることは、先ず「不可能」です。どんな人でも、熱い討論ともなれば、自分が人間であること忘れて、それゆえに、「人間」として振る舞ってしまうからです。クリスチャンという「人間」の場合も、その「肉」(人間性)から、どうしても逃れることができません。「このこと」を悟ることが先ず大事な要点になります。
 ところが、イエス様のほうは、「わたしは裁か(判断し)ない」のです。これは、不思議です。討論で「判断しない/裁かない/批判しない」となれば、それは、人としての条件を超えてしまうことになります。ここでの「裁かない」は、注釈にもあるように、この対話に先立つ「姦淫の罪を犯した女」をイエス様が、その罪を無条件で「赦した」とあることと関連します。この「罪の女」の箇所は、編集の過程で、例えばルカ福音書と共通する資料から挿入されたという編集説があります。しかし、編集は、その結果成立した本文の形成過程にかかわることですから、編集それ自体は、本文の解釈への参考になり、本文解釈への必要な予備知識にはなりますが、編集過程それ自体は、聖書本文の解釈それ自体と区別されなければなりません。この間の事情は、画家が絵を仕上げるまでの創作過程が、できあがった作品それ自体の解釈あるいは鑑賞とは、<直接には>関わらないことと同じです。
 ヨハネ8章冒頭の「姦淫の罪」は、これに続く対話の内容と関連づけるなら、単なる道徳的な「ふしだら」だけでは済ますことができない重要な宗教的な内容を帯びています。イエス様の前に彼女を連れ出し、イエス様にその裁きを迫った人たちは、ユダヤ教の長い伝統の中で培われた「姦淫の罪」が内蔵する宗教的な意義に基づいています。ここで言う「姦淫の罪」あるいは「姦淫の女」には、ホセア書4章7〜14節で、預言者ホセアが告発しているイスラエルの罪(異教との偶像礼拝)、それ以上に、エゼキエル書23章1〜25節のオホラ(サマリアの比喩)とオホリバ(イスラエルの比喩)姉妹の「姦淫の女」に向けられる厳しい「裁きと断罪」が背景にあります。
 信心深いユダヤ教徒なら絶対に「許容する」ことができないはずの「姦淫の女」に対して、イエス様は、「わたしはあなたを罰しない」と無条件の赦しを告げるのです。驚くべきこの「自由な」判断(裁き)。これこそ、イエス様が、ここで、「わたしは誰も裁かない」と言われている真意です。信心深い「人間」なら、絶対にできないはずの驚くべきこの判断は、明らかに「人間」の限界を超えたところから啓示されたものです。「肉に従う」人間の討論には、たとえどのように信心深く、どれほど宗教的に熱心であろうとも、「人間」であるがゆえに、超えることのできない溝が、対立し合う者同士の間に生じざるをえないのです。
 長年の宗教的伝統に支えられたファリサイ派の強靱な宗教的信念は、対立する討論の相手との妥協を頑として拒否します。一方では、目もくらむような深遠な恩寵と、他方では、妥協を絶対に許さない強靱な宗教的信念。この二つの狭間にある峻烈な溝の深さは、「あなたがたファリサイ派は、<肉に従って裁く>が、わたしは、<誰も裁かない>」というイエスの一言に集約されています。
 では、イエスとファリサイ派との間に潜むこの厳しい対立を橋渡しすることで、両者の間の溝を埋める何らかの手立てがあるのでしょうか?ヨハネ8章では、両者の間に潜む溝は、埋められるどころがさらに深まって、そもそも、「アブラハムの子孫」とはだれのことか? という問いに発展します(ヨハネ8章39節以下)。この問いは、かつて、パウロが、ガラテヤの人たちに宛てた書簡で、「まことの神の民」とはだれのことか?と問いかけた問題へさかのぼるものです(ガラテヤ3章6節以下)。ヨハネ福音書では、この論争は、ついに、イエス様をして「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出ている」(ヨハネ8章44節以下)と言わしめるにいたって、「(イエス様の)十字架の紛争」へ発展することになります。
■良心の自由
