(3)宗教的伝統文化と真理への信仰
  昭和初期から昭和20年にいたる日本の天皇制軍国主義が、時を同じくするヒットラー政権下のナチスのキリスト教と同じに、「悪霊的」であったというのは、そのとおりです。しかし、それなら、それ以後の、アルゼンチンのピノチェト政権下のカトリック・キリスト教も、2019年現在、いっそう力を強めていると聞く、アメリカの白人至上主義者たちのプロテスタント・キリスト教も、昨年ニュージーランドで、イスラム教のモスクを襲って多数のイスラム教徒を射殺したオーストラリアの白人至上主義のプロテスタント・キリスト教も、戦中のナチス・キリスト教や日本の軍国的神道とどこが違うのでしょうか? 
 かつてソ連との冷戦下のアメリカで、アメリカの原爆実験は神の御心にかなう正義の実験であり、ソ連の原爆実験は神の御心に背くから不正な実験であるという驚くべき自己欺瞞が語られた時期がありました。21世紀の現在、かつての戦勝国を誇るアメリカやフランスやロシアは、自分たちのキリスト教こそ正義であり、ドイツや日本の宗教は悪霊的だと信じる驚くべき欺瞞と妄想に取り憑かれているのではないでょうか。
 ところが、2019年の現在、世界のリーダーたちの中で、真面目に「世界の平和」と武力や権力による支配を批判しているのは、ドイツのメルケル首相と日本の皇室とカトリックの教皇だけです。世界中から厳しい批判に曝されたかつての敗戦国ドイツと日本の最高位の指導者だけが、皮肉にも、現在、最も誠実に平和を希求しているのはなぜでしょうか? それは、彼らこそ、「悪霊的な」宗教的信念に発する人間が引き起こす恐ろしく悲惨な犠牲者の叫びに動かされているからです。「犠牲」こそ、人類に、平和を求めるまことの宗教を生みだしてきた母体だからです。何百万年にわたり人類が繰り返してきたこと、人間を容赦なく「犠牲にする」行為こそ、真の宗教心を育てる血の贖いとして、「十字架のナザレのイエス様の神」へ到達させた人類の宗教性にほかなりません。
 わたしたちは、「宗教」(religion)が、人間の営みとしての「伝統文化」(culture)と、科学的、倫理的、宗教的な意味の「真理」を信じる「信仰」(faith)と、この二つで構成されていることにを悟る必要があります。人間は、「宗教する人」として、伝統的な宗教文化を営みますが、言うまでもなく、歴史の中で構成されてきた文化は、それがどこの文化であれ、それ自体を「絶対の真理」と見なすことはできません。キリスト教的な文化あり、イスラム的な文化あり、仏教的な文化あり、儒教的な文化あり、それらの混淆した形態のものなど、様々な「宗教的な伝統文化」があります。しかもそれらは、現在共存し相互に作用し合いながら変化しています。
 宇宙規模で物事を成り立たせる「根本原理」だけでなく、わたしたち人類の生存を導く科学的・倫理的・宗教的な真理もまた、未だ十全に解明されていません。にもかかわらず、人類は、そのような「真理」を「信じ求め」ざるをえないのです。「宗教的な営み」には、このように、人間が作り出す「文化」と、人が信じ求める真理への「信仰」との両方が含まれているのです。世界の平和と国の安寧を願って大嘗祭に臨む天皇の営みは、「目に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠(まこと)なりけれ」(明治天皇の昭憲皇太后)とあるように、「目に見えぬ」真理を願い求める文化的な営みなのです。 の
  だから、素朴なアニミズムに発する自然宗教に基づく祭儀によって立てられる天皇も、キリスト教国の主教によって立てられる国王(女王)も、聖書に誓うことで立てられる大統領も、仏教の祭儀によって立てられる国王も、その民、その国の多大の犠牲者に支えられている平和志向と民の生存と繁栄を願う想いに変わりありません。こういう民の犠牲の力こそ、その国の平和志向を支える力だからです。この意味で言えば、ナザレのイエス様の十字架は、人を犠牲にする代わりに己を犠牲にすることで人々を救う驚くべき「贖いと赦し」の神を啓示するものです。これこそ、人類のあらゆる宗教的な祭儀を支え導く根源の力だと言えます。だから、日本の皇室が、わざわざ、どこぞのキリスト教国の王や大統領の真似をして「改宗する」必要などありません。王室、皇室のまことの平和志向と人類の生存を願う気持ちは、あるがままそのままで、イエス様の父なる神の贖いの赦しに与るのに値するからです。現在の日本の皇室は、ローマ教皇と並ぶほど真摯に、民への平和と人類の生存を願い求めています。だから、日本のキリスト教徒は、意を安んじて日本の皇室のために祈ることができます。
