(1)大嘗祭のカミ
 昨日から今朝にかけて、令和天皇の大嘗祭が執り行なわれました。今朝の『朝日新聞』を見ると、大嘗祭は憲法の定める政教分離に抵触するかしないか? もっぱらこういう視野からこの祭儀を取り上げています。しかし、私は、そういう直近の視点ではなく、国家と宗教に関わる巨視的な視野において今回の祭儀を観ています。
  国学院大学名誉教授の岡田荘司氏によれば、古代日本では、農民が神に作物を捧げる収穫儀礼が行なわれていました。大嘗祭とは、天武天皇の時代に、それを国全体の儀式として整えたもので、天皇家のイ工の祭りと、国家的儀礼の両方の性格を併せ持つものです。毎年行なわれる新嘗(にいなめ)祭では、都近くの直営田で収穫された米が使われますが、大嘗(だいじょう)祭では、古代のしきたり通りの亀の甲羅の占いで、悠紀(ゆき)と主基(すき)という東西二つの「国」を畿内以外から選び、そこでとれた米を使います。大嘗祭では、天皇は、神々と共に五穀豊穣の象徴である穀物と御神酒(おみき)をいただきます。大嘗祭は、ほんらい冬至に行なわれ、甦りの春を待ち望む祭儀でした。
  民俗学者の折口信夫は、「大嘗祭の本義」(1930年)で、大嘗祭では、天皇が中央の神座にこもり、「天皇霊」を受けて「神になる」と説きました。これを「現人神」(あらひとがみ)と言います〔私市注*参照〕。しかし、文献をいくら調べても「天皇が神になる」という裏付けが出てきません。中央の神の御座は全く使われません。神に食事を供した後、天皇が食事をする際に、神に対して頭を下げ、「おお」と発声します。これは、下位者が上位者に行う所作(しょさ)です。神と天皇の間には明確に上下関係があり、天皇が神と一体化するということはないのです〔国学院大学名誉教授 岡田荘司『朝日新聞』(2019年11月13日号)〕。
 岡田氏による大嘗祭におけるカミと天皇とのこの関係は、とても重要なことを伝えています。6世紀後半に聖徳太子によって、隋から仏教を受け入れたときに、従来の伝統的なカミと仏(ほとけ)との関係が問題になりますが、天皇家は、護国仏教として、カミと仏を習合させました。京都の泉涌寺では、代々の天皇が大日如来を信奉することによって、如来が天皇に宿ると信じられてきました。このような神仏習合は、ほんらい天皇の信奉するカミが、アマテラスという太陽信仰に観るように、素朴な自然信仰に根ざすからです。五穀豊穣を願う自然信仰は、ギリシア神話のヴィーナスとアドーニスの神話にも、太母デメーテールと黄泉のカミであるハーデースとが、娘ペルセポネーをめぐって争った神話にも反映していますから、これは洋の東西を問わず、人類に普遍する自然宗教です。
 大嘗祭における冬至と春との対応関係は、キリスト教のクリスマスと復活節に対応しています。また、穀物と御神酒(おみき)は、そのまま、キリスト教の聖餐で用いるパンとぶどう酒に対応します。このように、キリスト教も、ほんらいは、自然宗教から生じたもので、これが啓示信仰によって、ナザレのイエスに唯一~が啓示されたという三位一体の~観へと発達しました。ナザレのイエス様の十字架と復活は、大自然全体に働く命の贖いと復活に深く関わるものです。だから「もし新しい創造が、この(大自然の)物質世界全体の変容であるならば、すべての被造物は神の命を分かち合うでしょう」〔山口希生(のりお)「使徒たちが宣べ伝えた復活の福音」『舟の右側』2022年4月号9頁〕。
*この問題については、聖書講話欄の「豊穣神話」をも参照してください。
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