しかし、たとえこのような場合でも、ファリサイ派が、イエス様との交わりにおいて、同意へいたることができる大事な条件が、イエス様の御言葉に秘められています。それは、「わたしは一人ではない」とあることです。もしも彼らが、この言葉の真意を理解したならば、「あなたがたはわたし(イエス)を愛するはず」だからです(ヨハネ8章42節)。イエス様が「一人でない」とは、人として語っておられるイエス様が、「誰かもう一人」と「共に」居られることを意味します。誰かと一緒に居ることによって、自分の判断、自分の言動が、常にその人に見られ聞かれていること、「このこと」を意識しておられるのです。人が、<自分以外の>誰かほかの人と一緒に判断したり、意識したりすることを、その人の「良心」、英語の"con-science"(共に知るもの)と言います。こういう時に、人は、自分だけでは「どうしても到達できない」判断や認識に到達することができるからです。
 人は、「人と語る自由」の中でしか、「同意」にいたる道を見いだすことができません。では、イエス様は、いったい、「誰と共に」判断しておられるのでしょう。それは、全人類に普遍する想い、それだけでなく、大自然のあらゆる生物に共通する想い、宇宙全体に働く想い、言い換えると「全知」"omniscience"なる方の想いと共に判断し、認識しておられる。こう言われているのです。このように、天上天下の「すべてに普遍する」ものを「聖なる」ものと言います。イエス様は、この「聖なる方」と共に判断されるのです。
 では、いったい、イエス様は、「何を」判断しておられるのでしょうか?「まこと」(真実/事実)です(8章16節)。「まこと」(真実/事実)とは、現在・過去・未来を含めて、現実に生起している「実際の出来事」のことです。今目の前で起こっている実際の出来事、こう言えば、一番分かりやすいでしょう。「実際の」と言うのは、全員がその場に居て見ているその出来事が、ほんとうは「何を意味するのか?」を含めて、出来事の真理・真実(ギリシア語「アレーセイア」)を判断し認識することです。イエス様は、今、現実に生起している「討論の出来事」を、その全体において、自分だけでなく「聖なるお方」と「共になって」判断しておられる。イエス様が「わたしは一人で(判断するので)はない」と言われたのは、この意味です。
 私たちは、ここにいたって初めて、イエス様が言われていることの真意を幾分か悟ることができます。それは、イエス様が今現在行なっておられること、すなわち、ファリサイ派と相容れない状態で対立し合っている「討論の出来事」、それ自体をイエス様一人ではなく、全知のお方と「共に」判断し、認識しておられる。こういう事態が、ここで生じているのが分かります。
 「この事」を理解するなら、私たちは、イエス様が「わたしは誰も裁かない」と言われている真意が初めて見えてきます。そこに啓示されているのは、この討論に先立つ「罪の女」への赦し、ユダヤ教の常識と伝統から見れば、絶対に許容することができないはずの「姦淫の女」への赦しが、不思議なことに、イエス様の判断に逆らう者が「誰一人いない」ままに行なわれたことです! 全知の方と共に行なわれた「この出来事」こそ、イエス様が、「わたしは誰も裁かない」と言われていることのほんとうの意味です。これは、先の言い方を繰り返すなら、「目もくらむような恩寵」です。そして、この目もくらむ恩寵が、ほかならぬ今、討論相手のファリサイ派にも向けられていること。「このこと」を、イエス様は示唆しておられるのです。遺憾ながら、これは、「肉に従って裁く(判断する)」ファリサイ派の人には、とうてい理解できないことです。もしも、互いの討論において、絶対に許容できない者同士が、何らかの「同意と一致」に到達する道があるとすれば、「わたしは誰も裁かない」と言われたこのイエス様に従うほかに、和解の道はありません。
■御霊にある自由