 2019年11月24日(日曜)の午前10時から10時半の現在、長崎の被爆の中心地を訪れたフランシスコ教皇は、雨の中で、集まった信者たちの前で、今メッセージを語り終えました。長崎の原爆は、キリスト教国が落としたもので、これが、図(はか)らずもキリスト教の聖堂の上に落とされました。しかもそこは、教皇も所属するイエズス会のフランシスコ・ザビエルが伝えた教えを信じるキリシタンの末裔たちが多く住んでいた場所です。フランシスコ教皇は、目を潤ませるようにして、じっとその場に立ち尽くして、祈りを捧げていました。その後で、教皇は、被爆した十字架と聖母像について触れ、強く核兵器の廃絶を訴え、教皇は「命を大切にする文化を守るように」と述べました。キリスト教を始め、「命を大切にする」あらゆる宗教文化のことが教皇の念頭にあることは明かです。その後、広島を訪れてから、教皇は令和天皇とお会いになりました。会談が終わると、天皇は教皇を車まで見送られ、教皇の車が見えなくなるまで、じっと立って見送っておられたと報道は伝えています。
 イエス様の十字架の神は、赦す神、恩寵の神です。「ゆるすということは、とても難しいことです。でも感情ではゆるせないけれども、復讐をしない、相手の不幸や失敗を望まないということは、できるはずです。重要なのは、復讐(ふくしゅう)をしないこと。その人が、自分の知らないどこか遠くで幸せになればいいと祈ること。負の連鎖を、自分で断ち切らなくてはなりません・・・・・キリストの声とは、結局のところ、心の声、良心の声です。日本では宗教というよりも、良心の声を育てることが大切だと私は思います。・・・・・人間の心には、『浅い』ところと『深い』ところがあると、私は思います。浅いところの自分というのは、エゴイズムと傲慢に汚れている。例えば誰かとけんかした時に、いかに相手が悪いか、自分が正しいかを考えます。深いところの自分こそが、本当の自分。人を愛したいと思う自分です。」〔『朝日新聞』(2019年11月20日号)ローマ教皇の来日を控えて神父ハビエル・ガラルダさん語る〕
 一人の人ナザレのイエス様を通じて啓示された神とは、「犠牲」を重く観る神です。このために、父なる神は、「人」となられた独りの御子を十字架において犠牲として捧げられました。あらゆる時代のあらゆる宗教を営むすべての人を赦すためです。キリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラム教、その他の民族の宗教的文化の違いなどにかかわりなくです。人間はすべて罪を犯す存在であり、その点で、ローマ教皇も英国のカンタベリー主教もイギリスの国王もアメリカの大統領も日本の天皇も全く変わりありません。人類の平和と安寧のために、犠牲を重んじることによって、これらの指導者を支え赦し護ってくださるのが、イエス様を通じて啓示された「目に見えぬ神」の働きです。
 現在の日本の皇室は、「世界の平和と国民の安全」を心から祈り求める宗教によって祭儀を執り行なっています。だから、わたしたちは、意を安んじて、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、今の皇室の祭儀とこれを執り行なう天皇のために祈ることができます。イエス・キリストは、こういう皇室を守り支えてくださるからです。日本のキリスト教徒はこのことを悟る必要があります。わたしたちは、皇室を間に挟んで、左か右かを争うのは止めるべきです。それどころか、今の日本のキリスト教徒は、韓国のキリスト教徒と中国のキリスト教徒に向かっても、日本の皇室の有り様を伝え、この皇室のためにも祈るよう求めるべきです。どういうわけか、日本のマスメディアは、韓国や中国に向かって、日本の皇室のことを正しく報じていません。人間のもろもろの宗教は、文化的な所産です。ナザレのイエス様を通じて啓示された神の御霊の出来事は、宗教や文化の違いを超えて人が人を愛する霊愛の出来事です。このような「まことの愛」の出来事は、人間に起こることですが、過去の過酷な体験から生じた人類の奥深い罪性を宿す人間には難しいことです。神の御子であり人間であるナザレのイエス様の十字架と復活の出来事を通じて降る聖霊のお働きによらなければ、一朝一夕(いっちょういっせき)にできることではありません。かつて、美智子上皇は、フランスのカトリックの哲学者をお招きになって、「自然の神」と「超越の神」との関わり合いについておたずねになりました。今の令和天皇と皇后の両陛下にも、このような「まことの神」についてご進講申し上げる方がいればいいのにと心から願わずにおれません。
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