3章 智恵の御霊
               (2022年5月)

■神の霊と人の霊

 この項は、水垣渉氏「フィリピ書4章23節の『主イエス・キリスト・・・・・』について」:新約原典研究会発表要旨(2022年2月2日)を参照しながら、私なりの解釈を述べたものです。文責はひとえに筆者(私市)にあるものの、水垣氏に御礼申し上げます。

 創世記2章7節に「神は人の鼻に命のルーアッハ(息/霊)を吹き込んだ」とあります。
(1)旧約聖書では、人間は、「ガフ」(体)と「レーヴ」(心)と「ネフェシュ」(命の霊)で構成されます。人には、ヤハウェの「ルーアッハ」(霊)が働きかけます(申命記6章4~5節)。だから、この霊は「ルーアッハ・ヤハウェ」(サムエル記上10章6節/同16章14節)です。

(2)新約聖書には、「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊とともにありますように」とあります。この「霊」(ギリシア語「ト・プニューマ」)は中性単数です。同じ言い方が、パウロ書簡では、第一テサロニケ5章23節などに、全部で6例あります〔水垣前掲書〕。

 「あなたがたの霊」とは、あなたがた「(人間の)霊」の意味でしょうか? それとも、あなたがたに宿る「聖霊」を指すのでしょうか? ガラテヤ6章18節の「霊」は、同3章5節の「神があなたがたに与えた霊」と同じですから、「聖霊」のことです〔ただし、REBでは"The grace of our Lord Jesus Christ be with you, my friends."で、NRSVでは"be with your spirit"で、"with the Spirit"でない〕。第二コリント13章13節に「聖霊の交わりがあなたがたとともに」があります。これに対して、第一テサロニケ5章23節では「あなたがたの霊と心と体」ですから、「霊」は人間の霊のことです。キリスト教界では、この意味での「(人の)霊」をギリシア的に解釈して、人間の理性的・知性的な働き(ヌース)と解釈する場合が多いようです〔水垣前掲書〕。

■主の御霊と人の知性

 神からの聖霊と人の知性/理性との関わり方について、パウロは次のように語ります。

 私が異言で祈る時は

 私の霊は祈るが

 私の知性は実を結ばない。

 では、どうしよう。

 私は霊でも祈り

 知性でも祈る。

 霊でも奏(かな)で

 知性でも奏(かな)でる。

(第一コリント14章14~15節)

 パウロは、ここで、詩編などで用いられる並列法(parallelism)で語っています。並列法は、例えば次のように、論理では言い尽くせない消息、あるいは知的な理論を超える状態や事柄を語る方法です。

  色即是空

  空即是色

  色不異空

  空不異色

 (『般若心経』より)

また、パウロ書簡には、次のような並列思考の例があります。

  律法によっては誰も神に義とされないのは明か

  義人は信仰によって生きる

  律法は信仰によるものでない

  律法を行なう者が律法で生きる。

  キリストはわたしたちを律法の呪いから贖いだし

  わたしたちのために呪いとされた。

      (ガラテヤ3章11~13節)

 これらの行間に宿る事態を知的なロジック(理論)で解き明かすことは不可能です。ここで語られていることは、人間の知力と理論を超える「神の出来事」だからです。

 神のまことと人のまことが出会うところに「信仰・真実」(原語は「ピスティス」)が生じます。並列法は、そこに働くのが、ヌースに具わる「論理」(ロジック)ではなく、人には言い表わせないロジックを超えた働きであることを表す手法です。これに対して、人の「ヌース」(霊・知)が、それ自体を神の霊(ルーアッハ)と同一化するところに、いわゆる「グノーシス」的な宗教と宇宙観が生じることになります。ただし、人知と神の聖霊との関わりが、それだけで「グノーシス」になるとは限りません。「グノーシス」に陥らないヌースと聖霊との関わり方としては、『ヘルメス・トリスメギストゥス』が参考になります。この文書は『牧者ヘルメス』とも呼ばれて、グノーシス関係の文書が、早くからキリスト教会によって「異端」とされたのに対して、『牧者ヘルメス』のほうは、異端扱いされることなく、現在でも愛好者がいます(詳細は、コイノニア会ホームページ→聖書と講話欄→ヘルメス文書を参照)。

■慈しみの霊光

 古代ギリシアの「知力」(ヌース)は、論理を通じて競い合い闘う「暴力性」を具えています。そこには「慈悲」も「赦し」も入り込む隙(すき)がありません。これに対して、ヘブライの「知恵」(ホクマー)は、ルネ・ジラールが指摘したように、「慈愛」を帯びていて、「闇と死の陰に住む人たち」(詩編107篇13~14節)は、論理の固い扉を打ち破る(同16節)ヤハウェの「恵みと慈しみの贖(あがな)い」を感謝するのです(同1~2節)。この意味で、ヤハウェの慈しみは、妻の愛、母の慈しみ(ヘセド)にも通じます(箴言31章26節)。この「慈しみ(ヘセド)の知恵(ホクマー)」を拒否し、これを殺そうとする暴言と暴力こそ「神を冒涜する」行為にほかなりません(知恵の書1章6~7節)。ナザレのイエス様の図りがたい「贖罪の十字架」において初めて、神の神秘な「知恵」と人の冷徹な「理性」とが、まことの出逢いを成し遂げることになります(第一コリント1章18~25節)。これが新約聖書が言う「智恵」(ソフィア)です。

 「知恵」は、神の霊がもたらす、「永遠の命の光」です(知恵の書7章26節)。人の知性(ヌース)は、慈しみと慈愛に「照らされる」ことで初めて、「神の知恵」に与(あずか)ることができます。キリスト教では、人をまことの知恵に導くこの「慈しみ」を古代から「恩寵の光」(ラテン語で「ルーメン・グラーティアェ」"lumen gratiae")と呼んできました。これは、「光が恩寵を帯びる」と言う意味よりも、「恩寵それ自体が照らす」ことです。「恩寵の光」は、ヤハウェから発することで「人格性」を帯びます。オックスフォード大学の紋章に刻まれている「主は我が光り」"Dominus Illuminatio Mea"は、このような「人格的な」恩寵の光のことです。

 ■十字架のキリスト

 恩寵の光は、パウロによれば、「十字架されたキリスト」(クリストス・エスタルメーノス)を通じて人類に与えられます(第一コリント1章22~23節)。「十字架されたキリスト」は、「キリスト」が「十字架されている」のではなく、「十字架されている」のは、どう見ても、「ナザレのイエス」その人です。だから、パウロが言う「十字架のキリスト」(第一コリント1章23節)は、「十字架されたイエス」(イエスース・エスタルメーノス)こそが「キリスト」(救い主)であることを意味します。十字架のイエス様から発するのが「罪の赦しの愛光」です。だから、ルカ福音書は、イエス様が十字架上で唱えた「十字架七言」の最初の言葉を「父よ、彼らを赦し給え」(ルカ23章34節)という祈りで伝えています。イエス様は、ヤハウェの憐れみを感得して「悔い改める」罪人を「七度を七十倍するまで赦しなさい」(ルカ17章1~4節=マタイ18章21~35節)と教えました。これこそ、パウロの「十字架のキリスト」が啓示することです。

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