 クリスチャン同士の討論の場合、それぞれは、イエス様に対する信仰を共有しながら、語る自分は、イエス様の聖霊を宿す「クリスチャン」であることが前提になっています。この場合、クリスチャンの「信仰の自由」は、クリスチャン同士の「討論の自由」のことです。しかも、その「自由」は、クリスチャンであれば誰でも、イエス様の御霊を宿す「自己の」信仰に導かれます。したがって、クリスチャン同士の討論では、それぞれに「自己に」働く聖霊が、「討論の自由」を形成する基本原理になります。しかも、その「御霊にある自由」は、現実においは、討論の対立と決裂を含む驚くほどの多種多様な広がりを有する「自由」です。
 とは言え、「一致」の代わりに「不一致」を、「同意」ではなく「分裂」をもたらす「自由」は、イエス・キリストにある「聖霊の」働きではありません。そうではなく、不一致や分離・分裂が避けがたいのは、先にも述べたように、たとえ「クリスチャン」と言えども、所詮は「肉に従う」人間であることに変わりがないからです。不一致と分離は、「この人間の性(さが)」を確認させてくれるだけです。とりわけ、昨今のキリスト教圏の人たちの討論と論争と、その結果生じる紛争からは、そこに、「キリスト教徒の肉性」から生じる不一致と分裂が、悲しいほど顕著に現われているのを見ることができます。
 先に「良心の自由」の項で見たように、人は、「人と語る自由」の中でしか、「同意」にいたる道」を見いだすことができません。人と人との分裂をもたらす多様な「自由」と、これに対して、人と人とに「同意をもたらす」御霊の働きと、相互に矛盾するかに見えるこの「自由」の働きを支える力の源は、いったいなんでしょうか?「分裂」と「同意」、この相反する二つを結ぶ御霊の働きに潜む秘密とは、どのようなものでしょうか?
 こういう分裂と不一致を何ほどか和らげてくれる力があるとすれば、それは「わたしは誰も裁かない」と言われた、イエス様の御言葉にあります。討論の際に生じる多様な「自由」と、その結果生じる人間同士の避けがたい「不一致」と論争、その結果、起こるであろう「紛争」を念頭におく時に、私たちは初めて、「誰も裁かない」と語ったイエス様の真意を何ほどか汲み取ることができます(ヨハネ3章17節)。
 そこには、イエス様に働く聖霊の無限・限碍(むげ)の「愛と赦し」の働きがあります。それは、聖霊の恩寵のお働きです。イエス様の聖霊の「このお働き」こそ、クリスチャンの自由の源であり、同時に、唯一、クリスチャン同士に、一致をもたらす力です。これは、人間の力の及ばないところから来ますから、超自然のものとしか想えません。超自然ですから、頭で理解も把握もできません。それは、文字どおりの「力」、それも、ものすごい「大(超)自然」の力です。「三位一体」(さんみいったい)と呼ばれる三一神の一つとしての聖霊のお働きは、こういうものです。これが、神が、そのお創りになった大自然を通して、人類を初め、あらゆる生物に与え続け、降らせ続けてきた「恵みの雨」のほんとうのパワーです。
■キリストの心
 クリスチャンにとって、「自由」とは、イエス様の話を「語る自由」と「聴く自由」であり、イエス様を信じて「行なう自由」です。その上で、パウロが「使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えた」(使徒言行録9章28節)とあるように、信仰について、指導する人から聞き、かつ自分でも語ることができることです。大事なのは、<何のための>信仰の自由か?ということです。パウロは言いました。「(私は)だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を(イエス様の信仰へと)得るためです」(第一コリント9章19節)。こういう「クリスチャンの自由」の導きとなるのが、パウロの次の言葉です。
 
「兄弟たち。もしもだれかが、何らかの不義(誤謬)に陥っていると疑われる場合には、あなたがたは、霊の人として、その人を御霊にある柔和によって正すよう心しなさい。(相手の不義に)挑発されないよう用心しなさい。互いに抱えている重荷を担い合うのです。そうすれば、キリストの心(法)を全うすることができます。」
                (ガラテヤ6章1〜2節)。
