(2)キリスト教からの神道批判
  先の世界大戦以後、皇室とその祭儀は、神道に属するものとして、キリスト教の側からも厳しく批判されてきました。それは次のような論法によく表われています。
 
  天皇を中心とした神の国と天孫降臨神話をはじめとする荒唐無稽な日本神話によって裏付けられた「国体」、それらによって成り立っている天皇制という構造に対して、私たちクリスチャン一人一人がとる態度と行動は、この国を変革する重要なカギとなる。その中心的な務め、それが「とりなし」です。 神の前に犯した「偶像礼拝」「霊媒」「悪霊礼拝」「占い」「姦淫」の罪のゆえにバビロン捕囚に陥ったイスラエルの民が、エルサレムに帰還し、回復していくプロセスは、「天皇制」に対して私たちが取るべき戦略である。ダニエルを始めとする人々は、捕囚に陥ってはじめてその偶像礼拝と霊媒、占いの罪から離れ、バビロンに蔓延し、その国を支配していた「現人神(あらひとがみ)礼拝」「呪術」「偶像礼拝」に対して命を懸けて戦いました。戦前の神格化された神聖天皇から戦後の象徴天皇へと、明確な悔い改めがなされないまま移行された。天皇の政治的活動は絶たれたが、宗教的祭司的役割は依然持続してきていることば否めない。皇室葬儀や大嘗祭と連結する神道儀式、天皇の護国神社参拝は、国の象徴の地位にありながら公式に神道と結び付いた行為であり、徹底的な悔い改めが求められる。天皇制が異教礼拝と結び付いて悪魔に用いられることは決してあってはならない。〔滝元望『リバイバル新聞』(2001年4月15日)〕
 
 しかし、こういう神道批判に対しては、同じキリスト教側から、次のような反論が提起されています。
 
  神道というのは、偶像があるわけではありません。東郷神社にしても東郷平八郎の像があるわけではない。東郷平八郎を記念して立てられた意味があり、神道というのは基本的に偶像礼拝をしないのです。また、祝詞(のりと)というのは神を呼び出す所作で、そこに神が居ないから呼ぶわけです。神道は、宗教ではなかった。神仏習合にしても、神道は日本の習俗のようなもので、仏教が宗教的側面を担っていたわけです。しかし明治維新以後、廃仏毀釈の法律ができて、神道を宗教にしてしまった。だから戦争中の国家神道は本来の姿ではありません。天照大神は天皇家の祖先神ではありますが、(キリスト教の)「ゴッド」という意味での神ではありません。正統的神道では天照大神を、礼拝の対象である本尊として祀ってはいません。
 私がおかしいと思うのは、クリスチャンが日本人とその国家元首に対して尊敬の態度を持っていないことです。クリスチャンが、日本人の前にへりくだるべきです。そういう気持ちがないですよね。日本のクリスチャンはいつの間にか西洋という衣を看て、俺たちはお前たちより偉いんだぞ、という気持ちを持っいるでしょう。日本の文化を馬鹿にしていますよね。こういう気持ちがある限り、日本のリバイバルは遠いと思います。〔『リバイバル新聞』(2001年1月14日号)笹井大庸(ひろやす)〕
 
 「同じクリスチャンでありながら、どうしてこんなにも意見が違うのか。とりわけ、瀧元望氏の「戦略レベルの霊的戦い」では、日本の文化にそれこそ戦争を仕掛けるようなものです。それは、彼が「戦略レベルの霊的戦い」の半面しか理解していないからです。もう一つの半面は、「贖いの賜物」の発見ということです。これなくしては霊的戦いも百害あって一利なしです。しかし、神道へのこのような<批判に向けた批判>に対しては、さらに次のような反論もあります。
 
 天皇制をキリスト教起源であるとすることは、聖書信仰を日本人の民族意識に接合しようという宣教的なものである。しかし、その真偽のほどが、今の時点で決して明らかにされているとは言えない。神道をはじめ、そのほとんどがアニミズム、シヤーマニズムの深い霊的影響下にある偶像礼拝そのものであり、その由来がどうであったかということによって、偶像礼拝を「現在」行なっているということを取り繕うことはできない。記紀神話上の神々が、実はイスラエルの神や天使をあらわしているのだということをもって、その偶像礼拝たることを否定しようとする見解もあるが、自然啓示と、聖書に啓示された特別の救済啓示とを不用意に同一視するものであり、霊的混交主義以外の何者でもない。〔行澤一人「今、天皇と日本を考える」『リバイバル新聞』(2001年2月25日)〕
 
 
 天皇陛下が真に日本という土台に接木されたキリスト教信仰の中で主イエスにある救いを体験され、真の神と結び合わされたときに初めて、真の意味において、この国のための「祭司」として尊いお働きをされるようになるというのが、この反論の主旨です。これだと、日本のキリスト教徒は、今の天皇が、「悔い改めてキリスト教徒になる」ことだけを祈らなければならなくなります。いったい、現在の日本のキリスト教徒は、皇室の祭儀を悪霊的な偶像礼拝として弾劾するか、せいぜいのところ、天皇がキリスト教徒に改宗することを祈り求めるか、それくらいのことしかできないのでしょうか? 現在のあるがままの皇室とその祭儀そのものをイエス様が護り導いてくださるように祈ることができないのでしょうか? わたしたちは、こういう問題に突き当たるのです。
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