 イエス・キリストにある信仰の「自由」にあっては、たとえ「語る自由」にあるクリスチャン個人の間で、相互に対立し合う「論争」が生じても、「論争」を「紛争」にいたらせることなく、異なる信仰への「排除と弾劾」を生じさせないように自戒しなければなりません。残念なことに、過去のキリスト教の歴史では、例えば初期の教父時代には、正統か?異端か?をめぐって、相互非難と弾劾(だんがい)がしばしば行なわれました。
 たとえ、意見が合わなくて、今まで所属していた共同体から独立したり、分離したりする場合でも、離婚した夫婦の場合と同じで、互いに非難したり弾劾してはなりません。非難や弾劾をいくらやっても、「異端」はなくならないし、「正統」に傷がつくだけです。異なる民族、異なる人種の間でも、互いのイエス・キリストにある信仰を認め合い、信仰の自由を尊重すること。これによって、「神の恵み」を見失うことがないよう自戒することが求められています。クリスチャンは、それぞれの個人が、イエス様の御霊のお働きを受けて、その人なりの信仰を樹立します。人それぞれに異なる信仰を抱く場合でも、クリスチャンなら、だれでも、十字架で贖いの御業を成し遂げられたイエス様を信じることができます。だから、クリスチャン同士の交わりが形成するエクレシア共同体は、十字架のイエス様を信じることにおいて、一致できるのです。
  聖霊は、私たち人間を「個人」としますが、その個人とは、パウロの言い方を借りれば、「自然の」肉の自分ではなく、神から降る「超自然の」お働きを受ける人のことです。「言論の自由」と「個人の信仰の自由」、現在の日本の国是が目指す民主主義は、この「個人の自由」に基づいています。しかも、今までで、お分かりかと想いますが、それは、「理想の」個人です。この理想の個人は、三一神の神が「新たに創造する」人間ならぬ人間を基本に措いています。ここに、現代の民主主義に潜む矛盾があり、その欠陥があり、その希望があります。
■終末の裁き
 最後に、「もしも、このわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは正しい」(ヨハネ8章16節)に入ります。クリスチャンの自由は、イエス様からその人に授かります。どこまでもイエス様を信頼することで、「主イエス様の御言葉に留まる」なら、主イエスの真(まこと)を知ることができます。「自由」はそこから生じます(ヨハネ8章32節)。神の「まこと」が人の「まこと」と出逢うところに、「まことの信仰の自由」が成り立つのです。
 イエス様を信じ、各自に働く父と御子からの聖霊のお働きを信じることで、私たちは、<とにかく>共通の認識に立って、自由に語り合い討論することができます。しかしながら、その自由の「結果」あるいは「成果」はどうなるのか?これは、イエス様を信じて御霊にある討論の「出来事」それ自体のうちに、すでに含まれています。どのように含まれているのか? 過去から現在にわたる私たちの交わりと討論の自由への「将来にける父なる神からの公正な裁き」によってです。「もしもわたしが裁くとすれば」は、大方の注解者が指摘するとおり、「終末における」父と御子からの「裁き」を意味します(ヨハネ8章26節/ヨハネ12章48節)。クリスチャンの「自由」は、その将来に顔を向け、その成り行きと結果/成果を、<終末における>神の裁きと評価に委ねるのです。私たちが、イエス様の御霊のお働きを信じて、これに従って自由に討論し実践することができるのは、こういう父なる神のおはからいがあるからにほかなりません(ヨハネ16章7〜11節)。善も悪も共々に、出来事の<成り行き>とそれがもたらす結果は、絶対にごまかしがきかないからです。クリスチャン同士の交わりを導いてくださる父なる神は、ご自分の御心に従って裁いてくださいます。父の御心が、人類とキリスト教の歴史を形成するからです。
■三一神と自由
(1)クリスチャン同士は、イエス・キリストから授与される聖霊をそれぞれに体験することにおいて、相互に異なる幅の広い自由を有しています。力肯定か、武力否定か。日の丸賛美か、反対か。離婚の完全自由か、断固反対か。妊娠中絶は是か非か。いろいろな問題で、両極端に対立する場合があります。カトリックとプロテスタントの違いも、詰まるところ、「御霊にある自由」に行き着きます。プロテスタント同士の分離分裂は、枚挙に暇(いとま)がありません。
(2)ただし、クリスチャンであれば、誰でも「新約聖書が証しする御子であるナザレのイエス様の出来事」を自分自身の信仰の土台とすることにおいては、一致できます。とりわけ「十字架のキリスト」は、ユダヤ人にもギリシア人にも躓(つまず)きとなる人知を超えた「最大の逆説」ですが、それは、<史実に基づく出来事>ですから、この点では一致できます。どの自由が正しくて、どの自由が間違っているなどと論じ合うのは、イエス・キリストにある自由にとって、無意味であるばかりか、有害でさえあります。人を襲うこの世の悪は、ありとあらゆる自由を用いて、襲いかかってきます。これに対抗し、これに勝つためには、キリストの民にも、ありとあらゆる自由が認められなければなりません。どのような自由が、この世の悪と闘うのに最も有効か?これを人が決めることは、簡単にはできません。イエス・キリストにある三位一体の神の働く自由とはそういうものです。
(3)では、信仰における「多様と一致」は、どのように調和できるのでしょうか?何がどこまで「正しい」のか? これが定まるのは、「事の成り行き」です。様々な「御霊にある信仰」が、相互にどのように作用し合い、その結果、どのような「正統」が形成され、どんな「異端」が生じるのかは、クリスチャン各自の信仰の自由が、結果としてどのような「成果」を生み出すのか、それは人類と教会を導く父なる神の御意思に委ねられます。その成り行きの結果は、「出来事」となって、キリスト教の歴史を形成します。しかし、それが、どのような終末を迎えるのかは、だれにも分かりません。今行なわれている意見が「毒麦か、まことの麦か」を見分ける術(すべ)を人は与えられていないのです。「正統」か「異端」かの判定は、終末まで隠されています(マタイ13章24〜30節/同36〜43節)。
(4)正統も異端も含めて、個人の御霊にある「信仰の自由」の中にあって、「神の御子である主イエス・キリストの御名による交わり(コイノニア)」を通じて初めて、互いを「認め合う」ことができます(第一コリント1章8〜10節)。クリスチャン同士は、たとえ互いの間に「亀裂」(ギリシア語「スキスマ」)が生じても、「心を一つにし、思いを一つにする」ように務めることができます(第一コリント1章10節)。「心」(原語「ヌース」)には、知的な論理や神学的な判断も働きますが、それだけでなく、もっと広い「人の想い・計らい・意図」が働きます。「思い」(原語「グノーシス)とは、イエス様の愛の心で人を「読み取る」心がけのことです。イエス・キリストを信じて、その十字架が発する光に歩むなら、「聖霊にある自由」による「互いの交わり」を保つことができます(第一ヨハネ1章6〜7節)。「御霊にあっては異なり、十字架のキリストへの信仰では一致し、事態の成り行きと結果は神の御手に委ねる。」これが、クリスチャンの「自由」のまことの姿です。このような「自由」は、三位一体の神において初めて成り立つものです。
 「信仰の自由」を保つためには、語り合い論じ合う権利が保証されても、「他者の自由を奪う自由」は認められません。これが、「三位一体の神に」おけるクリスチャンの「信仰の自由」の特徴です。御霊の剣で論じ合っても、十字架の鋤で耕し、父なる神を崇めてください。そうすれば、クリスチャンの御国の自由が保たれます。「自由」は、一人ぼっちの孤人には与えられません。「自由」は、言葉のほんとうの意味で「人<間>」に働くものだからです。個人=一人ではありません。個人=<共同体の中の>一人だからです。
この文書は、2022年1月5日に、京都大学の信仰の学友たちとの会合で語り合った「信仰の自由」に基づき、これをさらに敷衍(ふえん)して、同年7月6日の同会において発表したものです。
                          
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